平治元年(1159年)12月9日 後白河上皇がいた三条殿が襲撃され炎上、平治の乱が勃発します。
この乱は12月末に大規模な戦闘が行なわれ、翌永暦元年(1160年)までそれに付随した政変がつづき、永暦元年3月の関係者の流刑執行で幕を下ろします。
ここでは、「戦闘」に関わる部分だけ取り上げていきたいと思います。
さて、まず乱の端緒となるのが三条殿襲撃です。
藤原信頼は天皇親政派と手を結び、都に在住する多くの武士を味方につけて
12月9日 信西を葬らんと後白河上皇とその姉宮上西門院がいる三条殿を襲撃します。
その時の軍の構成は次の通りです。
どの勢力が何騎位動員したのかは分かりません。
ただいえるのは、この襲撃を行なったのは従来乱における重要人物とされていた源義朝の勢だけではないということです。
「愚管抄」によると、この襲撃には源重成、源光基、源季実なども加わっています。
陽明文庫本「平治物語」では、この三人に加えて源光保の名前もあります。
保元の乱の記事でも書きましたが彼等は、義朝とは全く独自の立場をとる都の武士で義朝に従っていたわけではありません。
特に美濃源氏源光保は、娘が鳥羽上皇の寵愛を受け、光保自身も鳥羽上や美福門院の側近という立場であり、なおかつ(後で出てきますが)彼の動員できる軍事力は義朝を上回っていましたから、光保は数年前まで無位無官だった義朝よりは都において格上の存在であるといっていいでしょう。
そのような人々で構成された軍の構成は上記の通りであると思って差し支えないと私は思います。
さて、この三条殿襲撃では信西一族を取り逃がしますが、
やがて信西の息子達は次々と逮捕され、数日後信西も源光保の手によって殺害されます。
その後政治の実権は信頼が握りますが、この頃から二条天皇側近が怪しげな動きを見せます。
十二月十七日熊野詣でに出かけていた平清盛が帰京します。
清盛は都において最大の軍事貴族ですが、この一連の政争から一歩後ろに引いた位置にいました。(従来は信西と連合を組んでいたとみられていましたが、最近はどの勢力からも中立の立場にいたと見られているようです。)
その清盛に二条天皇親政派は接近します。
そして十二月二十五日深夜、二条天皇は内裏を出て六波羅に入り、後白河上皇も内裏を脱出します。
そして翌十二月二十六日朝、藤原信頼らを謀反人に指定し
追討の命令を受けた平清盛は、嫡子重盛、弟経盛、頼盛を信頼らが籠もる内裏へと差し向けます。
「平治物語」によるとそこから内裏攻防戦が始まるのですが、実際には内裏でどの程度の戦闘が行なわれたかということについては不明です。
ですが、この時攻める平家軍と守る信頼軍との間には相当の兵力格差があったことは確かなようです。
学習院本「平治物語」の記載に従うと戦闘開始直前の兵力は次の通りです。
六波羅方が合計3000騎、一方信頼方は合計800騎。
なお、信頼軍における源義朝の率いる兵は800騎中200騎足らずです。
信頼本軍や源光保の兵の方が多いのです。
また、その学習院本「平治物語」の記載に従うと源頼政は日和見して主戦場から少し離れた場所にいたということになっています。
頼政は元々美福門院の側近で美福門院が支えている二条天皇に味方する為に軍を動員したのであって、信頼やましてや義朝に従う必要などありませんでした。
一方、この時点では同じ美福門院派の源光保は信頼と共に内裏にいたと「平治物語」に記載されています。
さて、戦闘開始後源光保は早々に六波羅方に味方したようです。
光保もまた、美福門院側近で二条天皇支持派ですから、信頼に従う必要は無く、折を見て官軍についたのでしょう。
「愚管抄」によると戦闘が開始されると源義朝は内裏を早々に出て都の街中に出て
六波羅を目指したようです。
一方義朝より多くの兵を従えていた信頼は早々に戦線離脱したようです。
やがて義朝は六波羅を攻めようと押し寄せます。
その頃には源頼政もはっきりと六波羅に味方します。
頼政が仕える美福門院が二条天皇を支えている以上、その二条天皇を奉じている清盛に味方するのは頼政としては当然のことです。
そのような中義朝は六波羅に攻め寄せますが
その勢力は学習院本「平治物語」によると「二十数騎」にしか過ぎなかったようです。
このときの戦力の状況は次の通りです。
やはり多勢に無勢。
敗北が決定的となり都を落ちることにした義朝の勢力は「愚管抄」によれば
「郎党わずかに十人ばかり」になっていました。
こうして十二月二十六日の平治の乱の最大の戦闘は
平清盛をはじめとする平家一門と途中で寝返った源光保、源頼政の勝利に終わりました。
この後二条天皇と後白河上皇の対立、政局の混乱、そして敗残者に対する処分等がありますが、この記事は兵力をかたるのが主な目的なのでここでこの記事はおしまいにさせていただきたいと存じます。
平治の乱の詳細につきましては
以前の記事と
別サイトのタイムラインをご参照いただけますと幸いです。
この乱は12月末に大規模な戦闘が行なわれ、翌永暦元年(1160年)までそれに付随した政変がつづき、永暦元年3月の関係者の流刑執行で幕を下ろします。
ここでは、「戦闘」に関わる部分だけ取り上げていきたいと思います。
さて、まず乱の端緒となるのが三条殿襲撃です。
藤原信頼は天皇親政派と手を結び、都に在住する多くの武士を味方につけて
12月9日 信西を葬らんと後白河上皇とその姉宮上西門院がいる三条殿を襲撃します。
その時の軍の構成は次の通りです。
どの勢力が何騎位動員したのかは分かりません。
ただいえるのは、この襲撃を行なったのは従来乱における重要人物とされていた源義朝の勢だけではないということです。
「愚管抄」によると、この襲撃には源重成、源光基、源季実なども加わっています。
陽明文庫本「平治物語」では、この三人に加えて源光保の名前もあります。
保元の乱の記事でも書きましたが彼等は、義朝とは全く独自の立場をとる都の武士で義朝に従っていたわけではありません。
特に美濃源氏源光保は、娘が鳥羽上皇の寵愛を受け、光保自身も鳥羽上や美福門院の側近という立場であり、なおかつ(後で出てきますが)彼の動員できる軍事力は義朝を上回っていましたから、光保は数年前まで無位無官だった義朝よりは都において格上の存在であるといっていいでしょう。
そのような人々で構成された軍の構成は上記の通りであると思って差し支えないと私は思います。
さて、この三条殿襲撃では信西一族を取り逃がしますが、
やがて信西の息子達は次々と逮捕され、数日後信西も源光保の手によって殺害されます。
その後政治の実権は信頼が握りますが、この頃から二条天皇側近が怪しげな動きを見せます。
十二月十七日熊野詣でに出かけていた平清盛が帰京します。
清盛は都において最大の軍事貴族ですが、この一連の政争から一歩後ろに引いた位置にいました。(従来は信西と連合を組んでいたとみられていましたが、最近はどの勢力からも中立の立場にいたと見られているようです。)
その清盛に二条天皇親政派は接近します。
そして十二月二十五日深夜、二条天皇は内裏を出て六波羅に入り、後白河上皇も内裏を脱出します。
そして翌十二月二十六日朝、藤原信頼らを謀反人に指定し
追討の命令を受けた平清盛は、嫡子重盛、弟経盛、頼盛を信頼らが籠もる内裏へと差し向けます。
「平治物語」によるとそこから内裏攻防戦が始まるのですが、実際には内裏でどの程度の戦闘が行なわれたかということについては不明です。
ですが、この時攻める平家軍と守る信頼軍との間には相当の兵力格差があったことは確かなようです。
学習院本「平治物語」の記載に従うと戦闘開始直前の兵力は次の通りです。
六波羅方が合計3000騎、一方信頼方は合計800騎。
なお、信頼軍における源義朝の率いる兵は800騎中200騎足らずです。
信頼本軍や源光保の兵の方が多いのです。
また、その学習院本「平治物語」の記載に従うと源頼政は日和見して主戦場から少し離れた場所にいたということになっています。
頼政は元々美福門院の側近で美福門院が支えている二条天皇に味方する為に軍を動員したのであって、信頼やましてや義朝に従う必要などありませんでした。
一方、この時点では同じ美福門院派の源光保は信頼と共に内裏にいたと「平治物語」に記載されています。
さて、戦闘開始後源光保は早々に六波羅方に味方したようです。
光保もまた、美福門院側近で二条天皇支持派ですから、信頼に従う必要は無く、折を見て官軍についたのでしょう。
「愚管抄」によると戦闘が開始されると源義朝は内裏を早々に出て都の街中に出て
六波羅を目指したようです。
一方義朝より多くの兵を従えていた信頼は早々に戦線離脱したようです。
やがて義朝は六波羅を攻めようと押し寄せます。
その頃には源頼政もはっきりと六波羅に味方します。
頼政が仕える美福門院が二条天皇を支えている以上、その二条天皇を奉じている清盛に味方するのは頼政としては当然のことです。
そのような中義朝は六波羅に攻め寄せますが
その勢力は学習院本「平治物語」によると「二十数騎」にしか過ぎなかったようです。
このときの戦力の状況は次の通りです。
やはり多勢に無勢。
敗北が決定的となり都を落ちることにした義朝の勢力は「愚管抄」によれば
「郎党わずかに十人ばかり」になっていました。
こうして十二月二十六日の平治の乱の最大の戦闘は
平清盛をはじめとする平家一門と途中で寝返った源光保、源頼政の勝利に終わりました。
この後二条天皇と後白河上皇の対立、政局の混乱、そして敗残者に対する処分等がありますが、この記事は兵力をかたるのが主な目的なのでここでこの記事はおしまいにさせていただきたいと存じます。
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