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第436回 加賀百万石の生き残り戦略

2021-08-27 | エッセイ

 先年、夫婦で加賀の国「金沢」への小旅行を楽しんできました。私は何度か訪れていましたが、機会がなかった家人からのたっての希望に応えたものです。
 武家屋敷、茶屋町などの古い街並み、広大な兼六園などの定番観光スポット中心でしたが、伝統と文化に触れることができ、二人の大切な思い出になりました。

 それにしても、と思うのです。加賀百万石といいますが、大した武勲、武功のない前田家がこれだけの領地を与えられた背景、そしてそれを幕末まで維持できた秘密は何だろうかと。

 だいぶ古い本ですが、手元にあった「歴史を紀行する」(司馬遼太郎 文春文庫 昭和44年)」の中の「金沢」の章を読んで、大いに腑に落ちるところがありました。我が不明を恥じつつ、ご紹介することにします。

 最初の方で、金沢弁を話題にしています。司馬がタバコを買った時、タバコ屋の店番をしている老婦人から「まいっさん あんや つんじみす」との言葉が返ってきました。「毎度さま ありがとう 存じます、ということである。たかがタバコ一つでこれだけの荘重な敬語を用いてくれる土地はいまどきどこにあるであろう。」(同書から)
 ちょっとした言葉づかいも見逃さず、歴史の重みを伝える司馬ならではの一文です。

 さて、本題の加賀百万石の生き残り戦略です。

 加賀藩の祖、前田利家の発祥の地は尾張です。織田家家臣としては中の上の家柄で、利家は小さい頃、通称「犬千代」と呼ばれていました。質朴な性格がことのほか信長の気に入られたようで、彼が元服後も「お犬」と呼んで、信長はつねに身辺から離さず、寵愛したといいます。

 秀吉の時代になっても、その律儀な性格が好まれて、晩年まで仕えることになります。そこには、織田家から政権を奪ったものの、配下の大名の多くが織田家の同僚である上、秀吉には親衛勢力とすべき肉親が少ないという事情がありました。
 そのため、利家をいわば「身内」同然に扱い、ついには、加賀の地で、徳川家康に対立する勢力に仕立て上げられました。加賀百万石の祖と称される由縁です(実際の石高が百万石となったのは、二代目、三代目の時代といわれています)。

 その利家ですが、秀吉の後を追うように没します。そして、豊臣家と徳川家の天下分け目の戦いを迎えます。
 二代目利長は、公然、家康側につき、豊臣家と断絶するという果敢な決断をします。豊臣家への義理は亡父利家が充分に果たしたから、との理由です。

 家康からもその功績を認められ、加賀の地は安堵されるのですが、旧豊臣方であったという事実は変えられません。ひたすら幕府に気を遣い、戦々恐々の外交戦術で生き残りを図ることに二代目の一生は費やされたといってもいいでしょう。
 そして、それを完成させたのが、三代目の利常です。こんな絵が残っています。

 その戦略ですが、「かれは自分を阿呆仕立てにした。顔の印象から変えた。鼻毛をのばし、口をあけ、外観を低能としてよそおった。」(同書から)というから凄まじいです。こんなエピソードが紹介されています。

 あるとき、利常は江戸城出仕を病気のため休んだことがあります。後日、老中から欠勤を咎められると、「利常は「はあ?」と口をあけ、やがて顔色を変え、いきなり袴をたくしあげて睾丸(こうがん)をほうりだしたのである。「ごらんあれ」と言い、「このところが痛うて歩きもできませず、やむなく出仕を控え申した」といった。」(同書から)
 この阿呆ぶりではとても反逆などできまい、との印象を与える巧妙な振る舞いです。

 さらに、利常と加賀藩(以後、ずっとそうですが)は、軍備をおろそかにしているとの印象も与え続けなければなりません。「このため、藩をあげて謡曲を習わせ、普請に凝らせ、調度に凝り、美術工芸を奨励し、徹頭徹尾、文化にうつつをぬかした藩であるという印象を世間に与えようとした。」(同書から)

 暗愚な藩主ではとても出来ないこんな戦略で幕末まで生き残ったとは知りませんでした。でも、おかげで、先の旅行では、その成果ともいうべき文化と伝統の一端に触れることが出来たわけですから、感謝しなければいけませんね。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。


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