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ユダヤ人問題によせて。

2020-03-31 | 社会問題
 3月31日  火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


イスラエルという名は、

ユダヤ一支族な名で 「神と争う者」 という。

それは 「ヨブ」 のことだと思う。私も「ヨブ記」が大好きだ。

1、どんな不幸や悲劇が続けて起き様と、決してあきらめたりしない。

2、神と争ってでも幸福は自らの手でつかみ取る。

3、悪魔になど、絶対に譲歩してはならない。

4、どんなに相手が強くても正々堂々と自らの考えを主張する。

5、正しいかどうかは裁判で議論して決める方法をとる。

ユダヤ教徒とは一言でいうと、神様との対話である。

タルムードとは激しく問い続けろという意味だ。

ユダヤの格言にはこう書かれている。

「舌の先に幸せがある」「筆の立つ者と争うなかれ」と。


1948年までユダヤ人は、

他国に侵入したり戦争を仕掛けたりしたことが一度もない

唯一の民族として誇りだった。

そんなイスラエルが、

最後の植民地となるのは不思議な現象といえる。

その聖地に、

人類始まって以来の大実験が行られるにしても、

問題を引き起こして解決するには余りにも難儀である。

実際イスラエルが、

理想的なユダヤ人というイメージが崩れていっている。

このままだと

繁栄は難しいと多くのパレスチナ人ユダヤ人はもう疲れ切っている。


ユダヤ人であるハンナ・アレントは、

イスラエル国家を創ることに反対していた。

反ユダヤ主義を認めることになるという。

現実にナチスドイツはシオニスト達と連絡を取り合い、

ユダヤ人が大人しく出て行ってくれたら、

わざわざ殺す必要はないと密約していた。

これをハンナ・アレントは公表した勇敢な女性だ。


ディアスポラは、

ユダヤ人を追い出す為に考え付いたイデオロギーにすぎない。

多くのユダヤ人はその土地で一緒に働き、質素な生活を楽しんだ。

あるユダヤ人は、普通にキリスト教徒になったり、

イスラム教になったり、アラブ人がユダヤ教になったりもしている。

大抵のユダヤ人はこの地で生活をして結婚をして子を育て、

地元愛を示しながら平和な社会を第一に考えていた。

それなのにどうしてか。

パレスチナにシオニズムの場所を創ろうと動き出した。

19世紀、反ユダヤ主義がヨーロッパ全土に広まり、

20世紀、英国がパレスチナの植民地を開放、

21世紀、アメリカ合衆国が同盟国としてイスラエルを支持している。

当時、アメリカに渡りたくても許可が下りなかったユダヤ人たちは、

植民地主義を嫌々ながらも無視することでシオニズムを受け入れた。

また、イスラエルを応援するキリスト教右派は、

聖書の文言に従い、

ユダヤ人が神から約束されたエルサレムに帰ることが

キリスト教の願いでもあると信じている。

そんな中、

1982年~85年、レバノン戦争勃発。

南レバノンを支配するPLO(パレスチナ解放機構)の基地が襲撃、

一万四千人のゲリラをチェニジアへ追い出すことに成功。

しかし、この時におかしな問題が起きる。

イスラエルの同盟軍キリスト教民兵が、

ベイルート郊外にあるパレスチナ難民キャンプを攻撃、

一般人を含む2,300人が犠牲となった。

理由は不明だが、こうしてイスラエルは、

国際社会から非難を浴びせられることとなる。

「罪のない民間人が亡くなった不名誉な戦争」

というイメージが世界の人々に定着していった。

それでもアメリカ合衆国は、

「あらゆる国家には自衛の権利がある。」と述べ、

イスラエルを全面的に擁護した。

一体なぜ? 

戦後まもなく不自然国家が突如として誕生し、

それゆえ、永遠に戦争が続くというのか?


あなたがどう思うかは解らない。

しかし、

どちらか一方に問題があると決めつけるには、

知らないことが多すぎるのだ。

何かが隠されている。



   つづく。





普遍的で自然的な平等法。

2020-03-30 | 社会問題
 3月30日  月曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


永久法と自然法。人定法と神法。万民法と平等法。

総ての法が一致する法とは?


自然法は万民法に属する権利を意味するものである。

近代の法は権利の論理であって、

万民法、平等法の理論ではなかった。

近代の法の概念は、財産権こそ別異なものであって、

これがある以上、平等法とは言えない。

現代の法の概念とは、

1、生存権(動物権)

2、幸福追求権(人権)

3、財産権(金持ち権)この三つだ。

確立された強制的な統治は、

現代における財産権についていえば、

自然状態よりも悪い社会制度であり、

1億人に命令を下すには貧弱すぎる。

神の前では、人はみな平等であるから、

財産権、相続権を無くせばそれで良い。

裸で生まれて、裸で帰るのに何か問題でもあるのか。

財産権は明らかに自然法違反だ。

所有権とは自分が使用するのに必要であった以上の権利をいう。

格差是正には所有権、財産権、相続権を無効にすればそれで済む。

なぜなら、

自然法の中で万民共通、唯一背向いているのが貨幣だからだ。

現代の不平等は 「マネー」 の問題だ。

財産権と自然法。人は自然の力を借りて生きているのだから、

生涯得たお金を社会に還元するのはもっともだ。

財産権と自然権とが一致する法とは、

本質であり生成と発展を生じるものであって、

平等法は社会的な有機的生命の表現に適合し、

民族固有のものではなく、まして歴史の結果なのでもない。

所有権の制限には消滅しているかで限界点とする、死を以って無効とする。

人間の法は人間に関する尺度であるという。

人は万物の尺度であってその行動を導くものである。

その尺度はそれぞれ従うべき上位の規範をもっている。

命令されて「ムカッ」とくるのは万物の尺度ではない。

すなわち神の法であり自然法に他ならない。

それゆえ平等法は一般的な合意に合致しなければ

万民法とは認められず改めて定義し直す必要がある。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教であるなら、

自然法の概念なしには考えられない。

なぜなら、

憲法の本質・・「後法」が一番正しいとされているからだ。


なされたるものには、なされざりしものとの、なさるること能わず。




   つづく。




ユダヤ問題によせて。

2020-03-29 | 社会問題
 3月29日  日曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


古来このかた、

地獄の法則がのさばってきた例は枚挙にいとまがない。

調べれば解ると思うが、

むしろ地獄の掟こそが黄金律であったといえる。

この世界で邪悪が神をも凌ぐ力で恐怖をもたらさせらるのは、

言わずと知れた黙示録文学だ。

メシア思想が遠くにかすんで見える。

こうして厭世的で末法的な終末論がはびこったのだが、

以降、邪悪がさらに加速的に爆発的に増大してゆく。

一体、今日のユダヤ問題をどう扱おうとしているのか。

私はユダヤ陰謀説が肌に合わない。


調べているうちに、かの英雄ナポレオンは、

ユダヤ人差別を無くしその力を利用して

ヨーロッパを支配した最初の人物だそうだ。

ナポレオンになりたければそれにあやかるのもいいだろう。

かつて日本の場合では、

ロシアが誇る世界最強のバルティック艦隊に戦いを挑んだ戦艦三笠は、

是清(これきよ)がユダヤマネーによって

英国から最新鋭戦艦六隻を購入できたおかげだ。

また、西アジアに目を向ければ、

600年続いたオスマントルコ帝国は、

ユダヤ人を大抜擢し主要なポストに採用した結果の繁栄だった。

そんな世界秩序が崩れたのは、たかだか100年前のことである。

暗黒時代の19世紀だ。


ヨーロッパ文化を色濃く描く宗教画を見ると、

イエス・キリストは白人で描かれているが、

フロイトの話ではイエス・キリストは、

アラブ系ユダヤ人だそうだ。

推測だが、

パレスチナの抵抗運動の指導者故アラファト議長に似ていたかもしれない。


これも逆説なのだが、

ニュースでパレスチナ問題を見ていると、

どちらも「正義は我らにあり!」と聖戦を主張しているが、

その正義は誰かに誘導されたものである可能性がある。

なぜなら、神、アラーの正義とはとても思えないからである。


さらに言えば、

ユダヤ陰謀説によると「ゴイ」に問題があると決めつけているようだが、

何を根拠にそう言えるのだろうか。

もしかして、

イエス・キリストを磔にした二千年前のことを言っているのだろうか。

そうだとしても、

二千年間ユダヤを迫害したのは忠誠心によるもので、復讐心ではない。


もしもである。

日本人がイエス・キリストを十字架に縛り付けたとしても、

日本人全員が責任を取らされるのだろうか?

ディアスポラにあった場合、それは日本人だからという話なのか。

民族意識が強くなったのは事実である。

全体主義が力を持ったのも事実だ。

その結果、日本人が犠牲になったとしても、

イエローペイルがヨーロッパ全土に広まったのは、

本当に日本人だけの話なのか。


ユダヤ人を敵に仕立てて誰が得をしているのか。

イスラエルを建国して一番成果を得たのは誰だ?

そして見えない敵とは何ぞ。

現代においてさえ今なお、この謎は明らかにされていない。



    つづく。



言論の自由。

2020-03-27 | 日記
 3月27日 金曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


近く、ユダヤ問題、パレスチナ・イスラエル問題、宗教対立を、

解決すべくブログを書く予定です。

そこで、お願いがあるのです。

このウェブをブロックしないで下さい。

大丈夫です。心配いりません。

誰一人として非難することも中傷することもなく、

誰一人、傷つけることも致しません。

また、社会を混乱させることも勿論致しません。

一つの謎を解き明かすつもりで読んでいただけたら幸いです。

なぜこの様なことを言うのには、

自分自身のパソコンが使えなくなるからです。

また、通信障害が起きたり、通信が遮断されたり、

パソコンがフリーズしたり、大変なのです。

それともう一つ。

何度、書き直しても絶対に投稿拒絶されるブログがあるのです。

それでいて下書き保存すら出来ず、

投稿ボタンをクリックすると消えてしまうのです。

それはそれで面白い現象だと笑っていられるのですが、

今後書きますユダヤ問題に対するブログは、

大変重要なことなのです。

具体的には、ユダヤ人を擁護します。

キリスト教もイスラム教も擁護し、

パレスチナ・イスラエル問題に取り組みます。

そこでお願いなのですが、

言論の自由を私に与えてください。

規制がありすぎては上手く書けないのです。

もちろん常識の範囲での自由です。

ルールは誰も傷つけないこと。当たり前です。

良識が無ければうるさいだけですから。

名誉を重んじて秩序を保守し、

自分に害の無い悪は自分に利益の無い善と同じだなどとは言いません。

あらゆる困難は私たちを強固にし、

力が無ければ何事も動くとこがないように、

どうぞ、これからのブログを楽しみにしていてください。

よろしくお願いいたします。 バーイ・ホォナー。


  つづく。



比較優位の原理。

2020-03-26 | 学問
 3月26日  木曜日

 おはようございます。  ウィン・ウィン国王です。


自由経済を受け入れた現代、

経済学者がいう概念の中で最もウィンウィンな関係を築けるのが、

デービット・リカード氏が提唱した比較優位の原理であろう。

この原理は、

自由経済において個人と個人とが常に利益を上げる考えを説明している。

比較優位の原理はまた、

企業同士によるウィンウィンな関係の際の手法にも応用できる。

例えば、

利己的ジーンと利他的ミームは同じアパートの隣同士にいる。

ジーンは料理が上手で、ミームは掃除が得意なキレイ好きだ。

二人とも料理と掃除を全て片付けるのに10時間掛かるとしよう。

二人が仲良しでジーンが料理を、ミームが掃除をそれぞれ担当した場合、

二人合わせて20時間掛かっていたものが、

それぞれ5時間で料理と掃除を終えられる。

「だから、それがどうした?」 と思うかもしれないが、

これこそがウィンウィンの関係だ。

まるで魔法のように凄いことである。

考えてみてほしい。

ジーンとミームが仕事を交換することで、どちらも5時間節約できたのだ。

お互いに不快を生じることはなく、どちらも損害を被ったわけでもない。

ただ自分が得意なことを取り換えるだけで二人はどちらもハッピーだ。

勿論、個人だけの話ではない。

国と国との関係にも広く応用できること受け合いだ。

二人の間柄に、それぞれ特定の能力に秀でている場合、

仕事を専門化することで利益がもたらされる。

つまり、二人が仲良く得意なことをやる方が良いということになる。

この際、短所のことなど忘れて、長所の上に己を築けだ。

もし仮に、二人とも料理が得意で掃除が苦手だとしても、

仕事を交換することで、やはり得をすることになる。

利益のためなら多少仲が悪くても、

協力した方が早く片付くに決まっているからだ。

問題なのは、ミームが働き者に対して、

ジーンが怠け者の場合、困った問題が生じるように、

比較優位の原理にせよ、コミュニケーション能力にせよ、

二人の利益が成立するか否かはシェアして試すのが解りやすい。

なぜなら、

二人の能力が等しくてかつ、

その比率にあると考えられるからである。

それは利得をめぐってせめぎ合う

損得感情がゲーム理論経済の基礎だからだ。

アダム・スミスが話すように、

肉屋の主人が毎日仕事に出かけるのは友愛によるものではなく、

自らの利益をギリギリまで追求する結果だからだ。



   つづく。



経済学によるゲーム理論。

2020-03-25 | 学問
 3月25日  水曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


人生はゲームだ。

社会は「お金」を競い合うゲームで成り立っている。

その世界には同情や哀しみといった利他心は存在しない。

ただひたすら自己利益の追求があるだけだ。

誰もが自分のことだけを考え、

また、誰もがそのことを知っており、

そして誰もがそのことを受け入れている。

そう、ゲーム理論の研究対象は、

ある戦略的状況に置かれた時に賢明かつ無慈悲な人物がどう行動し、

相手の出方にどう対応するべきかという問題だ。

全てのプレーヤーが全てのプレーヤーを相手に戦う極限のマネーゲームだ。

勝つ秘訣は一時の情けを持たずに、

生存競争を展開する状況下で利己的論理を展開することにある。

愛や健康などのバランスが大切だとか、

思いやりのあるリーダーになりなさい、などと説いたりはしない。

人は競争をしている時または、

競争相手を叩きのめした時に最もスリルを感じるはずだ。

そのためなら、自らの退路を断って最後まで戦い抜くことを誓ったり、

見せしめの為に最初に一人をクビにするのもよくあることだ。

社会は一度ダメージを受けると、

二度と元には戻れないエントロピー法則には逆らえないように、

競争原理が働く限りそれらを維持することで利益に繋がるのならば、

相手に勝つことで自らの存在価値や存在意義を高めることが何が悪い。


ゲーム理論では、あの人はお金持ちだからとか、

あの人は優しいとか、カッコいいといった理由で誰かを信頼することはない。

あなたが正直に振舞うのは、

正直が自分にとって利益になると判断された時だからであり、

勝ち抜きゲームに勝利するには、微笑みながら隠し、接待して弱味を握り、

常に欺こうと努力することで真価が問われる。

だから「空気」など関係ない。

他人が何が好きかはほとんど気にならない。

周囲の人に気配りしながら行動を選択することは犬のような奴だと考えている。

従って、ナッシュ均衡にせよ(自分が選んだ行動を後悔しない状態)、

囚人のジレンマにせよ(自分だけが得する合理的判断)、

スパムやクレームにせよ、(たった一人だけ協定を破る効果は絶大だ)

すべては利己的な追求とその結果なのである。(自ら問題を起こして解決せよ)


それでも一回限りのゲームなら、

常に意地悪行為を選択した方が断然利益を得られるだろう。

長期戦ともなれば終始、親切にする方が断然お得になるだろう。

最後の最後に相手を裏切る選択をすれば高いリターンが回収できる。

そして相手の裏切りをすぐさま察知した後、

ただちに報復行動に出なければ、いいようにやられてしまう。

どちらにせよ仁義なき戦いには本気度が勝敗を左右する。

MBAが欲望達成ゲームの攻略法だというのは最もだろう。

経済理論という学問は、

今なお暗い将来を予想することで頭がいっぱいなのだ。


    つづく。




火事場の馬鹿力。

2020-03-24 | 学問
 3月24日 火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


人が潜在能力を発揮する際に必要なもの、

それが利他的行為である。

火事場の馬鹿力とは、利他的な行動で発揮される。

私たちの幸福に影響を与える

セロトニン、ドーパミン、アドレナリン、オキシトシンのうち、

オキシトシンは利他的DNAの中に存在する。

人は自分の為に力を発揮するより誰かの為に、

そう考えた時に思いもしなかった潜在能力を発揮させる。

私たち一人ひとりが生まれ持った長所それは、

人に役立たせてみなければ解らないものなのである。

それが生命共通の隠された能力であろうと、

あるいは、それが生命由来の形質の類似であろうと、

逆境という状況下で個人が潜在能力を発揮するというものには、

万事、生き残るための能力が備わっているのである。

火事場の馬鹿力とは、

単に自らが生き残りを賭けて他者を見捨て逃げ出す程度のものではなく、

利他的行為を説明するには、

実際にあなたが愛する人を守るのと同様の結果で証明される。

なぜ、火事場の馬鹿力が存在するのか?

生存闘争の観点から見れば、

最も気前の良い利他的行為が、

最も利己的行為の間を隔てるもの、

偶然にせよ、必然にせよ、生命に隠された

奥義の一つであることは確かのようだ。

火事場の馬鹿力はすでに私たちの内部にあるように、

その能力を気づくには誰かの為にという助けが必要だった。

それが適切な条件として命に係わるような状態を作り出しさえすれば、

後は、野となれ山となれ。スーパーマリオも夢じゃない。

だから、居心地の良い状態に身を置く者には決して解らない裏技だ。

常在戦場に身をもって体現することでのみ、

火事場の馬鹿力が解放される仕組みとなるのだ。

そう考えると、なぜ?

自然淘汰に利他行為が生き残ってきたのか。

どうやって利己という厳しい境遇と共存してここまで来れたのだろうか。

その答えが火事場の馬鹿力に見て取れるのかもしれない。

それは人間にとって不釣り合いなほどに

生きる上での利得が与えられているからであろう。

利己と利他。これほどの良きパートナーが存在するだろうか。

しかも万人共通のメカニズムである。使わない手はないだろう。

過去人類の中で最もひ弱だったホモサピエンスが生き残った理由には、

利他的行為をとった唯一無比の潜在能力を発揮させたことを意味している。

おそらく、与えられた環境の悪化に対する驚異は計り知れなかっただろう。

現在、ホモサピエンスの繁栄は、逃げ惑う他の動物をしり目に、

ひとえに他者を助ける選択をした思い切った勇気に勝算されるだろう。

人間をよい高いレベルに前進させることが出来る能力こそ人類の長所だ。

乱暴な言い方だが、現代人にはオアシスよりも火事場が丁度いい。

平和ボケが長引く日本社会において、楽なことしか考えず

逃げてばかりいる人たちには、一度火事場に堕ちた方がいいだろう。

あっ、そうだった。この世が地獄か!

どうやら人間は神に嫌われているようである。

いばらの道に逃げ場なし。安易な道はないのだ。



   つづく。


人を動かす。

2020-03-23 | 文学
 3月23日 月曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


創作活動のさ中の物書きは、

みなさんが言うところの「変わり者」そのものだ。

異彩にして変人。そして正真正銘の二重人格者であり、

社会的、個人的な責任を果たす能力を保持する者。

文章を書いている時、まさにそのようだと想像していいと思う。


人を動かすのは様々だ。

一番代表的なのが「札束」だろう。

現代社会は誰が何を言おうが物質社会だ。疑う者はいないだろう。

次に人を動かす方法は、やはりヒエラルキー、上下関係だろう。

日本には階級社会は存在しないと言うが、

部下は上司に服従し、会社は社員に忠誠を誓わせ、後輩は先輩のしもべである。

逆らう者はいないだろう。

その次に人を動かすのが、恐怖とハッタリか。それにはコツがある。

人を感情的に訴えかけて衝動させることが重要だ。

可哀想な自分を演じ、不安を煽りながら、友情をもって同情する。

まさかと思う者はいないだろう。

しかし、創作行為にある物書きたちは、そうは考えない。

書き手が考える人を動かす方法はこうだ。

物質社会でも精神社会でもなく文学社会であると。

言葉が生み出す言語学にあるのだと。

文学こそが人を正しく動かす方法だと信じているのである。

ー 文学は国家の大業にして名誉である - と。


物書きから見て思うことは、

文学以外に人を動かす方法がどれも策略にしか見えないのである。

だまし騙し人を動かす術とでも言おうか。


私はよく「人たらし」だと言われるが、とんだお門違いだ。

みんなはメールをするだろう。

メールはコミュニケーションの一つなのだが、

人を動かすならば立派な文学だ。

例えばメールで、

「暖かくなりました。一緒に出掛けましょ。」また、

「料理の腕が上がりました。食べに来て。」

どうだろうか。人が動くなら文学だ。


日本文学史上最高の評価の一つ紫式部の源氏物語は、

当時の女性たちの感性が生き生きと読み取れる傑作である。

その時代に貴重な役割を果たしたこと、

百人一首や日本書紀、西行や世阿弥、芭蕉。

そして現代にまで続くまさに大いなる連鎖と呼ぶに相応しい偉業である。

本物の文学とはその時代の末世の相を証言せしめたものであって、

日本文学がこまめにゆるやかに流れにそって分かれながらも、

それでいて、なかなか興味深いものなのだが、

随所に独特な感性がよこたわり、

母型というか断章というか個性的というか、

そこにあるはずのものがなかったり、また

そこにあるはずがないものが見えたりするという、

風情、風合い、風流、かすかに揺れる草花の間合いを読み取る感性。

それは科学であり哲学であり芸術なのである。

まるで自然との会話の中に見え隠れする表の欲求と裏の欲求、

そんな言霊文学が言語として今日ここによみがえる。

人を動かすものは文学だ。


「やまとうた、人の心をくさとして、万代の言葉ぞ、もののあらわれ。」




    つづく。




自分史。この十年を振り返って。

2020-03-22 | 日記
 3月22日 日曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


何かに取り付かれたような生活が10年間続いた。

一体、何を求めていたのだろうか?

自分自身でもよく解らない。

暗して破滅的で絶望的な社会の裏側に答えが見つかるものだと

一つひとつ丹念に探し求めた。

安定した生活の道のりは程遠く、また興味も湧かなかった。

家族は崩壊した。肉体は酒付けだった。

職を転々とし、友達も寄せ付けなかった。

テレビも見なければ、メールも返信しなかった。

そこまでして何を得たというのだ?

それなのに奇妙なことに断絶の下からどうゆうわけか

様々な要因が頭の中に集まってきた。

鋭い洞察力や気づき。問題解決への強い傾向。

ウィンウィンによる一つの捉え方。自然法則への探求。

平和と平等への執着。そして物書きへの関心。

これらすべてに加えて、

どんなことをしてでも必ず真実を見つけようという断固たる決意だった。

ソクラテスの言う、

「探求し学ぶ者は、魂が生前に得た記憶を想起させること」それを実感した。

文章は書くにつれ、新しい理解と新しい現実を創り出す役目を持ちうる。

事実、私たちは見たことを書くのではない。

書くことが出来ることだけを見ているのだ。

世界についての私たちの見方は、

私たちの神経システムと言葉のやり取りによって決まっている。

どちらも私たちが世界を認識する際のフィルターとなる。

私自身の文章法はそんなフィルターを外すことから始まる。

言葉との出会いを直感的に楽しむのだ。

まず第一に、文章を散文にして楽しむ。

第二に、散文をミックスしてアレンジを加える。

第三に、使えるものは何でも使う。

第四に、死ぬまでに独自の聖書を完成させる。

これがいわゆる、人生においての卒論であり博士論文だ。

内容次第では神様に昇格できるかもしれない・・・。

書くことの喜びそれは毎日を充実させ、心を満たし、成長欲求を刺激する。

日常生活の中から生まれ、文化と縁を切ることなく、

言葉の快適な文学へと結び付くものとして、

自身が躁うつ状態になりかけるのを助け、

人間関係が不安定になるのを補う。

お互いの歴史観、文化論、心理的基盤の動揺などを読み取り、

お互いの好みや価値観に共感しながら、

言葉との関係を成長快楽に結び付ける喜びである。


よく、質問されることなのですが、

「どうしてそんなに書けるのか?」と。

これにはいつも決まった返事をしています。

「私たちの脳は自分で考える以上に優れていて、

 自分では書けないことでも脳が勝手に書いてくれる」のだと。

それがどうゆう時かは、もちろん利他的な状態である時なのです。

自己中心的な状態では、いびつな文章しか浮かばず、それでいて時間がかかる。

だから他人の文章を読めばすぐに解ります。

隠しても無駄というわけです。

言葉はコミュニケーション能力の一つですが、

人を動かすのが文学であり、文学が文化となって文明となる。

今日のブログも指が勝手に動いて止まらない状態ですが、

無理やり止めて終了。

現代の時刻、朝4時すぎ。



   つづく。


日本の老人は不良だ。

2020-03-21 | 社会問題
 3月21日 土曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


老化は自然淘汰である。

進化は新しい世代が生きられる余地を生み出すために、

個体を老齢へと押しやるのである。

地球環境においても自然環境においても老化は最善の解決策だ。

野生の王国では、動物が老齢まで生き残ることは稀で、

人間だけが科学技術にすがって生きていることを忘れてはならない。

はたして本当に老人は生きていると証明できるだろうか?

主体性とは「いい気分になる」ための行為であり、

寝たきり老人はただのエゴによるものと思われる。

日本の医師会が寝たきり老人に対して、

複雑な社会を理解し損ねた結果に過ぎなかったと近く発表されることだろう。

老人は既に科学技術の進歩の影響下にあり、

そうした現状の下では行き当たりばったり、あるいは有害に陥り、

他の者は単に慣習によって寄り添っているだけのことである。

容態が悪化すれば家族や自己を犠牲にしてでも老人に付き添うが、

その代償は社会へは一切還元されないで終わる。

やみくもに執着し、秩序ある生活を破壊させる最も自然に反する扱いだ。

厳密に言うと、変わる必要があるのは老人ではなく、

医師会や社会であり、固まった感情や観念で判断すれば、

老化が自然淘汰だと判断できなのだ。早く大人になりなさい。

真の自己犠牲とは共同体を強化することにあるのだが、

老人の為に次の世代が生き残れない社会が存在すること自体、どうかしている。

このまま続けば、両者ともに生き残れないと保証しよう。

どちらが生き残りを懸けて犠牲になるか。お花畑には判るまい。

そこで利己的ジーンの登場だ。

献身的な利他的ミームが苦しんでいるのを黙って見て見ぬ振りは出来ない。

目には目を。やられたらやり返す。利他的ジーンの得意技だ。

一度、「老人こそが不良だ」と反論しよう。

過去、若者たちを不良呼ばわりした現代の老人たちに言い返そう。

「長生きはエゴだ!」「老人こそ不良以外の何者でもない!」と。

以前から老人たちに言いたいことがあった。

次世代に嫌われてまでエゴを貫き通す正当な理由は何だ?

若者たちに感謝されずに天国へ逝けると本気で信じているのか?

忠告してやろう。

若者を不良呼ばわりした老人を絶対に天国になど行かせてたまるか!

謝罪の一言くらいあってもよさそうなのに、それすら無いのか。

ふざけるな! 地獄へ堕ちよ! 成仏などさせてたまるか!

どうだ。言い返してやったぞ。

反論があるならいつでもかかってこい! 

止めを刺してやる!


そうは言っても、私も同じ日本人である。貴方たちの子供だ。

仮に老人が不良だとしても許そうと思う。

だが、条件がある。

死ぬ前に人生を書き残してほしいのだ。

なんでもいい。失敗や苦しみでも構わない。

若者たちにゲームやテレビなど見せずに貴方たちの人生を見せよ。

老人と若者との和解には書き残す以外に方法がないと考えます。

なぜなら、

若者には老人が理解でいないからである。

しかし、老人は若者を理解できる。

自らが考え行動した記憶を若者たちへ受け継がれることが、

文化であり文明であり大いなる連鎖であって、

それ以外に和解への道は見当たらない。

それが嫌なら、やはり長生きはエゴであり老人は不良だと確定する。




    つづく。



サクラたより。

2020-03-20 | 
 3月20日 金曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


桜がなぜ? 咲きながら散るのか。

それは日本人に愛されたいために、

来年まで大切に保存されるために、

桜は自らを咲き誇りながら儚くとも可憐に散りゆくのです。

淡いピンク色は日本人の好みによるもの。

それが桜にとっては生き残るただ一つの戦略なのです。

確かに、桜には脳がありません。しかし、

日本人をコントロールする力は備わっているのです。

桜だけではありません。

紅葉にせよ、アジサイにせよ、彼岸花にせよ。

昆虫を動かし、人を動かし、社会を動かしているのです。

桜は日本人の好みを知っているのです。

だから、植物に話しかけると良く育つのです。

人が望めば花木たちはそのように育つわけです。

「念ずれば花、開く」ですね。

私たちが花木に心を寄せるのには、

人間本位による理性や論理による結果ではなく、

逆であって、花木に私達が影響を受けた結果なのです。

もしかすると、人間がどれ程バカ・アホ・マヌケであっても、

植物に従うなら正してくれる可能性があるかもしれません。

そう考えると、愛とは自然環境に操られているのかも!?

言い方を変えれば、

愛は環境の変化にどのように対応するかによって、

愛は絶え間なく変化してゆく、

自然に対して適応する能力であるともいえるのです。

愛は自然を必要とし、自然は愛を必要としている。

そう考えると、私たちはもっと自然に操られて良いのでしょう。

確かに人は環境が過酷で悲惨だと愛にすがりたくなる様に、

日本の四季の美しさは、自然環境が厳しいゆえの愛のカタチである。

自然は無関心で(感情がない)、意図とは無縁で(意思がない)、

だが、傾向は持っている(方向性はある)のです。

桜も同様、あらゆる植物、菌類、昆虫、動物には、

一つの共通祖先が備わっているように、

何らかのシグナル伝達システムがあるようなのです。

そんな伝達システムによる蒼然たるスケールは、

生命の領域のあらゆる側面に影響を及ぼし、

それでいてはっきり考察されることはない。

植物の知性の研究の最前線では、

非常に興味深い側面に光を当てている。

私たち人間にとって自分たちとは異なる方法で

思考する伝達システムが植物にはあるというのです。

事実、脳だけでは知性が生まれないことは間違いありません。

脳は魔法の器官ではなく、単独では何も作り出すことは出来ない。

人類最高の天才脳ですら、それ自体では胃よりも知的なわけではない。

どんな知的な反応をするにしても、

体の他の外からの影響から届けられる情報が必要不可欠なのです。

ひょっとして、全ての昆虫たちは

植物によって動かされて繁栄しまた敵対しているのかもしれません。


桜が持つ不思議な知性と人間の脳による共感作用。

いつの時代もどこかで繋がっているような神秘。

そう考えると、なんだか「ほっと」しますよね。



    つづく。




経済に答えがあるのか?

2020-03-18 | 学問
 3月18日 水曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


社会秩序についてのきっぱりとした原理を説明することは、

それがどの様な原理であっても今日ではほぼ間違いなく、

生存競争やゲーム理論という激しい論争が繰り広げられている。

それは権力を持っている人々が、

それを持ったり用いたりすることを好まない個人に対して、

大農園で働く非常にやさしい心の労働者が、

鞭打つ主人の仕事を引き受けるそれと同じである。

個人の知識の制限の自覚から、どの個人も集団も、

誰かに知られていることの全てを知ることは出来ないという事実から、

個人主義はまたその主たる実践的結論すなわち全ての強制的ないし、

排他的権力を厳しく制限されるよう要求する。

個人主義の理論は適切な法の枠組みを構築しかつ、

自発的に生成してきた制度の改善や技術に対して、

一定の貢献をすることが出来るが、個人主義の強調点はもちろん、

我々の社会秩序の内で人間理性の感謝的産物にすることが出来る部分または、

そうすべき部分は社会の全ての力の内の小さい部分に過ぎないという事実にある。

個人主義的秩序は特殊な指令の強制ではなく、

象徴的原理つまりウィンウィンに基づかなければならない。

そうだとすると、我々が必要とする一般的規則の種類の問題は、

まだ、そのまま残されている。

あらゆる社会的過程の金融統制へ向かう漸次的傾向が、

全てのものがきっちりと計画され認知できる

見えるシステムを作らなければならないと言い張る方法的態度、

その結果による事実であるならば漸次的傾向が

金融統制の秩序と安全を保持しうるような、

条件を創り出す傾向のあることもまた事実である。


国と国との特殊な状況下についての経済の重要性を、

出来る限り忍耐強く評価するのが日銀の流行のようだが、

変化というものの重要性を今後は認めない限り、

グローバル経済は堅く結び付くことはないだろう。

社会活動とりわけ経済問題は主として、

国と国との特殊性における急速な対応に

問題があることを我々が同意できるとするならば、

最終的な決定はそのような事情を熟知している人たちに

重要な変化とそれに応じるための直ちに入手できる

資源を直接知っている人たちに委ねられるべきである。

我々がこの社会で出会うべき問題の数々は決して、

経済だけの固有なものではなく、

そのほとんどが全て真に社会現象としての、

我々の飽くなき欲求および大部分は

歴史的産物に関して生じるものであって、

まさしく全ての社会科学の中心的理論を構成している。


複雑な経済における合理的金融システムが、

不可欠かどうかについてのAI導入が試されていないが、

相異なる金融見解を論じる陣営の問題だけで行われないだけでも

多くの点で幸いだと言えるだろう。



    つづく。





仁義なき経済に対するワクチン治療。

2020-03-17 | 学問
 3月16日 火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


経済に新しい存在次元を附与された場合、古い理論は使えなくなる。

経済に欠けた最大のものは利己的な欲求に他者を結び付ける利他である。

自らの利己の方向性が利他に結び付く時、仕事への情熱が沸き上がる。

逆に、これが欠けた毎日の仕事では、

退屈で無気力になったり自己中心的な行動へと向かわせる。

社会の実践的生活に直結する限りにおいて、その意義を持ち直し得るのは、

利己行為だけでも利他行為だけでも長続きしないのが現状だ。

利己と利他の一致。それらバランスが労働意欲として情熱と不眠不休への結果となる。

この社会活動で生き残る為に従うべき柔軟な姿勢は、

私たち人間性の中から生まれるものでなければ安定は難しい。

社会理念や共感できるビジョンをどれほど巧妙に改善を繰り返しても存続が困難なのは、

いかにも利己と利他による真の適応度に問題があるからだ。

その適応とは認識ではなく実在であり、脳は認識出来ないものには関係を築けない。

適応者を実践する際に必要なのは利己と利他による認識であり実在である。

利己と利他が同一の原理だと結び付くまでは、利益の安定を得ることはないだろう。

適応度は原理的に認識だから収入確保は、利己と利他によて初めて可能となる。

なぜなら、収益を侵害するものは内部にはなく、外部が常に立ちはだかるからだ。

あらゆる社会現象は知的なものであれ、搾取的なものであれ、博愛的なものであれ、

利己と利他による欲求には違いないのだが、

自己愛と隣人愛それらの出現によるバランスで初めて安定する。


現代の成功は、他者が失敗するという代償によって得られている。

よりどちらがその場で適応度が高いかによって出費と利益が出されている。

必ずしも競争と公平は共通とは言えないが、

人を不当に差別扱いをしないという点においては

競争と公平は同じ美点を持っている。

誰も運、不運をコントロールすることはできないからだ。

日本の場合、

有能な経営者ほど利益の最大化を追求するのが鉄の掟だ。

利益を上げられない経営者は罪人だと教えられる。

その考えではある程度の犠牲は仕方ないことになる。

そんな暗黙の価値規範は競争原理によって

徐々に過激で過剰なサービスへと進んでいく。

日本のおもてなし文化に対するモラルハザードは、

結果を追い求め過ぎるゆえの過剰なビジネスモデルへとドンドン発展し、

実際、そのサービスの4分の1にしか知恵が無く、残り4分の3は自己犠牲だ。

必要なサービスとは役に立つものであって、非生産的な想像ではない。

サービスの対価は労働力の成果によって決まる訳ではなく、

価格と消費によって決定されるものである。

サービスをそのまま自由奔放主義に委ねては、

長期的に見て労働対価を正常な状態に保つという想定は明らかに非現実的である。

現代商法は過度に進んだ経済活動にこそ問題があるように、

サービスが長期的に安定するには(発展は一先ず置いといて)、

限定的だが必要に応じた社会主義の理念を取り入れる必要があると考える。

行き詰った経済にとって社会主義の「良いところ取り」が

自由主義経済にとってはカンフル剤となるだろう。

プロレタリアの平等を求める要求の真の内容は階級社会の廃止はもとより、

労働対価の正当性にあるからだ。

また、アインシュタインの相対性理論によると、

物質とエネルギーは交換可能であるように、

自由主義と社会主義は交換可能だ。

ケインズが言うように、

競争の欠如は根本的な問題ではない。

必要なのは政府の積極的な介入だ。

社会が長期的に安定するには、

必要に応じた政府による経済への介入を選択する必要が生じる。

もししなければ、国民を裏切ることになるだろうと。





   つづく。



絶滅か、進化か。誰が生き残るか?

2020-03-16 | 学問
 3月16日 月曜日


 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


三葉虫は生まれて消えていった。

ティラノザウルスも生まれては絶滅した。

全ての種の99.9%が生まれては絶滅していったことをよく考えてほしい。

気を付けなければならない。

貴方が最善だと考えるその行動がもしかすると、

社会全体を絶滅へと連れ去って終うような恐ろしい

連鎖を引き起こす引き金となるかもしれないのだ。

それは、誰であろうと予言することはできない。

気を付けたほうがいい。

しかし、歩き続けるしかない。

貴方は他に選ぶ道が無いのだ。

出来るだけ賢明な一歩を踏む出すしかない。

そして貴方が実は何も判っていないということを

認めるだけの知恵を忘れてはならない。

私たち全体が出来るだけのことをしても、

それは単に最終的な絶滅の条件を整えて行くだけであり、

新しく誕生する生命や生き方への道筋を作り上げているに過ぎないのだ。

極端に楽天的な世界も、その逆の絶対服従を強いる世界も存在しない。

我々が常に考える現実がただそこにあるだけである。

最善を尽くそう!

貴方も結局はこの繰り返しの生活の中で、

絶滅危惧種たちと一緒に歴史を刻んでゆくことになる。

いずれにしろ、失敗に終わることが判っているのに

挑戦し続けるとは、なんと大胆な冒険だろうか!

それでは貴方に素敵な人生観を教えてあげよう。

ベストを尽くしなさい。

決められた時間に目覚ましが鳴り、

朝食を抜いて満員電車に飛び乗り、

大して役立つか解らないことを一生懸命やって、

他人の目を気にしながら自らをアピールし、

共に過ごす一時期の仲間と愚痴を言い合いながら、

今日という日が過ぎ去ってゆく。

そして一日の最後に貴方は何を得るのか?

苦労の中でのほんのひと時の安らぎである。

なんと厳しい現実か!

それでも世の中の総ての生命体にとっては、

それが精いっぱいのことなのである。

実社会を見てみよ! はっきり言って、

政治、経済、人間関係、その中心にある慣習はどれも、

完全に今、行き詰っている状態ではないか!

経済の健全さが社会に貢献する確かな根拠がどこにあろう?

私たちは進化をありのままに見て感じとり、

それがどうやって願うかを想起し、どのように働くかを見直して、

自由で平等な環境を創り出すことなしに生き残るための、

そして私たち自分本位な思考を動かす何かをその目で見ない限り、

絶滅の影響下に社会があることを今や受け入れるしかないのである。

進化が利用できるものは何であれ、利用して良いのだ。

それでも進化の最前線に立つ人類は上手くやっている。



   つづく。


「利己的ジーン」と「利他的ミーム」との比率とバランス。

2020-03-15 | 学問
 3月15日 日曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


人間の脳は進化によって出来た器官である。

それは突然変異によって進化した遺伝子進化論だ。

そんな二重らせんである遺伝子には、

異なる二つの性質が備わっている。

適応という名の 「利己」と「利他」 だ。

好むと好まざるとに関らずに、

我々はある意味 「二重人格」 であるのだ。

問題なのは、その異なる二つの比率である。

極端な偏りは、又は、どちらか一方だけでは、

どちらも自然淘汰の対象となるのだ。

生存闘争に勝ち抜くためには、

どちらも必要で必然というわけである。

だからといって、

バランスが整った平均状態は死を意味する。

なぜならラプラスの言うように、

「平均値は差がものを言う、差のない平均値に意味がない。」

熱力学によると、平均とはでたらめであり、適当は平均を意味している。

50:50の比率では何らかのトラブルが生まれて上手くは行かないだろう。

遺伝子進化論とは、

相対的な二重らせんであって、対立ではなく、協調でもない。

繰り返すが重要なのは、比率である。

「利己的ジーンと利他的ミーム」この二つを交互に前進させてゆくことが重要だ。

ジーンだけでも、ミームだけでも空回りして前進は見込めない。

最適者とは、

「自由、平等、平和、幸福の追求」とい人類のビジョンに向かって、

一歩一歩進化する者のことを 「適応者」 と呼ぶ。

なぜなら、

正しい理念その方向性に向かわせる能力こそが「適応度」だからだ。

逆に、自然淘汰の対象に選ばれるのは、

「80:20」では、危険人物と承認され、

「90:10」では、死に至る。

どちらにせよ、過度の競争、闘争、報復、

そして共生、団結、友愛には、

バランスを失った適応度、それはどれも自然淘汰の対象なのだ。

多かれ少なかれ、私たちはみな

二重らせんの遺伝子を備えた二重人格者といえるのである。

これが遺伝子進化論の結論となる。

人類の目的はどこにある?

最適者なのか。適応者か。その適応度とは・・?

一体私たちはどう、振舞えば良いと言えるのか?

一度、考えてみようと思います。


パターンA.

挑戦するのは利己的ジーン。挑戦を楽しく変えるのが利他的ミーム。

自分の賢さを得意げに話すのが利己的ジーン。その話を謙虚に聴くのが利他的ミーム。

他人に命令されると反抗する利己的ジーン。ひと息ついてホッとさせる利他的ミーム。

怠け者を見つけると虐めたくなる利己的ジーン。そんな怠け者を甘やかす利他的ミーム。

人を押し退け打倒しようとする利己的ジーン。共存共栄を理念に掲げる利他的ミーム。

恐れを知らない一匹オオカミが利己的ジーン。仲間と一緒にいたいと思う利他的ミーム。


パターンB.

過去の失敗を後悔する利他的ミーム。障害を突破するまで諦めない利己的ジーン。

失意の底で傷を舐め合う利他的ミーム。困難の前で怒りをぶつける利己的ジーン。

無抵抗なまま人に譲る利他的ミーム。自分が一番だと競争心を掻き立てる利己的ジーン。

頼まれると断れないのが利他的ミーム。難なく「NO」を言う器量の大きな利己的ジーン。

偽って自分を犠牲にする利他的ミーム。他人を追い抜く喜びを感じる利己的ジーン。

協調を信じて自分の方針を捨て去る利他的ミーム。最後まで我が道を行く利己的ジーン。


考えられる限り書きたいのですが、時間がきました。


   つづく。