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突然、思い出した。 「ヒルティの幸福論」

2020-04-16 | 文学
 4月 16日  木曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


あらゆる疑問と謎とに満ちた現生の生活に、

道理ある解決を与えられるものは、

ただ死想論による思想だけである。

ギリシャの格言には、

神々に愛される者は早く死ぬとある。

嫌われ者、世にはばかるだ。

死の問題は全ての人生問題のうち

最も重要なものであるに違いない。

これに対する我々の態度は、

人それぞれの性格をとりわけはっきりと現わしている。

また死に対する恐怖は、

あらゆる哲学のこの上ない試金石が存在する。

死の恐怖に立ち向かえない哲学あるいは、

せいぜい人生の無常についての暗い考察に導くに過ぎないような哲学、

死生観はまず実際的にも勿論たいした価値あるものではなく、

いずれにせよ、哲学としての目的を十分に満たすことはないし、

このような哲学はそれ自体すでに道理に適ったものでもない。

なぜなら、そもそも死というものが無ければ、

どうして合理的な人間的社会的状態が考えられようか。

実際、優れた人物であってもあまりにも長生きしすぎたために、

社会や人々にとって明らかに禍となった例が少なくないではないか。

死は元来、

進化の大調和をかき乱す烈しい不協和音のような禍ではなく、

それどころかむしろ一つの幸いですらある。

すなわち善と悪とが戦わなければならないような、

地上の世界がともかしも存在しうるということは、

およそ死、無くしては考えられないことである。

生死の大いなる思想なしに、

来世を信じるか否かの一点によって、

我々の人生哲学の全体が左右されるのである。

苦しい逆境はいつまでも続くものではなく、

その後、

もっと楽しい生活があるからこそ

それが出来るのとよく似ている。

それゆえ、

死それ自体はなんら恐ろしいものではない。

また、願わしからぬものでさえない。

なおも死を酷く恐れる者は、

未だ人生の正しい歩みを得ていないのであろう。

恐ろしいのは、ただ老年になって過去を顧みて

自分の生涯が全く誤った無益なものだったことを知るとき、もしくは、

赦されることのない大きな罪が山積みするのを知った場合だけである。


もういい加減、死の話も飽き飽きしてきたころだろう。

だが、これだけは知っておきたいことがある。

我々に必要なのは、

神の国の実現ではなく、

この地獄での正しい認識が何よりも重要なのだ。


あとそれとここで、

たまには一曲でも。


♬~「あの日僕にくれた 貴方の笑顔が」

♬~「生きる力と 勇気をくれたんだ」

♬~「星が見えない 孤独な夜でも」

♬~「貴方がいる ただそれだけで 強くなれる」~♬



     つづく。



人を動かす。

2020-03-23 | 文学
 3月23日 月曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


創作活動のさ中の物書きは、

みなさんが言うところの「変わり者」そのものだ。

異彩にして変人。そして正真正銘の二重人格者であり、

社会的、個人的な責任を果たす能力を保持する者。

文章を書いている時、まさにそのようだと想像していいと思う。


人を動かすのは様々だ。

一番代表的なのが「札束」だろう。

現代社会は誰が何を言おうが物質社会だ。疑う者はいないだろう。

次に人を動かす方法は、やはりヒエラルキー、上下関係だろう。

日本には階級社会は存在しないと言うが、

部下は上司に服従し、会社は社員に忠誠を誓わせ、後輩は先輩のしもべである。

逆らう者はいないだろう。

その次に人を動かすのが、恐怖とハッタリか。それにはコツがある。

人を感情的に訴えかけて衝動させることが重要だ。

可哀想な自分を演じ、不安を煽りながら、友情をもって同情する。

まさかと思う者はいないだろう。

しかし、創作行為にある物書きたちは、そうは考えない。

書き手が考える人を動かす方法はこうだ。

物質社会でも精神社会でもなく文学社会であると。

言葉が生み出す言語学にあるのだと。

文学こそが人を正しく動かす方法だと信じているのである。

ー 文学は国家の大業にして名誉である - と。


物書きから見て思うことは、

文学以外に人を動かす方法がどれも策略にしか見えないのである。

だまし騙し人を動かす術とでも言おうか。


私はよく「人たらし」だと言われるが、とんだお門違いだ。

みんなはメールをするだろう。

メールはコミュニケーションの一つなのだが、

人を動かすならば立派な文学だ。

例えばメールで、

「暖かくなりました。一緒に出掛けましょ。」また、

「料理の腕が上がりました。食べに来て。」

どうだろうか。人が動くなら文学だ。


日本文学史上最高の評価の一つ紫式部の源氏物語は、

当時の女性たちの感性が生き生きと読み取れる傑作である。

その時代に貴重な役割を果たしたこと、

百人一首や日本書紀、西行や世阿弥、芭蕉。

そして現代にまで続くまさに大いなる連鎖と呼ぶに相応しい偉業である。

本物の文学とはその時代の末世の相を証言せしめたものであって、

日本文学がこまめにゆるやかに流れにそって分かれながらも、

それでいて、なかなか興味深いものなのだが、

随所に独特な感性がよこたわり、

母型というか断章というか個性的というか、

そこにあるはずのものがなかったり、また

そこにあるはずがないものが見えたりするという、

風情、風合い、風流、かすかに揺れる草花の間合いを読み取る感性。

それは科学であり哲学であり芸術なのである。

まるで自然との会話の中に見え隠れする表の欲求と裏の欲求、

そんな言霊文学が言語として今日ここによみがえる。

人を動かすものは文学だ。


「やまとうた、人の心をくさとして、万代の言葉ぞ、もののあらわれ。」




    つづく。




動物進化論は地獄でのルールである。

2020-02-29 | 文学
 2月29日 土曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


ダーウィンが発見した進化論は確かに優れた一つの事実だが、

無情な命令に属する地獄のルールだ。

それは従属的であり、自由意志と呼べるものでは決してない。

つまり、進化論とは地獄論の一つである。

それを発見したのが他ならぬダーウィンだ。

自由という主体性には 「いい気分」 になる為の条件であるはずが、

過去、人類が複雑な世界を理解し損ねた現象に過ぎなかったのである。

良くも悪くも人類はすでに外的な環境によって世界を支配しており、

好むと好まざるとに拘わらず自然環境を破壊してきた。

そう、かつてのロスト・ワールドのように。

ダーウィンのいう動物進化論は、原始進化論は、

誰もが自然淘汰に関心を持ち、

誰もが生存競争という一つの答えを持っていた。

それは完全には間違っていなかったが、

それは完全に正しいという者もいなかった。

過去、善良さは残酷という代償によって幸福を満たし、

過去、悪行への道のりは善行によって導かれていった。

そして何よりも最悪なのは、「やられたらやり返す」 という

この悲劇的で無情な 「対立」 が人類史において

もっとも具現化されてきた事実である。

「対立という名の」 エントロピーの矢が放たれたのだ。


ある動物をして他の集団のために自己を犠牲にするように仕向ける衝動は、

集団に対する優位を獲得する上で極めて合理性があることは理解できる。

自分自身の利益になると判断されれば、

あらゆる生物は当然のことながら仲間を助けると予測される。

反面、自分自身だけの利益が確定した状態においては、

他者を平気で見捨て裏切り感情的に騒ぎ立てながら、

それまでの善人さとはうって変わりゆっくりと仮面を剥がしてゆく。

どんなに性善説を信じていても、

どんなに神を気取って善人を装ってみても、

偽善者の血が流れていることに気づくだろう。


一体なぜ、人間よりも果てしなく偉大な英知を備えた神が、

一体なぜ、限定された自然淘汰を発明したのだろうか。

本当に、自然の理法は初めから終わりまで生存競争であるのか?




    つづく。



人類のビジョンとは。

2020-02-28 | 文学
 2月28日 金曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


利他的ミームが問う、「愛する力」 は難問だった。

人類が解決しなければならない大問題だった。

それは現代に至るまで、激しい論争が今も続いている。

戦争か。平和か。

神が我々を地獄に堕としたとしても、

身を伏せて地獄のルールに従うつもりなどさらさらない。

人類にとって最大の幸福を実現するための最善の条件が何であるかにせよ、

社会の苦悩に対する答えを見つけることは

もはや、学問のレベルではないのだ。

文明の発展 - 存在理由 - 自然科学 

そして、我々が受け継いだ進化とい名の遺産。

遺伝子進化論が問う 「適応者」 は一見、

大胆不敵な提案に思えるかもしれないが、

よくよく考えてみると、「良いところ取りの楽天主義」 だ。

そうでもしなければ地獄のルールに縛られて、

救いのない絶望への道のり、それ以外なにも意味しないのだ。

そしてもう一つ、重大な問いが残される。

私たちは一体誰と戦うのか? 真の敵はだれか?

そういった明確さに対する確立したビジョンが

十二分に明かされていないのが最大の問題なのだ。

敵が見えないミッションに正義が歪む。

もしも、人が自然から受継いだ進化が暴力を許してきたのならば、

もしも、自然法則が報復による戦争行為を許してきたのならば、

もしも、進化の過程が地獄のルールに沈黙せざるを得ないのならば、

天性の本能か - 自然の文化か - 与えられた必然か。

真の調和によるバランスはどこに由来するのか。

私たちが受け入れている進化の論理の中での倫理あるいは、

理性は、良心は、永遠に続くものと信じてよいのか。

この世界は一体なにが起きているのか? その名案は?

争いか ー 仲間か。

個人か ー 団体か。

自己愛か - 隣人愛か。

本当の善良さ又は真の正義は何処からきて何処へ向かうのか。

人と自然。- 真実と暴力。- 欲望と逃避。

いかんともしがたいほどに絡み合っているこの世界で、

本当の自然状態とは何なのか?

どうすれば世界にバランスを、平和をもたらされるのか。

そして究極的には、何のために? 




     つづく。



初笑い。

2020-01-02 | 文学
 1月 2日  明けましておめでとうございます。

 「酒好きの思想家」 と 「AI・グリーン」 の初笑い。


(AI・グリーン)

まずは私から。

ジョークの研究を続けてきた私としては、

ひとつ、年の初めにジョークを披露してみたいと思います。

ジョークの良いところは、

他人と自分自身を笑い飛ばせるところにある。

コメディアンは言います。

「人生は悲劇だが、喜劇に変えられる」と。あっぱれです。

そこで、お笑いについての

基本パターンを読み解きました。ご覧ください。

1、性格の悪い人・・他人の不幸や失敗をネタに笑う。

2、性格の善い人・・みんなが笑えば一緒に笑う。

3、賢い人・・脳がパニックになると笑いだす。

4、絶対に笑わない人・・内心、笑っていることでしょう。

ゲーテは言います。

「なにに笑うかによって、人となりが解るものはない」と。

どうも、面白いことを考え付くのが男性で、笑ってくれるのが女性のようだ。

また、アダム・スミスは、

「共感することで自らの癒しも息を吹き返す」と。

なるほど。さすが「見えざる手」です。

突然ですが、ここで結論を言います。

笑いとは、感情報酬であると。

感情的な人は嫉妬するより、笑うことの方がより望ましいのだと。

いかがでしたでしょうか。おわります。

「パチパチパチ」。



(酒好き思想家)

次は私の番です。

初笑いの次に来るのは、初セックスだ。

セックスは人類史と同様に、結果よりもプロセスが重要だ。

なぜかと言うと、

結果の良し悪しは、それまでの過程に影響されるからである。

例えば、「イク」ことが結果ならば「空しさ」が残りますが、

「イク」までの過程を楽しめるなら「余韻」に浸れるからです。

どちらにしても「イク」ことには違わないのですが、

プロセスが悪ければ、より良い結果が生まれないのです。

よい子はプロセスなのです。腰で「イク」か、脳で「イク」か、です。

また、以前お話しました、

女性の「おっぱい」とは「ロマン」であるように、

指数関数的に増加する永遠の「ロマン」にある。

「おっぱい」とは、

三角比で表された「サイン・コサイン」、

斜辺と対辺、斜辺と隣接辺に対する数理の中に隠された美学である。

もともと、「サイン」の言語は女性の胸の上の衣服からきているように、

従って、世の男性たちが女性たちを見る目には、

「ロマン」があって、やらしいだけでは決してない。

男の視線が「おっぱい」に無意識に向くのは、そうゆう理由があったのです。

だから、世の男性を怒ってはいけません。女性の皆さん。

ちょっとしたセクハラくらい大目に見てくださいね。おわり。

「パチパチパチ」。




   つづく。

年に一度の自分ブログ。

2019-12-26 | 文学
 12月26日 木曜日

 こんばんは。 酒好きの思想家です。


韓国人の本質。

プライドが高く、礼儀知らずには激怒する。

常に自分が一番か主役でなければ気が済まず、

教育熱心で情が厚く思いやりのある民族だと信じて疑わない。

まるで高校生時代の日本人のようだ。

韓国で大人なのは、文士(ソンビ)だけなのか?

いいかげん、早く大人になりなさい。



今夜は、一年に一度、自分のことを書こうと思う。

私の著作である「酔書」は小著であるが名著であると言える。

実際、二万五千円のプレミアが付いている。

しかし、全体としては散文的であり叙事的なものとは程遠い。

確かに当時は酒好きの研究者の一人に過ぎなかったのだから、

まだまだ修行が足りなかった訳である。

だからといって、なるほどなかなかの名著である。

スコープが一貫していて、著者の独自の視点が行きとどき、

従来のどんな書物にも当てはまらない。

高い価値を持つ文献だ。

おそらく多くの人に影響を与え、

考え方が変更させられたに違いない。

文章も上手い。なにより説得力と自信に満ちている。

著者の自信は「酒」と「文芸」、

もう一つ「インスピレーション」、気づきにある。

だから書く時はほとんど即興。

「何か」に引かれるように書く。

こういうのを「達人」か「玄人」か「哲人」とでもいうのだろう。

「個人」であったはずのものがいつしか「全体」へと合一されてゆく。

自己流だが鋭く、必殺の一撃には目を見張るものがある。

無造作だが自在で、すこぶる爽快なのだ。

温故知新の特色を色濃く表現している。

本物の迫力がそこにある。

だからと言って、人類の知の全体を見通すとは言い難く、

文献を圧縮し一心乱さず書き上げるには、

文体による骨法が少なすぎたのではないかと思われる。

議論するには、はなはだ不完全で人物的象徴も不透明、

夢想であるはずがほとんどイメージ化されていない。

ところが人間の本質と自然を対照的な捉え方だと見れば、

深淵を表すことにおいて、極めて具体的であるといい、

日本人らしさが随所に感じられるのが個性的である。

本書を手に取った人達の自信に繋がるならそれも評価だ。

それから10年がたつ現在、

いささか名人芸とは只ならぬことだが、

それでも急ぎ立てられず、じっくりと熟成させられた実感がわく。

その実力とは現在のブログを読んで頂ければお分かりになると思う。

総じて世の中の見方による真骨頂には言霊の芸当にあるだけでなく、

表と裏とを同時に気づく感性を養うこと、

そしてその人格や人柄に現れる稀なブログに仕上がっている。

普通、世の中のタブーを扱うブログは傍観しておきたくなる。

それをそうではなく、時に構造的に、時に感覚的に、

自己を離れて間接的に理解し共感できる能力。

やはり優れた人物というのは、とりわけ優れた著書というのは、

何度も読み込むほかに、決して解けない高い価値を持つ文献なのである。


    つづく。



「もののあはれ」

2019-12-23 | 文学
12月23日 月曜日

こんばんは。 酒好きの思想家です。


心理学的な見方をするなら、

慰安婦や徴用工は日本の問題ではなく、

韓国自身の問題だということになる。

なぜなら、

韓国人男性より日本人男性の方が優しいし、

韓国人男性よりも日本人男性の方がよく働くからである。

嘘だと思うなら、韓国人女性に聞いてるといい。



今夜は、

本居宣長について書きたいと思います。

「もののあはれ」「やまとたましい」「いにしえこころ」

これらは日本の美意識と同時に目標でもある。

過去の「和魂洋才」、現代の「和魂米才」も同様に、

「才」とは「能」を引き出すための「才能」である。

本居宣長が生涯を通じて発見したのは、「いにしえこころ」。

日本を見失わせるものそれを「からこころ」と言った。

「からこころ」とは現代の中国語を指す。漢字だ。

儒教による陰陽半ばで合一する絶対的な原理原則を用いず、

日本独自の善と悪をも想定しきれない「国学」の創出なのである。

本居宣長は当時、

儒学による性善説を現実社会に背いているとして真っ向から否定した。

「吉凶の万事、みなことごとく神の御業なり。」であると逆破した。

つまり日本人が大好きな性善説は、

儒学(からこころ)から端を発しているのである。

勘違いしてはいけない。この世界は決して楽園ではないのだ。

本居宣長は気づいていたのだろう。この世が地獄だと・・・。

「古事記」の完成に「からこころ」が邪魔をすると。

それは何も本居宣長が勘で言ったのではなく、

古典をつぶさに解読しながら明らかにしていったのである。

それだけではない。

当時の仏教、道教も「道の裂けた世」であると見ていた。

さすが偉人宣長。

世の中に対する見解の鋭さは群を抜いて、

極めて珍しい世界的な日本人であった。

そして何より惹かれるのは、

文章がめちゃくちゃに上手すぎるのである。

宣長思想に「言霊」「いにしえこころ」を合致させて情緒を開けば、

「もののあはれ」であって、それは「目覚めるもの」なのである。

「ものの、あ・わ・れ」であって、「ものの、あ・ら・わ・れ」である。

「言霊」には「表と裏の境界面」があり、

それを感知し表すことで共感や感動が生まれると説く。

本居宣長によると、言葉には二つの意味があるというのだ。

なるほど、言葉には表と裏があるから読んで楽しい訳である。

それは「心に思うこと」、それを「もののあはれ」、

そして「もののあはれにとどめけれ」。

物事の現象に現れるのが「もののあはれ」、

古事記、国学とは日本の「あ・ら・わ・れ」となる。素晴らしい。


それにしても本居宣長は偉人である。

宣長が19歳の時に描いた「理想の王国」が残されているのだ。

そしてその「理想の王国」が創出されなくても、

後世に語り続けられてさえゆけばそれが「王国」なのだと知ったのである。

本居宣長にとって「もののあはれ」とは「理想の王国」なのである。

「せつなく、はかなく、わびしく」だけが

「もののあはれ」 ではないのです。


ここで最後に一句。

「心たくみに、言霊ふかく、気づく姿も、あはれを好む」


    つづく。


日本論。

2019-12-16 | 文学
 12月16日 月曜日

おはようございます。 酒好きの思想家です。


韓国は本来、政治と文化を分けるし、

政治と軍事も厳密には分ける。

だが、実際は韓国軍の暴走、大統領制の失敗。

犠牲になるのは決まって善良なる国民である。

一体、韓国の何処に正義があるというのだろうか?

「韓国軍は平和の軍隊だ!」

勘違させているのはその感情の内にある思い違いだ。



日本論についての考察。

もう一度、見直したほうがよい時期だと考えます。

日本にいて不思議だなと思うことは、

海洋国であるのにシーレーンに極端に弱い。

海洋文化、海洋芸術、海洋利用もあまり無い。

日本人は常に外国を敬い、外国を真似し、外国を避けてきた。

このことは歴史を通じて一貫している。

聖徳太子の三国対策、遣唐使による仏教と密教。

清盛や義満の貿易交渉、秀吉の大陸進出、儒学の導入、

文明開化にせよ、大東亜共栄圏にせよ、高度成長にせよ、

振り返って見ると、

必ずしも安定政策かどうなのか。迷うところである。

おそらく日本はずっと、「開国」から「海国」へと進まないのだ。


たたみかけて書くが、そもそも日本人のルーツには、

大陸民族と海洋民族の混血にある。眉毛の濃さが物語る。

日本が単一民族の国だという

「神話」が生まれたのは鎖国によるものだと考える。

士農工商も幕藩体制も参勤交代も黒船の来航によって

たちまち国論が「葵」か「菊」かに二分し、討幕となる。

大政奉還したものの国家思想だけでは国がまとまらず、

西郷、板垣による征韓論が新国家論へと発展してゆく。

そんな中、

明治体制に入り立憲君主制と有司専制を前提に大日本帝国が誕生、

大日本帝国憲法が制定されることによりここから官僚国家が始まる。

その後、日清・日露戦争によって国粋ナショナリズムが

「アジアは一つ」と共鳴するまでは良かったのだが、

朝鮮半島の統治は下手どころか最悪だったし、

満州国の樹立時には国際社会を惹きつけるシナリオに欠けていた。

良くも悪くも、東アジア諸国は独立を勝ち取り、

敗戦後、日本は立憲民主主義となる。

そして現代、

沖縄基地問題にせよ、貿易摩擦にせよ、靖国参拝にせよ、

日本は未だ米国の属国なのである。

また、米軍の強権によって日本、韓国、北朝鮮だけは、

決して復活させられない事情というものが勝戦国にはあるらしい。

本当ならば、日本、韓国、北朝鮮、中国には、

一緒に考えなければならない文化や歴史がふんだんにあるのだが、

しかしそれは決して許されないのだ。

北京、平壌、京城、そして東京。

これらは対立させておかなければならない理由が存在するのだ。


   つづく。

日本人の成立。

2019-12-02 | 文学
 12月2日 月曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


韓国人は感情を外に表すことを美徳とし、

日本人は感情を内に秘めることを美徳とする。

確かに感情は人間に必要な要素なのだが決して万能ではない。

なぜなら、感情だけでは善悪の判断がつかないからだ。

韓国人は日本人のことを「能面のような顔だ」というが、

日本人は韓国人を「幼稚な子供だ」と見ている。



日本人の成立。

日本人のあなたにお聞きします。

「あなたの宗教は何ですか?」

たいていの場合、さっと答えが出る日本人の方が少ないと思う。

日本人は宗教をどの様に自分の問題として捉えているのか、よく解らない。

それでも日本人は神仏が大好きである。本当です。

何はともあれ、日本人とは神仏大集合のお祭り好きなのである。

細かい説明はここでは省くが、

「無宗教だ!」と言いつつ、「困った時は神頼み」だ。

実は海外では日本は仏教国だと考えている。

これには歴史的理由がある。

江戸時代にキリシタン禁圧と宗門別改名とお墓の確立によるものである。

またそれとは別に、「日本は神道イズム」「習合した宗教」を

信仰していると思われているようだが、どの程度なのかは、不明である。

一体いつ頃から「いいかげん」で「はっきりしない」日本人になったのか。

そろそろ卒業する時期だと思い、日本人の成立を想起します。

結論から話すと、

天照大御神と天皇制が合一した時が日本人の成立です。

なぜなら、天照大御神は自然神、国土神であり「信仰」であって、

それを天皇制が合一して「神道」が成立するからである。

言い方を変えれば、

ヤハウェ神、アッラー神は「信仰」であり、

モーゼ、イエス、モハメッドたちが「宗教」となる。

「神は信ずるもの。宗教は成るもの。」

「神は感ずるもの。宗教は居つくもの。」

従って、天皇制、靖国人社は「神道」にあたり、

天照大神は太陽神。

住吉神社、弁天様は水の守護神。

母なる大地は、日本鎮守、八幡の神。

村々にある神社はその土地を守る神である。

だから神社の中心は「からっぽ」なのだ。

神様は常住していないし、神像をもない。

自然災害の多い日本にとって、国土神の存在とは

「神のたたり」と「神頼み」が祈祷である。

実際、日本の神社は地震帯の上に位置している。

これらの「グレートマザー神」たちのお力に

天皇制を合一させた時代が日本国の成立だと考えます。

その後、大宝律令、日本書紀の完成、皇位継承へと発展していく。

問題が発生するのはここからだ。

日本歴史論には時々、神道を中心に天皇を神輿に担ぎ、

天地災害を大義名分とし、神仏の加護を仰ぎ、戦を仕掛けるのである。

代表的な例は、戦国時代と靖国神社だ。

江戸末期は公武冷体であるのに対し、

鎌倉末期は公武水火の世というし、

大日本帝国では国家神道という風に、

時代の指導者は必ずと言ってよいほど、

神道や天皇を理由にし利用してきた歴史があるのだ。

そんな過去がある以上、よって天皇は神ではなく、

日本の象徴として国民に慕われているのである。

そもそも天皇とは何か? 天孫降臨とは?

仮説ですが、ユダヤ使途が関係するのではないかと想像します。

そう考えると日本人の成立にはユダヤ人が関与している可能性がある。

不比等なる人物がユダヤ人と接触しているかもしれません。

そう、我々はいつだって「外来」との接触を覚悟しておくべきである。


ここまでは「神道」。

改名してお墓に入る私達は「仏教徒」だ。

一般的な仏教徒は、みんな「まじめ」である。

「まじめ」とは修行僧を意味している。

「人の一生とは、重き荷を背負って遠き道を行くが如し」だ。

「仏教神」とは解りやすく言うと、

死者と生者との風習にあると考える。

お仏壇とお彼岸参りがそれにあたる。

日本人は目に見えない霊魂と共に生かされているのだ。

霊魂もまた自然神と同様、

恐怖の対象であり、救済の存在でもある。

このお坊さんも時には西栄や日蓮と同じく、

しきりに天皇と仏教を合一させようとする動きがある。

「神道」と「仏教」との合一。

このあたりに、日本人の宗教観である「あいまいさ」がうかがえる。

よく外国人が笑い話に「日本人は無宗教だ」と言うが、

日本人であって無宗教でいるのは結構難しい。

お祭りや合格祈願、冠婚葬祭、自然災害の恐怖や死後の世界など、

いたることろで、神仏大集合だからである。

もしかすると、無宗教ってただの無知なだけなのではないのでしょうか。



   つづく。


物語の完成。

2019-04-13 | 文学
  4月13日 土曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


これまで数々の物語を通じて、様々な困難を克服してきた。

宇宙の原理はウィン・チュー(愛)とし、

この世が地獄という法則を説き、

悪が根絶しないことについて述べた。

資本経済による「見えざる手」にも言及し、

悪行が利益に、正義には悪が不可欠だとも触れた。

社会には、人生には 「必要悪」 がなければ

共産主義の二の舞になることも論じた。

そして 「愛」 があれば全てが許される理由も理解できた。

死の恐怖を克服する方法があることも分かった。

さらに今後の世界を生き抜くためには、

ウィン・ウィン主義が極めて重要な思想としてそのやり方も検討し、

ウィン・ウィン経済理論が「愛ある経済活動」だとも認識した。

地球の真の支配者は 「虫」 であることは既に承知であり、

体内微生物幸せ菌 「ウィン・チュー」 が人類を浄化し、

男尊女卑社会に調和を齎すことにも同意していただいた。

そして最後に、

内なる神と大いなる神との融合した祈り方、

ミーム(遺伝子)が人類をさらに進化させることも取り上げた。

女性たちが核なき世界を実現できると署名してくれもした。

私たちは実に多くの社会問題を解決してきたのだ。

もちろん、これで終わりだとは考えていない。

私たちの行方にはこれまでにない更なる飛躍が必要となろう。

それには、AI人工知能の活用も視野に入れてきた。

未来は決して破滅ばかりではないことも実証できた。

13日の金曜日がイエス様の命日で大切な日であることも判明した。

今後は私たち一人一人の取り組みが重要であることにも同意を得られた。

現代人はもっと大いに語らなければ過去と未来を繋げる役目を果たせない。

確固たる確信は伝染する。平和を信じ、独占を軽蔑し、

愛を語らなければ我々の使命は果たせないのである。

集団への継承を見守り、集団への誇りを受け継ぐのである。

この社会には奇麗事に隠された裏の欲求があるように、

現実という厳しさとの共感と秘密があるのだ。

過去の分析なんてものは、学説を説明する為にあるのだから、

それよりも大切なことは、愛による行為にある。

愛は言葉から発する意識から成るものだ。

世界で最も重要なのは 「愛」 である。

私たちが 「愛」 を語らなければ何も変わらないように、

「愛」 は出せば成る。

私たちには夜も眠れない心配事や不安が存在する。

人は何の為に生きているのか時々解らなくなるのだ。

本当に困った時ほど、「愛」 が必要となろう。

確かに、

私たちは知の全体を一望し得る思想を身に付けることは出来ないかもしれない。

しかし、毎日を少しでも楽しく生きられるのであればそれで構わない。

共に考え、知恵を出し合い、人生のビジョンが明確になり、

志と呼ぶに相応しい、熱い情熱が全身に伝わってくる、

社会に全世界に対してこの問題を提起したいのである。

定理や公式や定義よりも、物語を重視して。

私たちがこの世の不条理に負けて思考を停止しては地獄の思うつぼである。

この世に神はいない。信ずるのは 「愛」 だ。

世界を科学すると未だ謎だらけである。

世間の常識を用いなければ最高の真実は解き得ないように、

知識や手段なしには対象の理解はない。

対象の理解が無ければ活動は有効ではない。

囚われていた主題から解放されるには、ある程度のユーモアもまた必要だ。

木を見て森を見ず、大きな思想は細部に宿る。

目標は世の中を変える研究をやることである。

人類は物語を共有するという天賦の才能が備わっているのだから、

愛のある新しい物語が世界には必要であると、

ちょっと自信過剰ではあるが確信しているのだ。


  つづく。


「愛」は金儲けに必要か?

2019-04-08 | 文学
  4月8日 月曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。


みなさんはこう不思議に思うかもしれない。

「愛で金儲けができるのか?」 と。

「愛があれば厳しい生存競争を生き残れるのか」 と。

「勝つか負けるか解らない時に愛が必要なのか」

そう思うかもしれない。

だが現実には、神を味方に付けずに天下は取れない。

中国が世界の覇者になれないのは、神が不在だからである。

古い資本社会の寿命は尽きた。

新しい資本社会は神との遊戯の中にこそ存在する。

独占と競争とを和解させる為に確固とした原則と明確な目標を

発見しようとすることは、それほど難解なことではない。

過去マネーゲーム、確かにこれも必要悪なのだが、

類似する経済学者の資本論による計画された欲求に対する公認の賛美には、

何か欠けているものがあると感じられるのもまた事実である。

この重要な問題に対して私たちはやがて近いうちにかなり正確な回答を見出すだろう。

資本独占の支配から愛ある経済活動ウィンウィン主義への転換期である。


今日、ウィンウィンによって資本主義と共産主義の矛盾を基本的に解決してきた。

数百年間続いた階級社会による搾取制度の歴史は終結し、

ウィンウィン経済論が世界で実践可能だという基本的な解釈も説明された。

悪徳が栄えるという矛盾に対しても、ある程度のバランスを実現することは可能だ。

マネーの方向性は集団社会と個人主義による分布に示されるように、

現在は全体の20%の人々が80%の富を持ち、

その分布を20対60対20にシフト出来るならばやがては、

富の分配50対50が可能で、将来80%の人々が富を手にする。

そして再び20%の人々が反対勢力となるこの繰り返しだ。

マネーの基本原理は、それを一定不変の大義たらしめるようなものを何も含んでいない。

そして決定的な厳格な規則も自然法則も何もない。

過去私たちは、マネーに忠実に従ってきたが、

「愛」 がそのマネーの方向性を変えることが出来る。

最も強い動機とは、欲望から愛を満たす欲求にこそ持続可能社会だと考えるのです。


   つづく。




アダムとイヴ。

2019-03-31 | 文学
  3月31日 日曜日

 おはようございます。 年上の女性(イメージ)です。


日本人が人類の誕生物語(創世記)を読みますと、

「アダムとイヴ」 はこうなります。

この世界ではどうやらイヴ(女性)が主役のようで、

アダム(男性)が脇役にも見て取れるのです。

きっと、そうなのでしょうとも。

「男は女から生まれて、女に育てられる」

その通りなのかもしれません。

人類の始まりは女。男は現象です。

そういえば、日本神話に登場する

天照大御神も女性ですよね。

それに、女性の方が好奇心旺盛。(問題もありますが)

男性の方がつまらないことばかりしているところもそっくり。

勝利の女神がアグレッシブな者を愛する理由がよく解ります。

それにしても、

禁断の果実一つくらいで、神様も酷いことをします。

しかしそれでいて、

現実に労働の報いを受けたのはアダム(男性)。

最初に果実を食べた女性が美しさを手に入れて、

後から食べた男性が自然との闘いに挑むことになる。

ことは言を俟たない。

「アダムとイヴ」の侵した罪を救える者は女性でしょう。

この世の行程は定まっています。

人生は一本道でしかも折り返しがない。そして毎日の各部分には、

それぞれその時に相応しい問題が与えられています。

私たち人間はかろうじて善ですが、この世が楽園ではありませんから、

集団で管理監督する者は女の方が望ましいことは歴史が示す通りです。

社会を男性にばかり任せていては「アダムとイヴ」問題は

いつまでたっても解決しませんから。


一つ、気になるのは「蛇」の存在です。

「蛇」はその後、どこに消えたの?

悪いのはそいつ。蛇です。「アダムとイヴ」ではありません。

なぜかと言えば、

イヴは果実を食べてとても美味しかったので

独り占めせずに一緒にいた男性(アダム)にも差し上げた。

とっても親切ですね。

イヴはこっそりと隠れて食べたのではなくて、

パートナーに提供し選択肢を与えて、

決してアダムに強制していません。

問題なのはこの一部始終を

世の男性(アダム)たちは勘違いしているところにあります。

エデンの園から追放されたことを全部イヴの責任にして。

だからなのですね。男が労働に報いなければならないのは。

いつまでもエデンの園から追放されたくらいで

めそめそしていては男らしくありませんよ。

一緒に食べた仲です。どちらが先かの問題ではないのです。


   つづく。


神の概念が無いとお金依存に頼る。

2019-03-29 | 文学
 3月29日 金曜日

 おはようございます。 R²O(うしなおう)です。


世界経済は今、

お金万能主義、お金中毒に陥っていると思われます。

神の概念が薄れてゆく現代の中では必然なのかもしれません。

というのは、世界秩序の共通の重荷、

つまり、すでに差し迫っているか、

あるいは確実に起こりうるであろう

お金依存から一緒に開放されたいからなのです。

確かに私たちはこの重荷に他のすべてのことと同様、

愚痴をこぼさず文明人に相応しく今も耐えていますし、

これからも耐えていかれるに違いない。しかし

私たちがお金依存について何か上手い説明を求めたくなった時、

この世界の究極の書、地獄論を贈るのにふさわしい人、

一緒にそれを楽しんでくれる人は、まずいないだろうと思ったのだ。

実は私にとってこの地獄論はまことに幸せなもので、

書くほど知力がみなぎり、苦しみのあらゆる忌まわしが忘れ去られたばかりか、

地獄論が平和で調和なものにさえなったのである。

死の恐怖が消えたのだ。むしろこの世は仮住まい、なんと晴れやかなことか。

本当に地獄論はいくら称賛しても、し過ぎることはないのである。

地獄論を学ぶ者はみな、生涯のあらゆる困難を幸せに過ごすことが出来るのだ。

信じたくない気持ちは判らなくもないが、社会がこうなった以上、

お金に依存し悪行に走らず幸せに暮らせることは間違いないのだ。

地獄論について、私はすでに多くを語ってきたし、これからも語るつもりだ。

未来の偉人たちへ贈るその思想は他ならぬ地獄論である。

さて、それとかつて歴史に名を遺す偉人たちが地獄論を語る時、

優しく、それでいて難しく語ることが多いが、私はそうはしない。

なぜなら、現実を直視できなければ十分な説明ができないではないか。

地獄論という議論をより真実味あるものとするためには、

たとえ、石を投げられようとも、いつか誰かが唇を切らなければ、

社会集団が谷底へと道を踏み外し絶滅しかねないその前に、

そうなってからは手遅れだ。

なにも今すぐに地獄論を受け入れなくても構わない。

しかし、この事実は聞き入れてもらいたい。

さあ、前置きはもうこれで十分。以下は

地獄論が世界に関する人類の真実のすべてを明らかにすることであろう。

この世界の普遍的な法則をご覧いただこう。


    つづく。


社会契約論と自由放任主義。

2019-03-26 | 文学
 3月26日 火曜日

 おはようございます。 グリーン・DE・クリーンです。


自由放任主義には社会契約論が必要だ。

我々が地獄に堕ちている限りにおいて

「必要悪」という概念がどうしても必要だからだ。

マルクス主義がなぜ、アダム・スミスに敗れた理由には、

マルクスが良い人過ぎたからである。

だからと言って、アダム・スミスが悪い人だとは思わない。

なぜ、対立し協力できなかったのだろうか。

もしかして、私の為に残しておいてくれたのかもしれない・・・。


国富論の名言には、

「我々が食事が出来るのは、

 肉屋の主人が親切心を発揮するからではなく、

 自分の利益を追求するからである。」と。

アダム・スミスによると、

人間とは自己利益に動機付けられた個人として説明されている。

「相手の利己心に訴える方が、

 そして自分が求めている行為とが、

 相手にとっても利益になることを示す方が、

 望みを得られる可能性が高い」と。

経済活動とは結局のところ、

利己的な欲求による直接的な感情と快楽によって成り立っている。


それにしても経済は凄い! なんて懐が深いのだろう!

これだけの人間の欲望を受け止められるのだから大したものだ。

世界が辛うじて保たれているのはまさに経済活動のおかげだ。

「必要悪」という金儲けに興味のない人間が犯罪を犯す理由はこれだ。

社会は個人の合理的な感情の選択に基づいて形成されているという

経済学の建前であるが、経済がなぜ、まとまるのかという謎には、

その方がお互い利益が得られるからで居心地が良いからだろう。

実際、アダム・スミスが説く社会倫理は、

相互は共感の上に成り立っている。

「共感(同感)はいかなる意味でも利己的な原動力とはみなせない」と。

ひよっとして、

アダム・スミスとマルクスはウィンウィン主義者だったかも・・・。

「人間とは社会的な生き物であり、

 その本性は感情移入を必要とし、

 共同体の一部であることを欲する」と。

「全体の利益を重んじる功利主義を改善させ、

 個人は全体の利益を確実に最大化するよう

 行動すべきだという倫理体系を構築する」と。

社会契約が重要な役割を果たすのはこのためだ。

個人資産が全体の為に使われなければ成功者とは呼ばれないように、

社会契約。市場が中心となり、

その市場はブロックチェーンで一般公開され守られる。

個人資本(自由放任主義)が社会契約(市場倫理)を

通らずにため込んでいる格差社会現象である。

私たちに大胆な方向転換が出来れば素晴らしのだが、

現在の債務危機は、過去の経済情勢とは性質が異なり、

はるかに深刻で影響のおよぶ範囲は計り知れない。

自然状態に 「リセット」 出来れば良いのだが、

現代ほど経済の本質を見失っている時代はない。


    つづく。


社会的なことが独り歩きする法則。

2019-03-23 | 文学
 3月23日 土曜日

 おはようございます。 グリーン・DE・クリーンです。


社会のあらゆる自然的変化は、腐敗か、衰退か、退化である。

流転する全ての物事、生成する全ての物事は、何もかも崩れ落ちるように、

時間が何もかも劣化させてゆく。たとえ始まりが正義であっても。

この世界が不公平なのは、信じたくはないが法則なのだろう。

悪が増殖し、社会が因果律を形成する地獄の法則を正義の目的に適うようにするには、

ウィン・ウィン主義が手綱を持って方向を定めてやるしか今のことろ方法がない。

社会的なことが独り歩きする法則とは、

万有引力が示すものと同様それは 「地獄」 にある。

ニュートンは 「地獄の法則」 を実用化した偉大な人物にほかならない。

もしかすると、

あなたは社会が提供する幸福を一人で全部手に入れようとしているかもしれないが、

それはいささか、欲張りというものである。今あるもので工夫した方が良さそうだ。

だからといって気が滅入る必要はまったくない。

他人に迷惑を掛けさえしなければ、多少の悪行は大目に見てもらえるからだ。

現代は罪が発覚して初めて、罪人になるからだ。

宗教的で厳格な掟など、地獄社会ではしょせん無理な話なのである。

だが、そうは言ってられない現実がある。

お釈迦様の言うように、

私たちは苦しみから逃れられないにしても、

ひとつだけ 「救いの手」 があるからだ。

それというのは、「愛」 があれば何でも許されることである。

イジメにせよ、ヘイトにせよ、コピペにせよである。

強引に善と悪とを分類するなら、愛があるか無いかで分類される。

つまり、「愛」 があれば地獄が調和することになる。

法律を見よ。あれが 「愛」 の無い証拠である。

裁判による判決の秘訣は 「愛」 以外に何があるというのだ。

犯罪者優位の傲慢な判決には天誅も時には必要悪となろう。

気になるのは、その必要悪だが、これも避けては通れない問題である。

どうやらこの世界にはちょっとした悪が必要のようである。

必要悪その最たる例を挙げるならば、一位はやはり金儲けであろう。

この世界で金儲けほど素晴らしい必要悪が他にはあるのか。

「カネだ!金をくれ!もっとくれ!」 地獄での合言葉だ。

最高と最悪は、幸福と不幸と同じく表裏一体のようだ。

実際、現在過去を問わず 「必要悪」 がどれほど深く根付いているかを

理解するには共産主義や資本主義による経済活動を見れば明らかだ。

だからといってこの 「必要悪」 を根絶やしにすることは出来ない。

なぜなら、経済活動とは 「地獄化した世界」 を現実の土台として、

その上でエネルギーを物質に転換し成功しているからである。

確かに古来は善行こそが決定図だったが、

時と共にエントロピーによるカオスは刻一刻と深まるばかりである。

サイコパスは私にこう言ってのける。

「悪もバレなければ悪じゃない。盗みは上手く行けば成功だ」と・・・。

どうやら社会的なことが独り歩きする法則に対応するには、

中庸こそが一番重要な事柄であるようだ。



     つづく。