時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

玉葉 平安末期の財政難

2008-01-31 05:32:26 | 日記・軍記物
玉葉治承五年三月二十一日条抜粋
「東大寺、興福寺、八省、三ケの大作事、一時に相遇ひ、東西に難あり。水干の損極まりなし。
かくの如き間、秘計及び難きか。(略)金堂巳下、公家の沙汰となし、諸国に宛てられるべき処
東国大略沙汰に及ばず、残るところの国々、多く八省の造作に宛てられ了んぬ。仍って然るべき国無きか。」

とあります。
治承五年は
前年南都炎上で破壊された東大寺、興福寺の復興と都の庁舎である八省の建設
が行なわれなくてはならなかったようです。
さらには、各地で勃発した反乱鎮圧の為の出兵に必要な兵糧米の確保と
一般庶民の飢餓対策の為の食糧確保の施策が必要で
そのための財源確保が迫られていたようです。

しかし、東国は反乱軍に占拠されてそこからの税収は期待できない。
限られた予算で、三箇所の大工事費用やその他を確保しなければならなかったようです。
で、興福寺と八省の造営の費用を当てたら東大寺にはもう回らない、という状況だったようです。

当時は「寺社造営」は国家の一大事でしたから手抜きするわけにはいかない。
しかも各地で反乱がおきて、作物が大不作でしたからより一層神仏のご加護を得るためにも何とかしても東大寺、興福寺の復興はなしとげなくてはならなかったでしょう。
(当時の発想)
後世の人からみれば「ばかげている」と思うでしょうが
「神仏」が大切な時代は、「寺社造営」は「国家存亡」に関わる大事だったのではないかと思われます。

けれども「予算が足りない」という深刻な事態が朝廷を襲っていたのでした。

考えてみれば
「食糧難」「大工事」「戦争」
この三つに対してはどれか一つでもどの時代に起こっても大きな出費が必要とされます。
それが一度にやってきたのですから、朝廷の高官はその対応にどうしたらよいのか苦悩したというのは容易に察しが付きます。
(しかもその頃は何もなくても慢性的な財政難でした)

その後、都は食糧難に悩まされ餓死者続出、各地の反乱には有効な手立てを打つことができず、寺社に祈願しようとしてもそのために「寄進する荘園」がもうない
という困った状態に追い込まれていくのです。

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玉葉 「六韜」「三略」獲得!

2008-01-26 23:02:57 | 日記・軍記物
「義経記」や歌舞伎などの古典芸能の「義経物」などでしばしば出てくる「六韜」「三略」
これがなんと「玉葉」に出てきました。

九条兼実が「六韜」または「三略」と伝えられる書物の写しを貰って
大喜びしている記事があるのです。

「玉葉」治承五年二月二十三日条
「(前略)夜に入り外記大夫師景参上す。素書一巻を持ち来たる。先日の召しに依るなり。今日吉曜に依り持参の由申す所なり。この書相伝の人甚だ少し。先年祖父師遠白川院より下し給ふ。深く持って秘蔵し、伝えてかれの家あり。余この由を聞き、一見を加ふべき由を仰す。子孫と雖も、容易に伝受すべからざる由、師遠起請を書く。仍つて恐懼甚だ多し。
進退惟谷まり、竊に祈請を致す間、夢中許すべき告げあり。
仍つて手づから自ら写功を終へ今日持参するところなり。霊告厳重、殆ど感涙を拭う。
余謹んで衣装を正し以てこれを読み合わす。
張良一巻の書即ちこれなり。黄石公圮上に於いて子房に授け、これを登師傳に伝ふる書なり。
而るに余不慮にこれを得たり。豈悦ばざるべるべけんや。抑張良一巻の書、或は六韜と称し或は三略と謂ふ。(後略)」

この後延々とこの「六韜」「三略」という書物について書いています。

「兵法の書」としてある意味有名(と言われている)なこの本を入手して兼実は涙を流して大喜び。
この本は持ち主である師景の家にとっても門外不出の「秘伝の書」。
「武士」という範疇にはどうしても入らないはずの兼実にとっても
入手して涙を流してうれしがり
読むのにわざわざ着替える
というのは興味深い記事であると思います。

また後世この「六韜」「三略」がどのようにして義経と結びついたのかということも
探ってみると面白いかもしれません。

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玉葉 ご宣託

2008-01-22 05:55:09 | 日記・軍記物
ここのところお話がオカルトめいていますが
またまた、その手の話です。
昨日書かせて頂いた「鉄兜」の話と同じ頃
春日大社のご宣託がおりていたようです。

内容は
「八条二品(平時子)の女房、その家に於いて春日の若宮託せしめたまひ、
種々の託宣あり。平家滅亡すべき由なり。恐らくこの事、同女房を以って、
春日に参らしめ、又宝前に於いて神託あり。即ち鹿島賢所(小神なり)の託宣と云々。大明神鹿島に帰らしめ給ふべき由、御使なりと云々。去る朔比のことと云々。又三笠山大なる光物ありと云々。」(養和元年九月十七日条より抜粋)

自己流に訳してみると次のようになります。
「平時子に仕える女房に春日若宮の宣託が降りました。
平家は滅亡します、との事。恐らく春日に参詣した女房に
その宝殿で神託が降りたものだと思われる。鹿島賢所の御宣託とも。
大明神が鹿島にお帰りになるので、そのお使いに鹿島賢所がいらしたとの事とか。
また、三笠山に大きな光物があったとの事。」

つまり、平清盛の妻時子に春日大社から「平家滅亡」と告げられたと
うけとられる内容です。

後にその言葉は現実となるのですが・・・

それにしても「藤原氏」の氏神の春日大社になぜ嫁ぎ先も実家も「平氏」である時子が、女房を参詣させたのか不思議です。
戦争に関することですから「鹿島神宮」とつながりのある「春日大社」に女房を送ったのかとも考えてはみたのですが・・・

この時期は各地で反平家の活動が展開されています。
状況的には、
平家の味方であった越後城氏は横田河原の戦いで木曽義仲に敗北。
味方にしたい奥州藤原氏の動向は不明。
東海道、東山道は甲斐源氏、坂東は源頼朝に抑えられ
都に食糧を供給する北陸道でも反乱が勃発
九州では、筑紫・豊後で反乱、四国でも河野氏の反乱、熊野は怪しげな動き
とまさに四面楚歌な状態の平家。
平家は官軍ですから朝廷も四面楚歌。

そのような状態で
鉄兜の使者頓死、春日大社のご宣託がでたとするならば
朝廷の人々が恐怖にさらされたということは想像に難くないような気がします。

とはいえ、春日大社のご宣託の記事があった同日
「安徳天皇をつれて朝廷は西国へ移動する」
という現実的な方策が検討されていたことも記載されています。

おびえるだけではなく現実的な方策も講じようとされていたあたり
平家も朝廷の人々も中々逞しいなあと
思ったりもしています。

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玉葉 怪異!戦勝祈願のはずが・・・

2008-01-21 06:13:16 | 日記・軍記物
さて、今回は「玉葉」に書かれている怪奇事件を一つ書かせていただきたいと存じます。

養和元年(1181年)九月
朝廷は各地で発生している反乱鎮圧を祈願して伊勢神宮に鉄兜を奉納することを決定しました。
これは、天慶の例といいますから、承平天慶の乱すなわち平将門・藤原純友の乱の鎮圧をしたときの例によるものではないかと思われます。
このときに鉄兜を伊勢神宮に奉納した先例があったのでしょう。
その後この大きな乱は鎮圧されました。

さて、その奉幣使が九月十四日都を出発しました。
神事仏事も当時の重要な「政治」でした。
そして、神様の加護を受けて朝敵を鎮圧することを
宮廷社会の人々は期待したことでしょう。

ところが
伊勢に鉄兜を奉納しにいった奉幣使が
九月二十一日に道中で頓死してしまったのです。

この事件を後世の人々が色々な解釈をすることは可能だと思います。

ですが、当時の人々にとっては恐ろしい出来事であったのではないでしょうか。
戦勝を祈願するはずだった鉄兜の奉納使が使命を果たすことなく道中で頓死。
神仏の力を本気で信じていたこの時代の人々にこの事件は大きな衝撃を与えたことと思われます。
戦勝祈願をしたはずなのに、神様にその祈願を拒否されたと。
しかも、天照大神を祭神とする伊勢神宮からの戦勝祈願の拒否。

日本で最上位としている神様から
「この戦乱はあなた方の負け」
といわれたようなものです。

このことは、当時の人々にとっては大きな衝撃ではなかったのかと推察されます。

後の結果を見ると
朝廷そのものは無傷でしたが安徳天皇とそれを支えていた平家が滅びました。
このことも
後に「その時の伊勢の神様の御神意」と受け取られたかもしれません。

「平家物語」にもこの「鉄兜」の話は載っています。

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