時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(百五十)

2007-07-29 08:59:20 | 蒲殿春秋
一方、尾張でも平重衡出陣すの報を聞き迎撃の準備を整えていた。
熊野から三千の援軍はやってはきた。
しかし、尾張の諸将の足並みは不ぞろいである。
今まで熊野水軍と遠江を制圧している安田義定の支援があって
源行家が尾張の指導者的な立場にいた。
しかし、熊野水軍は伊勢勢力との争いに破れ
伊勢を敵に回したくない安田義定はここのところ行家に対して協力的ではない。

元々行家と尾張源氏等の間には家柄という点では大きな差はない。
いやむしろ生涯検非違使尉左衛門尉という侍身分から上昇することなかった為義の子、そして自らは八条院蔵人という地位しか有さない行家は
院や女院と関係の深い尾張諸々将に比べると家柄の面では劣っていたかもしれない。
和泉太郎、高田太郎といった尾張源氏の面々はここのところあからさまに行家を軽く扱っている。
真っ先に行家に協力した甥卿公義円も表面上では叔父を立ててはいるが
本心では叔父に従う気はさらさら無かった。
行家の父為義は義円にとっては祖父ではあるが保元の乱で義円の父義朝が祖父と敵対し
その結果父が祖父を処刑したという事実があった。
さらに、祖父とは異なる政治的位置を取っていた父は
祖父の地位をはるかに越える従四位下左馬頭、その嫡子である兄頼朝は従五位下右兵衛佐の地位を得ていた。
父を始祖とする自分の家系は諸大夫(貴族)であり、自らは僧籍にあるものの後白河院の皇子八条宮に長いこと仕えている。
叔父の家系は侍に過ぎない上、叔父自身は侍身分すら得ていないという思いがある。

さらに陰ながら反乱勢力に力を貸してくれている熱田社の大宮司は異母兄頼朝の外戚。
熱田社の協力は異母兄の縁によるところが大きい。
ここまで在地勢力として支援をしてくれているのは義円の妻の父。
自分が行家の下につく謂れはどこにもないと思っている。

しかし、内心を誰にも見せることもない。あくまでも叔父を立てている。

意気盛んな追討軍に対して、尾張反乱軍は不協和音を抱えていた。

一方尾張から東、三河を越えたところにある遠江では安田義定と源範頼が軍備を整えていた。
尾張を巡る情勢を探らせたところ尾張の反乱が官軍に勝てる見込みは薄いと義定は判断した。
尾張が官軍に蹂躙されたならば、その次に起こるであろう戦いには、安田義定、源範頼も無縁ではいられないはずである。
加えて北方の二人の巨人が官軍に呼応すべく不気味な行動をとっているといの報も入っていた。
すぐには戦火にさらされる可能性の薄いはずの遠江にも緊迫した空気が流れ始めていた。

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蒲殿春秋(百四十九)

2007-07-28 15:30:30 | 蒲殿春秋
美濃に到着した平重衡は、将兵達に食を与えた。
久々に食を口にしたものも多く、あまりのうれしさに泣き出すものまで現れた。
食事を終わるのを見届けてから重衡は官軍のなかにおける主だったものを呼び集めた。
そして次のように宣言した
「おのおのがた、兵糧の不足に耐えてよくぞここまでがんばってこられた。
しかしながら、この後の兵糧は十分ではない。このままでは再び我々の兵糧はすぐに尽きる。
したがって我々は、あらたなる兵糧を手に入れなければならない。
その兵糧の有るところは」
と言って東の方へ指をさした。
「東国だ」
「跋扈跳梁する謀反人どもから東国を吾ら官軍の手に取り戻す!
手始めに目の前に有る尾張。まずは尾張の賊徒共を打ち滅ぼし尾張の兵糧を手に入れる!
おのおの方よろしいか!」
「おー!!!!」
期せずして将兵達から大音声が発せられた。

その後重衡は三河、尾張の住人で反乱軍の襲撃から逃れて官軍に加わっていた者達を改めて呼んだ。
彼らは尾張三河の反乱在地勢力と治承以前からいがみ合っていたものたちであった。
この治承四年の一連の反乱軍蜂起の中で反平家を掲げて立ち上がった在地の敵対勢力に襲撃されて自らの所領にいることができなくなり都へ逃れてきたものたちであった。
領地を、親兄弟の命を反乱勢力に奪われ現在尾張三河を制圧した者達を深く恨んでいる者達である。
重衡は彼らにその恨みを思い起こされた。
そして、官軍の尾張三河制圧後の彼らの権利の保証を約束した。

飢えの苦しさを骨の髄まで味わった官軍の兵糧確保への執念、
そして、反乱勢力に対する恨み骨髄の尾張三河の住人
かれらは尾張奪還に燃え上がり、官軍の士気はいやがおうにも高まっていた。

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蒲殿春秋(百四十八)

2007-07-27 05:15:52 | 蒲殿春秋
治承五年閏二月十三日平重衡を総大将とする一軍は都を発った。
本来出立するはずだった日時より半月ほど遅れての出陣であった。
この出陣の遅れは美濃に陣を張っていた官軍方兵力に多大な影響を与えていた。
美濃攻略の頃から現れていた兵糧の不足の問題が深刻となっていたのである。
閏二月に入ると陣中で餓死するものまで現れてきた。

官軍の食糧、物資の不足には理由があった。

昨治承四年に東国で沸き起こった源頼朝らの反乱により東海、東山は反乱軍の手中に落ち
その地の年貢は全て反乱勢力に抑えられてしまった。
結果東海道・東山道の年貢は都には入らない。
年末に入り近江源氏に琵琶湖沿岸を抑えられ暫くその近辺が混乱を極めているのも大きかった。
東国で唯一反乱軍に占拠されていない北陸からの年貢の運上の多くは琵琶湖を通る。
近江の戦乱の影響で琵琶湖の水運の機能が麻痺し、暫くの間北陸からの年貢の納入が滞った。
一時東国からの年貢はほとんど都や畿内に入ってこない状況となっていた。

西国からの運上物も減少した。
筑紫の反乱、四国の河野水軍そして南海にも勢力を張る熊野水軍の反乱の影響であった。
治承五年初頭の都と畿内の食糧と物資を支えていたのは畿内で生産されたもののみであった。
その畿内も昨年末の近江源氏や南都との戦いで荒廃した。
各地からの年貢が入らない、畿内で大規模な戦乱があった。その結果、都と畿内は物資と食糧は極端に不足するという自体に陥っていたのである。
治承五年二月の段階では、琵琶湖の水運が回復で納入が期待できるようになった北陸、西国の一部、そして畿内からしか年貢は来ない。
しかも運の悪いことに治承四年は天候が不順で全国的に農作物は不作であった。
都と畿内の人々は飢えていた。

その悪条件を押しての大軍の出陣、
軍を進めるに不可欠な食糧と物資は大幅に不足している。
それでも、反乱軍を撃退しなければならない。
反乱軍を倒さねば、平家そして都と畿内の人々は大幅な食糧と物資の不足に悩まされる状況が続くことになる。

美濃での大軍の長期滞陣はより多くの食糧を必要としていた。
だが食糧は大幅に不足している。
二月末に宗盛が出陣しようとしたときには既に飢えが蔓延していた。
それから半月経過した。
食糧不足はより深刻化していた。
平家指揮官出陣の延期は官軍の中の飢餓をより深刻化させていたのである。

官軍に餓死者まで出ていたとの報は都に届き人々を不安に陥れていた。
重衡らは可能な限りの食糧と物資を持って美濃へ向かった。
だが美濃に到着した重衡は、実際に目にしたその飢餓の深刻さに驚いた。

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蒲殿春秋(百四十七)

2007-07-24 22:57:24 | 蒲殿春秋
平家は大黒柱清盛を喪ってしまった。
だが、悲しんでばかりはいられない。
清盛の生死にかかわりなく各地で反乱は継続している。
平家の総帥となった平宗盛は院殿上にて反乱軍追討に関して
公卿達による議定を行なうように申し入れた。

その要請を受け治承五年閏二月六日
院の殿上に公卿達は召集された。
清盛の喪中にある宗盛ら平家一門はそれに加わることができない。
宗盛は各地反乱軍に対して断固たる姿勢で追討する院宣を賜るように要請していた。
だが、公卿達の多くは「宥和」つまり各地反乱勢力への反乱和平への働きかけ
もしくは「様子見」を提案するのみで宗盛の要求する
強硬な軍事平定に関しては賛同するものはいなかった。

これを聞いた宗盛は当然不服であった。
院御前での決定に難色を示しあくまでも各地反乱勢力と妥協することなく叩き倒すべき内容の院宣を賜るよう院の使者に重ねて申し入れた。

宗盛の強硬な申し入れに院は困惑し、一旦決定した議定を覆された公卿たちは反発した。
こうしているうちに何日かの日は経過した。

結局院は宗盛と公卿達の間を取ったあいまいな院宣を下した。

院宣の内容をきいて宗盛はため息をついた。

父清盛が存命ならばこのような仕儀にはならなかったであろう。
公卿達は父の意向を察してその意のままに意見を申し述べたはずである。
また、高倉院の崩御と後白河院の院政復活の痛手を思った。
死の間際まで各地の反乱勢力を許さず断固戦い続ける意志を持ち続けられていた。
高倉院が存命であればこのように宥和的な院宣を下されることなど無かったであろう。

高倉院政の消滅と清盛の死これがその後の平家に大きな影を落とすことになる。

しかしながら平家は現実に起こっている反乱に対処をせねばならない。
あいまいな内容ながらも反乱勢力追討の院宣は下された。
そして、平重衡を総大将とする追討使が東国へ派遣されることが決定された。

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蒲殿春秋(百四十六)

2007-07-21 11:59:19 | 蒲殿春秋
行家に従っていた尾張、三河の勢力に動揺が見られる。
一旦は行家を支援していた安田義定はその後行家を積極的な援助の手を見せることはなかった。
異母弟義円がいるということで尾張三河に勢力をもつ熱田大宮司家に行家・義円への援護を要請した頼朝も鎌倉にあって身動きはとれない。
熊野からの支援も以前ほどの期待はできない。

尾張にある源行家は危機的状況にあった。

東にある源頼朝、武田信義も危うい橋の上にある。
去る一月十八日越後の城資永に、一月十九日には奥州の藤原秀衡に
源頼朝、武田信義両名を追討するようにとの宣旨が下されていた。
それを手にした資永、秀衡の二者は頼朝、信義追討の準備を始めた。
特に資永はこれを自勢力拡大の機会と捉え、信濃上野進出への野心を燃やしていた。
資永・秀衡は信濃、上野、下野、さらには武蔵の諸勢力に自軍への勧誘を進めている。
強大な勢力をもつこの二者からの勧誘に坂東諸国の豪族の間に動揺が走る。

そのようななか二月二十六日には、清盛の後継者と目される平宗盛自らが兵を率いて東国に進発することが決定された。

ここで平家主力軍に攻め込まれていたならば尾張の反乱勢力はすぐに壊滅に追い込まれていただろう。
また、それに呼応して城資永と藤原秀衡が信濃、甲斐、そして坂東に攻め込み
そこに住する諸勢力が資永らに内応したならば源頼朝、武田信義らはこのとき滅亡していたかもしれない。

しかし、歴史は人の力ではいかんともしがたい力をもってこの動きを封じてしまった。

西から平家本軍、そして北陸東北の有力者による東国の反乱勢力への包囲殲滅作戦は一人の男の病と死去で延期された。

平宗盛の出陣が決定された翌日、
平家の総帥平清盛は突然病に倒れた。
日を追うことに清盛の病状は悪化する。
これにより、嫡子平宗盛の出陣は延期される。
そして遂に治承五年閏二月四日平清盛は高熱にうなされながらこの世を去った。
六十四歳、波乱に満ちた生涯であった。

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蒲殿春秋(百四十五)

2007-07-15 14:29:35 | 蒲殿春秋
一方行家は駿河の一条忠頼や南坂東を治める源頼朝にも支援を求めていた。

しかし、駿河の勢力は行家に対しては冷淡であった。
彼らは駿河の自分の領地が護られればそれでいいのである。
平家が来ようが、一条忠頼の支配下にあろうが自分の領地の自分の権限さえ護られればそれでよいのである。
一条忠頼自身も東に位置する伊豆、相模、武蔵に自分の影響力を強めていく方策を考えるのに夢中で西のことなど眼中にはない。

源頼朝にいたっては、足柄山以西に関心を向ける余裕さえなかった。
二月に入りまた佐竹の残党が常陸に入り怪しげな動きを見せている。
また、常陸南部の志田義広との間にも鹿島社の年貢を巡り諍いが起きている。
その上、南坂東の人々も自分の領地の権利に対する執着はすさまじいものを見せる一方で
西で起きている行家の動きには全くの無関心である。
坂東の人々も自分の所領が護られればそれでよく
自らの所領の利害に関係のない西方の情勢は別にどうでもよいのである。
ついでに言えば、自分の領地を護ってさえくれれば、主として推戴するのは源頼朝でなくとも構わない。

頼朝に従っている者たちにはこのような考えのものが多い。
自分の領地に関係ない戦いには出たくない坂東の諸豪族。
常陸に危ういものを抱え、木曽義仲らの活躍で一旦収まった上野の親平家勢力の活動も予断を許さない。
さらにはその危うい北関東のその背後にある奥州藤原氏は不気味な存在である。
西へ進もうにも甲斐には武田信義、駿河には一条忠頼がおり
彼らの協力なしには西へは進めない。
信義、忠頼共に西方に出る意志は無さそうである。
このような情勢では頼朝は南坂東から動けない。

だが、頼朝は一つだけ尾張の反平家勢力に協力を行なった。
尾張に一定の勢力を扶持している頼朝の母の実家熱田大宮司家に行家と異母弟義円に対する支援の依頼をしていた。

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蒲殿春秋(百四十四)

2007-07-13 05:06:42 | 蒲殿春秋
西方から支援の道を閉ざされた行家は東方にある友軍安田義定に支援の拡大を要求してきた。
支援を要求する書状は安田義定の手の中にある。

書状を一通り読み終えた義定はため息をついた。
そして傍らにいた源範頼を見つめる。
「安田殿、新宮の叔父は何と」
「援軍をよこせ、兵糧をよこせとある」
「援軍はとにかく、兵糧とは・・・」
「どうもな、三河にも不穏の風がふいているようなのじゃ」

ここのところ熊野が伊勢に何度も攻め寄せている。
熊野のこの行動は遠江にいる安田義定にとって好ましいものではなかった。
尾張、三河、遠江、駿河といった東海道諸国には伊勢神宮の御厨(荘園)が多い。
伊勢神宮に所領を寄進する見返りとして在地の者は神宮側から数々の恩恵を被っている。
つまり、東海道諸国の伊勢神宮の所領に関わるものは伊勢神宮に思いを寄せている。
その伊勢神宮のある伊勢が熊野に脅かされている。
つい先日は事もあろうに熊野勢が伊勢の内宮、外宮まで押し寄せ擁してすんでのところで撃退された。

これにより、伊勢神宮の御厨に住するものは熊野に反感を抱くようになっている。
ここにいる範頼も伊勢神宮領である蒲御厨に関わるものであるだけに
熊野の一連の行動を快くは思っていない。
範頼の伊勢神宮領を通じての知己も似たような考えを持っているらしい。

三河にも伊勢神宮領は多い。
今まで行家に協力的であった在地のものたちも熊野の一連の行動を知り
熊野を背景に持つ行家に反感を抱くようになっている。
また、伊勢勢によって伊勢湾の制海権から撤退を余儀なくされた熊野水軍の動向をみて
行家の足元を見ているような節もある。

そのような状況により、行家は支配していたはずの三河からの徴兵と兵糧の調達に齟齬をきたすようになってきている。

安田義定は行家からの書状を手に思案している。
行家をあからさまに支援するということは、その背景に熊野があることを承知している伊勢の御厨を
預かっている遠江の住人の反感を呼びかねない。
かといって行家を放っておけば、尾張の目前まで押し寄せた平家の軍勢は瞬く間に尾張を攻め落とし
三河をも制圧するであろう。
そうなれば、遠江は再び平家との最前線に立たされることになり
一旦は従えた遠江やその東隣の駿河の在地勢力がどのような変節をみせるかわからない。

行家を表立って支援できないものの、何もせずに放置しておくわけにもいかないのである。

義定は未だに思案している。

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蒲殿春秋(百四十三)

2007-07-12 05:31:53 | 蒲殿春秋
治承五年(1181年)二月初頭、尾張に押し寄せた源行家は熊野水軍の影をちらつかせながら尾張に播居していた
各反乱勢力を自らの傘下に組み込んだ。
行家が真っ先に接触したのは甥の義円(幼名乙若、円成から改名)であった。
義円は故源義朝(行家の異母兄)の子である。
異母兄頼朝の挙兵当時都にあった義円は、その報を受け都を抜け出して東国へ向かった。
南坂東における反乱勢力の首魁源頼朝の身内として受ける難を怖れてのことである。
共に都を出立した同母兄全成は頼朝のいる坂東を目指したが
義円は全成と袂を分かち妻の父がいる尾張に居ついた。
舅は義円を貴種として厚遇し、時節の到来を待った。
はたして、富士川の戦いで平家が撤退したのち各地で反乱の火の手が上がった。
その流れに乗って義円とその義父は尾張で挙兵した。
美濃源氏敗退の後尾張は直接官軍平家と対峙することとなる。
その対抗策として義円は東隣からやってきた叔父行家と手を組むことに決めたのである。

その後はなだれを打つかのごとく尾張各勢力は行家の下に着くようになった。
二月も中頃になると行家の勢力はますます強大なものとなりその動向が都の人々の耳目を集めることとなる。

一方平家の方は美濃に張り付いたまま動けない。
だが何もしていないわけではない。
朝廷は検非違使を美濃に遣わして在地のものに官軍へ船を回すように指示をした。
尾張との戦いは河川、港湾などの海上からの攻撃や補給が必要だったからである。

膠着状態の中一つの動きが尾張と伊勢湾を向こうに隔てた伊勢で起きた。
熊野勢がまたしても伊勢に攻め込んだのである。
今回は伊勢内宮、外宮にまで攻め入らんばかりの勢いであった。
だが、平信兼らの指揮の下熊野勢は撃退された。
長いこと平家と強いつながりを持つ伊勢勢と海上交通を巡るの争いが熊野にはあった。
この動乱に乗じて起きた伊勢上陸であったが、今回の戦いで伊勢勢力は勢いを盛り返した。
伊勢湾を独占的に牛耳っていた熊野はそこから一時勢力を減退させる。

尾張を巡る美濃河川、伊勢湾からの海上交通の支配権は熊野=行家勢力から平家に移りつつあった。

それ以上にこの熊野と伊勢の諍いは行家に大きな影を落とすことになるのだがそのことを彼はまだ気が付かない。



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蒲殿春秋(百四十二)

2007-07-08 09:52:29 | 蒲殿春秋
高倉上皇の崩御は平家にとって確かに大きな痛手であった。
しかし、悲しんでばかりいられない。
反乱の火の手は全国のあちらこちらで立ち上り、それは拡大の一途を辿っている。
現実にそれに対処なければならない。
高倉上皇が亡くなった直後その遺言が発表された。
畿内およびその周辺各国の武士を徴用して各地の反乱鎮圧に向かわせること。
そして、軍務遂行の為畿内等に管領を置くこと
というのがその内容であった。

その遺言を受けて平清盛の嫡子となっていた平宗盛が畿内惣官に就任し
各地で発生した反乱に対応することになった。
それから後、畿内各地は宗盛の指示の下、兵・人足並びに兵糧などの軍事物資の調達を義務付けられた。

一方、年末から畿内等の反乱勢力の鎮圧に当たっていた平家を中心とする官軍は一定の成果を挙げつつあった。
暮に近江をほぼ平定し、南都勢力を壊滅させた。
そして、年が明けると次なる標的に向かう。
治承五年(1181年)一月反平家勢力として立ち上がっていた美濃源氏らが占拠している美濃へと官軍は兵を進めた。
美濃源氏らは先の戦いで逃亡していた近江源氏の残党を引き込み必死の抵抗を行なった。
官軍、反乱軍共に多大な戦死者を出す激しい戦いの連続であった。

だが一月も半ばになると美濃における戦乱の趨勢が明らかとなってきた。
官軍は美濃源氏の主力をついに叩き潰した。
さらに、一月二十四日蒲倉城に立てこもっていた反乱勢力を壊滅させると美濃の反乱勢力はほぼ一掃された。

官軍平家の次なる平定目標は美濃の東隣尾張であった。
尾張は未だ反乱軍の手の内にあり、美濃の残党勢力の一部は尾張に逃げ込んでいた。
が、官軍はすぐには動けなかった。
昨年末から続いていた近江、南都平定、そして今回の美濃攻略で官軍に属していた兵の多くが失われ、生き残っていた兵の消耗も激しくすぐに戦える状態にはなかった。

宗盛が畿内惣官に就任したものの官軍平家は兵糧米、馬、その他各種物資の補給にも手間取っている。
しかも間の悪いことに近江から連日兵を率いて戦い続けていた大将軍平知盛がここにきて体調を崩して軍の指揮をとることができない状況になってしまった。

その結果尾張を目前にして平家は足踏みを余儀なくされた。

一方今までこの国を支配下においていた美濃源氏の壊滅で統率者を失った尾張は混乱の中にあった。

その混乱の中一人の男が混乱の間隙を突くかのように尾張に現れ
瞬く間に尾張を支配下におさめた。
その男とは源行家━安田義定らの甲斐源氏と熊野水軍を背景に隣国三河を制圧していた人物である。

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