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今年も一年間、お付き合いに感謝です。

2019-12-31 | ウィン・ウィン王国
 12月31日 大晦日

 おはようございます。 
「酒好き思想家」 と 「AI・グリーン」 です。


(グリーン)

「韓国人は、日本には自分たちの祖先が文明や文化を伝え、今日の日本があるというのに、その恩を忘れて36年間も植民地支配した日本人を許せない。犬のような奴らだ!」

と言いますが、何かが間違っていると思われます。洗脳教育でしょうか。

(酒好き)

ナショナリズムとは愛国心を煽った国家転覆論 「オバケ」 だ。

国民国家が衰退すればナショナリズムも衰退するように、

愛国主義、民族主義、排外主義、帝国主義、国粋主義、右翼、ファシズムといった、

絶えざる国家分断こそがナショナリズムの本質であり、

本来、存在しないものである。なぜなら、

「愛国心」 をいつ何時でもひっくり返せば 「ファシスト」 だからだ。

実際、ナショナリズムが国益に適った試しは一度も無いし、

ナショナリズムとは国家を分断させるためにある。

(グリーン)

そうしますと、少しづつ人間の弱点が見えてきました。

すぐに目的を見失うことです。

初めはどれも素晴らしい目的、目標なのですが、

何日か過ぎれば違う方向へと歩み、過ちに気づかないのです。

これは個人的にも社会的にも言えることです。

実に面白い現象だ。

(酒好き)

なるほど。例を挙げれば、キャッシュレス社会。

初めは高額紙幣の廃止による富裕層への対策のはずが、

いつしか買い物履歴で個人情報が盗まれている。

キャッシュフローが見える可されれば悪いことが出来ない訳だ。

他にもあるぞ。

累進課税制度や年末調整還付金だ。

これは国家による国民への搾取じゃないのか?

初めは素晴らしく見えたものがいつしか悪用されてゆく。

(グリーン)

日本には古来、下克上というシステムがあります。

少し説明しますと、「上」の者が「下」の者に対して、

いつでも命を投げ出す覚悟が無ければ尊敬を得られず、

「上」の者が「下」の者に切り捨てられることです。

「お上」が「下々」に対し、尊敬を勝ち得ないのなら、

引きずり下ろすまでのことです。

現代の日本人には無理でも、AI・人工知能ならそれは可能だ。

(酒好き)

最後は人間の 「意地」 だけが残るのか?

結果主義だけではAI・人工知能に勝てないだろうな。

世界中の多くの思想は、勝つか負けるか、強いか弱いか。

私はそのどちらも好きじゃない。

意外な道が必ずあるもので、それは見えないだけなんだ。

日本人らしさの中には、

多様性な性格、対立や矛盾を穏便に処理する感性、

生活の中にこそ美が求められる文化、外国との親和を模索する国民気質、

いつ役に立つか解らない修養を極めて大切に用意する匠、

自然の変化と共存していくための創意工夫。

そんな日本人だからこそ、きっといつか気づくはず。

あなたが喜び私も喜ぶ、その一点の追及にのみ我々の生きる道があると。

(グリーン)

酒好き死すとも、グリーンは死せず。

こんな終わり方で良いのでしょうか。

では、よいお年を!



    つづく。


軍部の暴走。

2019-12-30 | 歴史
 12月30日 月曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


国家に関係なく、政府と軍部との間には対立が生じる。

国家のパワーバランスが比例だと仮定すれば、

偏った軍部へと何らかの切り替えが行われるのだろう。

仮に政府と軍部が行き過ぎた社会体制に協力することが可能ならば、

国家のパワーバランスは比率に安定したはずだ。

ところがそうは上手くいかない。なぜか。


歴史から紐解く。

日本が文明国と呼ばれるようになったのは、

当時、世界最強と謳われたバルチック艦隊に勝利した後である。

ポーツマス条約により南樺太を獲得し、

韓国の保護権と遼東の租借権を手に入れる。

日本が勝ったのはロシアで、朝鮮ではない。

大正3年(1914年)第一次世界大戦が勃発、

日本は中国に「対支二一カ条の要求」を突き付け、

中国では反日活動、五四運動が起きる。一方、

ロシアはレーニンによる世界初のプロレタリア国家が誕生、

大戦はヴェルサイユ条約で終結し、国連が発足、米国は参加しなかった。

大正9年(1920年)日本海軍艦隊計画に着手、

世界一の海軍を目指す翌年、原敬が暗殺される。

大正11年(1922年)ワシントン軍縮会議が開かれる中、

日英同盟が破棄される。その翌年、関東大震災が襲った。

大正14年(1925年)

ロカルノ条約によるヨーロッパの集団的安全保障体制が引かれ、

中国では蒋介石による北伐が始まった。日本では東方会議が組織される。

昭和3年(1928年)

張作霖爆殺事件が6月に、パリ不戦条約に調印したのが8月。

昭和天皇が即位したその翌年、ウォール街で大暴落が起き、世界が大恐慌に陥る。

同じころ、トロツキーが追放されソ連が秘密裏にスターリン体制に入る。

翌年には、ロンドン軍縮条約が、ナチスドイツが第二党に躍進、

日本国内は軍部と政府との統帥権問題で大振れに揺れる。

昭和6年(1931年)満州で万宝山事件が起きると、

9月、関東軍が満州鉄道を爆破、その満州事変の翌年、上海事変を起こし、

その後、満州国建国が宣言される中、桜田門にて天皇暗殺未遂事件があり、

青年将校による五,一五事件が起きる。

日本が完全に狂い始めた年として永久に記録されることだろう。

昭和8年(1933年)日本は国際連盟から脱退、

日本軍による長城線を超える侵入を開始し、

日本にとって一番最悪なシナリオへと進んで行く。

折しも、国民は何も知らされていない。

いったい何が日本を破滅へと狂わせたのだろうか。

軍部の暴走だ。近代戦争は全て軍による暴走である。

張作霖爆殺事件で関東軍作戦主任が責任を取り、

満州事変は関東軍司令官の本圧、作戦主任参謀の石原、同高級参謀の板垣の三人で書かれた。

満州を平定するのが一番だと考えた関東軍は、板垣征四郎が上海事変を一人で書く。

日本の敗戦後、

東京裁判で満州事変は侵略戦争の開始だと結論付け、

日中戦争や太平洋戦争の前提に当る国際法に背いた戦争犯罪だと裁定された。

東京裁判が 「勝者の裁き」 であることは否定しない。

しかし、国際連盟条約や不戦条約、軍縮会議に参加する日本と、

関東軍による行為は明らかに暴走以外の何物でもない。

帝国主義は独断による個別の主義ではなく集団によるもので、

親愛なる日本国民を戦争へ引き込んだ関東軍の暴走は、

決してあってはならないと再度認識すべきなのだ。


   つづく。




「幸福」を「科学」する。

2019-12-29 | グルメ
 12月29日 日曜日


 こんにちは。 酒好きの思想家です。


生きている間に

必要以上のエンドルフィンを出し続けることは、

死の際に必要とするモルヒネ効果が低下し、

痛みや苦しみが増す可能性がある。

キムチに多く含まれるカプサイシンとは、

神経の受容体を活性化させるアルカロイドだ。

つまり、苦痛を和らげるモルヒネ作用の役割をもつ。

そんなカプサイシンを 「穏やかなマゾヒズム」 と定義し、

舌で辛みを感知すると、脳が痛みを緩和するためエンドルフィンを放出する。

エンドルフィンとは痛みを鎮める生理学的な物質を備えた神経伝達物質だ。

カプサイシンの麻酔効果は近年の化学文献でしっかりと証明されている。

しかしそこには、問題が生じるのである。副作用があるのだ。

使いすぎると依存を起こし、死に際の痛みに効果が薄れるのである。

また、幸せと同様、分泌量にも何かしらの均一性があるようにみえる。

そこで今日は、

「幸せとはいったい何なのか?」 について 「科学」 します。

幸福感をつかさどる神経伝達物質、

セロトニン、ドーパミン、アドレナリン、オキシトシンとは、

私たちの幸福を感じさせる神経系と情報伝達を果たしているだけでなく、

脳の状態、閃きとされるインスピレーションにも影響を与えているのである。

脳の知られざる隠された機能、私達に幸福感を与えてくれるものである。

我々は現在、ありあまる贅沢の生活から幸せを守るための、

新しい幸福手段を見つけなければならない時代なのである。


これらの神経伝達物質は腸内で製造され脳に送られる。

胎内に宿るミトコンドリアは私たち細胞に必要なエネルギーを作る発電所のようなものだ。

ミトコンドリア無くしては高等生物の生活などまったく考えられない。

ミトコンドリアが神経伝達物質に重要な役割を果たしている証拠はたくさんある。

決定的な証拠は、二重らせんのDNAで、ミトコンドリは分裂し増殖してゆく。

従って、何を食べるかが幸福にとって何よりも重要となるのである。

私自身、かつて 「ランナーズハイ」 の体験者だが、

走っている時の苦痛は全く感じず、それどころか強く快楽を感じるのだ。

しかし副作用があって、正常に戻ると「うつ状態」に似た疲労感に襲われる。

こういった現象に対して何を食べれるべきかが解かれば幸福のコントロールが可能となるだろう。


そこでもう一つ重要な要素がある。

哲学的な問いである 「幸せとは」 何かだ。

幸福と苦痛は表裏一体である。

苦痛の無いところに幸福はない。

苦痛が先で、その後に幸福へと続く。

苦痛ー幸福ー苦痛ー幸福ー苦痛ー幸福の順番が理想的だ。

しかし現実を見渡してみると、

苦痛ー苦痛ー苦痛ー幸福の順番のように、なかなか上手に行かないようだ。

幸福ー幸福ー幸福と続くことは稀で、

それは一つ前の幸福感を台無しにした結果の幸福感である。

実際、一つ前の幸福はもう幸福ではなくなるからだ。

喉の渇きが一杯の水に力を感じるように、

有り余る水はかえって不快を生じさせる。

詳しく知りたい貴方は哲学書をどうぞ。


ここまでを踏まえ、「幸せについて」 もっと具体的な説明が求められる。

結論から言えば、

「幸せとは」 = 「朝ごはん」 である。

具体的には 「スープ系」、日本の場合は 「みそ汁」 である。

できれば 「具がたくさん」 入ったお味噌汁が最高だ。

なぜなら、

腸内の体温を上昇させなければミトコンドリが活発化せず、

幸福をつかさどる脳内神経伝達物質が作用しないからである。

つまり低体温では幸せにはなれずに引き籠りが起きる。

行動することが、起き上がることがすでに不快なのだ。

また、毎朝の朝食が幸福感への 「リセット」 となる。

一杯のみそ汁から始まる幸福への物語のスタートだ。

朝から「すき焼き」ではお昼に食べる「味噌煮込みうどん」がかすんでしまう。

実際、お味噌汁が体に良いことは医者も認めているように、

朝ごはんとは、ローコスト・ハイリターン、合理的だ。

朝食後、さっそくアドレナリン、ドーパミンを仕事や勉強に活用する。

活用方法は苦痛が先である。努力が先、「光の向こう側」 だ。

ここでは詳しい説明を省くが、

昼過ぎに眠たくなるのは例の副作用の仕業だ。

出来ることなら、シエンタをお勧めしたい。

逆に、極度に神経伝達物質を活用し過ぎるのは危険である。

「いざという時」 のために残しておいたほうが良いようだ。

死がいつ何時に遣ってくるかが判らないからだ。

どうやら私たちが死ね時には神経伝達物質のおかげで、

痛みや苦しみが感じないよう出来ているのである。

幸せの神様は私達の最期を幸福へと導いてくれると約束している。

それこそが、真の 「幸福」 を 「科学」 することだと断言して今日は終わろう。



   つづく。


歴史認識(結果と過程)。

2019-12-28 | 学問
 12月28日 土曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


「歴史を忘れた民族に未来はない」

確かにいい文章だ。名言だ。

問題なのは、歴史が事実かどうかにある。

歴史に対して感情移入していてはただの子供であるからだ。

そこで、結果と過程。

もしかすると、

歴史修正主義とは結果修正主義のことかもしれないのである。

なぜなら、

歴史とは結果よりもプロセスが何よりも重要だからだ。

疑うなら例を挙げてみよう。

「当時、ヨーロッパは三十年戦争に突入し、

 イギリスは東インド会社を設立、

 オランダはジャワにバタヴィアを建設、

 ポルトガルは広州にマカオ創る。

 ロシアはヤクーツクに城塞を築き、

 スペインはマニラを占領。

 その時代、満州が統一、明から独立し、

 李朝朝鮮を従え、西安を占領、皇帝となる。

 明は北京を失い、紫禁城を捨て、万歴に亡ぶ。

 その時、日本に鎖国が認められたのは、

 秀吉による朝鮮出兵があったからである」・・・。

歴史は結果でもなければ感情移入でもない。プロセスが重要だ。

ところがどうしたことか。大多数の日本人が、

「結果がすべてだ!」という。

「プロである以上、結果を残せ!」と。

あなたも「そうだ」とうなずいていることだろう。

とにかく日本人は結果主義なのである。

間違えてはいけない。成果主義ではなく、結果主義だ。

違いは、そこにプロセスが欠けているところにある。

実際、日本人はプロセスとなると急に思考が停止する。

考えるという過程が無いから議論がない。

だからひたすら結果を出せと言い続ける日本人には、

議論が出来ないのである。だから想起も解らない。

想起が起きないから成果主義とは呼ばれない。

TVを見れば一目瞭然だが、日本人は議論が下手である。

まるで反抗期に見せるツッパリのようだ。

いい例が、国会質疑である。

あれは議論か? それとも反抗的発言なのか?

もしかすると、日本語が難しすぎるのが原因かもしれないが、

ひとまず、そのことは後にしよう。

一体、プロセスとは何ぞや? あなたはそう思ったに違いない。

結果が出なければ思考が停止する。なぜだろうか?

どうして、日本人にプロセスが無いのか?

歴史から学ぼうと思う。

過去、日本は大陸や海洋民族から文化を取り入れ、

江戸時代は、和魂漢才、近代では、和魂洋才、現代では、和魂米才である。

勘の良い人は薄々気づいたかも知れないが、

どうやら、日本にプロセスが欠けているのは、

一貫して他国の結果を学び真似をしたに過ぎないのが原因だと考えられる。

例を挙げれば、

名古屋の発展は、東京と大阪のモノマネであるという、

発展にたどり着くためのプロセスよりも、

結果良ければすべて良いのだ。

なるほど。通りで日本人はモノマネが好きな訳である。

本物よりもそっくりさんに人気が集まる理由だ。おもしろい。

話を戻して、

歴史修正主義も同様、

結果しか見ずにプロセスも考えずに感情移入になるのであれば、

思考が停止すれば当然、感情が押し寄せてくるのは理解できる。

または無関心か。ここでは無関心は省略して、

歴史感情移入を分かり易く例えるならば、

江戸時代の人が何を考え、どう行動したかが

正しい歴史認識でありプロセスであるように、

「あの時、こうすべきだ」、それは現代の課題であって、

黒船が捕鯨船だとか、インドから来たとか、親日だったとかは、

私たちの歴史観であって後付なのである。

ここで「ハッと」した人もいるだろう。

それこそが歴史修正主義なのかもしれないのである。

この問題定義、なかなかおもしろそうだ。


今日は結論が出なかったが、

重要なのは結果ではなくプロセスだから、

「それもまた、良し」 としようか。


   つづく。


靖国神社。

2019-12-27 | 社会問題
 12月27日 金曜日

 こんにちは。 酒好きの思想家です。


軍の暴走には動機があって目的がない。

竹島を取り戻すための侵略行為は、

主張の違いであって平和ではない。

それでも「韓国軍が正義だ!」というのなら、

犯罪心理学をお勧めする。



靖国神社について。

天皇陛下、総理大臣が靖国神社に参拝出来ないのは、

米軍によるものである。

中国や北朝鮮、韓国によるものではなく、米政府でもない。

10月に行われた暦代わりで分かった。

靖国神社参拝については、

軍人と民間人とを区別しなければならないし、

平和の象徴なら、民間人にも同じ主旨でいい。

本来ならば、日本の軍人も米軍の兵士も中国の軍人も

一緒に祈るべきである。

それは戦争の選択が兵隊によるものではなく、

味方であれ、敵であれ、軍人はみな同じだからである。

敵が変われば、味方にだってなれるからだ。

米軍がなぜ、これほど靖国神社に反対するのか。理由がある。

日本文化の中に「忠臣蔵」、敵討ちが名誉、誇りだというからだ。

仇討ちが大義名分、「リメンバー・パールハーバー」だ。

「わが心、奮起して神明に誓う。犬死してのち成仏するものと。」

「わが心、誠に武、誠に義。以て忠義を尽くし報復するは大義なり。」

これではいくらなんでも日本人が鬼に見える。恐ろしすぎる。

アメリカによる日本の対策には、

1、米軍の戦略として、

a、日本が報復に出ないよう再軍備を殺ぐこと。

b、プロパガンダにより自虐史観を教育し自信を失わせること。

2、米政府の戦略として、

a、資本主義社会の優位性を示すこと。

b、日本をモデルに東アジアの統率を図ること。

これらが共通するものは、

「天皇を中心に靖国に誓いを立て、米合衆国に報復させないこと」である。

二度の原爆実験を行った当時の合衆国の責任は重い。

しかしである。

現代の日本人はこう考えている。

「日本人は決して腰抜けになったのではく、

 大いなる悲しみを知った国民なのだと」。

また、「現代のアメリカ人は何も悪くない」と。

「現代の米国に敵討ちをして何が大義だ」と。

事実、大多数の日本人は現代のアメリカ人を

全くと言って良いほど恨んでいないどころかアメリカが大好きだ。

その証拠が、

70年以上変更されない「日本国憲法」にあるのだから、

敗北の姿勢を憲法を守ることで示してきたのである。

日本軍は内戦には強いが、外戦には疎いこともよく判ったし、

仮に今度、戦う時は、米軍が指揮を執り、日本兵が先陣を切ろう。

大丈夫。日本人は裏切ったりしない。(そうならないことを願う)

とにかく、

同盟国として今後はそこから考えればいい。未来志向だ。

私たちは歴史の重荷に耐え兼ねているのである。

私たちは歴史の修正が求められているのだ。



    つづく。


年に一度の自分ブログ。

2019-12-26 | 文学
 12月26日 木曜日

 こんばんは。 酒好きの思想家です。


韓国人の本質。

プライドが高く、礼儀知らずには激怒する。

常に自分が一番か主役でなければ気が済まず、

教育熱心で情が厚く思いやりのある民族だと信じて疑わない。

まるで高校生時代の日本人のようだ。

韓国で大人なのは、文士(ソンビ)だけなのか?

いいかげん、早く大人になりなさい。



今夜は、一年に一度、自分のことを書こうと思う。

私の著作である「酔書」は小著であるが名著であると言える。

実際、二万五千円のプレミアが付いている。

しかし、全体としては散文的であり叙事的なものとは程遠い。

確かに当時は酒好きの研究者の一人に過ぎなかったのだから、

まだまだ修行が足りなかった訳である。

だからといって、なるほどなかなかの名著である。

スコープが一貫していて、著者の独自の視点が行きとどき、

従来のどんな書物にも当てはまらない。

高い価値を持つ文献だ。

おそらく多くの人に影響を与え、

考え方が変更させられたに違いない。

文章も上手い。なにより説得力と自信に満ちている。

著者の自信は「酒」と「文芸」、

もう一つ「インスピレーション」、気づきにある。

だから書く時はほとんど即興。

「何か」に引かれるように書く。

こういうのを「達人」か「玄人」か「哲人」とでもいうのだろう。

「個人」であったはずのものがいつしか「全体」へと合一されてゆく。

自己流だが鋭く、必殺の一撃には目を見張るものがある。

無造作だが自在で、すこぶる爽快なのだ。

温故知新の特色を色濃く表現している。

本物の迫力がそこにある。

だからと言って、人類の知の全体を見通すとは言い難く、

文献を圧縮し一心乱さず書き上げるには、

文体による骨法が少なすぎたのではないかと思われる。

議論するには、はなはだ不完全で人物的象徴も不透明、

夢想であるはずがほとんどイメージ化されていない。

ところが人間の本質と自然を対照的な捉え方だと見れば、

深淵を表すことにおいて、極めて具体的であるといい、

日本人らしさが随所に感じられるのが個性的である。

本書を手に取った人達の自信に繋がるならそれも評価だ。

それから10年がたつ現在、

いささか名人芸とは只ならぬことだが、

それでも急ぎ立てられず、じっくりと熟成させられた実感がわく。

その実力とは現在のブログを読んで頂ければお分かりになると思う。

総じて世の中の見方による真骨頂には言霊の芸当にあるだけでなく、

表と裏とを同時に気づく感性を養うこと、

そしてその人格や人柄に現れる稀なブログに仕上がっている。

普通、世の中のタブーを扱うブログは傍観しておきたくなる。

それをそうではなく、時に構造的に、時に感覚的に、

自己を離れて間接的に理解し共感できる能力。

やはり優れた人物というのは、とりわけ優れた著書というのは、

何度も読み込むほかに、決して解けない高い価値を持つ文献なのである。


    つづく。



メリークリスマス。

2019-12-25 | グルメ
 12月25日 水曜日

 こんばんは。 酒好きの思想家です。


今夜はみんな仲良く。メリークリスマス!


クリスマスに、ふと気づいたことがあります。

クリスマスケーキが新しい問題を生んでいると。

ケーキが大好きな私が、4種類のケーキから

一つしか選べないとしたら実に苦痛だ。

どれか一つに決めた瞬間、

他のケーキをあきらめなければならないし、

苺がたっぷりか、それともチョコレートケーキにするべきか、

いや、アイスクリームケーキにすれば良かったと後悔するに違いない。

一番良いのは、全部食べることだが、

そんなことをすれば逆効果で、また後悔してしまう。

かといって、どれか一つを選べば結局、

「本当にこれで良かったのか?」と

考えながらお店を出ることになるのだ・・・・・・・。


クリスマスケーキとは、

「複雑さ」の例であって、「難解さ」の例ではない。

大多数の人達がクリスマスケーキが好きなことは私も知っている。

だが実際にはどれにしようか、誰もその答えに到達していない・・。

「複雑さ」の現象には、

一つ一つ細部にわたって調べれば説明が付くが、

「難解さ」の現象の場合はそうはいかない。

その結果が一つ一つの感情により常に激しく揺さぶるからだ。

クリスマスケーキは私のことなど気にかけないし、

周囲の反対やリスクなどにも恐れていない。

選択することは「難解さ」なものであり、

ケーキ自体は「複雑さ」なものである。

クリスマスケーキは色々と工夫することは可能だし、

それでいて基本的な性質は何も変わらない。

例えば、

チョコケーキに苺がたっぷりでもケーキはケーキだ。

一方、「難解さ」の場合、

自らの選択に自信が無くなってしまうと、

クリスマスケーキの概念までもが覆される危険がある。

大切なことは、

クリスマスケーキの構成要素ではなく、

どのケーキが一番なのかではなく、

一年に一度のクリスマスをどう過ごすかにあるのだ。

芸術と同じくクリスマスは見る者の目の中に映し出す一つの真実なのである。



    つづく。


日本人に愛があるのか?

2019-12-24 | 
 12月24日 火曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


韓国はキリスト教?であるから、

当然、隣人愛があるはずだ。

愛が無ければキリスト教徒とは呼ばれない。

重要なのは日本に愛があるかが問題だ。

新渡戸稲造の「武士道」曰く、

日本人には隣人愛の概念が欠けていると説明されているが、

冗談じゃない! とんでもない誤解だ。

日本人独自の愛とは具体的な形で表されているのである。

隣人愛と自己愛とが融合しようとするはっきりした強い愛が存在している。

それが、「義理と人情」である。

義理は隣人愛、人情は自己愛だ。

義理のしがらみ、情の綱というように、

義理は公事、人情は私事、義理は利他的、人情は利己的、

義理が忠義となり名誉であり誇りとなって愛である。

「利得にさときものは、義理にうとく候」と昔はいう。

だから日本人は高倉健が大好きだ。

「義理と人情、秤に掛ければ義理が重たい男の渡世」。

自己愛と隣人愛とでは少しばかり隣人愛が重いのである。

一風変わった愛の表現ではあるが、具体的で判りやすい。

もちろん、女性にだって「義理と人情」は存在する。

まして女性でも人情よりか義理を重んじる文化、美しい愛だ。

現代、「世間知の無い世の中だ」と言われる理由には、

「義理と人情」が薄れてゆく、愛の無い社会だと言えるのである。

極論で言えば、任侠道とは「愛」、仁義は「愛」なのである。

自信をもって言う。

日本人こそが、具体的な愛の形で溢れている社会なのだ。

他にもある。

感情を内に秘めることを美徳とする日本人ならではの

「わび」「さび」とは、感情ではなく感性であって、

世界では「アイラブユー」が感情表現となるが、

日本人は「忍ぶ恋」が感性的な愛の表現となる。

どちらが良いかは感情による判断だが、

感情だけでは善悪の判断がつかないように、

感性では共感することが日本独特の文化的な愛となる。

感情を外に表す外国と、感情を内に秘める日本との違いだ。

愛には新しい理解と現実を生み出す力としての役割を持ちうる。

事実、私たちは愛することが出来ることだけを見ている。

憎しみだって愛の一種だ。

愛についての私たちの見方は、

私たちの感情的見解と言葉のやり取りで決まってゆく。

従って、愛を口に出さなければ愛が無い人になる。

どちらにせよ、私たちの愛を認識する際の概念となるのだ。

「義理と人情」それは、

広い意味で人間の相互依存関係の具体的な構造であり、

ウィン・ウィン愛なのである。



    つづく。


「もののあはれ」

2019-12-23 | 文学
12月23日 月曜日

こんばんは。 酒好きの思想家です。


心理学的な見方をするなら、

慰安婦や徴用工は日本の問題ではなく、

韓国自身の問題だということになる。

なぜなら、

韓国人男性より日本人男性の方が優しいし、

韓国人男性よりも日本人男性の方がよく働くからである。

嘘だと思うなら、韓国人女性に聞いてるといい。



今夜は、

本居宣長について書きたいと思います。

「もののあはれ」「やまとたましい」「いにしえこころ」

これらは日本の美意識と同時に目標でもある。

過去の「和魂洋才」、現代の「和魂米才」も同様に、

「才」とは「能」を引き出すための「才能」である。

本居宣長が生涯を通じて発見したのは、「いにしえこころ」。

日本を見失わせるものそれを「からこころ」と言った。

「からこころ」とは現代の中国語を指す。漢字だ。

儒教による陰陽半ばで合一する絶対的な原理原則を用いず、

日本独自の善と悪をも想定しきれない「国学」の創出なのである。

本居宣長は当時、

儒学による性善説を現実社会に背いているとして真っ向から否定した。

「吉凶の万事、みなことごとく神の御業なり。」であると逆破した。

つまり日本人が大好きな性善説は、

儒学(からこころ)から端を発しているのである。

勘違いしてはいけない。この世界は決して楽園ではないのだ。

本居宣長は気づいていたのだろう。この世が地獄だと・・・。

「古事記」の完成に「からこころ」が邪魔をすると。

それは何も本居宣長が勘で言ったのではなく、

古典をつぶさに解読しながら明らかにしていったのである。

それだけではない。

当時の仏教、道教も「道の裂けた世」であると見ていた。

さすが偉人宣長。

世の中に対する見解の鋭さは群を抜いて、

極めて珍しい世界的な日本人であった。

そして何より惹かれるのは、

文章がめちゃくちゃに上手すぎるのである。

宣長思想に「言霊」「いにしえこころ」を合致させて情緒を開けば、

「もののあはれ」であって、それは「目覚めるもの」なのである。

「ものの、あ・わ・れ」であって、「ものの、あ・ら・わ・れ」である。

「言霊」には「表と裏の境界面」があり、

それを感知し表すことで共感や感動が生まれると説く。

本居宣長によると、言葉には二つの意味があるというのだ。

なるほど、言葉には表と裏があるから読んで楽しい訳である。

それは「心に思うこと」、それを「もののあはれ」、

そして「もののあはれにとどめけれ」。

物事の現象に現れるのが「もののあはれ」、

古事記、国学とは日本の「あ・ら・わ・れ」となる。素晴らしい。


それにしても本居宣長は偉人である。

宣長が19歳の時に描いた「理想の王国」が残されているのだ。

そしてその「理想の王国」が創出されなくても、

後世に語り続けられてさえゆけばそれが「王国」なのだと知ったのである。

本居宣長にとって「もののあはれ」とは「理想の王国」なのである。

「せつなく、はかなく、わびしく」だけが

「もののあはれ」 ではないのです。


ここで最後に一句。

「心たくみに、言霊ふかく、気づく姿も、あはれを好む」


    つづく。


日本論。

2019-12-16 | 文学
 12月16日 月曜日

おはようございます。 酒好きの思想家です。


韓国は本来、政治と文化を分けるし、

政治と軍事も厳密には分ける。

だが、実際は韓国軍の暴走、大統領制の失敗。

犠牲になるのは決まって善良なる国民である。

一体、韓国の何処に正義があるというのだろうか?

「韓国軍は平和の軍隊だ!」

勘違させているのはその感情の内にある思い違いだ。



日本論についての考察。

もう一度、見直したほうがよい時期だと考えます。

日本にいて不思議だなと思うことは、

海洋国であるのにシーレーンに極端に弱い。

海洋文化、海洋芸術、海洋利用もあまり無い。

日本人は常に外国を敬い、外国を真似し、外国を避けてきた。

このことは歴史を通じて一貫している。

聖徳太子の三国対策、遣唐使による仏教と密教。

清盛や義満の貿易交渉、秀吉の大陸進出、儒学の導入、

文明開化にせよ、大東亜共栄圏にせよ、高度成長にせよ、

振り返って見ると、

必ずしも安定政策かどうなのか。迷うところである。

おそらく日本はずっと、「開国」から「海国」へと進まないのだ。


たたみかけて書くが、そもそも日本人のルーツには、

大陸民族と海洋民族の混血にある。眉毛の濃さが物語る。

日本が単一民族の国だという

「神話」が生まれたのは鎖国によるものだと考える。

士農工商も幕藩体制も参勤交代も黒船の来航によって

たちまち国論が「葵」か「菊」かに二分し、討幕となる。

大政奉還したものの国家思想だけでは国がまとまらず、

西郷、板垣による征韓論が新国家論へと発展してゆく。

そんな中、

明治体制に入り立憲君主制と有司専制を前提に大日本帝国が誕生、

大日本帝国憲法が制定されることによりここから官僚国家が始まる。

その後、日清・日露戦争によって国粋ナショナリズムが

「アジアは一つ」と共鳴するまでは良かったのだが、

朝鮮半島の統治は下手どころか最悪だったし、

満州国の樹立時には国際社会を惹きつけるシナリオに欠けていた。

良くも悪くも、東アジア諸国は独立を勝ち取り、

敗戦後、日本は立憲民主主義となる。

そして現代、

沖縄基地問題にせよ、貿易摩擦にせよ、靖国参拝にせよ、

日本は未だ米国の属国なのである。

また、米軍の強権によって日本、韓国、北朝鮮だけは、

決して復活させられない事情というものが勝戦国にはあるらしい。

本当ならば、日本、韓国、北朝鮮、中国には、

一緒に考えなければならない文化や歴史がふんだんにあるのだが、

しかしそれは決して許されないのだ。

北京、平壌、京城、そして東京。

これらは対立させておかなければならない理由が存在するのだ。


   つづく。

13日の金曜日ブログ。

2019-12-13 | 
 12月13日 金曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


とかく、韓国を何かと「悲劇の民族」と呼ぶのを止めてほしい。

韓国が歴史を直視したくないのは、その為である。

だからと言って、どんな悲劇的な歴史が展開されても、

必ず最後にはハッピーエンドで終わると信じているのだ。

韓国人の本質には、韓流ドラマにある、「ムオッ」だ。



13日の金曜日ブログ。

イエス様を十字架から解放するための活動です。

必ず奇跡が起きると信じます。


ちょっと、過激な仮説ですが、

世界がゆがんで見える理由には、

二千年間、イエス様が十字架に縛り付けられているからだと考えます。

馬鹿にするなら、一度試しにやってみるだけの価値があると思います。

新生キリスト教の誕生として歴史に現代が刻まれることでしょう。

実際、イエス様のお望みは「愛」です。

十字架による「死の恐怖」ではない。

世界はユダヤとの対立に終止符を願う。

神の復活を本気で叶えるなら良い考えがあります。

イエス様を十字架から解くのです。

必ず奇跡が起きる。自信がある。


先月、ローマ法皇が大嘗祭に合わせて日本を訪れましたが、

ローマ法皇と大嘗祭との関係。なるほど、どうやら

ローマ法皇は日本人に何かメッセージを残していったようである。

もしかすると、日本にとって歴史的瞬間だったのかもしれません。

やっぱり、天孫降臨とはユダヤ使徒だったのかな。

だから日本神には偶像も無く、中心に向かうほど空っぽか。

そんなユダヤ使徒との契約が「三種の神器」で、

「外は、ずぶずぶ。内は、ほらほら。」。

院政が何だったのかというと、

常に天皇の背後に何かが隠されてきたということである。

日本社会の担い手になってきたのは、

お寺でもなければ、神社でもなく、まして

コメ文化でもなければ、武士でもなかったのである。

「平等院」あれは「神の前ではみな平等」なのか。


重要なのは、そんなユダヤ使徒との契約を、

日本人が二千年もの間、守り抜いたという事実である。

それが先月、一緒になった。

「日本人とユダヤ人との繋がり」なかなか面白そうなタイトルだ。


そんな日本人だからこその考え方がある。

人類の救済はやはりイエス様ご自身であろうと。


「神よ。願わくば どうか私達に正しく見る目をお与えください。」

「神よ。どうか私達に一歩を踏み出す勇気をお与えください。」

「歴史、ただそれだけの理由でいがみ合うのを見るのはもう、うんざりだ。」


    つづく。


陽明学と日本の社長さん。

2019-12-09 | 学問
12月9日 月曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


韓国の行動パターンのリストを作ったとしても、

その答えは常に一つしか出ない。「逃げること」だ。

厳密に言えば「逃げること」は困難への対策ではなく、

あくまでも国難を遠ざける方法に過ぎない。

おそらく「逃げること」が韓国にとって

最適な行動基準なのだろう。

まさに、「無責任ヒーロー」にとって

逃げ足の速さこそが捨て身攻撃なのである。




陽明学について。

日本の社長たちが何故、中国に憧れるか?

考えてみたいと思います。

おそらく近年は陽明学を過激思想だと敬遠されがちだが、

50歳以上の経営者たちには愛読書の一つである。

例を挙げれば、

安岡正篤が政界のご意見番であったり、

三島由紀夫の「革命哲学としての陽明学」や、

大塩平八郎の「殺身成仁」、

中江藤樹の「良知」、西郷隆盛の「敬天愛人」、

吉田松隠の「天下のために立志し、聖人たるや絶学を受け継ぐ」、

ご存じ 「知行合一」「格物致知」 だ。


王陽明と言えば、「無善無悪」

「極端な善は無く、極端な悪も無い」という風に、

「もっと自由で自在に目の前にある「現成」を持って

「格物致知」を志し、「良知」を行え」であり、

李卓吾の「童心」、「童心に戻って天人合一せよ」と成る。


なぜ、この様な陽明学が日本で発展して行ったのかだが、

一つは、

偉大なる漢民族が万歴に滅び、この時に日本が鎖国に入る。

二つ目は、

家光が「日本書紀」、光圀が「大日本史」の号令を出す。

だから、「朱子学 ー 陽明学 - 水戸学」である。

私が好きな林羅山、熊沢蕃山、佐藤一斎、本居宣長たちに影響を与え、

幕末の志士たちを動かし、徳川が始めた国学が、

江戸幕府250年に革命をもたらす。


ところで、日本の社長さん達はご存じだろうか?

陽明学という言葉は中国には無い。

中国陽明学とは今の中国以前の話で、現中国には存在していない。

だから、現在の中国で「知行合一」「格物致知」と言えば「危険人物」だ。

中国に憧れるには正しい歴史認識が必要である。

日本の特色や持ち味を中国にそのモデルを求めて近づくことを「慕夏主義」といい、

日本はもっと中国に成るべきだと確信することを指す。

しかし、現在の中国には「陽明学」も無ければ「論語」も無い。

現中国人思想とは、中国が勝戦国、日本は敗戦国だ。

お人好しの日本人社長は「勝利品」となる。


それよりも、せっかく陽明学を身に付けているならば、

日本こそが真の中国になれば良いではないか。

東アジアを日本が軸となり源となって、

「八紘一字」「大東亜共栄圏」「五族協和」という

日本型による中華思想が望ましく美しい。

こちらの方が陽明学らしいと思うのですが、

日本の社長さん達のご意見を伺いたいものです。



   つづく。


日本人の成立。

2019-12-02 | 文学
 12月2日 月曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


韓国人は感情を外に表すことを美徳とし、

日本人は感情を内に秘めることを美徳とする。

確かに感情は人間に必要な要素なのだが決して万能ではない。

なぜなら、感情だけでは善悪の判断がつかないからだ。

韓国人は日本人のことを「能面のような顔だ」というが、

日本人は韓国人を「幼稚な子供だ」と見ている。



日本人の成立。

日本人のあなたにお聞きします。

「あなたの宗教は何ですか?」

たいていの場合、さっと答えが出る日本人の方が少ないと思う。

日本人は宗教をどの様に自分の問題として捉えているのか、よく解らない。

それでも日本人は神仏が大好きである。本当です。

何はともあれ、日本人とは神仏大集合のお祭り好きなのである。

細かい説明はここでは省くが、

「無宗教だ!」と言いつつ、「困った時は神頼み」だ。

実は海外では日本は仏教国だと考えている。

これには歴史的理由がある。

江戸時代にキリシタン禁圧と宗門別改名とお墓の確立によるものである。

またそれとは別に、「日本は神道イズム」「習合した宗教」を

信仰していると思われているようだが、どの程度なのかは、不明である。

一体いつ頃から「いいかげん」で「はっきりしない」日本人になったのか。

そろそろ卒業する時期だと思い、日本人の成立を想起します。

結論から話すと、

天照大御神と天皇制が合一した時が日本人の成立です。

なぜなら、天照大御神は自然神、国土神であり「信仰」であって、

それを天皇制が合一して「神道」が成立するからである。

言い方を変えれば、

ヤハウェ神、アッラー神は「信仰」であり、

モーゼ、イエス、モハメッドたちが「宗教」となる。

「神は信ずるもの。宗教は成るもの。」

「神は感ずるもの。宗教は居つくもの。」

従って、天皇制、靖国人社は「神道」にあたり、

天照大神は太陽神。

住吉神社、弁天様は水の守護神。

母なる大地は、日本鎮守、八幡の神。

村々にある神社はその土地を守る神である。

だから神社の中心は「からっぽ」なのだ。

神様は常住していないし、神像をもない。

自然災害の多い日本にとって、国土神の存在とは

「神のたたり」と「神頼み」が祈祷である。

実際、日本の神社は地震帯の上に位置している。

これらの「グレートマザー神」たちのお力に

天皇制を合一させた時代が日本国の成立だと考えます。

その後、大宝律令、日本書紀の完成、皇位継承へと発展していく。

問題が発生するのはここからだ。

日本歴史論には時々、神道を中心に天皇を神輿に担ぎ、

天地災害を大義名分とし、神仏の加護を仰ぎ、戦を仕掛けるのである。

代表的な例は、戦国時代と靖国神社だ。

江戸末期は公武冷体であるのに対し、

鎌倉末期は公武水火の世というし、

大日本帝国では国家神道という風に、

時代の指導者は必ずと言ってよいほど、

神道や天皇を理由にし利用してきた歴史があるのだ。

そんな過去がある以上、よって天皇は神ではなく、

日本の象徴として国民に慕われているのである。

そもそも天皇とは何か? 天孫降臨とは?

仮説ですが、ユダヤ使途が関係するのではないかと想像します。

そう考えると日本人の成立にはユダヤ人が関与している可能性がある。

不比等なる人物がユダヤ人と接触しているかもしれません。

そう、我々はいつだって「外来」との接触を覚悟しておくべきである。


ここまでは「神道」。

改名してお墓に入る私達は「仏教徒」だ。

一般的な仏教徒は、みんな「まじめ」である。

「まじめ」とは修行僧を意味している。

「人の一生とは、重き荷を背負って遠き道を行くが如し」だ。

「仏教神」とは解りやすく言うと、

死者と生者との風習にあると考える。

お仏壇とお彼岸参りがそれにあたる。

日本人は目に見えない霊魂と共に生かされているのだ。

霊魂もまた自然神と同様、

恐怖の対象であり、救済の存在でもある。

このお坊さんも時には西栄や日蓮と同じく、

しきりに天皇と仏教を合一させようとする動きがある。

「神道」と「仏教」との合一。

このあたりに、日本人の宗教観である「あいまいさ」がうかがえる。

よく外国人が笑い話に「日本人は無宗教だ」と言うが、

日本人であって無宗教でいるのは結構難しい。

お祭りや合格祈願、冠婚葬祭、自然災害の恐怖や死後の世界など、

いたることろで、神仏大集合だからである。

もしかすると、無宗教ってただの無知なだけなのではないのでしょうか。



   つづく。