玉葉治承五年三月二十一日条抜粋
「東大寺、興福寺、八省、三ケの大作事、一時に相遇ひ、東西に難あり。水干の損極まりなし。
かくの如き間、秘計及び難きか。(略)金堂巳下、公家の沙汰となし、諸国に宛てられるべき処
東国大略沙汰に及ばず、残るところの国々、多く八省の造作に宛てられ了んぬ。仍って然るべき国無きか。」
とあります。
治承五年は
前年南都炎上で破壊された東大寺、興福寺の復興と都の庁舎である八省の建設
が行なわれなくてはならなかったようです。
さらには、各地で勃発した反乱鎮圧の為の出兵に必要な兵糧米の確保と
一般庶民の飢餓対策の為の食糧確保の施策が必要で
そのための財源確保が迫られていたようです。
しかし、東国は反乱軍に占拠されてそこからの税収は期待できない。
限られた予算で、三箇所の大工事費用やその他を確保しなければならなかったようです。
で、興福寺と八省の造営の費用を当てたら東大寺にはもう回らない、という状況だったようです。
当時は「寺社造営」は国家の一大事でしたから手抜きするわけにはいかない。
しかも各地で反乱がおきて、作物が大不作でしたからより一層神仏のご加護を得るためにも何とかしても東大寺、興福寺の復興はなしとげなくてはならなかったでしょう。
(当時の発想)
後世の人からみれば「ばかげている」と思うでしょうが
「神仏」が大切な時代は、「寺社造営」は「国家存亡」に関わる大事だったのではないかと思われます。
けれども「予算が足りない」という深刻な事態が朝廷を襲っていたのでした。
考えてみれば
「食糧難」「大工事」「戦争」
この三つに対してはどれか一つでもどの時代に起こっても大きな出費が必要とされます。
それが一度にやってきたのですから、朝廷の高官はその対応にどうしたらよいのか苦悩したというのは容易に察しが付きます。
(しかもその頃は何もなくても慢性的な財政難でした)
その後、都は食糧難に悩まされ餓死者続出、各地の反乱には有効な手立てを打つことができず、寺社に祈願しようとしてもそのために「寄進する荘園」がもうない
という困った状態に追い込まれていくのです。
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「東大寺、興福寺、八省、三ケの大作事、一時に相遇ひ、東西に難あり。水干の損極まりなし。
かくの如き間、秘計及び難きか。(略)金堂巳下、公家の沙汰となし、諸国に宛てられるべき処
東国大略沙汰に及ばず、残るところの国々、多く八省の造作に宛てられ了んぬ。仍って然るべき国無きか。」
とあります。
治承五年は
前年南都炎上で破壊された東大寺、興福寺の復興と都の庁舎である八省の建設
が行なわれなくてはならなかったようです。
さらには、各地で勃発した反乱鎮圧の為の出兵に必要な兵糧米の確保と
一般庶民の飢餓対策の為の食糧確保の施策が必要で
そのための財源確保が迫られていたようです。
しかし、東国は反乱軍に占拠されてそこからの税収は期待できない。
限られた予算で、三箇所の大工事費用やその他を確保しなければならなかったようです。
で、興福寺と八省の造営の費用を当てたら東大寺にはもう回らない、という状況だったようです。
当時は「寺社造営」は国家の一大事でしたから手抜きするわけにはいかない。
しかも各地で反乱がおきて、作物が大不作でしたからより一層神仏のご加護を得るためにも何とかしても東大寺、興福寺の復興はなしとげなくてはならなかったでしょう。
(当時の発想)
後世の人からみれば「ばかげている」と思うでしょうが
「神仏」が大切な時代は、「寺社造営」は「国家存亡」に関わる大事だったのではないかと思われます。
けれども「予算が足りない」という深刻な事態が朝廷を襲っていたのでした。
考えてみれば
「食糧難」「大工事」「戦争」
この三つに対してはどれか一つでもどの時代に起こっても大きな出費が必要とされます。
それが一度にやってきたのですから、朝廷の高官はその対応にどうしたらよいのか苦悩したというのは容易に察しが付きます。
(しかもその頃は何もなくても慢性的な財政難でした)
その後、都は食糧難に悩まされ餓死者続出、各地の反乱には有効な手立てを打つことができず、寺社に祈願しようとしてもそのために「寄進する荘園」がもうない
という困った状態に追い込まれていくのです。
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