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第450回 投書が決めた江戸遷都

2021-12-03 | エッセイ
 大阪には造幣局があります。「あれは、一時期、大坂(当時の表記)遷都が実現しそうになった名残や」というのを、中学校だかの授業で聞きました。身近な街でしたから、へぇ~、とは思ったものの、あまり実感は涌かなかったことを憶えています。
 敷地内にある造幣博物館です。明治っぽい雰囲気を残しています。



 司馬遼太郎のエッセイ「江戸遷都秘話」(「歴史の世界から」(中公文庫) 所収)を読むと、かの大久保利通が推進役となって、大坂遷都が実現の一歩手前までいっていたこと、そして、最終的に江戸になったのにはちょっとしたエピソードがあったことを知って、興味引かれました。私なりの要約でお伝えします。

 維新のかなり前から、大久保は、大坂遷都の構想を胸に秘めていました。その理由は、秀吉が政権の中枢を置いたのと同じ理由からです。
 日本列島の中心に位置すること、瀬戸内海の奥座敷で水運の便がよく、外国との折衝に都合がいいことなどでした。

 明治元年正月、鳥羽伏見の戦いで幕軍を退けた直後、その構想を正式の建白書として有栖川親王を首班とする総裁府に上呈します。もちろん、千年の都を捨てることへの感情的反発は大きく、公卿のほとんどは大反対です。唯一、大久保の案を支持したのは、盟友の岩倉具視くらいであったといいます。

 それでも、西郷、木戸、後藤ら維新の功臣たちの支持を得て、流れは、大坂遷都へと傾きかけます。ところが、事ここにいたって、大久保は重大なことに気づきました。遷都というのは途方もなく出費を必要とします。できたばかりの政府には、基礎財源がないのです。

 そこで、にわかに具体的色彩をおびてきたのが、江戸遷都論です。その口火になったのが、当時、京都にあった大久保の私邸に投げ込まれた匿名の投書であったとされています。文章は堂々たるもので、論旨も明快です。無名の一市井人ではありえません。まずは、大久保の見識が卓越していること、盛大なる議論をしていることなどをおだてた上で、江戸遷都の理由をこう述べます(便宜上、番号を付けました)。

1.関東、東北の士人が新政府に疑問をいだき、戦意ぼつぼつたる時、江戸の押さえを捨てて、大坂に帝都を置くのは戦略、政略からみて感心しない。
2.水運の便というが、これからは和船の時代ではなく、洋式大船の時代になるから、大坂ー江戸の距離は問題にならない。
3.大坂に遷都すれば、役所、学校、公共施設などありとあらゆる建物を建設しなければならない。しかし、江戸にはすべて揃っている。
4.大坂は帝都にしなくても衰えないだろう。しかし、江戸を帝都にしなければ、市民が離散し、荒廃してしまう(大阪人のたくましさを見抜いた卓見だと思いますー私注)。

 差出人は、「江戸寒士」とあるだけでしたが、維新後、数年を経て、実にドラマチックな経緯で、その主が判明します。後に「我が国郵便精度の父」とも称される「前島密」でした。1円切手でおなじみのこちらの方。



 投書があった時、むろん、両者は面識はありません。前島は、函館で洋学を学ぶ幕臣で、新知識人のひとりでした。なんとも大胆不敵な行動力と見識の高さです。

 そんな前島を新政府がほうっておくわけはなく、政府高官として、先ほどの郵便事業の創設などで実力を発揮します。明治元年9月の江戸遷都から数年を経て、大久保と前島は、数人の政府高官とともに座談の場を持ちました。維新前後のことを回想しあっている中で、大久保が遷都に触れ、「(いろいろ思いあぐねていたとき)一通の投書が舞い込んで、その文章にひどく感銘し江戸遷都に踏み切ることができた。あの文章の主は、いったいだれだったのだろう」(同書から)と言ったのです。

 目の前にいる前島は、功を誇らない人間でしたから黙然としていました。同席していた人物が、前島からその話を聞いていましたから、「この前島君ですよ」と明かすのです。「大久保は膝を打ち、感嘆してしばらく声がなかったという。」(同書から)

 すごい巡り合わせがあるものですね。幕臣という立場、利害を超え、あえて建白を行った前島。一方、匿名の投書でありながら、広い心で耳を傾け決断した大久保。そして二人の劇的な出会い。気骨ある人物とはこういうものか、とあらためて思い知らされます。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。

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