時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(五百八)

2010-07-31 23:56:30 | 蒲殿春秋
さて、ここは山深い信濃国にある諏訪下社である。
この下社に仕える祝の一族の間でひそやかなる密議が繰り広げられていた。木曽義仲亡き後下社に仕える人々がどう生き延びていくのかを。

諏訪大社は四つの宮で成り立っているが、その宮のうち本宮と前宮は上社、春宮と秋宮は下社となっている。
この諏訪大社は信濃国の交通の要所に位置している。この時代、交通の要衝の支配権を巡って多くの者達が争いを繰り広げている。その争いはしばしば武力抗争に発展する。
それが故にこの交通の要衝に位置する諏訪大社は大社と自らの社領を守る為に武力を有するようになる。
その武力は無力な神官たちが武者たちにして守ってもらうわけではない。
神官たる祝自身が弓馬の鍛錬を積み武士となる。そして社に仕えるつわものたちを率いて自ら戦うのである。
この時代の神官は神に仕える神官でもあると同時に有事には弓馬を携えて戦う武士でもある。

治承寿永の内乱が勃発するとご多分に漏れず諏訪社が存する諏訪はいやおうなく戦乱に巻き込まれることとなった。
無用の戦乱を避けるため諏訪社は有力な蜂起勢力と同盟を結ぶことにした。
上社、下社とも当初は信濃に強い影響力を有する甲斐源氏武田信義と、信濃国木曽に生まれ育った木曽義仲の両者と同盟を結んだ。
内乱勃発当時はそれでよかった。
だが、治承寿永の乱も時を経ると、蜂起勢力同士で争うようになってくる。
当初は関係が良好だった木曽義仲と武田信義の関係も微妙なものになってくる。
そうなると諏訪社が同盟を結んでいる両者どちらに肩入れするかが問題となってきた。

その時諏訪社は分裂した。
下社は木曽義仲に接近し、上社は武田信義寄りの立場をとった。
無論あからさまな態度は取らずどちらに軸足を取るかだけの問題であったが・・・

そしてこの年の一月木曽義仲は滅んだ。
義仲寄りの立場をとった下社は今後の身の振り方に苦慮するようになっていた。
この下社にとって朗報が飛び込んでくる。
最近信濃の豪族たちに帰順を求めている源頼朝が下社にも接近を求めているのである。

そして下社を安心させる一言も添えられている。
木曽義仲の遺児義高の身柄は頼朝が責任をもって安全を保証し、その将来にも力添えをする、と。
下社が何故安心をしたのか。
それは、下社の祝の一族が義仲とは昔から深い絆で結ばれていたからである。

下社の祝金刺盛澄の娘は義仲の妻の一人となり一女を儲けている。
そして盛澄の弟手塚光盛の娘は義高の乳母であり、現在義高に付添って鎌倉にいる。
光盛は義仲に最後まで付き従い義仲を守って討死していた。

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蒲殿春秋(五百七)

2010-07-30 06:00:18 | 蒲殿春秋
源頼朝は東海諸国や信濃から一条忠頼の力を削ぎ自らの力を浸透させようと努めていた。
しかし、一条忠頼も無為無策でいたわけではない。

福原の戦いの直後、一条忠頼は同じ甲斐源氏である秋山光朝の人脈を使って運動し「武蔵守」の地位を手に入れた。
しかし、その名目だけでは何の実効力を有さないことを一条忠頼は知っている。
そこでまた一条忠頼はまたしても秋山光朝の人脈を使う。
秋山光朝は、かつて平知盛に仕えていた。
平知盛は平治の乱の後、武蔵守に任じられて以来、長年武蔵国を知行国としていた。
その知盛の元には武蔵国の住人達が頻繁に出入りしていた。
知盛に仕えていた秋山光朝は都の知盛邸やその近辺において武蔵国住人と多くの接触をもっていた。

光朝は一条忠頼が武蔵守になったことを武蔵国住人に触れ回った。
勿論武蔵国住人には鎌倉殿の御家人であるものが多い。
だが、当時複数の主を持つのが当然の世の中である。鎌倉殿の御家人として仕える一方で一条忠頼に仕えてもまったく問題はない。鎌倉殿に仕えるがごとくに新武蔵守にも仕えられよ、そのように近い将来彼等に宣言するつもりである。
秋山光朝は武蔵国住人たちの新武蔵守に対する反応は悪いものではないと感じている。

さらに秋山光朝の活動は広がる。
光朝は故平重盛の娘を妻としている。
よって小松一門と称される重盛の子たちとの交流もある。

福原の戦い(一の谷の戦い)の直前、小松一門は戦線を離脱した。
そして、福原の戦いに敗れた平家一門が屋島に引き上げるとほぼ同時に、屋島に残っていた小松一門の長男維盛が三十艘の船団を率いて南海に向かった。
このような小松一門と光朝は密かに連絡をとっている。

そして、一条忠頼は自らの野望を武蔵国に留まらず甲斐の西隣の国にも向ける。
甲斐の西隣は信濃国。
この国は、甲斐から駿河、遠江、そして北陸の越後へと抜ける重要な国である。
この国は何をおいても自らの手中に収めたい。他のものには取られたくない。相手が同族の甲斐源氏であっても。
いや、同族の甲斐源氏の中において優位に立つためには是非自らが抑えねばならぬ国である。

一条忠頼が木曽義仲征伐に加わった最大の動機は信濃国をめぐる義仲との対立もあった。

その信濃を一条忠頼の手中におさめるべくあらゆる手段がとられることになる。
その一つの手段として一条忠頼はかつての木曽義仲の盟友信濃源氏の井上光盛を手を結ぶ。
一条忠頼に同心した井上光盛はある策を実行すべく自らの郎党を密かに信濃国に送り込んだ。

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蒲殿春秋(五百六)

2010-07-27 05:49:36 | 蒲殿春秋
客人の名は三位中将平重衡。
先の福原の戦い(一の谷の戦い)において捕虜になった平家方の要人である。
彼は現在の平家の総帥平宗盛の同母の弟であり、彼の妻は安徳天皇の乳母である。
まさに平家の要人中の要人と言って良い。
また、墨俣の戦い、水島の戦いといった平家にとって重要な戦いにおいては前線に赴いて指揮を執り常に平家に勝利をもたらした勇将でもある。

このような男が都からはるばる鎌倉へと運ばれてきた。

平家との和睦工作においては朝廷にとって有益な男であったが、和睦が決裂した現在朝廷は重衡の身を持て余していた。
その重衡の身柄を頼朝は引き受けることにしたのである。

現在鎌倉方は平家との交戦は継続しているが、状況によっては和睦に応じても良いと頼朝は思っている。
その際重衡は後々役に立つかもしれない。

そして何よりも頼朝が三位中将という公家の身柄を引き受けるということは頼朝自身の権威を高めることになる。
六位程度の官位を有する豪族達が官位という面で優位に立つ東国において、三位という位はすばらしい輝きを放つ。

その重衡が東国に赴いたとき丁度頼朝が伊豆にいたのである。
甲斐源氏と伊豆の豪族達を引き離したい頼朝にとってはまさにまたとない好機に重衡が来てくれたとしか言いようが無い。

伊豆国府に到着した重衡を頼朝は自らが宿としていた北条邸へと招き入れた。

その重衡を廂に引き入れた頼朝は自らは寝殿の中にいたままで対面の儀を行なった。
三位中将平重衡よりも鎌倉殿源頼朝は上位に座した。

客人として遇されながらも、実際は捕虜である重衡は敵将の前にあっても臆さずに堂々と頼朝に対峙した。
その態度を頼朝は大層気に入った。
戦乱の結果捕虜となった身の上の心情は頼朝自身がかつて痛いほど味わっていた。

この場に呼び集められた伊豆の豪族達は庭先から建物の中にいる二人を眩しそうに見上げた。
やがて、伊豆で随一の勢力を誇る豪族狩野介宗茂が頼朝に呼ばれた。
狩野介は重衡の世話を命じられる。
狩野介は恭しくその命を承る。平伏した後面を上げた狩野介の顔は誇らしげだった。
頼朝はその表情に満足した。
これで狩野介は完全に自分の配下となったことを確信した。
伊豆最大の豪族狩野介を甲斐源氏から完全に引き離し、自分だけの御家人にできるだろう。
頼朝は間もなく鎌倉に戻る。重衡も同行する。狩野介も役目上鎌倉に行かざるを得ない。主な郎党を引き連れて。

間もなく頼朝最大の敵一条忠頼が坂東に戻る。
その時伊豆最大の豪族狩野介は鎌倉に滞在する。伊豆最大の勢力を鎌倉に止めおくことが出来る。

伊豆にいる間も頼朝は、東海諸国や信濃の豪族達との接触に余念が無かった。
一条忠頼を孤立させる策略は着々と進んでいた。

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蒲殿春秋(五百五)

2010-07-24 05:55:59 | 蒲殿春秋
頼朝の御前を退出した工藤祐経は自分のかいた冷や汗に寒気がしていた。
頼朝からは歓待されているようでいて実は二者択一のを迫られている。

頼朝は工藤祐経の所領を条件つきで安堵するといった。
だが、その条件が問題なのである。
今まで主として仰いでいた一条忠頼との縁を切れをいうのである。
その縁を切れなければ、他の伊東の縁者━━例えば伊東祐清の後室やその養子に所領を安堵し力ずくで祐経から所領をいや命さえも奪うというのである。

今までの伊豆の住人達は頼朝に仕えるもの、武田信義ー一条忠頼父子に仕えるもの
そしてその両方に仕えるものが存在していた。
その状況は永遠に続くと思われた。
だが、源頼朝は伊豆の住人達に迫っている、自分以外の武家棟梁に仕えるな、と。

そして、現在の源頼朝の威勢は坂東においては並びないものとなりつつある。
この頼朝には是非とも仕えたい。
だがその条件となっている一条忠義頼との縁切りは気が引ける。
一条忠頼もまた頼りがいのある武家棟梁なのである。

しかし、ここで頼朝の申し出を拒否すれば力ずくで所領を召し上げられる。
そして今自分を守ってくれるはずの一条忠頼は都にある。
さらに、今自分の命は頼朝の手中に有る。ここは狩の場。この場にあって命を奪われても全ては「狩の場の出来事」として片付けられるであろう。

そしてその「狩の場の出来事」を昔自分が引き起こしたことがある。
あの後室の隣に座っていたあの少年の実の父ー河津祐泰の命を奪ったのは祐経自身である。
所領の問題で不利な立場にあった祐経は、事態の逆転を狙って狩の最中に所領を争っていた相手の伊東祐親を殺害しようとした。
だが、祐親を狙ったはずの矢は祐親には当たらず、代わりにその子河津祐泰に当たってしまいその命を奪った。

本来奪うはずの無かった命。
だがその祐経の謀によってあの少年の実の父の命が奪われたのは事実である。

あの少年の目。あの目は実の父の死の真相を知っている目である。
あの目を思い出して祐経は震えた。

一方源頼朝は満足な笑みを浮かべている。
源広綱の存在が伊豆の豪族達を自分の方に引き寄せることを確認した。
乳母子の楓母子が工藤祐経を十分におびえさせた。祐経も伊豆の豪族の動向を見れば自分に従わざるを得ないであろう。

頼朝の満足のうちに狩は終了した。
やがて頼朝は舅北条時政のいる邸に向かった。そこには頼朝が待っていた都からの客人が到着することになっている。
その客人はその時の頼朝にとっては非常に利用価値のある男となっている。

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蒲殿春秋(五百四)

2010-07-23 20:47:47 | 蒲殿春秋
頼朝はこの祐経の表情を見逃さない。
「わしは、伊東入道には意趣がある。だが、この二人には全く遺恨がない。
それどころか伊東九郎には深い恩義がある。わしは伊東九郎の恩義に報いたいと日々願っておる・・・」
頼朝は青くなって体をこわばらせている工藤祐経を見据えた。
「しかしな、この後室は伊東に関しては手を引いても良いと申しておる。」
「?」
工藤祐経はあっけにとられた顔をする。

「この後室は現在は平賀殿に嫁いでおる。その事を考えたらもう伊東のことは誰かに任せても良いとも申している。
それからな、この子は実の父の菩提を弔わせるため出家させることを考えているともな。」
実の父という言葉を聞いて工藤祐経はビクッとした。
頼朝はこの様子を静かに見つめる。

「ただし、誰に任すかはこの後室は決めかねている。伊東の縁者はそなただけではないゆえな・・・・・」
確かに他に資格を有するものは沢山有る。例えばこの少年の兄二人は母の再縁先に引き取られているし、伊東の娘達も色々な豪族に嫁いでいる。

「この後室はこう申しておる。『鎌倉殿にのみ忠誠を誓い、鎌倉殿にのみ奉公するものに伊東を託したい』と。」
この言葉の意味がわかるか?工藤一臈殿?」

「・・・・・」
「わしは、この後室の言葉を大切にしたい。伊東のことはこの後室の言葉を一番に重んじたいと思う。」

頼朝は工藤祐経を鋭く見据えた。
「そなたが現在伊東をよく治めていることは存じておる。そなたに伊東を任せるのが良いと思う。
だが、そなたにはわしではないものを主としておられる。そのようなものに伊東を任すわけにはいかない。
後室の言葉を重んじるならばそなたを廃さねばならぬ。
後室の言葉の為ならば、戦をしてでも後室の意に沿うものに伊東の地を与えねばならぬ。」

工藤祐経は石のように固まっている。
「わざわざ戦をしなくても良いしな。例えば狩の最中に待ち伏せして目障りの者を射殺すという方法もある。」
工藤祐経はぞーっとした。
頼朝の近くにいる少年の瞳が刃のように祐経を貫く。そしてここは狩をしている真っ最中である。
━━ やはりこの子は知っていた。実の父の死の真相を。
かつて祐経が行なったことを。

「だが、わしはそのような物騒なことをしたくはない。
そこでじゃ。」
頼朝は優しい笑みを浮かべた。

「工藤一臈殿。そなたがわしの家人になってくれればそれで良い。
わしの家人になって奉公してくれればわしがそなたの所領を安堵する。
後室もそなたが伊東の所領を領することも了解されるだろう。
ただし、わしの家人になる以上今までの主とは縁を切っていただかねばならぬがな。」

そこに酒肴が運ばれてきた。
「さあ、一献行なおうぞ。」
頼朝はこぼれるほどの笑みを浮かべて工藤祐経に酒を勧めた。

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蒲殿春秋(五百三)

2010-07-21 06:26:39 | 蒲殿春秋
源頼朝は工藤祐経を近くに招き寄せた。
「そなたが工藤一臈か?」
と、問うた。
「はい。」祐経は答える。

「そなたには一度会ってみたいと願っておった。」
「・・・・・・」
「やっと、その願いが叶うてうれしく思っている。」
「恐れ入りまする。」
工藤祐経はほっとしたような顔をした。

「わしは伊東入道に少々意趣があってな・・・・」
頼朝は静かに呟いた。
その言葉の意味を祐経は知っている。
頼朝は愛する女性を奪われ我が子の命まで絶たれたという過去がある。
頼朝が愛したのは伊東祐親の娘。
祐親は流人を婿にするという外聞をはばかり娘と頼朝の仲を引き裂き、二人の間に生まれた子の命を奪った。
その話は伊豆に住まうものならば知らぬものはない。

「そなたと伊東入道との間のことも存じておる。」
「はい。」
伊東祐親と工藤祐経は同族であるが、その同族の間で所領を巡る争いがあった。
一時期両者の仲はそんなに悪いものではなかった。祐親の娘が祐経の妻となっていた時期もある。
だが、ある時から両者の仲は急激に悪化した。挙句の果て祐親は娘を祐経と離縁させ、強引に祐経の領地を奪い取ってしまった。
そのようなわけで佑経は祐親を深く恨んでいた。

頼朝と祐経は共に祐親に対して遺恨がある。

「まずは一献。」
頼朝は祐経を側に引き寄せると側にいるものに酒肴の用意を命じた。

「さて、その前に」
頼朝は二人の人物の方に目を遣った。
「そなたに引き合わせておきたい者がある。無論そなたとは初めて会うわけではないであろうが・・・」
頼朝は二人を近くへ呼び寄せた。

「こちらの女人は、伊東九郎(祐清)の後室、そしてこちらはその子じゃ・・・」
二人をみて祐経はぎくり、とした。

「さて、この二人は伊東の後家と伊東の血筋の男子じゃ。そなたとは縁浅からぬもの・・・・」
二人はじっと祐経を見つめる。
伊東の後家は静かに祐経を見据える。伊東の血筋の男子は鋭い刃のような眼差しを祐経に向ける。
その少年の眼差しに祐経はおびえる。
━━ もしや、この子はあの事を知っているのか?

「この二人は、伊東の縁者。故に伊東の領地に深く関わっている。
本来ならばこの二人が伊東を領してもおかしくは無い。」
「!!!!!」
頼朝のこの言葉に工藤祐経は青くなった。

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蒲殿春秋(五百二)

2010-07-17 09:55:05 | 蒲殿春秋
源広綱の近くにいた身重の女性は、頼朝の乳母子楓。頼朝の乳母比企尼の三女で現在は平賀義信の妻である。腹の中には義信の子を宿している。
義信は楓にとって二度目の夫である。
楓の前の夫はかつて東伊豆で隆盛を誇っていた伊東祐親の子祐清。
祐清は反平家勢力が坂東で勢力をつけてくると都に上り、平家に従いやがて篠原の戦いで命を落とした。
楓はその祐清の後家という立場を持ちながら平賀義信に嫁いだ。
そして、楓の隣にいる少年が祐清と楓の養子である少年。この少年の実の父は祐清の兄河津祐泰。
この少年も伊東氏当主を引き継ぐ権利がある。

東伊豆の豪族達は複雑な思いでこの母子を見つめている。

祐親が死に、祐清が去った後伊東の地には新たなる支配者が現れた。
それはかつて祐親と領地争いを演じ、それに敗れて逼塞していた祐親の甥工藤祐経である。
彼は早急に甲斐源氏と手を結び伊東の地を瞬く間に手に入れた。工藤祐経はかつて平家一門の中の平重盛に仕えていた。甲斐源氏もかつて重盛に従っていたものの多い。そんな都合で甲斐源氏と工藤祐経は以前から近い関係にあった。
工藤祐経が力を得た結果、旧祐親勢力は圧迫され、祐清の妻だった楓は伊東にはいられなくなり鎌倉へと去った。

伊東においていち早く工藤祐経に従った者は、迷惑そうな顔をして楓母子を見つめ、祐経との関係が良好ではないものは懐かしそうな顔をして楓を見つめていた。
そして、一番複雑な顔をしているのは工藤祐経自身である。

かつて工藤祐経が甲斐源氏の力を借りて伊東に乗り込んだ時、楓母子は無力な存在だった。
楓の後ろ盾となるべき頼朝もまだそんなに強大な力を有していなかった。
だが、今は状況が違う。頼朝は東海東山の支配権を朝廷から認められ、平家を福原から追い落とした。
そして楓はその頼朝の乳母子である。頼朝からはどのような支援受けられる。
そして楓の状況も違う。今は平賀義信という強大な後ろ盾がある。

楓が祐清の後家であった事実も消しがたい。現在の夫の力を借りて前夫の後家の権利を主張することもできるし、彼女が養子にしている祐泰の子に伊東を継がせてその後見をすることも可能なのである。

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蒲殿春秋(五百一)

2010-07-15 05:22:54 | 蒲殿春秋
ピュッ!

下河辺行平が放った矢は狙いをあやまたず鹿の急所を射抜いた。
晴れ渡った空の下、ここ伊豆国では鎌倉殿源頼朝の命で狩が行なわれていた。

行平の弟政義が、愛甲季隆が、次々と鹿を射止める。新田忠常などの伊豆の武者達も。

その様子を源頼朝は満足げに見つめる。
頼朝の隣には都風のやや若い男が座っていた。その男は細面の顔に不安げな様子を浮かべている。
その優男の近くには狩に不似合いな二人が座っていた。
一人は身重の女性。そしてもう一人は元服前の少年。

やがて武者達は獲物を手にして頼朝の前にうやうやしく参上した。

伊豆の武者達は鎌倉殿頼朝には当然の如く礼を尽くした言上をしていた。
その後、頼朝が隣にいる優男を武者達に紹介すると彼等はその優男にも恭しい態度で接した。
優男は緊張の色を顔に浮かべながらも、ごく当たり前のように武者達の挨拶を受けている。
だが、優男はあくまでも頼朝より前面に出ることはなく控えめな態度を取り続けている。

一方、身重の女性と少年に対する態度はまちまちだった。
懐かしそうな顔をしながら挨拶をするものと当惑した態度をとりながら挨拶するものが・・・
だが、鎌倉殿の表情を見、そして鎌倉殿とその女性の関係を知る限り彼女達に対しては決して無視したりぞんざいな態度をとることが許されないようである。
そして現在の東伊豆の最大の実力者が彼女達に対して最も当惑した態度を見せている。

頼朝の右隣に座る男の名は源広綱。以仁王と供に命を落とした源三位頼政の孫であり、前伊豆守仲綱の子である。
頼政は長年伊豆国を知行国としており、その子仲綱は伊豆守であった。
その縁で頼政と仲綱は伊豆国の豪族達と私的な主従関係を結んでいた。
そればかりではない。頼政一族はこの国の海を自在に走り抜ける渡辺党の主でもある。
水運に深い縁のある伊豆豪族にとっては渡辺党を従える頼政一族は大切な存在なのである。

その頼政一族の一人広綱がここにいるのである。
伊豆の豪族達はかつての主従関係を思い出し、なおかつ渡辺党との縁の復活を願って広綱との目通りを喜んだ。

この様子をもまた頼朝は内心ほくそえんで見ていた。
伊豆の豪族達と頼政一族との縁は甲斐源氏との縁より深いということが見て取れた。
その頼政一族の一人源広綱を連れてきたのはやはり正解だった。
そしてその広綱はこの狩の間中頼朝をたてていた。さらに頼朝に従うそぶりすら見せている。
かつて祖父が知行国としていた国に流人として過ごしていた男に。

頼朝が流人であったことを記憶に多く止めている伊豆国の住人たちを頼朝に従わせるにはやはりこの男を使うのが最も良い。
そしてこの男を使って甲斐源氏と伊豆国住人たちの縁を断ち切らせる。
伊豆国住人の多くは未だに甲斐源氏とも誼を通じさせているのである。いや、挙兵時から頼朝と甲斐源氏双方を主と仰ぎ続けているが、どちらかといえば甲斐源氏寄りの立場を取るものが多いのである。

かつて二十年流人としてこの国で過ごしていた男は、かつてのこの国の知行国主の孫を従わせている。ある密約をちらつかせながら。

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時政はいったい本当に何していたんでしょうか?

2010-07-12 05:47:01 | 源平時代に関するたわごと
小説もどきにおいて「一ノ谷」まで時政は伊豆にいて甲斐源氏に接近していたという書き方をさせていただきました。
実際には時政はこの頃何をしていたのでしょうか?
実はわからないのです。

「吾妻鏡」寿永元年(1182年)11月14日条において北条時政は「亀の前事件」の影響で伊豆に引き上げました。
その年のその後の記事には時政はもう登場しません。(過去関連記事

翌年の寿永二年(1183年)は「吾妻鏡」の「空白の期間」で一年間記事がまるまる抜け落ちています。

さらにその翌年の寿永三年(1184年)にも三月に時政が手紙を出した記事がありますが、三月に頼朝が「北条」に入ったという記事以外で時政の行動を推測させるものは何もありません。

寿永元年(1184年)のその後の記事も義時は出陣したという記載があるのに時政に関しては何も書かれていません。

その後結局「壇ノ浦」まで時政の名前は出てこずじまいです。

「吾妻鏡」は後世の編纂物で、信用できる記載と疑ってかからなければならない記載が両方ある文献といわれていますが、この時期の坂東の状況を知るには「吾妻鏡」が一番のツールであると思われます。

その吾妻鏡において、寿永三年(1184年)三月に頼朝が北条に立ち寄ったということ以外は時政は何をしていたのか全くわからないということになります。

ですから、「亀の前事件」以降治承寿永の乱が終結するまで時政が鎌倉に戻ったかどうか分からないのです。

ここで考えられることがあります。
この時期、他の御家人たちの名前はよく出てきます。
御家人たちは平家追討に向かったり、守護に任じられていたりします。また、頼朝が幕府としての機構を整えるにあたって色々な文官の名前も出てきます。
つまり平家追討をしてる時期は軍事的にも大変な時期であると同時に幕府の機構を整えるのにも重要な時期だったといえると思います。

その時期に「時政」の名前が全く出てこない。
「吾妻鏡」は北条氏を持ち上げることが特徴ですから、少しでも軍事や政治に時政が関与していたのならば時政を前面に押し出すはずです。
しかし時政の名前が全然出てこない。「手紙をだしました」という記事はありますが・・・

つまり、この平家追討、幕府の機構整備という重要期間において、時政はあまり重要な位置にいなかったのではないかと推理できるのです。
もしかしたら、ある期間伊豆に籠もりっきりだった可能性すらあるのです。

さて、もう一つ「甲斐源氏」との関係ですが、以前書かせていただいた通り「延慶本平家物語」の記載に従うと、北条時政は「石橋山」敗北後、甲斐に逃げ込んでいた可能性があります。(それも頼朝の指示に基づくものではなく自分の意思で)
やはり、北条時政は頼朝の舅であると同時に甲斐源氏にも誼をつないでいた可能性もあります。

小説もどきという自由さから上記の状況をもとに北条時政は「亀の前事件」以降北条時政は伊豆にこもりっきりで甲斐源氏とつながっていたというかきかたをさせていただきました。

それにしても、時政は「治承寿永の乱」の頃本当に何をしていたのでしょうか?

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500回

2010-07-08 05:51:16 | Weblog
四年前から書き始めた小説もどき「蒲殿春秋」が昨日で連載500回となりました。
自分でもここまで書くことができたことに驚いています。
ここまで書くことができたのは読んでくださる方々がいらっしゃるということが一番の支えでした。
ここの駄文にここまでお付き合いくださった皆様にお礼を申し上げます。
そして、多くの方々の目に触れるネットの上に自分の書いた文章を公開ができる「ブログ」というツールの存在の大きさを改めて認識いたしました。この「ブログ」というものが存在していたことにも感謝いたします。

また、会ったことも無い人、見たこともない時代を書くことができたのは、地道な研究を日々なさっている専門家の方々が書いてくださった本や論文の存在があってのことでした。
また、当時を生きた方々が残してくださった「玉葉」などの日記などの存在があったのも
大変幸いなことでした。
専門家の方々の努力と大変な時代を必死に生きてきて後世に歴史の証を残してくださった当時の方々に敬意を表すると共に、感謝の気持ちをここに述べさせていただきたいと存じます。あの大変な時代を必死に生きて子孫に次なる時代へとつないでいってくださった有名無名の方々全てにも。

素人が悪戦苦闘しながら書いている小説もどきですが、まだまだ続きます。
よろしければ今後ともお付き合いいただければ幸いです。