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人類の長所について。

2015-07-31 | 社会問題
私達は生まれた時に、何らかの人生の困難な問題を言い使わされて成長して行くものである。

それは様々な形に現れるのであるが、そこに向かう問題解決能力が人間の長所であり、人類共通の生きる基盤である。

人類の長所とその方向性とは自己成長、自己実現であるが、本質は共存にある。

人に生まれつき男女に分れている様に、創造主は何よりも合理的な存在なのだから、奇跡を信じる前に、男女共存の追求に我々の生きる道がある。

この世では人間の経験の方が天分より重要だからだ。

従って正しさ、あるいは正しいと考えられているものが、偶然を信じるよりも優先される。

人間の長所は何であれいつもはっきりと確信していることが重要なのである。

それなのに、その長所を悪用している。自らの強みの上に己を築けと混乱している。

これほど世界が混乱しているのに半信半疑でいるのは、いささか腑に落ちないが、驚きはしない。

自分が幸せであるには他人が不幸でなければ安心して満足できないからであり、不思議な現象ではない。

いつだってそうだが、真理とは利用できるという意味で、まず、第一に有用なものであるという定義とするなら、

その長所は単純さの中に隠されているものであり、シンプルイズビューティーである。

では、人類の長所とは何か。

答えを功利主義が問う最大多数の最大幸福論から導き出せば、こうなる。

人類の長所とは自らの力で最大多数の人を助けられる能力、または最大多数の社会を救うことが出来る能力のことを言う。

つまり、あなた一人が他の人間を救うことや、小さな社会に貢献することは、何もあなたの長所を止揚する必要はないが、短所でも最小少数を助けることは可能だが、最大多数をあなた一人で、しかも同時に助けるとなると、もはやあなたの短所は何の役にも立たず、自らの存在価値である長所を最大限発揮し、活用しねければ一度に最大多数の人間を救うことは実行不可能となる。

解りやすく言えば、一人の人を救う能力が長所ではなく、一度に100人、1,000人の人達をあなた一人で救う能力のことを長所という。

言い方は様々だが長所、その根源である本質は、いかに人と社会に役に立つか、正義論である。

人類の真理による認識力が増すまでは、多様性が善となるが、人類の長所が今以上、認識されれば個人の善と集合体の善は増加するものである。

それこそが我々人類に必要な長所であり、価値であり、存在理由である。

私達の長所が何であれ、自己中心的なエゴでは永遠に長所とはめぐり会えないものであり、

自分のことしか考えられず、他人をものとしか扱えない人間には永遠に気づくことが出来ない合理的なシステムである。離れ業である。

だが、残念なことに世界の多くは非人道的で、無差別な生へのエゴイストによって美化されている。

これでは真理に到着するどころか、地獄にいるのと違いがない。私達は楽園で過ごしたいのに。

現在は人に対する適切な洞察や客観性が共鳴や共感を、様々な角度から気づかせてくれるにもかからわず、

人類の混乱は自らのエゴによっていっそう激しさを増すばかりである。

もし私達が人間の持つ自我の本質に目覚め、エゴを超越することを学ぶのであれば、その時、社会は健全な状態に働いていると言い切れるのです。

人類の長所は自由と同様、それだけの責任があるのです。

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インテリジェンスの救済。

2015-07-30 | 社会問題
インテリジェンスが暮らすこの社会システムは、一度、根本的に疑って見なければ解らない世界観が存在する。

気付いていると思うが、この世はどうやら楽園ではなさそうだ。

ひょっとすると、人間は地獄でのエリート教育を受けているかもしれない。

なぜなら、自らを上手く騙さなければ生きられないからだ。言い訳上手がその証拠だ。

インテリジェンスに与えられた環境は決して楽園とは言い切れないが、

その環境の下で心折れずに、切磋琢磨を楽しみ、真意を突き詰め、自然界との共存を果たしていく姿にインテリジェンス達の生きる道がある。

自らを深く見つめ、人や社会と関わり合いながら、幸せの滴を飲み干す者であり、自己陶酔も時には芸術と同じく見る者の目の中に映る一つの美学である。

真のインテリジェンスとは、明晰な判断力と、大胆な想像力と、強靭な理性と、鍛え上られた感性と、混乱に対する勇気と、良心に対する恐れを備えた大人物のことである。


私達が生きるこの世界においては、男性本能だけでは欲望同士の闘いが途絶えなくなり、欲求が強まるほどに不満が募りる。

かえって完全主義が強すぎては余分な力が加わり、最後に残るのは精神混乱である。

その疲れた心と体をリラックスさせて、その欲求を分散してくれるのが、同じインテリジェンスの仲間である。

困難の塊だった毎日を暖かく心を溶かしてくれる者たちである。

従って、インテリジェンス同士が敵対してはダークサイドの思う壺である。

ニーチェの言葉を借りれば、現在社会を支配する固定観念を打ち破り、独自性を追求した超自然的なインテリジェンスを超人ということになる。

自然と人為とは調和して混ざり合い、分裂して解き放つものである。

自然的な共存と人為的な成長を掛け合わせて生まれる新しい世界観なのである。

インテリジェンスの人達の究極の道とは自己超越にあり、それは人智に次ぐ叡智への道であり、自己実現への扉でもある。

だが、急いでは終わりを早めてしまうから、大切なのは、その過程を楽しむことにある。

インテリジェンスの人達がより豊かで、より能力を発揮し、それでいて優雅に快適に暮らして行けるのであれば、どんな困難な日々でも、たとえこの世が地獄の一丁目であろうとも、世界が救われるのではなかろうか。

生活の不安定要素や反社会的システムなどからの生命の危険から身を守り、大自然の恩恵と共有を繰り返す、超越した道なのである。

あくまで自然の法則は目的ではなく、一つの原因に過ぎないから、大切なのは自然法とインテリジェンスの意思による無条件の同意こそが、私が問う男女共存社会創出の理念である。

理不尽な混乱と矛盾は自由なカオスによる自立的なインテリジェンスとの融合であり、驚くほど複雑さと単純さを持った体系として統合されるものであるのです。

まず先に、インテリジェンスの救済が世界の、日本の救済に繋がるものだと考えております。

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女性の心情には理性の知らない道理がある。

2015-07-29 | 社会問題
一流とは考える前に感じるものである。そして感じたものから考え出す。何も感じないものはつまらない。

今現在、社会情勢に激しい感情が存在するなら、そこにあなた自身を知る重要な要素が隠されているのである。


確かに、感情は本質かもしれないが万能ではない。

なぜなら、感情だけでは善悪の判断を誤るからだ。

感情が重要であることは疑うまでもないが、私達の直観はどれも当てにはならない。

だから、ハートだけではハートブレイク。他人に操られたくなければ、感情で反応してはいけない。感情は傷つきやすいものである。

私達が、他人を傷つけるのは、感情であって、本来の自分自身ではない。ヒステリーは感情であってあなたの人格ではない。ものを言うのは情念であって、悪意ではない。

危険なのは圧縮された感情が方向性を見失った、衝動的な状態である。

感情を正しく外に放出せずに、感情の内にいる者が、ストレスをため込む原因だ。ストレスのレベルは感情に比例する。

そのストレスが人間関係、とくに男女関係に影響しているなら、問題はここにある。男女共存社会はかなりの知的レベルの高い社会と言える。

現象学の結論によると、感情的認識など存在しないことになる。

判断は感覚レベルの知覚である。人の感情は正しく解釈された感情ではなく、生の感情でもない。

感覚認識を出発点とする経験論者達の証明には、その世界の知りうる根本的事実から進んで行かなければ説明にならないように、

思い切って単純化すれば、行動から生まれる論議の他に原因を持たない第一の原因が存在することに気付く。

明白ではないものの存在は必然的な存在を暗黙のうちに含んでいるから、比較は完全なものの存在を自然的なものへとその目的に導かれなければ存在しているとは言えないのだ。

実際、男と女では、どちらが先に世界平和を達成することが可能なのだろうか。

だが、どうだろう。男は女を劣っていると言い、女は男を劣っていると言う。

少なくとも、全ての現象を感覚によって統一することはありえるのだろうか?

判断するのは感覚ならば、行為は情念で、真なるものは理性なのか?

人間は感情の動物だから、五感や情緒にとても影響を受け易く、感傷的で感情的に行動に移す傾向が強い。

私達は、自然的な情念に与えられた、自らの感性に従って理性を磨き真理に到着するものである。

それには共感と感謝こそが人間性の内にある極めて強力な原理である。

他人の幸福を見て心が動かされ、幸せを感じるのは高度な共感や感謝という感情である。

人間性は本質の部分で変わることがないのだから、そこに高級な感性である感動や一体感が重要になるのである。

実際、現実社会にある感情の気質から生まれる習慣を見ればどんな世界が出来上がるか解るように、感情の悪習は判断を鈍らせて、そこから抜け出せなくする。

反対に良い感情とその習慣は、感性的直観を揺さぶる気づきの本質であり、社会性の発展に大きく貢献する事が出来る。

危険なのは、感情レベルが低いとすぐに興奮して衝動を起こし、暴言を吐くように、情念が弱いとキレやすくなる。

情念とは原始的な存在であるから、単細胞では刺激を与えられるとすぐに興奮する。

また、感謝や共感能力が弱いと、必ず最後で自滅する選択を感情が選択し決断するから、その自らの失敗の要素である自己破滅の不安定要素を制御する為にも、高級な感情を育てる事が幸せへの手掛かりになる。

わがままな子供のように、急に無気力、無関心に陥り、過去の忘れる事が出来ない不快な思い出が、自らの存在価値にケチを付けて、自らの能力を喪失させるのである。

世界が破滅へと向かう前に、その解決策となるのが感情のレベルアップであり、

許す能力と感謝の言葉が否定的観念を取り除いてくれる唯一の特効薬で、許しと感謝に勝る能力なし、である。

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チャンス!現在の中国は弱っている。

2015-07-28 | 社会問題
もしもシリーズ。もしもこの世が地獄だったら。(東アジア情勢編)

仮に現在の中国が金融危機だとしたなら、現地にいる日本人が心配です。

奴隷として人質にされていないだろうか気がかりです。

もしも、日本人が犠牲にあっているとしたら、拉致被害者同様、政府が救出しなければ生贄です。

この事態を反日たちはどう受けとめているのか解りませんが、その真意も同様に何処にあるのかは解りません。

ひょっとして、反日たちと一緒に乗る猫バスは地獄行きかもしれません・・・。

いい機会だから在日中国人たちを祖国に帰す手伝いをしてはどうでしょうか。

祖国の一大事ですから、日本で悠々と傍観していてはいけません。

日本は中国に塩を送るつもりで、在日中国人を祖国に送り届けるのです。

そして何より重要なのは、東アジア情勢です。

普段の行いがものを言う外交ですから、中国との交渉は今がチャンス到来だ。お互い隣国同士、同盟を強化して、みんなで仲良くやりましょう。

おそらく世界経済情勢は、血が流れなければひと儲け出来ないから、もうそろそろ東アジアで一発戦争が起きてもおかしくないし、東アジアの戦争は他国にとってみれば「おいしい」ものです。

実際、中国や韓国が日本バッシングを展開しているのは、裏で誰かに言わされているのではないだろうか。だとしたら誰だ。

それがホントなら、どちらに転がっても中国は戦争を避けられないから、集団的自衛権の自己防衛は正論だ。

しかし、日本には立派な平和的憲法があるから、やはり日本に残された道は、衛生中立国しかないようだ。

日本軍は隣国から恐れられているように、喧嘩の仲裁には日本の中立こそが望ましい。

それでこそ、憲法9条がノーベル平和賞に相応しいと考えられるからである。

いったいこの世はどうなっているのだろうか?

ひょっとして、私達人間は地獄に堕とされ、罪と罰を与えられているのかもしれません。

だとしたら、このカルマを断つ方法は、たった一つかもしれません・・・。

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憲法改正について。

2015-07-27 | 社会問題
憲法を改正する前に、文章を改善した方が良いと思う。

何だ?この下手くそな文言は?

もっと美しい文章にしなければ国家も国民も美しい行動に結ぶ付かないではないか。

そもそも日本国憲法に魅力が無いのには理由がある。一週間で創ったからだ。道理に愛が感じられない訳である。

日本人の心を掴み、心震わす様な文化と風土を感じさせるものでなければ美しい日本国憲法とは言えない。

そう考えると、戦前の憲法や教育勅語の方が愛を感じます。

ぜひ、現在の日本国憲法を創った人に責任を取ってもらおうではないか。

誰だ。日本国憲法がこのままで良いと言っているのは?芸術が解らないのか?それとも文章が読めないのか?

国会で騒いでいる政治家は幼稚園児だから、総理は憲法改正以前にお遊戯を教えた方がいい・・・。


法とは、社会統制の過程に関係する行動の心理的前提条件である。

日本人は法の厳守と同様に、自尊心を重んじる国民性であるから、

法律によって、国民の利益が公益の為に役立つ事が出来る権利を、お互いに協力し合うのが国法であって、

国法が国家の中の国民の安全に役立っていないなら、それは単なる自虐的なだけである。

自己犠牲的な態度は進んだ生命体かもしれないが、国家に貢献しなければ誰もその遺志を受け継いではくれないだろう。

また、法律にはコントロールが不完全であることに重要な民主主義のルールがあるように、その法律も万物と同じく古くなりやがて腐る。

法律は不完全な人間が創ったものであり、ゆえに成長するものであるから、

その法律が新しく創り変わったとしても何ら不思議ではない。

むしろ逆に、規則や法律は常に変化を追求して行くものであるから、100年も同じ法律などあり得ないし、逆にそれは社会を混乱に招ねくことになる。

時代の変化に対応出来ない法律では、国家の存続自体が危うくなりうるし、時代に合った法律によって再び国家は活気付くのだ。

法律も自然界の遺志と同じく、常に動くものは不滅なのです。

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選ばれしインテリジェンスは勇者か賢者かそれとも遊び人か。

2015-07-26 | 社会問題
私達が暮らすこの社会は、なぜだか解らないが、望むこととは正反対の現象が日々起こる。

幸せを追いかけるほど、困難が増し、苦しみを選択すればさらに苦しくなる状況では、

いつしか人は不安定で矛盾だらけになり、秩序や調和や安心でさえも、「ああ、無情」の真っただ中にある。

あらゆる決定を論じながら、その行動に疑問を持ち、自然的な法則性のある問題解決に臆病で、団結が時に破滅を招き、良ければ良いほど、悪くなる。

いかなる善行も動きの無い生ぬるく生気に欠けた人間の感情に反する正統からは生まれない。

改めて言うまでもないが、社会的な善悪は全て秩序ある人間社会から生まれている。

それでいて私達はこれが善で,あれが悪だと誰も断言する事ができないように、自然の変化と同様、我々に出来る事はその最先端に立つことだけである。


自然はコントロール出来ないように、私達自身もコントロールされるのを嫌う。まして他人に管理され指示されることは誰も望まない。

それは自由な社会性の乱用であり、自然法に適していないし、やぶさかでない。

支配関係に見られる多くのパワーコントロールは、自らの欲望に従い悪意を正当化し、正義を乱用する。結果が全てであり、勝てば官軍である。女性たちは良き犠牲者である。

むしろ支配が必要なのは、社会を私物化しようとする、一部の男性の方にある。そこにこそ女性管理者である「グレートマザー」の務めとなる。

支配と管理には市民法と同じ様に、共同体による合議知が必要である。コントロールする側は快楽だろうが、される側はごめんだ。

支配関係とはちょっと変わった習慣から生じるように、社会秩序とはコントロールを見出したら消滅するというまるで善悪との遊戯である。

こうしたシンプルで複雑な、惰性的で理不尽に対応するのがインテリジェンスの人達だ。

インテリジェンスの人達は極端な主観主義と極端な客観主義との接合による両義性を持つ。つまり、あいまいだ。

インテリジェンスの人達は何事においても矛盾している。インテリジェンスとはカオスである。

そして複雑な社会的カオスにはカオスであるインテリジェンスの人達で応戦する。

インテリジェンスの人達はカオスとロゴスの中での緊張した生命体であり、自然カオスによる一時的な自立ゾーンでの雨宿りでもある。

強い雨の中ではライオンもウサギと寝転ぶように、真実は大抵、共存のどこかにある。

現実はなかなか明確には分類出来るものではないが、その複雑さの果てに単純な真実が隠されているものである。
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どうすれば女性社会が始まるのだろうか?

2015-07-25 | 社会問題
時代の流れを感じて思うこと。

私達が意識として感じているものの中心にあるものは、時間の経過という感覚である。

私達は無限の過去から不確実の未来まで、留まることなく前進している。

過去は過ぎ去る。それにはもはや手のつけよいがないようにそれは不変である。

そして時はある意味において、過去は依然、「今ここ」にある。

今までの過去に関する私達の現在の知識は、記録、ひたすら記録の痕跡に基づくものと、それらの推論によるものであるかもしれないが、私達はその現実性を疑うようなことはしない。

過去は多数のことであったし、今となっては多数のことでしかありえない。

起きたことは起きたものに任せて、私達が誰にせよ、それには何もしょうがない。

これに対して未来から流れる「時」はまだ、決定していないように見てとれる。

未来はこうなるかもしれないし、別の様になるかもしれない。

ことによると、この選択はニュートンの法則によって決められているかもしれないし、また自然界との遊戯につき合わされているのかもしれない。

だが、この選択を楽しんで行われていないような気がする。過去が悪ければ未来が悪くなると考えるのはオカルトだ。

実現在が現実に働きかけ、どう表れるのかを未来がまだ決めかねているにしても、

それは単なる一つの可能性にしか見えないが、私達が女性社会を未来に描き出せれば現実社会は嫌でもそれを実現することになる。

なぜなら、時間とは未来から始まるもので、過去から始まる物語ではないからだ。

私達が時間の経過を意識的に知覚する間に、広漠たる一見未決定の未来は絶えず現実性として実現されて今にいたり、そうすることによって固定された過去に入り込んでいく。

私達は「時」に、事実として実現される特定の潜在的な未来の選択に影響を及ぼし、

それを過去の実現として恒久化するのに個人的に責任と感謝を感じることがあるかもしれない。

もっとも、決定された動かしようのない過去が不確実な未来を容赦なく突き動かすことはなく、逆である。

私たち自身を過去の奴隷と勘違いし、無力な観客と思い違いしながら、しかし責任を負わずに済んで有り難いと言い訳し、眺める事がなんと多いことか。

従って、女性社会の創出は、女性が本気で未来は女性社会であると信じ切れば、時間は未来から流れるように必然と今この瞬間が女性社会へと変貌を告げる事実なのである。

チャンスの女神は準備が整った者にのみ訪れるように、女性も男性も出来るだけ早くその準備をしておいてください。

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哲学の継続。

2015-07-24 | 社会問題
現代の哲学者は「疑う」ことを忘れ、ひたすら正当化することにかまけている。

正義の主張は裏を返せば、自らの正当性を主張しているだけで問題解決には至っていないと考えられるからだ。

その有り余る知的好奇心とずば抜けた独創性と思いやりのある協調性によって社会問題の解決に挑むのがインテリジェンスの使命だ。


古典的哲学では、私達の常識に対応して、客観的世界が目の前にあるその世界は精密に定式化された倫理に支配されて明確な決定論的な仕方で発展する。

このことはアリストテレス元来の図式と同じように、カントやマイケル・サンデルの理論についても正しく受け継がれている。

社会的、自然的存在は私達自身とは独立に存在すると見なされている為に混乱している。

古典的父権制世界がまさにどのように「ある」かは、私達がそれをどういう風に眺めようとしているかに左右されない。

さらに、私達の精神社会と道徳倫理はそれ自体、例え過ちを冒したとしてもこの世界の一部である。

それらもまた、同一の正解で決定論的な古典的父権制世界の方程式に従って発展していると考えられている。

私達の無意識的な習慣が毎日の振る舞いにいかにして影響しているのか、それをどう感じ取っていようともこの世界の一部であることに変わりはない。

実在、私達の意識的知覚、自由意志と見えるもの、これらの本性に関する最も真剣な古典的父権制世界の背景には、このような描像があるようだ。

男性自身も父権制としてある役割を果たし、責任の追及に対しては不安を感じる人達もいるだろう。

男性社会は今世紀の初期段階で世界の実現の振る舞いと古典的父権制社会の記述との間に微妙な食い違いが観察されたことから生まれた物事の図式で、根本的だが人に不安と緊張を感じさせる、多くの人にとって古典的父権制社会という言葉は、矛盾社会にメスを入れ、解剖し、切り刻むかもしれないが、傷痕に残るのはほんのわずかな支配主義者だけである。

「古典的父権制社会」とは「不確定要素」のような、いくつかの漠然とした概念を思い起こさせるものに過ぎない。

現実には、女性社会はお馴染みの男性社会とは根本的に異なるにも関わらずに、非常に共存的なのである。

その上、男性社会の通常な見方とは反対に、自然法則にせよ、統計学にせよ、感情論にせよ、これらは決定的に社会に影響を与えて発展する。

私達が意識的に知覚できる女性社会の出現に関連した、ある不思議な大規模の活動を通じて現れる現象なのである。

私達はこのことを、そして女性社会がいかに我々に物理的存在に対する見方を変えるよう迫るかを、理解するように努めなければならないのです。


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パターナリズム、その洞察。

2015-07-23 | 社会問題
真理とは何か。世界について何が真であり、何が真でないのかについて、私達はどのようにして判断しているのだろうか。

私達の社会は単に何らかのパターナリズム・・・・・・それほど効果的でないありうべきその他のアルゴリズムに比べれば、

自然淘汰という強力な過程に疑いもなく強く支持されたものに従って、それを行っているのだろうか。

あるいは、真理を言い当てる別の、たぶん非パターナリズム的な道、ひょっとすると直観的、本能的、あるいは洞察があるのではないだろうか。

私達の判断は、偶然的、思い込み的、惰性的な推論と推測の複雑な相互に関連した組み合わせに依存している。

さらに、多くの世俗的な状況では、何が実際には「真」であり、何が「偽り」であるのかについては、一般的な合意がないことも多くある。


一度、問題を単純化にする為に、男性社会の「争い」にだけ焦点を当てて考える事にしてみる。

「争い」の問題について現代社会はどの様に判断をするのか。ことによれば、私達の確実な知識さえも「争いの形」に基づいて作られているかもしれない。

少なくともここでは、実態はずっと明確なはずである。何が「真」であり、何が実際に「偽り」であるかについて、疑問が無いなどとは誰も言えないはずである。

では、男性社会の「争い」とは何であるのか。

男性社会の「争い」の問題は非常に古く、初期のメソポタミア文明にまで遡るが、それ以前は母権制の記録も残る。

日本古来も同様に、古くは母権制が存在いていたようである。

しかしながら、いくつかのことが非常に明確に鮮明に解明され、驚くべき新しい男性社会が訪れたのは、まだ2,000年かそこらのことである。日本では1,000年くらいである。

この論点は根本的なものであり、私達の思考過程が本当に本性上のパターナリズム的であるのかどうか、という問題そのものに関わっている。

従って、そこに疑問を持つことが私達には重要なのである。なぜなら、未来は破滅かそれとも人類の進歩かによる選択に懸っているからだ。

男性社会が大きく進歩した理由の一つにはより強い敵を求める資質とその手段が社会の発展に大きく関与してきた事実であった。

その為、男性社会はこのような強力な方法の使用に対して更に自信を深めて行くのであった。

これらの方法の多くは無限の要素を含む集合体の考察に関わっており、征服の証明がしばし功を奏したのは、このような集合体をまさしく現実的な報酬という以上の存在に仕立て上げたからである。

支配した存在としての全体。として考える事が可能だという理由である。

強力なこれらの男性社会は、無限的なパワーと独創的な概念から生まれたが、彼らは有限的集合体を利用することによってそれを整合的に発展させたのだった。

しかし、現代はその複雑であるはずの集合体が一つの共同体に成りつつある状況下において、「争い」の概念の根底が揺らぎだしたのである。

実際、現代の男性社会は誰と戦えば良いのか解らない状態であるのだ。

もし仮に、宇宙人が地球を侵略しに遣って来たら、人類はかなりの確率で世界統一するだろうと考えられる訳である。・・・・・・・。
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古典的パターナリズム。

2015-07-22 | 社会問題
父権制の分身社会。

我々の意識がどのように自然の一部になりうるかを見定める為に、

自然について何を知らなければならないのか、社会の構成要素を支配する法則が何であるのを理解しないのが問題である。

もし私達の無意識的な心理と習慣が、多数の男性支持者が女性に信じ込ませるようとしているように、

単に習慣をパターナリズムの遂行であるならば、これらの法則は現実には何であるのかは、大した関連性を持たないだろう。

あるパターナリズムを継続できるシステムは何であれ、他のあらゆるシステムと同様に役立つ一方、

私達の無意識的であるという情緒には、ことによると単なるパターナリズム以上のものが隠されているかもしれない。

ひょっとすると、私達を構成している社会システムは実際に支配する精密な物理法則と同じように、

私達が実はどのような仕方で詳しく組み立てられているのかということも、重要な関わりを持つ要素かもしれない。

ひょっとすると、男性の本質そのものの背景にある、「あらゆる男性がそう振舞うべきである」のかを決定している深い資質は、何であれ理解する必要が今後の課題であるかもしれない。

だが、人類の精神年齢はいまだそのような地点に到達していない。

ここから探り出さなければならない神秘は多く、獲得しなければならない深い洞察も多分にある。

とはいえ、大多数の人類学者や社会学者、心理学者など、人間社会の通常な活動に関連した自然法則を「我々は既に十分知っている」と断言するだろう。

人間社会は自然的システムとしては例外的に複雑であり、その詳細な構造と重要な男女関係に関してまだ解っていないことが大量にあることは疑いないとはいえ、

その社会的振る舞いの根底にある精神的原理の理解に重要な欠落があると主張する者は少ない。

不完全な社会と人類との関係は、十分に「大人」として成熟しきってはいないので、社会的な機能を高い精神性に基づいて適切に記述することは、

たとえ原理上の説明に限ったとしても、女性社会の創出という独創的でユーモアがあり、共存的でいて道場破り的な議論を今後も展開するつもりでいます。 

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未来は決して破滅しない。

2015-07-21 | 社会問題
「時」は絶えず未来から過去に流れるように、失われるのは過去であって未来ではない。

形あるものがいずれ滅びる理由は、「時」が過去へと流れるからである。

オリゲネスが説く、「この世界は創られたものである以上、どこかで終末がある」という思想には、一つだけ言い忘れたことがあるようだ。

それは時間とは未来から遣って来て現在に至り、そして過去に向かうことである。

従って、ものが劣化するのは過去の産物であって未来の出来事では決してない。

もし仮に、人類が滅亡するとしたなら、未来が破滅するのではなく、過去が消滅することである。

私達の勘違いは、時間が過去から未来へと流れているという錯覚に陥っていることが最大の問題である。

例を上げると、

私も大好きな、積み重ねの法則や一万時間の法則があります。

成果は時間×努力=結果ですが、時間が過去から未来に流れていると考る人では原因と結果の法則が機能しない。

なぜなら、過去が悪ければ未来が悪くなり、過去の惨めな失敗は未来永久続くのではなくして、現在の行動が過去を変えるからである。

同じように、過去の栄光に浸っていれば忘れ去られた過去の人となるように、時間が過去から遣ってくるとしたら、未来はすでに決まっていることになる。

実際、時間が過去のおかげだとするなら、大変な事になってしまいます。過去の記憶が消されないからです。歴史学者が問題を起こす理由がここにある。

現在が過去の歴史の上に築かれたものであるなら、未来が破滅に向かうのは当然だが、実際は違う。

報復や恨みは過去から遣ってくるものであり、未来には報復も恨みも、そんなものはない。あるのは人間の勘違いと思い込みである。思い違いの錯覚だ。

心配や不安の正体もここにあると考える。未来に心配も不安もないからだ。

暗い顔をした人の話を聞くと必ず暗い過去を引きずって無理やり未来へ持ち込もうとしている。

そう考えると、積極的な人とは未来に希望を抱く人であると言うのは正論であり理解できます。


それとは別に凄い人も存在します。時間に未来も過去もなく、「今ここ」に全力投球する人達です。

この人達を私は「名人」と呼びますが、真の成果は「未来」「現在」「過去」すべて同時に付加価値を見出すことが出来る人達であると考えます。

そんな「名人」に出会うとわくわくするものです。

年齢、性別、職業、成果は関係なく尊敬します。

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慰安婦問題は国境を超えられるか。

2015-07-20 | 社会問題
影が薄くなった慰安婦問題だが、女性ならばこの問題から一歩も引いてはならない。

なぜなら、戦争の犠牲者は何時だって女性だからだ。

それでいて戦争当事者である男性は気楽なものだ。

女性は国境をあまり重視しないが、男性にとっては命に次いで大事な問題だ。

争い好きがそうさせるのだが、それではいつまで経っても進歩しない。

未熟な社会と未熟な男性との間では歴史が繰り返されることは必然だ。

日本は本当に戦争を無くそうとしているのだろうか。


現在はグローバル化が進んでいますが、グローバル社会とは男性社会ではなく女性社会だと言える。

なぜかと言うと、男性にとってグローバル化の世界では国境を超えた民族間の争いが出来なくなるからだ。

TPPも良い例だが、反対しているのは利権主義者で女性ではない。

グローバル社会が進めばその分、男性同士による個人主義の対立は激増すると思うが、戦争よりは幾分マシである。

戦争は決闘だからリンチやイジメよりもまだマシだという者もいるが、女性や子供達に被害を与えておいて何がマシなのか意味が解らない。

そんなに戦争が好きなら、北極にでも行ってやってくれ。それとも女性にアピールでもしてるつもりなのか?


私が考えるに、世界は「逆」なのではなかろうか。

実は、男性が小さな家長に留まり、女性が大きなグローバル世界に適応する。

世界の境界線を難なく超えて行くのが未来の姿であるなら、それが出来る者は一部の男性と優れた女性だ。

現代が苦しいのは世界が「逆さ」だからかもしれません。

世界は一度ひっくり返してその裏側を見てみなければ解らない真実が隠されているかもしれません。


慰安婦問題は良い機会です。女性による女性の為の女性統一という底力を見せてもらいたいものです。

それこそが現代社会を救う救世主であり、グレートマザーである。

何せ、私が慰安婦問題をブログに書くと男性陣からもの凄い批判や罵倒が送られてきます。

それでも続けますが、やはり男性陣の争い好きには困ったものです。

戦い好きの男性にとって一番喜ばれる贈り物は、戦う「敵」をプレゼントすることかもしれません。

そうすれば男性特有の本能と欲求が満たされ「我が人生に悔いなし!」となるのが男性の悲しい性なのですから・・・。
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安保法案改正反対者達よ。代案を出せ。

2015-07-19 | 社会問題
安保改正に反対する理由は明確だ。それは平和憲法に対してもっと良い代案があるからだ。そうでなければ単なるいじめだ。

もしいじめならお手本となるはずの大人たちの幼稚な行動が、そのまま学校で子供達たちが真似するような事態になれば最悪のお手本だ。

平和憲法を軸にして世界情勢を考えてみると、確かに日本はまだマシな方だが、

そのマシな国を棚に上げて更に「上」を目指す者は問題解決者だから良いとしても、「下」を見て満足する者はいじめっ子だ。代案が無いとはそういう事だ。

平和主義者は積極的だが、戦争反対者は消極的だ。一見同じように思えるが全く違う。

なぜなら、平和を維持するには丸腰では乱暴者の言いなりになってしまうからである。

武器を持つ者と持たざる者の共通点は、どちらに転がりどちらに進もうとも争いからは逃れられないところにある。そしてその「サイ」は投げられている。

事実、在日問題が動かぬ証拠だ。混乱が既に進行しているのが現状だ。


戦争を本気で反対するなら一つだけ善い方法がある。

それは我が国日本が「永世中立国」を宣言する事である。その根拠が日本には十分ある。

日本の平和国家は世界平和の象徴であり、日本ほど「永世中立国」に相応しい国は他にはない。

中国や韓国、そして日本人の一部の人は反対するだろうが、日本の中立国家設立に世界中の国々は同意する。異議はない。

日本がどれ程までに永世中立国家に望ましいのか、例を上げてみると、

1、世界最古の天皇制を保持する人類遺産が残っている。

2、古来、父権制と母権制が同居し、共存していた歴史がある。

3、大和魂、死を畏れない神風信教が根付いている民族である。

4、独自の文化と他文化を融合し発展してきた文化を持つ。

5、春夏秋冬を愛し、自然災害を克服する知性を備える。

6、過去に大東亜共栄圏という傷を持ち、同じ過ちを繰り返さないと決意している。

7、原爆投下の悲劇によって大いなる悲しみを知った国民である。

8、平和憲法に法り、経済貢献してきた実績がある。

9、米軍による日本からの撤退後は、「永世中立国」以外には隣国が恐れてしまう。

10、在日問題の解決とその友好は「中立国」にのみ達成される。他には考えられない。

11、グローバル社会が進む中では、極東に位置する日本の存在価値が試されている。

12、平和的な日本の千年王国の設立は、未来へ繋がる世界国家への幸福でもある。

13、何よりもまして、それが神風の遺志であり、古人と現代人との融合した芸術だからだ。

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男女共に楽しめなければ平和な社会など有り得ない。

2015-07-18 | 社会問題
世界情勢を見れば判るように、男女関係が上手く行っていない所ほど混乱が多い。

世界経済が不安定なのも同様に、男女の格差が激しければ労働賃金格差も激しくなる。

スポーツと同じように、経済も男女に分けた方が今のままよりかは幾分マシになるまもしれません・・・。

男性だけが楽しむ世界とは一体どういうものなのか?女性だけが楽しむ世界との違いは?

そして男性と女性が一緒に楽しめる世界観の創出とは?ひょっとして、これからが本当の新人類の始まりかもしれません。

男女が別々に機能するのも、まあ「それもあり」かもしれないが、夢や希望、ロマンが無ければ旧人類以下である。

男性特有の正義漢は母性本能に匹敵するものだが、問題はその使われ方にある。

どちらにしても欲求であるから押さることは出来ないが、偏った欲求では極端な欲求に繋がり、結局、欲求は満たされない。


何故そうなるのか。一度立ち止まって考えてみると、

私達は臆病な心を持っているお蔭で、危険を克服し、不安を度胸に変え、更なる発見や発明を成し遂げてきた。

私達が持つ弱さは強さであり、賢さである。弱さからの気づきだ。そこからしか見えないものがあるからだ。

まさに人類の誕生から受け継がれて来た知恵や工夫の数々はその弱さからの必要の「母」と言える。

むしろ問題なのは驕る強者の方である。奴らは自らの不安や恐れを隠しているだけの臆病者に過ぎない。

奴らに必要なのは情緒を美しむ涙である。人間は泣く唯一の動物であるから、逆に泣かないことは非人間的と言えるだ。

強さは誇りではない。人間の弱さにこそ希望なのだ。事実、強さが人類を進化させてきた訳ではないからだ。

生きる素質を強さに見出すとすれば、労働を楽しむスキルと言えるが、魅力的な現実社会を創造するには、それを可能にする人間の本質を揺さぶって放さない男と女の物語が逆境とコンプレックスが綺麗事ではない、苦しい現実に立ち向かう持続のパワーと不屈の忍耐とを影で支える真の正義漢の掟になる。

今に喜びを見出せずに、明日、喜びが見つかるとは思えないが、反面、現実が厳しからこそ幸せにもなれるのだ。

現代は行詰りによる混乱によって希望や幸福が目に映らないかもしれないが、今の経験が必ず社会に重要となる日が遣ってくる。

その日の為に、その時の為に。

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見栄を張るのか、それとも楽しむのか。

2015-07-17 | 社会問題
全ての動物には種を保存する為の利己的な攻撃本能が備わっており、

それを適度に制御するメカニズムが人間のオスにだけ上手く機能していないと言われている。

男性がスポーツに異常なほど熱狂するのはそのためである。戦わなければつまらない性分だからだ。


私達の歴史や文明は男性によって引き継がれるが、

文化や「もののあはれ」は女性たちによって語られる。

生活の中から生まれるのが文化で、戦いで得たものが文明。どちらでもよいのだが、

文明よりも文化の方が一歩リードしているように思われる。

なぜかと言うと、

文明の発展は強い者だけが生き残る為の自然淘汰にあるが、

文化の強さは積み重ねの法則、「継続こそ力なり」だからだ。

民族の危機や伝統教育の危機にしても、人は文化という情報を通じてしか意味する行為も相互作用も出来ないからだ。

そして何より重要なのは、女性たちには遊び心に盛り付けられた華やかな謙虚さ、活気極まる感動など、

一見、非合理に思えるものでも気づけばそれが社会の役に立ち、いつの間にか文化となり、そしてその文化の発展と社会の担い手が女性という訳である。

男はただ、楽しむだけで善く、また私達は一生子供であり、一生青春の風に吹かれるマドンナ達のララバイだ。

そうでなければ、男性はその成長の過信に問題があると考えられるからであり、つまりは、見栄を張り過ぎているのだ。

女性が継承する文化を楽しむことは心を取り戻す生活習慣であり、忙しすぎて心を亡くした男たちの故郷である。

我々には本来遊びたがる子供が隠されているのだから、競争激化の毎日だけでは、何時しか疲労は男性を臆病に変えてしまう。傷ついた戦士だ。

男性が女性と楽しむことは真の感応力の表れであるから、人生の平和と幸福は楽しみ尽くす以外に方法は無い。

真の人格者なら、生きる能力、生きる意味とは、いかなる状況下であっても男女が共に楽しめるスキルに他ならないから、

男と女が一緒になって人生をエンジョイする事は、人を褒めることと同様に合理的であり、それは神が決めた遊戯のようであるのです。

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