時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百八十九)

2009-05-30 09:08:52 | 蒲殿春秋
義仲は都における自分とその与党の地位を強化し、政敵に回ったものたちへの報復を行なった。

そして自らの宿願を遂げようとする。
義仲最大の宿願は鎌倉の源頼朝を追い落とすことである。

その最初の一矢は、いまだ伊勢に留まっている頼朝の代官九郎義経に向かって放たれた。
義仲は自軍を伊勢に差し向けて九郎義経とその与同者を攻め立てた。
この猛攻により義経は伊勢を追われ東へと下ることとなった。

さらに頼朝を追い込むべく義仲は遂に奥州藤原氏と交わした本来の盟約を遂げようとする。
義仲は奥州の藤原秀衡に再度頼朝を討つように働きかける。
その藤原秀衡が動きやすくなるように、義仲は頼朝追討の院宣を後白河法皇に願った。

法皇のお心のうちには頼朝を討つお考えはないことは義仲は百も承知していた。
しかし、法皇の御身を幽閉はしていないものの現在の状況において法皇は義仲の願いに否を出すことができないであろう。
近いうちに頼朝追討の院宣が出されるはずである。

源頼朝を倒す。
その願いが現実化した

そう思った矢先義仲にとって思わぬ報が飛び込んでくる。

法住寺の戦いの直前平家追討に向かった源行家、
その行家が十一月末播磨国室山(現兵庫県西部)において平家と戦い大敗したという。
行家は共に西国に下った石川義兼と共に和泉国へと撤退した。

十二月始めに入ったこの知らせは義仲に暗い影を落とす。

この戦いの以前から平家は山陽、南海において勢力を回復していた。
彼の地のものは殆ど平家にしたがっている。
その平家がついに畿内に程近い播磨国にまで進出してきたのである。
平家は都を射程圏内に捕えたといってもよい。

この頃から都では平家が近々入洛するという噂が交わされるようになる。

都から遠く離れた坂東への対応より、都に程近い平家への対処が義仲に迫られるようになる。

義仲は平家とは和睦しても構わないと思っている。実際に和睦の使者が何度も送られた。
だが、畿内において義仲に同意した都の武士達は平家との和睦を快く思っていない。また、都の廷臣たちも和睦を望むものもいる一方で、強攻策を願うものもいるのも事実であった。
和睦と図りたい義仲と都の武士達との齟齬、そして廷臣たちの意見の不一致、そのことが和睦工作に支障をきたす。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ



蒲殿春秋(三百八十八)

2009-05-26 06:10:54 | 蒲殿春秋
義仲の勢いは止まらない。

寿永二年(1183年)十一月二十九日摂政師家の名において人事の刷新が行なわれた。
院近臣や院に近いと目される武士達が大量に解官(官職を追放すること)されたのである。
平清盛が引き起こした治承三年の政変ので行なわれた人数を上回る数の解官であった。

ついで摂関家の八十箇所の荘園の管理が義仲の手によってまかなわれることになる。
荘園の管理に武力が必要な前摂政入道基房と兵糧や物資の不足に悩む義仲の利害が一致した結果である。

ついで義仲は自らの権威を高めるべきことを行わんと図った。
義仲は基房の娘ーつまり現摂政師家の姉の婿になりたいと基房に申し込んだのである。
この申し出に基房は困惑した。
あまりの身分違いの縁談だからである。
本来ならば帝の妃になってもおかしくない娘である。
それがついこの前まで無位無官だった男の妻になるなど当時の摂関家としては考えられない。
少なくとも代々公卿の家を勤める家の男でなくては摂関家の娘の婿にはふさわしくない。

だが、現在の基房にとって義仲との提携は必要不可欠である。
基房は返答の延期を求めてはいるが、あからさまな拒絶はしていない。

この好感触に義仲は満足している。

この縁談が成立すれば鎌倉の頼朝が有する官位や都との人脈で示しているその貴種性を義仲は凌駕することができる。
頼朝より義仲の方が上位者であることを示すことができるのである。
たとえ頼朝がその姉を通じて今上の帝の縁戚の端につらなっている事実があるとしても・・・

義仲は東の頼朝に向かって心の中で勝ち誇った叫びをあげていた。
━━ 頼朝よ。そなたは無位無官で小豪族の北条とやらの娘を御台所として崇めさせているようだが
 お前にはその程度の女が釣り合いよ。
 わしは、摂政殿下の姉君の婿になる。
 名も知れぬ伊豆の田舎の女の婿と摂政殿下の婿君ではえらい身分違いだな。
 所詮お前は流人あがりの身の上だ。流人の時に拾ってくれた女を後生大事にすることだな。

勢いにのる義仲は奥州藤原氏と示し合わせて頼朝を討つための支度を急ごうとした。
だがこの先の見えぬ戦乱の世は義仲が思う通りには動かなかったのである。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

女性の名前もダブる+α

2009-05-21 05:56:11 | 源平時代に関するたわごと
さて、前回男性で同名の人が多いと書かせていただいてのですが、
女性でも同じ名前の人がいます。

例えば
「兼子」さんが二人
・九条兼実の妻
・卿二位藤原兼子(後鳥羽天皇の乳母)がいます。

当時公式な名を名乗る女性が少なかった当時名前がダブルのは面白いですね。
(入内する場合、位階をもらう場合、任官(←当時女性のみ任官できる官職があった)する場合以外は名前を必要としなかったですし、
女性の名前が公にされるのは当時タブーとされていました。その件に関してはこちら)

ただしこれにはある理由があるからなのではないかと思います。

その理由は
女性が公式名を持つ場合は「父親から一文字+子」
というパターンの名前が多いかったという点が挙げられると思います。

例えば
北条時政の娘
 政子ー源頼朝の妻
 時子ー足利義兼の妻(この名前の出典は探し中)

藤原範兼の娘
 範子ー後鳥羽天皇乳母
 兼子ー後鳥羽天皇乳母

平時信の娘
 時子ー平清盛の妻

平清盛の娘
 盛子ー近衛基実の妻

というように娘は父親から名前を貰うことが多いのですが、その父親の命名自体が
「先祖から続く一文字+烏帽子親等から一文字」
(例 平忠盛 烏帽子親?源義忠から一文字+先祖代々「盛」という説があります)
というパターンが多いのです。

そうなると父親の近辺には似たような名前の人々がゾロゾロいて
その似たような名前を使っている人々が娘の名前に一文字与えるのですから
ダブるのはある程度仕方の無い現象なのではないかとも思えてきます。

で、娘が父親から一文字もらうケースは比較的多いのですが
当時は子沢山の人々が多く、娘は二人で打ち止めということはあまり無いので
父親の二文字で足りない場合は改めて名前をつける場合があります。
その名前は現代の感覚で考えると「???」というものもあります。

藤原豪子 (藤原公能の妻)
藤原休子 (藤原信隆の妻)
藤原全子 (西園寺公経の妻)

使っている漢字が現代の感覚では不思議ですし、どのように読むのでしょうか・・・

また、天皇のもとに入内する女性の場合父親の名前を貰わないようです。
この場合は「会議」で名前を決められることもあるようで・・・

さて、この先は妄想の世界に入っていきます。
知っている方は知っておられますが源頼朝には二人の娘がいました。

大姫と三幡(乙姫)です。
この二人の娘は未婚でしかも朝廷に出仕もしないで死んでしまうので正式な名乗りを持つことがありませんでしたが
生きて、入内なり出仕をしていれば公的な「源○子」という名前をつけられていたたでしょう。
入内の場合は、それこそ「会議」で名前をつけられたと思うのでどのような名前になるかは予想がつきませんが、
普通の貴族と結婚して叙位、出仕の場合は当時の例に従っていたかもしれません。
つまり大姫や三幡は「頼子」さんか「朝子」さんになっていたのかなあ、などと考えてしまいます。
ただし、「朝子」さんにはならない可能性もアリと思います。

というのは彼女たちの伯(叔)母さんになる、頼朝の姉(妹)が既に父親(義朝)から
一文字もらって「朝子」という名前を名乗っていた可能性があるからです。
三親等以内の身内との同名はやはり避けられるべきでしょうから、その場合別の名前を名乗る可能性があったでしょう。

とはいえ、頼朝の娘達は若くして亡くなり、頼朝の姉(妹)も公式名称が伝わっていないので
上記のことは全く無駄な妄想でしかありませんが・・・

参考図書 角田文衛「日本の女性名」(教育社)

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

同姓同名ややこしい~よしつね がいっぱい+α

2009-05-17 21:30:24 | 源平時代に関するたわごと
小説もどきの中で
「源九郎義経」(頼朝弟)と「山本義経」(近江源氏)という二人の「源義経」が出てきてややこしいことになってしまいました。

この部分は私の完全な創作ではありません。
同時期に「近江を根拠地していた山本(源)義経」
と「近江に滞在していた九郎(源)義経」がいたのは事実です。(「玉葉」などによる)

つまり同じ頃に二人の「源義経」が実際に存在していたのです。

ややこしいですよね。

しかももっとややこしいことに源氏以外にも目を向けると使われている漢字や氏がちがう「よしつね」さんが
比較的近い時期に存在するのです。
九条良経 (九条兼実の息子) 波多野義常(相模国の豪族)

みなさんみんな名前は「よしつね」と読みます。

この現象は「よしつね」さんだけかとおもいきや
他にも同じ名前の方々が同時期に存在していた事実に気がつきました。
しかも「よしつね」さん以上に多数の同名の方々が存在しているのです。

それは「義兼」さんです。しかも皆さん「源氏」なのです。
この時期「源義兼」さんが何人も同時に存在していたのです。

以下の方々はすべて公式名称源義兼さんです。

足利義兼(源姓足利氏二代目)
新田義兼(新田氏)
石川義兼(河内国源氏)
柏木義兼(近江源氏)

姓と苗字の関係についてはこちら

探せばまだまだ出そうな状態です。

この時期に「人気の名前ランキング」という調査があれば
間違いなく義兼さんは上位にランクインされるのではないかという気がしてきました・・・・

(他にも同名他人さんの例はいくつかありますが・・・)



にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

寿永二年(1183年)十一月 法住寺合戦まで

2009-05-17 01:08:36 | 年表
史料名 玉ー玉葉 吉ー吉記


日付 義仲 行家 他武将 義経 朝廷その他 平家
11月4日     不破の関に到着(玉)    讃岐にいる(玉、吉)
11月7日   行家ら義仲以外の主な武将が警護の為に院に召される(玉) 近江到着(玉) 院中に警護の武士入れる(玉)  
11月8日   行家平家追討に出発      
11月10日     近江滞在(玉)      
11月12日             資盛院へ書状(玉)
11月13日    行家鳥羽出発(吉)          
11月15日           義経入京に関して審議(玉) 平家備前を焼き払う(吉)
11月17日 法皇から西国行を命じられる(玉)       院中武士群集(玉)多田行綱ら院に入る(吉)法皇南殿へ渡る(吉)摂政基通院御所へ参上(玉)    
11月18日 義仲西国行きを一旦は了承(吉)     伊勢に到着 天皇密かに行幸(吉)女院ら他所に移る(吉)北陸宮逐電(吉)天台座主、八条宮などが院に参内(玉)  
11月19日 法住寺合戦(玉、吉)法皇摂政基通の五条邸に移される(吉)             
11月20日 前関白基房義仲と接触(玉)           
11月21日         師家摂政就任(吉)   


前年表へ 年表一覧へ 次年表へ

寿永二年(1183年)閏10月年表

2009-05-17 00:41:06 | 年表
史料名 玉ー玉葉 吉ー吉記 百ー百錬抄


日付 頼朝 義仲 義経 朝廷その他 平家
10月21日            鎮西を出る(玉)
10月        上西門院乳母(持明院基家母)死去(吉12/13条)   
10月28日 頼朝上洛の噂(玉)           
閏10/1   水島の戦い(百)          
閏10/2            この頃四国に入る(玉)
閏10初旬 頼朝鎌倉を出て上洛の途につく(玉11/2)             
閏10頃 頼朝上洛の為に足柄山にいる。その頃に院使い中原康貞に会う(吉)           
閏10初旬 頼朝上洛途上で平頼盛に会う(玉11/2条)           
閏10初旬 頼朝遠江に滞在していたが、奥州藤原氏が白河の関を超えた為に鎌倉に戻る(玉閏10/25条)          
閏10 頼朝郎党秀衡の元に走る*(玉)          
閏10/13           讃岐にいる(吉)
閏10/14     都に戻るとの噂(玉)           
閏10/15     義仲帰京(玉)        
閏10/16     義仲後白河法皇のもとに参上(玉)          
閏10/17     頼朝代官九郎が上洛するという噂(玉)       
閏10/20     義仲院に猛烈抗議、頼朝を討つ宣旨を要求(玉)             
閏10/21     義仲の抗議拒否される(玉)   持明院基家逐電(玉)       
閏10/22     伊勢に出兵(玉) 伊勢にいる(玉)      
閏10/23   義仲、志田義広を平家追討使にするよう院に要望するが拒否される(玉)     公衡恐怖する(玉)     
閏10/24     義広追討使にするよう再度申入れるが難色を示される(玉)       
閏10/25           奈良の僧、院のお召しで参上(玉)    
閏10/26     義仲興福寺衆徒に頼朝を討つよう依頼するが興福寺から拒否される(玉)              


*「玉葉」寿永二年閏十月十七日条にある人が言ったという話で次のようにある。
『頼朝の郎従等、多く以って秀平の許に向ふ。仍つて秀平頼朝の士卒異心ある由を知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す。この時東西より頼朝をせむべき由なりと云々。』

前年表へ 年表一覧へ 次年表へ

蒲殿春秋(三百八十七)

2009-05-14 05:55:16 | 蒲殿春秋
天皇と法皇を手中に収めた義仲はある人物のもとに向かう。
ある人物とは前関白松殿基房。現摂政近衛基通の叔父である。

基房は平清盛が起した治承三年の政変によって関白の座を追われ逼塞していた。
その基房のもとに義仲が向かったのである。

両者の会合は直ぐに終結した。

戦闘のあった翌々日の寿永二年十一月二十一日重大な人事が発せられた。
基通に代わる新摂政が就任したのである。
新摂政は松殿師家。松殿基房の嫡男でわずか十二歳の少年である。

四歳の天皇と十二歳の摂政。

この両者に政局をうごかせる筈は無い。

だが新摂政の影にあって大きな影響力を及ぼし政局を切り盛りできる人物が一人いる。
摂政師家の父基房である。

すでに出家している基房はもう官位につくことはできない。
だが、我が子を摂政としてその後見をする形で政局を動かす、そのような形での政権復帰ならば可能である。
つまりこの珍妙な人事によって松殿基房は実質的な政権の座に返り咲くことができたのである。
そして宮廷の人々は真の政権運営者が誰かを知っている。

清盛が起した政変の後、基房はそれまであった関白の座を追われたが密かに復権の機会を待っていた。
平家都落ちをその機会を踏んでいたが、平家から離反して後白河法皇に尋常ならざる接近を図った時の摂政基通にそれを阻まれた。
だが雌伏して次の機会を待つ。

そして今回起きた戦乱と政変。
基房に接触を図った義仲は基房に政権運営をするように願った。
これを自らの復権の機会を見た基房は義仲の申し出を快諾した。

一方義仲も基房を必要としていた。
都の宮廷社会との人脈が殆ど無く、自身も出仕の経験の浅い義仲に政権運営ができるはずが無い。
また、ついこの前まで無位無官そして現在も左馬頭に過ぎない自身は清盛のように政権に食い込んで自身の意見を強く言うこともできない。
だが、前関白基房の言うことならば宮廷人も従う。
基房ならば政権を切り回すこともできる。
その基房に密着していけば自分の意見が通りやすい。

両者の思惑はすぐに一致した。

十二歳の摂政の誕生。
基房と義仲の強引な人事にみえるこの一件も宮廷人には意外にも好意的に受け入れられた。
というのは、平家に密着していた前摂政基通への反感と平家や義仲に対して強硬な姿勢を貫いた後白河法皇への反感が宮廷人たちの間に密かに渦巻いていた、それがこの新摂政就任歓迎の空気に繋がっている。

この新摂政の元へ多くの人々が続々と挨拶に訪れる。
摂政就任の儀式が次々に行なわれる。

かくて新政権は順調にその一歩を踏み出したかのように見えた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百八十六)

2009-05-12 20:33:14 | 蒲殿春秋
寿永二年十一月十九日 ついに都の人々が恐れていた事態が発生した。

午の刻 義仲の軍勢が大路の辻を警護する院方の兵や僧侶を蹴散らしながら後白河法皇の御所である法住寺殿へと押し寄せた。
迎え撃つ院方は、比叡山や園城寺の兵、そして美濃源氏土岐光長の手勢を中心に守りを固める。
その防御の指揮をとっていた人々の中に鼓判官と呼ばれていた平知康がいた。
院の側近で検非違使を勤めていた知康は、それまで数々の捕り物で勇名を馳せていた。
その合戦の日の知康はひときわ人目を引く存在だった。
知康は頭には兜をかぶっていたものの鎧を一切身に着けず、
右手に鉾を持ち左手には金剛鈴(密教の修法に用いる道具)を持つという異様な姿で
時折踊りながら戦の指揮を取っていた。
そして敵に向かって「逆賊の放つ矢になど当たるものか。跳ね返って逆賊に当たるのがいいところだ」
と言ってのけた。
木曽方の兵は、その挑発に怒りをあらわにし怒涛の如く攻めかかる。
一方の院方もその木曽方に反撃する。

院方は寺院の兵と美濃源氏土岐光長を中心としてよく守った。
だが、挙兵以来生死すれすれの戦場を潜り抜けてきた義仲やその直属の兵たちが死に物狂いで攻めてきていたのである。
元々戦意の無かった院方の光長以外の武者たちは早々に戦場を離脱し
残された兵たちも次々と討ち取られていく。

やがて法住殿に火の手が上がり、院方の主な人々は続々と院御所を脱出する。
入れ替わるように義仲方は院御所へ乱入した。

だが、義仲は追撃の手を緩めない。

義仲方は院御所を後にされた後白河法皇に追いついた。
その法皇がおられる輿を義仲の郎党が取り囲む。
やがて義仲本人が現れ、馬をおり兜を脱ぎ法皇の輿の近くに跪いた。
そして奏上する。
「戦があり京中は物騒です。新御所へお移りいただきたいと存じます。
この左馬頭が御身をお守りいたします。」

後白河法皇は摂政基通の五条の屋敷へと移された。

また、行方がわからなかった後鳥羽天皇も見つけ出されて閑院内裏に戻られて
義仲によって護衛がつけられることになった。

一方、院御所に踏みとどまっていたものには災いが押し寄せていた。
勇敢に戦っていた土岐光長父子は木曽方に討ち取られた。
有力な武将を失った院方は勝利の興奮に取り付かれた木曽方に蹂躙された。
院御所に留まっていた宮廷官人たちは、急いで院御所から逃れようとしたが
多くは木曽方に捕えられた、また命を危うく奪われそうになったものある。
院に仕える女房たちは悉く衣類を剥ぎとられ、焼け落ちた院御所の跡地にて寒風☆の中裸身をさらす羽目になった。
(女房たちの着する衣類は当時高級品で、高値で取引される財産だった。)
(☆旧暦十一月中旬は真冬)

一方運良く院御所を逃れた人々にも戦の難が追いかけてくる。

院方の兵の主力を担っていたのは有力寺院の兵だった。
その統率者であった比叡山延暦寺の天台座主明雲、
そして後白河法皇の皇子である八条宮円恵法親王までもが
木曽勢の手によって討ち取られてしまった。

また、院御所を逃れた官人たちもあるもは捕えられ、あるものは屈辱を与えられた。

院方に味方した武士達に対しては敗軍の将としての運命が待ち構える。
戦の直後土岐光長らの屋敷に火がかけられ
翌日には光長などの院方の武士の首が六条河原にさらされた。

後に「法住寺合戦」と呼ばれるようになるこの戦によって
都の政局、そして「治承寿永の乱」を大きく動かすことになる。

前回へ 目次へ 次回へ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百八十五)

2009-05-07 22:02:21 | 蒲殿春秋
義仲の返答を聞いた後白河法皇は再度使者を遣わした。

「東国の者を討ち取るも、西国へ出向くもどちらでも良い。
とにかく都から立ち去れ。都から去らねば謀反と見なす」
使者はこのように義仲に告げた。

義仲は暫くの間無言だった。が、暫く後、西国に向かうと静かに返答した。

翌十一月十八日
都は慌しい空気に包まれた。
前夜八条院は前夜御自身の八条の御所にお帰りになっていた。
そしてその日の早朝後鳥羽天皇が密かに内裏を抜け出された。
ついで上西門院と皇后亮子内親王が法皇御所から姿を消された。
また院の御所にいたはずの北陸宮も行方をくらます。

北陸宮の消えた院御所の法住殿には続々と有力寺院の責任者が武者たちを従えて集結する。
仁和寺御室守覚法親王、園城寺に君臨する八条宮円恵法親王、そして比叡山を支配する天台座主明雲。

この有力寺院は多くの荘園を有し、その荘園を管理する武士たちを支配下に置いている。
寺社はその武士達を自在に動員することができた。
また寺院には出家した武士の子弟である僧侶が数多く存在する。幼少時武芸を仕込まれたその僧侶達は腕に覚えがある。
当時の寺社は流通に食い込み商業活動を行い、そして寺社の命令で動かせる軍事力を有していた。

その軍事力を存分に差配できる寺院の支配者がこぞって後白河法皇の元に参上したのである。
彼等は配下の武士や僧侶に命じて都の辻を警護させ、要所に逆茂木をしつらえたり馬が通れないように障害物を配置したり、堀を掘らせたりもした。

今にも戦がはじまろうという雰囲気である。

都に住まう庶民、そして自分の屋敷に立てこもる貴族たちは固唾を飲んで状況を見守る。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百八十四)

2009-05-06 08:31:26 | 蒲殿春秋
義仲の危機感をさらに煽る出来事が起きる。
翌十一月十七日院御所に多くの武士達が終結した。
その物々しい院御所に身分の高いものしか乗ることのできない車が参入した。
その車の中には、摂政基通がいた。
基通は院のお召しに応じて院御所へ参入したのである。

この基通の参入を見届けた後白河法皇は使者を遣わして木曽義仲にある通達を伝える。
西国に下向して平家を倒すべし、と。

義仲は苦悩した。
この命令は正式な院宣ではない。
平家追討の院宣は源行家に下されている。
義仲が平家追討に出かけるということは行家の配下になれ、といっているようなものである。
さらに勘ぐれば、東から頼朝の代官を都に引き入れ、義仲を謀反人に仕立て上げて行家に討たせるということもありうる。
この法皇からの通達を受けるならば義仲は一気に滅亡に追い込まれるかもしれない。

やすやすとこの通達を受けるわけには行かない。

が、この危機の中義仲はあることに気が付く。

だがこの日有力貴族で院御所に参入したのはこの摂政基通だけであるということに。
基通以外の主な公卿や他貴族はこの日法皇の元に参上していないのである。

そしてそのことが院中に参入した武士達の間の動揺を誘っている。
詳しく内情を探らせると、義仲と本気で戦おうとしている武士はあまりいないということが分かった。
彼等はあくまでも法皇に身辺警護を頼まれただけでいざ合戦になるとどれだけ者が真剣に法皇の為に戦うかが分からない。

義仲は起死回生の策を思いつく。
まず、未だに義仲の身近に残る数少ない盟友の山本義経にあることを頼む。
近江に勢力を張る山本義経は即座に都を立ち、本領のある近江に戻る。
その成果は直ぐに現れた。
山本義経が近江で兵を集め始めると、かの地に滞在していた頼朝代官九郎義経は即座に姿をくらました。
少数の兵士か従えていない九郎義経は、在地に勢力をはる山本義経に抗しきれないと判断したからである。*

そして法皇に再び返事をする。
自分はあくまでも頼朝と戦うつもりである、と。

*ややこしいですが、近江源氏の山本義経と源頼朝弟の九郎義経は別人です。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ