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第166回 社長の品格-1

2016-05-20 | エッセイ

 剣喜さんへ:お約束通り、腹に据えかねる昨今の世情に鑑みて、社会派っぽいネタをお届けします。お眼鏡に適えばいいのですが・・・

 さて、東芝の大規模な不正経理といい、三菱自動車の燃費不正といい、「知らなかった」「報告がなかった」「会社ぐるみではない」「部下が勝手に」「事務処理ミス」など、見苦しい言い訳のオンパレードである。
 「国の社長」も数を恃んでのやりたい放題、「東京都の社長」は社長で、海外大名旅行、家族旅行のカネまで税金で払わせといて、こっちも負けず劣らず見苦しい言い訳のオンパレード。その卑しさ、セコさに呆れかえる。

 「資質」を云々する以前に、組織のトップ、経営トップたるべきものの「品格」は一体どこへ行ったのだ、と憤りに燃えながら、思い出した本がある。「社長の椅子が泣いている」(加藤仁 講談社)です。2006年出版で、いささか古いですが、今こそ、そんなヤツらに読ませたい本。2回に分けて、ご紹介しようと思います。こちらがそのほんです。


 名門の出でもなく、世襲でもなく、本当の実力だけで、兄弟揃って、日本を代表する企業の社長の座に就くというのは、稀有なことです。この本の主人公である本田技研工業の二代目社長「河島喜好(きよし)」(兄)と、日本楽器(現ヤマハ)の第5代目社長「河島博」(弟)の例がまさにそれです。

 浜松で生まれ育った兄と弟は、極めて仲の良い兄弟で、戦後まもなく、それぞれ、高等工業学校、経済専門学校を卒業し、当時としては、地元の一企業に過ぎなかった本田技術研究所(後の本田技研工業)と日本楽器に入社します。

 さて、兄の喜好は、オートバイ開発の技術者として、順調に経験を重ね、1973年、45歳の若さで、二代目社長となります。7人いたといわれる候補の中から、技術力、経営センス、人柄などで、本田宗一郎が指名しただけあって、在任中は、アメリカ現地生産工場の立ち上げ、ヤマハとの二輪車のシェア争い(奇しくも、この分野では弟とライバル関係になる)での勝利など赫々たる業績を挙げ、1983年に退任します。猛烈な努力があったからこそですが、経営者として、まずは申し分のない順調な一生 であったといえるでしょう。

 一方、弟の博の一生(特に後半生)は、まさに波乱万丈といっていいでしょう。そして、それこそが、この本を貫く大きなテーマとなっています。

 ヤマハにおける博のキャリアの前に大きく立ちはだかり、苦しめ、ヤマハの経営を、一時危うくさせた元凶が、「川上源一」と、その息子の「川上浩」なる人物です。

 創業家の山葉一族の社長が二代続いた後、労働争議で危うくなった経営を立て直すため、住友電線取締役から、三代目社長として送り込まれたのが、源一の父の嘉市です。嘉市の座を世襲した源一は、河島博が入社当時、既に4代目社長として経営にあたっていたことになります。

 源一の父の嘉市という人物が、かなり特異な人物だったようです。
 東京帝大の銀時計組というのが何よりの誇りであったようで、自伝の四分の三を小学校時代から、銀時計に至るまでの学業成績の記述で延々埋め尽くしていたというのですから・・
 また、「丸い竹も四角い枠に嵌めれば四角くなるように、人間も教育次第でいかようにでも変えられる」という一種の「優生思想」の持ち主でもありました。

 そんな父親の子供に限って、「出来が悪い」のも世の習い、というか皮肉なもの。
 何かにつけて、父親と比較され、プレッシャーをかけられる毎日。期待に応えられない不甲斐なさ、銀時計の父に対して、高等商業卒業がやっとの自分・・・それやこれやが、源一の人格形成を大きく歪め、劣等感の裏返しのような尊大で、独善的な人物を作り上げてしまった、と言えそうです。

 それでも、社長の息子だからということで、世襲で社長になれるのが、日本的経営。1950年、社長に就任してからは、それまでの鬱屈感、劣等感を吹き払うかのように、ワンマン経営に乗り出します。
 社内での呼び名は、「源さま」、そして、会社の役員、幹部といえども「家来」と呼んで憚らず、その独裁ぶりは、俗に「川上天皇」とも呼ばれました。

 とはいえ、河島の入社当時、源一は遠い存在。常に自分の頭で考え抜き、行動することを信条に、支店、本社営業本部の責任者として、のびのびと経験を積み重ね、実力を蓄えていきます。
 怜悧な経営手法だけでなく、社員とのコミュニケーション、人使いの妙といったワザも自分のものとする一方、広く音楽業界、ミュージシャン、アーティストたちとの人脈を広げ、大きな営業成果につなげる自在な経営も河島一流のもの。

 彼自身の大きな飛躍のきっかけとなったのが、6年半に及ぶアメリカ現地法人の責任者としての経験でした。源一の思いつきのような発想から出たアメリカ進出でしたが、言葉の壁を乗り越え、ゼロからの楽器マーケットの開拓、当時、既に手がけていた二輪、スノーモビルの販売などに腕を揮い、利益面で日本の本体をさせる支えるまでの規模に押し上げます。

(次回に続きます)