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第544回 ニコライ血染めのハンカチ

2023-10-06 | エッセイ
 明治24年、訪日中のロシア皇太子(のちの皇帝・ニコライ2世)が、琵琶湖遊覧を終え、大津の町を人力車で移動中に、警備の巡査・津田三蔵に襲われ、頭部に大きな傷を負うという事件が起きました。世にいう「大津事件」です。この事件をテーマに「ニコライ遭難」(新潮文庫)という作品のある作家・吉村昭のエッセイ(「わたしの普段着」(文春文庫)所収)によると、この事件が現代に蘇ったかのごとき後日談がある、というのです。まずは、事件そのものをエピソードも交えて簡単にご紹介した上で、興味尽きない後日談をお伝えすることにします。最後までお付き合いください。こちらニコライ2世です。

 皇太子(当時)が、最初に軍艦で来日した地は長崎です。ギリシャ正教の祝日の関係で公式行事には参加できないため、皇太子の上陸は許可されませんでした。でも、美しい長崎の街を眼前にして、艦内にとどまることなどできず、お忍びで上陸したのです。県の警察部は私服刑事を尾行させ、彼の行動記録が残っています。それによれば、皇太子は二人の刺青師を軍艦に招き入れ、両腕に刺青を彫らせました。その後、旅を続け、京の都へあと一歩という大津で遭難したというわけです。
 その時、こんな事実があります。皇太子の出血は甚だしく、道に面した呉服商に置かれた縁台に座って応急処置を受けました。接待役の有栖川宮(ありすがわのみや)が渡したハンカチを傷口に当て、随行の医官が傷を洗浄したというのです。このハンカチが、後日談のポイントになります。ちょっとご記憶ください。傷が癒えた皇太子は、無事に帰国しました。

 さて、いよいよ後日談です。
 きっかけは、吉村が目にした新聞記事です。エッセイが出版される数年前、といいますから、2002~3年頃のことと思われます。ロマノフ王朝最後の皇帝・ニコライ2世の遺骨鑑定についてのものでした。
 皇帝は、ロシア革命後、エカテリンブルグ郊外の邸に妻子と共に幽閉され、ボリシェビキの一隊によって全員射殺され、遺体はひそかに運び去られたとされています。ソビエト連邦崩壊後、エカテリンブルグの森の中で9体の遺体が発掘され、皇帝と思われる遺体が果たして皇帝そのものであるか、ロシア保健省から滋賀県に対し、調査協力依頼があったという報道です。
 小説化にあたって、吉村も襲撃に使われたサーベルを目にしています。大津市が保管しているもので、全長83.4cm、刀身のほぼ中央部に刃こぼれがありました。ただし、事件直後に路上に投げ捨てられたサーベルを拾った車夫が、津田を背後から斬っていますから、どちらによる刃こぼれか断定はできません。でも、遺体の頭蓋骨には襲撃の痕跡が残っているはず、と吉村は推理します。
 また、長崎で彫った刺青が残っているかも、と一旦は考えたものの、白骨化しているはずですから、これはありえない、と自身でツッコミを入れていたのが笑えました。

 吉村ならずとも調査結果が気になるところですが、続報はありません。
 たまらず、吉村は、事件の関係資料を保管している県立琵琶湖文化館の学芸員である土井氏とコンタクトを取ります。その結果、わかったのは、以下のような事実でした。
 滋賀県庁を訪れた調査団が遺体確認のために重視しているのは、前段でご紹介した血染めのハンカチでした。そこに染み付いた血液と遺骨のDNAが一致するかどうか調べようというのです。
 ハンカチの一部を切り取らずにDNAを検出するのは困難とわかり、結局、県が切断を許可し、それを調査団が持ち帰りました。
 その後、ロシアの調査担当官から、ハンカチのDNAと遺骨のDNAは一致しなかった、というFAXが入った、と吉村は聞かされました。
 帝政ロシアを打倒したという確実な証拠の獲得に、いまだに執念を燃やしているわけです。
 一方、「土井氏は、貴重な文化財が一部切断されたことは、「誠に遺憾」と記している。」(同エッセイから)とあります。
 かけがえのない歴史的史料が切り取られるのは、土井氏にとって、我が身を切られるようで、辛く、悔しかったに違いありません。今、世界を騒がせている「アレ」(阪神の優勝ではありません)といい、今回の調査といい、現代ロシアは、なにかにつけて、強引にコトを進めるのがお好きな国柄のようですね。
 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。