酒好き文化風俗研究者

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「北方領土の日」

2020-02-07 | 歴史
 2月 7日 金曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


1855年、択捉島とウルップ島の間に、

国境を定めた日露通好条約が調印された50年後、

世界は白人至上主義の手による植民地支配の完成のさ中、

突然、予期せぬ番狂わせが起きた。

「バルチック艦隊、極東にて、全滅。」

世界最強と評した無敵のバルチック艦隊が、

世界の最果で何者かの手によって全滅したのである。

こうして日本が文明国と呼ばれるようになったのは、

ロシアから極東を守り抜いた1905年、

日露戦争に勝利したロシアのおかげである。

当時、東洋の小さな島国が列強諸国に打ち勝つなど、

誰も予想しなかった出来事であった。

その後、日本はポーツマス条約により南樺太を獲得、

韓国の保護権と遼東半島の租借権を手に入れた。

明治政府は韓国総監府を設置。伊藤博文が京城に出向く。

ロシアによる極東進出を是が非でも防いでみせるというシナリオが、

五族協和(韓国、北朝鮮、モンゴル、中国、日本)、

大高麗国設立という計画へと進んでゆくのである。


1914年、第一次世界大戦が勃発。

ロシアはレーニンによる革命が成功し、

世界初のプロレタリアによる共産主義国家が誕生した。

その革命家レーニンの死後、トロツキーが追放され、

ソ連は秘密裏にスターリン体制に入っていく。

1939年、第二次世界大戦へと突入。

歴史上最悪と言われる暗黒時代の真っただ中である。


モスクワが東京に宣戦布告したのは1945年8月8日、

一つ目の原爆が広島に投下された二日後のことである。

二つ目の原爆が長崎に投下されるのは承知していた。

ソ連軍が敗戦後の日本の戦場に留まっていたのは、

たった、六日間に過ぎなかった。

スターリンには平和の実現者になる気などまったくなかった。

独裁者は最後の最後に戦争に加わり、

戦勝国として報酬を要求出来る立場に立ちたかったのである。

実際に太平洋戦争を4年近く戦い抜いてきた米国とは違い、

隣国の地でありながら、せいぜい150時間足らずの戦いで、

しかも相手が武器を手放した後でしか戦っていないのである。

戦争とはそういうものだ。

漁夫の利を得たソ連は、

南樺太、北方四島、満州、朝鮮半島を戦利品とし、

占領が終わった時点で浮き彫りになる日本の弱点を上手くついたのである。

後先のことなど考えない。強ければ良いのだ。

こうして北方領土はロシアの領地(勝利品)となったのである。

問題があるのはソ連か?

それとも戦争に敗れた私達なのか?



    つづく。


敗戦後の日本の記憶。

2020-02-04 | 歴史
 2月 4日  火曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


団塊ジュニア世代である私自身は

戦後から数えれば二世代目にあたる。

敗戦後、豊かになった日本に見えたが、

全学連による内ゲバ闘争の激化や、

沖縄返還と安保条約をめぐって激しい対立もあった。

中国との関係が次々にギクシャクしていったのも事実だ。

だが、

それを上回る高度成長が救いだった。

波の乗った所得倍増計画によるはずみであり、

いわゆる集団就職による高い賃金と、

都会生活におかれた個人の所得が跳ね上がったことである。

1965年(昭和40年)制約は次々と取り除かれ、

その後、6年~7年間の成長率は年12%を超え、

1960年(昭和35年)、約250億ドルだった日本のGNPは、

1970年(昭和45年)には、二千億ドルに達し、

1980年(昭和55年)には、一兆ドルを超える。

1960年(昭和35年)の国民所得は、

1970年(昭和45年)には、

アメリカやフランスに近いところまで、

一般国民の生活水準を引き上げ、

日本のGNPは英国、仏国、独国に近づいた。

同時に、休暇を楽しむ余裕も高まった。

当時、三種の神器と言われたテレビ、冷蔵庫、洗濯機が、

自動車、マイホーム、ハイテク家電へと

見る見るうちに格段と変わっていった。

労働者のエンゲル係数は50%を超えていったのである。

賃金は年率15%の上昇、

商売の神様は 「消費は美徳だ!」 と高らかに言い放った。

何もかもが 「うなぎ登り」 の威勢のよさだった。

それは日本人が贅沢になったのではなく、もう一度再び、

自信を持つことに大きな意味があったのだ。

いわゆる日本流の国民総中産階級である。

娯楽拡張や文化の再現、高水準の教育はもちろん、

海外旅行は自らを発見するだけではなく、

世界を日本流へと発見していったのである。

これらの流れに火を付けたのは、

まぎれもなく南北朝鮮戦争だった。

日本の繁栄には、ソ連と中国が北朝鮮軍を使って

釜山近くまで迫ってきたおかげである。

特需景気に沸いた時代だった。

日本は対外貿易の重要性を自覚していったのである。

軍事拡張などせずとも豊かで満足のゆく

生活が出来ることを立証したのだった。

戦勝国が要求する厳しい戦後生活の時代から、

切り抜けられる願ってもないチャンスだった。

その後、第七艦隊がベトナム戦争に突入すると、

日本は再び功を奏した。

米軍に必要な物資の多くは、

真面目な労働者に信頼が集中した。

新しい溶接技術、石油化学、造船、工作機械の産業が、

軒並みに素早く整えられていったのである。

品質が良く、コストが安い日本の商品は、

瞬く間に世界一流のブランドへとのし上がっていった。

その成長の足取りは、技術革新が相次ぐなか、

改善と継続によってそのまま維持された。

代表的なのはトランジスター革命だろう。

テクノロジーの画期的な発達は、

パイオニアとして世界市場の70%と、

日本全体の市場の40%を独占した。

実際、日本の産業で不良品が出る率は、

世界で許されている率の10分の1以下である。

今では日本人が海外に出かけて

そのノウハウを教えているくらいである。


これら戦後の日本の復活は、

政府と民間である産業協力の所産だといえるのである。

こうして日本は世界でも最先端のテクノロジーで装備し、

後続を大きく引き離して独走してゆく。

そして現代。

世界に追いつき追い越せと一団となって取り組んできた戦後政策に今、

求められているのは世界に先行した新しいビジョンそして、

日本人としての誇りと自信なのである。




    つづく。



軍部の暴走。

2019-12-30 | 歴史
 12月30日 月曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


国家に関係なく、政府と軍部との間には対立が生じる。

国家のパワーバランスが比例だと仮定すれば、

偏った軍部へと何らかの切り替えが行われるのだろう。

仮に政府と軍部が行き過ぎた社会体制に協力することが可能ならば、

国家のパワーバランスは比率に安定したはずだ。

ところがそうは上手くいかない。なぜか。


歴史から紐解く。

日本が文明国と呼ばれるようになったのは、

当時、世界最強と謳われたバルチック艦隊に勝利した後である。

ポーツマス条約により南樺太を獲得し、

韓国の保護権と遼東の租借権を手に入れる。

日本が勝ったのはロシアで、朝鮮ではない。

大正3年(1914年)第一次世界大戦が勃発、

日本は中国に「対支二一カ条の要求」を突き付け、

中国では反日活動、五四運動が起きる。一方、

ロシアはレーニンによる世界初のプロレタリア国家が誕生、

大戦はヴェルサイユ条約で終結し、国連が発足、米国は参加しなかった。

大正9年(1920年)日本海軍艦隊計画に着手、

世界一の海軍を目指す翌年、原敬が暗殺される。

大正11年(1922年)ワシントン軍縮会議が開かれる中、

日英同盟が破棄される。その翌年、関東大震災が襲った。

大正14年(1925年)

ロカルノ条約によるヨーロッパの集団的安全保障体制が引かれ、

中国では蒋介石による北伐が始まった。日本では東方会議が組織される。

昭和3年(1928年)

張作霖爆殺事件が6月に、パリ不戦条約に調印したのが8月。

昭和天皇が即位したその翌年、ウォール街で大暴落が起き、世界が大恐慌に陥る。

同じころ、トロツキーが追放されソ連が秘密裏にスターリン体制に入る。

翌年には、ロンドン軍縮条約が、ナチスドイツが第二党に躍進、

日本国内は軍部と政府との統帥権問題で大振れに揺れる。

昭和6年(1931年)満州で万宝山事件が起きると、

9月、関東軍が満州鉄道を爆破、その満州事変の翌年、上海事変を起こし、

その後、満州国建国が宣言される中、桜田門にて天皇暗殺未遂事件があり、

青年将校による五,一五事件が起きる。

日本が完全に狂い始めた年として永久に記録されることだろう。

昭和8年(1933年)日本は国際連盟から脱退、

日本軍による長城線を超える侵入を開始し、

日本にとって一番最悪なシナリオへと進んで行く。

折しも、国民は何も知らされていない。

いったい何が日本を破滅へと狂わせたのだろうか。

軍部の暴走だ。近代戦争は全て軍による暴走である。

張作霖爆殺事件で関東軍作戦主任が責任を取り、

満州事変は関東軍司令官の本圧、作戦主任参謀の石原、同高級参謀の板垣の三人で書かれた。

満州を平定するのが一番だと考えた関東軍は、板垣征四郎が上海事変を一人で書く。

日本の敗戦後、

東京裁判で満州事変は侵略戦争の開始だと結論付け、

日中戦争や太平洋戦争の前提に当る国際法に背いた戦争犯罪だと裁定された。

東京裁判が 「勝者の裁き」 であることは否定しない。

しかし、国際連盟条約や不戦条約、軍縮会議に参加する日本と、

関東軍による行為は明らかに暴走以外の何物でもない。

帝国主義は独断による個別の主義ではなく集団によるもので、

親愛なる日本国民を戦争へ引き込んだ関東軍の暴走は、

決してあってはならないと再度認識すべきなのだ。


   つづく。