時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

玉葉 強運の左大臣

2013-08-26 21:56:13 | 日記・軍記物
久々の更新となります。
久しぶりに「玉葉」を読んでいたら面白い記事にあたりました。

元暦二年(1185年)二月十一日条
「(前略)伝え(聞く)去日左大臣家より追い入るの事あり。犯人二人かの家中の於いて自殺そ了んぬ。左大臣逃げ去るの間、件の犯人その首を切らんと欲す。而り脇戸をこらしその身に及ばずと云々。希有中の希有の事なり。」

ここで出てくる左大臣は藤原(大炊御門)経宗。
左大臣は現在でいういところの総理大臣兼衆議院議長といったお偉いさんです。*

そんなお偉いさんの左大臣の邸宅に賊が入り込んでその邸宅の主左大臣を殺そうとして
犯人がそのお屋敷の中で自殺する、という物騒なことが起きたんですね。
殺されそうな左大臣は必死に逃げた、と。


*左大臣より上位の摂関は天皇の政務代行or相談役で議定に参加できず
太政大臣もお飾り的なもんだたようです。
つまり左大臣が政策決定機関たる議定の参加者のナンバーワンです。

この事件の被害者の左大臣経宗さんは恐ろしい殺害犯から無事逃げおおせたという点では非常に強運です。
(それにしてもお偉いさんが自邸に賊に侵入され、殺されそうになるんですから恐ろしい世の中だったったようです)

こんな経宗さん別の意味でも強運です。

最近書き終えた短編小説(こちら)にもご登場いただいたんですがこの人の人生自体強運です。

経宗は二条天皇の母方の叔父です。
まったく即位の芽がなかった二条天皇でしたが、近衛天皇が皇子を設けずに崩御されたので
次期天皇となることが急遽決まります。
一旦その父君の後白河天皇が即位した後の即位が約束されてました。
経宗さんは突如帝の外戚となることが約束されます。これもまた強運。

その頃保元の乱が勃発。
保元の乱の後も政局が落ち着かず平治の乱が勃発。

その経宗さんは平治の乱をさんざん引っ掻き回します。
まず、権勢をふるっていた信西さんを信頼が討つことに同意。
その後、信頼を追い落とすべく、平清盛を味方に引き込んで今度は信頼を追討。
そして二条天皇の外戚として自分が権力をにぎることを目指し、二条親政を掲げて後白河上皇を圧迫。
しかし反撃に転じた後白河上皇の命令でいきなり逮捕されてと流刑になります。

二条天皇の側近だった為に後白河上皇の反撃を食らったという見方もありますが
平治の乱勃発の当事者の一人として流刑になったという見る向きもあります。

通常ですと、「これで終わった」となるんですが
経宗さんはこんなことで終わる人ではありません。

乱の二年後経宗は帰京を許されます。
そしてすぐに右大臣就任(流刑前は権大納言)。
この背景には後白河上皇を押しのけて親政を進めようとした二条天皇派の力が働いていたと思われます。
このままいけば二条天皇派の有力者としてやっていけると思った矢先いきなり二条天皇が崩御。

しかし、なんとその翌年に左大臣に昇進。

二条天皇派はその後壊滅をしますが、その後も経宗は左大臣に居座り続けます。

この背景には後白河上皇の引き立てもあったと言われています。
後白河上皇はかつて敵対したものでも自分に対して恭順で有能であるならば引き立る
という懐の深い一面をお持ちだったようです。
経宗はそれに乗って後白河派に転向。

また、経宗は当時勢力を伸ばしつつあった平家一門とも接近していきます。

なんやかんやいってこの人世渡り上手です。

ですが、くるくる変わるのが政界というもの。

後白河法皇と清盛が対決するようになりますが、経宗はそこをうまく乗り切り地位を確保。

やがて平家が都落ちすると、今度は後白河法皇の意に乗って平家一門を見捨てる行動と次々実行!

平家が滅ぶと養子にしていた平重盛の子を家から追放(一応殺されないような配慮はしたようですが)

うまく時流にのってますが、
平治の乱で信頼にくっついて信西殺害の片棒をかつぎ
あっさりと信頼(のぶより)を裏切って二条天皇を六波羅にお遷しして信頼追討の片棒をかつぎ
二条派壊滅のあとはしゃあしゃあと敵だった後白河上皇にすり寄り
平家が力を持つとちゃっかりと接近し
滅ぶとその遺児をあっさり追放。

ある意味冷淡です。

これじゃあ敵を作っても仕方ないです。何者かによって邸宅に殺し屋を送り込まれても仕方ないかもしれません。

でも、このくらいドライで冷淡でなければ政局を渡りきれなかったも事実。

そしてうまく乗り切るには運も必要。
(後白河法皇も源頼朝も相当の強運の持ち主です)

そういった面ではこの時代の乗り切り方を象徴するような人生を送った人といえるかもしれません。


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Who is he?━ 平治2年の彼

2011-01-26 06:15:42 | 日記・軍記物
昨日「大乗院日記目録」という史料を見ることができました。
(「続々類書群従 第三」 所収)
これは平安後期からの出来事がほんの少しだけ
「こんなことがあった」程度のことが記されています。
(年に出来事一つくらいのみ記載・・・)

昔のツイッターみたいなものだと思いながら読んでいますと
謎の記事を見つけました。

「永暦元 正月二日、中宮右近朝岳誅也、(以下略)」

永暦元年とは1160年で平治の乱勃発の翌年にあたります。
正月二日とは1月2日のこと。
(なおこの時点では改元されておらず、この時期は「平治二年」です。)

平治の乱は前年末に戦闘は終了していますが、平治2年(永暦元年)1月は乱にともなう政争はいまだ終結していない時期です。
九条兼実は「玉葉」に平治の乱の翌年の正月行事には物々しい警護が固められていたとしるしています。

このような時期に「中宮右近朝岳」さんなる人が殺されたらしいのです。
誅されるということは、処刑にちかい意味を持つものと思われます。

朝岳さんという名は初めて目にします。

一体誰でしょうか?

一瞬義朝(頼朝父)次男の朝長(頼朝異母兄)に名前と官職が似ていると思いました。
しかしながら中宮大夫進という官位は似てはいるものの朝長「右近」(右近衛府の役職)という官職は得ていませんし、やはり名前が違います。
従ってこの人物は朝長とは別人の可能性が高いと私は考えています。

とすればこの中宮右近朝岳さんとはいったい何者なのでしょうか?

そしてこの平治の乱のさなか誅された理由は何だったのでしょうか?

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「玉葉」 当て字

2010-05-01 23:17:34 | 日記・軍記物
「玉葉」を読んでいると人名等の表記で面白いものがあります。

例えば
加千波羅平三→ これは梶原平三(景時)の初登場の際の記載です。(寿永三年一月二十日条)
加波冠者→ これは蒲冠者(範頼)の初登場の際の記載です。(寿永三年二月八日条)

ところで加千波羅は次回登場時(寿永三年二月八日条)には梶原平三景時ときちんと表記されています。おそらくその間に兼実が景時の正式な漢字を覚える機会があったのではないかと思われます。

となると加千波羅は 当て字 であるとしか思われません。

「玉葉」には他にも当て字と思われる人名等の表記が時折見受けられます。

そうなるのも無理はないと思います。

「玉葉」は漢文で書かれています。
漢文は全て漢字で表記されていなければなりません。

わからなければ「ひらがな」や「かたかな」を使えばいいというものではありません。

そうなると結局聞いた名前と同音の漢字をなんとか当てはめるしかないのでしょう。

現在の我々から見ると奇妙に見える表記も、兼実が一生懸命に考えて当て字をした。
そのように思うと兼実さん、かなり努力して知らない人の呼び名を書き留めていたのかもしれないと思えるのであります。

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玉葉 兼実怒る

2009-02-07 22:52:23 | 日記・軍記物
ちょうど義仲が入京している頃に兼実が怒りまくって「玉葉」に書いた部分があるのでご紹介します。

玉葉寿永二年(1183年)九月六日条
↓かなり意訳した現代語訳です。

「院が御逐電になった直後のことだ。前関白基房が源行家に使者を送ってとんでもないことを言った。
『摂政の座は嫡男が相続するものだが、それができない場合次男がなる。そのようなケースはあるけれども、三男以下は摂政についたことはない。(兼実が摂政になるという)世の中の評判はなんだかおかしいものだ。』と。同じような事を基房は院にも申し上げた。

基房がこんな事を言ったという噂はあったが、単なる噂と思っていた。
だが、今日確かにこの噂は本当の事だと聞いて飛び上がるほど驚いた。

天皇の位や摂政関白の座に誰がつくということは天の定めることで人力で決まるものではないのに!
そのような事を軽々しく言うものではない!
大体三男が摂関になれないというのはどういうことだ。
忠平公、兼家公、道長公の事を知らないのか!(彼等はみな三男かそれ以降)
まさか、この三代の前例を忘れたわけではあるまいな。

法皇様はきちんとご判断はされないし、源氏なんかは何にも知っちゃいない!
あの怪しげな一言で、大切な大切な政治の実権を基房をつかもうとしている。
なんという謀略だ。基房があの世にいったら、この謀略のせいで基房は酷い罰を受けるに違いない。

弾指すべきである。弾指すべきである。

だが、こんな厄介なご時世に、摂政として政務を執るのはイヤだ!」

一生懸命現代語訳してみましたが、原文の面白さには及びません。

原文読み下しはこの通り↓
「(前略)伝え聞く。入道関白(基房)、少将顕家を以て使となし、行家の許に示し送られて云はく(院御逐電の刻の事なり)、先ず摂録の職に於いては、家嫡にあらざれば、二男に及ぶと雖も、未だ三男に及ぶ例あらず。而るに下官仁に当たる由、世間の謳歌太だ不当なりと云々。又、院に奏せらるる旨同前と云々。このこと日来聞き及ぶと雖も、信用せざる処、今日定説を聞き、驚奇少なからず。凡そ天子の位、摂録の運、全く人力の及ぶ所にあらず。結構の体、事軽々に似たり。加之、三男に及ばざるの由如何。貞信公(忠平)、大入道殿(兼家)、御堂(道長)、この三代の例棄置くか。法皇黒白を弁ぜず、源氏是非を知らず。只一言の狂感を以て、万機の巨務を惣べんとす。謀計の至り、冥罰定めて速きか。弾指すべし、弾指すべし。但し余に於いては、乱世の執柄好む所にあらず。」

さて、この出来事があったのは、木曽義仲が都に迫り、平家が都落ちしようとしている頃のことです。
後白河法皇は平家の手を逃れ比叡山へと上ります。
そこへ、早速前関白基房が法皇の御前に参上します。

この時点では現摂政基通は平家に同道するものと見なされ、それが故に摂政の座を追われるものと思われていました
平家によって失脚させられていた基房はその時点で自らの復権をかけていたと思われます。
復権とは即ち、自分の手に摂政の座を取り戻すことです。

が、しかし、基房はこの時点では自らが摂政に返り咲くことはできません。
既に出家していたからです。
基房が望んでいたのは自分の嫡子師家を摂政に就任させて、みずからが後見するという形だったと思います。

しかし、その実現には障害がありました。
その障害とは基房の弟兼実の存在です。
基房の子師家はその当時十二歳の少年。摂政に就任する為の官位を経験しておらず、政界での経験も当然少ないものでした。
一方兼実は長年の間右大臣として政権の中枢におり、政治的経験を積み重ねていました。

となると当然、師家よりも兼実の方が摂政にふさわしいという空気が宮廷内にあったのではないかと思われるのです。

しかし、基房は自分の復権の為にも我が子を摂政にしたい。
それが故に、「嫡男次男ならば摂政になれるけれども・・・」という言葉を出すなどして兼実摂政就任を妨げていたのだと思います。(基房は実質次男)

一方、後でこのことを知った「実質三男」の兼実は基房の露骨な活動に怒り、「三男云々」の言葉に怒る。
そう書きながらも「こんな時期に政権とりたくなーい」と末尾に書き込む。

何と言っていいのでしょうか・・・・

美しいとは決していえない、摂政の座を巡る駆け引き。
しかし、この時期これは意外な形で解決してしまっています。

失脚確実と思われた、現摂政基通が平家一門と袂を別ち後白河法皇の前に参上して、摂政の座を死守。
基房の活動も、兼実の怒り(これは後になってのことですが)も全て無駄となってしまいました。

政権抗争はやっぱりわけがわかりません。



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現代語訳吾妻鏡 同じ名前 ややこしや

2008-06-20 05:25:36 | 日記・軍記物
「現代語訳吾妻鏡3 幕府と朝廷」が発刊されたので只今読んでいる最中です。

さて、本文もさることながら注釈を読むのも楽しみにしている私は
面白いものをまた発見してしまいました。

若狭局(平政子)
生没年未詳。平正盛の娘。澄雲との間に丹後局を生む。
建春門院平滋子の乳母、高倉天皇の女房。
(「現代語訳吾妻鏡」文治二年(1186年)6月注釈より抜粋)



平政子、若狭局というと
鎌倉時代に関して詳しい方は次のような想起をされる方が多いのではないのかと思われます。

若狭局 源頼家の妻。一幡の母。比企能員の娘。
平政子 源頼朝の妻北条政子のこと。(北条氏は平姓)

↓このような関係になります。


さて、頼朝の死後御家人間の抗争の一環として比企氏が滅ぼされ
頼家は追放され、一幡は死亡しますが
その抗争の中で決して良好な関係であったとは思えない二人(若狭局、平(北条)政子)の名前と女房名を同時にもつ女性が伊勢平氏(だと思いますが)および院周辺にいたのは偶然とはいえ面白い事実です。

ちなみに伊勢平氏(だった場合)の平政子(若狭局)さんの関係図は次の通りです。



玉葉 摂政基通寵愛される その10

2008-05-28 05:29:17 | 日記・軍記物
列記の続きです。

平重盛
 神護寺に収められている藤原隆信作とされている五つの似せ絵。
 描かれているのは後白河法皇、藤原光能、平業房、平重盛、源頼朝
 といわれています。
 もっとも、最近では絵のモデルは室町時代の人物ではないかといわれていますが。
 この後白河法皇以外の四人は院の男色相手だったとの説があります。
 この説を提唱したのが五味文彦氏です。
(「院政期社会の研究」『院政期政治史断章』)
 また、野口実氏は「武家の棟梁の条件」(中公新書)の中で
 昭和54年(1979年)法住寺殿の発掘調査で明らかになった「武将の墓」
 に葬られている武将が
 「平重盛」ではないかと推定されています。
 後白河法皇陵、建春門院陵を守護する武将として
 重盛がもっともふさわしいのではないかと。
 その理由として重盛の武将としての能力の高さと、法皇、女院との関係の深さ
 なかんずく院との男色関係があった可能性があるということを挙げておられます。

平業房
 鹿ケ谷事件の関係者。
 同事件で身柄を拘束されそうになった際、後白河法皇の意向で放免された。
 しかし、治承三年の政変では流罪になる途中逃走して殺された。
 この政変では流罪になったのは関白基房と業房のみで業房と法皇の
 「関係の深さ」が指摘されている。
 また、上記神護寺の五人の肖像画の中のモデルの一人とされている。
 なお、業房の妻が晩年の後白河法皇の寵愛を受けた「丹後局」である。

藤原光能、源頼朝
 上記の「院政期社会の研究」の中で
 後白河法皇の「お相手」であった可能性があることを
 示唆されています。
 理由は神護寺に後白河法皇像ともに彼等をモデルにした肖像画が
 納められているとの伝承があることです。
 ただし、先述の通り神護寺の肖像画のモデルが別人である説がありますので
 今後この説がどのような評価を受けるのか今後見守る必要があるかと思われ余す。
 (モデルが別人であったとしても、後白河法皇と他四人の肖像画が納められた
 という伝承が残った経緯も検討が必要かとも思われます。
 五味氏もこれらの肖像画が伝承の人とは別人である可能性が指摘されている
 ことを注釈に記載しながらも「神護寺略記」に載されている内容を取り上げて
 論を進めておられます。)

その他、鹿ケ谷事件の関係者藤原成親などもお相手であったとも言われています(すいませんこれに関しては出典を忘れています。もしかしたら私の思い違いかおしれません汗)。

「玉葉」における基通と後白河法皇の関係について書かせて頂きましたが
基通の人生やその他諸々を書き込んでしまった結果思いがけず10回にも及ぶ長編になってしまいました。
このような内容にも関わらずお付き合いくださった皆様ありがとうございました。

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玉葉 摂政基通寵愛される その9

2008-05-27 06:02:14 | 日記・軍記物
最後に、後白河法皇が相手にしたと思われる男色相手を列記して
この基通シリーズを終了したいと存じます。

藤原信頼 
 平治の乱の首謀者
 「愚管抄」には「あさましき程に御寵愛ありけり」とあります。
 法皇の寵愛による引き立てで官位を上昇させ、それに反対する信西への恨みから
 平治の乱を起こしたとされている。
 しかし、元木泰雄氏は「保元・平治の乱を読み直す」において
 信頼について次のような評価をされています。
 官位の上昇に関しては、信頼の家系が以前から院近臣家系で
 元々それなりの身分を獲得しうる家であり
 信頼自身も実務能力に長けた人物だったとしている。
 また、平清盛との姻戚関係や源義朝との以前からの密接な関係により
 信頼が武力を行使しうる立場にあったのも信頼の力を強化していた。
 冒頭のような信頼に対する通説的な見方は乱に敗北したことによる
 敗者への辛口評価の結果ではないかと。

平資盛
 平重盛次男。
 平家が盛んだった頃長期にわたり法皇と関係を結んでいたようです。
 愚管抄には「院の覚えして盛りに候ひければ」とあります。
 平家都落ちに際し、一旦は都に引き返し法皇に連絡をとろうとしますが
 上手くいかず結局一門とともに西国に下ります。
 「玉葉」十一月十二日条にはつぎのような記載があります。
 「伝え聞く、資盛朝臣使を大夫尉知康の許に送り、君に別れ奉り悲嘆限り無し。
  今一度華洛に帰り、再び龍顔を拝せんと欲すと云々。」
 (「訓読玉葉」より抜粋)
 法皇を恋い慕うともとれる文を送っています。
 資盛は「平家物語」によると一門とともに入水します。
 (一門と別れて九州に留まったとの説もあり)
 法皇の寵愛は以前からあったものの、
 それだけでは平家一門の武将の一人であった資盛の政治生命は
 守ることができなかったようです。
 男色関係があっても
 それ以上の政治的立場の違いというものの方が大きかったのではないかと。
 (参考 上横手雅敬「日本史の快楽」講談社)

ごめんなさい
今回書ききれなかったのでもう一回だけ書かせて頂きます。

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玉葉 摂政基通寵愛される その8

2008-05-26 06:24:49 | 日記・軍記物
さて、その後も基通系と兼実系の間に対立がみられます。
摂関は兼実の子孫と基通の子孫が就任するようになり
複雑な政争を経てやがて五摂家(摂関になれる家柄)が成立します。

五摂家のうち近衛、鷹司は基通の子孫、九条、一条、二条は兼実の子孫です。



基通が生きた時代は
保元・平治の乱~平家政権~治承寿永の内乱~鎌倉幕府の成立
という動乱の世でした。
あれだけの勢力を誇った平家が滅び、一躍時の人となった義仲や義経はあっけない没落をします。その一方で反乱者の烙印を押されて流罪になった少年が数十年後この国で唯一の武家棟梁として勝ち残り、その後700年近く続く「幕府」というものを創立する。というようにその先の状況を誰も予想できない世の中でした。
戦乱は続き、飢饉は発生、つむじ風や地震、火災といった災害も続出しています。
誰もがこの動乱の波に足をすくわれまいと必死にもがき苦しんでいた時代でした。

貴族達にとっても政権が流動的で地位や生命を守るもの大変な時代だったと思われます。
基通の大叔父の頼長は保元の乱のさなか命を落とします。
叔父の基房は官位を奪われ、流罪の憂き目に会います。
祖父の忠通や父の基実も平治の乱では危ない橋を渡りました。
摂関家に生まれたからといって地位や命の保証があったわけではありません。

そのような中、わずか7歳で父親を亡くし、実母は謀反人信頼の妹という悪条件の中で人生のスタートを切った基通は、関白の嫡子とはいえまったく先の見えない人生を送らなくてはなりませんでした。
平清盛、後白河法皇など有力者の支援を受けつつも、先の見えない時代を生き延び三度も摂関の座に座るというのは並大抵のことでなかったと思います。
提携する相手を冷静に見極め、それまでの提携者(平家)と非情に縁を切り、法皇に接近して摂関の地位を守った基通はやはりそれなりの政界遊泳術に長けた人物だったと思われます。
基通に限らず藤原氏のトップが摂政関白の座を死守するというのはどの時代でも大変なことであったとは思いますが、この動乱の時代を生き抜いた基通はなかなかしたたかな人物であったと思われます。

あともう一回だけ続きます。

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玉葉 摂政基通寵愛される その7

2008-05-25 06:42:35 | 日記・軍記物
木曽義仲が入京して暫くして起きた政変によって後白河法皇は圧迫され、基通は摂政の座を追われますが、間もなくやってきた源頼朝配下の鎌倉勢力によって義仲が滅ぼされると基通は再び摂政に返り咲きます。

その後しばし基通は摂政の座に座ることになりますが、今度はもう一人の叔父九条兼実(「玉葉」の筆者)が基通の前に立ちはだかります。

義仲滅亡→平家滅亡→頼朝と義経の対立→義経の没落というめまぐるしい動きの中、義経を支持して頼朝追討の院宣を下した後白河法皇は、義経没落の後、その頼朝追討の院宣発行の責任を問われて鎌倉の頼朝からの様々な政治的要求を呑まされることになります。
その政治的要求の中には朝廷の人事刷新があり
その核には「文書内覧」(摂政の職務の実質的な部分)を九条兼実にさせるようにとの要求がありました。
後白河法皇はその要求を呑まざるを得ませんでした。
翌年、頼朝の支援を受けた兼実は摂政に就任します。
基通は再び摂政の座を追われます。

しかし、ここで後白河法皇との「深い結びつき」が生きてきます。
兼実の文書内覧、摂政就任を受け入れた後白河法皇も
「摂関家領」の所有者に関しては変更を許しませんでした。
つまり、それまで基通が管理していた摂関家領の殆どは従来どおり基通の所有とするということになったのです。
治承以前の、関白は基房であるが、所領の保有者は基通(その頃は養母盛子名義)というのと似たような状況が発生したのです。
このことにより基通と兼実の間には対立が生じます。

頼朝の政治的要求を受け入れつつも後白河法皇は基通を保護する立場であり続けたのです。

1192年、後白河法皇は崩御します。
その後の政界は頼朝の支持を受けた九条兼実が主導することになります。
このまま兼実の天下が続くと思われましたが、今度は兼実に反感を持つ廷臣達が現れます。
しかも、兼実にとって間の悪いことに兼実と頼朝との間に隙間風が吹き始めるようになっていました。
そして建久7年(1196年)政変が発生、九条兼実は失脚し関白の座を追われることになります。
その後関白に就任したのは、基通でした。
二回辞任に追い込まれても、三度摂関の座に返り咲いたのです。

そうなった背景として基通が過去二回摂関の座にいたこと、摂関家の所領を保持していたことが大きかったのではないかと思われます。

その二点とも「後白河法皇との関係」を抜きには語れない問題です。
やはり、「その関係」は後白河法皇の死後も生きていたと言えるのではないでしょうか。

すいません、あともう少しだけ続きます。

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玉葉 摂政基通寵愛される その6

2008-05-22 05:44:32 | 日記・軍記物
一方基通はなぜ後白河法皇に接近を求めたのでしょうか。

平家に先は無い、と基通が読んだというのが最大の理由だったと思います。何しろ、治承四年以降各地方の反乱軍に有効な手立てを打つことができず、
征伐に行った義仲に負け続けついに都が危機に晒されるという状況に陥ったのですから。
平家が頼りにならないならば院に擦り寄るしかなかったのでしょう。

そして、舅の清盛が既に死去してたいう点も基通が離脱しやすい状況を作っていたと思われます。
当時は親の意向に逆らうということは、道義的に許されないものがある時代でした。親には「妻の両親」も含まれます。
しかし、妻の父清盛は死去、妻の母は誰かは不明ですが、清盛の正室時子ではなかったようです。また、養母盛子も時子の子ではないようです。養母と妻が時子の子で無い以上基通が平家の代表者の一人である時子に従う必要はありません。
そして、妻の父母に従う義務はあっても妻の兄弟に従う義務はありませんでした。
つまり清盛が死んだ時点で基通は平家から有る程度自由に動ける立場になったといえます。

平家から離脱しても、平家寄りだった今までの関係を考えると
義仲入京後、基通が叔父の基房が清盛にやられたことと同じ事をされる(解官、流刑)可能性が大きかったと思われます。
基通は自らの身と地位を守る為には院の助けが必要だったのでしょう。

何も体を差し出さなくても、と思わないでもないですが
平家の支援を受け続けた基通が、今まで「治承三年の政変」で幽閉の憂き目に合わされ、その後も平家から色々な制約を受けていた後白河院の信頼を得るためには、
通常の君臣の間柄では何か足りないものがあったのではないかと推察されます。

その通常以上の信頼を得る関係
それが「男色」であったと考えられます。
後白河院としても利用価値の高い基通をひきつける為にも
その行為は必要なものであったと思われます。

まさに、基通は「体を張って」自らの地位を守ったといえるでしょう。

ここまで、書くと政治的利害だけで男色関係を結んだのかといわれそうですが
底辺にそれがあっても、やはり「愛情」がなければできないことであると思います。
とにかく、法皇と基通はそのような関係になりましたが
そのことはその後の政界にも多少の影響をもたらすことになるのです。

また続きます。



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