時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

ふと思ったこと

2006-12-30 23:29:13 | 源平時代に関するたわごと
ここの所主役のはずの範頼が全然登場していませんが
(気が付けば何日も都の状況話ばかり書いてしまいました)
次回から主役復活の予定ですが
ここらで、たわごとを書きたくなったので今日はふと思ったことを書かせていただきます。

頼朝は旗揚げから10年後に都に上洛します。
平治の乱で都を追われてから実に30年ぶりのことです。
ところでそのときの都の頼朝の宿所は六波羅池殿に定められます。
旧所有者は平頼盛。(その頃には死んでますが)

六波羅平頼盛邸は頼朝にとっては因縁の場所です。
かつて頼朝が平治の乱に敗れて捕らえられ幽閉されていた場所が
平頼盛邸かその郎党平宗清屋敷(多分平頼盛邸の近くだと思います)
ではないかと推測されます。

六波羅池殿は敗戦、逮捕、幽閉、死刑執行待ち→流刑
という
頼朝にとっては辛い思い出の多かった場所のはずですが
なぜか治承寿永の内乱を勝ち抜いたあとの頼朝の都での住まいは
六波羅池殿になっているのです。
六波羅が戦略的な価値の高い場所であるという説も読んだことがあるのですが
頼朝の個人的心情はどのようなものであるかを考えると極めて興味深いところです。

頼朝にとってはつらい出来事の多かった場所ですがある意味自分の人生の原点となった場所かもしれません。
絶望的な日々の中で池禅尼などに心癒されたことあったのかもしれません。

謀反人の一族として、明日をも知れぬ状況でその場に身を置かされた頼朝が
一転覇者となって六波羅池殿に乗り込んだときの心境はどのようなものだったのでしょうか?

それから約400年後似たようなことをした人物が歴史上に現れます。
徳川家康です。
彼も幼少期から青年期にかけて人質として過ごさざるを得なかった駿府を晩年の居城地に定めます。
頼朝と家康
どこか似たような人生を送った二人が、権力を得てから定めた居住地に
少年時代の暗い思い出に繋がるような場所を選んだというのは
いったいどのような理由なのか非常に気になります。
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蒲殿春秋(八十三)

2006-12-29 22:52:45 | 蒲殿春秋
以仁王と合流した頼政。
だが、結局彼らは園城寺を出て南都(奈良)へ向かうことになった。
南都は反平家の一大勢力に成長していた。
そのもつ武力は無視しがたいものでがある。

首脳部が平家よりの立場をとっている上、寺院内の反平家勢力も平家の武力圧力に対して及び腰になっている園城寺より南都の方がはるかに頼りになる。
南都に入ることによって平家に対して対抗することを考えたのである。
しかし、そこに向かう途中平家率いるの大軍に追いつかれ
宇治平等院にて頼政一族は討ち取られてしまった。
以仁王は暫くの間行く方知れずとなっていたのだが
やがてその死が確認された。
だが、世から忘れられた存在であった以仁王の死の確認は困難を極めた
ようやく以仁王の顔を知るものを探し出して
遺骸が以仁王であることを確かめたのだが
それまでの空白が以仁王生存説を生み出すことになってしまった。
その生存説は後々重大な意味を持つようになる。

また、以仁王の遺児は何人かいたのであるが
そのうちの一人が行方をくらませた。
このこともまた後々に大きな意味を持つようになる。

いずれにせよ、この戦いによって清盛にとっては最大の懸念は消えた。
反安徳の拠点の一つになっていた八条院周辺。
その中にあった皇位継承資格者以仁王は謀反人として死亡した。
しかも、その直前以仁王は臣籍降下の宣旨がなされ
その遺児の皇位への道は閉ざされた。
他の後白河法皇、高倉上皇の皇子たちも平家の関係者が養育しているか
すでに出家しているものたちばかりである。
この状況では平家以外の勢力が皇位継承に口を出すことは不可能となっている。

八条院の爪牙である有力な軍事貴族二人━━━
平頼盛は八条院より異母兄を選択した。
源頼政は死亡した。

抱えている皇位継承者と軍事貴族の消失。
八条院勢力はもはや政治的に清盛を脅かすことができる存在ではなくなった。

安徳に替わる皇位継承資格者の手駒がすでに全て平家に握られている以上
南都などの反平家勢力も今回のような計画を二度と立てることはできないと思われた。

これで、安徳天皇も平家も安泰になった、清盛も平家一門もそのほかの都の誰もがそう思っていた。

今や以仁王の名で各地に送られた令旨は無効となってしまった、
と思われた。
だがこの「以仁王の令旨」は、清盛も八条院も、令旨を発した以仁王自身も思ってもいなかった方向に歴史を動かしていくことになる。

歴史は当時の都の人々の思惑を超えたところで大きく動き始めていたのである。

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蒲殿春秋(八十二)

2006-12-28 23:08:58 | 蒲殿春秋
頼政の園城寺入り。
都中の人々が仰天した中でひとり冷静にその行動を見ていた人物がいた。
平清盛である。

一連の動きをみて清盛はこの計画が八条院周辺で起きていたことに気が付いていた。
平治の乱で信頼一派は一時期軍事力によって政権を掌握したが
それに反発した反信頼派は一連の政争の圏外にあった清盛を引き込んで信頼一派を掃討した。
似たように軍事力によって後白河院政を停止して安徳天皇を即位させた
清盛に対して別の軍事勢力が決起するかもしれないという
不安は常にあった。
そんな折、平家は以仁王擁立の動きを摑んだ。
計画の背後に軍事力を行使できるもの存在の可能性がある。
そして、その行使者は八条院につながりの深い者であるということは容易に察せられた。

ゆえに、八条院に仕える二人の有力軍事貴族の動向を試したのである。
一人は清盛の異母弟平頼盛。
彼は平家一門であるが、妻が八条院の乳母子であるのを見てもわかるとおり
一貫して八条院の側近にあった。
なおかつ、頼盛は清盛の父忠盛の正室の子で清盛兄弟の中では清盛に次ぐ立場にある。
敵に回すともっともやっかいな身内である。
清盛は以仁王の背後に八条院の陰があるのを見ると
まず、頼盛に無理な要求を突きつけた。

以仁王と八条院女房との間に生まれた皇子を平家に引き渡すよう
八条院に要求することを頼盛に命じたのである。
これを拒めば頼盛との合戦も辞さないという覚悟で清盛は迫った。

逡巡したが結局頼盛は半ば強引に八条院を説き伏せて
以仁王の皇子を貰い受けた。
この皇子は仏門に入ることになる。
この一件によって、八条院と頼盛の間には隙間風が吹くようになってくるのだが
皇子引渡しによって頼盛は一連の事件に無関係であることを
清盛に証明したことになる。

清盛の次の疑惑は源頼政に向けられた。
園城寺攻めは平家一門に比べて都での動員力がはるかに劣る頼政を使う必要は
どこにも無い。
それでも、以仁王のいる園城寺を攻めよと命じたのは
頼政がどう出るのかを試したのである。

そのまま出撃すれば頼政も事件に無関係だろう。
だが、別の出方をすれば・・・・

案の定清盛の疑惑どおり頼政は以仁王の下に味方すべく向かった。
清盛の打つべき手は決した。

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蒲殿春秋(八十一)

2006-12-27 21:37:50 | 蒲殿春秋
密かに諸国に発せられたはずの以仁王の令旨。
だが、その計画はすぐに漏れた。

令旨を各地に送っていた八条院蔵人源行家。
彼もまた令旨を受けていた一人であったが、
自分自身も挙兵しようとして故郷熊野で徴兵工作をしてから各地へ令旨を配り始めた。
だが、熊野には反平家の動きがある一方で、平家に親しい勢力もあった。
そして、熊野傘下の諸勢力はいずれに付くかを決めかねていた。
そのような態度を決めかねる勢力いずれかが親平家方に事の次第を知らせてしまったのである。

以仁王の計画を知った平家は即日天皇に奏上して
以仁王を臣籍に下し土佐に流すことに決定。

治承四年五月十五日検非違使達が以仁王逮捕に向かった。
だが、検非違使がその邸宅に向かったところ以仁王はすでに逃げた後だった。
以仁王逮捕に向かった検非違使の中に、頼政の甥の兼綱がいた。
そして、何食わぬ顔をして以仁王の逮捕に向かっていたのである。
このとき頼政一族がこの計画に加わっていることを彼らの他は誰も知らない。
兼綱から密かに報を受けた以仁王はひっそりと邸を抜け出し
どこへとも無く消え去った。

数日後、平家は以仁王が園城寺に匿われているとの報を受けた。
通報したのは園城寺の別当八条宮円恵法親王。
それを受けて平宗盛が以仁王の身柄を引き取りに使者を派遣したのだが
以仁王に同心する僧侶らによって使者が追い払われてしまった。
園城寺の内部も一枚岩ではない。
以仁王を引き渡すべく平家に通報したものの
自分の力では以仁王を支持する勢力を抑えきれないという円恵法親王も困り果てている。
さらに、以仁王には近江源氏や南都の勢力が同心しているとの噂も流れた。

緊迫の中数日が過ぎていったが
遂に五月二十一日、園城寺を武力攻撃することが朝廷で決せられた。
園城寺攻めの主力は勿論平家一門。
それに、源三位頼政も加わることになっていた。

だがその翌日、源三位頼政は一族全てを引き連れて以仁王の立てこもる
園城寺に入ってしまったのである。
勿論以仁王と合流するためである。
この出来事に都の人々は仰天した。

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蒲殿春秋(八十)

2006-12-24 11:23:14 | 蒲殿春秋
「そうじゃな、義仲殿は武芸に優れているとも聞く。八条院様の御料地には関係ないが、何かにつけて役に立つかもしれぬ。木曽にも令旨を送ろう」
と頼政。

「ならば」
と仲綱も発言する。
「父上、知行国にいるあの流人にも令旨を出しませぬか?」
「あの流人?ああ、頼朝のことか。いくらなんでも流人に令旨を下しても仕方あるまい。流人ではなにもできまい」
「ですが父上、戦況が変わった場合伊豆の国人どもも父上の知行国主の命として
動員せねばならぬことも出てきましょう。
そのとき我らが彼の国に赴くことができるかどうか判りませぬ。
誰ぞ代官が必要になる場合もあるやもしれませぬ。
その時に頼朝ならば代官をつとめられるのではないかと思います。
頼朝は叙爵*されたこともありますし、在庁の北条の婿にもなりました。
我等の代官程度ならばできましょう。
必要な時に代官として動かせるように念のため
あらかじめ令旨を出しておいた方が良いかも知れませぬ」
だが頼政はあまり良い顔をしていない
「義仲が武芸優れているのと同様
頼朝の武芸も中々のものだと狩野介から報告も来ております。
伊豆国の狩においても頼朝は中々の腕前を見せているようです。」
仲綱は譲らない。

一度は終わるかに見せた密議も八条院領地以外の者にも令旨を下すことにした為
また、長い長い話し合いを続けることになる。

やがて、密議は終わり、以仁王から正式に発行された令旨は
八条院蔵人の資格を得た源為義の子新宮十郎行家の手に託され
諸国の勢力に運ばれることになる。

彼らの最初の計画には無かった義仲と頼朝に令旨が下されたことにより
この後のこの国の歴史が大きく変わるということを
頼政以下ここにいる誰もが知る由も無かった。

*叙爵 従五位になること この位階以上を有すると数々の特権が得られる。
    一般的に五位以上がこの時代「貴族」に属すると考えられる。

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蒲殿春秋(七十九)

2006-12-24 11:00:33 | 蒲殿春秋
「以仁王の令旨」の草稿を目の前にして源頼政とその子弟たちが密議をこらしていた。
「まず、この令旨をどこに出すかが問題なのだが」
と上座にいる頼政。
「もちろん、八条院さまの御料地をお預かりしているものどもに出すことになるでしょう」
と、八条院の下司職(現地管理者)の名簿を父に差し出す仲綱。
一同はそれをしばし凝視した。
「それにしても、清和源氏の者が多いですね。」
と頼政の甥の兼綱。
「そうよなあ、藤原氏の者もいるにはいるが、源氏が多いな」
「で、その藤原氏の者ですが、下野の足利殿は外したほうが良いように思われます。彼らはここのところ、とみに、平家に接近しております。
八条院さまの御料地をお預かりしていると申しても、平家との誼でこの計画を密告されかねません。」
と仲綱。
「では、他に藤原のものは?」
「同じ下野の小山殿には令旨を出しましょう。彼らは平家とはそこまで深く繋がっておりませぬ。それに、彼らは足利と争っております。この令旨は小山にとって足利を追い出す好機となるやもしれませぬ。他にも・・・」
こうして、名簿を見ながら令旨を出す先を彼らは検討しているのである。

「源氏の方はどうだ?」
「常陸の佐竹はやめておきましょう。彼らも平家には深い誼がございます。」
「平家と言えば、甲斐の武田も止めるべきなのでは、
一族の中には平家の婿になったり家人になっているものもございます。」
「そうよのう。だが、彼らも一族の多くを八条院様に仕えさせておる。
ここは一つの賭けとなるが、われらと親しい加賀美殿を通して探りをいれてみるか」
続々と密議はつづく。

果てしなく続いた密議、だがやがて
「これで、令旨の下す先は決まったな。畿内や美濃に我らに同心しそうな者が多いのが心強い限りじゃ」
と頼政が宣言する。

「しばしお待ちください」
と、今まで沈黙していた頼政の猶子仲家が口を挟んだ。
「何だ?」と優しく答える頼政。
「信濃の国木曽に私の弟が住んでおります。
前伊豆守様が加冠*してくださいました義仲でございます。
かの者にも令旨をお下しくださいませ。
何かのおりには、その令旨を奉じてお役に立てる日がくるやも知れませぬ。」

*加冠する=元服すること、ここの文章は仲綱が義仲の烏帽子親になったとの意に解釈してください。

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蒲殿春秋(七十八)

2006-12-24 10:01:44 | 蒲殿春秋
八条院にどのような思惑があったにせよ、それを実行、計画するものがなければ
それは発行されることはなかったし、後の歴史の大転換は無かった。
その行動の主体が誰であったのかの評価は後世判断はさまざまにわかれる。
けれども一枚の文書が以仁王の名で発行され
その文書がこの国に十年にも及ぶ全国的な内乱を引き起こしたことは事実であった。

「下 
 東山東海北陸三道諸国軍兵等は
 清盛法師とそれに従う謀叛の徒を打ち滅ぼすこと

 最勝親王様(以仁王をさす)のお言葉を受けて前伊豆守源仲綱が宣言します。
 清盛ならびに宗盛などは、威勢をもって、帝を滅ぼし
 凶悪なものを使って国滅ぼし、朝廷の役人と諸国の民を悩まし
 国土を乗っ取ろうとしてます。
 彼らは法皇様をも幽閉し、忠臣を流罪しました。
 卑怯な手を使って大切な官位を彼らの思うがままにしています。
 そのため、忠臣は法皇様の御所にも上がることもできず、
 きちんと修行を積んだ僧侶達は囚人となってしまいました。
 比叡山の大切な年貢は、謀叛の輩に分け与えられます。
 天地は非常に悲しみ、人々は憂いております。
 院の御子であらせられます最勝親王様は
 このことを大変案じられ
 法皇様をお助けし、民の心を安らかにさせようと
 天武天皇の例にならい皇位を簒奪したものを退け
 聖徳太子の例にならって仏法の敵を倒そうと
 お立ちになられることをお心に定められました。
 親王様はかならずや世の中を安らかに治められるでしょう。
 しかしながら、親王様のご決心を成就させるには
 神仏のご加護と諸国の人々の協力が必要です。
 諸国の源氏と藤原氏ならびに諸国の勇者の人々は
 最勝親王様に従って清盛追討に立ち上がりなさい。
 この命令に従わない者は清盛の同類と認め罰を与えます。
 けれども、この命令に従って最勝親王様に味方し、功績を立てたものには
 諸国に派遣する代官を通して
 最勝親王様ご即位の暁には、必ず恩賞を与えましょう。
 この令旨を諸国の人々は謹んでお受けするように
 
                    治承四年 四月」
 
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蒲殿春秋(七十七)

2006-12-23 22:50:53 | 蒲殿春秋
以仁王━━━二条天皇の崩御の頃、後の高倉天皇と東宮の座を争って敗れた皇子。
かつては近衛天皇と二条天皇の二人の天皇の後宮に入った数奇の女性、太皇太后藤原多子に皇位継承予定者として庇護されていたのだが
東宮争いに敗れた後は八条院の保護下にあった。
治承の頃には、以仁王は八条院に仕える女房との間にすでに皇子を儲けていた。

以仁王は皇位から外された存在として世の中からすっかり忘れ去られていた。
八条院も以仁王自身も皇位はもはや縁の無いもの思っていた。

しかし、今回の清盛の起こした政変は八条院周辺の思惑をも変えた。

━━武力によって皇位も決定できる。

その事実を知ったとき、八条院の心のうちがざわめいた。
そして、目の前に以仁王という皇位継承資格者がいる。

後白河法皇の院政が停止されている現在
父鳥羽法皇の意志をつぐ自分が皇位を決定しても良いのではないか。
少なくとも、鳥羽法皇の正統を継ぐ女院である自分の意志で決定する皇位の方が
成り上がりの人臣清盛が決定した皇位よりは正統なはずだ。

もしかしたら、そのような考えが八条院の御心のうちにあったかも知れない。

都では清盛に太刀打ちできる武力はない。
けれども都から遠く離れた場所ではどうだろうか?
全国各地に広大な所領を有する八条院の元には知行国の大幅な交替に伴う地方の混乱と
新国衙勢力ひいてはその背後にある平家への反感が高まっているという
情報が次々と各地から入ってくる。
そして、その情報をもたらしてくれるのは
全国に広大な海上交通網を持つ渡辺党を率いる源三位頼政。
彼は、「武芸の家」清和源氏の出であり、三位という高い位階を有する都の武者。
広大な八条院領に住する多くの武者供を率いるのに値する人物である。
そして、母美福門院の代から自分達に仕えてる忠実な女院のしもべ。

皇位継承者と武力采配ができるもの、そして自身が抱える広大な荘園。
平家が支配する国衙に対する在地の者の強い反感。
寺社勢力の平家に対する反発。これらがの勢力が合一すれば・・・
八条院の思惑が現実味を帯びてきた。

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蒲殿春秋(七十六)

2006-12-23 22:27:27 | 蒲殿春秋
八条院
この時代最大の荘園を所有する皇女。
そして、自分は父鳥羽法皇の正統であると自任している女院。

八条院にとって父鳥羽法皇は絶対の存在だった。
父鳥羽法皇の意志が八条院にとっての正義である。
従って皇位の継承も鳥羽法皇の定めたものでなければならなかった。

それゆえ、後白河上皇と二条天皇との間で確執が生じたときも
父鳥羽法皇が定めた皇統である二条天皇を支持した。
母美福門院薨去の後、出家していたにもかかわらず二条天皇の准母として
女院宣下をうけた。
二条天皇を支援するからである。

だが、その二条天皇の血統は途絶えた。
その血統が途絶えた以上支持はできない。
けれども、異母兄後白河法皇が健在である。
子の二条天皇を即位させる為の中継ぎとはいえ
後白河法皇も鳥羽法皇が定めたゆえに皇位についた天皇であった。
その後は八条院は後白河法皇を支持することになる。

そして、その後白河法皇の指名した高倉天皇の立場も
後白河法皇の定めた天皇ということで八条院は尊重していた。

けれども、今回の安徳天皇の場合は違う。
後白河法皇が政治に対する発言権を完全に失ってからの即位である。
安徳天皇は本来の「治天の君」である後白河法皇が決定した天皇ではない。
「治天の君」の指名したものでない安徳天皇は本当の天皇ではないとの想いが八条院にはある。

その八条院の元で後白河法皇の皇子うちの一人が庇護されていた。
その皇子の名を以仁王という。

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蒲殿春秋(七十五)

2006-12-22 22:21:15 | 蒲殿春秋
前関白基房の流刑は藤原氏氏寺である興福寺の強い反感を買った。
矛先はもちろんそれを行わせた清盛と平家一門。
その反感は元平城京近辺にある南都の寺社全てに飛び火する。

また、天皇、院、摂政を身内で固められ要職を平家とその近い人々に独占され
政局の中枢部から締め出された廷臣たちも面白くない。
さらに後白河法皇の幽閉は、多くの宮廷貴族たちの反感を買った。
最も反発したのが後白河法皇の異母妹八条院とその側近達。
けれども、八条院とその周辺は不快感を秘めながらもしばし不気味な沈黙を続けていた。

さらに、高倉上皇が従来のしきたりを破って院政開始の直後
どの寺院よりも先に厳島詣でに御幸ということが
朝廷に少なからず影響を与えている園城寺などの有力寺社勢力の反発を買った。

そして、後白河院政停止に伴う知行国変更の嵐は
全国各地に大きな混乱をもたらしていた。
それまで、院や有力権門の知行国だった国において重用されていた
在庁の豪族たちは干され
平家に派遣された目代の元、今まで日の当たる場所にいることのできなかった
豪族達が新たに取り立てられる。
そして、かつて彼らを圧迫していた旧在庁勢力に対する弾圧を開始する。
また、知行国ではないところでも、平家の家人にとりたてられた勢力は
平家の権勢を背景として周辺豪族に圧力をかけていく。
このことが後々に大きな影響を与えていく。

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