時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(二百二十二)

2008-03-11 05:30:35 | 蒲殿春秋
和田義盛らが鎌倉へ戻った後、安田義定はしばらくの間三河に滞在した。
滞在している間、三河の有力者と多く接触を持った。
自らの力を三河に深く浸透させる目的があってのことである。
鎌倉勢の滞在の間、三河の中でも頼朝へ心を寄せるものが増えたようである。

一人の者が複数の主を持つことは当時としては当然のことである。
三河においても頼朝、義定、そして源行家それぞれ全てを自らの主として仰ぐものもある。そして反平家の態度をとりつつも平家に連絡をとるものもある。
その主同士が争うことになった場合、どの主の下に付くかは従うものの自主的な意志にゆだねられる。
戦乱時や行政において自らの旗下に武者を集めるためには主となるものの器量が試される。
主として従う者たちに常に気を配り、その者達の利益を保護しなければならない。
現在の所反平家という点で結束している頼朝、義定、行家であるがその間には微妙な緊張があった。

先般も、安田義定からの人足徴収などに不満を抱いた遠江国の住人が義定が非法を行なっているとして、そのことを鎌倉の頼朝に訴えるという事があった。
自らの意見を通す為ならば自分の都合の良い裁定を下す別の武家棟梁に訴えればいいということである。
幸い頼朝は義定の顔を立てて、一旦は義定の裁定に従うように断を下し、さらに義定と住人の両者の間に入って仲裁をして事なきを得たのであるが、一時は遠江国内部において、義定と頼朝が対立、頼朝が侵攻してくるという噂が飛び交っていた。

安田義定が勢威を誇る遠江においてもそのような状況である。
現在自分に従っている在地有力者がどのような行動をとるのか
先が読めないというのが三河に限らずこの時期のこの国に実態であった。

鎌倉勢が不在となった現在、自分の力をより強く三河に浸透させる為にも義定は
三河の有力者と接触をより多く持つ必要があった。

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