時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

平治の乱戦力分析

2009-06-21 21:10:50 | 戦力分析
平治元年(1159年)12月9日 後白河上皇がいた三条殿が襲撃され炎上、平治の乱が勃発します。
この乱は12月末に大規模な戦闘が行なわれ、翌永暦元年(1160年)までそれに付随した政変がつづき、永暦元年3月の関係者の流刑執行で幕を下ろします。

ここでは、「戦闘」に関わる部分だけ取り上げていきたいと思います。

さて、まず乱の端緒となるのが三条殿襲撃です。
藤原信頼は天皇親政派と手を結び、都に在住する多くの武士を味方につけて
12月9日 信西を葬らんと後白河上皇とその姉宮上西門院がいる三条殿を襲撃します。

その時の軍の構成は次の通りです。



どの勢力が何騎位動員したのかは分かりません。
ただいえるのは、この襲撃を行なったのは従来乱における重要人物とされていた源義朝の勢だけではないということです。

「愚管抄」によると、この襲撃には源重成、源光基、源季実なども加わっています。
陽明文庫本「平治物語」では、この三人に加えて源光保の名前もあります。

保元の乱の記事でも書きましたが彼等は、義朝とは全く独自の立場をとる都の武士で義朝に従っていたわけではありません。
特に美濃源氏源光保は、娘が鳥羽上皇の寵愛を受け、光保自身も鳥羽上や美福門院の側近という立場であり、なおかつ(後で出てきますが)彼の動員できる軍事力は義朝を上回っていましたから、光保は数年前まで無位無官だった義朝よりは都において格上の存在であるといっていいでしょう。

そのような人々で構成された軍の構成は上記の通りであると思って差し支えないと私は思います。

さて、この三条殿襲撃では信西一族を取り逃がしますが、
やがて信西の息子達は次々と逮捕され、数日後信西も源光保の手によって殺害されます。

その後政治の実権は信頼が握りますが、この頃から二条天皇側近が怪しげな動きを見せます。
十二月十七日熊野詣でに出かけていた平清盛が帰京します。
清盛は都において最大の軍事貴族ですが、この一連の政争から一歩後ろに引いた位置にいました。(従来は信西と連合を組んでいたとみられていましたが、最近はどの勢力からも中立の立場にいたと見られているようです。)

その清盛に二条天皇親政派は接近します。
そして十二月二十五日深夜、二条天皇は内裏を出て六波羅に入り、後白河上皇も内裏を脱出します。

そして翌十二月二十六日朝、藤原信頼らを謀反人に指定し
追討の命令を受けた平清盛は、嫡子重盛、弟経盛、頼盛を信頼らが籠もる内裏へと差し向けます。

「平治物語」によるとそこから内裏攻防戦が始まるのですが、実際には内裏でどの程度の戦闘が行なわれたかということについては不明です。

ですが、この時攻める平家軍と守る信頼軍との間には相当の兵力格差があったことは確かなようです。

学習院本「平治物語」の記載に従うと戦闘開始直前の兵力は次の通りです。


六波羅方が合計3000騎、一方信頼方は合計800騎。
なお、信頼軍における源義朝の率いる兵は800騎中200騎足らずです。
信頼本軍や源光保の兵の方が多いのです。


また、その学習院本「平治物語」の記載に従うと源頼政は日和見して主戦場から少し離れた場所にいたということになっています。
頼政は元々美福門院の側近で美福門院が支えている二条天皇に味方する為に軍を動員したのであって、信頼やましてや義朝に従う必要などありませんでした。
一方、この時点では同じ美福門院派の源光保は信頼と共に内裏にいたと「平治物語」に記載されています。

さて、戦闘開始後源光保は早々に六波羅方に味方したようです。
光保もまた、美福門院側近で二条天皇支持派ですから、信頼に従う必要は無く、折を見て官軍についたのでしょう。



「愚管抄」によると戦闘が開始されると源義朝は内裏を早々に出て都の街中に出て
六波羅を目指したようです。
一方義朝より多くの兵を従えていた信頼は早々に戦線離脱したようです。

やがて義朝は六波羅を攻めようと押し寄せます。
その頃には源頼政もはっきりと六波羅に味方します。
頼政が仕える美福門院が二条天皇を支えている以上、その二条天皇を奉じている清盛に味方するのは頼政としては当然のことです。

そのような中義朝は六波羅に攻め寄せますが
その勢力は学習院本「平治物語」によると「二十数騎」にしか過ぎなかったようです。
このときの戦力の状況は次の通りです。



やはり多勢に無勢。
敗北が決定的となり都を落ちることにした義朝の勢力は「愚管抄」によれば
「郎党わずかに十人ばかり」になっていました。

こうして十二月二十六日の平治の乱の最大の戦闘は
平清盛をはじめとする平家一門と途中で寝返った源光保、源頼政の勝利に終わりました。

この後二条天皇と後白河上皇の対立、政局の混乱、そして敗残者に対する処分等がありますが、この記事は兵力をかたるのが主な目的なのでここでこの記事はおしまいにさせていただきたいと存じます。

平治の乱の詳細につきましては
以前の記事
別サイトのタイムラインをご参照いただけますと幸いです。


保元の乱戦力分析

2009-06-20 21:49:22 | 戦力分析
保元元年(1156年)7月11日 保元の乱が勃発します。

この乱は
崇徳上皇と後白河天皇の皇統をかけた争いに摂関家内部の争いも加味されて沸き起こったものです。

図式化すると
後白河天皇・現摂政藤原忠通 vs 崇徳上皇・前摂政藤原忠実・左大臣藤原頼長
ということになります。

そしてこの争いは遂に武力衝突にまで発展してしまうのです。

その武力として動員された武士たちの内訳は

後白河天皇方
平清盛、源義朝*1、源義康*2、源頼政、平信兼*3、源重成、源季実、平維繁、源頼盛*4
など

崇徳上皇方
平忠正親子、源為義親子(義朝は含まず)、源頼憲、平家弘親子
などです。

源為義と義朝は親子、源頼憲と頼盛は兄弟、平忠正と清盛は叔父甥となり
骨肉が争う面もありました。
これには色々と複雑な背景がありますがこの記事ではその詳細は割愛します。

*1 鎌倉幕府初代将軍 源頼朝の父
*2 後の室町幕府将軍家 足利氏の祖 妻は義朝の正室の妹または姪
*3 頼朝の挙兵で倒された山木兼隆の父
*4 鹿ケ谷事件で有名で治承寿永期に活躍する多田行綱の父、摂津国多田荘に勢力を有する

武士達が骨肉の争いを繰り広げたということで武力もさぞ拮抗していたと思われる方も多いと思いますが実際に動員された兵力は次の通りです。



なお、崇徳方は平忠正ら、とか源為義らと書いていますがそれぞれの武士がどのくらいの軍勢を率いていたのか分からないのでとりあえず「(半井本)保元物語」に示されている軍勢数で代表的な名前がでているところを出してみました。

なお、「愚管抄」によると崇徳側は戦闘開始時後白河方に比べて物凄く少人数の軍勢しか集めることができなかったようです。

また、上記でずらずらと武士達の名前が出てきて
それぞれ 平、源と出てくるので それ源平の武士が平清盛や源義朝(←頼朝の父)に従って出てきたかと思われる方も多いかと思われますが
上記に出てきた方々は、小規模ながらも独立した武士団であり、清盛や義朝に従っていたわけではありません。
それぞれの意思で後白河天皇に従っていたのです。
清盛はあくまでも伊勢などを中心とした郎党、義朝は東国武士団を中心とする郎党を引き連れていただけで、上記に名前を挙げている人々を従えていたわけではないのです。(しかも清盛、義朝らの徴兵は国衙権力の命令があって、彼等の武家棟梁としての権威だけで動員したわけではない、という元木泰雄氏の説があります。)

さて、「兵範記」(平信範の日記)によると
「清盛300騎、義朝200騎、義康100騎」が崇徳方の立てこもる白河北殿へ第一陣として出撃したようです。



しかし、この第一陣だけでは戦闘に決着がつかず、後白河方は戦地に第二陣を投入します。



その後、後白河方は敵地に火をかけ戦闘に決着をつけ勝利を手にします。

さて、「保元物語」では源為朝が夜討ちを提案したところ、藤原頼長が拒否をしてしまいそれが崇徳側の敗北に繋がったとしています。
ところが、「愚管抄」によると、いくつかの為義の献策に対して
現在崇徳側の戦力があまりにも少ないので吉野からの援軍が到着するのを待とう
といって為義の献策を退けたとあります。

元木泰雄「保元平治の乱を読み直す」(NHKブックス)によりますと
頼長には興福寺や摂関家荘園にある武力をこの戦いの主戦力に利用する構想があったのではないかとしておられます。

「(半井本)保元物語」によると
吉野、十津川、興福寺の兵1000騎程が7月12日(実際に戦闘が行なわれた翌日)に崇徳側に参じる予定であったとしています。
崇徳方は7月11日時点ではどう考えても戦力的に不利、
1000騎の援軍が来なければどうしようもない状況だったのではないかと推測されます。

いっぽう崇徳方に摂関家軍事力の援軍がくる、
その情報を源義朝らもつかんでいたようです。

だからこそ、その援軍が到着する前に後白河方はその時点で少人数の崇徳方を叩いておく必要があったのではないか、という論理も成り立ちます。

ちなみに、摂関家の援軍が到着した場合
戦力差は次のようになります。



戦力はかなり拮抗します。

そうなると勝敗はどうなるかわからなかったのではないかと思われます。

長々と保元の乱について書かせていただきました。

なお、各勢力の兵数については
平清盛、源義朝、源義康 - 「兵範記」
源頼盛ー元木泰雄「保元・平治の乱をよみなおす」(NHKブックス)
その他 - 「(半井本)保元物語」(岩波書店新日本古典大系「保元物語・平治物語・承久記」に所収)等
に記載されている数字を使わせていただきました。


この乱に関しては未だに私の史料の読み込みが足りないと思っていますので
また内容が変更になる可能性があります。
長文にお付き合いくださいましてありがとうございました。

保元の乱のタイムラインを作成しました こちらです

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戦力分析してみます

2009-06-20 20:42:39 | 戦力分析
保元~治承寿永にかけての各戦闘の交戦戦力の分析を試んと
作図してみました。

ただし、戦力分布がまったくわからないものには手をつけませんし
一旦upしたものもいつの間にか変更になってしまう可能性があります。

当時の日記をベースに、専門書や時には軍記物を参照しながらゆったりペースで随時upしていきたいとおもいます。

(最近ペースは落ちていますがメインはあくまでも小説もどきなので
小説もどき中心で頑張りたいと思っています。)

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