時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

同年生まれでもイメージ違う

2008-07-30 21:35:41 | 源平時代に関するたわごと
ここのところ多忙と夏ばてで更新がすっかり遅くなっております。

さて、歴史上の人物の生年を並べてみると意外な人が同い年でびっくりすることがあります。
私が一番驚いたのが

1138年生まれの二人
平重盛と北条時政です。

私の中では、(本当はこんな区分けの仕方をしてはいけないのでしょうが)
重盛は「平安時代の人」、時政は「鎌倉時代の人」なのです。

鎌倉時代とはなんぞや、平安時代とはなんぞやとか、鎌倉幕府の成立はいつなのかとか、荘園公領制とか色々な本を読んでいるとこの時代区分というもののの捉え方が本によってまちまちで一律ではないのですが、私のイメージでは平安時代と鎌倉時代はやはり時代がひとつ違うと感じてしまうのです。

重盛は平安時代に都で生まれ、都で育ち都で活躍し、平安時代(しかも治承寿永の内乱以前)のうちに若くして生涯を終えます。
一方時政は、「平安時代」には生まれており、娘の政子が大恋愛をして源頼朝と結婚するころはまだ確かに「平安時代」なのですが、婿の頼朝が挙兵をして鎌倉殿になるというあたりはもう「鎌倉時代」に突入している感があります。
そして、なによりも時政が活躍したのは、自分よりも多少若い婿殿が死んでから後のことなので、時政は(私から見ると)まさしく「鎌倉時代」の人なのであります。

同じ年なのに、若いうちに活躍して若いうちに没した重盛と老年という頃に大活躍した時政が同じ時代の人物とは中々捉えにくいものがあります。

同様に興味ある同年生まれの人物が1147年生まれに4人います。

源頼朝、平宗盛、和田義盛、一条能保
です。

平宗盛は平家最後の総帥でまさしく「平安時代」の人物と私の中では認識されています。

一方和田義盛は三代将軍実朝の頃まで頑張りますから、私の中では明らかに「鎌倉時代」の人物です。

一条能保(頼朝の姉妹の夫)はあくまでも都の貴族ですが、この時期の都は鎌倉初期の都の文化の成熟期に差し掛かっているので(絵画なども盛ん。もう少し後に藤原定家などが活躍を始めます)、平安時代と鎌倉時代にまたがる貴族というイメージがあります。
どこかファジーですが、強いて言えば「院政期の貴族」というべきかも知れません。(後鳥羽上皇まで狭い意味の院政期に含まれる可能性もありますし)

自分の中で一番区分できないのが頼朝です。
伊豆に流罪になるまでの頼朝はまぎれもなく「平安時代」の人ですが
それ以降は「鎌倉時代」に入るのかといえばそうとは言い切れないような気がします。挙兵以降の頼朝にもまだ多少「平安ぽい」ところもあり
かといって頼朝抜きでは「鎌倉時代」が成立しないのでやはり頼朝は「鎌倉時代」の人でもあります。
能保同様両方の時代に関わっているのですが、鎌倉殿は「院政時代の人物」という枠には押し込められません。

というわけで

平宗盛 ー 平安時代
和田義盛ー 鎌倉時代
一条能保ー 院政時代
源頼朝 - 区分不能

この4人は同年生まれのはずなのに私の中では別の時代人のイメージに分かれてしまっているのです。


蒲殿春秋(二百八十六)

2008-07-27 06:43:43 | 蒲殿春秋
源頼朝は何通かの書状に目を通していた。
一通は『秘策』が記された小山朝政からの書状、もう一通は下総の住人下河辺行平から志田の動向を知らせる書状、
さらに、一族の中で優位に立とうとしている足利忠綱に対して強烈な反感を抱いている忠綱の同族佐野基綱からの書状。
彼らは、志田が蜂起した場合必ず志田に反旗を翻す、ということを表明している。

そしてもう二通の書状が頼朝の手元にある。
一つはかつて独立した武家棟梁として上野にあり、その娘である義平未亡人を擁して頼朝の南坂東の優位を脅かした新田義重からの書状、
そして、その義重からの書状に添えられた一通の書状。
義重のもう一人の娘婿であるその男からの書状をみて頼朝は大きく頷いた。

━━ あの男とそろそろ本気で向かい合わなくてはならないな。

頼朝は、北陸に大きく勢力を延ばし、北坂東にも無視しがたい影響力を及ぼしている一人の男のことを思い起こした。

━━ それにしても、新田や平賀はよほどあの男が目障りなのだな。

独立した武家棟梁としての地位を捨てて頼朝に臣従を誓い、その協力を得てまで
あの男と対抗しようとしているほどなのだから・・・
そして、未だに頼朝とは同格として存するつもりらしい甲斐の者━━
手に入れかけた南信濃の権限をその男に奪われつつある甲斐源氏にとってもあの男は敵にあたるらしい。

この機会に、その男に一撃を与えてやろう。
頼朝はそのように決心した。



頼朝は何通かの書状を密かに発した。
小山朝政の秘策が活きた場合、この書状の記す内容は大きな意味を持つはずである。
頼朝の書状は身をやつした雑色の手によって運ばれた。
同じ日、大きな荷を担いだ雑色が鎌倉を出た。

その雑色は真っ直ぐに武蔵国吉見荘へと向かった。
雑色は吉見荘にいる範頼に面会すると人払いを願った。
荷の中身は軍を率いる将にふさわしい見事な造りをした甲冑一領だった。
その雑色は甲冑を託すと共に、範頼に頼朝の言葉を伝えた。

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蒲殿春秋(二百八十五)

2008-07-25 06:11:44 | 蒲殿春秋
一通り議論が出尽くした後で、郎党たちの間に主の裁断を望む空気が溢れてきた。
「若殿のご判断は?」
と促されて朝政は初めて口を開いた。
「まずは、志田殿には与力すると返事をする。」
この発言に一同は一瞬ざわめいた。
「そうして志田殿を油断させた隙に、じいの秘策を実行する。
じい、皆に説明せい。」
朝政に指名された老武者は、人々の輪を縮めさせて『秘策』について話はじめた。

その『秘策』を聞いた人々はその効果に疑義を示した。
なるほど、その奇策を用いれば一旦は敵をかく乱することができる。
しかしそれは多数の敵を少数で迎え撃つ際に一時の勝利を得ることができても
やがては数を誇る敵に飲み込まれてしまう策である。
勝敗の行方を大きく左右するのはやはり兵の多寡なのである。

「そなたたちの申すとおり確かにじいの策は僅かな時間稼ぎにすぎぬ。
だが我等が勝利するために時を稼ぐのじゃ。これを見よ。」
朝政は鎌倉にいる母八田局から送られた書状を示した。
そこには鎌倉殿源頼朝の下工作により、武蔵国検校職を有する河越重頼やその他武蔵有力豪族が小山援軍を送る準備をしているとしたためられていた。
しかも、その援軍を指揮するのが鎌倉殿の弟蒲冠者源範頼なのである。
範頼はすでに妻の所領吉見に向かっているとも書かれている。

「おお!」
一同は武蔵からの援軍の期待にどっと沸いた。
鎌倉殿の弟が下野からさほど離れていない吉見に入るという事実が
武蔵豪族の援軍という情報に真実味を帯びさせる。

「それに、鎌倉殿の調略の見事さは武蔵だけにはとどまらぬ。
坂東には、志田や大掾などに取って代わろうと常陸を虎視眈々狙っているものもいる。」
朝政は一同を見回して宣言した。
「とにかく長年の宿敵である足利をこの機会に一気に追い落とす。
皆々良いな!」

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蒲殿春秋(二百八十四)

2008-07-22 05:16:30 | 蒲殿春秋
下野国小山の地で密やかに人々が集まっていた。
八条院領小山荘を預かる小山朝政とその側近たちが一通の書状を前に議論している。
「われらと共に鎌倉の頼朝を討とうではないか」
という内容が書かれた八条院領常陸国志田荘を預かる志田先生義広からの書状であった。

あるものは言った。
「志田と戦うといっても殿が郎党の殆どを都へ連れ上っている現在
下野にいる我等は無勢、今志田の誘いを断ることは出来ぬ、断ればこれを口実に小山に攻め込むは必定。」
だが別のものが言う。
「だが、既に足利又太郎(忠綱)は志田に従う意向を見せたというぞ。
今更我等が志田につけば、足利の下風につくは必定。」
「しかし、下手に楯突いて負けると判っている戦を始めるわけにはまいらぬ。」
志田義広がもたらした書状は小山家中に喧々諤々の議論を持ち込んだ。

その郎党たちの議論を一同の上座に座った小山四郎朝政は黙って聞いている。

鹿島社の問題などで頼朝に対する反感を強めていた志田義広は古くから常陸に根を張る常陸大掾一族と手を結んだ。
常陸大掾一族も元々反頼朝の立場をとっている。
ついで、常陸の隣国下野にも志田義広は反頼朝に加わるように呼びかけを始めた。
これもまた頼朝の挙兵当時から頼朝とは敵対的な関係にあった藤姓足利氏の有力者
足利忠綱へ協力を呼びかけた。
忠綱も八条院領を預かるもの同士という気安さも手伝って、即座に志田義広の誘いに乗った。
ついで、志田義広は藤姓足利氏と並んで下野の竜虎と並び証される小山氏にも自軍への参陣を呼びかけてきたのである。
小山氏は頼朝の乳母を出している家である。
けれどもその一方で八条院領を預かっているもの同士ということで義広とも繋がりがある。

義広は小山氏の足元を見ていた。
当主小山政光が兵の殆どを引き連れて都にいるため下野に残る嫡子朝政が動かせる兵は少ない。
東に志田、西に足利忠綱に挟まれて朝政が独自の立場を取る事ができにくい、ということを見越している。
今の小山を踏み潰すことはたやすいが、蜂起してすぐ余計な手間を取られているうちに鎌倉の頼朝に迎撃体制を整えられては、鎌倉を落とすことは難しくなると判断した、小山に手間取っているわけにはいかない。それゆえに小山にも勧誘の手を伸ばしたのである。
平家来襲に備えて遠江の安田義定に援軍を送り鎌倉が手薄になっている間に鎌倉を襲わなくてはならない。

とにかくも、この義広が差出した書状が原因で小山家中では大議論が沸き起こったのである。

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蒲殿春秋(二百八十三)

2008-07-21 20:22:42 | 蒲殿春秋
それは二十年以上前のことだった。範頼が九歳になってばかりの正月の頃。
とても寒い冬の日の夜中、範頼は乳母に起こされた。
沢山の衣類を重ね着させられて、今まで住んでいた遠江の館をしずかに抜け出した。
声をたててはいけない、今から若君とは呼ばない、これから乳母の実の子として振舞うようにと、出掛けに乳母から申し渡された。

何日も何日も、乳母と共にあちらこちらを彷徨った。
重ね着していた衣が一枚一枚食糧に変わっていった。
実際のところはどのくらい彷徨っていたのであるか今となっては判らない。
いつしかこの寺の前に立っていたことだけは覚えている。

この寺の前で乳母と別れた。それ以来乳母とは会ってはいない。
別れ際、乳母の隣にもう一人女性が立っていた記憶がある。
その女性は誰だったのだろうか・・・

寺の修行は、厳しいがそんなに辛いと感じるほどのものでも無かった。
ただ、急激な身の上の変化が堪えていた。
今まで武将となるべく育てられていた自分が、突然僧になるのだと言われてもピンとこなかった。
何よりも父が既にこの世の人ではない、もう会うことが叶わぬという事実を思い知らされたこと、そして乳母にも会えぬという事が辛かった。

その後長じるに従い、自分の置かれている立場がわかってきた。
父が戦に敗れて謀反人として死んだこと、自分の兄弟たちはあるものは命を落とし
あるものは流刑となった。
処罰されなかった父の子たちは自分も含めてこの先決して日の当たる道は歩くことができない。
自分はこの寺で修行を積み僧として生きていくしかない、
そう思い定めていた。
養父藤原範季に引き取られるまでは・・・

ふと過去を思い感傷的になった範頼。
寿永二年(1183年)の二月を迎えようとしていた武蔵国でのことであった。

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蒲殿春秋(二百八十二)

2008-07-20 06:16:17 | 蒲殿春秋
吉見次郎の案内でその寺━━範頼が幼少の頃稚児として過ごしていた
安楽寺でその日から一行は起居することとなった。

寺の別当が挨拶にやってきた。
別当の顔に見覚えがあった。
範頼が名乗ると別当は懐かしそうに範頼の顔を見つめた。
「吉王・・・・か」
かつての稚児名を呼ばれた。
「はい。ご無沙汰しておりました。」
範頼は上座をかつての師に譲り、自らはその下座に下って頭を下げた。

「それにしても妙な縁よのう。この寺がある吉見にそなたが荘司殿の背の君として
やってくるとは・・・・・おお、そうじゃ!」
師はすっと立ち上がるとかつて弟子であった範頼についてくるように言った。

ほの暗い廊下の片隅の柱に残る墨の跡。
「ほれ、これがかつてそなたが書き散らかした悪戯ぞ。」
確かにそのことには覚えがある。
そのことで師に叱られたことも・・・
「そして、ほれ、これじゃ。」
かつて範頼が描いたいたずら書きのそばに寄り添うようにもう一つ別の落書きがあった。
「これはそなたの内室の所業ぞ。母君の丹後内侍さまと共に当寺にお越しいただいた
幼き時分のことぞ。」
二つの落書きは十年以上の時の差を経て描かれて消え残っていた。
さらに年月を経て今見ると二つの墨の跡が妙に調和している。
「この落書きの主のお二人が長じて夫婦になられて、この吉見を差配なさるようになるとは・・・
御仏のお導きとは言え、縁というものはわからぬものよのう。」
この悪戯をかつて厳しく叱った師もこの落書きを今は目を細めて眺めている。
それもまた不思議なことである。

その夜は、かつて過ごしていた部屋に眠ることになった。
その部屋で範頼は昔のことを思い出していた。

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蒲殿春秋(二百八十一)

2008-07-18 05:36:01 | 蒲殿春秋
範頼出発すの報を聞いた源頼朝はその知らせに満足した。
平家が東海道に押し寄せるかも知れない現在、今までだったら範頼は安田義定を応援すべく遠江に向かっていただろう。
しかし、舅安達盛長の意見を取り入れて武蔵へ行ったという事実は範頼が盟友安田義定よりも舅安達盛長の意見を重んじたことを意味する。
盛長の言葉の背後には当然彼が忠実に仕えている頼朝の意向がある。
つまり今回の武蔵行きは範頼は安田義定よりも頼朝を重んじた行動になるのである。

━━ もっとも、あの生真面目な異母弟が妻の父の意見に逆らうわけはないだろうからな。
という計算も頼朝には当然あった。
当時の親の言葉は絶対だった。妻の両親の言葉も実の両親と同じ重みを持つ。

兄を重んじたというよりは、舅の意見には逆らえなかったという方が実態なのであるが、安田義定よりも鎌倉を重んじたという事実は後々まで残る。
やはり、盛長の娘と縁を結ばせたのは無駄ではなかった、と思う。
その前に来た雑色が持ってきた報告━━出発前に範頼が遠江の方向に使者を走らせたという事実━が少し気に障るが、範頼と安田義定との結びつきは容易には崩せないようであるから、現在の所はこれで満足するしかないであろう。

頼朝は坂東の地図を黙って見ていた。
吉見荘は武蔵国の北方に位置し、下野国にやや近い。
下野国には小山朝政おり、朝政は頼朝に従うという意思を密かに示している。

同じ下野国では小山氏と勢を競い合っている足利忠綱がいる。
彼は、常陸国で不穏な動きをしている志田義広と気脈を通じているらしいという報告は逐次入ってきている。
だが、別の報告も頼朝のもとにもたらされている。
ひそやかに発せられた頼朝の僕たちは、下野におけるもう一つの不和を主君にもたらしていた。

下野の隣国の上野、そしてその隣の信濃。
そこには頼朝に臣従しつつある二つの武家棟梁の存在があった。二つの武家棟梁にも頼朝は連絡を絶やさない。
その二つの武家棟梁の向こうに巨大化しつつあるもう一つの武家棟梁が信濃から越後、そして北陸道全域へと勢力を延ばしつつある。

常陸から信濃に至る道
そこには幾つもの勢力がせめぎ合い、一触即発の状態を孕んでいる。
常陸、下野、上野、信濃それぞれに接する重要な地武蔵国に
弟範頼は向かっている。

戦局がどう動こうとも武蔵に範頼がいる必要がある。
比企家、河越家、足立家といった武蔵の有力豪族の縁に連なる妻を迎えた弟が吉見荘にいれば、北坂東がどのように動こうとも鎌倉の頼朝は次の手をすぐに打つことができるのである。



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蒲殿春秋(二百八十)

2008-07-17 05:21:36 | 蒲殿春秋
範頼が武蔵国吉見荘へと向かったのは、盛長が来た夜から数えて二日後であった。
婚儀から数えると七日ほどしかたっていない。
迎えてばかりの妻を鎌倉に残して、その妻が貰ってばかりの領地へ行くことになってしまった。

一行は鎌倉からひそやかに出発した。
供についてくるのは当麻太郎と吉見次郎、そして舅安達盛長がつけてくれた雑色二名、荷駄の馬、乗り換えの馬、そしてそれぞれの馬の口取りだけである。
表向きは、妻の新領地の視察であるので大掛かりな兵をつれていくわけにはいかない。
盛長から鎌倉は志田先生の動きを何も知らないことになっているので、あくまでも領地視察にふさわしい少人数で、と申し渡されている。

範頼ら一行は、志田先生に対する備えであるということをおくびにも出してはならない。

人数の割りに荷物が大きいのがこの一行の特徴である。
荷駄を積んだ馬が数頭付いてきている。
荷物の大半は食べ物だという。
一行の荷物の手配をした瑠璃が夫の大食いを心配して食糧を大量に積み込んだ結果
このような大荷物になってしまった。

道中範頼はどこからか視線を浴び続けているような気がしてならなかった。
その視線は止むことなく範頼を捉え続けている。
けれどもどこからの視線かはわからずじまいであった。

とにかく、ひたすら歩みを進めた。
武蔵国に入り、吉見荘へと駒を進めていた範頼はこの道を歩むのは初めてではないような気がしてきた。
「吉見荘は間もなくじゃ。」
という吉見次郎の声を聞いたとき、
以前ここを通ったことがあるという気持ちはさらに強まった。

吉見荘に入りある寺を見たとき
範頼は「あ!」と声を上げそうになった。
その寺はかつて幼い頃稚児として過ごしていた寺だったからである。

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暑くなってきたこの頃考えること

2008-07-16 05:42:49 | 源平時代に関するたわごと
暑くなりましたね。
皆様くれぐれも熱中症にご注意くださいませ。

ところで、「吾妻鏡」の元暦四年四月二十日条に
「本三位中将 武衛の御免によって沐浴す。」という記載があります。
当時捕虜となっていた平重衡が鎌倉に到着して頼朝の許可を得て入浴したということです。
当時のお風呂は、「蒸し風呂」でしたからそんなに頻繁に準備のできるものではなかったでしょう。
(年配の方曰く、昔薪でお湯を燃していた頃のお風呂の準備も重労働だったとの事
お湯になっても昔のお風呂の準備は大変だったようですが、蒸し風呂は多分もっと大変だったと思います。)
風呂に入るにもお日柄を選んだり、許可を貰ったりしないと入れなかったこの時代は現代人からみると
入浴というのは特別な出来事だったのかもしれません。

夏の暑い時期、毎日入浴する現代人からみるとどのように過ごしていたのか非常に気になります。
地球温暖化が進んでいなかったでしょうから現代の夏よりは過ごしやすかったかもしれませんが・・・
それに、習慣が違うので汗をかいて風呂に入らないのは気持ち悪いという感覚自体がなかったのかも知れませんが。
(余談ですが、私が子供の頃は気温30度を越える日はそんなに無かったように記憶しています。
35度を超える日が連日来るとは予想すらしていませんでした。)

もう一つ気になることが。
当時は当然着ている全て長袖。
私的な場所にいるときは、スケスケ素材の衣類一枚でくつろいでいたという話は聞いたことがありますが
公的な場所ではそういうわけには行かなかったと思います。
暑いのに規定どおり重ね着をして暑い思いをしていたのではないでしょうか。

それ以上に大変だったと思うのが戦陣における武士たちです。
真夏に戦乱が勃発したら当然甲冑を着て出陣。
そのいでたちは長袖の袖を絞って、裾も絞ってその上に鎧等を重装備。
とっても暑かったのではないかなあ、などと余計な心配をしてしまいます。

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県別対抗

2008-07-14 22:51:00 | Weblog
先日本を一冊衝動買いしてしまいました。

「県対抗 日本史武将列伝」(株式会社ダイアプレス)

です。

古代から戦国時代までの武将の「出身」を県別にまとめてみた本です。
「あれこの人本当にここだっけ?」というような部分が何箇所が見られますが
(例 比企能員が何で神奈川県出身に登録されているのでしょうか 彼の出身は安房(千葉県)または阿波(徳島県)のはずなのですが・・・
平清盛が伊勢(三重県)出身にされているのも何故? なのですが・・・)

各時代のそこそこ有名な武将達が出身県に分類されています。

この本で一番面白かったのが、時代を無視、考証を無視した
「都道府県別戦争」
楠正成(大阪府)vs真田昌幸(長野県)など時代が違う二人が絶対にありえない戦闘をやってのけているのがすごいのです。(しかも楠正成に源義家が援軍につく!)

昔私が大ハマリしたゲーム「スーパーロボット大戦シリーズ」みたいなことを歴史でやってくれているのです。
(「スーパーロボット大戦」とは、マジンガーZやコンバトラーVやガンダムシリーズなどの歴代の人気ロボットアニメのロボットや操縦士たちが一同に会して連合軍となり、敵キャラ連合軍と戦うという内容のゲームです)

その「都道府県別戦争」で一番面白かったのは

源義経率いる京都府 vs 織田信長率いる愛知県

でした。

「宇治川の先陣争い」「一の谷」「富士川の戦い」「保元の乱」「平治の乱」 そして「姉川の戦い」
が京都近郊で同時に起きていたというパラレルワールドが見事に繰り広げられていました。

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