酒好き文化風俗研究者

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男性社会が行きつく所は、戦争か怠惰かのどちらかである。両方かな。

2015-08-31 | 社会問題
これまでの100年を振り返っても、今ほど意味の喪失や意義の損失、理由を不明にする怠け心、そしてそこに与えられた意味が役に立たないことへの苛立ちについて多くが語られる時代にしては内容が弱々しいが、そこで失われたことから喪失されるものが何かを導き出すことも出来ずに、私達は手に入らないものが何なのかも大まかな感情だけで発言するしかないとすれば、これまでのその常識が不確実に表現され、構想され、あるいは以前からその欠落に悩まされていた従来の意味の典型的特性をここで思い出して再確認することは、このようなやべれかぶれの状況にとって決して落ち込む事柄でもあるまい。

人間を世界に向けて友好的もしくは敵対的、あるいは驚異的もしくは好意的な理由付ける能力が未熟な人間性にあるとは思えない。

問題なのは、社会とのスキンシップが上手く行かないからと言って、社会を意のままにするというあの目的から見て唯一の複数の特権的な考えを援助するのではなく、自明ではないもの、社会の不確実な矛盾として認識出来るようにすることにある。

初体験の欲求は、不安定性的な感情を具体的に正しく表せることが現実には困難のようにも感じ取れる。

初体験の欲求は、私達にとって現実の解放感として一つの限界値ともなる世界の有限性への欲求を表すものでもある。

その際、とかく忘れやすいので心に留めておかなければならないことには、他ならぬ楽に生きる方法を見出す手段を奴隷によって自らを怠け者と称するのではまったくなく、それは単に知的な者とは呼ばれずに、苦痛をもたらし争いを招くものである。

楽が出来ると思われるそのそばにあるものは、それは支配である。男性社会の二面性だ。

世界が支配関係から解放可能かどうかを楽が出来ると考えるのが男性社会の馬鹿げた思想である。

欲望や欲求の平均化に対する抵抗や混乱には支配欲求の追及に対する感覚の形式も、その長い歴史的な段階を通じて叙述すべきである。

現実には何が支配可能なものがありうると、ある時は勝ち誇って、またある時はひそやかに言われてきたが、そうした発言を男性社会が継続を委ねないようにすることは、はたしてそれだけの価値があるのかどうか、それを男性社会から無くすことは完全には出来ないように、所見を従来の歴史探究的に確かめるだけでは不十分であり更なる混乱に火を付ける。

奴隷による支配願望や創造の領域を捨て去った後に残る現実とは、違和感のある異質なものとなり、驚いて擬視するしかないもの、しつこく迫りくる場合には隣接など出来ず、そうでなければ放置しておくべきものなのだろうか。

最終的な真理を問う書物や男性社会が問う存在論や歴史哲学や形而上学の中には決して見いだせない。

そうではなく、私達がそうした混乱と向き合いたいのは、他のものに先行し、他の実態を整頓し、その意味合いを変える不可式な確率論ではなく、対象の確定的な真理にありがちな、全体と称して実は一部分の、そしてその社会全体の未決定なままの不可侵性の、未熟な感受性を利用する支配関係の縮図を明確に提示することは、男性社会が再び歴史を繰り返す行為を正当化するその正義論にくさびを打ち込めることが可能になる。

どの様な歴史も完全な不確定性の空間では働けないし、歴史に対象の因果的な法則を単に反射的に追体験するつもりは毛頭にもない。
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私たちの毎日は幸せに暮らしたいのに、地獄へ導くヤツは何者?

2015-08-30 | 社会問題
最近、よく目にする文化の違いを考えてみると、居心地の悪い違和感と裏切られた失望感とを誰と比べたら自らが正しいと安心できるのかを誰も答えられないと言う感じである。

社会に対する人間の反抗的な欲求が誕生し、存続し、そして期待外れに終わることを認められない自分自身と出くわすのも良いだろう。

特に小さな社会では万物は万人に帰属し万人に閉ざされている、観念的で作為的な命題から出発する場合には特にそうである。

希望や期待が妨げられたことに関して社会は何も責任をとろうとしないことの罪をまったく出どころの解らない主体に押し付けることが出来るなら、その責任主体であったかもしれない全ての個人は安心する。

その責任を押し付けようとする方法の違いを文化の違いと称して自らの正義を主張するのが現代流のやり方だ。

意識において成熟しなかったものへと向けられたこのような問いの源は定めがたい。

期待されていたこと、今も期待されているのかもしれないもの、それどころかこれからも期待されることになるものにも、いつ裏切りに合うのかに怒りが爆発する。

時代錯誤としてすでに許容範囲から削除されているものや、寛容な記録がつい最近受け入れたものの前段階として善意あるものと認められるものについても、日常的な基準を頼りにすることは危険である。

経験は以前からの現実との生活習慣的な交流の中にいくつかのささやかな理想を持っている。

ただ、後になって違う形の成功例や優れているものに出会うと、そういった理想は時代遅れで、怪しげで、馬鹿々々しいものではないかと疑われるようになる。

世界と人間との関係は、情緒嫌悪や屈辱的な歴史観、自己中心主義的な考え違いによる一種のずば抜けた合理性に基づいている。

まさしくそうした想定こそが経験的な規則の遂行をある意味において発展させてはきたが、当然のことながら全ての善意ある理念から導き出されたものであると嘘を重ねる。

もっともそれらは、実際に遂行されてもなお、あらゆる裏道からあらゆる偽装やあらゆる偽名を持って再来する。

科学は歴史よりかは有能であるが、世界をダークサイドに想定することを有害なものと判断するのは、社会そこに表現された、人間が現実に対して抱く不安の解消と相対的には何も変わる訳ではない。

どのような先入観を正確に落とし込んだところで、楽天的な期待の管轄領域は位置を少しずらされてるだけであって、大言壮語がまれに一般化する勢いを殺がれたりするわけではない。

私達が望んだ世界は、私達を望まない世界なのかどうかという問いと同じく、政治家の修正に属するものではなく、それは国民の選択すべき固有の権利であり、おそらく過去の選択は間違っていたのだから、修正が必要となり、またそのような修正は正当なものだ、との見解を展開する習慣を身に付けなければ過去の過ちは正せない。

世界の運営という大問題での問いは、問題設定それ自体の問題にも問題があるが、実際はいかなる歴史上の偉人達でも適用してきたように、すなわち、手に入れることが出来ると信じられていた世界とは目に見えないものによるものではなく、目の前にあるこの世界で解決すべき問題ということである。

現象の純粋なる知覚による正確な計画性といった仕方で世界に挑戦するつもりが、単なる集合体の現状維持に留まり、環境、性別、社会の全体主義として世界がその意味を開示して欲しいという切なる願望は、もちろん、自然発生的には解決されない。

自然は思いのままにならない生物に対して支配権を剥奪するあまりに過酷な事実をまざまざと見せつけてきた。

それでもこの願望は、現実に対する重要な欲求の典型であり、現実社会を完璧に吸収することが、もはや暴力だけでは意のままにならないと判明していることから、次なる世界戦略は人為的による自然淘汰になるのか、飢餓によるパニックに陥れるかの地獄での遊戯だとしても、より大きな世界に吸収されたい願望を持つ生命体としては願わくば、神による最後の審判が望ましいと考えてきたのもまた事実である。


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優れたグレイトマザーを見出すには、先に男性が事実を直視しなければ見いだせない。

2015-08-29 | 社会問題
男性社会を上回る成果など歴史においてはないからと言って、私達が知りたいと思っている真理とは、一体何なのか、と言う問いを差し控える必要はどこにもない。

期待外れだった世間一般の常識には研究の価値はあると思われるが、それには新たな概念が必要である。

不安定要素も観念から世界憎悪にいたる段階の歴史的な基本感情の一要素である。

男性社会の観念が私達に与えてくれるように思えたもの、私達に約束して提示したものとは、一体何だったのだろうか。

社会をどう考えたら良いのかハッキリしなくても不安を覚えないとしたら、社会はどのような観念によって現れ方をせねばならないのだろうか。

成熟されなかった社会、たぶんこれからも成熟されない時期も、歴史的事実の中に眠る気づくことない一つの歴史の要因である。

それはたえず繰り返す、思い違いや勘違いによる幻惑や困惑、それでも全てを手に入れたい妄想への端緒である。

充足した男性社会での事実確認に対する良心の満たされない憂鬱の奥底にあるこのような不安定要素が、乱暴な哲学、傲慢な正義、死の恐怖によってダークサイド的な社会を生み出してきた。

ダークサイド的な痕跡を辿って行くと、予期せぬ願望が生まれては根づいて行き着き、そこからそれぞれの紛争に包まれてはどのように地獄での繁栄を築いてきたのかを知ることが出来る。

かつての母なる真理を見出した偉人達が、真実であり続ける為には、男女共存の世界を誕生させられるかもしくは男性たちにお引き取り願うかに掛かっている。

他の社会組織が無情の作用という現象から抜け出せずに保留をつけてしか登場出来ない以上、ここから解放されるにはもう後がないのである。

それゆえ世界を解放するには、感情と欲望を満足させるだけではなく、冷静さへの手引きが必要となる。

ユートピアの到来は、あらゆる考察の無駄骨を折ることで未知の力を学び得るところにある。

自然への親近感を深める為には支配と搾取を断念する事、
欲望を生産する為の単なる精密な数式を並べるのではなく、その真実を列挙する事、
思い出したくない歴史を新たに呼び覚ますのではなく、幸福な未来の予測こ専念する事、
生命体本来の反抗的構想に従うのではなく、共存共感による表現を美意識として経験する事、
他人の要因にするのではなく、自らの原因を追究する事、
こう言った綺麗事がたとえそれが人類の成熟期を約束するものだとは考えられないからと言って、決して無意味になる訳ではない。

歴史と言う概念は、長い年月を経て痩せ細ってきているから、その餓死化しつつある歴史に栄養を与えることなく、世界を解放するには今をおいて過去には見いだせず、これからもおそらくそうなりうることは、実感として理解が容易い。

経験は社会との付き合い方で最も規則的な形式にある。経験こそが一直線に判断へと加速し、そしてそれゆえに倫理や道徳への学問を成り立たせるあの前提的な決定へと導くものだからである。

おそらく反抗する地獄での催し物のように、人生経験の信用失態があって初めて、社会が人生に提供出来るもの全ての没落の原因となったものが、その経験と方法を軸にして理論に導かれた証明や反発といった集団的衝動の総体よりもっと本質的にはもっと豊かなものかもしれないという、漠然とした予感が失わらたことにあるかもしれない。

どのような社会体制の経路で経験を積んだのかにかかわらず、経験豊かで知恵者たちは社会の秩序を乱す時代遅れの人物になってしまったのである。

多くの屍を踏み超えてきた強者がいつしか経験豊かな善人になりえるなど、現状を前にして考えるにはあまり役に立ちそうにない。

自ら考えるのを止めた良識者と、マスコミに拘束された同時代の怠け者達は、地獄での代理人の群れに依存させられていては、全ては他力本願の洗脳体験によるオウム真理教状態に陥る。

そうならない為にも世界を解放する行為には女性たちの活躍が期待されているのである。

世界の単なる享楽にも、傍観的態度にも、死を恐れない率直な世界観にも、福音による契機は含まれていると信じたいが、それでもまだ本質的な問題は解決されないでいる。

反発する心は人間の第二の天性であることを承知の上で、本質的なものに、誰の咎めもなく問い直す勇気には少々時間がかかるものであるが、ここから始めることに意義がある。

なぜなら、女性社会の洞察だけが、本質的なものであり続けるゆえに本質的なのではなく、男性社会の見解もまた、本質的なものであり続けることにも本質的であることには変わりないからである。

人間が暮らす社会を洞察する存在の中には何やら邪魔をする輩が存在するが、やがてそうなるかもしれない世界に対しての心構えは、少なくともそれほどの覚悟と見識を持つマザープログラムを創り出す必要はなさそうである。

社会は一つの側面を持ち、あるいは人類に一つの世界を与える時、歴史に対する見解だけが唯一の道しるとするのではなく、懐疑心がなくても歴史の洞察を見破る能力は私達にはすでに備わっているのである。

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ブログを初めて一年。少しは役に立ってるかな?

2015-08-28 | 日記
夏休みの宿題で思い出すことは、勉強とは理論武装を強化し、最強の自信を手に入れる為のものである。人間の幸せは脳に比例する。

先生とは先に生まれただけであり、その先に生まれた人でさえも勉強するのだから自らも一緒になって勉強する者たちが松下村塾での教えである。

与えられた勉強では結局長続きしないから、その勉強方法を独自で創り出すところに勉強の楽しさがある。まさに「守、破、離」の極意である。


話を変えまして最近、インターネットでケントギルバートさんをよく見かけます。どうしてと思いますが、そんなことより、ぜひ次のアメリカ合衆国大統領には同じカリフォルニア州の元州知事アーノルドシュワルツェネッガー氏を大統領選に立候補させてください。

今のアメリカ合衆国の救世主は、大富豪でもなければグレイトマザーは次の機会に、不安定な国内に圧倒的に支持される強いヒーローその人である。

そしてその歴史的政策には、日本を中立国家への独立の支援と、韓国からのアメリカ軍撤退による朝鮮半島の統一と、もし中国が占領して来たら国連軍による万里の長城での分離での統治。これで決まりだ。


話を変えて中国の事を考えると、近々中国建国記念日での軍事パレードが行われるようですが、ロシアもそうだがよく見て覚えておいた方が良い。これが男性社会の成果である。

国際条約を平気で破ることが女性には信じられないかもしれないが、世界がこのまま男性社会であっては第三次世界大戦は一つの成果にしかすぎません。

勝戦国による原爆の脅威に勝つ秘訣は、原爆を投下したら次は絶対に降伏しなければ必ず勝つ事が証明されている。

なぜなら、未来永久に母殺しの罪を拭えないからである。現代の裁判は母殺しの大罪に気付くべきである。

反対に、女性を殺さない戦争を発明すればノーベル平和賞である。それだけ男性国家は戦争を好む。


また次の話に移ると、沖縄在日問題ですが、一度沖縄が在日たちに乗っ取られて日本から独立すれば日本人も目を覚ますのではなかろうか。

そうなると沖縄を返還したアメリカ軍70年間の統治に意味が無くなるから、やはり日本の中立国への独立こそがアメリカ軍70年の統治が報われ美しい最期を飾れるものではなかろうか。

原爆による輪廻転生のカルマを断ち切る方法は日本の中立国家への積極的平和主義にしか答えが無い。


また話を変えますと、今年一番の大問題のはずだった70年談話が軽く解決されたことについて、阿部総理の引退後はベストセラー作家である。ネタは尽きぬほどある。国会で騒ぐ幼稚園児たちというタイトルはどうだろう?

移民を受け入れない政策には私も同意していますが、仮に移民を受け入れても在日が増えるだけである。現状の在日問題とは移民問題である。

それよりもロボット工学に毎年1兆円以上投資し方が、外国人労働者よりもムーアの法則が日本人には相性が良いと考えます。

あと、日本人の強い味方を得る方法には、アフリカ人をおいて他に考えられない。

なぜなら、ヨーロッパやアメリカは手出しできないからである。それに世界人口100億人も日本人の誠意が味方となる。

アフリカ人に対する日本人の考え方は、どうすればみんなで旨い飯を食えるか、「和」の精神であるから、アフリカ人は日本人を理解する。その実績も経験も豊富だからだ。

問題なのは、日本人の人口が減少を続けてどんどん「いいおとこ」が天然記念物化していくことにある。

優れた日本人女性たちは「いいおとこ」にこだわって日本人以外と結婚しても良いのではなかろうか。

アメリカ人にせよ、在日にせよ、優れた子供たちはみな混血による逆輸入であるから、日本人女性が馬鹿にされない環境を世界に創り出せれば、その子供たちが再び日本を救う救世主となる。

世界社会に女性文化を誕生させられたら、国土の大きさは邪魔な存在になるように、日本人の良いところと悪いところは、血族の濃さにあると考えます。

未来はどちらかでしかない。間違っても争いによる母殺しであってはならない。
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世界の行為はすべて男女の結び付きによるものであるのに、それを認められない男性たちである。

2015-08-27 | 社会問題
不幸や苦しみが人を強くするのは、不運や苦痛によって人を愛に向かわせるからである。

現実が厳しければ厳しいほど人は愛に生きるか、他人に依存するかのどちらかになる。毎日の生活が「ゆるキャラ」では出生率にも影響してくる。

愛とは思想であり、概念であって脳の中に存在する。ゆえに脳の中に愛の概念がなければ、その人物に愛が存在しないことになる。

性欲愛や感情愛では、人間愛とは呼ばれずにそれは動物愛であるから、従って愛の無い人間は幼稚な生命体だと言える。

自然に任せていては自己破滅的な脳であるから、愛の概念を理由付けることが重要である。そうしなければ本能愛や感情愛的な欲情や被害妄想のままに囚われ、嫉妬や復讐を考え出して反社会的な性犯罪に堕ちる。

つまり何も考えない怠け者の頭の中には愛の概念が無い、愛を知らないということになる。およそ80%の確率で怠け者は自滅する。幸せにはなれないのだ。

理性愛とは他人から与えられるものではなく、自らが考え見出すものでり、求めているうちは、永遠に手に入らない神との遊戯のようである。

ひょっとすると、理性愛とは生殖期の発情ではなく、この世だけのものでもなく、この世だけのけち臭い施しでもなく、まして肉体に備わるものでもなく、魂に宿るものとするなら理性愛の達人こそ崇高な魂の持ち主になり得るかもしれない。

この世だけの正気と交じり合ってあの世へ持って行けるただ一つのもの、「愛」、それが無ければあの世において豊かな魂に共鳴することが出来ない無感な状態を彷徨うことになり、誰もこの愛の領域において平凡なものを乗り越える概念を生み出せていない。


どんな恋人にせよ夫婦にせよ、一人が問題を起こして、もう一人が解決するその役回りの中で、共通する理性愛の概念がなければ恋人や夫婦は簡単に壊れてしまうから、お互いが理性愛について意見を交換しなければ、長続きしないものである。

理性愛は思想であるから当然一人ひとり違う考えを持っているものだが、それが良いところである。男性の考える愛と女性が考える愛とをまぜっこして唯一論的な理性愛の概念を生み出せれば一流の人間だ。

その理性愛をもっと具体的な形に表す方法には、理性愛とは脳の交換能力であり、理性愛とは交換日記で共有する。「ことだま」で共鳴する。

なぜなら、男女の意思の疎通は話をするだけでは理解が難しく伝わりにくく、日記の記録によって初めて目に触れ考えられるものだからである。

男女の問題の多くは出会ってから今日までの記憶喪失にある。初心喪失状態だ。そこに役立つものが交換日記である。交換日記とは脳の扉であり理性愛の入り口だからだ。

話ではなかなか言えないことでも、男女のすれ違いや考え方の違いは、交換日記が役に立つ。それは自己主張ではなく、妥協でもなく、同情でもない。人間にしか知ることのできない英知であり、これが愛なのである。

その愛は二人の記憶の連続による、誰も真似することができない、他に類のない二人だけの大切な物語であり、一体感であり、赤い糸である。

この思想こそが愛を生み、交換日記がその愛を育む。恋愛がバーチャルゲームなら、交換日記はロールプレーニングゲームといえる。

恋愛は一瞬だが、愛の物語は一生である。セックスにストーリーがなければ、それは愛ではなくただのコミュニケーションとなる。

それに本気で相手のことを理解したいのなら交換日記の苦痛はやがて快楽に代わる。恋愛とは二度と経験出来ない失望や悲哀こそ、純粋な物語であって、セックスの快楽では、一ページにも満たない。

私たちの愛や運命は交換日記を始めなければ一切皆空、諸行無常である。なぜなら、自らの魂はメッセージを今に残さなければ誰もあなたの存在に気付かないし、誰もあなたのことがわからないからである。

肉体が満足する動物的な愛は回数でも満たされるが、崇高な魂の愛の奥深さは二人だけの物語に記録される恋文にある。性欲だけの良き思い出では、後で苦痛を倍にする。

道徳性や倫理性の普遍的な基準となる為の説得には、男女固有の恋愛的な友情の精神的相互関係による世界観や理性愛による男女両者の調和こそ高級な感性へと高められ優越的な社会の指導者的立場につくことが出来ると考えられるからです。

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世の女性達には大いなる目標が欠けている。重要なのは女性達の目的の統一である。

2015-08-26 | 社会問題
母は息子よりも先に生まれる。母が先に存在し、息子が後から生まれる。

母はすでに子を宿す力が備わり、息子はその後に成るものである。

息子は母の前においてみな平等であり、女性から生まれる男性は女性の前においてみな平等である。

初めから存在しているものが父なら、母も同様、その根源は天地創造ゆえに、神がそう望んだからである。

その場合、人の力から生まれた訳ではなく、与えられた男女の性別であるのだから、どちらが先に誕生したのかはその後の男性崇拝には関係ない。

私達が奇跡的にその母胎から初めて子を生じ、この子において初めて性別が二つに分化し、ここでようやく息子が姿を見せる訳である。

要するに男性と女性とではどちらが優れた存在である必要はなく、同列に比較されるものでもない。男性は母から初めて成人し、どちらが先に誕生したのかを問題とする者は神への冒涜以外何者でもない。

実際、男性本能の聖域には生存競争による死ぬか殺すか以外に認め合う目的が見当たらない。それゆえ男性社会は必ず混乱してゆく宿命にある。

従って、男性社会は生の領域では母性原理に従属しなければ世紀末概念となるのである。ここに共存社会の基礎があり、唯一、男性社会が取るべき聖なる道がある。

つまり女性たちは生み出されるものと同時に、生み出す力が備わり、複雑に絡み合い混乱する者達よりもさらに単純な原因であり結果である。

ただ胎ませては奪い合う結果としての原因であっては、この世が地獄化しダークサイドに陥るのは女性に対しての感謝が足りないからである。

言い直せば、女性は母として存在し、父はまず息子として存在する、男女平等論である。女性は生命の誕生という偉大な神秘を継続する選ばれた者なのである。

最悪なのは、同族同士で殺し合う民族闘争時には、生殖という感謝は全く無縁であって、むしろ争いと競争こそが父子関係を表現する無情な感情であり悲しい現実である。男性が息子を教育する力には、同時に戦いで勝つための戦闘能力でもある訳だ。

無機物のような生殖体に特化した男性が死の法則の渦中に個人的な理由を見出し正当化する以外に成す術がない性であり、種を無理やりにでも女性に託すのが本能的欲求であり大願望である。

父殺しで始まる歴史物語は、その母殺しに至ってしまう前に、戦争による核兵器との共存を考え出さなければ悲劇は再び繰り返される確率は99%になる。

私達は死から逃れられる方法というものが、相手の死による償い以外の方法を知らない血なま臭い残酷な社会であることが明らかなように、

母なるものの血を流すことだけは自然界の掟に対する大罪であるから、もしこの罪が許される理由がこの世に存在するなら、まさしくこの世は地獄であり、私達はその地獄でのエリート教育を受けている優れた悪魔の子のようである。

人類が犯した原子爆弾による母殺しに対する大罪にはいかなる許しも希望も見いだせないが、

いかなる裁判による判決もこの掟を捻じ曲げたりすることは人道、倫理、良心に違反するだけではなく、生命共同体自然法則に違反するだけでもなく、神の遺志を冒涜するに値する許されない行いである。

原爆投下による母殺しの裁判が行われない以上、よって東京裁判は無効とする。

女性社会との共存的な法律は、争い好きな種族に多くの苦難と試練とが待ち受けているかもしれないが、その困難と経験こそが、おそらく女性理念が男性崇拝を最終的に純粋に最高の裁判に従属させるよう向かわせることになる。そのような最高裁判が信用を守られるようになって初めて、ダークサイドの解放、平和で幸福な繁栄とが約束されるのである。

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世界憲法に不足するものは、自然法の乱用ではなく、責任による男女の法にある。

2015-08-25 | 社会問題
人は神の前においてみな平等であることから、真なる法典に書かれるものは男女法である。

普遍的な自由と平等という法則がその本質的な法である。

まず最初に自然法とは何かである。

自然法とは自然が一切の生命に与えられた法を言う。この法は人類のみ特有のものではなく、生命共同体にも共通するものである。

なぜなら、男女の結合による子の出生そして成長もこの法の基づいている。いかなる動物も、自然法を付与されているし、生と死から逃れられないと見られるからである。

男女による生殖本能を満たし、子供を育て母子間に親密な絆を結ばせ、平等と自由を付与するのは、曰く、万人による共有こそまさに自然法による男女法である万人共通の権利である。

力には力を、と言う原則を、死と死による支配関係を、自然法に基づくものとして承認するのはいささか傲慢によるままものであり男女法ではない。

現世の繁栄と物質的な生存、そして二つの相対立する動因からなる正義の主張にはいささか腑に落ちない部分が残る。男性がどちらかと言えば人為的規則に親しみやすいのに対して、女性はありのままの正義の法に深い親近感を持っている。

自然法を、原始的な法と定める、子を産む物質としての存在と見なして、生活の道具に据える文明の発露として自然法の悪用による法体系を創り出し、その法体系が市民法と称して、子を産み出す物質としての地位も認めずに消極的な性格として位置付けるが、実際は極めて積極的な性格を女性たちは担いそれを恐れる男性である。女性に対する配慮が足りないどころの話ではない。

この命題は、一切の力を両極に分け、この世の法則を常に相反し抵抗する勢力の二つの力の帰結であるとする、あの自然現象を逆さまに構成し直した預言者たちの書による新たな試みによるものである。

男女法によって正義を構成し直し、その法の領域によって不当な束縛の鎖を断ち切り、男女の法則との関連が同様に直接的には認めがたいとしても、それにも関わらず、男女法には共存し内在する秩序が存在する。

いずれにしろ事実は証明されるものだが、その前に、第三次世界大戦によって男性社会の継続に精を出しかねないのが悪徳社会である。

そうなる前に、ママ友達や女性団体の意識向上による女性たちの団結と女性たちによる男性たちとの貢献という約束が必要となる。

その約束は、支配的な搾取的規則から独立した法、母性的な親近感を持った法である。

当たり前に思うかもしれないが、その法を定める者は女性達であり、事実は常に逆さに成っている。

自然法は純粋に事実的な状態、つまり目の前に現れる態様によって与えられる現象の事実的な秩序、身勝手な人為的市民法よりも遥かに多様な姿を示す、美しさを承認するものである。

これらの民族の生活には、巨大な変革の原因となる、人為的制度と自然的秩序との分断化を推し進める根拠はない。

人間自身がなお地上の全ての物質的生命を支配する調和の中にあるとしても、人間を支配するのは人類だけでなく全ての創造物に共通する法則にある。法は自然的生活の表現であり分極化でもなければ部分的でもない。

法の概念は人間に限定されるものではなく、全ての男女関係にまで拡張される。同じ物質的法則が万物を貫いている。男性と女性とは一つの法による共同体を形作り、それは両者の自然的類似性に基づいていることから世界中の人々はそれが正しいと同意する。

偉大な動物的自然法則に基づく共同体がいかに男女的なものとみなされなければならなかったのかを啓示する。

その男女法は歴史的成果であり、一つの文化と伝統によって受け継がれる。まったくの国家的、作為的な法よりも正しく、初期の宗教理念よりも正しく、人間が経験した社会秩序の記念碑である。

従って男女法は母性的原理と同じく起源的なものであり、母性的自体、共同体法の一部を成すものである。

人類が他の動物たちと共通するその本質の物質的側面を超えて、より優れた存続に人間的な存在へと上昇することこそ、人類に定められた使命である。

男女法は搾取的法との古い対立から浮かび上がる。世界は男女の法が市民法の一部分になり、その構成要素として市民法に接合される。

そしてしばしば自由自在に適用され、時には本来的に人間の動物的本質の表現と見なされていたものよりも評価され、道徳的命令、人間の良心的な側面である安心や調和に結びつくのである。

一つの偉大な理念が人類の法の発展を共存へと導く。私たちは憎しみ合うことから美しいものへ、搾取的なものから共存し合うものへ、そして男性崇拝からグレイトマザーへの感謝へと進歩する。

最終的な目標は全ての同朋と時代が合わさって一つの理念になった時に達成されうるものであるが、その目的は、破壊と混乱を隔てなければならないにしても、確実に実現されることだろう。

物質的なものから始まった感情は、精神的な感情へと至るに違いなく、一切の法の発展には再び普遍的な母性的感性が登場する。

それはもはや生と死による物質的な自然法ではなく、平等に世界が分け与えられる精神的な自然法であり、これこそが究極的な男女法である。

責任を背負う者は女性であって男性は女性の意見に耳を傾ける者であり、

女性が喜び男性が喜ぶその一点の追及にのみ我々の生きる道がある。この理念も普遍的であって突発的ではない。

男女法が内的にも外的にも実態的秩序であるように、それは与えられた試練ではなく、現代人によって創られるものであって、感じ取られるものである。

女性的要素と女性たちとの責任が頂点に立つころには、国法上のものが、家族的なものであり、自然的な姿となる。

この合意の根拠は、男性的責任にだけではなく、女性的責任の自然に基づいた芸術的な美しい真理の調和的なものなのである。
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国家千年の計。男女共存社会以外での道のりは戦争による破壊の繰り返しが歴史である。

2015-08-24 | 社会問題
日本の中立国家論は阿部総理の言う積極的平和主義にも同意している。

中立国家と日本国憲法との組み合わせは、古代大和から続く神風の遺志に適ったものである。

男女共存社会による中立とは、万物を貫きその全ての部分を大いなる統一の元に結びつける最高の調和の表現である。

その中立の法を遂行する者は男性であるが、その男性が応用する法の理念そして源泉は母なるものである。

中立国法を創造する原理と、女性の理念を付与し、共存共栄をもたらす原理とが結び付いる点に世界各国からの同意が生まれる。

中立とは母なるものであるから、その原型は、平和的であり、普遍的であり、共感的である。グレイトマザーたちは男性の仕事である戦争を終わらせる。

一方で争いを受容する社会と、他方で平和と正義を等分する理念は、同じ社会的なものの異なった側面を示している訳だが、正しさと正しさとの衝突には男性的な問題解決能力には本能的に限界があり、母性的不変原理の生来的な特性を生かす事が本望となる。

応報と報復には二元的な正しさの主張が全てである。それは苦痛を苦痛によって補う相対的な力関係の運動であり、二つの犠牲を約束する血の復讐の法であっては人類は未だ未熟な存在と言える。

正しさと正しさの戦いは生贄によって帰着する。正義は戦いを好む。正義には悪者が必要である。

正義は永遠に果てることのない闘争である。殺害は次の殺害を生み、民族が完全に滅びてしまうまで世代を超えて暴れ狂い続ける。

争いを無限数として示すと、不安定要素と無限性は男性的な属性にあたる。無限数は決して終わりをもたらすものではないから永遠の分裂こそ最も必然的な現実となる。

従って無限数は誕生や生をもたらすものではなく、死とカオスをもたらすものである。つまり男性的な無限数による正義の主張は自然死の原理が働いている。

他人を支配する、女性を支配する、他民族国家を支配する、宇宙を支配する、それらはつまり永遠に反目し続ける二元的な力である強い者と強い者との闘争の繰り返しにのみ、無限数は永遠に両極の間を交互に振れ動く男性社会の模像でしかなく、それは報復という反撃の動因を含み、終結をもたらすことは決してない。

闘争本能が無限的なものと一致する時、死が自然の法的概念と考えられ、また、そう語られるのもまさにそのような歴史的事実なのである。

無限数が死の連鎖にあるのなら、自然数が女性的な生なる法であり、自然と正義が同じものであることを中立国を以て示される。

中立的な生活において法の極みは同時に自然的生活の法の実現にも適っている。と言うのは、不法を行うことと不法に苦しむこととは欠如と過多とに起因するが、正しさはその中庸のゆえに正義と正義の調停をするものが中立的概念である。

対立する二つの観念は相互に矛盾するものであるから、認められると同時に根本的な動機が繰り返されるに違いなく、生成と死滅との交替によって命を繋ぎ止める生の現象とそれを顕現させる相互関係の実現にある。

自然数による連続性が生み出す現象には、女性的自然原理それ自体は普遍的であり、自然力に基づく法にも当てはまる。

従って法には生命の現象からその現象を生み出す法へと転じられる運動であり運動させる力は生命現象の実現と言える。よって法と女性との関係にいささかも変更を加えるものでもないし、法の起源を母性に見出すことを否定するのも矛盾がそうさせているのかもしれない。

実際、この世から戦争が無くなればつまらない世の中になると考えるから、この世から戦争が無くならない。

社会は支配関係を好む自然的本能が存在するから支配関係が続く。

私達の社会問題は私達の次元に比例するからいつまでも同じ問題が繰り返される。

自然に任せていては上手く行かないように、それは人が不自然だからである。

社会が不完全なのは人間が不完全だからであって、それを誰かの責任にして逃げているだけにも見て取れる。

問題がそこにあって、解決策がそこにある。世界が変わらないのは私達が変わらないだけなのかもしれません。

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現在、「いいおとこ」は絶滅危惧種に指定されている。女性が「いいおとこ」を育てるしか将来はない。

2015-08-23 | 社会問題
残念な現実ですが、世界には「いいおとこ」は既に絶滅しかけている、天然記念物状態でありガラパゴス状態にある。白馬の王子は現れない。

うすうす気づいていると思いますが、女性が自ら男性を選ぶ必要が生じていると感じている。逆ナンは逆ナンではなくなるのです。

女性は「いいおとこ」を選ぶ権利があり、「いいおとこ」に育てる責任がある。

このことは従来、男性たちに知らされていなかった側面であるが、この特徴こそ現代における女性社会の起源の環境を整える極めて本質的な事柄である。

女性が「いいおとこ」を積極的に育てる結果、女性は家族生活の中で男性に対する指導権を認められるのである。

この選ぶ権利と育てる責任は必然的な自然連関にある。

女性社会ではまず先に自らの力で「いいおとこ」に育てる原石を探す冒険に出る。求婚するのは男性ではなく、女性の方が正しい選択が出来る。

女性が結婚の契約を締結し、離婚は女性の判断に委ねられる。恋愛関係も同じく、女性が良ければ善く、女性が良くなければ引き下がれば良い。

日常生活に深く根を張る恋愛の記憶の中に眠る何事でもなく平穏に継続するだけの男女関係では何ら注意も喚起することもない。

女性の衰退が男性の闘争を呼び覚まして、世界はそれまで数千年に渡って意識されないまま自らを統一すべきものが何であるかに気付かない。

未曽有の悪行が盛んに行われ、狂気と絶望がここぞとばかりに暴れ狂う。人間の無意識は何にもましてそうした行為と結び付き、幸福と協調を無事に享受することさえもはや出来ないのではないかという恐怖の戦慄を顕在意識に覚えさせたのである

その後に登場する高貴な心情によって新しいよりよき時代の到来を告げる女性たちが思いやりに溢れた姿を現す事によって和らげられる。

ここでも女性が男性をリードする。闘争本能の慣習から男性が抗争を挑み、新たな法が荒々しい英雄によって樹立され、世界に確立されても、新しい生活の安定を保証するのは女性たちである。

何もかも、外部の行動によって承認される以前に、女性たちの内部において、すでに実現されているのが望ましい姿である。

健全な肉体の成長と確かな精神年齢の高さが、女性の出生数にも相関するものであって、その意味で、女系性の理由は自然法則といって良いと考える。

どの物欲主義国家にしろ、どの異質な民族にしろ、理性の活動と心の感受性の豊かさは、女性の方が早く成熟するから婚姻も早まる。

実際、感受性豊かな女性たちが、物事に性質や関係性を情熱的に洞察し、素早く対応するその手際に日常の概念や命題を引き出す要素があり、一度に別々の仕事をこなし、常識をあれこれ変えてみたり、心に浮かぶ改善策の真偽を見分ける点でも、女性たちは器用である。

ことに、粗野で未開の文明を築く男性たちは、少年時代にしかこうした能力を保持していない。

文明が未発達であればあるほど、一部の男性たちによる模範する能力や思いやりの素質を上手く発見する幸運な能力は、いっそう早く求められていく。

今日のようなまったく文明化された時代であっても、野蛮人と呼ばれる民族の文明段階の状態を認識することは、どうしようもなく難しいかもしれないが、たとえ、私達の知識が不完全であるにせよ、現実的に男女それぞれの資質を比較すれば、文明開花への要求がどちら側にまず始まるかが重要なのではなく、どちら側が文明を勃興し完成される手段を先に広域に使いこなせることが出来るかを問う問題でもない。

人類の状態を悪くする原因を創ったのは何時の時代においても自分こそが正しいと勘違いした不完全な人類であって男でも女でもなく、男女共存社会の欠如にあるのだ。

とりわけ原始的な不完全な状態から第一歩を踏み出すきっかけを生み出すのは女性社会論による行動かもしれないが。

女性の感性や理性的活動が男性よりも早く成熟する点だけでなく、他者への配慮や奉仕に専念することにおいても女性たちは先に民主制を働かせる、それでいて途中で途切れることなく継続する。

女性は母胎に子を宿すことによって、自己愛を他者愛へと広げられ、性欲の官能的なエクスタシーをコントロールして、より純粋な感情を磨き上げることを学ぶ。

このような他者を愛する感性に共感して、男性も同様に本来備わる潜在意識を急速に成長し、英知を体感するその生来の能力を生き生きとのびのびとしたものに更なる自由を与えられる。

苦難とか享楽とかは一瞬でしかなく、ほとんどの恨みや憎しみは思い違いでしかないように、労働秩序に感謝し、生きる苦しみと死の苦しみを受け入れることが、人類文明の向上への第一歩であることは明らかである。

男女共存社会の樹立は世界解放への最初の大きな転機であることに結び付く。無法地帯による食うか食われるかの二者択一の選択には強者だけが暴力によって生き残れば後は何をしても善しとする考えに対して、母なるグレイトマザーの高次な法によって、より穏和な習俗が勝利するに至るのである。

女性の手によって教えられて成長した人類は、いつしか金欲主義による保護を脱して、再び平和的な通貨資本の活躍に期待されるようになる。

人類の正しい歴史は女性達から受けた数々の恩恵を記憶し、啓示的な法や、奇跡的な自然の恵みをいかんなく価値多きもの全てに、偉大なグレイトマザーの名に賭けて、感謝の気持ちを表した世界観である。

人類の発展の段階的一般能力に基づく現象には、新世界にさらなるもう一つの別の類似した事実が隠されている一光の道が見えるのである。

歴史は常に勝者によって書かれているが、その歴史には二面性があるように、その裏側にこそ我々の生きる道あり華の山である。
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目的は幸福にある。女性を最大にすることで男性を最大にする。

2015-08-22 | 社会問題
目的は幸福にある。女性の能力を最大にし、男性の争いを最小にすることでもある。

戦争を始める秘訣の中には、女性の教育を無くす事が含まれる。女性が馬鹿では男性も馬鹿になるからだ。

男性は女性から生まれて育てられるように、人類のレベルは女性のレベルに比例する。ニワトリの子は鶏である。

女性たちは列記とした平和主義者であり男性たちと共存する意思のある者たちである。そしてその平和主義者である女性たちには二つの目的が存在する。

一つは自己解放的な至福を感じることと、もう一つは苦痛からの解放だ。前者は女性たちを愛情で統合されることによって積極的に幸福を増進させるやり方だが、後者は男性の力を求めて苦痛を抑えようと消極的に幸福を増進させるやり方だ。一方はみんなで仲良くしようとするが、他方は差別的に孤立する。どちらも女性にとっては満足を得ているから、幸福には違いないが、前者はより強者であり、後者はより弱者である。

幸福を求めるのは人間の権利であるから、幸福の追及は合理的だと言える。

なぜなら、人間に備わっている幸福と苦痛は、生きる上で切り離せない、目的であり、手段であり、価値であり、方法だからである。これほど明確な理由は他に存在しない。

金欲社会をあれこれ理由を付けて正当化しグローバル化するよりも、平和の理念の正当化を発展させるべきである。

一般的には平和主義者は苦痛からの解放者だと言われているが、幸福と苦痛は表裏一体であり、別々には考えられない。苦痛と幸福は同時に終わるものである。

真のリーダーには、幸福の追求は人間の特権であるのと同時に、苦痛を与えられないリーダーには魅力を感じないものである。

私達の本質である、本能、感情、理性にはそれぞれに独立して融合した幸福と苦痛が存在するように、これらの幸福を正しく導かなければ必然的に最後の最後で失敗する羽目になる。

本能的な幸福である人間の三大欲求、食欲、性欲、睡眠欲を満たすことはもちろん、第四の欲求である、脳に備わる成長遺伝子を刺激することが人間の幸福論となる。

なぜなら、これらの四つの欲求は人間である以上、無意識にでも求め続ける本質的な欲求だからである。

実際、目の前に成長する要素がなければ誰も見向きもされずにすぐに飽きてしまうように、欲求を満たせば本能的に誰であれ幸せになれる理由がある。

幸福とは苦痛にあるように、幸せにはまず先に苦しみを与えなければ幸福の感度は上らない。なぜなら、苦痛が最も強力な感情であり、次が幸福であるからだ。

苦痛を避けることはより不快を引き起こす原因となる。その不快に慣れ親しんで人間性を低下させているのが怠け者だ。

罪悪感が苦痛と思わなくなるのは、謝った情報を伝授された反日たちと言える。そうならない為にも、そうなった後も、真の平和主義者たちの意見に耳を傾ける。

実は、幸福を最大にするには、苦痛を最小にすることではない。苦痛をもいとわない精神性にある。

人は誰でも幸せに生きたいと願っている。それは時間の掛かるものではなく、すべに備わっているものであり、苦痛は幸福からの伝言でもある訳だ。

平和主義者である女性たちのもう一つの良心には、あまり野心を持たない特性に見て取れる。

欲望を正当化するのも結構だが、今この瞬間を楽しむことが出来る能力を備えた一流の人達にとっての人生の醍醐味は今ここにある。

自己中心的な欲望は正しい欲求ではなく意識的な衝動である。その衝動をなだめることが出きるのは金欲社会ではなく、まして資本主義経済でもない。

人間の本質である無意識的な欲求の理解は、どんな世界観であっても美しく生き甲斐が感じられる幸福論なのである。

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しつこいまでに言い続けますが、女性社会との共存なくして第三次世界対戦は避けられない。

2015-08-21 | 社会問題
人類のより偉大な文明への上昇が、女性たちとの共存社会と緊密に結びついていることがあらためて解る。

平和的な秩序ある状態への切なる願いと、洗練された共同体への欲求と理解は、まずもって現代人から目覚めるものです。

男性社会が野蛮な結果では、勇猛果敢な気風が秩序に反し、新しい思想や堪え切れなくなった束縛からの救済者として優れた女性を歓迎することは、それだけにいっそう熱狂的な指導者的存在になる。

最も過激な世界情勢にあっては、女性とくに母が、平和、献身、愛の担い手が、現代社会への本質の影響力となれば、極めて乱暴な感情を和らげ、平和な社会を退屈と感じるのではなく、自我を超えて拡がる感動や感謝の模範を示すに相応しいものであり、それゆえ、共存社会は文明の終末期にして唯一の合意点なのである。

現象を現実の領域から虚構や芸術的な創作の領域に進化させるやり方は、たちまちにして自らが社会本質の細部についてまるで無知なること、人任せであることを混同して混乱する愚かさを暴露することになる。

規律ある秩序と平和的な幸福論、これは何よりも女性社会の属性であり、それを破壊して楽しむ男性社会である。

女性との共存国家では、男女の有徳がこのうえもなく美しく開花し誇りに思う女性の正しい知識の影響の元で、およそ革新というものを拒絶する感情もまた抵抗を生むが、高級な感性が民主主義への堕落を長く阻止するのは、民主主義とは男性たちの専売制度ではないからだ。

人類に宿る天賦の潜在能力の称賛は、共存社会の実現など、それ程までに驚くことでは決してない。

何にもまして母なるものによって定められ培われた一切の民主主義国家では、軍国主義とは違い、こうした自然的なものの確実さを必ずや享受する。

母なるものが基準とさえなれば、授かって生まれた天賦の資質が社会に行き渡り、幸いに持って生まれた性別に偏りつつも確実に誤った道を進むことが出来にくくなるのである。

女性からのフィードバックが男性からのフィードバックに対応する謙虚さに社会が占める環境へと転換する一つの帰結が存在する。

日本人の謙虚さには日本独自の美しい心に秘められている自然的な道理が養われているが、世界には無くて日本にはあるそのイデオロギーは、男性たちによって気付き、女性たちよって伝えられるものの一つでもある。

金銭的なものから感謝的なものへ、女体から心へ、美しい習俗と作法へ、女性の出産から死に至るまでの進歩、つまり動機の段階的上級という、根本理念が、男女において同一であるだけではなく、異性に向けられる恋心も性欲も同様の育成に及ぼすことが、一切のより優れた文明への進歩や再出発点とされるだけではなく、文明が後退する要因でもない。

それどころか、個々の愛情表現や芸術文化の描写が提供するものには、驚くべきことに男女の愛と死の対応関係が見られるのである。古きものと新しきもの両者は同一であるように。

女性に特有の盲目的な葛藤の危険性については男性にも備わる、狂気と節制、華美と美徳との間を、高揚と平静との間を揺れ動かし、その偉大さと同時にその節度にあずかり、感情と感性とが永遠に螺旋し合い目も眩むような高級で優美なものたちである。

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茨の道を歩む男性にとって共存社会は楽園の一部になる。

2015-08-20 | 社会問題
この世が共存社会に落ち着くことは、男性たちが無力であるという証ではなく、女性たちが男性よりも優れているからでもない。文明の進歩がそれを望んでいるからである。

男性社会の身を犠牲にする勇往邁進な闘争心の最も美しい実例は、愛する者を守り抜く誇り高き選ばれし者の証だが、それが何時しか災いを招く羽目になっている。

断っておくが、女性社会は、男性の尚武の気性を排除するどころか、むしろそれを押し進める格好にある。

勇き大和時代にも武士道精神と女性崇拝とは共存関係の真っただ中にあるもののように、恐ることなく強者に立ち向かって行くその姿と同時に、女性に忠義を誓い仕えることは、若々しい力に溢れるいずれの民族にも一致して認められる特徴である。

女性社会と男性社会での紳士的な進取の気性とその性質の結び付きは、さらに別の側面からも証明される。

現代の研究の弱点である学者たちの見解は、大和の理念よりも現代の理念に重きを置き、説明に当たっては日本伝統よりも世界に合わせようとして、その結果、必然的にただ懐疑し混乱するだけで、どうしようもない虚無主義に陥ってしまう。


また父なるものの意味は、自決的で生命の死とともに全く忘れ去られてしまうものでは決してない。

いにしえより我が国は全ての自由な国家成員が同等であるという点が、母国という共通の一つの母胎から由来することを見出している。


人間にとって一番の関心事は、最初にまず、自らが男性か女性かで大きな違いがあることだ。

女性はそれ自身の内に男性以上に高度な感受性を宿している。女性の不可侵性は自らの大地を母としての性質に基づくのに対して、男性の不可侵性は法律を以て理性的に説得されて初めて認められる。

女性が男性に貢献するのは純粋な自然状態にも見られるように、男性の場合はそうでもない。男性では法律によって宣言され、そして男性の欲望が母なる大地に還元されることによって初めて正当化されるのである。

男性はその一般的な特性として自然の生殖能力であるだけに、女性の生殖力に対する一般的な関係だけである。

子との関係からすると、全ての男性社会の歴史は父殺しそれ自体も男同士の策略、つまり男性の自然能力に対する侵害以上のものではなく、その為、多重殺人として区別されることもないどころか英雄気取りである。

父と子が誰かということには無関心な、純粋に傍観的な視点が取られている。父性の権限は出産によって初めて目に見える形で現れるが、親と子の根源的原理は女性にある。

あらゆる物質的な誕生に預かるあの神秘的な母の胎内と同じように、その子供たちの地位と役割を指名するのが現世の女性たち、いずれ死に至る人間の母なるものの使命である。

この使命行為の中に女性たちの持つ叡智、尊厳性の根拠がある。子供たちが自然生活一般に役立つ様に、この現世の女性たちは父と子の責任を果たしてこの世界の頂点に立つのである。

女性秩序は家族の幸福も国家の安泰をも促進するものであるから、粗暴な力が未だ荒々しく吹き荒れ、情熱を傾けるに値する者は未だ文化や生活の仕組みの中になく、女性の驚異的な感受性に対しては、選択と責任において共感し、それ以外で女性たちと共存する方法も無ければ恐れるものも何もない。

社会が自分勝手で制御の効かない権力を示し自慢するのに対して、女性たちは平和と秩序の担い手、法の体現者、献身的で貢献者として、社会に恩恵をもたらしてきた。

高次の感性能力の必要なることを暴力によってではなく、自らの自由意志で選び取ることによって平和な社会はある一時代を通じて維持され人間に幸福をもたらしている。

女性は男性には解らない掟を内に秘めているものであり、その掟は自然の潜在本能や人間の良心として、女性達から必然的に確信を持って受け継がれていく。

だが残念なことに、このような女性の優れた性質がのちに堕落していったのは、女性の活躍が生活の卑小な部分に限定され、女性が義務的な地位に落としめられ、一切の優れた仕事から排除され、その結果、男性社会の優位性によって謙虚に影響力を保とうとした方法は女性にとっても、男性にとっても、双方の不利益でしかないのである。

女性の美しい魂が、低次の欲望や低次な感情を追い払い、性的な欲情を拭い去り、子共たちに新たな力と雄々しき心とを約束するように、一つの民族を現代のような空虚な意味ではなく、大和心の堅固な意味で、正義ある者へ育て上げる為には、女性の高権と感謝ほど強力な要因はない。

自然法では必然的に母の本性を分かち持つ一方、市民法では必要的に父の後を継ぐ者となる。

自然法と市民法との対立は、自然法は普遍的生活の法であり、従って母性の法であり、男女法となる。この法に対する最大の侵害の一つは女性を遺棄することであるが現実に存在するから恐ろしくなる。

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性的習慣が男性主導では愛が感じられずに快楽で終わる。

2015-08-19 | 社会問題
人間の性生活は、その最も素朴な原始的段階と何も変わらずに今日に至っているかもしれないし、しかもそれは公然と行われているのである。

私達は動物同様に、特定の男女による継続的な統合と一時の快楽と怠惰に勤しんでいる。

愛する気持ちと憎しみ合う感情は両立し合い、敵対する両者の感情はその極点を極めて行く。統合の原理は女性の共感側にあって、分離の原理は男性の衝動側にある。

女性が属する自然法による男女法には、一族の永続的な統合の根拠が備わり、人間同士の統合と平和の原理が存在するのと同時に、急速な人口変動をも可能にしている事実である。

実際、女性は最大の国家存続の支援者の中心人物であり、機嫌を損ねては国家の危機を可能にしてしまう油断ならない存在でもある。

仮に複数の男性が頑張って世界を支配したところで、女性社会を管理する自然法からの脱却を意味する訳にはならないように、死と生命を支配する自然権には母胎を通じてのみ伝えられるからである。

むしろ男性がいかにどうあがいても、太刀打ち出来ず、引き分けに持ち込むか、さもなくば一族全体の中に消えてしまうかのどちらかにしても、男性的観念が、完全な展開を遂げる為には、女性的自然原理の手を借りなければならないという理由からのみ、男性的自然原理が女性の心を射止めるのである。

従って、男性権利の乱用が女性の抵抗を生み、女性の抵抗が共存社会を生み出すことになる。

男性が女性と結び付き、家族および国家における支配関係を母なるものの手に委ねる共存社会は、ようやく後世に胸を張って語り継がれる結果になる。それが全くの人為的なものであってもだ。

現在では成す術もなく、男性たちの欲情に奉仕することを余儀なくされる女性たちは、何らかの権利を与えられることもなく、屈辱にひざまずいている。

まさかと思うが、女性が男性同士の闘いを仕組ませ、さらに強い男を見出し、その男性と交わろうとしているとは考えにくい。

民族は女性によって秩序を授かるから、男性は自らが支配する力を得る前に、まず女性に育てられなければ、闘争本能の原始的で制御の利かない力を手なずけ、善き方向へと向かわせることが出来る者が女性社会である。

女性は生命を貫く法則を内に秘めている。女性社会は人間の良心を伝授し、それゆえ知らず知らずの内に確固とした平和の法典が語られる。

女性は男性同様に、生まれ持って知恵ある者として、本性上自ら知性ある者であり、本性上平和主義者であり、本性上生命と死との中庸者である。

それゆえ戦争は女性の命令によって左右されるものであり、それゆえ女性は侵されざる者とされ、それゆえ裁判官の職務を担うものとされ、それゆえ民族間の歴史的感情を調停させる者とされる。

感覚的に粗野な男性を退けるのは女性の感性にあるが、男性が荒々しさを備えているのに対して、女性は静穏、平和、共感、普遍性にあるのも感性だ。

実際、文明生活の長所と弱所には常にいじめが同居しているものであるが、社会にとって最高善といわれるもの、つまり集合体の至高の一体感はどの様な答えを導き出して見ても男女法による共存社会の中でしか解決する方法が見いだせない。

というのもそれは社会を家族に、さらには家族を個人に還元してしまうには、そればかりではなく、最も多くの人々に共有されるものこそ、人々から最も軽んじられないものこそ、文明の進歩は多様なものを一つのものへと統合することにあるのではなく、逆に本来的に一つであったものが多くの多様なものへと文明化することに向かうその道筋にある。

共存社会への移行は一元性を多元性へと導き、こうして秩序という最大の原理がこの世界にもたらされるのである。

一元性から多様性への進歩、混沌とした状況から秩序付けられ編成された美の状態への進歩と軸を一にして生まれ代わるものは、純粋に金銭的な賄賂からよりも高度な芸術的存在への進歩である。

人類は不完全な常識から出発するが、その目的は高次元な叡智の獲得状態に至ることであり、人類は破壊と支配を繰り返しながらもその目的に向かって進み続ける。

一方の本能的原理がもはや単独では支配出来ずに、他方で精神的原理も未だ完全には純化されるまでには至っていないが、理念の帝国は男性に属し、平和的な生活の王国は女性に属す。

男性と男性での優位性をめぐる闘争が、勝利によって結末を迎えるまでにはいくつかの大きな転換期が必要であるが、それらは常に、一つの制度が過度に極大化するとともに結びついていることから、社会支配と堕落とがその後の発展に最も大きく寄与することはまさに事実なのである。

人類が経験した現実の出来事の記憶、それは虚構ではなく、私たちが経験した宿命となる。それらは死すべき命ある人間の経験であり、現実に歴史が体得した事実である。生命は最も創造的な構想力が生み出し得た虚構よりも、遥かに偉大な思想を実現してゆく物語である。

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母と子は自然的な繋がりであるが、男性には法的擬制が必要。

2015-08-18 | 社会問題
毎日の物質的状況と精神的状況を幸福なものへと変えられる女性の観念や女性の直観に描かれたような、男性たちの精神的解放運動は、神聖な力として本領を発揮するのである。

その男性解放運動の終末に再び表面化することは、歴史の習いである。性は循環し、社会は再び始まりに戻る。

男性世界の内部崩壊が進めば進むほど、ますます決定的に女性的な普遍的原理があらためて前面に表れて、日常生活のもっとも素朴な高次のあの自然法さえも再び主張されるようになる。

男性が話す世紀末は、人間の始まりの発展段階についてさえその歴史的実在の可能性を疑われたものであったにもかかわらず、今やまさにそのような自然法が、人間発展の崇高な段階に至って、人間本性の動物的側面を意識的に高級化しつつ再び生きる許可を与えられるのである。

およそいっさいの人間的感性の理想として低俗な感情よりもてはやされることになる。

最終的には新時代の幕開けとして認識されるものが、このような相互関係は感性の発展が、その感情的行動が完全に自由であるにもかかわらず、いかに不完全に問題を引き起こしていたのかを証明していく。


男性世界の部族に認められる女性原理の様々な形態や表現は、共存社会を愛する集落にとって偉大な歴史的家庭の各段階に相当する歴史の二面性である。

女性に対する男性の勝利が人類の発展の中で占める正しい位置を与えることが出来るには、それと同時に人の世も、かつては生み出て、かつては滅びゆく、それ自体善きことを必要とし、、善きことによって充たされ、常に善きことを求めてこれに携わる母なる大地の恵みにある。

無機律な男性の愛も、同じく無機律な男性の敵意も、彼女たちを美しさの高次の定めから遠ざけてしまうのはあまりにも合理的とは言えない。

女性から生まれる自然的男女法に従えば、この自然法を常に変更し侵害する男女法ではない。大地が母なるものと類似するのは、母なるものが大地に似るように、大地が母なるものに似ているからである。

また、女性社会は婚姻によって成立するものではなく、それはむしろ逆であり、その自然的法則および普遍的法則によって成立する。女性社会と男性社会とは対立するものではなく、これは必然的に付属するものである。母なるものの根本理念は自然的概念に依拠しているからである。

家族は純粋に自然的な概念であり、それゆえまず母なるものについて男性自身が家族に対して何が出来るかを考え出す男性に女性は共感し愛す。

父なるものでは常に法的擬制が必要にあり、これに対して母なるものは自然的事実であるのだから、いかなる者との交わりによって懐胎したのであれ、母なるものは必ず確定者であるが、これに対して父なるものは婚姻によってのみ指示されるものであるにすぎないのである。

父と子の関係では自然的確実性は常に欠けているので、法的擬制がこれにとって代わらなければならないことを示唆している。母なるものの権利は自然の真理であるが、父なるものは市民法上にある権利だけである。

母と子は自然が示す道理であり、血族も自然の示す道理であるが、父なるものが自然にだけ任せていては自然とは襲い掛かるものであるから、法律上、真であり続ける為の確定的なものにする必要が法律上どうしても無くてはならない。

この男性世界は物質を貫く男性本能の呪縛から逃れるチャンスもタイミングも無く、それゆえ自然力の母性原理な側面が重要となる。

女性社会に元々備わっている民族の遺伝子が、低次元の混乱する動物的生活段階にあっては、下等動物と同じ様にただ自然のままの性欲だけが行われていると考えるのは、あながち間違っているとは言えないだろう。

女性社会は無文化の世紀末時代に属するものでなく、むしろ進んで自慢出来る一つの高級な文化的状態なのである。

女性たちは規律ある一つの土地を愛し、一人の男性を愛し、自然と同居し、死を受け入れ、大地に根付いて発展を遂げる者であり、逆に好奇心旺盛な男性たちは新たな開拓を模索し戦いに明け暮れるのを望みながら発展を遂げる人種である。

元を正せば、壮大な宇宙や大自然を愛する男性たちである。大地の恵みと自然法を理解するのは誰であれ善き指導者なのである。

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受精による支配と母なるものの進化。

2015-08-17 | 社会問題
男性的な社会観から女性的な社会観への進歩は、平等関係の「今」にとって最も重要な転換期である。

根本原理それ自体が共感させられ、その結果、かつての立場は少しずつ克服され、いずれ全く新しい考え方への道が開かれることになる。

母と子の絆はさらに深まり、それは感覚的知覚の現象によって認められ、常に大自然の真理であるのに対して、子を孕ませる父性はあらゆる面でこれとはまったく対照的な性格をもっている。

父と子との間には可視的な関係でしか認められず、父子関係は単に擬制的関係であるところを逃れられない。

父は母を介してのみ子の誕生に関わりうるだけなので、あくまでも遠く離れた潜在的能力としてみなされる。

それと同時に、子を守り育てる母の特徴は、母乳に表されるように、父は本質的において子を産ませる誘導因として、その性格は傍観的である。

実際、男性社会の問題点は、子を育てるよりむしろ戦いに勤しむ傾向が強いが、何の為に戦っているのか時々解らなくなる。

男性の責任は女性と子供を守ることによって初めて、精神は自然現象から解放されることが可能となり、共存社会の勝利によって初めて、人間は物資社会体制の混乱を克服することが出来るのである。

母性原理は大地の創造物、全ての生命に共通であるが、人間は孕ませる父の能力と快楽を重視するあまり、家族の結び付きから解放され、より戦闘能力の高い男の歴史を意識するようになっていく。

精神的能力は肉体的能力を超克し、戦争時には女性とのつながりは肉体関係にのみ限定される。

それを女性自身が望んでいるなら世紀末予言は時間の問題だが、子を産み育てる女性たちの本心では決してない。

母性は人間の肉体的側面の鏡であり、以後、この鏡の法則について男性と女性と他の創造物との共通性が維持される。

地球の支配者として決定的な長所を持つがゆえに採用される体系的構成とは、不可分である。民族の生活がもたらす全てのものは、豊かさと多様さに支配されている。

特定の文化の根本思想は、局所的状況や個々の発展の環境や影響を受けて、それぞれの民族ごとに、様々な異なった形で表現される多様性にある。

男性現象の類似性はしだいに後退していき、やがては特殊性、多様性が優越するようになる。

実に様々に異なった状況に影響されて、ある所では最も豊かな発展を見せている生活のある一面が、別の所では早々と統一していることもある。

性別をその欲動、そしてその多様な表象を認識しなければ、空虚な思想的社会観念を再現して見せてもまったくの無益である。

包括的な視点がいかに大事なことであるとしても、それは豊富な細部に立脚して初めてその完全な意味を用いるものである。

不変と特殊、ある文化の一般的性格と個々の民族の特殊性とが正しく結び合わされた時にのみ、人間の精神はその一体性と多様性という二重の欲求を満たすことが出来る。

受精支配その歴史の全体像に新しい共存の特徴を与え、あるいは衆知のものにも以前は顧みなかった別の側面を加えて、開示することは必要である。

今以上に認識が高められて、欠陥が埋められ、最初の観察は新たな観察によって確かめられ、修正され、拡張されて行く。

知識は次第に英知へと発展し、理解はその内的関連を獲得し、より高度な視点が生まれ、ついには全てが一体的な究極の思想に統一されるのである。

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