時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(二百五十七)

2008-05-31 23:15:54 | 蒲殿春秋
大蔵御所に入って落ち着くとすぐ範頼は御台所政子の元へと参上した。
政子は満面の笑みを浮かべて義弟範頼を迎え入れた。
範頼は婚儀の件にたいして政子に礼を申し述べた。

政子はさっそく婚儀の日に範頼が着するものを披露した。
やや青味がかった衣袴、そしてつややかな白い指貫。
それぞれに優美な縫い取りが施されており、その柄は決して東国では見られることのないもの
即ち都の東の市でしか取り寄せることのできないものであった。
その柄を範頼は昔から気に入っていた。
「都の一条の姉上さまが、蒲殿の慶事の日の為に手ずからお縫いになられたものでございます。」
範頼はまじまじとその衣装を眺めた。

「それからこちらは高倉さま(範頼養父藤原範季)からです。」
そこには、ぎっしりと重そうな何かが詰まった袋が山積みされていた。
「砂金です。蒲殿の御慶事の際の引き出物にしようと陸奥守であられた頃から
支度されていたものと聞いております。」

庭をみると、駿馬が数頭並んでいた。
栗毛、鹿毛などの毛並みが美しい。
「これは、鎌倉殿がじきじきに検分されて蒲殿に差し上げるものです。」

範頼は言葉を失っている。
そのような範頼に政子はあでやかな笑みを浮かべて静かに言った。
「蒲殿、お幸せに。そして、藤九郎の娘御を幸せにして差し上げて下さいませ。」

その後、政子に呼ばれてその子供達が範頼の前に現れた。
以前会ったことのある大姫とこの前生まれたばかりの万寿と呼ばれる若君である。
大姫は「叔父上ようこそおいで下さいました。」
と手を突いて丁寧にお辞儀した。
前年会ったときは始めた会う「叔父」に警戒して母の政子の側から決して離れようとしなかったあの姫が、である。
一年の間に大きく成長したものである。
若君は乳母に抱かれて眠っている。

━━ 新太郎、どうしているだろうか。
前回鎌倉に来たとき散々手を焼かされたあの赤ん坊のことをふと思い出した。
そして、その赤ん坊が引き寄せた愛しい女のことも。

━━ 瑠璃・・・・・・

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蒲殿春秋(二百五十六)

2008-05-30 05:16:19 | 蒲殿春秋
寿永元年(1182年)の暮、兄頼朝に呼ばれて範頼は鎌倉へとやってきた。
今回の用の趣は婚儀の事であるという。

安達藤九郎盛長の娘瑠璃との縁談が決まったのは前年のことであった。
しかし、平家の東海道遠征の噂による範頼の出陣、
婚儀をとりしきる頼朝の妻政子の懐妊と頼朝政子の夫婦喧嘩の影響で
未だ婚儀の日を迎えていない。

範頼は瑠璃の父親安達盛長と度々書状のやり取りをしてそれなりに支度を進めていたのだが
やはり政子が動かないことには婚儀のしたくは進まない。
鎌倉に着くまでは範頼は婚儀の打ち合わせで呼ばれただけだと思っていた。
しかし、事は彼の予想を打ち破る速さで進んでいたのである。

まず、今回の鎌倉の範頼の居所は大蔵御所の一室が当てらることになった。
前回の居所は安達盛長館であったのであるが。
大蔵御所に到着するとすぐ兄頼朝は範頼に会ってくれた。
会うなり頼朝から「年明けすぐの吉日に婚儀を行なうゆえそのつもりでいるように。」
と申し渡された。
また、新居は安達盛長館の傍らに造営中であるが、婚儀の日まで大蔵御所で過ごすように
とも言われた。

今まであまり進まなかった婚儀の支度がここにきて急に早まった。
あまりのことに範頼は唖然とした。

範頼が到着するのとほぼ日を同じくして一人の男が鎌倉を去った。
頼朝に右筆として仕えていた伏見広綱である。
頼朝の一連の恋愛騒動に一役買っていたこの男も、梶原景時の進言により故郷遠江への帰還を命じられたのである。
広綱に意趣を感じていた政子が溜飲を下げたのは言うまでも無い。

兄の元から戻った範頼はうろたえた顔をしていた。
一方主から話を聞いた当麻太郎は喜色をたたえた。
「年明けにすぐ婚儀を行なうと急にいわれても」
とつぶやく範頼に
「よろしいではございませぬか、ことが進むときはこのように一気に進むものです。それがしも殿の婚儀が進まぬことに気を揉んでおりましたが、これでようやく安堵できまする。」
と当麻太郎はからっと言って返した。

━━ 殿とてうれしくないわけではなかろうに
と心の中でつぶやきながら。

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玉葉 摂政基通寵愛される その10

2008-05-28 05:29:17 | 日記・軍記物
列記の続きです。

平重盛
 神護寺に収められている藤原隆信作とされている五つの似せ絵。
 描かれているのは後白河法皇、藤原光能、平業房、平重盛、源頼朝
 といわれています。
 もっとも、最近では絵のモデルは室町時代の人物ではないかといわれていますが。
 この後白河法皇以外の四人は院の男色相手だったとの説があります。
 この説を提唱したのが五味文彦氏です。
(「院政期社会の研究」『院政期政治史断章』)
 また、野口実氏は「武家の棟梁の条件」(中公新書)の中で
 昭和54年(1979年)法住寺殿の発掘調査で明らかになった「武将の墓」
 に葬られている武将が
 「平重盛」ではないかと推定されています。
 後白河法皇陵、建春門院陵を守護する武将として
 重盛がもっともふさわしいのではないかと。
 その理由として重盛の武将としての能力の高さと、法皇、女院との関係の深さ
 なかんずく院との男色関係があった可能性があるということを挙げておられます。

平業房
 鹿ケ谷事件の関係者。
 同事件で身柄を拘束されそうになった際、後白河法皇の意向で放免された。
 しかし、治承三年の政変では流罪になる途中逃走して殺された。
 この政変では流罪になったのは関白基房と業房のみで業房と法皇の
 「関係の深さ」が指摘されている。
 また、上記神護寺の五人の肖像画の中のモデルの一人とされている。
 なお、業房の妻が晩年の後白河法皇の寵愛を受けた「丹後局」である。

藤原光能、源頼朝
 上記の「院政期社会の研究」の中で
 後白河法皇の「お相手」であった可能性があることを
 示唆されています。
 理由は神護寺に後白河法皇像ともに彼等をモデルにした肖像画が
 納められているとの伝承があることです。
 ただし、先述の通り神護寺の肖像画のモデルが別人である説がありますので
 今後この説がどのような評価を受けるのか今後見守る必要があるかと思われ余す。
 (モデルが別人であったとしても、後白河法皇と他四人の肖像画が納められた
 という伝承が残った経緯も検討が必要かとも思われます。
 五味氏もこれらの肖像画が伝承の人とは別人である可能性が指摘されている
 ことを注釈に記載しながらも「神護寺略記」に載されている内容を取り上げて
 論を進めておられます。)

その他、鹿ケ谷事件の関係者藤原成親などもお相手であったとも言われています(すいませんこれに関しては出典を忘れています。もしかしたら私の思い違いかおしれません汗)。

「玉葉」における基通と後白河法皇の関係について書かせて頂きましたが
基通の人生やその他諸々を書き込んでしまった結果思いがけず10回にも及ぶ長編になってしまいました。
このような内容にも関わらずお付き合いくださった皆様ありがとうございました。

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玉葉 摂政基通寵愛される その9

2008-05-27 06:02:14 | 日記・軍記物
最後に、後白河法皇が相手にしたと思われる男色相手を列記して
この基通シリーズを終了したいと存じます。

藤原信頼 
 平治の乱の首謀者
 「愚管抄」には「あさましき程に御寵愛ありけり」とあります。
 法皇の寵愛による引き立てで官位を上昇させ、それに反対する信西への恨みから
 平治の乱を起こしたとされている。
 しかし、元木泰雄氏は「保元・平治の乱を読み直す」において
 信頼について次のような評価をされています。
 官位の上昇に関しては、信頼の家系が以前から院近臣家系で
 元々それなりの身分を獲得しうる家であり
 信頼自身も実務能力に長けた人物だったとしている。
 また、平清盛との姻戚関係や源義朝との以前からの密接な関係により
 信頼が武力を行使しうる立場にあったのも信頼の力を強化していた。
 冒頭のような信頼に対する通説的な見方は乱に敗北したことによる
 敗者への辛口評価の結果ではないかと。

平資盛
 平重盛次男。
 平家が盛んだった頃長期にわたり法皇と関係を結んでいたようです。
 愚管抄には「院の覚えして盛りに候ひければ」とあります。
 平家都落ちに際し、一旦は都に引き返し法皇に連絡をとろうとしますが
 上手くいかず結局一門とともに西国に下ります。
 「玉葉」十一月十二日条にはつぎのような記載があります。
 「伝え聞く、資盛朝臣使を大夫尉知康の許に送り、君に別れ奉り悲嘆限り無し。
  今一度華洛に帰り、再び龍顔を拝せんと欲すと云々。」
 (「訓読玉葉」より抜粋)
 法皇を恋い慕うともとれる文を送っています。
 資盛は「平家物語」によると一門とともに入水します。
 (一門と別れて九州に留まったとの説もあり)
 法皇の寵愛は以前からあったものの、
 それだけでは平家一門の武将の一人であった資盛の政治生命は
 守ることができなかったようです。
 男色関係があっても
 それ以上の政治的立場の違いというものの方が大きかったのではないかと。
 (参考 上横手雅敬「日本史の快楽」講談社)

ごめんなさい
今回書ききれなかったのでもう一回だけ書かせて頂きます。

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玉葉 摂政基通寵愛される その8

2008-05-26 06:24:49 | 日記・軍記物
さて、その後も基通系と兼実系の間に対立がみられます。
摂関は兼実の子孫と基通の子孫が就任するようになり
複雑な政争を経てやがて五摂家(摂関になれる家柄)が成立します。

五摂家のうち近衛、鷹司は基通の子孫、九条、一条、二条は兼実の子孫です。



基通が生きた時代は
保元・平治の乱~平家政権~治承寿永の内乱~鎌倉幕府の成立
という動乱の世でした。
あれだけの勢力を誇った平家が滅び、一躍時の人となった義仲や義経はあっけない没落をします。その一方で反乱者の烙印を押されて流罪になった少年が数十年後この国で唯一の武家棟梁として勝ち残り、その後700年近く続く「幕府」というものを創立する。というようにその先の状況を誰も予想できない世の中でした。
戦乱は続き、飢饉は発生、つむじ風や地震、火災といった災害も続出しています。
誰もがこの動乱の波に足をすくわれまいと必死にもがき苦しんでいた時代でした。

貴族達にとっても政権が流動的で地位や生命を守るもの大変な時代だったと思われます。
基通の大叔父の頼長は保元の乱のさなか命を落とします。
叔父の基房は官位を奪われ、流罪の憂き目に会います。
祖父の忠通や父の基実も平治の乱では危ない橋を渡りました。
摂関家に生まれたからといって地位や命の保証があったわけではありません。

そのような中、わずか7歳で父親を亡くし、実母は謀反人信頼の妹という悪条件の中で人生のスタートを切った基通は、関白の嫡子とはいえまったく先の見えない人生を送らなくてはなりませんでした。
平清盛、後白河法皇など有力者の支援を受けつつも、先の見えない時代を生き延び三度も摂関の座に座るというのは並大抵のことでなかったと思います。
提携する相手を冷静に見極め、それまでの提携者(平家)と非情に縁を切り、法皇に接近して摂関の地位を守った基通はやはりそれなりの政界遊泳術に長けた人物だったと思われます。
基通に限らず藤原氏のトップが摂政関白の座を死守するというのはどの時代でも大変なことであったとは思いますが、この動乱の時代を生き抜いた基通はなかなかしたたかな人物であったと思われます。

あともう一回だけ続きます。

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玉葉 摂政基通寵愛される その7

2008-05-25 06:42:35 | 日記・軍記物
木曽義仲が入京して暫くして起きた政変によって後白河法皇は圧迫され、基通は摂政の座を追われますが、間もなくやってきた源頼朝配下の鎌倉勢力によって義仲が滅ぼされると基通は再び摂政に返り咲きます。

その後しばし基通は摂政の座に座ることになりますが、今度はもう一人の叔父九条兼実(「玉葉」の筆者)が基通の前に立ちはだかります。

義仲滅亡→平家滅亡→頼朝と義経の対立→義経の没落というめまぐるしい動きの中、義経を支持して頼朝追討の院宣を下した後白河法皇は、義経没落の後、その頼朝追討の院宣発行の責任を問われて鎌倉の頼朝からの様々な政治的要求を呑まされることになります。
その政治的要求の中には朝廷の人事刷新があり
その核には「文書内覧」(摂政の職務の実質的な部分)を九条兼実にさせるようにとの要求がありました。
後白河法皇はその要求を呑まざるを得ませんでした。
翌年、頼朝の支援を受けた兼実は摂政に就任します。
基通は再び摂政の座を追われます。

しかし、ここで後白河法皇との「深い結びつき」が生きてきます。
兼実の文書内覧、摂政就任を受け入れた後白河法皇も
「摂関家領」の所有者に関しては変更を許しませんでした。
つまり、それまで基通が管理していた摂関家領の殆どは従来どおり基通の所有とするということになったのです。
治承以前の、関白は基房であるが、所領の保有者は基通(その頃は養母盛子名義)というのと似たような状況が発生したのです。
このことにより基通と兼実の間には対立が生じます。

頼朝の政治的要求を受け入れつつも後白河法皇は基通を保護する立場であり続けたのです。

1192年、後白河法皇は崩御します。
その後の政界は頼朝の支持を受けた九条兼実が主導することになります。
このまま兼実の天下が続くと思われましたが、今度は兼実に反感を持つ廷臣達が現れます。
しかも、兼実にとって間の悪いことに兼実と頼朝との間に隙間風が吹き始めるようになっていました。
そして建久7年(1196年)政変が発生、九条兼実は失脚し関白の座を追われることになります。
その後関白に就任したのは、基通でした。
二回辞任に追い込まれても、三度摂関の座に返り咲いたのです。

そうなった背景として基通が過去二回摂関の座にいたこと、摂関家の所領を保持していたことが大きかったのではないかと思われます。

その二点とも「後白河法皇との関係」を抜きには語れない問題です。
やはり、「その関係」は後白河法皇の死後も生きていたと言えるのではないでしょうか。

すいません、あともう少しだけ続きます。

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玉葉 摂政基通寵愛される その6

2008-05-22 05:44:32 | 日記・軍記物
一方基通はなぜ後白河法皇に接近を求めたのでしょうか。

平家に先は無い、と基通が読んだというのが最大の理由だったと思います。何しろ、治承四年以降各地方の反乱軍に有効な手立てを打つことができず、
征伐に行った義仲に負け続けついに都が危機に晒されるという状況に陥ったのですから。
平家が頼りにならないならば院に擦り寄るしかなかったのでしょう。

そして、舅の清盛が既に死去してたいう点も基通が離脱しやすい状況を作っていたと思われます。
当時は親の意向に逆らうということは、道義的に許されないものがある時代でした。親には「妻の両親」も含まれます。
しかし、妻の父清盛は死去、妻の母は誰かは不明ですが、清盛の正室時子ではなかったようです。また、養母盛子も時子の子ではないようです。養母と妻が時子の子で無い以上基通が平家の代表者の一人である時子に従う必要はありません。
そして、妻の父母に従う義務はあっても妻の兄弟に従う義務はありませんでした。
つまり清盛が死んだ時点で基通は平家から有る程度自由に動ける立場になったといえます。

平家から離脱しても、平家寄りだった今までの関係を考えると
義仲入京後、基通が叔父の基房が清盛にやられたことと同じ事をされる(解官、流刑)可能性が大きかったと思われます。
基通は自らの身と地位を守る為には院の助けが必要だったのでしょう。

何も体を差し出さなくても、と思わないでもないですが
平家の支援を受け続けた基通が、今まで「治承三年の政変」で幽閉の憂き目に合わされ、その後も平家から色々な制約を受けていた後白河院の信頼を得るためには、
通常の君臣の間柄では何か足りないものがあったのではないかと推察されます。

その通常以上の信頼を得る関係
それが「男色」であったと考えられます。
後白河院としても利用価値の高い基通をひきつける為にも
その行為は必要なものであったと思われます。

まさに、基通は「体を張って」自らの地位を守ったといえるでしょう。

ここまで、書くと政治的利害だけで男色関係を結んだのかといわれそうですが
底辺にそれがあっても、やはり「愛情」がなければできないことであると思います。
とにかく、法皇と基通はそのような関係になりましたが
そのことはその後の政界にも多少の影響をもたらすことになるのです。

また続きます。



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玉葉 摂政基通寵愛される その5

2008-05-21 05:20:09 | 日記・軍記物
「玉葉」の記載を信じるならば、後白河法皇と基通が恋愛関係になり男色を開始するのは、寿永2年(1183年)7月中のこととなります。

その頃の都の状況は
木曽義仲が平家を次々と打ち破って都に間もなく押し寄せるという状況でした。
そのような緊迫した状況下二人は関係を結びます。

では、何ゆえ後白河法皇は基通を寵愛するようになったのでしょうか。
以下は私の推測です。
情誼的な面から見ると
基通の実母は藤原信頼(平治の乱の首謀者)の妹です。
基通は後白河法皇がかつて「あさましいほど寵愛した」藤原信頼の甥にあたるのです。
その信頼が持っていた法皇をひきつける何かを基通が持っていた可能性があります。

しかし、私は情誼的理由以上に政治的な理由があったものと考えます。
この頃すでに後白河法皇は平家を見限る決心をつけていたと推測します。
その時に摂政基通が接近してきた、これを好機を見たのではないかと思います。
うまくいけば基通が平家から離れて自分の味方につくかも知れないと。

平家の外孫である安徳天皇が平家から離れるとは考えられません。
後白河法皇が平家を見限るということは平家が擁する安徳天皇との対立を意味します。
天皇を決める権限をある治天の君とはいえ、現天皇と対立関係に立つということは
後白河法皇には政治的にマイナス要因を抱えることになります。
しかし、現職の摂政が安徳天皇から離れるとなれば、
安徳天皇の権威は大きく損なわれます。
さらに摂関家とつながりの深い廷臣たちを後白河法皇方に引き寄せることが期待できます。
法皇が安徳天皇に代わる天皇を指名することがたやすくなります。

また、基通にとっては幸運なことに、摂関家では基通がもっとも摂政にふさわしい存在であるという状況もありました。
基通の前に摂関の地位にあった叔父の基房は「治承三年の政変」の時点で出家しており、摂政の地位につくことはできません。その息子の師家はまだ12歳の少年です。基房の弟の兼実は傍流においやられていました。
後白河法皇にとっては、摂関家を取り込むには基通とつながりを深める以外に選択肢はなかったのです。

また、平家とつながりの深い基通からなにか情報を聞きだせるという期待もあったかも知れません。二人のつながりが平家に発覚しても「恋愛だ」と言い張ることができます。

そこへ基通が転がり込んできた、それを法皇は見逃さなかった
しかも基通はかつて愛した男の甥。
そのような条件が重なって後白河法皇は基通とその関係になった

と個人的に考えます。

また続きがあります。

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玉葉 摂政基通寵愛される その4

2008-05-20 05:00:58 | 日記・軍記物
玉葉寿永2年(1183年)8月2日条に次のような内容がかかれています。
・平家が後白河法皇を連れて西国に下ろうという密議があることを基通が密かに知らせた。
・法皇が基通を愛している(肉体関係をも含めて)。

つまり、基通が法皇に密告したおかげで法皇は平家に西国に連れて行かれるのを逃れたようなのです。法皇にとっては大切な情報を基通がもたらしたことになります。

基通を愛している、ということに関してはさらに
「法皇摂政を艶し、その愛念に依り抽賞すべしと云々。」
と記載されています。
また、秘事珍事であるけれども子孫の為に書き残すと兼実は「玉葉」に書き足しています。(8月2日条)

法皇と基通がそのような関係になった経緯等は玉葉8月18日条に詳しく記されています。
「又聞く、摂政法皇に鍾愛せらるる事、昨今のことにあらず。ご逃走以前、先ず五六日蜜に参り、女房冷泉局を以て媒となすと云々。去る七月御八講の比より、御艶気あり。七月二十日比、御本意を遂げられ、去る十四日参入の次、又、艶言御戯れありと云々。事の体、御志浅からずと云々。君臣合体の儀、これを以って至極となすべきか。古来かくの如き蹤跡なし。末代の事、皆以って珍事なり。勝事なり。密告の思ひを報ぜらる。その実只愛念より起こると云々。」(『訓毒玉葉』より抜粋)

現代語訳です。誤訳があったらごめんなさい。
「また、聞いたところによると、摂政基通が後白河法皇の寵愛を受けたのは昨今のことではない。法皇がご逃走される以前密かに法皇の御前に基通が参上していたようです。その仲立ちをしたのが(養母盛子の女房だった)冷泉局だった。
去る七月の御八講(仏事の一つ)の頃から、法皇は摂政基通を恋愛の対象としてみておられたらしい。七月二十日ついにお二人は想いを遂げて、体も結ばれた。今月の十四日に基通が法皇のもとへ参入した後も、そのようなことがあったらしい。
法皇が基通を愛する気持ちは決して浅いものではないらしい。
君臣合体とはまさにこのことであろう。
いままでかつてこのようなことはなかった。末代までの珍事である。
摂政基通にたいする現在の待遇は密告の褒章だというけれども、実は法皇が基通を愛しておられるから、基通はこのような良い待遇を受けているのである。」

また続きます。

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玉葉 摂政基通寵愛される その3

2008-05-18 06:05:37 | 日記・軍記物
「治承三年の政変」の翌年「平家打倒」を呼びかける「以仁王の令旨」が全国に配られます。
それを受けて治承4年(1180年)の後半、各地で反平家の挙兵が相次ぎます。
平家は畿内の反乱勢力をなんとか鎮圧しますが、東国や九州の反乱勢力にまで鎮圧することはできません。
そのような折、治承5年(1181年)1月に院政を執っていた高倉上皇が崩御、閏2月平家の総帥平清盛が死んでしまいます。
この事態は後白河法皇の院政の復活をもたらします。
一旦幽閉されながらも、後白河法皇は再び政局の表舞台に躍り出ることになったのです。

清盛という巨魁が死去してのちは、平家の制約は受けつつも後白河法皇の存在感が徐々に増してきます。
一方この時点でも基通は摂政の座に居つづけることになります。

地方に反乱勢力をかかえながらも都における政治の実権は平家が握り続けるという状況は2年半ほど続きます。
しかし、寿永2年(1183年)7月、北陸において勢力を拡大した木曽義仲の進軍によって、都は義仲に攻め落とされそうになるという状況に晒されることになります。

この時点で平家は義仲との正面衝突を避け都を捨てて西国へ下るという選択をします。
その西国に下る際、平家は自らの正統性を主張するため
安徳天皇、後白河法皇、摂政基通を連れて都を去る事を決めます。

平家は安徳天皇と母后建礼門院徳子の同行には成功します。
しかし、後白河法皇と摂政基通を連れて行くことができませんでした。
後白河法皇は密かに姿をくらまし平家の手を逃れ、摂政基通も一旦は平家に同行しますが途中で平家から離れ行方をくらませてしまいました。

後白河法皇は平家を見捨てたのです。

後白河法皇、摂政基通の二者を欠いた平家は安徳天皇を擁するものの、その政権の正統性を著しく欠くことになり、
それがその後の平家を追い詰める要因にもなっていきます。
廷臣たちの多くは都に残り、新たに後鳥羽天皇が即位することになります。
そして、後鳥羽天皇の摂政には基通が就任します。

それにしても、平家に意趣を持ち平家を見捨てた後白河法皇院政下にて,
なぜ平家と縁の深かった基通が、摂政の座に留まることができたのでしょうか。
その答えの一つが「玉葉」に記載されています。

すいません、まだ続きます。

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