時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百四十六)

2009-12-31 05:37:33 | 蒲殿春秋
一方ときの声高らかに三草山に攻め込んだ鎌倉勢は敵の手ごたえの無さに拍子抜けしていた。
逃げ遅れた兵たちの首を上げたものの、殆どが抵抗せずに逃走していくのである。

鎌倉勢が攻めあがった時には敵の主たちたるものがすでにいなかった。
鎌倉勢の戦いは残存者の掃討のみで終わった。

とにもかくにも三草山は陥落した。
そしてこの陥落が後に一の谷の戦いと呼ばれる戦において鎌倉勢にとって有利になることを決定付けたといっても良いだろう。

この陥落がもう少し遅ければ大手の生田口と同刻に山手口、一の谷口で戦闘を開始することが出来なかった。
進軍する経路が別々となるため大手搦手がそれぞれに進軍を始めたならばお互いに連絡を取ることができない。
よって途中で矢あわせの時間の変更の連絡はできない。
しかし何が何でも二月七日の同時刻には三箇所で同時に戦闘を開始しなければならない。
何らかの事情で搦手軍が三草山に搦手が釘付けになっていたならば、一の谷の戦いを呼ばれる福原での合戦は生田口のみで戦いが行なわれただろう。
そうなると平家はその生田口にのみ全力を注げばよく、その一箇所だけの戦いが長期化すれば畿内の誰かしらに背後を衝かれていた可能性が全く無かったとは言い切れない。三草山が落ちたことにより、生田、一の谷、山手の三箇所で同時に戦局を開くことが可能となったのである。

その意味でもこの三草山が短時間で攻略されたのはこの戦いの大きな分岐点になったともいえよう。

この三草山の戦いが行なわれていた頃、山陽道を西に進んで福原に近づていた鎌倉大手軍は陣立てを行なった。
範頼に従う御家人たちに夫々攻め込む場所を指示する。
戦場が広範囲に広がるため、夫々の御家人が夫々に郎党を率いて戦わせるのが最も効率的なのである。具体的な戦闘方法は各御家人にまかせる。
ただ範頼は一つだけ指示をした。
敵は逆茂木を設え堀も掘っている。
くれぐれもそれに用心せよ、と。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百四十五)

2009-12-28 04:34:47 | 蒲殿春秋
三草山の資盛たちが炎に気が付く少し前、その手前にいた鎌倉勢搦手は三草山攻略の方法を探っていた。
搦手軍の将源義経と安田義定に伊豆国住人田代冠者為綱が進言した。
「夜のうちに大松明をつけて攻め込みましょう」と。
大松明とは戦場となる近くの民家などに火をつけて敵方に攻め込む方法である。
この作戦に軍目付の土肥実平は大きく同意した。
安田義定も異存はないようである。
経験豊富なこの二人の意見に若い義経も同意した。

作戦は直ぐに実行された。
三草山に近づいた。
彼の地に住む住民達は家から追い出された。
無人となった家屋敷に火が放たれる。

火の乱舞が始まった。
手に松明を持った武士は次々にそれを投げ入れ、火がともされた矢が次々に放たれる。
炎の乱舞は民家に留まらず、木や草にまでにも及ぶ。

山は夜とは思えぬ不気味な輝きを放つ。

一方この炎をみた平家方は動揺した。
一同はまず思った。
━━ 早い!
と。

鎌倉勢の来襲はもっと後、と考えていた。
平家方が考えているより早く鎌倉勢が到着してしまった。
土地に詳しいものが案内についているため鎌倉勢の進軍が思いの他早く進んだことを平家方は知らない。

次に浮かんだのは
━━ どうするのか?
そいうことである。
今現在、和睦か鎌倉勢との戦闘か議論を戦わせている最中なのである。

その方針もまだ決していない。

郎党達が指示を仰ごうとするが、小松一族の公達たちの意見がまとまらず命令が中々下されない。
そうしているうちに炎がどんどん近づいてくる。

浮き足立った者達は早々に陣を離れた。
それを見た者達も後を追うように陣を離れる。

議論に熱中していた公達たちも自分たちの身の処し方を考えなくてはならなくなった。

小松一族の公達たちはそれぞれ自分たちの信じる道を選んだ。
資盛、有盛、忠房は播磨国高砂へ向かい舟に乗っておのおの思い思いの方向へと去っていた。
資盛はその後一門に復帰したとも、筑紫に向かって彼の地の平貞能と合流したとも言われる。
忠房は紀伊国へ向かった。
一方兄たちが船出したのとは対照的に末弟の師盛は福原に戻り一門に合流した。
師盛はこのときまだ十四歳だった・・・

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百四十四)

2009-12-27 22:26:35 | 蒲殿春秋
一方三草山の平家陣営においては議論が噴出していた。

このまま三草山で鎌倉勢を迎え撃って一門に恩を売って平家内部での小松一族の存在感を確保するか
鎌倉勢と和睦して三草山を通らせて院に帰参を申し込むか
との論議がいとまない。
小松一族の中で最も年若い師盛は一門への帰順を強く主張する。
一方最も後白河法皇に最も心を寄せる資盛は和睦を主張する。
他の兄弟たちは固唾を呑んでその論議を見守る。

師盛は言う。
「院に帰参など。我々が都落ちしようとしたとき誰もわれらを院にとりなしてくださるものなどいなかったではないですか。」
資盛は答える。
「しかし、今院の方から我が小松一族に帰参を打診しておられる。
院のお心を信じてみるべきなのではないか。」
師盛は資盛をにらむ。
「では、われらを院にとりなしてくださるものがいるとでもいうのですか!」
資盛は不敵に微笑む。
「それが、いるのだ。」
資盛はそっと文を一通取り出した。

それは彼等の妹または姉にあたる女性からの文である。
その姉妹は甲斐源氏の一人秋山光朝の妻となっている。
「此度の寄せ手の鎌倉勢に甲斐の者達が加わっているのはそなたたちは存じておろう。
その甲斐の者達はわしらとは縁が深い。その甲斐の者達が院にとりなしてくださるそうじゃ。」
一同はその文を奪い合うようにして読む。

「院に帰参しよう。所詮この一門の中にわれらの居場所はない。」
資盛は静かに言う。

その時三草山の陣の周りの色が急に赤く染まり始めた。
三草山の近くで炎があちらこちらにきらめいている。
その炎の数は急速に数を増していった。そして新しい炎は段々こちらに近づいてくる。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百四十三)

2009-12-26 05:19:29 | 蒲殿春秋
その頃、丹波国に入った源九郎義経と安田義定、そして多田行綱に率いられた軍勢は
土地の案内のものを連れて三草山へと向かっていた。

休息の間義経に土肥実平は耳打ちをする。
「伯〇(老+日 ほうき)国は今大変なことになっているようですな。」
実平はここでにやりとする。
「さよう、都の方々から様々な知らせがいっているようですからな。
今回の御子にお味方された者達は院の覚えめでたからんと張り切っておられるようだ。」
義経が中原親能に命じて西国各所に文を発っさせた。
在地で平家に反抗したものの名を院に奏上するそしてそのお働きは院に奏上されるであろう、とその文には記されている。
ことに伯〇(老+日 ほうき)国で挙兵した院の御子と称する者の活動は活発である。その勢力はいまや伯〇(老+日 ほうき)国半分を押さえ隣国の美作国まで影響を及ぼそうとしている。

院の後ろ盾があれば安徳天皇を奉ずる平家に反旗を翻しても謀反人にはならない。
在地の豪族たちにもそのような計算もある。
反乱は伯〇(老+日 ほうき)国だけではなく西国各所に起きている。
平家に従軍している西国の豪族達も自らの本領のことが気がかりで帰国することを願っているものが後をたたない状態になるのことがたやすく予想される。事実福原の兵は日に日にその数を減らしているという話も聞いた。

在地豪族たちの争いは平家がいる播磨国や丹波国でもあった。
その国における平家の勢力伸張によって平家に近いものたちから圧迫されていた豪族もある。
その豪族達が今回の鎌倉勢の進軍の案内役を買っている。

休息も終わり義経たちは三草山を目指す。

その行軍は夜を徹して行なわれた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百四十二)

2009-12-25 21:07:00 | 蒲殿春秋
敵の主力が来るであろう生田口にはもっとも多くの兵を備えさせる。
その兵を指揮するのが総帥平宗盛の弟知盛と重衡。
他に一の谷口と山手口からも攻めてくることが予想される。
一の谷口は故清盛の弟忠度、山手口は清盛も弟教盛の嫡子通盛が大将軍となることと決した。
そして東から一の谷口、山手口をめざして来るであろう道の要衝にある三草山にも
進路を塞ぐべく兵を置くことにした。
その三草山には宗盛の異母系重盛の子らが当たることとなった。

二月四日福原において故清盛の法要が行なわれた。
その法要が終わるとすぐに臨戦態勢がしかれ将たちは残っている兵を率いて各配置場所へと向かう。
安徳天皇と三種の神器は海上に浮かぶ御座船へと移され、海上で宗盛や教盛らに護られることとなる。

小松一族と呼ばれる重盛の子らも三草山に向かった。
その小松一族の中には不満がくすぶっていた。
父重盛の生存中から清盛やその妻時子そしてその子宗盛とはあまりうまくいっていなかった。
重盛がなくなる頃にはその亀裂が決定的なものになっていた。
だが、それでもなんとか一門に合わせる努力をしていたがどうしても時子たちと溶け合うことが出来ない。
平家の都落ちに際しては平頼盛が行なったのと同様に都に留まりたかった。
だが後白河法皇との接触がうまくいかずやむを得ず一門と行動を共にする羽目になっった。
そのような状態であるから平家一門の中での小松一族の孤立感は深いものがある。
そこへもってきて今回三草山へ行けと言われた。
福原からは離れた場所にある。
この場所が彼等の孤立感をさらに深めた。

宗盛からは無理しなくても良い、敵の足止めをして時間を稼いでくれればそれで良いと言われた。
しかし、この場所は真っ先に敵と戦わなくてはならない最前線である。
主力は知盛らが率いる生田口に付けられ、小松一族の郎党以外あまり兵も付けられていない。ここを落とされたら敵に囲まれて自分たちは殲滅させられてしまうという恐怖感も起きている。

━━ 我々は捨石にされた。
密かにこのような想いを抱く。

そこへ一通の文が来た。
資盛宛てである。
後白河法皇からの文であった。
資盛はかつて何度も法皇の夜の床に召された。
その恋情は未だに冷めやらない。

その法皇からなにやら記された文が来たのである。

資盛は食入るように文を見つめていた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百四十一)

2009-12-22 05:54:44 | 蒲殿春秋
範頼率いる大手軍主力は播磨国に入った。
先に播磨国に入っていた梶原景時と生田攻略について話し合う。
景時から生田口の様子が語られる。
生田に向かう場所すべてに柵が作られ馬が通りにくくなっていること
敵の兵の多くが生田口に集まりそうなことなどがを語られた。

そして範頼にまたあることを語った。
「九郎御曹司がおっしゃていたことはやはり事実でござった。」
と。
九郎義経は、福原から兵が減っていると諸将たちに言っていた。
西国で平家に与する武士たちが福原にいる間に、それと対立している在地豪族たちが蜂起した為に
福原を去って本領に戻る武士達が後を絶たないというのである。

景時は続ける。
「伯〇(老+日 ほうき)国では院の皇子と称するものが反平家を掲げて兵を起して
国半分を領しているといいます。美作国にも攻め入ったと・・・
また淡路では、故六条判官(源為義)の孫と称するものが兵を起したとも。
われらにとっては良き話ですな・・・」

確かに良き話である。
平家も鎌倉勢の主力が生田口から来ることを予測している。
兵の多くが生田口を固めているであろう。
生田口では大軍と大軍が正面からぶつかる正攻法の戦いが展開される。
しかも街道沿いで平地が開けているため軍勢の行く手を阻む自然物は何もない。
こうなると軍備に大差のない当時勝敗を決するのは兵の多寡ということになる。

これまでの話では平家の軍勢が多数と聞いていた。
しかし、兵の離脱が進むとなれば兵力の差は少なくなる。
これは鎌倉勢にとっては真に「良き話」となる。

ついで範頼と景時は具体的な陣立てと戦闘の方法について話すため諸将を集めることにした。

一方福原にある平家の将たちは困惑していた。
安徳天皇を奉じて都に戻らんとしていた平家が滞在する福原から兵をまとめて引き上げるものたちが後を絶たないのである。
彼等は在地の動向が気になって仕方が無い。
そこへきて都との「和平」の噂が乱れ飛んでいる。
和平ならば長居は無用とばかり多くのものが福原を去っていく。

かつて差し出された名簿の束をみつめながら平家の将たちはため息をつく。
そこへ都から軍勢が出立したとの話が舞い込んできた。

和平ではないのか?
と平家の将たちはいぶかしがる。
そして困惑がつのる。
兵の数がどんどん減っている。そこに鎌倉の軍勢がやってくるのである。
和平ではなく戦いになるのかもしれない。
ならば戦わなくてはならない。兵の数が減ったとしても。
平家側でも軍議が行なわれた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百四十)

2009-12-21 05:43:04 | 蒲殿春秋
寿永三年(1184年)一月二十九日源範頼は大手軍を率いて西国へと出立した。
先に西へと向かっていた軍目付梶原景時は摂津国に入りその沿道の住人達から
人夫を徴収し、また兵糧を徴収しようとした。
だが、飢饉の爪あと残る畿内において兵糧の徴収と働き手である男達のを連れて行かれるは大きな負担になる
抵抗する住人達と鎌倉勢との間にひと悶着が起きた。
が、坂東から用意した兵糧が底をつきはじめ平家との戦いに勝つ為に工作兵の数を増やしたい鎌倉勢は住民たちの抵抗を押し切り兵糧を奪い取りさらに男達を連れて行った。

一方平家側も鎌倉勢の到着に備えて近隣の住民達を徴収する。
そして、戦に備えて生田口の周りを海岸近くから山の裾まで防御の柵を築き始める。
この時代の軍の主力は馬にのった武士である。
その乗る馬の進行を妨げる為に逆茂木などの障害物を築き進行を防いでいる間に矢を射掛けて武士や馬を殺害するのである。
この柵を作る為に近隣の住民達が工作兵として徴収されたのである。
山すそから海岸まで隙間無く作られた柵。
その海岸の先には多くの船が浮かんでいる。

そして、物見が放たれ東からの動きが始終平家首脳部に知らされる。

一方鎌倉勢も物見を放ちこの平家の動きを捉える。

範頼が西へと向かったのと同じ日、搦手大将軍源義経と安田義定は都の丹波口にあった。
その率いる兵はさほど多くはない。
数日間彼等は都に程近い大江山に滞在した。
この滞在を都の人々は不審に思った。
だが、この大江山にいる間に搦手軍は大いなる変貌を遂げる。
いつの間にか軍勢が増えていたのである。
彼等には新たなる味方がついた。
摂津国住人多田行綱が召集した摂津国の武士たち、そしてその他畿内の武士たちである。
その摂津国住人たちに先導されて義経ら搦手軍は丹波国へと向かう。

一方都では未だに和平派が戦闘回避に向けての動きを止めない。
和平の使いを出す出さないで公卿たちが未だに揉めている。
この都の動きが福原にも伝わり、和平か戦闘かの平家の判断を鈍らせている。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百三十九)

2009-12-15 06:03:01 | 蒲殿春秋
宣旨が下されて後、義経の宿所に院使や公卿たちの使いが次々と訪れた。
彼等は口をそろえて言う。
「三種の神器と先帝(安徳天皇)を無事に都にお戻しするように。」
特に
「三種の神器」に関しては口うるさいほどである。

範頼の元にも養父藤原範季から書状が届く。
範季の主九条兼実は三種の神器の安全を第一に考えている。
兼実はその安全の為に和平を推進していた貴族である。
一方後白河法皇は武力による平家追討を図っているがその目的はあくまでも
三種の神器を取り戻すことにあるという。

院や公家たちが三種の神器にこだわるには理由がある。
三種の神器が皇位の証でありその三種の神器は安徳天皇と共にある。それにより都にいる後鳥羽天皇の正統性が損なわれている
そして今三種の神器が後鳥羽天皇の側にないという状態が都の人々を困惑させている。
昨年践祚した後鳥羽天皇であるが、未だに即位の儀式は行なわれていない。
今年中に即位の儀式を行なわなければならない。
その即位の儀式には三種の神器がなければならない。

それは単なる慣例ではない。
平安時代の政治は行政も司法も立法も行なうが、その一方で神事を行なうのも政治の大きな部分を占める。
神事である祭(マツリ)と後世の人が認識する政治の部分が分離することなどこの時代には考えられることでは無い。祭政一致こそこの時代の当然在るべきマツリゴト(政)の姿なのである。というより最初にマツリありきなのである。
そのマツリ=神事を主催するのがスメラミコトたる天皇である。
神事以外の政治は院が廷臣たちに指示し、また廷臣が院に決済を仰ぐことができる。その後院の意思に基づいた陣定の決定が行なわれそれを幼帝と摂政に奏上し摂政が天皇の代理として決済していることも少なくない。
しかし、神事は必ず天皇が行なわなければならず上皇といえども代行することはできない。ましてや臣下たる摂政関白は一切触れることはできない。

天皇が不在ならば神事は滞る。神事が滞れば国は神から離れやがて見離される。
神事の滞りは国の大事に関わるというのが当時の常識である。

その神事を行なう唯一の方たる天皇の証が三種の神器なのである。神代の昔の天照大神にまつわる鏡の伝説から始まる三種の神器・・・
三種の神器は常に天皇の側近くになければならない。
ましてや天皇が神と寝食を共にする大嘗祭などの儀式を控えた即位の礼に三種の神器が無いなど考えられることではない。

単なる権威の証であるならば三種の神器はこうも問題にはされない。
神器は神に繋がる天皇にとって必須の存在なのである。
国を守る神という存在を信じている当時であるからこそ三種の神器のある所が問題にされるのである。国家の大事なのである。

後鳥羽天皇を奉ずる廷臣たちの多くは三種の神器の無事なる帰還を求めている。
鎌倉にいる源頼朝も神器の大切さを十分に承知している。源頼朝もまたこの時代に生きている男なのである。
しかし、安徳天皇の正統性を主張したい平家にとっても三種の神器は大切なものである。そうは簡単に都にいる人々に渡すことはないであろう。

この三種の神器の奪還こそ追討軍たる鎌倉勢にとって最大の難所となるであろう・・・

そして「三種の神器」の存在がこの後の平家追討で大きな意味を持つことになるのである。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百三十八)

2009-12-13 07:10:15 | 蒲殿春秋
軍議が終わると出兵に向けての動きが始まる。
義経らは都に戻った。大手軍は先発隊が西へと移動する。
多田行綱は摂津国の武士たちの動員を呼びかけるべく摂津国へと戻る。
その他畿内の武士たちもそれぞれに大手軍搦手軍に従軍の意を伝えるものも現れた。

そのよう折、在京中の源義経が都に派遣されたある平家の使者を捕えた。
都の貴族の中には平家と連絡をとっているものもある。

その使者を尋問する義経。
するとその言葉の端からある事を知った。

福原にいる平家の軍勢に変化があるというのである。

念の為義経は西国から都に上る人々を何人か呼び寄せ福原の様子を尋ねた。
彼等の話によると確かに福原から兵の数や舟の数が減っているようなのである。
福原から西へと去っていくものが後を絶たないらしい。

さらに福原より西から来たものも集めた。
すると淡路、伯〇(〇=老の下に日ほうき)、讃岐、伊予などの西国で兵を起したものがあるという。
近く福原から兵がやってきて戦乱になるだろうとの噂もある、と。

義経は考えた。
在地豪族間で紛争のない場所などない。東国もそれは激しかったが西国も同様であろう。
西国の豪族で平家に従って福原にいるものたちは平家の帰京の際に功績を立てて
平家の後ろ盾を得て在地における力を拡大しようと図ったのだろう。
だが、平家は福原に留まって中々都に入らない。
福原滞在が長引いただけ本領を離れて平家に従軍する期間が長引く。

その隙に平家に従軍した者たちと敵対する勢力が蜂起したのであろう。
さらに、義仲を破った鎌倉勢の存在が蜂起したものたちを後押ししたのであろう。
その蜂起はそれを鎮圧する為に平家に従軍したものたちを国に戻らざると得ない状態へと追い込んだのだろう。

義経は鎌倉から付き従ってきた中原親能に何事かを告げた。
親能は頼朝に仕える文官であると同時に都の公家中納言源雅頼の家人でもある。よって親能には都に知り人が多い。
その親能の人脈を使った。
数刻後都から幾人かの人々が西を目指して走り去っていった。

やがて義経の都の宿所に兄範頼が現れた。
その二人の元に勅使が現れる。

その勅使を迎え入れた範頼と義経の元に「宣旨」が下された。
「応に散位源朝臣頼朝をして前内大臣平朝臣以下党類を追討せしむべき事。

右左中弁藤原朝臣光雅を伝へ、左大臣が宣する。勅を奉る。
前内大臣(平宗盛)以下党類、近年以降専ら邦国の政を乱る。
皆これ氏族のためなり。遂に王城を出て、早く西海へ赴く。
なかんずく山陰山陽南海西海道の諸国を略し、偏に乃貢を奪取す。
これが政途を論ずるに、事常に絶えたり。よろしくかの頼朝をして件の輩を追討せしむべしといへり。」

それから土肥実平、梶原景時、安田義定らも義経の宿所に集まり福原の平家の矢合わせ(戦闘開始)は二月七日と定められた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ


蒲殿春秋(四百三十七)

2009-12-07 22:26:49 | 蒲殿春秋
近江に陣を張る範頼の元に今回の出陣に関する軍議が開かれることとなった。
集まったのは、範頼、義経、土肥実平、梶原景時、そして安田義定。
この坂東から来た面々に加えて摂津国住人多田行綱も加わる。

最初に都に残る人々がいることが確認される。
甲斐源氏の一条忠頼と加賀美遠光が都に留まり、都の警護をすることとなった。

ついでいかように福原に攻め寄せるかということが議題に上る。

その福原についてそこの地勢に明るい多田行綱が説明をする。

「福原に入る入り口は三つござる。生田、一の谷、そして山の手。」
行綱は図面を広げて説明する。

「この三箇所から同時に攻め寄せるがもっとも上策かと存ずる。」
その説明に将たちは一斉にうなずく。



「この生田は山陽道に沿いにある。故に大軍を率いて行くには最も都合が良い。
一の谷、山の手は山間の道を抜ければ回りこめる。
ただし山間の道ゆえに大軍が通るにはいささかの支障がござる。
よって、生田と同刻に矢あわせをするためにはあまり多くの兵を引き連れることはできぬ。」
この話にも一同はうなづく。

「そしてもう一つ、この山の手、一の谷に進む山間の道の要衝にはすでに平家が陣を張っていることが考えられる。
山の手、一の谷に行くためにはここを通り抜けなければならぬ。」

図面の「三草山」と記された場所を多田行綱が指差した。
「搦手はこの三草山を落とさねばならぬのだな。」
と誰かが言った。



その後しばらく軍議は続いた。

この軍議でまず陣分けが決まった。
生田口を目指す大手の大将軍は蒲殿源範頼。その軍目付には梶原景時。
大手には多くの坂東の武士がつき大人数で進軍する。

搦手はまず三草山を目指しその後二手に分かれる。
一つは、甲斐源氏安田遠江守義定が率いて山の手口をめざす。この山の手口に通じる道は難所が多く道も分かりにくいので
地理に明るい多田行綱が同行することになった。
そしてもう一つはさらに西へと迂回して一の谷口を目指す。
その一の谷口を率いるのは源九郎義経。その軍目付には土肥実平がつく。
この搦手には、土肥、三浦といった相模の武士そして乞うて搦手に回った武蔵の小豪族
そして新たに鎌倉勢に与力した畿内の武士達が従うことになった。

そして、具体的な矢合わせの日は、正式な宣旨の発令を待ち追って定めることとした。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ