ここの所主役のはずの範頼が全然登場していませんが
(気が付けば何日も都の状況話ばかり書いてしまいました)
次回から主役復活の予定ですが
ここらで、たわごとを書きたくなったので今日はふと思ったことを書かせていただきます。
頼朝は旗揚げから10年後に都に上洛します。
平治の乱で都を追われてから実に30年ぶりのことです。
ところでそのときの都の頼朝の宿所は六波羅池殿に定められます。
旧所有者は平頼盛。(その頃には死んでますが)
六波羅平頼盛邸は頼朝にとっては因縁の場所です。
かつて頼朝が平治の乱に敗れて捕らえられ幽閉されていた場所が
平頼盛邸かその郎党平宗清屋敷(多分平頼盛邸の近くだと思います)
ではないかと推測されます。
六波羅池殿は敗戦、逮捕、幽閉、死刑執行待ち→流刑
という
頼朝にとっては辛い思い出の多かった場所のはずですが
なぜか治承寿永の内乱を勝ち抜いたあとの頼朝の都での住まいは
六波羅池殿になっているのです。
六波羅が戦略的な価値の高い場所であるという説も読んだことがあるのですが
頼朝の個人的心情はどのようなものであるかを考えると極めて興味深いところです。
頼朝にとってはつらい出来事の多かった場所ですがある意味自分の人生の原点となった場所かもしれません。
絶望的な日々の中で池禅尼などに心癒されたことあったのかもしれません。
謀反人の一族として、明日をも知れぬ状況でその場に身を置かされた頼朝が
一転覇者となって六波羅池殿に乗り込んだときの心境はどのようなものだったのでしょうか?
それから約400年後似たようなことをした人物が歴史上に現れます。
徳川家康です。
彼も幼少期から青年期にかけて人質として過ごさざるを得なかった駿府を晩年の居城地に定めます。
頼朝と家康
どこか似たような人生を送った二人が、権力を得てから定めた居住地に
少年時代の暗い思い出に繋がるような場所を選んだというのは
いったいどのような理由なのか非常に気になります。
(気が付けば何日も都の状況話ばかり書いてしまいました)
次回から主役復活の予定ですが
ここらで、たわごとを書きたくなったので今日はふと思ったことを書かせていただきます。
頼朝は旗揚げから10年後に都に上洛します。
平治の乱で都を追われてから実に30年ぶりのことです。
ところでそのときの都の頼朝の宿所は六波羅池殿に定められます。
旧所有者は平頼盛。(その頃には死んでますが)
六波羅平頼盛邸は頼朝にとっては因縁の場所です。
かつて頼朝が平治の乱に敗れて捕らえられ幽閉されていた場所が
平頼盛邸かその郎党平宗清屋敷(多分平頼盛邸の近くだと思います)
ではないかと推測されます。
六波羅池殿は敗戦、逮捕、幽閉、死刑執行待ち→流刑
という
頼朝にとっては辛い思い出の多かった場所のはずですが
なぜか治承寿永の内乱を勝ち抜いたあとの頼朝の都での住まいは
六波羅池殿になっているのです。
六波羅が戦略的な価値の高い場所であるという説も読んだことがあるのですが
頼朝の個人的心情はどのようなものであるかを考えると極めて興味深いところです。
頼朝にとってはつらい出来事の多かった場所ですがある意味自分の人生の原点となった場所かもしれません。
絶望的な日々の中で池禅尼などに心癒されたことあったのかもしれません。
謀反人の一族として、明日をも知れぬ状況でその場に身を置かされた頼朝が
一転覇者となって六波羅池殿に乗り込んだときの心境はどのようなものだったのでしょうか?
それから約400年後似たようなことをした人物が歴史上に現れます。
徳川家康です。
彼も幼少期から青年期にかけて人質として過ごさざるを得なかった駿府を晩年の居城地に定めます。
頼朝と家康
どこか似たような人生を送った二人が、権力を得てから定めた居住地に
少年時代の暗い思い出に繋がるような場所を選んだというのは
いったいどのような理由なのか非常に気になります。
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