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物語の完成。

2019-04-13 | 文学
  4月13日 土曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


これまで数々の物語を通じて、様々な困難を克服してきた。

宇宙の原理はウィン・チュー(愛)とし、

この世が地獄という法則を説き、

悪が根絶しないことについて述べた。

資本経済による「見えざる手」にも言及し、

悪行が利益に、正義には悪が不可欠だとも触れた。

社会には、人生には 「必要悪」 がなければ

共産主義の二の舞になることも論じた。

そして 「愛」 があれば全てが許される理由も理解できた。

死の恐怖を克服する方法があることも分かった。

さらに今後の世界を生き抜くためには、

ウィン・ウィン主義が極めて重要な思想としてそのやり方も検討し、

ウィン・ウィン経済理論が「愛ある経済活動」だとも認識した。

地球の真の支配者は 「虫」 であることは既に承知であり、

体内微生物幸せ菌 「ウィン・チュー」 が人類を浄化し、

男尊女卑社会に調和を齎すことにも同意していただいた。

そして最後に、

内なる神と大いなる神との融合した祈り方、

ミーム(遺伝子)が人類をさらに進化させることも取り上げた。

女性たちが核なき世界を実現できると署名してくれもした。

私たちは実に多くの社会問題を解決してきたのだ。

もちろん、これで終わりだとは考えていない。

私たちの行方にはこれまでにない更なる飛躍が必要となろう。

それには、AI人工知能の活用も視野に入れてきた。

未来は決して破滅ばかりではないことも実証できた。

13日の金曜日がイエス様の命日で大切な日であることも判明した。

今後は私たち一人一人の取り組みが重要であることにも同意を得られた。

現代人はもっと大いに語らなければ過去と未来を繋げる役目を果たせない。

確固たる確信は伝染する。平和を信じ、独占を軽蔑し、

愛を語らなければ我々の使命は果たせないのである。

集団への継承を見守り、集団への誇りを受け継ぐのである。

この社会には奇麗事に隠された裏の欲求があるように、

現実という厳しさとの共感と秘密があるのだ。

過去の分析なんてものは、学説を説明する為にあるのだから、

それよりも大切なことは、愛による行為にある。

愛は言葉から発する意識から成るものだ。

世界で最も重要なのは 「愛」 である。

私たちが 「愛」 を語らなければ何も変わらないように、

「愛」 は出せば成る。

私たちには夜も眠れない心配事や不安が存在する。

人は何の為に生きているのか時々解らなくなるのだ。

本当に困った時ほど、「愛」 が必要となろう。

確かに、

私たちは知の全体を一望し得る思想を身に付けることは出来ないかもしれない。

しかし、毎日を少しでも楽しく生きられるのであればそれで構わない。

共に考え、知恵を出し合い、人生のビジョンが明確になり、

志と呼ぶに相応しい、熱い情熱が全身に伝わってくる、

社会に全世界に対してこの問題を提起したいのである。

定理や公式や定義よりも、物語を重視して。

私たちがこの世の不条理に負けて思考を停止しては地獄の思うつぼである。

この世に神はいない。信ずるのは 「愛」 だ。

世界を科学すると未だ謎だらけである。

世間の常識を用いなければ最高の真実は解き得ないように、

知識や手段なしには対象の理解はない。

対象の理解が無ければ活動は有効ではない。

囚われていた主題から解放されるには、ある程度のユーモアもまた必要だ。

木を見て森を見ず、大きな思想は細部に宿る。

目標は世の中を変える研究をやることである。

人類は物語を共有するという天賦の才能が備わっているのだから、

愛のある新しい物語が世界には必要であると、

ちょっと自信過剰ではあるが確信しているのだ。


  つづく。

コメント

「愛」は金儲けに必要か?

2019-04-08 | 文学
  4月8日 月曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


みなさんはこう不思議に思うかもしれない。

「愛で金儲けができるのか?」 と。

「愛があれば厳しい生存競争を生き残れるのか」 と。

「勝つか負けるか解らない時に愛が必要なのか」

そう思うかもしれない。

だが現実には、神を味方に付けずに天下は取れない。

中国が世界の覇者になれないのは、神が不在だからである。

古い資本社会の寿命は尽きた。

新しい資本社会は神との遊戯の中にこそ存在する。

独占と競争とを和解させる為に確固とした原則と明確な目標を

発見しようとすることは、それほど難解なことではない。

過去マネーゲーム、確かにこれも必要悪なのだが、

類似する経済学者の資本論による計画された欲求に対する公認の賛美には、

何か欠けているものがあると感じられるのもまた事実である。

この重要な問題に対して私たちはやがて近いうちにかなり正確な回答を見出すだろう。

資本独占の支配から愛ある経済活動ウィンウィン主義への転換期である。


今日、ウィンウィンによって資本主義と共産主義の矛盾を基本的に解決してきた。

数百年間続いた階級社会による搾取制度の歴史は終結し、

ウィンウィン経済論が世界で実践可能だという基本的な解釈も説明された。

悪徳が栄えるという矛盾に対しても、ある程度のバランスを実現することは可能だ。

マネーの方向性は集団社会と個人主義による分布に示されるように、

現在は全体の20%の人々が80%の富を持ち、

その分布を20対60対20にシフト出来るならばやがては、

富の分配50対50が可能で、将来80%の人々が富を手にする。

そして再び20%の人々が反対勢力となるこの繰り返しだ。

マネーの基本原理は、それを一定不変の大義たらしめるようなものを何も含んでいない。

そして決定的な厳格な規則も自然法則も何もない。

過去私たちは、マネーに忠実に従ってきたが、

「愛」 がそのマネーの方向性を変えることが出来る。

最も強い動機とは、欲望から愛を満たす欲求にこそ持続可能社会だと考えるのです。


   つづく。



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アダムとイヴ。

2019-03-31 | 文学
  3月31日 日曜日

 おはようございます。 年上の女性(イメージ)です。


日本人が人類の誕生物語(創世記)を読みますと、

「アダムとイヴ」 はこうなります。

この世界ではどうやらイヴ(女性)が主役のようで、

アダム(男性)が脇役にも見て取れるのです。

きっと、そうなのでしょうとも。

「男は女から生まれて、女に育てられる」

その通りなのかもしれません。

人類の始まりは女。男は現象です。

そういえば、日本神話に登場する

天照大御神も女性ですよね。

それに、女性の方が好奇心旺盛。(問題もありますが)

男性の方がつまらないことばかりしているところもそっくり。

勝利の女神がアグレッシブな者を愛する理由がよく解ります。

それにしても、

禁断の果実一つくらいで、神様も酷いことをします。

しかしそれでいて、

現実に労働の報いを受けたのはアダム(男性)。

最初に果実を食べた女性が美しさを手に入れて、

後から食べた男性が自然との闘いに挑むことになる。

ことは言を俟たない。

「アダムとイヴ」の侵した罪を救える者は女性でしょう。

この世の行程は定まっています。

人生は一本道でしかも折り返しがない。そして毎日の各部分には、

それぞれその時に相応しい問題が与えられています。

私たち人間はかろうじて善ですが、この世が楽園ではありませんから、

集団で管理監督する者は女の方が望ましいことは歴史が示す通りです。

社会を男性にばかり任せていては「アダムとイヴ」問題は

いつまでたっても解決しませんから。


一つ、気になるのは「蛇」の存在です。

「蛇」はその後、どこに消えたの?

悪いのはそいつ。蛇です。「アダムとイヴ」ではありません。

なぜかと言えば、

イヴは果実を食べてとても美味しかったので

独り占めせずに一緒にいた男性(アダム)にも差し上げた。

とっても親切ですね。

イヴはこっそりと隠れて食べたのではなくて、

パートナーに提供し選択肢を与えて、

決してアダムに強制していません。

問題なのはこの一部始終を

世の男性(アダム)たちは勘違いしているところにあります。

エデンの園から追放されたことを全部イヴの責任にして。

だからなのですね。男が労働に報いなければならないのは。

いつまでもエデンの園から追放されたくらいで

めそめそしていては男らしくありませんよ。

一緒に食べた仲です。どちらが先かの問題ではないのです。


   つづく。

コメント

神の概念が無いとお金依存に頼る。

2019-03-29 | 文学
 3月29日 金曜日

 おはようございます。 R²O(うしなおう)です。


世界経済は今、

お金万能主義、お金中毒に陥っていると思われます。

神の概念が薄れてゆく現代の中では必然なのかもしれません。

というのは、世界秩序の共通の重荷、

つまり、すでに差し迫っているか、

あるいは確実に起こりうるであろう

お金依存から一緒に開放されたいからなのです。

確かに私たちはこの重荷に他のすべてのことと同様、

愚痴をこぼさず文明人に相応しく今も耐えていますし、

これからも耐えていかれるに違いない。しかし

私たちがお金依存について何か上手い説明を求めたくなった時、

この世界の究極の書、地獄論を贈るのにふさわしい人、

一緒にそれを楽しんでくれる人は、まずいないだろうと思ったのだ。

実は私にとってこの地獄論はまことに幸せなもので、

書くほど知力がみなぎり、苦しみのあらゆる忌まわしが忘れ去られたばかりか、

地獄論が平和で調和なものにさえなったのである。

死の恐怖が消えたのだ。むしろこの世は仮住まい、なんと晴れやかなことか。

本当に地獄論はいくら称賛しても、し過ぎることはないのである。

地獄論を学ぶ者はみな、生涯のあらゆる困難を幸せに過ごすことが出来るのだ。

信じたくない気持ちは判らなくもないが、社会がこうなった以上、

お金に依存し悪行に走らず幸せに暮らせることは間違いないのだ。

地獄論について、私はすでに多くを語ってきたし、これからも語るつもりだ。

未来の偉人たちへ贈るその思想は他ならぬ地獄論である。

さて、それとかつて歴史に名を遺す偉人たちが地獄論を語る時、

優しく、それでいて難しく語ることが多いが、私はそうはしない。

なぜなら、現実を直視できなければ十分な説明ができないではないか。

地獄論という議論をより真実味あるものとするためには、

たとえ、石を投げられようとも、いつか誰かが唇を切らなければ、

社会集団が谷底へと道を踏み外し絶滅しかねないその前に、

そうなってからは手遅れだ。

なにも今すぐに地獄論を受け入れなくても構わない。

しかし、この事実は聞き入れてもらいたい。

さあ、前置きはもうこれで十分。以下は

地獄論が世界に関する人類の真実のすべてを明らかにすることであろう。

この世界の普遍的な法則をご覧いただこう。


    つづく。

コメント

社会契約論と自由放任主義。

2019-03-26 | 文学
 3月26日 火曜日

 おはようございます。 グリーン・DE・クリーンです。


自由放任主義には社会契約論が必要だ。

我々が地獄に堕ちている限りにおいて

「必要悪」という概念がどうしても必要だからだ。

マルクス主義がなぜ、アダム・スミスに敗れた理由には、

マルクスが良い人過ぎたからである。

だからと言って、アダム・スミスが悪い人だとは思わない。

なぜ、対立し協力できなかったのだろうか。

もしかして、私の為に残しておいてくれたのかもしれない・・・。


国富論の名言には、

「我々が食事が出来るのは、

 肉屋の主人が親切心を発揮するからではなく、

 自分の利益を追求するからである。」と。

アダム・スミスによると、

人間とは自己利益に動機付けられた個人として説明されている。

「相手の利己心に訴える方が、

 そして自分が求めている行為とが、

 相手にとっても利益になることを示す方が、

 望みを得られる可能性が高い」と。

経済活動とは結局のところ、

利己的な欲求による直接的な感情と快楽によって成り立っている。


それにしても経済は凄い! なんて懐が深いのだろう!

これだけの人間の欲望を受け止められるのだから大したものだ。

世界が辛うじて保たれているのはまさに経済活動のおかげだ。

「必要悪」という金儲けに興味のない人間が犯罪を犯す理由はこれだ。

社会は個人の合理的な感情の選択に基づいて形成されているという

経済学の建前であるが、経済がなぜ、まとまるのかという謎には、

その方がお互い利益が得られるからで居心地が良いからだろう。

実際、アダム・スミスが説く社会倫理は、

相互は共感の上に成り立っている。

「共感(同感)はいかなる意味でも利己的な原動力とはみなせない」と。

ひよっとして、

アダム・スミスとマルクスはウィンウィン主義者だったかも・・・。

「人間とは社会的な生き物であり、

 その本性は感情移入を必要とし、

 共同体の一部であることを欲する」と。

「全体の利益を重んじる功利主義を改善させ、

 個人は全体の利益を確実に最大化するよう

 行動すべきだという倫理体系を構築する」と。

社会契約が重要な役割を果たすのはこのためだ。

個人資産が全体の為に使われなければ成功者とは呼ばれないように、

社会契約。市場が中心となり、

その市場はブロックチェーンで一般公開され守られる。

個人資本(自由放任主義)が社会契約(市場倫理)を

通らずにため込んでいる格差社会現象である。

私たちに大胆な方向転換が出来れば素晴らしのだが、

現在の債務危機は、過去の経済情勢とは性質が異なり、

はるかに深刻で影響のおよぶ範囲は計り知れない。

自然状態に 「リセット」 出来れば良いのだが、

現代ほど経済の本質を見失っている時代はない。


    つづく。

コメント

社会的なことが独り歩きする法則。

2019-03-23 | 文学
 3月23日 土曜日

 おはようございます。 グリーン・DE・クリーンです。


社会のあらゆる自然的変化は、腐敗か、衰退か、退化である。

流転する全ての物事、生成する全ての物事は、何もかも崩れ落ちるように、

時間が何もかも劣化させてゆく。たとえ始まりが正義であっても。

この世界が不公平なのは、信じたくはないが法則なのだろう。

悪が増殖し、社会が因果律を形成する地獄の法則を正義の目的に適うようにするには、

ウィン・ウィン主義が手綱を持って方向を定めてやるしか今のことろ方法がない。

社会的なことが独り歩きする法則とは、

万有引力が示すものと同様それは 「地獄」 にある。

ニュートンは 「地獄の法則」 を実用化した偉大な人物にほかならない。

もしかすると、

あなたは社会が提供する幸福を一人で全部手に入れようとしているかもしれないが、

それはいささか、欲張りというものである。今あるもので工夫した方が良さそうだ。

だからといって気が滅入る必要はまったくない。

他人に迷惑を掛けさえしなければ、多少の悪行は大目に見てもらえるからだ。

現代は罪が発覚して初めて、罪人になるからだ。

宗教的で厳格な掟など、地獄社会ではしょせん無理な話なのである。

だが、そうは言ってられない現実がある。

お釈迦様の言うように、

私たちは苦しみから逃れられないにしても、

ひとつだけ 「救いの手」 があるからだ。

それというのは、「愛」 があれば何でも許されることである。

イジメにせよ、ヘイトにせよ、コピペにせよである。

強引に善と悪とを分類するなら、愛があるか無いかで分類される。

つまり、「愛」 があれば地獄が調和することになる。

法律を見よ。あれが 「愛」 の無い証拠である。

裁判による判決の秘訣は 「愛」 以外に何があるというのだ。

犯罪者優位の傲慢な判決には天誅も時には必要悪となろう。

気になるのは、その必要悪だが、これも避けては通れない問題である。

どうやらこの世界にはちょっとした悪が必要のようである。

必要悪その最たる例を挙げるならば、一位はやはり金儲けであろう。

この世界で金儲けほど素晴らしい必要悪が他にはあるのか。

「カネだ!金をくれ!もっとくれ!」 地獄での合言葉だ。

最高と最悪は、幸福と不幸と同じく表裏一体のようだ。

実際、現在過去を問わず 「必要悪」 がどれほど深く根付いているかを

理解するには共産主義や資本主義による経済活動を見れば明らかだ。

だからといってこの 「必要悪」 を根絶やしにすることは出来ない。

なぜなら、経済活動とは 「地獄化した世界」 を現実の土台として、

その上でエネルギーを物質に転換し成功しているからである。

確かに古来は善行こそが決定図だったが、

時と共にエントロピーによるカオスは刻一刻と深まるばかりである。

サイコパスは私にこう言ってのける。

「悪もバレなければ悪じゃない。盗みは上手く行けば成功だ」と・・・。

どうやら社会的なことが独り歩きする法則に対応するには、

中庸こそが一番重要な事柄であるようだ。



     つづく。

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経済の見えざる手。

2019-03-22 | 文学
 3月22日 金曜日

 おはようございます。 グリーン・DE・クリーンです。



なるほど。よく解りました。

ロスト・ロスト大王が言いたいことはこうです。

資本主義が共産主義よりも勝った理由は、

この世界が地獄の法則だからです。

従って人間の行動はしっかりと監視し、厳格な支配者を望んだ。

独裁者たちは何万人もの悪を大虐殺し、

自由資本が格差社会で貧困層を助長する。

如何なる善も何かしらの悪に基づいている。

善は単独では存在し得ない。なぜなら、善は本質ではないからだ。

よって、あらゆる善は悪しきものの中にある。

善はそれ自体としては存在しない。

善行を成す人にとって何らかの悪が存在しない限り、善を成すことは不可能である。

純粋に善だけを意図することは難しく、

そのような善が存在するには、それは神業である。

善行なること、善を決意することは可能だが、

それは社会法則の基本的な方向に反比例する。

世界の原理や健全な秩序は悪に向かうのが基本なのだ。


誤解を避けるために断っておきますが、

何も人間が生まれつき悪だとは考えていない。

なぜなら、人間には善なる良心が残っているからだ。

ただ、世界あるいは社会の核の部分は悪であって、

社会は悪を核として、社会悪を創造しているのだが、

元々、人間には善に向かう傾向があり、核の部分までは陥らない。

もし人間に善なる良心が存在しないなら、

世界はとっくの昔に破滅していることだろう。

問題なのは、まさにこの核の部分に対してである。

成された善行は悪の一部なのであり、

言い換えれば、善の裏には悪が隠れている。

考え付く限りで思いつくことと言えば、

最大の過ちを完全に思い違って実行してきたことであろうか。

あらゆる見当違いの善の種を蒔き、努力を積み重ねてきたにも関わらず、

その収穫に至らない理由が他に見当たらない。

従って、この世界で善を成すには正義だけでは足りない。悪が必要なのである。

どうやら、この社会には悪にも役割があるようだ。

実際、あらゆる悪を未然に防ぐなら、多くの善が消えるだろう。

だが、全体の悪が部分的な善に優先されるのも事実だ。

先見性を備えたリーダーにとっては、

全体的な善が増えるなら一部の悪を無視することは理に適っている。

「水、清ければ魚、住まず」である。

聞きたくないかもしれないが、結論を言わせていただくなら、

この世の法則に従うと、悪は完全には排除されないことになる。

いにしえの伝説にはこう書かれている。

「いかなる優れた計画や善行でも、やがて覆われて公の悪化となるのである」と。


   つづく。

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天国へ行くその方法。

2019-03-12 | 文学
 3月12日 火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


宗教統一で忘れてはならないことは、

天国へ帰れるかどうかである。

なぜなら、

誰一人として、地獄に戻りたいとは思いませんから。

ここで、一度おさらいをします。


魂の国があると考える方が合理的で、

神の存在を信じ、この世が地獄だと受け入れるなら、

全ての宗教が問う、天国への道を示すことが統一だ。


高貴であること、自由で貢献的であること、

偉大という概念に属すること、おそらく

我々もまたなおみな、この世に堕とされてでも

義を持ち続けて見えるという事実がそれだ。

数千年の長きにわたって、数多くの宗教家たちは、

何事かを証明する為にのみ、我々は今日まで従ってきた。

その結果、厳密極まる熟考の成果として現れるべきものが

すでに目の前に確立していたという恐るべき事実である。

それは精神修行などといった不確実な希望的観測に従わずとも、

全く欠くべからず手段であるように思われるのである。

そうだとしても、実に面白い現象といえよう。

不安という感情、恐怖という本能は、

我々が自己の死の可能性に直面し、

パニックに脅かされ続けることで生じると。

不安や恐怖が心の内にあるのは、

死の拒否反応である無に直面している時なのである。

どうゆうわけだか、

不安や恐怖を通じて初めて福音を直観できるのだ。

そして良心の声に耳を傾ける。神に祈る。

宗教心の弱さは、不気味さに直面していないことを暗示する。

私たちの勇気と自信はどこから生まれてくるものだろうか。

キリスト教徒の人達はこう言っています。

「あなたは決して勇気を失ってはならない。

 苦難があなたの頭上に臨む時には神の救いの手が見えるだろう」と。

先人たちに従うならば、

人生は全く無意味だとは思えなくなる。

とにかく、誰であろうが神の国は等しく謎であるらしい。

一体、神は何のために死を御創りになったのだろうか。

神は私たちに一体、何を望んでいるのだろうか。

知る由もない。そうだろうか。

世界はつまらない思い込みで複雑に歪み、

混乱し享楽している間に起こるノアの箱舟かもしれない。


天の国が実在する証明には、

アリストテレスの「戦士」の中の二人の会話で示されている。

一例を引用させて頂くなら、

「デモステネス・・君は本当に神々の存在を信じるのか?」

「ニキアス・・ああ、もちろんだ。」

「デモステネス・・では、一体何をもってそれを証明するのか?」

「ニキアス・・神々が私を憎んでいるのだ。これでどうかな。」

「デモステネス・・本当に君の言う通りだ。」


実際、お釈迦様のお言葉を紐解けば判るように、

どうやら二千年前から答えが出ていたようである。

ただ、私たちが怠けているだけなのかもしれない・・・。

勘のいい人たちはもうお気づきだと思いますが、

そう、プラトンの言う通り、

「人間は神の玩具なのかもしれない」と。

もしかすると、死すれば再び天の国へ帰れる!!!

ただし、またすぐにこの世に堕とされる・・・。

私たちは一体何の役に立つのだろうか。

何の役にも立たね。あるいは何にでも役立つ。

何のために何を成すべきか。

世界の人々はこう言います。

「この世で動け!」 と。

日本人はこう言います。

「行動こそ真実」 と。


   つづく。

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輪廻転生と涅槃。

2019-03-11 | 文学
 3月11日 月曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


あらためて話すこともないのですが、

お釈迦様は本当に偉いお方でした。

ただ、私たちが判らなかっただけ。

きっと、いつの時代もそういうものなのでしょうか。

確かに、性善説。

あながち間違っているとは思いませんが、

社会の一切を解き明かすならば、

この世界の謎を理解するには、

お釈迦様の言葉を疑うべきではない。

仏教は優しい宗教なのです。

もしかすると、

悪を成すのではなく、善を成すべき理由を上手く説明出来ず、

その為に死後の裁きの恐ろしさを強調するのかもしれません。

そうでなければ、悪人から身を守ることが難しくなる。

この世の不公平さには、善が損をし悪が栄えるその代償には、

魂の不死説を問うことが前提とせざるを得ないことに同意する。

死後はその意味で節理に対する信仰、秩序に対する感謝をもたらすものとして、

そして今なお、自らは不死であるかのように振る舞い、目を背けている状況下では、

死に対する偽善的な態度や道徳性の崩壊には、輪廻と涅槃。素晴らしい悟りである。

仏教徒にとっての最大の経典とは 「お釈迦様の悟り」 にありますが、

その中の一つ、輪廻転生と涅槃について。これも難儀です。

後に様々な宗派が登場し、死後の生をより価値の高いもの、

完全に意味のあるものだと努力する一方、

終わりを告げた現生の価値をないがしろにされてしまい、

前世にまで生を拡大し魂の輪廻や涅槃を生み出すことが必然的なことになる。

それも全て死が生の永遠の終わりという意味を与えないための霊知である。

愛する者への生死に直面して生まれてきたのは、

霊魂の理論、天国と地獄、本能と感情への道徳的配慮も偲ばせている。

普段は考えないが、生が死によって拒絶されることを認める態度と、

生が死を非現実的で悲観的なものとして否定する態度である。

目覚めた死に対する最初の良心的な悟りが、やがて死後の世界観へと広がってゆく。

良心的不安定さが形而上学的な装いの下で、死の不安による恐怖として姿を現す。

自らの死に対して我々は、

譲歩するようないかなる感情も認めることが出来ないように、

死に対する文化的で良心的な態度には、

文明的な状態と必ずしも相応しいものとは言えず、

むしろ極端に過去に戻って真実をさらけ出す必要があるのではないか。

生活環境においても、私たちの感情においても、死に相応しい生活環境を整え、

死に対する無自覚な態度を改め、これまでのような抑圧することに心を配るのではなく、

もっとはっきりと示した方がマシなのではないだろうか。

こうした姿勢には真実の在り方に配慮した、霊能力的な神秘主義ではなくて、

人生を耐えやすいものにしてくれるという、利点があるのは確実であり、

すべての生命にとって人生を楽しむことが第一の義務であるならば、いっそ

生を楽しもうとすればまず、死に備えよと。


過去、厳しい戒律が定められていた仏教ではあるが、

その掟に反するという強い衝動がイスラム教による解放だとしても、

日本独自の仏教には、インド仏教と中国仏教との融合にあるように、

宗教の自由。天の神と内なる神。誰もが欲するならば、

それを禁じる必要はないことは明白のことなのである。



    つづく。


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ヨハネの黙示録。

2019-03-10 | 文学
 3月10日 日曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。

 良きものをこの地に落として死すれば多くの実を結ぶ。」

聖書の言葉です。

私の聖書でのお気に入りは、「ヨブ記」と「ヨハネ」。

今日は「ヨハネの黙示録」を

ウィン・ウィン王国がひも解いてみます。


口から刃を突き出した全能者の使いの者が、

7人の天使と7つの業でもって

世界中の人々を苦しめる物語・・・。

この謎をこの様に読み解きます。

この者たちが世界を救いに来たアルマゲドンだと。

なぜなら、

死で以って救われるからである。

死で以って神の国へと帰れるからである。

死は神からの贈り物であり、好むと好まざるとに関わらず、

私たちは地獄に堕とされているのである。


ヨハネの黙示録が示すものとは、

人々を恐怖に陥れるものではなく、ましてや

地獄の使者でもなければ人類滅亡などでもない。

死は自の為の死。神の国へ帰る為の贈り物だ。

問題なのは、死に脅える私たちにある。

これこそが、この死の恐怖こそが罪であって懺悔である。

神への祈りは、神への反省というべきであろう。

従って、苦しみの無い人生はない。


仮に、そうだとして受け入れたとしても、

気になることがあるはずです。

「一体なぜ? 地獄に堕ちたのだろうか?」

美しい神の国から追放された理由が気がかりです。

恐らく、

美しくなかったのでしょうか。怠惰かな。

人間を観察すると、多くの怠け者が犯罪者予備軍ですから、

「怠け者には用はない」。まんざらでもなさそうだ。

そう考えると、

怠け者が死して神の国に戻れても再び堕とされる?

その可能性がありそうだ。もしかすると、

私は数えきれないほど堕とされているかもしれない・・・。

いったい今回が何回目の罰なのだろうか・・・。

前世にせよ、あの世にせよ、霊能力にせよ、

そんなものにはまったく興味はないのですが、

死の恐怖を克服できれば 「あがり」 かも!?

「ヨハネの黙示録」 を結論付けるとこうなります。

「みなさん。頑張って生きましょう。そしてサッサと逝きましょう」


    つづく。

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ミームの祈り。(聖書から引用します)

2019-03-01 | 文学
 3月1日 金曜日

 おはようございます。 ミーム(遺伝子)です。



天にいます神よ。内なる神よ。偉大にして美しき神よ。

あなたを感じ、あなたを愛し、神との絆を守る者に、慈しみを与えられる偉大な神よ。

あなたを愛する私たちの祈りにどうぞ耳を傾けてください。

私たちは心からあなたを敬愛し、聖名を畏れ慕っております。

どうか今日、私たちの願いを叶え、憐れみを受けられことが出来るようにしてください。

今、この時、偉大にして力強い寛大なる神よ。お願いします。

立って、あなたの神を感じ賛美します。

とこしえより、とこしえに至るまで、栄光なる聖名が賛美されますように。

神との融合、天とその高き極みを、その全ての英知を。 

知とその上にある全てのものを、聖霊とその中にある全てのものを、あなたは創造された。

あなたは万物に命と死をお与になる方。命の配置はあなたに伏し拝む。

大いなる合一。今や目覚めよ。世界を治める者よ、諭しを受けよ。

畏れ敬って神を感じよ。おののきつつ感謝し喜べ。

私は心を尽くして神に感謝を捧げます。

心に思う神よ。神は天から我々を見渡し探される。

目覚めた人、神との合一を求める者がいないかと。

神を呼び求めることをしない者は、それゆえにこそ大いに畏れよ。

私は絶えず神と相対しています。

神よ、あなたの道を私に示し、従う道を教えてください。どうぞ私を導いてください。

私は信じます。命あるものの世界で神の恵みを感じることを。

神との合一は水上の響き。栄光は雷鳴の如くとどろく。とこしえに感謝。

神との合一はあなたを目覚めさせ行く道を教える、 

あなたの上に目を注ぎ、勤めを授け与えられる。

神との合一を待ち望め。

雄々しくあれ。心よ強くあれ。神との合一を待ち望む者すべてに。


死の門から我々を引き上げてくださる方よ。ご覧ください。

神に逆らう者は欲望を誇る。

貪欲であり神を称えながら侮っている。

神に逆らう者は高慢で感謝を求めず、何事も神を無視して企む。

死の縄が絡みつき、奈落の激流がおののかせ、黄泉の道をめぐりて、死の罠が仕掛けられる。

むなしいものに魂を奪われ、欺く者によって誓うことを忘れる者たち。

偽る者と共に座り、欺く者の仲間に入り、悪事を謀る行いに賛同する。

彼らは仲間に向かって平和を口にするが、心は悪意を抱いている。

舌を悪から、唇を偽りの言葉に置き換え、善を笑い、毒を吐き、平和を絶えず拒絶する。
 

だがしかし見よ。神の恵みが深き人を。

いかに喜びを分かち合い、御もとに身を高める人々は。

我らの魂を死から救い、聖なる御名に依り頼む者。

神は我らの上にあるように、神を待ち望む我らの上に。

神は義の企てに立ち、御心の計らいは代々に続く。

いかに幸いなことか。神との合一を図る者を。

神が嗣業として選ばれる者には、

神が天から見渡し、志高き一人一人ご覧になり、

世界に住む全ての人に目を留められる。

内なる心をすべて創られた大いなる神は、

我らの行いをことごとく見分けられる。

神との融合に参加せよ。心をつなぎとめよ。

されば死の恐怖を克服できる。

もう死は怖くない。我々は進化します。


   つづく。

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生命の原理。結局のところ我々はどうあがいてみても、みな集合体の一部である。

2019-02-26 | 文学
 2月26日 火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


知恵の最終的な結論はこうなります。集合体を信ぜよ。

大いなる者よ。我々は理解しました。

善意ある行為、制御された活動、不断なる時間の流れを。

私たちにはまだまだ判らないことが少なくはありませんが、

生き続けて行けば、きっと解ってくるのでしょう。

人類の英知は、なるほど素敵だ。

喜びが何かを成すための行為それは、大したものだ。

はるかな世界と、広い生活、深い毎日を

願い、年月の誠実なる努力でもって、

絶えず極め、絶えず困惑し、永遠に完了するはずもない試みであっても、

しばし纏め、長き継がれた忠誠を拠所として、賢く新しきものを捉える。

心は晴れやかに、目的は果てしなく、集合体は一段と進歩する。

狂おしい時代にめぐり逢い、激しい時世に立ち向かう。

結局のところ、どう上手く立ち回って見ても、みな集合体なのだ。

個人主義では結局のところ、何かを達する為には何かを犠牲にしなければ、

成し得ないことを誰もが忘れているように見受けられる現代の中で、

集合体の活動にはどんな種類のものであろうと大いなる連鎖という喜びが備わる。

社会が常に要求する誠実なつながりそれは、

優れた人物は全て相互に関係しあうウィン・ウィン思想にあろう。

過去から我々に伝えられているものを絶えず顧み、

三千年にも及ぶ集合体の歴史から学ぶことを知らぬ者には、

得られものは少なく、短すぎる時間の闇の中にいよ。

好むにせよ、好まざるにせよ、私たちはみな集合体に属する。

そして変化する覚悟を持たなければ見捨てられる。

この世が無情なものを無情でなくす為にこそ我々は存在するからだ。

仲間と共に迷うのは、それなりに得るものがあろうと思う。

喜びには悩みが、悩みには喜びがなければならないからだ。

みなと共に己の自我を人類の自我へと拡大しようではないか。

偉大なことを欲する者は、制限の中に初めて名人が現れるように、

そしてその法則のみが我々に自由をもたらしてくれているのだ。


究極を望む者ならば、これだけは知っておいてほしいことがある。

自らの一生の終わりを集合体と結びつけることが出来る人は最も幸福であると。

社会貢献を成し、成された事が認められるならば最高の人生だ。

社会を見よ! 成功者は社会に直結している事実を!

全体の中に美しい秩序を見出した者を見てみよ!

人は行為によってその人格がすぐに解るように、個人主義はべつに構わない。

重要なのは、自らの個人主義が社会に受け継がれるかどうかだ。

人は他人の為なら、強くもなれば生まれ変われる。

毎日から解放される方法。集団に役立つこと。

それがあなたの長所だ。



    つづく。

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仏教・キリスト教・イスラム教との三位一体法。

2019-02-25 | 文学
 2月25日 月曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


世界宗教統一をシンプルに話せば、

仏教・・この世は地獄である。

イスラム教・・・死の恐怖の克服。

キリスト教・・・愛があれば何でも許される。

この三位一体法が 「一人一宗」 祈り方となる。

問題なのは、女性が不在であることだが、

地獄論・死想論・女性論・そしてウィンチューで達成できる。

今日のブログはその中の一つ、死想論である。

死に対して私たちはこれまで固持してきた姿勢に些か混乱が生じている。

社会は死に対して率直な対応をとってきたとは言い難いのだ。

死は生きるもの全てにとって避けることが出来ない 「ゴール」 であって、

「つけ」 を負っているのでは決してない。死は神からの贈り物なのである。

ところが現実は、私たちはまるでそうならないかのように振舞っている。

「ゴール」 を見えないところに隠してしまい、

排除しようとすることに誰も異議を申し立てる素振りを見せない。

それはまるで死の現実を黙殺しようとするかのようである。

確かに、自分自身の死を思い描くことは至難の業だ。傍観するしかない。

そのせいか自分は不死であるという思い込みが自然秩序から破滅を招く。

他人の死については文化人らしく究めて慎重に対応しているが、

それでも他人の死を受け入れることは難儀である。

その度に私たちは深く動揺し期待を裏切られたような気持になるのである。

その背景にあるのは、死の必然性ではなく、

偶然的なものと考えたい願いが見え隠れする。

死者に対する特別な姿勢は、死の恐れを感じさせないためのものだともいえる。

私たちは自らの恐怖を死者に払いのけているのである。

この様な強い影響を我々に及ぼしている現実であるのだが、

うまく対応しきれずに、社会生活は混乱し麻痺し、ひたすら困惑する。

それは新しい対応をまだ発見できないためであろうと考える。

だから死への新しい対応を見出すためには

死に対して今までとはまったく異なる思想や哲学が必要となる。

過去を省察すれば、無知ゆえの軽視に対し宗教がその一端を担っている。

死後の生をより価値の高いものに、完全に意味のあるものとする努力と、

その一方では科学者による来世への価値を低めて現生を重視させる。

この二つの対立が我々を悲観的なものとして否定する態度となる。

普段はそれでも構わないのだが、いったん他人の死に直面するとパニックになる。

死に対する文化人的で宗教的な対応は、

大脳では答えが得られず、ミーム(遺伝子)によって恐怖が半減するどころか克服可能だ。

思考の限界にはミーム(遺伝子)で対応すれば不可能が可能となる。

これまでのように不安定な抑圧よりか、もっとはっきりと示す死想論であるのだ。

その死想論とは、真実の在り方にきちんと配慮し、優しく語り掛けるような、

人生を耐えやすいものにしてくれるという利点が備わっているのである。

死が価値あるものに変えられるならば、受け入れる側も楽しくなるであろう。

死が日常的な出来事として誰もが直視可能な状態に示せば、

偽善的な態度や目を背けて逃げ出すことしか出来なかった社会秩序から大きく脱却するであろう。

社会は一新する。もう、騙されることはない。

死の恐怖は実は人間の深いところでかなりの規制をかけているのである。

社会現象とは、恐怖現象にある。恐怖の減少だ。

なにも死は強者の特権ではなく、弱者の味方でもあるのだ。


    つづく。

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お釈迦様が遺したもの。

2019-02-24 | 文学
 2月24日 日曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


イギリス人だったと思うが、大変優れた学生が、

人生における善と悪とを計算し両方の統計を比較して、

悪き事柄が善き事柄を上回るという論文を発表した。

どうやら結局のところ

社会はそれほど善い環境ではなさようである・・・。


突き詰めると、社会の過半数は悪と言っても間違いなさそうだ。

それもそのはず、お釈迦様の悟りは真理であり永遠だ。

いつまでも続く苦しみを経験すれば、その証明は不要である。

社会に生きる私たちは、互いに利害関係が強まるにつれ、

競い合い憎しみあうようになるのである。

表面的には性善説を振舞っているように見えても、裏では互いに嫉妬し合い

無意識的にも悪を為し合っていることは否定できない事実なのだ。

ビジネスの場でも同様に、個人の利益がMBAの教える掟に従うと、

公共の利益と集団の利益が正反対の格差となって表れる。

世界経済によれば、そこでは豊かさとは他人の不幸のうちに利益を見出す。

実際、隣国での災難を喜ばない民族が存在しうるだろうか。

知らず知らずに同胞の損害を自らの利益に置き換えているのである。

私たちが他人の足を引っ張ることが大好きな理由だ。

恐るべしところは、世界経済が集団破壊を希望していることである。

ウイルスの流行にせよ、隣国の不正にせよ、自然災害にせよ、

拝金主義者の名言、「血が流れたら買いだ!」 である。

また私たちが互いに傷つけ合わなければならないのはなぜなのか?

誰もが他人の敵となることが義務になり、騙し合うことが利益であるのはなぜか?

正当な手段で手に入れた利益よりも、不正な手段で手に入れた利益が大きいのはなぜだ?

全てこれらは決して現代に始まったものではないのである。

さらに奇妙なことに、欲望が自然的なものに比べて

切羽詰まった状態が収まるにつれ、情欲の強度がさらに高まり、

悪いことに、言い訳を駆使して欲望を満足させるために見境なくなるのである。

豊かな暮らしをした後、多くの財産を蓄え、悲観に暮らす人々を我がものとする。

幸福な人生を描き出すとするなら、少なくとも

全てのお金持ちの中に潜む秘密の野望を要約すればこんな感じになるだろう。

反して、お釈迦様が望む世界は、人間は調和を欲するという。

しかし、自然法則は人間に不和を与えることを選んでいる。

人は奇しくも楽しく暮らすことを希望するが、

社会は労働という義務からは逃れる手段を見出せない。

いたるところで見受けられるのは抵抗の源泉である。

ここから多くの悪が生み出されている現実でもある。

これは最も困難であることの一つだ。

人類が今世紀中にも解決すべき大問題である。

思い浮かべるだけでもこの問題の困難さが窺える。

私たちはやがて生活の苦労から楽園を思い描くことになるのだが、

このような夢想した安らぎの生活と現実の生との間には、

再び自然法則が介入し出して、最も嫌う労苦へと駆り立て、

人々を困惑さしめて軽はずみな行動を追い求めさせてゆく。

いつしか私たちは善悪を忘却し傍観するに至ったのである。


     つづく。

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世界統一を考える。その四

2019-02-23 | 文学
 2月23日 土曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


様々なご指摘があろうかと思いますが構わず続けます。


始まりは、「メシアはミーム」 から。

祈りによる宗教統一です。祈りは心の支えであり、

内なる神と大いなる神との強い合一に突き動かされてゆく。

辞書的な定義によれば神智学とは、

霊的な忘我や直感あるいは特殊な個人的関係によって神の智を得ることを表明する哲学という。

この定義は 「一人一宗」 にも見事に合致する。

コーランにはこう示されています。

「アラーこそは最初なるもの、最後なるもの、外なるもの、内なるもの」 と。

また、コーランは信者たちにこう語りかけます。

「確乎たる信教を持った人々には、この地上に様々な神兆がある。

それらはお前たち自身の中にも。お前たちはそれが見えないのか」 と。

世界は聖光から発生し、この光に回帰するため自省するミカエルである。

宗教の真正さを保つには、時として異端者と告発される危険を冒さなければならいが、

まさに現世の大問題は、

世界全体のために証明しうる確固たる人物が不在だということに尽きる。

ジハードによって天国に直行できるならば、隠れずに表に出るべきである。

そして同胞たちの手によって絶滅せよ。

神に命を授けた者には、ゴール(死)から逆算する行為が望ましかろう。

また、喜んで捨て去る者には、

「自らの命は天に授かり、死生の権利も天理にあり」。佐藤一斎である。

「世の中には死ぬことよりも見事な行いというものがあるのだ」。

「必死の観念とは一日毎に仕切る」。残念記である。

うまく生きようとするな。ただ死ねば善いのだ。神の為に死ぬが本望。

柳生流では、「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」。大ジハードだ。

葉隠れによると、「偉大なる狂気。初めから死へと突入せよ」。

「正気では大仕事は出来ない。死に物狂いで始めて上手く働く」。

「相手に勝たなくて善いのだ。いさぎよい討死こそ武士の美学」 と。

本居宣長はこう伝授する。

「もののあはれ。世はすべて神のはからいによるもの」 だと。

死期を感じてから人生が始まる。神聖に魁て散る。これである。

死から逃げ出さないからこそ、霊性との一大作用が合一するのである。

逃げては運命が始動しない。死は神からの贈り物である。

死生の境に出入し、その心胆を練り窮厄の域に浮き沈みして

その清節を磨き、さらに進んで世間の風霜に打たれ、

人生の苦味をなめようというほどの勇気を持ち奮って

浮ぶか沈むか生きるか死ぬか、泳ぎ切ってみることである。

山岡鉄舟剣法正伝にはこう示される。

「敵の好む所に従って勝を得る意」

「切結ぶ太刀の下こそ地獄なれ。踏み込む行けば後は極楽」 と。

夢想剣曰く、「勝つと知りて戦いに挑む一刀斎ではない」 のである。

勝利の女神は、命懸けの遊戯でなければ燃えないものであり、

目に見えるものと目に見えないものとの合一。

我々は生かされているのである。


    つづく。

 
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