時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百三十五)

2009-11-29 22:41:14 | 蒲殿春秋
一方その頃後白河法皇は一通の書状を目にされていた。
西国にある平資盛からであった。
都落ちしてから数ヵ月後、資盛は後白河法皇に激しい恋情を記した書状を送っている。
これがその書状である。
後白河法皇はかつて資盛を愛した。何度も同衾して夜を重ねた。
その資盛からの書状である。

資盛はその後も密かに何度も人目を盗んで後白河法皇に書状を送っている。
法皇も人を介して返書を持たせた。
その返書には資盛に対する悪しからぬ想いに添えて平家に和議を勧める内容を記したこともある。

━━ 小松一族か・・・
資盛からの文を読んで法皇は、密かに想いをめぐらせた。

平家は一枚岩ではない。
都落ちの時、清盛の弟の頼盛は一門から離脱して都に留まった。
現在の総帥宗盛の兄重盛の子たち維盛、資盛など「小松一族」と呼ばれる人々は
都落ちの際都に留まろうとしたがそれが出来ずに仕方なしに一門に従ったという経緯がある。
小松一族は院近臣と縁を結び平家一門の中でもとりわけ後白河法皇寄りの立場を取っていた。それだけに、法皇と絶縁に追い込まれた平家一門の中には小松一族を白眼視するものもあるという。

重盛の死後傍流に追いやられた小松一族。
そして都落ちをした後は、彼等は一門の中で肩身の狭い思いをしている。
現に重盛の子清経は自殺したとも言う。それだけ一門のなかでの孤立が深刻化していたのであろう・・・

━━ 小松一族の孤立・・・そこにつけこむ余地があるやも知れぬ・・・
法皇はそのようの思し召しになれらたかも知れない。

法皇は近習を呼び寄せた。
その近習は夜の闇に溶け込みいずこかへと向かっていった・・・

一方源範頼はある人物と対面した。
その人物とは惟宗(島津)忠久。範頼の妻の異父兄である。
忠久は、南都興福寺があくまでも反平家を貫く方針であるという知らせを持ってきた。
その知らせを聞いた範頼は改めて南都勢力に鎌倉勢への援護を依頼したいと申し出た。
その趣旨を受け止めた忠久は興福寺のしかるべき人物を近くここへ呼び寄せることを主に頼むといった。
惟宗忠久は摂政近衛基通に仕えている。
興福寺は藤原氏の氏寺である。当然藤原氏長者である基通の意向は強く反映されるだろうし、基通は南都に多くの人脈を抱えている。
範頼は基通ー忠久の縁を頼りに南都へ働きかけを行なっている。
南都勢力が鎌倉勢力に味方するならば畿内の平家家人に対して牽制をかけることができる。

そしてもう一人働きかけたい相手がいる。
その為に人を紹介してもらうことを養父藤原範季に頼んでいる。
働きかけたい相手とは比叡山延暦寺にいる慈円。
比叡山全体に並々ならぬ影響力を有する僧侶である。
慈円は右大臣九条兼実の同母の弟。
範季は兼実にも仕えている。その範季であるならば慈円に連なる人物を誰かしら知っているはずである。
そして慈円に鎌倉勢への援護を依頼するのである。
無視できないほどの兵力を有し、畿内にも領地とそこに住する武士を従えている比叡山を是非味方につけておきたい。
比叡山に強い発言力をもつ慈円に繋がるものに是非とも接触したい。
比叡山も味方につけばこれもまた平家家人への牽制に繋がる。

さまざまに働きかけを行なっているその時、範頼の元に軍目付梶原景時が現れた。

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蒲殿春秋(四百三十四)

2009-11-28 05:57:18 | 蒲殿春秋
もう一つの書状は盟友安田義定からである。
義定は、平家を追討するにしてもしないにしても鎌倉方の方針に従うという意思を記している。

そして最後の書状を開く。
弟義経からのものである。
義経は入京後都の武者たちとしきりに接触を持っている。
特に義仲が都に在る間、義仲と不仲になっていた武士達との親交を深めようとしている。

その中で有力な二人の武将に義経は好感触を感じているようである。
一人は以仁王と共に滅んだ源三位頼政の孫源有綱。
摂津渡辺党を率いる摂津源氏の一員である。
摂津そして畿内に勢力を扶持している。
摂津は都と福原の間にある。
そしてもう一人、摂津でもより福原に程近い所に勢力を持つ多田行綱。
彼は摂津国筆頭の武士とも言える存在で彼の摂津国における影響力は強い。
この二人が鎌倉勢に対して好意的なのである。
上手くいけば平家攻めになった場合協力してくれる可能性が高い。
そのように義経からの書状は記している。

範頼は書状を閉じた。

平家とは和議を結ばない可能性が高い。
ならば平家攻めである。
そしてその中心となるのは当然鎌倉勢である。
その鎌倉勢を率いるのは当然自分と義経になるであろう。
戦うからには勝たなければならない。

勝つためにはいかにすべきなのか。

それを考えなくてはならない。

範頼の眠れない日々が始まった。

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蒲殿春秋(四百三十三)

2009-11-27 23:06:37 | 蒲殿春秋
一方その頃近江国にある源範頼は複数の書状に目を通していた。
最初に目を通したのは、軍目付梶原景時からのもの。
その書状には平家の優勢ぶりと、平家を追討するか和議を結ぶか朝廷の方針が定まらないことが記されている。
次に目を通したのが養父藤原範季からの書状である。
東国にいたときから範季とは度々書状のやりとりはしていた。
義仲との戦いの前はさすがに書状のやりとりはできなかったが
義仲が討ち取られた今はこうして頻繁な書簡の往復ができるようになっている。
しかし、使者は人目を避けるようにして現れる。
範季は範頼との密かな交渉を知られたくないようなのである。
都の近くにありながらこれでは都にいる養父に会うことも叶わないであろう。

その範季からの書状には、後白河法皇が「平家討つべし」という固いご意志をもっておられることが記されている。
平家との和議を唱える公卿も多いが、法皇がそのご意志をお持ちである以上平家追討の院宣が出される可能性は高いと記されている。
範季は院の近臣である。その範季からの知らせであるからこの法皇のご意志は真実であろう。

範頼は思った。
院が平家と和することはありえない、と。
かつて清盛によって院政を停止された。
そして今回義仲の上洛によって都落ちすることになった平家には同道せず、
平家が奉じている安徳天皇が正式に退位していないにも関わらず後鳥羽天皇を即位させた。
ここまできてしまっていては院と平家との和議はありえないだろう・・・

しかし、この兵力でどうやって平家と戦えというのであろうか?
範頼も自軍の兵力に不安を抱いている。

次の書状を開く。
土肥実平からである。
実平からは一条忠頼の動向が記されている。
一条忠頼は「平家攻めには参戦しない」と先日明言したという。
ただし、都の警護の為に都に残るのは構わないという。
そして、末尾に気になる一文があった。
ここのところ同じ甲斐源氏の秋山光朝(加賀美遠光の子)が忠頼の元に頻繁に出入りしているという。
光朝は平重盛の娘を妻にしている。
 
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蒲殿春秋(四百三十二)

2009-11-25 05:27:38 | 蒲殿春秋
一条忠頼らが義仲攻めに加わったのには理由があったが、平家を攻める理由はない。
一条忠頼が平家追討に加わらないというのは軍の統制の面ではありがたいことであるが、侮りがたい兵数を有する甲斐源氏の戦線離脱は痛い。
追討軍に加わるにしても加わらないにしても、梶原景時、そして土肥実平の二人の軍目付にとっては一条忠頼は頭を悩ませる存在なのである。

一方その頃一条忠頼は都の一角で憤懣やる方ない気持ちを抱えていた。

━━ 鎌倉殿だと。元を正せば流人ではないか!
   それがわし等の上に立とうとして・・・このわしが流人に従えというのか?

━━ 石橋山の戦いでやつが生き延びたのは、安田の叔父が俣野を撃退したからではないか!

━━ やつが八幡太郎の子孫ならば、わしらは新羅三郎の末裔ぞ!

忠頼は心のなかで源頼朝に対して毒づいた。
忠頼は自分と対等と思っている源頼朝が忠頼ら甲斐源氏の上に立とうとしているのが気に入らない。
そして、今回の上洛において忠頼は鎌倉勢に誇りを傷つけられたと感じている。
鎌倉殿代官の範頼の下座に座らされ、鎌倉勢主導の軍議の結果には従えと言う。
今回の出陣は頼朝が院の依頼を受けてのこと、鎌倉勢に同行するからには鎌倉殿に従えという
鎌倉勢の論理に腹立たしい思いをしていた。

━━ 何が軍議ぞ。何が軍目付ぞ。相模の田舎武士が!
その怒りの矛先は、大手軍軍目付土肥実平に向けられた。

そしてもう怒りが湧き上がる相手がもう一人いる。
━━ 大将軍だと!偉そうに。
   遠江を追われて行き場を失ったあれを助けてやったのはわれら甲斐源氏ぞ!
   着の身着のままで甲斐に逃げ込んだ者の分際で!

大手軍大将軍源範頼に対しての怒りである。
土肥実平ほどでないにしても範頼も鎌倉勢の論理に従っている。
一条忠頼からみれば範頼は石橋山の戦いの直後、難を逃れる為に甲斐にやってきた無力な亡命者に過ぎない。
今でこそ鎌倉勢の大将軍ではある。しかし窮地に陥った範頼を助けあまつさえ三河に進出できたのは甲斐源氏のおかげではないかと思っている。

一条忠頼は鎌倉勢に対する深い憤りを感じていた。
その一条忠頼の元に一人の男の来訪が告げられた。
忠頼はその男を迎え入れ歓待した。

都の夜は更けていく・・・・

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蒲殿春秋(四百三十一)

2009-11-21 20:07:42 | 蒲殿春秋
さらにもう一つの問題を抱えていた。
甲斐源氏一条忠頼の存在である。
元々甲斐源氏は頼朝とは別個の独立勢力として挙兵していた。そしてその甲斐源氏の棟梁が武田信義。
その嫡子の座をもぎとったのが一条忠頼である。
頼朝に対して独立した立場をとる甲斐源氏の中でも一条忠頼は頼朝に対しては対等であろうとする立場を強く表明している。
鎌倉勢からみれば反骨心の強い男とも言える。
義仲との戦いにおいても軍議を散々無視し、勝手な軍事行動を起すことも度々だった。
「本当に困ったご仁・・・」
これまで忠頼を散々もて余していた土肥実平は畿内の武士の対応策に頭を悩ましている梶原景時の前で思わずこぼした。
実平にとっては忠頼の扱いは畿内の武士以上に頭の痛い問題なのである。
「困った御仁とは?」
「一条次郎殿のことよ。」
「なるほどな・・・」
色々と話を聞いている景時も実平の気持ちはよく判った。

「だが、一条次郎殿は己の意思で平家攻めには加わらぬやもしれぬな。」
という景時の言葉に実平は一瞬怪訝な顔をしたがすぐに
「かもな。」
と返事をした。
「確かに、木曽攻めと違って平家を攻めても一条次郎殿には得することなど何一つないからな・・・」

一条次郎忠頼などの甲斐源氏が今回義仲を攻める鎌倉勢に力を貸したのは理由があった。
甲斐源氏は甲斐国での挙兵の直後信濃へと攻め入った。
山々に囲まれた甲斐国に本拠地を置く甲斐源氏は物流に便利な海に面した地を欲していた。
その海に面した東海北陸と甲斐国をつなぐのが信濃国である。
その信濃国を手に入れようと甲斐源氏はまず彼の地の制圧を目指したのである。

当初の目論見どおり挙兵直後南信濃を制圧した。
だが、同じ頃挙兵した義仲も瞬く間に信濃を制圧。南信濃は義仲と甲斐源氏双方の影響を受けることとなる。
当初は協調しながら信濃を押さえていた義仲と甲斐源氏の両者だったが、徐々にその南信濃を巡って対立していくようになる。
南信濃の豪族の中にはあからさまに義仲に接近し甲斐源氏に従わないものも増えてきた。
既に駿河、遠江を支配下に治めていた甲斐源氏であったがそこへ続く交通の要衝である信濃国を義仲に抑えられてしまっては東海道と甲斐との交通が寸断されてしまう。
甲斐源氏なかんづく駿河を制圧している一条忠頼、そして信濃への影響力を強めたいと願っている加賀美遠光にとっていつしか義仲は敵対者という位置づけになった。
そのような折に頼朝から義仲と討つ為に軍を上洛させるという話を聞いた。
信濃国から義仲の影響力を排除する好機と考えた一条忠頼らは上洛する鎌倉勢に与力することとした。

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蒲殿春秋(四百三十)

2009-11-19 22:14:24 | 蒲殿春秋
平家攻めか和議か結論が中々出ない中、
都において土肥実平と梶原景時は長いこと話し込んでいた。
二人は鎌倉勢の軍目付である。
「されば、公卿の方々のご意見は和平か平家攻めか未だ定まらず、か。」
実平は景時を凝視しながら口を開く。
「さよう。されど院のお心は平家討伐にあるというのがもっぱらの噂じゃ。」
と景時は答える。
「さようか。では平家攻めの方向に意見が傾くやも知れぬな・・・」
と実平はつぶやく。
困ったというような顔をして二人の軍目付はお互いの顔を見合わせた。

彼等が平家攻めの方向に話が進むのに困惑するのには訳があった。

平家と戦うには東国から引き連れた兵だけでは兵力が心もとないのである。
出立前に起きた上総介広常殺害の余波への懸念、佐竹残党蜂起の心配、そして何よりも奥州藤原氏に対する備えの為に
坂東に相当数の兵を残しておく必要があった。
そのため上洛した人数は坂東に残している兵より少ない。
しかもその軍勢は鎌倉殿配下のものだけではなく、鎌倉勢の同盟軍である甲斐源氏をも加えたものである。その甲斐源氏の兵を足しても兵力的には心もとないものがある。
一方西国で勢力を拡大した平家は数万とも言われている兵を福原近辺に集めているという。

坂東から上洛した兵数は恐らく福原にある平家より少ないであろう。

そしてもう一つの問題があった。
義仲を追討する際鎌倉勢に与力してくれた畿内の武者たちが恐らく平家攻めには協力しないであろうということが
たやすく予想できたからである。
なぜならば、その畿内の武士たちの多くは平家の家人だからなのである。
彼等は主として仰ぐ者を平家から頼朝に乗り換えたわけではない。
昨年の義仲の上洛に伴って義仲に与力した他の畿内の武士達の圧迫を受けるようになっていた平家の家人たちは義仲を攻める鎌倉勢に協力はしたが、その本音はといえばとりあえず義仲とその同意者を撃退したかったという一点だけに尽きるのである。
だから義仲を討つ鎌倉勢に一時だけ同意した。
義仲とその同意者が滅んだその時点で彼等にとって鎌倉勢は用済みとなった。
そして今度鎌倉勢の戦う相手が平家に変更になった場合、その平家家人達は決して鎌倉軍に同行はしないだろう。
彼等には平家に対しての宿意はない。
いや、何代にも渡って主従の関係を築いてきた平家とのつながりの方が深く、平家なかんずく畿内の武士達が従っていた小松系平家(重盛の子供達)が復権してくれたほうが彼等のとっては都合がいいのである。

平家家人の畿内の武士たちの本拠地は都に近いだけあって都近辺で動員できる兵力は決してあなどれるものではない。

平家追討に出かけるということは下手をすればその畿内の武士達を敵に回して戦わなければならないという危険性が伴う。
もし、福原にいる平家を攻めている間に畿内の武士たちが蜂起したり鎌倉勢の背後をついたりしたならば鎌倉勢は危険にさらされることになる。

ついこの前まで心強い味方であった平家家人達は、鎌倉勢が平家を追討することになってしまった場合、今度は鎌倉勢にとってはやっかいな敵になりかねない。

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蒲殿春秋(四百二十九)

2009-11-15 05:30:08 | 蒲殿春秋
義仲が敗れ去った後の都は、ほんの少しの間義仲や彼に従っていた者の処分に追われた。
義仲や今井兼平らの首は獄門に晒され、一軍を率いて河内国に攻め入っていた義仲の乳母子樋口兼光は処刑された。
また、法住寺以降に行なわれた人事は全て無効とされ、摂政師通は解任、前摂政近衛基通が再び摂政の座に返り咲いた。
師通は十三歳にして摂政の座を追われその後二度と政界に返り咲くことは無かった。

これらの戦後処理はきわめて簡潔に迅速に行なわれた。

義仲らの処分に手間隙をかけれない程、この頃の政界はある事を巡って深い混迷に陥っていた。

そのある事とは、未だに三種の神器が平家が奉じる安徳天皇の手元にあり、都に現在ある後鳥羽天皇の側にはないという事実をどうするかということである。

都に残る人々は後鳥羽天皇の正統性を主張し安徳天皇は既に退位したものと見なしている。
しかし正統でなければならない後鳥羽天皇のもとには皇位の証である三種の神器がない。三種の神器は安徳天皇とともにある。
どうしても三種の神器を安徳天皇、いや幼い安徳天皇を奉じる平家一門から取り戻さなくてはならない。

後白河法皇の御所において連日そのことに関して激しい議論が繰り返されている。
先の帝である安徳天皇と三種の神器の安全な都への帰還を優先しようとする者達は
平家との和平を主張し、あくまでも和平による三種の神器の帰還を主張する。
一方、平家との和平を嫌いあくまでも武力行使によって無理矢理にでも神器を取り返すべきと主張して止まないものたちもいる。
主戦派は現在丁度鎌倉軍が都とその近辺に在ることを好機と考え彼等に平家を追討させようと考えている。
和平派は平家が侮りがたい程の勢力を保持して、都に近い福原にいることを警戒している。

和平派と交戦派は政界を真っ二つにしてお互い譲らず中々結論が出ないまま時間だけが過ぎ去っていく。

このような混迷を極める政界とは裏腹に、都の中の人々は新たなる戦の噂におびえながらも久々の平穏を取り戻しつつあった。

都に入った鎌倉軍が都の庶民に対しては一切の狼藉を行なわずまた都の治安維持に尽力していたからである。
鎌倉軍は出立する際、多くの兵糧と物資を携えて都に上っていた。
それゆえ都やその周辺から義仲らがかつて行なったような物資食糧の強奪が行なわれなかった。
また、彼等を指揮する源九郎義経と彼を補佐する軍目付梶原景時によって都の中に入った軍の統制がきちんととれている。
鎌倉勢は都の治安をよく維持している。

都が混乱に陥らなかった最大の理由がもう一つある。
東国から大軍を引き連れて上洛した鎌倉勢の主力が都に入らず、近江に滞在しているからであった。
都に入った鎌倉勢は義経率いる少数の搦手勢と義経の友軍安田義定、そして勢多から義仲を追ってやってきた一条忠頼、大手軍の軍目付土肥実平率いる手勢程度で
他の鎌倉御家人たちや甲斐源氏の一党は未だに近江勢多付近に滞在しているのである。

義仲らが上洛した際大混乱がおきた要因の一つに北陸と東海道から引き連れてきた大軍が一気に都に入ったという部分もあった。

その前轍を教訓に、鎌倉勢は軍の大部分を都の一歩手前に止めていたのである。
近江にいる大軍を統制しているのは蒲冠者源範頼。
範頼の統制の元、近江に滞在する鎌倉勢も略奪等は行なわなかった。
そして彼等が次にどのように動くべきなのか、都の情勢を固唾を呑んで見守っている。
近江で不気味なほど静かな沈黙を湛えながら。

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旧暦の換算にご用心

2009-11-09 22:05:29 | 源平時代に関するたわごと
皆さんもよくご存知のことと思いますが、日記類や軍記物に記されている日付は旧暦の日付なので現在の日付とは異なります。

現在の日付より一ヶ月くらい遅れている場合が多いようです。
しかし、それには当てはまらない年もあります。
前年に閏月があった場合です。

閏月とは、旧暦において数年に一度ある一年に13月ある年の13月目のことをです。
(十三月とは言わず、どこか適当なところに閏〇月というのを作ります。例 閏二月)
この月があった後の数ヶ月の季節の換算は少し気をつけなければならないようです。

さて、鎌倉勢と木曽勢が激突したのは旧暦の寿永三年(1184年)1月20日です。
その日付をwikipediaで調べました。
寿永三年1月1日は現在の暦に換算すると1184年2月14日です。
とするならば、1月20日は1184年3月5日になります。
前年の寿永二年(1183年)に閏10月があったため、寿永三年の暦の前半は現在の暦から一ヶ月半程ずれていることになります。

現在の3月5日ならば、寒さは少し残っているものの、季節はどんどん春に向かう頃といえるでしょう。
「平家物語」諸本の中には、この戦いの日比叡山の雪解け水が琵琶湖に流れ込んでいた為、そこから発する宇治川の水量が多かったと記載している本があります。
確かに、春の到来が早い年であるならばそのような状況も起こりうるでしょう。

また、木曽殿最期の場面で、義仲が深田とは気が付かないで入り込み、そこに張っていた薄氷が割れて馬がぬかるみに足を取られたというように書かれています。
深い田ー水量の多い田んぼの氷が実はかなり薄くなっていて人馬が乗った瞬間簡単に割れる
これも春先によく起りうる現象だと思います。

旧暦とは知りつつも1月と聞くとついつい真冬を想像してしまうのですが、
太陽暦に直すと実は春先。

これはこの戦いだけではなく、色々な事件について考察する上でも気をつけなければならないことであると思わせていただきました。

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佐竹氏の反抗について

2009-11-07 18:54:43 | 源平時代に関するたわごと
前の記事で「源平闘諍録」を取り上げたので今回もこれに触れたいと思います。

さて、頼朝の挙兵後も反頼朝の立場を取り続けていた常陸国(現在の茨城県の大部分)の佐竹氏ですが、この反抗は富士川の戦い(1180年10月)の直後の頼朝軍の佐竹攻め(1180年11月)において終結したと見なされることが多いようです。

しかしながらこの佐竹攻めの際佐竹氏の当主佐竹隆義は在京中、金砂城に籠もっていた佐竹秀義は戦線離脱後逃亡して健在でした。
そして「玉葉」や「延慶本平家物語」の記載によると、佐竹氏はその後数年間時々常陸に舞い戻ってゲリラ的に頼朝に対して反抗していたようなのです。
(金沢正大「治承・文治大乱に於ける佐竹源氏-治承・寿永内乱から奥州兵乱へ-」『政治経済史学』176号177号 1981年1月,2月 川合康 「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」吉川弘文館)

さて、この見解を踏まえつつ「源平闘諍録」を読んでみると面白い記載があるのに気が付きました。
巻七『佐竹太郎忠義、梶原に生け捕られる事』の部分です。

ここの内容は、佐竹忠義が常陸の豪族たちを引き連れて下野に向かい、足利俊綱を語らって頼朝を討とうとしますが、足利俊綱が忠義の誘いを断った為、忠義は常陸国に戻ります。
その後頼朝が十月二十日佐竹忠義討伐に向かいます。その際、梶原景時が忠義を騙して頼朝の前に連れてきます。そしてその直後忠義は殺されます。

↑がその内容です。

この内容は富士川の戦いの後に記されていて、その後前回書いた『上総介頼朝と仲違いする事』に続きます。

読みようによっては「吾妻鏡」に出てくる「1180年11月4,5日」の「金砂城」における佐竹攻めのアレンジに見えなくもありません。

しかし、「吾妻鏡」と照らし合わせると色々な点で不一致が出てきます。
先ず日付の問題。
「源平闘諍録」では、10月20日になっています。
しかし、1180年10月20日は頼朝はまだ黄瀬川(富士川の手前)にいます。
そして「吾妻鏡」の佐竹攻めは「1180年11月4、5日」です。

そして登場人物の問題です。
「吾妻鏡」の佐竹方の主将は佐竹義政、佐竹秀義(隆義四男)です。
「源平闘諍録」の佐竹方の主将は佐竹忠義(隆義長男)。

このように考えると「金砂城」とこの忠義の挙兵は別の時期に起きた佐竹氏の蜂起なのではないかと思えるのです。

つまり、両方とも実際にあった出来事で、時期の違う佐竹氏の反頼朝運動であったのではないかと考えることが可能なのではないかと思われるのです。

そしてもう一つ気になることがありまる。
この忠義が最初に語らった「足利俊綱」
彼は、「吾妻鏡」によると1182年9月に頼朝勢によって討ち取られています。
そして彼の同族の足利忠綱が1183年2月の「野木宮合戦」で敗れ去っています。

この藤姓足利氏と佐竹氏の関係は実際どのようなものであったのか、また頼朝と彼等の関係はどうであったのか色々と考えさせられるところもあるこの記事への俊綱の登場となっています。

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上総介広常と奥州の関係について

2009-11-05 23:51:53 | 蒲殿春秋解説
かなり遡りますが、小説もどきにおいて上総介広常について次のような書き方をさせていただきました。
上総介広常が奥州藤原氏と通じていてそれが広常暗殺の原因の一つになったと。

実はこのように書いたのには理由があります。

「玉葉」閏十月十七日条に
「頼朝の郎党の多くが藤原秀衡の元に向かった。頼朝の郎党たちに頼朝に対する異心を抱くものがある。その内容を義仲の元に送った。」
という内容の文章があります。

また、「源平闘諍録」巻八『上総介、頼朝と中違う事』のところでは
佐竹忠義を討ちそのまま奥州に攻め上ろうとした頼朝に対して上総介広常が反対して上総国に帰ってしまったという記載があります。

もっともこの記載は富士川の戦いの直後ということになっていますが・・・

そのような記載をみますと、上総介広常が何らかの形で奥州藤原氏と接触していた、もしくはそのように頼朝が疑っていたという可能性があったのではないかと思われるのです。

頼朝が中々上洛しなかった理由の一つとして奥州藤原氏と常陸の佐竹氏の脅威が上げられています。
奥州藤原氏がどのようなスタンスでいたかは分かりませんが頼朝の方は相当奥州藤原氏を警戒していたようです。
頼朝に正面きって反攻していた佐竹氏と奥州のつながりはかなり深いものがあるようでしたし。

また、千野原靖方 「千葉氏」 鎌倉・南北朝編によりますと、千葉、上総介などの両総平氏は太平洋沿いの南奥州の豪族との交易があり、馬や黄金をそのルートで入手していた可能性が高いことが示唆されています。
また、「保暦間記」文治五年(1189年)頼朝の奥州出兵の記事(「上総介弘常、泰衡(藤原)二依有所縁、今度奥州ヘモ下リザリケレバ、頼朝奇恠ニ思テ梶原平三景時ニ仰テ打タレケリ)に注目して、従来の海道平氏(太平洋沿い南奥州の豪族たち)との関係のつながりを踏まえた場合、広常が奥州藤原氏と関係があった為に殺害されたとの推定も提示されています。

そのころを踏まえますと、奥州藤原氏と上総介広常は何らかの接触をもっていた、またはその可能性があると頼朝が疑う余地は十分にあると思われます。

そのようなことを考えながら、素人なりの妄想をかなり加味して、上総介広常奥州内通という書き方をさせていただきました。

なお、同じ時期にかかれた越後の城氏に関しては根拠の薄い完全なる妄想で書いています。


参考文献
 千野原靖方 「千葉氏」 鎌倉・南北朝編 (流山書房出版) 1995
 長村祥知 『法住寺合戦について 『平家物語』と同時代資料の間』 京都女子大学 宗教・文化ゼミナール「紫苑」第2号 2004年3月 (紫苑掲載サイト)