小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

NHKの超大河ドラマ『坂の上の雲』への期待と不安

2009-11-14 08:54:37 | Weblog
 久しぶりに歴史認識の方法論について書く。
 NHKが11月29日から3年間にわたる超大型ドラマ『坂の上の雲』を放映する。NHKは11日午後10時から『歴史的秘話ヒストリア坂本龍馬と海援隊』と題する歴史検証番組を放送した。この番組の中で、おそらく歴史家や歴史小説家が意図的(?)に隠してきた亀山社中(のち海援隊と改称)の社是(手段を選ばず利益を求めよ)を明らかにした。
 私はもともと、もし坂本龍馬が暗殺を免れ、明治維新を迎えることができていたら、おそらく彼は岩崎弥太郎をはるかに凌駕する大政商になっていただろうと推測していた。私は亀山社中の社是を知っていたわけではないが、彼が幕臣の勝海舟と親交を結び、薩摩藩の援助を受け、さらに手練手管を使って薩長間の商取引を画策しながら、薩長連合軍が討幕を目指した時は反対派に転向(?)したという事実から、龍馬が薩長間の商取引を画策したのは討幕を目的にしたのではなく、イギリスの近代軍事技術や近代兵器を持っていながら飢饉で食糧難に悩んでいた薩摩藩と、関ヶ原での敗戦以降徳川幕府に対する怨念を遺伝子的に受け継ぎ、桜田門外の変以来燎原之火のごとく燃え上がった攘夷運動を絶好の機会ととらえ朝廷を取り込んで討幕運動を始めた長州藩が、豊作でコメはあまっていたのに火縄銃などの旧兵器しか持っていなかった弱みに付け込み、薩摩藩と長州藩の間にビジネス関係を作り、大儲けしようとしたのが薩長を近づけようと画策した龍馬の真の狙いであった。
 なぜ歴史家や歴史小説家が明治維新についての歴史認識を誤ったのかというと、明治維新を実現した運動エネルギーを「尊王攘夷」という4字熟語でくくってしまい、そのことへの疑問をだれも持たなかったことによる。なぜ専門家たちがそうした素朴な疑問を持てなかったのかは、明治維新が実現し、政権が徳川幕府から天皇家に移った途端、巨大な討幕エネルギーの原動力になった「攘夷」が煙の如く消えてしまったことへの疑問を持たなかったからである。実は「攘夷」と「尊王」はまったく別の運動エネルギーだった。そのことをできるだけ簡単に立証しておく。
 明治維新が実現したのは1868年だった。この時代背景を簡単に述べておくと1840年にはイギリスと清国の間でアヘン戦争が勃発し、2年後には清が敗れて香港をイギリスに割譲している。近代軍事力を擁したヨーロッパ列強がアジアの分割支配を始めたのはそれからである。日本にとって僥倖だったのは、日本がアジアの東端に位置し四方を海に囲まれていたという地理的条件が西欧列強の日本攻撃を困難にしたためだった。さらに西欧だけでなくアメリカも日本を標的にし、いわば列強が横一線に並び抜け駆けができにくい状況が生じたことも日本が独立を維持できた大きな要因だった。
 そうした状況の中でアジアの分割支配競争に参加できなかったアメリカにとって、日本への権益を最初に獲得することは国威をかけた課題だった。
すでに43年12月にはオランダが開国を勧告する書簡を幕府に送り、44年3月にはフランス船が琉球に来航して通商を要求していた。アメリカ船がようやく日本に来航したのは45年3月である。アメリカが一気に攻勢を強めたのは翌46年5月で、海軍司令官ビッドルが浦賀に来航し通商を要求したが、徳川幕府は拒絶している。その後列強各国が頻繁に日本に来航して日本に通商を要求するが、幕府はことごとく拒否してきた。
このかたくなな幕府の鎖国政策を打ち破ったのが53年のアメリカ使節ペリーだった。ます4月には琉球に来航し、5月には小笠原に来航、6月には大艦隊を率いて浦賀に入港、狼狽した幕府は海岸に釣鐘を逆さにして並べ砲台に見せかけるという子供じみた対応をした。すでに日本の統治能力を失いつつあった幕府は翌7月諸大名にアメリカの国書を示し意見を求めている。
54年3月3日、幕府はアメリカの圧力に屈し、ペリーとの間に日米和親条約を結び、1633年2月に3代将軍家光が鎖国令を制定して以来221年間続けてきた鎖国体制が崩壊した。いったんアメリカと通商条約を結んだ以上、アメリカ以外とは通商関係を結ばないなどということが国際法上許されるわけがない。幕府は次々と列強と和親条約を結ばされることになった。そういう状況下で欧米列強との間で結んできた和親条約が日本にとって平等でありうるわけがなかったのは当然である。
のちに桂小五郎や高杉晋作など討幕派の若手の長州藩士を育てるべく吉田松陰が松下村塾を開いたのは56年11月である。松陰はその2年前の54年7月下田に入港していたペリーの軍艦でアメリカへの密航を願い出るが拒絶され、捕縛されている。この事実からも松陰が攘夷主義者ではなかったことは明らかである。ただ松陰が釈放されてから開いた松下村塾で「天下は一人の天下」と主張し(一人の天下の一人とは天皇を意味し、天皇の支配のもとで万民は平等であるとの意味)、討幕論の理論的支柱を確立したことが、長州藩を討幕派が主導する結果を生むことになった。
ただこの時代、まだ「攘夷運動」も「尊王(討幕)運動」も兆しすら芽生えていない。徳川幕府の「弱腰外交」に対する批判は多少あったようだが、それが大きな「攘夷運動」エネルギーの原動力になったという証拠もないし、まして「倒幕運動」の原動力になどまったくなっていなかった。それが証拠に、吉田松陰が58年に幕府の「弱腰外交」に対し、当時の老中首座の重責にあった間部詮勝の暗殺を計画し、松下村塾の弟子たちの協力を要請したが、桂小五郎や高杉晋作の反対によって計画を断念した事実も明らかになっている。
58年4月、井伊直弼が大老職に就く。そして翌5月、井伊大老は53年3月に締結した日米和親条約を破棄し、朝廷の認可を得ず日米修好通商条約に調印した。もちろん日米和親条約の不平等性を改善した条約ではなく、さらに不平等性を拡大した条約だった。この時期、長州藩はまだ「尊王(討幕)」を藩の基本方針にしていなかったが、朝廷に急接近していた京都の藩邸が朝廷に働きかけ、朝廷は井伊大老が結んだ条約調印を非難する勅諚を14藩に下した。その中に朱子学を重んじ「勤王」を藩是としていた水戸藩が含まれていた。ここで確認しておくが、同藩は徳川御三家であり、水戸光圀以来「勤王」を藩是としてきたが、「尊王(討幕)」までは踏み切っていなかったという事実である。だから明治維新の先駆けとなった「攘夷運動」を真っ先に始めながら明治政府の要職に水戸藩士がつけなかったのである。この事実が意味することを日本近代史の専門家たちはだれも疑問に思わなかったことが、その後の日本の近代史について大きな歴史認識の誤りを犯してきた要因の一つである。
とりあえずそのことは不問に付したうえで、さらに歴史家や歴史小説家がとんでもない近代史観を論文にしたり小説にしてきたことを、これ以上フェアでかつ論理的整合性を満たした歴史認識は不可能と自負する私論を述べていく。
井伊大老は朝廷の意向を無視して日米修好通商条約を結んだことに真っ先に反応したのは水戸浪士(彼らは水戸藩に類が及ぶことを避けるため脱藩した)だった。井伊大老は攘夷派の活動を防ぐため、攘夷思想をもっていると勝手に決め付けた思想家を一斉に逮捕し、処刑した。その中に吉田松陰も含まれていた。これがいわゆる「安政の大獄」である。
これも大事な事実だが、松陰の弟子たち(桂小五郎や高杉晋作)はこの「安政の大獄」に対してなんらの行動も起こしていない。猛烈な反発をしたのが水戸浪士だった。60年3月3日、水戸浪士は桜田門外で井伊直弼を襲撃し暗殺した。その仲間の一人に薩摩藩士がいたが、彼は薩摩藩の藩是を受けて暗殺団に加わったわけではない。薩摩藩は当時もその後においても攘夷派ではなかった。
水戸浪士の攘夷運動はさらに激化していく。第1次東禅寺事件、坂下門外の変などを起こし、反幕(討幕ではない)のテロ活動を続けている。吉田松陰の教えを受けた長州藩の若手藩士がようやく攘夷活動を始めたのは62年12月、品川御殿山のイギリス公使館を襲撃したのが初めてである。この襲撃事件には高杉晋作、伊藤俊輔(のちの博文)、井上門多(のちの馨)、久坂玄瑞らが参加している。彼らは吉田松陰の教えを受けてきた門下生だった。松陰はすでに述べたようにアメリカへの密航を企てたほどで、攘夷思想はかけらも持っていなかった。が、討幕理論の支柱を構築した松陰の教えを受けてきた高杉らがイギリス公使館を襲撃したのは、水戸藩士が始めた攘夷運動が燎原之火のごとく広まりだした(薩摩藩の大久保一蔵(のちの利通)らの「誠忠組」も桜田門外の変に加わろうとしたが、藩主の島津茂久の説得で断念している。坂本龍馬が脱藩した土佐藩でも桜田門外の変以降攘夷派が台頭し藩是を二分するほどの勢力を持つようになっていた)。高杉らはこの巨大化しつつあった攘夷運動のエネルギーを「尊王(討幕)運動」に転換させることを目的にしてイギリス公使館を襲撃して攘夷派を装ったと思われる。実際高杉らが実権を握った長州藩は朝廷に働きかけて幕府に攘夷の実行を迫り、63年5月10日には下関を通過したアメリカ船などに砲撃を加え、一気に攘夷運動の主導権を水戸浪士から奪っている。
一方この時期薩摩藩の実権を握った島津久光が攘夷思想をもっていた大久保ら「誠忠組」の活動を抑え込み、幕府に働きかけて「公武合体」を迫っていた。この時期長州藩でも薩摩藩でも政変が繰り返され、一貫した藩論はなかった。長州藩でも藩論の主導権を握っていた高杉ら討幕派が左遷され、「公武合体論」が藩是になった時期もある。つまり「勤王(政権交代を目的にしない)攘夷派」(水戸藩など)、攘夷運動を利用して「尊王(政権交代を目的にした)運動」への転換を図ろうとした長州藩、「公武合体」によって政治的混乱を収めようとした薩摩藩など、様々な活動が交錯していて、しかも長州藩や薩摩藩では藩内で藩論が二分三分するといった状況にあり、さらに徳川幕府内でも「公武合体」論が台頭するなど、日本の政情は混乱を極めていた。
そうした状況の中で生じたのが「寺田屋事件」であり「生麦事件」であった。この二つの事件は、ともに薩摩藩が起こした事件であり、明治維新につながる大きな事件であった。
「寺田屋事件」は島津久光が62年春、幕府に「公武合体」を迫ることを目的に兵を率いて上京したとき、幕府に「攘夷」を迫るために上京すると勝手に思い込んだ攘夷派の藩士たちが京都伏見にある薩摩藩士の定宿・寺田屋に集結し、京都所司代の坂井忠義を襲撃する計画を練っていたことを知った久光が激怒して寺田屋に集結した攘夷派藩士を上意討ちにした事件である。寺田屋事件は幕府側(とくに新撰組)が起こしたと思い込んでいる人が多いようだが、それはもう一つの「寺田屋事件」と混同しているからと思われる。もう一つの「寺田屋事件」とは66年3月2日、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を捕縛すべく伏見奉行の配下が襲った事件で、龍馬はのちに妻にしたお龍の機転で難を逃れているが、歴史的事件としては大した事件ではなく、山川出版社の『日本史小年表』にも記載されていない。ただ司馬遼太郎が、龍馬が襲われた「寺田屋事件」を面白おかしく書いたため、そのほうが多くの人たちの歴史認識に大きな影響を与えてしまったのであろう。
ではもう一つの「生麦事件」は多くの方がご存じだと思うが、薩摩藩の藩論が大きく転換するきっかけになった事件なので説明しておく。この事件は幕府に「公武合体」を説得して帰路に着いた8月21日、横浜の生麦付近で馬に乗って行列を横切ったイギリス人3人を薩摩藩士が殺傷した事件である。この薩摩藩士の行為に怒ったイギリスが翌63年7月2日軍艦7隻を派遣して薩摩藩の城下町・鹿児島を砲撃した。薩摩藩も対戦したが、圧倒的な軍事力の差はいかんともしがたく降伏し、イギリスとの友好関係を結びたいと申し出て、イギリスもそれを受け入れた。薩摩藩は以降藩士をイギリスに派遣してイギリスから近代軍事技術を学ばせると同時に近代兵器も輸入して強力な軍事力を持つに至る。
この間朝廷も1枚岩ではなかった。いったん長州藩の働きかけで「尊王+攘夷」派の公家が実権を握ったが「公武合体」派の台頭で、63年8月18日「尊王+攘夷」派の公家7人が失脚し朝廷を追われた。この政変で長州藩など「尊王」派や「攘夷」派の武士は京都での足場を失い、勢力を回復するための密議を行うため池田屋に終結したのを新撰組が察知して襲撃し、7人が惨殺され23人が捕縛された(64年6月5日)。この「池田屋事件」をきっかけに歴史は大きな転換期に入っていく。
「池田屋事件」で長州藩は一気に硬化し、討幕派が完全に実権を握り8月20日、大軍を率いて京都に攻めのぼる。これを迎え撃ったのが会津藩と薩摩藩だった。すでにイギリスとの友好関係を結び、近代軍事技術と近代兵器で武装していた薩摩藩に、旧態依然とした火縄銃しか持っていなかった長州藩が勝てるわけがなかった(禁門の変。蛤御門の変とも言う)。
散々な敗北を喫し逃げ帰った長州藩に幕府は追い打ちをかける(第一次長州征伐)。さらに幕府は外交関係を結んだ英・仏・米・蘭の4国に長州攻撃を依頼し、連合艦隊が下関を砲撃した。11月に入り、長州藩の強硬派は失脚し、長州藩は幕府に謝罪して許された。もはや幕府は長州藩を取り潰せる権力を失っていたことが日本中に認知されてしまった。そのことで長州藩の強硬派は勢いづき12月、高杉晋作らが下関で挙兵、再び長州藩の実権を取り戻した。
この状況を冷静に見ていた坂本龍馬は薩摩藩と長州藩の関係を改善すべく奔走する。すでに述べたように龍馬の最大の目的は、両藩の間にビジネス関係を構築し、海援隊(元亀山社中)が両藩のビジネス(薩摩藩はイギリスから入手した近代軍事技術と近代兵器を長州藩に売り、長州藩はコメを食糧難に困っていた薩摩藩に売る)を仲介して両藩から手数料を取ることだった。それが証拠に龍馬は薩摩藩の西郷隆盛を説得して薩摩藩を討幕派に転換させようとはしていない。この交渉は、長州藩の桂小五郎が難色を示し(禁門の変で薩摩藩が幕府側について長州藩を攻撃したことへの反発から)、なかなかウンと言わなかったが、「薩摩から近代兵器を買わないと幕府軍に勝てないよ」という長州藩の泣き所を突いた龍馬の説得で桂もようやく薩摩との取引に応じた。司馬史観を信じている人は、これで薩長連合ができたとお思いだろうが事実は違う。おそらく桂は「今度長州藩が幕府軍と戦火を交えるときは、絶対幕府軍に加わらないでくれ」と要求し、西郷もその要求をのんだ、というのがこの時点での薩長関係だったと思う。
再び強硬派が実権を握った長州藩は、薩摩藩から近代軍事技術と近代兵器を手に入れ、翌65年2月、ふたたび幕府に反旗を翻した。4月幕府は第2次長州征伐を行うべく諸藩に征伐軍への参加を命じた。この時薩摩藩はどちら側にもつかず、第3者として傍観することにした。この第2次長州征伐軍は、近代兵器で武装した長州軍の敵ではなかった。散々に打ち破られ逃げ帰っている。
この長州藩の大勝利で薩摩の藩論は「公武合体」から「討幕」に一変する。その結果翌66年1月21日「薩長連合」が成立したが、これには坂本龍馬は一切関与していない。薩摩の藩論を「公武合体」から「討幕」に変えたのも龍馬ではない。むしろ薩長連合が成立したため、徳川幕府の政権担当能力は失われたと判断した15代将軍の徳川慶喜は67年10月14日、朝廷に大政奉還を申し出たが、これは徳川家の権益を守るための策略だと主張した薩長の意見を取り入れた朝廷は同日、薩長2藩に討幕の密勅を下した。これに対し坂本龍馬は「討幕軍による徳川征伐」に反対し、大政奉還を認めるべきだと主張している。その約2ヶ月後の12月10日に龍馬は中岡慎太郎とともに京都河原町の近江屋で暗殺された。
その後の経緯はこのブログ記事にとってあまり関係がないので省略する。ただ一つだけ書いておきたいことは官軍の江戸城総攻撃の前夜、勝海舟が西郷隆盛を指名して「無血開城」の交渉をした件である。勝は「官軍が江戸城総攻撃を行うと江戸城に立てこもった幕臣も死にもの狂いになって抵抗する。そうなれば佐幕派の藩も一斉に蜂起して日本を2分する大内乱になる。そのような事態になれば、欧米列強が絶好のチャンスとばかりに日本を侵略し分割支配しようとするに違いない。そのような事態だけは避けたい。ただ江戸城に立てこもった幕臣に無血開城を納得させるには徳川家の存続と一定の権益を保証していただきたい」と西郷に申し入れたのではないかと思う。勝は坂本龍馬との交流が深く、西郷の人間性や日本を憂うる気持ちを聞いていたと思う。だから西郷ならこの申し入れを呑んでくれるだろうと確信したのではないだろうか。
一方西郷のほうは、勝と共鳴する危機感を持っていた。ただ「徳川憎し」の感情を関ヶ原の戦い以来遺伝子的に受け継いできた長州藩を説得することの困難さも分かっていた。そして西郷が独断で勝の提案を受け入れ江戸城総攻撃を中止したら、おそらく過激な長州藩士から命を狙われることも覚悟しなければならないとも思っただろう。が、のちに分かることだが「命もいらぬ。金もいらぬ。名誉もいらぬ」という生きざまを最後まで貫いた西郷は「わかった」と、勝の申し入れを独断で飲んだのだろう。こうした状況下で日本は近代国家建設への道を歩むことになったということを理解しておかないと、明治維新以降の近代国家建設の国策の意味が理解できない。
明治政府が最重要視したのは、徳川幕府が欧米列強の強大な軍事力に屈して結ばされた不平等条約の解消であった。それを実現するためには日本の軍事力と産業力を欧米列強と肩を並べられる水準に高めることだった。こうして「富国強兵・殖産興業」が国策として確立されたのである。
まず「富国強兵」を実現するには武士階級だけに日本の軍事力の強化を任せることは不可能と判断し、徴兵制度を設けて、すべての国民を兵力にすることだった。そのうえで陸軍はフランスを模範として(のちにドイツを模範とする)、海軍はイギリスを模範として軍事力の近代化を進めて行った。
一方「殖産興業」政策を実現するため明治政府は官庁を設け、その指導のもとに政府が資金を投入して近代産業の育成を図っていった。この時点で「政官財癒着のトライアングル」が形成されていく。
ちょっと話が飛ぶが、日本があの戦争に敗れアメリカに占領された時、日本の民主化を強行したGHQは、財閥解体や軍事産業の壊滅を行ったが、明治維新以来の国策であった殖産興業政策が政官財癒着のトライアングルを強固なものにし産業の近代化が実現されてきたことには気づかなかった。そのためこのトライアングルを破壊する政策を取らず、今日までこのトライアングルが維持されてきたのである。つまり140年にわたって構築され強化されてきた政官財癒着のトライアングルを完全に破壊するためには気の遠くなるほどの歳月と強力な政府による公務員制度改革が必要になる。今民主党政権は官民癒着の無駄な公共事業に大きなメスを入れようとしており、それは官僚の抵抗をあくまではねつけ実現してほしいが、公共事業の予算を大幅にカットすればその公共事業を担当してきた公務員は必要がなくなる。連合を最大の支持母体としている民主党が、無駄な公共事業の廃止によって存在の必要性がなくなった公務員の首を切って、官公庁のスリム化を実現できるか、どうしても疑問が残る。
ただしこのことも明らかにしておかないと私の主張の論理的整合性とフェアな主張をしていると自信を持って言えない事実があるので書いておく。それは戦後の日本が世界の奇跡と言われるほどのスピードで経済復興を成し遂げることができたのは、GHQが政官財癒着のトライアングルを破壊しなかったためと言っても過言ではない事実があるからである。
その事実とは1946年12月27日に第1次吉田茂内閣によって決定され実行に移された「傾斜生産方式」である。具体的には限られた資源と資金を当時の2大産業だった石炭産業と鉄鋼産業に重点的に配分し、この2大産業の回復を図ったことである。この2大産業の国際競争力が回復したため、1950年6月から53年7月まで3年以上にわたって行われた朝鮮戦争の特需にありつけたという紛れもない事実があったのである。もしGHQが政官財癒着のトライアングルを破壊していたら、吉田内閣は「傾斜生産方式」を実現できなかった。当然日本は朝鮮戦争特需にありつけず、日本の経済復興はかなり遅れただろうことは確実である。そのことを思考回路の中に刻み込んでおかないと、これからどのようにして政官財癒着のトライアングルを破壊していくのかの筋道が立てられない。
話を「富国強兵」に戻す。日本が陸軍はフランス(のちにドイツ)を模範にし、海軍はイギリスを模範にして近代軍事技術を導入し近代兵器を装備しても、それだけで欧米列強が日本との関係を平等なものにしてくれるわけではない。日本が軍事力においても産業力においても欧米列強に肩を並べる力量を持ったことを実証しなければ不平等条約を改めてくれはしない。日本が軍国主義の国になったのは、あの戦争を始めた時ではない。
日本がようやく軍事力に自信を持ち、欧米列強と肩を並べるべく朝鮮を支配下に収めるために事実上朝鮮を属国としていた清国を相手に戦争を始めたのが伊藤博文内閣の1894年8月であった。日本が朝鮮を支配下に置きたかったのはロシアの南下政策の防衛線として朝鮮を位置付けるためだった。翌年4月日本は日清戦争に勝利し、朝鮮を支配下に収めることに成功した。
その結果、日本は欧米列強と肩を並べることができ、1902年1月には対等の条件でイギリスとの同盟関係を結ぶことができた。これが日露戦争での勝利に大きな影響を与える。
日本は朝鮮を支配下に収めることができたが、満州を支配下に収め、さらに南下政策を進めようとしていたロシアは、日本にとって依然として脅威だった。大国ロシアを相手に戦争をして勝てるほど軍事力が強化されているとは考えていなかった桂太郎内閣は、なんとか戦争をせずにロシアの脅威を避けるべく、「日本が大韓帝国に持っている権益をロシアは認め、ロシアが満洲に持っている権益は日本が認め、互いに犯さない」という条約を結ぼうと提案したが、ロシア(皇帝ニコライ2世)が拒絶、逆に韓国の北半分の中立化を要求したため日本はロシアの準備が整わないうちに宣戦布告した。
日露戦争の経緯は司馬遼太郎の『坂の上の雲』をベースにNHKが超大河ドラマを11月29日から放映するので、NHKが司馬史観にどの程度汚染されているか、まだ検証できる段階ではない。ただ司馬遼太郎は日露戦争までは日本がしてきた戦争は間違いではなかったが、あの戦争は間違いだったという支離滅裂した歴史観を持った歴史小説家である。坂本龍馬を英雄視するために、薩摩藩と長州藩が通商関係を結んだ時期と長州藩が第2次長州征伐の幕軍と戦い大勝利を収めた結果、この戦争を傍観していた薩摩藩の藩論が一気に「公武合体」論から「討幕」論に転換し、薩長連合が成立した経緯を無視し、龍馬を英雄化するため歴史的事実まで歪曲してきた歴史小説家であることをNHKの『坂の上の雲』制作グループは肝に刻んで日露戦争の検証をドラマ化していただきたい。とくに日本が軍国主義を国是にするに至った経緯はこのブログ記事で明らかにしたので、その歴史認識をベースに日露戦争を新しい視点から描いてほしい。すでにgooのブログ投稿の制限(1万字以内)に近づきつつあるので、この辺で今回のブログ記事はやめるが、日本の近代史観の再構築が必要なことは、読者にはご理解いただけたと思う。1万字近い私のブログ記事を最後まで読んでいただいた方に感謝を申し上げて記事を終える。

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