小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

閣議決定――安倍総理の説明はでたらめだ。もっとひどいのは読売の捏造記事。小保方もそこまではやらない。

2014-07-02 08:20:01 | Weblog
 昨日、集団的自衛権行使容認のための憲法解釈の変更を行う閣議決定が行われた。午後、6時から行われた安倍総理の記者会見で、安倍総理はこう閣議決定の「意義」を説明した。しらじらしい、としか言いようがない。
「例えば海外で突然紛争が発生し、逃げようとする日本人をアメリカが救助・輸送しているとき日本近海で攻撃を受けるかもしれない。わが国自身への攻撃ではないが、日本人の命を守るために自衛隊がアメリカの船を守る。それをできるようにするのが今回の閣議決定だ」「(集団的自衛権の行使は)ほかに手段がないときに限られ、かつ必要最小限度でなければならず、現行の憲法解釈の基本的考え方は今回の閣議決定においても何ら変わることはない。自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」「外国を守るために日本が戦争に巻き込まれるという誤解があるが、そのようなこともありえない。むしろ万全の備えをすること自体が日本に戦争を仕掛けようとするたくらみをくじく、大きな力をもっている。これが抑止力だ。今回の閣議決定によって、戦争に巻き込まれるおそれは一層なくなっていく」
 そうかよ。確かに自衛隊が湾岸戦争やイラク戦争に参加して米軍と共同の軍事行動に出ることは安倍総理も(当面は)考えていないだろう。が、海洋進出を強める中国が南シナ海の油田開発でベトナムやフィリピンと一触即発の状況にあることはメディアでもしばしば報道されている。同盟関係にないベトナムに対してアメリカが一方的にベトナムを支援するための軍事行動に出ることは考えにくいが、フィリピンはこの地域におけるアメリカにとって重要な同盟国であり、実際フィリピン政府の要請に応じて同国の米軍基地を復活した。
 この地域で紛争が起きたとき、当然韓国は真っ先に米軍と行動を共にするが、アメリカが日本に軍事協力を求めてきたら、日本はどうする。安倍総理は、現実的にありえないケースを想定して「日本がアメリカの戦争に参加はしない」としたが、あえて日本の目と鼻の先できな臭い状況になっている事態について、アメリカから軍事協力の要請を受けたときに日本がどうするかについては何も言わなかった。また記者会見に出席した記者たちは、国会での質疑応答と同じくあらかじめ総理に質問状を渡していたようで、質問もペーパーを見ながらの棒読みなら、総理の答えも「待ってました」と言わんばかりのよどみないものだった。はっきり言えばメディアとの出来レースの記者会見だった。
 が、アメリカは経済力が低下する中で、「世界の警官」としての役割を必要以上に拡大行使してきた。はっきりいえば、米軍を除けばアジアで最大の軍事力を持っている自衛隊に、この地域の「警官」役の一部を肩代わりして貰いたいというのが米オバマ政権の要請だった。このアメリカの圧力によって安倍執行部が行ったのが、憲法改正という玄関からではなく「裏口から入った」(NHKニュースでの米有識者の発言)のが憲法解釈変更の閣議決定である。
 私はこれまで何度も書いてきたように、現行憲法は占領下において吉田内閣がGHQ民政局とすり合わせながら作成した政府原案を国会(帝国議会衆議院)で審議する中で政府原案が修正され(いわゆる「芦田修正」)、個別的自衛権が読められるように書き換えられた。ただ、GHQによって軍事力が完全解体されていた当時の状況では、個別的自衛権の保持を明記することは無意味でもあった。だから憲法学者の間でも解釈が分かれるような不明遼な表現になったという経緯がある。
 それに終止符を打ったのが、いわゆる砂川判決であり、だから憲法制定以降、政府は一貫して個別的自衛権について「専守防衛のための必要最小限の実力を行使すること」と説明してきた。その解釈を政府は一字一句たりともも変えたことはない。それが、憲法制定以降の政府の普遍的スタンスであり、「現行憲法解釈について個別的自衛権をも否定した時期もある。憲法解釈は時代によって変わってきた」とした安保法制懇の報告書と、それを根拠にした安倍執行部の「無限解釈変更可能」閣議決定は、ねつ造にねつ造を重ねたもの、という以外の何物でもない。
 私自身は、やはりこれまで何度も書いてきたように、日本が国際社会に占める地位や責任は、憲法制定時とは比較にならないほど大きくなった。かつて大きな過ちを犯した国だけに、日本国憲法のゆるぎない平和主義の精神を、ただお経の文句を唱えるように言葉で繰り返すのではなく、アジアと太平洋の平和と安全にいかに寄与・貢献すべきかを国民的議論を経て、最後は国民が「国のありかた」について決定すべきだと主張してきた。
 改めて書くが、吉田総理が社会党や共産党の質問に対して国会で個別的自衛権をも否定したのは、政府原案についての質疑応答でのことであり、現行憲法での質疑応答の中での憲法解釈ではない。それをあたかも現行憲法についての政府解釈変更の証拠であるかのごとき主張をするのは、STAP論文以上の出来栄えとお褒めしておこう。
 今日全国紙5紙が社説面すべてを割いて閣議決定問題を書いた。各紙の主張の検証は明日行うつもりだが、とりあえず、各紙のスタンスが明白になっている社説のタイトルだけ列記しておく(順番はABC協会調べによる発行部数順)。
 読売新聞『集団的自衛権 抑止力向上へ意義深い「容認」』
 朝日新聞『集団的自衛権の容認―この暴挙を超えて』
 毎日新聞『歯止めは国民がかける』
 日本経済新聞『助け合いで安全保障を固める道へ』
 産経新聞『集団的自衛権容認 「助け合えぬ国」に決別を』
 検証記事を書く前に、結論だけ言っておくと、どの新聞の主張もフェアではない。自社の取ってきたスタンスに都合がいい理由だけを根拠にした主張だ。司馬遼太郎氏の歴史小説は、私も大好きだったし、エンターテイメント歴史小説家としては今後も彼を超える小説家は出ないのではないかとさえ思っている。だが、私は馬鹿馬鹿しい「司馬遼史観」なる言葉で、彼の捏造小説があたかも歴史認識の基準であるかのようになってしまったことに、衝撃を受けている一人でもある。
 司馬遼作品は、一時日本でも人気があったイギリスの政治家でもあり政治・経済小説家でもあるジェフリー・アーチャーの作品と同様面白くはあるが、ノンフィクションではない。彼の代表作の一つ『メディア買収の野望』(1996年刊)は二人のメディア王の壮絶なライバル争いを描いた小説だが、アーチャー自身「ファクト80%、フィクション20%」と公言したくらいだが、実は読者が受ける読後の影響は「フィクション20%」の部分のほうが大きい。
 山崎豊子氏や高杉良氏の作品も実在のモデルが存在し、たとえば高杉良氏がソニーのVTR戦争を題材にした『広報室沈黙す』は、肝心のソニー広報室の責任者が私に「ほとんど事実です。だけど、どうやって調べたんだろうとみんな首をかしげているんですよ」と内幕を語ってくれたことがある。実は私は高杉氏とは、この小説の取材で会った。彼にご馳走になったのに期待に応えられなかったのは申し訳なかったが、私はスキャンダルには一切興味がなく、当時は様々な筋から胡散臭い情報が舞い込んできたが、「私は厳しい書き方をするが、スキャンダルはテーマにしていない。週刊誌にでも売り込まれたら…」とやんわりお断りしてきた。そういうわけで、高杉氏の期待には応えられなかったが、ソニー広報室がほぼ事実に近いと認める彼の取材力には敬服する以外の何物でもない。ただ、スキャンダル的「事実」は高杉氏に情報提供できなかったが、なぜVTR戦争でソニーが敗北するかの論理的説明はさせていただいた(当時はまだソニーはお手上げはしていなかったが)。
 私はソニーの敗北する理由について、「ハード仕様のシェアは、ソフトメーカーがどっちにコミットするかで決まる。VTRの場合、テレビ放送を録画してあとでみるというタイムシェア的用途と、市場に出ている既存のソフトを再生するためという用途の二つに大別され、前者の用途が中心の時代は製品の『効果対費用』の原則でシェアが決まるが、後者の用途が中心になると勝負は一気につく。ソフトメーカーは市場でシェアが高いハード仕様にコミットするからだ」とだけお伝えした。よくご理解いただけなかったようだが。

 さて昨日のブログで書いたが、公明・山口代表は同党の「外交安全保障・憲法両調査会合同会議」で、「他国のためだけではなく、日本国民の生命、自由、権利を守るための限定的な行使容認であり、閣議決定案以上のことは憲法改正でなければできないことを確認するなどの歯止めを勝ち取った」と述べた。この発言はNHKがニュース7で武田アナウンサーが紹介したもので、私は公明党事務局に事実確認をしたことも書いた。
 実はその後、読売新聞が山口発言を改造しないように、読者センターに山口
発言の内容と、それが事実であること、さらに公明党事務局に抗議の電話が殺到していることまでお伝えしておいた。
 が、無駄だった。読売新聞は昨日の朝刊1面トップ記事で、これ以上不可能、というより小保方晴子や笹井芳樹も、「私たちだって、そこまではやってないよね」と多分言うであろうほどの「改造」を超えた「ねつ造」をした。
 読売新聞の記事はこうである。
「意見が一通り出たところで、山口代表が閣議決定案について『他国防衛ではなく、自国防衛であるという目的が明確になった』と歯止めを求めた成果を強調した」
 実際の山口代表の発言は先に述べたように「他国のためだけでなく」である。公明党事務局も認めている。さらにそのことを読売新聞読者センターに情報提供もした。その結果がこの記事になった。
 この表現の絶対的ねつ造と私が決めつけた理由を、親の子供教育のありかたで分かりやすく説明する。
 親が子どもの教育について「叱るだけでなく、ほめもする」あるいは「ほめるだけでなく、叱りもする」と言った場合、「叱る」ことに重点を置いているのか、あるいは「ほめる」ことに重点を置いているのかは、この数文字だけでは判断できない。前後の脈絡や、その行為が子どものどういうことに対して行われたかで、どちらに重点が置かれているかを判断するしかない。
 が、「叱るのではなく、ほめることが教育の方針だ」あるいは「ほめるのではなく、叱ることが教育の方針だ」という表現になると、重点の置き方の問題ではない。「ほめるだけ」あるいは「叱るだけ」ということを意味する。日本最大の発行部数を誇る読売新聞が1面トップの記事で「そこまでやるか」と、私は唖然とせざるを得ない。
 戦中のメディアは、大本営発表を鵜呑みにして記事を書いたことになっている。私もそこまでは検証のしようがないが、ひょっとしたら読売新聞は広島に原爆が投下されたとき、「日本軍はサンフランシスコに新兵器の原爆を投下して敵国に大打撃を与えた」と書いたのではないだろうか。この皮肉(本当は嫌味)がわかるかな?




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