★★★ 芦坊の書きたい放題 ★★★

   
           毎週金曜日更新

第545回 周作と柴錬のぐうたら交遊

2023-10-13 | エッセイ
 狐狸庵先生こと遠藤周作氏(以下、周作さん)といえば、北杜夫さんや、吉行淳之介さんなど、幅広い交友関係で知られた作家です。ちょっと古いエッセイですが、「ぐうたら交友録」(講談社文庫)を、最近再読し、作家の柴練こと柴田錬三郎氏(以下、柴錬さん)との交友ぶりを紹介したくなりました。めっぽう明るく、お茶目な周作さんと、気難しさの塊のような柴練さん。キャラがまったく違う二人がどんなきっかけで知り合い、どんな交友だったのか・・・私ならずとも、ちょっぴり知りたくなりませんか?その謎解きをお楽しみください。

 戦後まもなく、周作さんが作家を目指していた若い頃、本屋の店頭で「三田文学」という雑誌が目に止まりました。母校である慶應大学の文芸同人誌です。編集後記に柴田錬三郎という名でこのような趣旨の文章が書いてありました。「新人のいかに稚拙な原稿でもそれが真剣に書かれているならば、襟を正して読むであろう」(同エッセイから)
 飛んで帰って、三田文学の編集部に電話した周作さん。原稿を見てもらうにはどうすればよいかを尋ねると、同人の集まる日を教えてくれ、そっと出席してもよい、との返事を得ました。
 教えてもらった日、神田の書店の一室で開かれていた会に緊張して臨んだのですが、誰も気にかけてくれません。でも「教えられなくてもすぐ問題の柴田錬三郎氏はわかった」(同)とあります。皆がくたびれた洋服を着ている中、ひとり真白なワイシャツに蝶ネクタイ、縁なし眼鏡で、口をへの字にまげた人が真向かいにいたからです。他の人が笑っても、口をへの字にまげたまま「つまらん」という表情を続けていました。いや~、柴錬さんの風貌が眼に浮かぶようです。会はどうやら三田文学の前号の合評会だったようで、その時は、すでに小説家としてスタートを切っていた原民喜氏に自己紹介しただけに終わりました。

 何度か集まりに出ているうちに、周作さんは、生来のあつかましさを発揮して、柴練さんの家まで押しかけるようになります。人見知りをしない性格に加え、「その理由はいろいろあったが、私のようにシャベリまくる男には、こういう先輩はまこと不思議そのものの存在であり、一体、なぜ口をへの字にまげて笑わぬのか。あるいは化石のように無表情なのか。それが知りたかったからである。」(同)というのが、いかにも好奇心満点で、小説家的な目の付け所ですね。
 付き合ってみれば、必ずしも笑わぬ人ではありませんでした。笑うと照れ臭げな人なつっこい表情が浮かぶのを気にしていたのかも、と書いています。当時の柴練さんは寂れた一軒家住まい。子供向きの名作物語を細々と書いている時代です。「くだらん」の口癖には「あり余る自分の才能をまだ発揮させてくれない世間とジャーナリズムにたいする不満をこの言葉にこめて言っているようだった。」(同) のちに、直木賞を受賞し、眠狂四郎シリーズなど剣豪小説で一時代を築いた柴練さんにもこんな鬱屈した時代があったのですね。

 まるで師のように柴練さんを慕い、傾倒していく中での、こんなエピソードを語っています。
 女子大を出て出版社に勤めているある女性に、周作さんがゾッコン惚れ込んでしまったのです。汁粉屋などに誘って口説くのですが、どうしても首を縦にふりません。ついには友人を同席させ、彼女の前で泣きマネまでするのですが、冷たい返事が返ってくるだけです。友人が「「君は一体、どんな男に心ひかれるのですか」とたずねると、はじめてニッコリ笑い、「柴田錬三郎さんみたいなしっとりした中年の人」と答えたのである。」(同) 仕事を通じての知り合いだったのでしょうけど、周作さんが次にとったアクションが笑えます。
 柴練さんの自宅へ駆けつけて、どこにそんな魅力があるのか、とあらためて見ていると、「時折、鼻をフンフンとならしながら、卓上の煙草を一本取っては口にくわえ、細長い指でライターをパチンとつけるのである。」(同)
 「フンフン」がポイントだと思い込んだ周作さんは、それをマネているうちに、すっかり癖になってしまったというのです。
 そして、10年の時が流れ、二人の間で、先ほどの彼女が幸せな結婚生活を送っていることなどが話題になりました。そこで、周作さんが「フンフン」の一件を思い出して柴練さんに語ると、彼の驚くまいことか。「「おまえ」柴田さんは甚だ困ったような、照れくさげな笑いを頬に浮かべた。そして低い声で、「おまえ・・・・俺あ、あの頃、蓄膿症だったんだよ。だから鼻をフンフンいつもならしていたんだぞ」」(同) 今度は遠藤さんが驚く番、って、そりゃそうでしょうね。

 最後に、お互いに作家としてのこんな交友エピソードを披露しています。
 小説家として自立できるか自信がない周作さんは、ある時、20枚ほどの地味な小説を柴練さんのもとに届けました。冒頭の方で紹介した編集後記が頭にあったからです。とても読んではもらえないだろうとは思いつつも、たまらず2~3日後に訪ねました。なんと机の中から取り出した小説には、朱筆がぎっしりと入っています。そして、2時間、小説のデッサンの仕方について、教えてもらったというのです。
 遠藤周作さんが芥川賞を受賞したのは、その半年後です。すぐ報告に行くと「彼は私が今でみたことのないような笑顔で、「ああ、とったな」ただ一言、そう言ってくれた」(同)
 師弟関係に近い交友の中で、作家として苦労しているもの同士だけが共有できる喜びが伝わってきます。ちょっといい話に、ちょっぴり羨ましくなりました。
 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。