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平和の民、中国は過去の屈辱が忘れられずに苦しんでいる。

2015-09-29 | 日記
過去、キリスト教徒が世界中に布教し、各国に広げようとした時、

平和で人の好い民族はどこかと言えば中国とインドだったらしい。

反対にネイティブインディアンや南米、それと日本は危険な国であったらしい。

誇りが高いとか野蛮であるのではなく、純粋に中国とインドは元々は優しい民族だったようだ。

そんな自国を守護する為には、攻撃こそ最大の防御であるが、それが災いして中国本土が万里の長城で分断される結果となる。

中国には優れた文化があるように、中国はその豊かな郷土を優しい国民性を持って世界に示すべきである。

それこそが全世界の希望であり、華僑や華人たちの誇りに繋がるものである。

中国人に備わる礼儀と知恵と行動力こそが人類の価値ある財産なのだ。

くだらない、人権侵害や、時代遅れな国土拡大は、自らのプライドの傷を癒すどころか、自らの歴史に傷を付け、良心が痛くなる。

実際、中国は良い所である。だから世界が中国を欲しがる理由を理解するのはそう難しくはないが、

だからこそ、中国は自国を守る為に抵抗を続ける訳だが、逆で、自国の開放こそが自国のV字回復に最善で合理的な解決策となる。

中国を最大限、発展させるには、自国の自由以外方法はない。それは全世界が協力せざるが如し、WIN.WINが世界目標となる。

実際、中国が現在、世界と戦って勝るとは誰も信じてはいないし、嘘がばれる前に急いでいるだけにすぎないのだから、

その嘘が明るみに出た後のことは何も考えていないように、それでは幼稚なイエローモンキーだと笑われても仕方がない。

元々は陽気でユーモアがあり、美しい民族がいつからか他の民族に心を閉ざし、力で管理する強国へと変貌して行く中で、このままで良いはずがないと薄々気づいているのが国民であるのだから、現代の中国人が歴史に残るには自由と開放こそが歴史の一ページとなる。

そこにチャンスがある。やるのか、やらないのかは中国人の魂が決断するのである。

その時、歴史が動くのである。

中国が変われば世界は変わる。中国の幸せは世界の幸せであると誰もが確信している。大いなる民族の神髄がここにあるのだ。








オオカミ少年の習国家主席は国連の演説で何を言うのか楽しみだ。

2015-09-28 | 日記
どうせ嘘しか言えないのだから、とことん嘘をつき通す以外に、もう後戻りはできない。

世界は中国のハッタリに弱いのだから、何を言われても言った者の勝ちだ。

同じ嘘をつくならば、ディズニーランドのミッキーマウスの様にでっかい嘘を突き通せばきっと気分も楽になることだろう。

そうすれば習国家主席もだんだんと大きなミッキーマウスに見えてくる。

現在の国連が正しく機能していないというのは聞いてはいるが、習国家主席の名演説くらいは後世に記録されるだろう。

今回のアメリカ訪問の大失敗を起死回生するには、何を言っても言い訳に当たるのだから、国連では世界平和の実現をアピールするべきである。

せっかくローマ法王も来ているのだから、ローマ法王の前で大嘘をついてもしょうがないし、天罰が下る。

習国家主席の大失態を中国人ははたして許してくれるのだろうかちょっと心配だ。

習国家主席はオバマ大統領に面白いことを言っていた。「13億人いる中国人全員は管理できない」と。なるほど、中国人には人権も無ければ自由もないらしい。


それと、国連でのオオカミ少年のスピーチが楽しみだ。何を言っても許されると思っている習主席だから、

世界征服を企んでいると言っても誰も信じてくれないだろう。そこがポイントだ。中国に胸を張って帰るためには中国人の真髄を見せるしか習主席に帰る場所はもう存在しない。

その前にやるべきことが一つだけある。世界貢献だ。習主席にはそれが出来る。

実力が伴わない中国がアメリカと手を組んで世界を二分するなど子供が見る夢と同じものだが、

世界平和に貢献すると嘘でも言えば世界中からの希望を勝ち得ることになる。その後にまた裏切れば済むことだからだ。

今年の9月は中国にとっては散々な目に合っているが、これも偶然ではなく必然であろうから、心苦しさが顔に出る前に最後の大博打を国連のスピーチで勝負することこそがギャンブラー精神というものだ。

人生はハッタリである。一か八かの名勝負にある。私たちは楽しんで生きること以外に全てはまぼろしであるからだ。






中国の目標は世界の目標、中国の若者は変革を起こせるか?

2015-09-27 | 日記
うすうす解りかけているパズルには快楽が付き添うものである。

米中首脳合意による「人民元の切り下げ回避」は99%の確率で守られることはないだろう。

習国家主席はホワイトハウスの会見で、「南シナ海は古来中国の領土だ」と主張するが中国に古来は無い。あるのは60数年間の古来だ。

また、とても大切な人権問題に対しても、「国により異なった歴史的事情がある」というが、人権よりも事情が優先されるらしい。と言うよりも中国に人権は存在しないと言っているのである。

中国は今、何をしているかと言うと、中国の歴史を創っているのである。嘘による偽りの誇りと混乱する歴史と文化をだ。

台湾の独立にしろ、沖縄の独立にしろ、チベットの独立にしろ、中国解放運動の誇り高い民族そのものの歴史なのである。

自己中心的な中華思想だけでは、ISの大義名分として標的になり兼ねないし、単純な理屈では優秀な国民としての自覚が少し足りていないと思われる。


現在の中国には優れた国家目標が必要だ。それも世界が大喜びするような国家目標が重要である。

自己満足によるものではなく、中国が喜べば世界中が喜ぶような共存共栄の理論が必要だ。

その為には、中国の若者は中国を変革できるかにかかっているが、もう一つ、華僑や華人による逆輸入による変革も有効だ。

何時の時代も変革や革命は逆輸入と自国の若者とによる共同芸術作品のようであり、

実際、若者は自分たちの生活が豊かになり、両親よりも収入が増えると強く信じているが、現実はお年寄りが裕福であり、若者たちは働かない。

中国の男性たちは奪い合うか怠けるかのどちらかにしても、その結果は女性たちが厳粛に受け止めなければならない。犠牲になるのは決まって女と子供たちだからである。

また、中国は内戦は今すぐにでも起きる可能性があるが、戦争はしないと断言できる。

なぜなら、中国は内弁慶で弱虫だからだ。祖国のために誰も命を捧げる気にはなれないのが実情である。

それに戦争に負けてしまうと現在の中国本土が万里の長城で北と南とに分断され、内モンゴルやウイグル・チベット、台湾などが独立して、中国には大打撃が待ち受けているからである。

しかし中国には核兵器が存在する。

その核兵器に勝つ方法は、原爆を投下されても絶対に降伏しなければ必ず勝つ方法論こそが女性社会論である。

仮に日本に再び原爆が投下されたとしても、今度は絶対に降伏しなければどんな強国であっても日本が勝つことになる。

確かに戦争は弱い者いじめだから、核兵器が必要なのは理解できると同時に、中国が戦争を仕掛けてくれれば必ず日本が勝つことは全世界の希望なのである。




中国人はハッタリがばれたら大笑いして楽しめばそれが人生なのである。

2015-09-26 | 日記
中国文化による中国人の人生観とユーモア。

人生は楽しむためにある。大嘘を吹いて自らが楽しむことは何も悪いことではない。

ハッタリの度胸。人生はハッタリである。ハッタリを楽しめない者にはこの世は生き地獄である。

私たちは時に大ウソを本気で信じなければ何事も大成しないように、所詮、我々は思い込みのエゴイストにすぎない。

どんな大ウソを吐けるかによって毎日を楽しく困難を乗り越えることも真実と同じく見る者の目の中に映る一つの美学である。

習国家主席がこれほどまでに嘘を平気な顔で言えるのには大きく3つに分けられる。

一つ目は、嘘と人生を楽しんでいることと、

二つ目は、子供が平気で嘘がつけるのと、

三つ目は、怠け者の知恵遅れかのどれかである。

最初に一つ目は、中国人自身、誰も相手にしておらずに、世界が親身になって騙されているだけのユーモアであり、

二つ目の理由は、子供は嘘が大好きであり、嘘によって自己主張し、自らを守る戦術であり、

三つ目は、本当は滅茶苦茶に気が小さく、気の弱い習国家主席であることは人相学に書いてある。

何にしても「どうして嘘を言うのですか?」と問いただすだけで中国はぼろ負けする訳だが、

大人としての責任追及を続けるだけで、子供は感情的に暴言を吐いて逃げ出す以外に責任は取ったことが一度もない。

実力が伴わない子供はなぜだか分からないが嘘を言う。嘘を楽しく能力は天下一だ。

最悪なのは、嘘を言いすぐて嘘しか言えなくなる習慣に陥ることであり、また同朋にいち早く相手にされなくなることにある。

何かと大声でせっかちに感じる中国人はその嘘がばれないうちに急がないといけない理由があるからで、何事も早い者勝ちだという信念に根付いている。

中国人から見れば何も悪いことはしていない訳だから、嘘がばれたら大笑いすればそれでよいのだ。犠牲になるのは騙された奴が悪いのだからだ。

世界は少々中国人を高く評価しすぎたようである。今後は口先だけに騙されずに説明責任を文章化することで対応する。

賢い華僑や華人たちは分厚い契約書を常に用意するように、中国を信じていないことの証明書である。

中国人を今以上理解すれば中国人と楽しむことは容易のはずだが、実際は中国人を心のどこかで馬鹿にしているから中国人に騙されているのである。

元々は中国人も朝鮮人も日本人でも、勃起すればあそこがカチカチに固くなる人種である。

大きさは欧米には敵わないかもしれないが、ともかく同じカチカチの生殖器を持つ人種であることに誇りを持つべきである。

カチカチとデカちん、人生は楽しむためにあるのだ。




理想の中国、偽りの中国。

2015-09-25 | 日記
中国人が優秀なのは華僑、華人であってそのことは華僑、華人が認めている。

その理由の一つに、中華料理である。世界中、どこで食べても美味しい中華料理だが、なぜだか中国で食べる中華料理が世界で一番美味しくないと経験したことがある人も多いことだろう。

有能な中国人の料理人が世界でしか活躍できないのも理解できる。

習国家主席はシアトルの演説で「中国は一貫して国際法と国際基準に基づき海上と空中の安全維持に努めている」と主張しているようだが、

アメリカ合衆国に来てまで連続して嘘を突き通せるとでも思っているのだろうか?

中国は中身のないハッタリで勝負する文化だから、その責任を取らせれば分かるように、笑って逃げるのが常套手段だ。

中国は自国の通貨発行権を駆使して賄賂で幸福が買えると勘違いしているが、

ボーイング旅客機の最終組み立てにしろ、インドネシアの高速鉄道にしろ、それが本当に売れるのだろうか疑問である。

メイドインチャイナの旅客機や高速鉄道に大切な家族を乗せられるのだろうか?

中国人がよく働くのは女性たちであって男性たちではないから、中国が世界の工場とはなれないように、お金でお金を買うボーイング300機は、今後の中国が失敗に次ぐ失敗でハイパーインフレに陥って終わるのは目に見えている。

習国家主席の演説を聞いて分かることは、重い通りに行かずに急いでいると感じられるところから、どうやら中国国内情勢はいまだピンチが続いているようである。

習国家主席はしきりに中国13億人市場をアピールしているがそれは明らかに他力本願だ。中国が世界の問題を解決することにこそ意義がある。

中国の理想は人類をがん細胞にすることではなく、国際法と国際基準を守ることにあると習主席自身がそう言っているように、嘘つきには用はない。

世界の問題に取り組み、独自の文化で解決していくことに中国国家の価値がある。

中国が悪者を引き受けたいのならそれもいい。正義の維持には悪役の活躍が必要だからだ。

アメリカ合衆国は全世界に平和と安心と安全の為に、武力を使わずに正義の行使を行うべきである。それこそが世界中の人々とアメリカ人の誇りである。

そのために、オバマ大統領はジョークを持って中国の嘘を制してもらいたい。オバマ大統領が出来ないのならトランプ氏に代わってもらっても差しつかえはない。

選ばれし大統領の最後の使命は笑いを持って締めくくるのが理想である。

中国がアメリカ合衆国と対等であるとは誰も信じていないのだから、アメリカ人のレベルの高いジョークをぜひ、披露していただきたいものである。


習国家主席は嘘が悪い事だと考えていないから教えてあげてください。

2015-09-24 | 日記
今や世界で暮らす優れた中国人たちの信用を失わせている習国家主席であるが、

嘘つきは中国人の始まりだとか、中国人を見かけたら全てを疑えという世界認識がどれ程正しい常識かということが、今月28日の習国家主席の国連演説で証明される。

全世界が中国による国連演説による嘘を楽しみにしている訳だが、問題なのは、私達が中国に対して正しい認識がなされていないのと、思い違いと誤った中国認識による混乱が何よりも問題だ。

実際、優れた華僑、華人たちは中国に帰りたくないと言うように、新たに遣ってくる中国人に対しても毛嫌いしているのが現状だ。

中国4,000年の歴史どころか、中国はまだ60数年間の歴史であるのだから、私達は子供をあやす様に中国と外交するべきである。

そう考えると、モンゴルやチベットの方が中国よりもお兄さんなのだから中国支配には子供を監督するモンゴルとチベットが相応しい。

世界認識の過ちは、子供には自由が与えられずに管理が必要なのだから、中国による支配ではなく中国を支配する事が先決なのである。

私達の目的は世界平和なのだから、中国を支配することは世界中の望みであり中国の為でもあるのだから世界が一致して中国を支配することはWIN.WINとなる。

どの道、中国は中身のないハッタリなのだから、そのハッタリに騙されてビビっているのが私たちなのである。

中国人自身、ハッタリがばれたら大笑いすれば良いと考えているのだから、ハッタリにはハッタリではなくハッタリには責任追及を持って制する。

また、弱い者いじめが得意な文化だから、中国に対して弱さを見せては決していけない。子供は甘やかすと調子に乗るように、躾にはアメとムチが必要だ。

AIIB子供銀行にしても、子供に必要なものはお金で社会を買収することではなく、知恵と工夫と改善が大人の対応であるから、お金とハッタリだけで世界を支配できると考える幼稚な国家にそろそろ私達は気づくべきである。

いずれハイパーインフレになるのは日本ではなく中国だから、中国に必要なものは思いやりを持って助けることではなく獅子に相応しく子供を谷底に落とすことである。それでこそ獅子は一人前の大人になれるのである。

世界が望んでいる中国の真の姿は優れた中国文化による芸術的な発展と世界平和への貢献にある。

その為の中国に大きな期待が寄せられている訳だが、現在の中国は未だ幼稚な獅子であって世界が期待する中国には程遠いのである。

私達が大人だと他人も大人と勘違いしてしまうが、ついこの間まで眠っていた獅子なのだから、大人に成るにはまだもう少し時間がかかるように思われる。

理想の中国は、東洋文化と西洋文化の統合による誇り高い民族性を持って世界平和統一の夢を実現し異質で新しい文化交流を世界は期待しているのである。



混乱する現代社会の悪習を断つには恐怖からの解放により脳が活性化される。

2015-09-23 | 社会問題
一度、身に付けた男性社会の習慣性を変えるには日常生活を目茶苦茶楽しむこと以外に方法はない。

全人類の大問題を一つにまとめてみるとこうなる。

「私達は地獄に堕とされているのだから、この世界は共存以外の征服はない」と。

そしてその極論はこうなる。

「死は神からの贈り物であり、死は自の為の死である」と。

最初は混乱するかもしれないが、これで全ての問題は解決し、脳は進化する。


あらゆる習慣の総体性という固定観念にとって、毎日の常識による習慣の惰性という観念は、もちろんそれを遂行できる頭脳を挙げる事は出来としても、それ自体としては可能な潜在能力を損なわしている。

逆に言えば、実在の極度な濃縮が不可欠な状況で、死の恐怖による限界概念が問われるのは、これは空間と時間の生存本能のもとでは禁じている事実上の無制限な逆方向に連続の負のエントロピーとして導入されているところに存立する。

悪意の反復による習慣性の道へ導く、下位文化の局地を残しておこうとするものである。

恐怖における同一のものの反復という説を明確に用いる事を避け、結合法に客観的な妥当性を禁じているのは、負の実在とか恐怖の規則性の延長線上といったこうした無意識層によるものである。

女性の感受性の豊かさが歴史的にまったく感知されず発展されていないことこそが大問題である。

表層の下にあるこのような不確定性は、それ自体まだ、社会が幸福ではない出来事の中で世界状況を徐々に改善する可能性にすぎないし、変化の質についてのその進行構想の証明は、この考慮からしか出てこない。

この考慮を超えるものは、本能解釈や連続体のエントロピーという定理ではなく、むしろ最悪を想定して最善を尽くすものについての理論に属する。

すなわち我あるもの、あるいはまだ我でなきものともこれから我するものと即、我なるものから我々としてなされるものとである。

世界がエネルギー保存則から成り立つようであれば、それは理性原理に伴った歴史ではなく、カオスと矛盾を拡大させてゆく。

波動方程式は、かつてすでに存在したものを通り過ぎることの全ても、それを新たに確認することも、因果律秩序の最高傑作を保証する方向性であったかもしれなかったし、全体を統合するものが、そこでまったく考察に入れられないと言う理由だけからも、それは理屈なものでないということも証明されている。

飛躍的な改善への画期的な期待を考慮すれば、世界進行においてしばしば明らかに出来ることも見て措かなければならないように、我々はより大きな因果律で進歩するために時々は回り道をする。

意識が自己形成し、自己主張せざるをえなかった地場を取り囲む両極を、このような直観的に社会に貢献することが出来るのは意識のおかげである。

世界をその因果律から可能性の中で最良の現象として把握できるとされる時、その世界の事実的な社会現象を合理的にするものを身近に見つけ出せれば誰も文句は言わないだろう。

仮に世界はユーモアという次元でより良いものになれるとすれば、幸福可能の中の最良の一つといえるだろう。

これらはあらゆる原理の中の原理から生み出されるもので、これによって想像上の死の恐怖を三つ折りにして世界公式の所有に博物するなら、必然的に歴史予測の混乱が解消される。

たとえそれより良いと考えられる世界、さらにもっと良くなれる世界があるとしても、逆説というおもしろさは、同一のものの回帰のいかなる予測も覆す究極のおもしろさである。

習慣が男性社会以降の前提に立つように思われる限り、監督するという怪しげな非合理性が含まれており、またそれらしく負のエントロピーを膨張させるような社会現象のみを正当化する因果律も含まれている。

より良くなるということは、現在ある世界が今ある姿よりももっと良いものかもしれないという可能性に希望を膨らませられる場合にのみ、現在ある世界が今ある幸福を膨らませられる世界という定義に変わって、矛盾社会に光をもたらす。

事実的な世界をその世界自身ではないが強制的にその世界に導く死の恐怖の結果として把握しようというあらゆる思い違いの原型、すなわち分析と結合の関係としてあらゆる近代の理論に含まれている思い違いの原型なのである。

死の現象を恐怖だと思い違うことは、現象の恐怖を自己矛盾に陥る危険性がある限り、たとえそれが日常生活に親密で長持ちする悪夢だという恐怖の疑念を抱いても、より高い観点から基礎づけられた真理による考え方が世界観、人生観を新しくすることが可能なのである。

恐怖を支配する者にとってはこの事態を不愉快に思うことだろうが、男性社会の闘争本能はその支配者を手伝って、支配者が興奮する事実を表面に出さなければ習慣的な変化を持ち出して因果関係に主権をおかざるをえないだろう。

死の恐怖から逃げないその直観性と呼ぶことが出来る叡智は、この世の唯一の絶対による規則性のある死の恐怖の形式を崇める世界観を放棄しなければならないのである。



疲れる男性社会とほんのちょっとした女性社会は毎日を二倍に楽しむ方法論。

2015-09-21 | 社会問題
神であれ、仏であれ、聖人君主であれ、万物の中で最も影響力を与える者、世界の創設者、社会システムの監督者は、女性が宗教的にも自然法にも深く通じているのであるから、女性の一生のそれぞれの役割もしくは世界統治者は女性が相応しいと考える。

神秘の究極をなす死生観の極意についての教えであっても、まず第一に女性が理解すること、女性の方が生命に親しみやすい以上、男性社会に足りないものは、失う命にとって、恐怖はお祭り騒ぎのように、恐怖から利得を得ていては、さらに恐怖へと墜ちていく。

不調和音な共鳴や死の恐怖による秘密の彼方に解き明かされる真理に耳がわずらわされることのないように、人は人生の重荷を投げ捨てるべきではないし、旅立ちの後は再び故郷に舞い戻るべき約束の地がある。

また恐怖に際して過去を振り返るべきでなく、恐怖の救済として歓迎すべきである。

貧民から大富豪に、右翼から左翼に、暗黒から光明に、男性社会から共存社会へ、そして死の恐怖からの解放により良き部分としての幸福への進歩は、完全に自然的、母性的基礎に基づくものである。

女性思想の物質的基礎、社会活動が、その女性思想と男性哲学との本性での親縁性の理由であり、それはまたその理性を、母性本能なるものとの二重存在、およそ闘争本能なるものは、いっさい天秤に掛けられないまったく無条件に交わるものであり、日常生活や国家における万事は、闘争本能の目に見えるものと母性本能の目に見えないものとの共同的芸術作品であって、決して革新を許さない普遍の真理を冒涜するものではない。

女性の本来生まれ持っている尊厳を回復する女性権の守護者、女性の不可侵性の保護者、家族と国家における女性の高貴な日常生活の指導者である。

実際、正しく教育された女性は男性よりも遥かに優れていることが先進国では常識である。

異端な世界観が没落をもたらす最後の審判は再び人類を文明的な生活へ移行すべく克服した状態に連れ戻す。

母なる思想と創設者の創造物すべてを包み込んだ物質的、母性権と自然権とが一致する、指導的原理として普遍性にある生活形態へと変更可能にすることを考察することである。

正義の根源たる、共感に幸いあれ、自然権の果実たる成果に幸いあれ、救世の絆たる女性権に幸いあれ!

我々は何も所有していない、自然権に従い、不正を行わず、目的の正しさを一致させる努力の源泉に幸せな共同生活が待っている。

自然法の実証に関連させて、人為的な平等を伴う共同生活に社会正義を求めていくのもまた確固たる正論である。

最後の審判には初期状態へと省みる精神性に結び付いている。柔軟な宗教家は没落の危機にあってもう一度目を逸らしている意識を呼び戻し、真理の発展に気持ちを合わせることよって苦しみへと追いやられた民族、歴史世界の精神的発展とは長らく関わることのなかった民族を改めて戦いへの終止符を打つのである。

支配戦争と男性哲学の番人は、完全装備を身に付けた精神性に誇りを見出し、その破滅思想を想起させて突撃してゆく武勇伝にある。

物質支配と男性的精神との闘争は、個人の人間性の生活のみならず、全人類の生活をも貫いており、この闘争は人間の命の価値を規定し、およそ人間存在の浮き沈みを規定している。

勝者と敗者は互いに訪れ、繰り返し警戒と妥協を余儀なくされる支配関係と人権と主権と偽りの世界平和。

物質的原理に対する闘争を勝ち取ることが男性にとっていかに重要なことか、世界史に注目すべき最も完全な証拠を提供する。

その根本原因の提示は、それによっていっそう高い次元に昇るのに十分役立つものであり、自然の探究によりむしろそれに適したものであるという評価が、完全な真理だと思われるようになる。

男性崇拝的なものと、形而上学的なものとのそのような混血の元では、歴史の習慣的役割が結局のところ確実に混乱を促しているであろうことを証明している。

男性特有の勝つか負けるかによる二者択一的な観念、戦う本能原理が必然的に伴う人為的な階級社会と生活形態の基礎となっている。

資本経済にも密接に繋がっている宗教観念を持つ民族はどこも、純粋な力関係の男性勝利を獲得し、人類の為にそれを永遠に確保する用意は万全に整いつつある。

男性たるゆえんという社会構造には、物質主義の破壊に基づくものであって、その発展段階の純化を繰り返すだけで良しとし、後はいかにして正当性を理由付けることが強さの証明となる。

社会を分割して統治する二つの体系を分ける裂け目は、男性社会の芸術的作品であって、女性たちには決して真似されることがない、究極の美学だと思い違いをしては、他にどうしてよいのか解らない不安定要素にこそ、現代社会の行き詰まりの原因があり、それが過去の偉人たちには克服できずに今日に至っている訳である。

それゆえ女性たちは一大決心して共存社会の構造を見出し、男性社会の優位性の理論に挑み続けるところに女性たちの生きる醍醐味がある。

男性は女性を元にして創られたように、男性が女性を元に創られるには女性はあまりにも複雑な構造であり、男性には到底理解しがたい能力を備えていると考えても何ら不自然ではないし、それに従うことは何も不自然ではない。

人類の同胞性と同胞愛は共通の一つの母胎に由来する基礎付けに反論するのも良いが、一人の父だけの力では到底到達できない高次の起源を対処することを重要視しているのである。

私達は共通の母なるもののお腹から誕生し、母性本能のよって育てられ、女性の真実という唯一の光を見出した愛こそ、世界統一論、人類みな兄弟説なのである。




啓蒙者たちが頭がおかしくなり自壊するのも男性社会では避けられない。

2015-09-20 | 社会問題
啓蒙思想による万人の幸福や救世に役立つ啓蒙主義者が万人共通に啓示された一つの真理に依存しうると感じるのは何も特別な力によるものではない。

いずれにせよ、あらゆる社会体制は古く妥協的であり、単に漸次的に次の段階までの間だけ総合的なものと認められるものなら、本質的にそのような正義で保たれた真理はもはや存在していない。

啓蒙は万物に属するが、常に明晰判明という状態に啓蒙主義者がいる訳では決してない。

世界侵攻が正当化されるのなら懲罰と報償の永却性は一掃され、あらゆる道徳主体には制裁と反省の機会が新しく分配されることもない。

男性本能による世界確信をあまりにも大きな脅威に対して女性達が従軍慰安婦状態をキープしていることを確認しておかなければならない。

女性達を守るものは一体何なのか。その答えを啓蒙は錯覚している。

持続性があって初めて出来事の連続を平和に保てるという問い、同一なるものの帰結の前提としてが、偏った日常生活を介して論じられることの意味が理解されずにいる。

人間の歴史の様々な結合による悪意のストックを平和で美しい社会に変わるには何年かかるのかは解らないが、現在あるだけの正義をどんなに繰り返してみたところで、そこでは常に、新しくてそれまでに聞いたことのないようなものが起こるか、あるいは過去の歴史の一部分が反復されるかどちからでしかない。

具体的な例を上げてみると、
一つ目は、哲学がアリストテレスによって社会を混乱し、
二つ目は、歴史学が大勢の命を奪えば英雄だと崇め、
三つ目は、神学が男性崇拝によって男性支配を強化し、
四つ目は、道徳教育が親の言う事を聞きなさいと言って子供を道具化し、
五つ目は、医学は次から次へと訳の分からない病気が多発し、
六つ目は、親兄弟は仲良くなれずに必ずどちらかが犠牲を強いられ、
七つ目は、科学は負のエントロピーによって矛盾から逃れられなくなり、
八つ目は、心理学は人をコントロールすることに快感を覚え、
九つ目は、経済学は貧困を上手く管理する事で巨富を得るように、
これらは全て男性社会の失敗作の一例である。これでは啓蒙主義者たちが頭がおかしくなっても仕方がない。

解決策は単純明快である。男性に主導権を握らせずに、全て女性に置き換える。
具体的に例を上げると、
一つ目の、哲学による社会混乱には、女性哲学の確立で応戦し、
二つ目の、歴史学の偏見には、歴史の二面性を公開し、
三つ目の、神学の思い込みには、女性こそが愛に相応しいと再確認し、
四つ目の、道徳によるすり込みには、子供は自立を教育し、
五つ目の、医学の理不尽には、自然の神秘に挑戦を続け、
六つ目の、親兄弟の喧嘩には、闘争本能を正しく管理し、
七つ目の、科学の矛盾には、女性に役立つ科学が世界を救い、
八つ目の、心理学による友達が居なくなる理由が明確になり、
九つ目の、経済学の格差には、男女の格差に比例する。
これらは全て女性社会の成功例である。このことで解るように、男女共存社会の重要性が明らかになる。

現代社会の混乱を容認しうるためには、正義の持続性を人為的管理および黙示録的に制限する考えの全てを執拗に排除するだけである。

行為という観点から人間の段階を観察すると、意味構造を持った連関の直観的な複合体が生じている。行為は主体の特性に他ならず、その概念の説明であるとしても、主体ほどは個別化されたとしてもどれも同じ行為にしかない。

それゆえ一つ一つの現実社会はその可能な幸福の限定された類型を含んでいる。

世界にはそもそも平等という概念が存在しない。あるのは力と美しさの調和である。

実際、国境が全体として数多く存在していて、世界はそこで差別する不変命題の絶対的な前提のもとで決定され、その上で全体として見て初めて内部の統合だけを形象することに気付く。

誤った形而上学から導かれる啓蒙思想からすると、叙述するときに真理や完全性を最終的に偏った要求でもって正当化されるような世界観であり、歴史哲学が用いているのは、単にもくろみや熟考の結果としてではなく、神学がその直観性の為に避けられないある種の不正解さであっても、科学が戦争から発展し、道徳が本質から離れ、医学行為を出来事の現象と同一視する対象の理想と誤解し、親兄弟を放置するような不正解さの周辺には思いがけないほどの多くの言い逃れや変種した危険が残り、それが世界経済の大きな進行の中で洗礼された競争合戦をすれば新しいものが現れてくるはずだとしても、啓蒙思想の啓蒙主義者にとってやはり男女同権の社会が反復するのではないか、という期待を抱かせられるならば、少しは頭の中が楽になる。

なぜなら、啓蒙に対して洗礼されたものを欠いて取り込みをする時には、現象面の背後にある不完全で未熟な社会現象の枠組みの中にも結局は見誤ることもないほど全体の進行に対する差異が蓄積することから解放されるからである。

世界啓蒙年代記の大規模に計測された啓蒙思想は、そこであらゆる逆説可能性が終始して、世界が唯一のものの総体であるということから意味を得ることを始めるような段階を、歴史の二面性から照らそうという意図を叶えてくれる。

人類は現在あるような形では決して永遠に存続することが出来ないと言う仮説は、進化したものは結局、人間という種において自由に行使し続けた本能原理による感覚機関を一度破壊し改良し改善することになるという、ここに行き付く。

啓蒙において実現されているような形の知性は、現代を超えても存続するだろうし、過去の社会生活をも超える事実であるし、本能原理による感覚機関の単純な判断できる現象の環境とはまったく逆説的な真実を把握する能力が解放されることだろう。

そうなると世界啓蒙年代記をまったく現代とは異質なものにしてしまうようなグレイトマザーが登場することになる。

世界全体の啓蒙思想は、それが最良の世界として凌駕可能であるという証明性からのみ現れる。

誰もが幸せで有りたいし、充足律に逆らえる者もいない。これに逆らうのは暫定的には男性の弱点にすぎず、反社会的な男性たちが浮き彫りとなって最後の抵抗を繰り広げては再び世界大戦の危機となるやもしれない。

その時に現れる女性こそが救世主であり、それを支える者たちが救世者となり、伝説の預言が到来する物語である。





常に誰かと戦っていたい男性社会では、弱さを見出し責任を追求すれば全て幻と消え失せる。

2015-09-19 | 社会問題
男性が持って生まれた戦う本能、戦闘能力には大きく3つに分けられる。

一つ目は、爬虫類的な残忍で残虐行為による感情も理性もない目茶苦茶な戦闘能力と、

二つ目は、感情動物的な欲求による衝動的で自己中心的な戦闘能力と、

三つ目は、戦うことで存在価値や存在意義、自己能力の高さを証明する戦闘能力である。

どれも男性にとっては闘争本能であり、一生付き合っていかなければならないものだが、

それを理解しルールに法り、女性たちを巻き込まない戦闘と、自己破滅的で反社会的な戦闘には、どちらも同じ制裁で良い訳がない。

女性たちは気づいていると思うが、男性の弱点である、「責任をとって」の一言は男性たちを沈黙にする。

どのような道を歩むにしろ、常に誰かと戦っていたいのが男性本能だから、いつでもどこでも戦いの場と戦う敵を用意して置くのが最良のテキストであり、最大のプレゼントだ。

実際、多くの男性はそうだが、戦闘能力の半分はハッタリで戦っている。だから、強い者とは戦わない。安全な範囲でしか強くなれない。

そして何より重要なのは、真の強者は自分一人だけで勝利を治めてもつまらないように、チーム全体で勝つ事に喜びを見出す。

戦闘能力が優れている者は勝つ事は当たり前のことだから、より強い者に惹かれ合い、また、戦っている敵を見れば自分自身の戦闘能力の高さが解る訳である。

男性達が多くの闘争本能的な現象の中で、母性的な本能とことなる発展を希望しているが、男性との統合の原理が社会には必要な用に、男性の側には戦争、不和、暴力行為が内在し、女性の側には統合、友和、平和を望むものである。

闘争本能原理の不確定要素から生じるその他の帰結の一つに転じるてみると、生命の創設者を全て包摂する自然法とこれに対する女性的な正義は何よりも女性の徳とされ、それは男性の本性と矛盾するがゆえに、男性の本性に直接移行することが出来ないものと覚悟しなければならない。

もうすでに色んな角度から見てきたように、この命題は人類の歴史的発展の中に根拠と証拠を開示しているが、女性人権の搾取的な乱心者である危険性があり、この不正義は全ての男性本能社会が今日まであるかぎり、必然的に全ての弱者を支配し、また人とも動物とも爬虫類とも等しく密接な関係にある肉体的、感情的な行動にもまったく完全に一致していることは動物哲学で証明済みだ。

全てのものの全てのものに対する戦闘能力、そして理性を持たぬ動物たちに備わる闘争制御本能、そして母性本能に正義を介して自然の相互関係と共同関係を生む人間社会の制御本能。

人間社会に有効な友愛関係は生活共同体に持ち込む術はたった一つしかない。理性による母性的概念以外に男性本能には見当たらない。

厳格な主権や品位ある人権、自由ならびに民主主義の促進や、また経済発展の目標でさえも、もっとも純粋な母性本能、そして万人との合一もこうした自然法の考えに基づいている。

実際、母なるものを共通にする民族には、母国の為に助言し行動するよう心がけるべきであると、同一国家の市民にとっての友愛と協調の法律命令もこうした自然的な考え方に基づいている。

母なるものの喜びである感性、本能的世界の真の健全さを形成する協調の共同生活、全ての有機体の共存的同質性をもっとも鮮明に表現する絆、現在ある社会正義にいっさいの文明を動かし得る唯一の原動力とみなす社会正義の第一次的な担い手は女性たちに掛かっている。世界統一の樹立には女性たちの力によるものと断言できる。

世界平和の繁栄には全て、女性たちの崇高な領域に由来する母性的な運動に起因する。

法権制度は闘争支配と婦人制原理をよく理解し、高次の美的で芸術的な生活習慣の発展へと、古い闘争支配体制からの発展にさらにレバレッジを効かせるのが有効である。

現在のこうした闇の歴史は男性本能社会にとっては魅了してやまないものなのである。




不完全な社会では男性たちの可能な幸福の追求による貢献度は評価である。

2015-09-18 | 社会問題
最高可能な幸せのうちでの最低可能な幸せ。

男性社会が生み出す社会貢献には確かに良い所が沢山ある。女性だけでは達成出来なかった人類の進歩も男性たちのおかげでもある。

幸福確率と呼ぶとすれば、単に物質社会だけではなく人類の科学や文明の成果に関しても差別的な最終的な結論には成り得ないと言う希望である。

とりわけ男性社会の膨張な浪費も無駄ではなく、何かと女性達に役立つものに変えなければ男性社会の唯一の汚点となる。

もっと広い意味で同じように無意味な現象は一切なく、ここには私達が考えている以上の英知がある。

近代の世界不信を背景にすれば、この現象は人間的なものの無差別の防止と呼ぶことが出来る一つの要素によって回避される。

女性達が団結して声を上げればそれだけで男性たちは変わらざるを得ない弱い一面を持っている。

自己充足には、自らが完全存在としての世界根拠の理由と同一だと考えているのだが、それが成立するのは、現在の現実があらゆる可能性の中で最良のものと同一であるということだけではなくて、それを超えてさらに、これが幸福可能のうちで最良の幸福であるには、その空間と時間の関係において常により良きものになり得る場合だけ、つまり社会発展の総体である場合だけであるということも含んである。

自らを善とする可能的な正義と理解のある女性の他の人格に対する関係を前提としており、共存根拠はすなわち対外的で表出的なものであり、男女二つの人格は相互の知識、相互の交流の欲求において結合されるもので、あるいは結合されるべきものとされるからである。

この男女共存社会の真理の全ては基本的には普遍的な真理である。たとえそれが無限な知性において事実の真理というだけの役に立たないものとして持ちこたえないとしてもである。

これによってたしかに事実的な考え方は大きく変わるかもしれないが、これは単に暫定的なものにすぎず、その幸福可能な性質によって男性にとってもいまいましいものでは決してない。

新世界で考えられる新しい概念は、かつてコペルニクス的概念のような新秩序を創造することが出来るのも理解者がいてこそかもしれない。

幸福可能の無限性と偏った現実の質量を合理的な関係に於こうと決意するだけで、現代社会はすっかり過去のものとなる。

そのためには新世界創造に向けて普遍性と現実との新しい体系化を適用するという帰結しか更なる幸福の追求はないようである。

合理的な選択肢は決定論と呼ばれているが、そこにあるのはただ条件を満たす社会体制だけである。

可能な幸福の中から選ばれた現実成果を支える理性は、もはや自らの手で意向を伝える事ができるような一つの主体の理性だけではなく、希望の理性であって、無謀性が保証されたものでもない。

いずれにせよ採用される共存社会がそれでもあらゆる願望を満たすものではないように思われるとすれば、その理由はただ、その社会の現実はたしかに個々の対象を基礎づける原理に適っているかどうかだが、それだけではなくてさらにその全ての対象の空間的、時間的、人間関係的な互換性の原理にも適っているのかどうかである。

幸福可能のうちで最良の社会はそのあり方だけではなくて、それが存続可能という事実も正当化するということが暗黙のうちに理解される。

その男女関係の折り合いが上手くついていたとしても、それだけではまだ個々の要素にとっての有益性ということにはなりえないのは現実世界が証明しているように、自然にだけ任せていては上手くいった試しがない。

私たち人類が存続する限り、それは幸福可能なもののうちに最良の世界なのに偶然性を保持しているのが問題だ。

現在は合理的なものに非合理なものが含まれる。合理的な社会と言えば誰もが無言になっていく。

人類史上最高位にある真理概念は、現在によって特別扱いされる世界観であって、幸福可能の無限性に直結しているから、普遍性が地球の永遠の真理の最終基準になるのは当然のことである。

いつの時代においても妥当するものが必然的に幸福であり正義とされる。この絶対的真理概念を成立させられる者には大いなる名誉と誇りが与えられるのである。

なぜなら、偏った幸福論の世界秩序に対して可能な限りこの世にバランスをもたらす者だからである。他の単に可能性であるだけでの理論などではなく実行可能なものだからである。

このような概念は現在あるものだけを排他するやり方ではなく、付加価値の高い社会であってもちろん男性をも優遇する。

真理があらゆる共存社会において妥当性と同意性を追求できることによって男性たちの重要性を失うと言うのは奇妙なことであるから、現実には男性たちの力が一役買うことにもなるし、今後も男性たちの力が重要になる。

唯一絶対的な法則が適用されるのは現実世界の中だけ、楽園社会には無関係であり、それゆえまた不幸に値することと幸せとの適性な対応関係を生み出すことが要求されて期待されることも過去が歪であればあるほど幸福確率の割合も大きく指し示すようになるからである。

歴史が不幸であるほどに、新世界は美しく感じるものであり、偏った幸福論では後で苦痛を2倍にする。



安保法案の次は消費税反対運動かな?問題が無くなると退屈するのは悪い癖。

2015-09-17 | 社会問題
世界中が認めている安保法案成立は二つの考え方があると思います。

一つは、シールズと反対野党と何も考ない国民の為に今日中にでも成立させて肩の荷を下ろさせて楽にさせてあげることと、

もう一つは、たいした問題ではないし、見ていて「平和な国だな」と感じますからギリギリまで引っ張ってみんなで楽しむやり方だ。

どちらにしても問題を解決すれば次の問題が起きるだけですから、阿部総理大臣の好きなようにすればいい。

シールズの反対意見はともかくとして、学生運動は大賛成です。

なぜなら、流行はいつでも若者が生み出すように、女子高生にしろ、女子大生にしろ、もっと流行を生み出すことに大人は手を貸すべきだと考えます。

その反面、「サカキバラ」少年Aに対しての大人の対応がまずいと見えます。

なぜなら、出版は自由で良いのですが、被害に遭われた方々と社会に対しての対応が良くないからです。

具体的な対応は、見せしめです。出版したのは大人に成ってからなので社会に与える影響には自ら責任を取らなければなりませんし、重要なのは、同じ犯罪を繰り返さない社会を作り上げることが亡くなった子供たちの為でもありますし、被害に心を痛めた方々の感情への配慮と、本人の自己責任が自己成長の証であり、社会や双方にとってのWIN・WINであると考えられます。


それと、安保法案が終われば次の問題は消費税反対運動かと思いますから、こちらの方が大問題です。

その前に、安保法案成立した暁には集団的自衛権の行使の筆おろしとして、沖縄反日活動家を国家テロ対策にし、沖縄米軍基地を自衛隊がテロから守れば、アメリカ軍は日本との同盟に心から感謝するでしょうし、東アジアの安全保障にも貢献できる。

積極的平和主義には若者たちを戦争に行かせない為のものですから、小さな火は大きくならないうちに押さえ付けるのが国民に犠牲を出さない方法だ。

そのまま、アメリカ軍と韓国軍と一緒にフィリピン沖のシーレーンを解放しても良いのではなかろうか。まず無理だろうけど。

とにかく、自衛隊の強化はいつ何時、在日に国家を奪われてもクーデターを起せる体制は作って置いた方が、2,000年続いた天皇を守る為にも重要だと考えます。


地獄に堕ちる方法は、聖戦による母殺しが一番の良策であり、社会のレベルもここにある。

2015-09-16 | 社会問題
死の恐怖を煽るテロに端を発して自然は死を優遇しようとする総体として、怠け者の心理が隠されている。あの世は神と無限性を間違いなく指し示すというそれである。

テロに参加する理由は様々だが、その理由の一つに厳しい現実社会から弾かれた怠け者が生きる為の行為にテロ活動で充足感を得るやり方である。

問題なのはその資金源である。金持ちの玩具にされる宗教闘争には自らが巻き込まれない為の作為が込められる。

世界は広大な戦争ロマンについての驚きから抜け出せず、ほんのわずかな結論だけで満足して、生死を生み出した創設者の為に全てをそれで片づけてしまうような、思想の停止した慣習の世界情勢に誰もが不快感を持っている。

人間の知識や自己主張や道徳的ですらないものは、現実で満ち溢れた死の恐怖という回り道がなければ、例えばほとんど同じ時代、一か八かの博打のような、希薄な動機にすぎない衝動にしかなれないだろう。

世界を動かしている最大のパワーは死の恐怖以外、なにものでもない。このなにものでもないものに打ち勝つことこそが現代人の使命だ。

神学の隠れた神の時代に人類学の隠された人間の時代が続くことについては別の兆しがある。

生命に与えられている死の掟には、死は自らの為の死であるという真理である。私達はいずれどこかで死に挑む訳だが、その死は決して神からの嫌がらせではなくして、神からの贈り物なのであるという真理である。

真意の申し子である死の恐怖を避けるという単に生活を可能にする為の現在の表現は、私利私欲の滑稽さに転じてのた打ち回る、人為的な独特の規制という権限を必要とすると同時に、絶対思想による恐怖からの解放が必要となる。

対象を曖昧に表示して、人間をその他大勢と呼び、衝動を群集心理と呼ぶやり方に慣れ親しんでいるのが現状だ。

重要なのは、常に自分をはっきりと表現しないままに解ってもらって、羽切の悪い内容の判断は後世に委ね、その曖昧さを歴史のせいにすることで感情を納得させ、不確定なものに導かれて曖昧さの集団の中に引き込まれていてはならない。

頭脳社会は自然原理をほとんど覆い隠すかのように立ち塞がっているが、こうした不信感はそれゆえにこそ無限の為に有限を諦めるのを阻止する力にはならず、潜在的にはいつもこの有限の諦めを推し進める方に働くからである。

処世術には全ての物事の漸次的な折り合いとつけることに手を貸すという意味で別の認識が出来る。

正直であればあるほど欺瞞的であったり、優しくすればするほど裏切りに合うこうした現状をも結局は、偽りに変えてしまう絶対思想の前に立てば、結局は自然理知に間違いはないことになる。

生きる情熱は死に対抗するエネルギーでもあり、それゆえに最も多く与えられた恐怖は偽装のパワーであり、それどころか実際は死の恐怖を利用す者こそが現代社会の真の支配者とされている。

命の誠実さだけでは世界の欺瞞に対する処世術とはなされない。真理とつきあうには極度の用心深さを要求される。

たしかに自分の命は信じて良いものだが、それと同時に死を持たない生命は封印された手紙であり、真理の意図は死の純潔である。

人生論は基本的に神の模擬、人間社会は神の悪用にある。それゆえ人々に死の恐怖を推測させて不安な状態にする地獄のシステムを模範せよと言われても驚くに値しない。

あたかも死的な処刑など存在しない、あるのは見せしめでしかないように死的な感情は人間的な手段を用い、また人間的な手段など存在しない死的な手段を理解することが重要である。

偉大な最高規則は一見すると、はじまりつつある近代がほとんど神がいなくても自らの妥当性を保証しようとする自然法の定式に見られるような、一つであるように感じ見られる。




男性生活に貢献する道徳教育が本当に正しいと断言できる社会体制に異議あり。

2015-09-15 | 社会問題
女性美の世界一を決めるミスユニバースにしても、認識の機会でしかない美女モデルたちは、女性立場が実際にどうなっているのかということを、伝えようとする純粋に理論的な立場には何の手がかりも与えていない。

美女たちを不安定な環境に追いやって男性たちに奉仕させる賢いやり方は、そのうち、神さまと女性たちの怒りを買う。

現実はそのような純粋な理論家ではなく、女性たちに対して搾取的なものである。

男性が決める世界一の美女は良いにしても、女性が決めるミスユニバースには思想があり、女性たちが決めるグレイトマザーにこそ大いなる価値がある。

現代社会の欲求はこう言って良ければ、男性本能による欲望社会の仕事ぶりを監視することを放棄し、自らが快楽を得られるための万能システムの出来栄えを自負し満足しているようである。

それゆえ女性にとってはそれがどのように男性生活の役に立つのかという道徳的確信だけで十分なのである。

全体としての自然権と宗教の完全性およびそこから帰結される人間に対する社会恐怖の真実性という教育で形而上学的な前提のもとに考えさせられ混乱させる不完全な方法には弱者と女性と子供たちが犠牲となる。

確かに犠牲は付きものかもしれないが、生贄になるのは決まって美しい女性である。その理由は何なのか?

私達の理性にとって最も好ましい問題解決が現実に選択される正しさであることを証明する為には、道徳の完全性からの良心という原理ではあまりにも弱いと考えていたとしたなら、これは評価すべき認識論的譲歩であろう。

宗教道徳には頭を曖昧にさせ、つまり偏見で満たさなければいけないように、大自然の規則性が社会正義に結び付くのは、直接の接近を妨げる人為性に対立する美しい道徳性による正しい規則性である。

真の宗教家や道徳者は自然という巨大な良心の中に真理を見出すものであるが、現代社会の道徳観念の目指すところは慎重に注意深く取り組んだ倫理の成果は仮説の形式でしか提出されていないのが現状である。

古典的方法論に調整された道徳は社会性の形式を帯び、また科学史とは呼ばれないものの、それ自身は一つの歴史なのである。

道徳教育でより重要なのは、母性的な自然という人間性の良心による信憑性が間接的なものでしかないということに問題がある。

新時代の自己認識に問して決定的となる自然認識と科学技術、所与のものと創られたもの、生死と構築を同値するには男性道徳と女性道徳の混血が救世者のようになる。

道徳と倫理の両者とも、現代社会の摂理の為に働いているとしたら、そこにはまだ混沌があることに気付かねばならない。

たしかに道徳と倫理はそれぞれ特殊な社会体制を創り出しはしたが、現代社会の欲求の産物以外のなにものでもない。

現在する現実への人間性、共存的な関与の価値を引き上げようという一連の動きの一つには、男女の英知の結集がいかに重要かなのである。

それには啓蒙主義者たちの救済と女性たちの協力によって統一観念が浮上するやり方で示される。

道徳による命令と倫理による掟が教育支配として現れるのは、もちろんその必要性がそれ以外の根拠付けられずに、命令のように見えるものが永遠の真理と見なされる時だけであって、変更可能な道徳は法律と同じく成長していくものである。

というのも、そうしなければ服従は、女性だけでは生きられないような認識から生まれる男性社会に移行するからである。

真の道徳的認識だけが、歴史的、事実的に服従の要約を表明してきたものと同じ組み合わせの中にその源泉を持っているのかもしれないという考えを好むあらゆる傾向とまたもや相まみれてしまい、現代道徳を破る者が現代社会の勝者に成り得るというおかしな社会現象ということになる。

道徳にせよ、倫理にせよ、宗教観念にせよ、正しい教育の重要性はその実態が精神に影響を激しく受けさせる恩恵の前提とされているところにある。


古典支配では我々人類はどう良く見たところで、西暦2,000年くらいで人類が滅亡するだろうと言ったノストラダムスの預言はまんざら当たっていないとは思わないし、古くは労働支配で始まり、現在は教育支配という歴史段階にあって何とか人類を維持しているように思えるが、もう少し楽しく美しく生きられる世界概念を持たなければ、現代人らしさが発揮されないどころか過去の偉人たちとの繰り返しによる何の因果によるものか解らず、現代人の生きた証を残せないままこの世を去る歴史物語では少々、つまらない一生であって、どんなに本気で欲求を満たしたとしても充実されないまま「はい、さようなら」で終了するのが本当に正しいのかを考えなければならない時期が来ているのではないだろうか。




人権、主権、民主主義でさえも男性支配では自然権に反しているから無効とする。

2015-09-14 | 社会問題
自然権をありのままにしておいては、恐怖社会の実現となり得るように、押し付けたり、引き延ばしたりせず、知ったかぶりや偏見で自然権を行使する者が社会生活の邪魔をするように、自然権は国民からその歴史を物語るというのが経験論の基礎理念である。

啓蒙の可能な事実性という考えを極度に先鋭化されたものでは、そのやり方は決して斬新的なものではなく、今あるもので考える漸次的である。

ここで重要なのは、自然権には万人向けというよりからは、玄人向けの思想哲学が欠けており、それが鏡となって、自然から何一つ付け加ない無私の仲介者だということからしか正しくは得られない。

いつだってただ同じ鏡像、同じ影響で、何も新しいものは付け加えず、ただ反復し、学習させるだけで終わらせるのではなく、その強い哲学者が行う目的は、自然が知らせるものをできるだけ忠実に、自然が表象したことをそのまま真似したもののように再現することだけなのである。

正当化には自然についての知識の拡大に対して思想家が明らかに示している関心事である、一方の古典哲学が服従と屈辱を要求する国民思想の全てをまとめているのに対して、他方の古典哲学は逆に弱者思想が克服させることができるものの全てを包括している。

人類の理論を新しく正当化するのは、支配社会との構成的な関係としてのその不純性の暴露と、その暗黙の管理への反逆する意志にある。

絶対的な男女関係を表出しても、驚くべきに恐ろしいことはない。なぜなら、それ以上に恐ろしい事実が目の前にあるからだ。

恐怖への服従を保持して、自然にも勝る力ある存在であること、あるいはありえることを、未知なる死の恐怖を相殺する思想を行使することを認めることへと移し替えられる。

この未知なる恐怖がその表出の中に仕掛けた手段によってなされてゆく、新しい思想の秘密はすなわち、自然に対して恐怖が対抗するのではなく、共鳴しあい、さらに人類の知恵が二倍になって行使されるときの手段を、自然が最初から人間との共鳴化であったかのように、自然から取り出す事にある。

哲学はそれゆえ単なる好奇心の満足や精神の高揚や機知の勝利や欲求の満足であってはならない。思想は権利である。

そうではなくて、哲学は物事をその真の強さに比例する、直接市民生活に強さを与えるものであり、それによって再びそれらを支配する本来の自然権と社会恐怖からの解放に人間を回帰させるものである。

その社会性の一つである平和が成果に組み込まれた、認知されていることによって絶え間なく継続される社会正義にある。つまり、その国の哲学者の強さがその国の強さに比例する。

正しい自然認識のおかげで人間はこのような哲学の役割を、あるいは、哲学の認識を果たす事が可能になったのであれば、自己認識は必要かつ必然の中での応急処置であるだけではなくて、強靭な精神、最強の英知を元々備わっていた能力と可能性の直接的な転化によって、こうした能力と可能性を人間は死の恐怖から逃げ惑うと同時に失ってしまい、社会恐怖からの解放を再興した際に再び取り戻すことになる。

自然権による世界の完全性と永遠性の原点、そしてそこから発している人間のあらゆる哲学の本質として模擬原理、新しいものが存在し、常に新しいものが見つけ出される可能性があるということを拒絶しない限り、近代を極めて適切に表出している現代宗教家も現実を否定しなければならないだろう。

現実社会と自然権全体を同調させて協力させるやり方は、世界は神の真似をすれば人間を管理できると思い違っていた偏った法にとっての土台をもはや安心であり得なくなったし、自然原理が素直に表れのままに実現する時の完全性を受け入れることの方が安心へと導かれてゆく。

自然権は人為権の一つの創り出したものの陰に隠れて、最後はその陰に隠れて消え失せてしまうことになる。

概念史的に見てこの妥当性の最も重要な一歩は、世界という表現をあるがままの自然権に従う方向の重要性を再確認し、反して人為的な社会恐怖から解放して、人権、主権、権限、平和憲法を表現し、文化として築き上げてきた創設者との一体感が希望となる。

強靭化させる精神形成の課題が哲学、主義、思想という、守・破・離の順序で発展させることを課題にすべきだろう。哲学が馬鹿にされる理由は哲学で終わっているからだ。

世界統一思想は自己へ、そして自己の最も内奥にある救済の不安へと後退することではなく、この統一思想が常に世界の与えられている人権、主権、平和憲法であると考え始める。

まさにこの点において日本は、異質な主観性の表現としての自然環境も文化も伝統も思想でさえも日本人は兼ねているではないか。

ここで重要なのは、これまでの世界混乱古典哲学観念をどう覆し超越する難しさを自然的にシンプルに把握することが出来るかにある。

日本人が何を知り、何を知らないのか、どれだけ適切な態度をとれるかということを確かめることが容易になる、世界は日本を尺度として、世界の変化する条件への順応として経験されるのである。