時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

中間解説13 保元の乱

2011-05-21 05:12:21 | 蒲殿春秋解説
[保元の乱] ブログ村キーワード
では、保元の乱・平治の乱とは何だったんでしょうか?

保元の乱とは教科書に載っている通り
皇室内部の皇位を巡る争い(と皇位を決めさせる権利の所有者の戦い)に
摂関家内部の争いが加わったものと見て良いと思います。

後白河天皇+摂政藤原忠通(後白河皇子 守仁王を皇位につけたい)
崇徳上皇+藤原忠実・頼長(崇徳皇子 重仁親王を皇位につけたい)

そして、それらの乱に加わった各武士達は
自分達にとってつながりの深い権力者に従ったということでしょう。
河内源氏に限って話を進めると
鳥羽院ラインに乗っていた義朝・義康はそれに加えて自分達の妻の実家に近い
(熱田大宮司家は後白河天皇に親しい同母の姉上西門院に仕えていた)
後白河天皇についた。

為義は摂関家に臣従していた関係で摂関家の実権を握っていた忠実ー頼長親子の命令で
それに崇徳上皇についたと見てよいと思います。

平家の場合は微妙でした。
というのは、清盛の義母で先代忠盛の正室藤原宗子(池禅尼)が崇徳上皇の皇子重仁親王の乳母だったという事情があります。
このことにより平家が崇徳側についてもおかしくない状況でしたが
これは宗子自身の判断で清盛と宗子の子頼盛は天皇方に付くことが決定しました。

都で随一の武力を持つ清盛が天皇方についた時点で
勝敗の行方はかなり天皇方に有利になったことでしょう。

結果は後白河方の勝利に終わります。
そして、崇徳上皇は讃岐へ流罪となり
藤原頼長は敗走中死去します。
負けた武士達はことごとく死罪になります。
これは武士達の「私刑」ではなく「朝廷の決定」で行われたことです。
清盛が義朝に父を処刑させるためあえて崇徳側についた自分の叔父を処刑した
とよく言われていますが
「朝廷の決定」で為義らは処刑されているのですから
清盛が叔父を斬るのも当然で、義朝にも拒む権利は無かったはずです。
むしろ義朝は父が謀反人になったのですから
自分にまで連座が及ぶかも知れない可能性すらあったという話まであります。

さて、このときの恩賞に清盛に比べて薄いと義朝が不満をもったと言いますがそれはないと思います。
というのは、
以前の記事にも書いたとおり
「元々の官位」が清盛やその一族のほうが遥かに上です。
義朝の今までの官位を考えると「左馬頭」就任はむしろ破格というべき待遇なのです。
そのことを不満に思ったと思うこと自体がおかしいのです。
その後も平家は内裏造営などに「財力奉仕」をして
それに対する「正当な恩賞」を受けています。

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工藤祐経の経歴 ー伊豆国武士の主は誰?ー 下

2010-10-17 06:01:56 | 蒲殿春秋解説
さて、源頼朝は挙兵以降一貫した方針を有しています。
それは「自分と同格の武家棟梁の存在を許さない」です。
その方針に基づき新田義重を臣従させたりしていまし、義仲との対立としたのもその方針が大きな要因になっていたのではないかと思われるのです。

当時の武士達は何人もの主を持つのが普通でした。(それは武士には限らない)
しかし、軍事的意味を考えると、その場にくるまでどちらの主に従うかわからないというのは主側にしてみれば困る話ですし、土地の訴訟問題などが絡むと
片方の主が下した裁定ともう一つの主が下した裁定が異なるということでは余計な混乱を招きそれらが積み重なると主同士の深刻な争いをもたらすということになるでしょう。
(例えて言えば、現在のA地裁とB地裁同時に同事件の訴訟が持ち込まれA地裁とB地裁が正反対の判決を出して、高裁以上が存在しないという状況)

そのようなことを考えて頼朝はそのような方針を堅持していたのではないかと私は考えています。

頼朝と同格だった新田義重は屈服し、敵対した志田義広は東国を去り、義仲は滅びました。
そうなると東国に残る同格の棟梁は甲斐源氏の面々ということになります。

甲斐源氏の人々のうち、加賀美遠光・長清親子ははやいうちに頼朝に接近して長清などは頼朝のお側衆となっています。信光も頼朝に早いうちに臣従したものと思われます。
安田義定は一旦は義仲と共に上洛し平家を都落ちに追い込んでその功績で遠江守になりますが、それ以前から頼朝と提携していた様子が窺えますし、その後も頼朝とは良い関係にあったようです。
一方武田信義、一条忠頼の場合はどうでしょうか?
一条忠頼は殺害され、その後甲斐侵攻があります。そのことを考えるとその時期までは彼等は頼朝と同格の地位を保ち続け頼朝に臣従する見込みはなかったものと考えるべきだと思われます。

その忠頼殺害、そして甲斐侵攻の直前に当たる3月中旬から4月初頭にかけて頼朝は伊豆国に滞在してます。
朝廷との折衝や畿内西国への軍進駐問題等を難事を抱えている最中にです。

その理由は何でしょうか?
それは一条忠頼と源頼朝両方を主としている伊豆国住人たちに、「頼朝だけを主にせよ」という下工作、すくなくとも一条忠頼側につくなという圧力をかけるためだったのではないかと思われるのです。

そのように考えますと、治承3年以降「吾妻鏡」に登場しない天野遠景の復活や、工藤祐経が「吾妻鏡」に登場するのは何故なのかという理由がはっきりする気がします。

伊豆国における一条忠頼勢力の排除と頼朝のみへの忠誠を誓わせる、その結果がその「吾妻鏡」の記載に現れているのではないかと思われるのです。

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(このシリーズ完結)

工藤祐経の経歴 -伊豆国武士の主は誰?-中

2010-10-14 05:34:38 | 蒲殿春秋解説
では、治承寿永以前の伊豆国の武士達に強い影響力を与えていた人物は誰でしょうか?
最低でも二人いると思います。
一人は伊豆国の知行国主を長年務めていた源頼政。そして、もう一人は伊東祐親の荘園の領主だった平重盛などの平家一門。
しかし、治承寿永の乱が勃発すると頼政は敗北して死去します。
そして次に来た知行国主は平清盛の義弟平時忠。目代は時忠の検非違使庁における部下だった山木兼隆。
そうなると頼政との関係が深かった伊豆国住人達は平家に近い立場だった住人達の圧迫を受けることになります。

そのような中で伊豆国の住人たちは新しい主を探そうと模索したと思われます。その中で見つけたのが以仁王の令旨を貰っていた源頼朝です。かれらは事態を打開すべく頼朝を担いで挙兵し目代を討ち取り伊豆国を占拠します。
しかし、彼等が最初に担ぎあげた源頼朝は石橋山で敗北します。
その時点で頼朝に従って敗北者となった伊豆国住人たちが新たなる保護者を求めるのは当然の成り行きであると思われます。

中山忠親が記した「山槐記」によると頼朝が伊豆国を占拠したのと同じ頃武田信義が甲斐国を支配下に収めたように記されています。
つまり同時期に武田信義率いる甲斐源氏が反平家の立場で甲斐一国を占拠したであろうことが見て取れます。
そうだとしたら伊豆国住人達が甲斐に逃げ込んだ理由が見て取れます。
彼等は自分達の安全を図り伊豆国での復権を賭けて今度は甲斐源氏の元に従うのです。少なくとも反平家という立場は同じですから。
その後北条時政や加藤景簾は甲斐源氏と行動を共にして鉢田の戦いに参戦します。

さて、その後源頼朝が勢力を回復し相模国に進出します。さらに鉢田の戦いで甲斐源氏は駿河国に進出します。
そして富士川の戦いで源頼朝、甲斐源氏連合軍は平家を追い返します。(この戦いは甲斐源氏が主導的立場にあったという見解が最近では強まっているようです。)

そうなると伊豆国の西側駿河国は甲斐源氏それも一条忠頼の制圧下にあり、東側相模は源頼朝の制圧下にあるということになります。伊豆国はその地理的条件から水運が非常に重要な地域だったとみられ、相模湾駿河湾とも重要な地域だったと思われます。

その状況が伊豆国住人達の「頼朝、忠頼への二股」という事態を引き起こした要因の一つであると思われます。


この地図は日本の白地図
をダウンロードしたものを加工して作成いたしました。

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工藤祐経の経歴 -伊豆国武士の主は誰?ー 上

2010-10-11 06:01:00 | 蒲殿春秋解説
さて、小説もどきに登場した工藤祐経さん。彼について面白いことがわかりました。
工藤祐経さんといえば「曽我物語」の重要人物(曽我兄弟の敵役)です。
そしてその「曽我物語」等の影響で祐経さんは源頼朝のお気に入りの人物というイメージが強いようです。

しかしながら「吾妻鏡」を読んでみると意外なことがわかります。

なんと工藤祐経は「吾妻鏡」元暦元年(1184年)6月16日条の一条忠頼殺害事件まで名前が一切出てきません。(実際に殺害が行なわれたのは4月26日の可能性が高いそれにつきましてはこちら)
それから後、工藤祐経はちょくちょく「吾妻鏡」に登場することになります。

とうことは何を意味しているのでしょうか。
可能性の一つとしてその一条忠頼殺害事件まで工藤祐経は頼朝には仕えていなかったというように見ることもできるでしょう。

では、それまでの間工藤祐経は何をしていたのでしょうか?
それも推測ですが、そのころ駿河に進出していた甲斐源氏一条忠頼に仕えていた可能性があります。

彦由一太「十二世紀末葉武家棟梁による河海港津枢要地掌握と動乱期の軍事行動(中)」(『政治経済史学』100号、1974.4)によると伊豆国住人は頼朝が石橋山の戦いに敗れると、甲斐源氏に接近した。そして頼朝が房総で勢力を回復して鎌倉に入った後は頼朝と甲斐源氏双方に「二股をかけて」仕えたのではないか、と書かれています。

その傍証として例の一条忠頼殺害事件の際に同じく登場する天野遠景を挙げておられます。「吾妻鏡」治承四年10月に記載されて以降元暦元年6月16日まで一切登場しません。
その一方で伊豆と駿河の経済的な結びつきを根拠にその間一条忠頼に仕えていた可能性を示唆されています。

この彦由氏の論文を読んだ後「吾妻鏡」を読んでみると、治承四年8月の石橋山の戦い以降「吾妻鏡」からしばらく姿を消した伊豆国に武士がもう一人いました。
堀藤次親家です。彼もまた義高殺害事件まで「吾妻鏡」に登場しません。

さらに以前書かせていただきましたが、石橋山の戦いで頼朝軍に加わっていた後「甲斐」に逃げ込んだ人物が多数存在しました。
例えば加藤景簾。かれは「吾妻鏡」によると「富士山麓」に隠れたとのみあります。
(ちなみに富士山麓は駿河甲斐両方にまたがっています)しかしながら「延慶本平家物語」によると景簾は甲斐国に入ったとあります。
また、「吾妻鏡」寿永四年(1180年)10月18日条によると加藤景簾は「鉢田の戦い」(甲斐源氏と駿河目代橘遠茂と戦った戦い)に甲斐源氏方として参戦したというように書かれています。(そのことに関してはこちら

また頼朝の舅である北条時政さえも石橋山直後安房に向かわず甲斐に逃げ込んだ可能性があります。(それに関してはこちら

このような事を考えると伊豆国豪族は甲斐源氏、なかんずく駿河に進出して一条忠頼と関係をもっていたと考えるほうが自然であると思われます。

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一条忠頼殺害の日付について

2010-10-07 05:34:59 | 蒲殿春秋解説
またまた物騒なタイトルで失礼します。
さて、『吾妻鏡』によると甲斐源氏一条忠頼が源頼朝によって鎌倉で殺害された日付は元暦元年(1184年)6月16日のこととさてています。

しかし、この日付に対する疑問を提示する論文がありますのでご紹介させていただきます。金澤正大『甲斐源氏棟梁一条忠頼鎌倉営中謀殺の史的意義 』Ⅰ、Ⅱ(Ⅰ「政治経済史学」272,1989. Ⅱ「政治経済史学」446 2003.10)です。

まず、一条忠頼が殺害された日程が記されている文献として『吾妻鏡』の外に『延慶本平家物語』があり、それによると忠頼殺害は元暦元年(1184年)4月26日のこととされています。

そして、当時に起きた出来事を並べて見ます。
まず一条忠頼の任官です。
以前の記事にも書かせていただきましたが、金澤氏は一条忠頼が「武蔵守」に任官した可能性が高いとされています。
そしてその任官の日付は、頼朝が従四位下に除せられた3月27日ではないかとされています。

次に鎌倉勢による甲斐侵攻があります。
『吾妻鏡』5月1日条によると義高の残党狩り称して頼朝は甲斐信濃へと大掛かりな出兵を行なっています。
しかし、その実態は義高残党狩りではなく、甲斐制圧にあったと見るべきなのです。
そして『吾妻鏡』養和元年(1181年)3月7日条における武田信義が頼朝に屈服したというこの記事は実は一条忠頼の死とこの甲斐侵攻の後のことであろうと推測されています。

そして、6月5日に頼朝が申請したとおり、武蔵守平賀義信、駿河守源広綱、三河守源範頼が任官され、関東御分国が成立します(『吾妻鏡』6月20日条) *。

そのように考えると、
3月27日 忠頼武蔵守任官→6月5日 関東御分国成立 → 6月16日 一条忠頼殺害(『吾妻鏡』)
よりも
3月27日 忠頼武蔵守任官→ 4月26日一条忠頼殺害(『延慶本平家物語』) → 6月5日 関東御分国成立 
の方が自然なものとなります。

(ちなみに5月に甲斐侵攻もあります)
このように考えたならば、一条忠頼殺害は『延慶本平家物語』の示す4月26日の方が正しいと考えるべきなのではないか、ということになります。

*なお、範頼の三河国については、関東御分国ではなく(頼朝が知行国主ではない)と金澤氏は論じておられます(『蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国』「政治経済史学」370 1997.4)。

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一条忠頼誅殺の日付について

2010-09-10 05:56:30 | 蒲殿春秋解説
「吾妻鏡」においては一条忠頼誅殺の日付は元暦元年(1184年)6月16日のこととなっています。
しかし、小説もどきにおいてはこれよりも少し遡る日程で書かせていただいております。
どうしてこのように書かせていただいたのか、ということは小説もどきがもう少し進んでから改めて書かせて頂きます。

一条忠頼の武蔵守任官について

2010-09-08 06:08:22 | 蒲殿春秋解説
久々に解説です。
この小説もどきにおいて頼朝による忠頼の暗殺要因の大きな原因となった一条忠頼の「武蔵守任官」についてです。
「玉葉」などの一級史料にはその事実の記載はありません。また他の記録や軍記物にすらもかかれていません。
一条忠頼が武蔵守に任官したと記載されているのは「尊卑分脈」やかなり後世になってから記された「大日本史」などです。

しかし、史料的根拠は薄いものの、一条忠頼の武蔵守任官はあったのではないかとみる学説があります。
金沢正大「甲斐源氏棟梁一条忠頼鎌倉営中謀殺の史的意義 ―『吾妻鏡』元暦元年六月十六日条の検討―」(『政治経済史学』272号446号 (1989.1,2003.10))
彦由一太「鎌倉初期政治過程における信濃佐久源氏の研究ー武家棟梁としての平賀義信・大内惟義・平賀朝雅・大内惟信の歴史的評価ー」(『政治経済史額』300号、1991.4)
などです。

この二つの学説では忠頼の武蔵守任官があったということは共通していますが、任官の時期に差異があります。
彦由氏の説では、1183年夏の木曽義仲上洛の際に任官した(安田義定の遠江守任官と同時期)とみなし、金沢氏の説では、義仲討伐のあと、源頼朝が正四位下の位階を得た1184年3月27日のこととされています。

この一条忠頼武蔵守任官については、現在学界ではどのような評価が下されているのかよくわからないのですが、とりあえず小説もどきに武蔵守任官を取り入れさせていただきました。

ただし、一条忠頼の武蔵守任官が事実であろうとなかろうと、武田信義・一条忠頼といった甲斐源氏は坂東唯一の支配者であることを目指した源頼朝にとて、いつかは対立して決着をつけねばならない相手であったということは容易に推測できます。

散々書いてきましたが、甲斐源氏は元々頼朝とは別個に挙兵した独立勢力です。そして治承寿永の乱の有る時期まで頼朝とは同格の地位を保っています。
この両者がいずれ激突することが避けられないというのは一種の歴史の必然であるような気がします。

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首渡しの理由の違い

2010-06-03 05:36:21 | 蒲殿春秋解説
いきなり物騒なタイトルで失礼しました。
本文にも書かせていただきましたが一の谷の戦い後、その戦いで討ち取られた平家一門の首が都大路を渡されました。

この事実に関しては「玉葉」「吾妻鏡」「平家物語」ともに同じ内容を記しています。
しかし、それを決行させた範頼、義経の朝廷に対する申入れの内容が史料によって大きく異なります。

「平家物語」
平家一門の首渡しに難色を示す公卿らに対して
『かつて自分達の父義朝が同じ屈辱を味わった。父の無念を晴らすため勅命を承って命がけで戦った。これで自分達の申入れが受け入れられないのならばもう朝敵を討つのや辞める』
と義経が強硬に主張。

「吾妻鏡」
首渡しに難色を示す公卿達。
範頼、義経が私の宿意を果たすために、主張しているのではないかとも公卿達は考える。
しかし、範頼、義経が強硬に首渡しを主張するので結局首渡しが決行されることになる。

「玉葉」
院宣により首渡しは拒否される。
しかし、それをきいた範頼、義経が『義仲の首が渡されたのに、平家の首を渡さないのはおかしい』と主張。再度首渡しを主張する。
しかし、三種の神器を奪還したい公卿達は首渡しには反対。
それでも範頼、義経は強硬に首渡しを主張して首渡しが実行されることになる。

範頼・義経の父の敵討ち性格を強く打ち出している「平家物語」
しかし、実際には『義仲の先例』を出して首渡しを決行させようとした「玉葉」のほうが事実だったのではないかと思われます。

「平治の乱」義朝は首を渡されたと思われますが、このときの義朝の官位は従四位左馬頭。公卿に到達するにはまだまだの立場です。

一方、「一の谷」の時の平家の立場は「先帝の外戚」であり、一門に公卿が何人もいる状態です。
首渡しに公卿達が反対した理由の一つが、「先帝の外戚関係」と「朝廷におけるかつての地位の高さや政務への功績」でした。(この点に関しては「平家物語」「吾妻鏡」「玉葉」とも一致しています。)

そして「玉葉」の記載に従えば、公卿達は『平治の乱』の先例を出して『首渡し』を拒否しています。その『先例』とは乱の首謀者とされる藤原信頼が『公卿の地位にあった』と理由で処刑はされたものの『首渡し』は行なわれなかったという事実です。

つまり、実際には公卿の地位には程遠かった義朝、しかも二十年以上前の事例を引き合いに出してもその論理は朝廷からは相手にされなかっただろうということが推測できるわけなのです。
しかも父が首渡しされたその乱では『首渡しを免除された人物』が存在していたのです。

そのように考えますと『平治の乱の先例』を出した「平家物語」の記載はフィクションであったと考えるほうがよいのではないかと思われます。
実際には全国的に諸勢力の蜂起があって混沌として、単なる『源平の戦い』と言い切れない『治承寿永の乱』を『源平の戦い』に集約しようとし、さらには実際には蜂起した勢力のうちの一つでしかない源頼朝を『源氏方の総大将』とみなす「平家物語」の史観が反映されているような気がします。
(ついでに言えば『平治の乱』も源義朝と平清盛の戦いではなく、後白河院近臣や二条天皇側近等の対立や暗躍が乱の勃発の主原因でしたし、平清盛は元々どの勢力からも中立な立場だったようです。)

さて話は飛びましたが、平家の首渡しを強硬に主張した範頼と義経の論拠はやはり「玉葉」の記載どおり一の谷の戦いの直前に行なわれた義仲への処分があったと見なすほうが正確であったのではないかと思われます。

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義仲の「征東大将軍」について

2010-04-25 05:50:35 | 蒲殿春秋解説
かなり前にupした内容になりますが、小説もどきの中において寿永三年一月に源義仲が任官したのは「征東大将軍」と記載しました。
従来は「征夷大将軍」に任官したものと見なされていましたが、最近出版の専門家の著書を読むと「征東大将軍」だったとみなす向きが強いようですのでその研究動向に従うことに致しました。

櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」(『明月記研究』9号、2004年)(←申し訳ありません私は未読です、以下書く内容はこの論文を紹介された末尾参考文献を元に書かせていただきます。)において義仲が任官されたのは実は「征東大将軍」だったという説が発表され、それ以降その説を支持する専門の方が増えているようです。

国立公文書館蔵『三槐荒涼抜書要(さんかいこうりょうぬきがきのかなめ)』所収の『山槐記』建久三年(1192年)七月九日条によると義仲が補任されたのは「征東大将軍」だったようです。もちろん征伐すべき東のものとは、当時敵対関係にあった坂東の源頼朝。

そして1192年源頼朝が望んだ官職は「征夷大将軍」ではなく「大将軍」だったようです。
前出の『山槐記』建久三年(1192年)七月九日条には下記の記載があるようです。
「前右大将頼頼朝、前大将の号を改め、大将軍を仰せらるべきの由を申す。」
この申し出を受けた朝廷は、頼朝に与える官職の候補として
「征東大将軍」「征夷大将軍」「惣官」「上将軍」の四つを挙げ、
その中で前例がよくない「征東大将軍」(義仲が就任)、「惣官」(平宗盛が就任)などが外され、結局「征夷大将軍」が朝廷の選定によって決められた、
ということだそうです。

つまり、頼朝はあくまでも「大将軍」の称号が欲しかったのであり、その上に「征夷」がつくかどうかはさほど気にしていなかったということらしいのです。

以下個人的意見。

いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府
という有名な年号が鎌倉幕府成立の年になるかの議論がかなり昔から行なわれています。

もちろん1192年に源頼朝が征夷大将軍になったことは事実です。
その後の鎌倉、室町、江戸幕府も「征夷大将軍」に就任した人が幕府のトップに立ちます。
その後の幕府のトップの称号となる「征夷大将軍」が決まる経緯が上記の通りだった(頼朝の立場からすれば「大将軍」かそれに近いものだったらなんでもよく、「征夷大将軍」の官職を選定したのは朝廷だった)、ということは意外でした。

この「征夷大将軍」決定までの経緯、そして義仲が実は「征夷大将軍」になっていなかったという事実は今後の幕府の成立論議にどのような影響を与えるのかが非常に気になるところです。

以下余談です。
今年の四月、ある小学六年生に社会の教科書を見せてもらいましたが、その教科書には「1192年から鎌倉時代になった」と明記されていました。

巷で言われていた「もう学校では鎌倉幕府は1192年成立と教えていない」という話(いったんはマスコミでも騒いでましたが)が目の前にあった社会科の教科書の記載で見事に粉砕されました。

現代でも、巷で言われていることには信用できないという例がここにもありました。
やはり、物事は鵜呑みにはせずよく確認が必要だということを実感いたしました。

参考文献
川合康「日本の中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)
元木泰雄「源義経」(吉川弘文館)
五味文彦・本郷和人編「現代語訳吾妻鏡5 征夷大将軍」『本巻の政治情勢』(吉川弘文館)

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一の谷の戦いについて その10 参考文献等

2010-03-09 22:47:25 | 蒲殿春秋解説
「訓読玉葉」(高科書店)
「全訳吾妻鏡」(新人物往来社)
「現代語訳吾妻鏡 2 平氏滅亡」(吉川弘文館)
「延慶本 平家物語 本文編 下」(勉誠出版)

奥富敬之「清和源氏の全家系四 源平合戦と鎌倉三代」(新人物往来社)
川合康「日本の中世3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)
近藤好和「源義経」(ミネルバ書房)
菱沼一憲 「源義経の合戦と戦略」(角川選書)
元木泰雄「源義経」(吉川弘文社)
歴史資料ネットワーク編「地域社会からみた「源平合戦」~福原京と生田森・一の谷合戦」(岩田書院ブックレット)
柘植久慶「源平合戦 戦場の教訓」PHP文庫

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