時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

吾妻鏡への疑問1-賀島・黄瀬川間の距離

2007-03-31 20:37:04 | 蒲殿春秋解説
①頼朝軍の駿河進撃の行程が不自然 

まず、これを書かせていただくにあたり、黄瀬川、賀島、富士川の位置関係と
距離をお示しくださいました麁鹿火さまにお礼申し上げます。麁鹿火さまのブログ
麁鹿火さまのご指摘がなければ吾妻鏡のこの記載に疑問すら抱くことはありませんでした。

治承四年十月十六日鎌倉を発向してからの「吾妻鏡」での頼朝の行動を順を追って記していきたいと存じます。

10/16 夜 頼朝相模国府六宮に到着
10/18 夜 黄瀬川に到着
10/20 駿河国 賀島に到着
(10/20深夜 追討軍=平家撤退)
10/21 平家の撤退を確認して頼朝は平家追撃を主張するが配下諸将に退けられる
      その後、黄瀬川に戻る 義経と会う 三島大社に詣でる
10/23 相模国府に到着

と、字で書いているとなんの不都合も発見されませんが
地図に書いてみれば、少しおかしな点が浮かび上がってきます。


地図は白地図、世界地図、日本地図が無料 の素材を利用


まず、黄瀬川と賀島との距離が問題となります。
なんとその間は25kmほどあるのです。
行きの黄瀬川→賀島への移動に二日ほどの日程の余裕がありますが
帰りの賀島から黄瀬川への移動は半日しか要していません。
大軍を率いて半日で移動するのは全く不可能とはいえないものの
その移動の速度はやや速いような気がします。(麁鹿火さまの指摘)

しかも、21日に平家の撤退を確認してから賀島にて軍議を開き
その日のうちに黄瀬川に戻り、義経と対面して、三島大社に詣でるという過密スケジュールです。

21日中にこれらのスケジュールをこなしながら全軍を賀島から黄瀬川に移動させるという日程には
かなりの無理を感じます。
(負けて逃げるのであれば判るのですが、敵の撤退という実質的な勝利でこんなに急いで移動して、
しかもスケジュールが過密というのはかなり不自然です。)

そのように考えるとは「頼朝が大軍を率いて賀島へ行った」ということ自体にどこか無理があるような気がします。

「玉葉」「延慶本平家物語」等には頼朝は賀島へ行ったとの記載はありません。

さらに、先述したとおり「玉葉」等の記載を信じるとすれば
平家の撤退は十月十八日から十九日の間に行なわれた可能性が高いと思われます。

吾妻鏡では二十日夜まで平家が富士川西岸に陣を張っているように書いていますが
それは、頼朝軍によって追討軍が撤収させられたとの印象をつけるための日程操作
のような気がします。

もし、二十日の時点で既に平家がいないのであれば
頼朝が二十日に賀島にいる必要はないと思います。

二十日の夜に頼朝軍、追討軍が両軍が富士川を挟んで対峙して
頼朝の軍が優勢であるがゆえに追討軍が退却した

と読者に思わせるために、「吾妻鏡」筆者がわざと日程操作をして
実は賀島へは行っていない(かもしれない)頼朝を賀島へ行っているかのような
記載をし
平家が二十日夜まで対岸に陣を張っていた

と書いたような気がします。


(つづく)
(4/1一部内容改定)
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吾妻鏡の記載の不自然な点

2007-03-31 20:26:25 | 蒲殿春秋解説
さて、ここのところ富士川シリーズをずっと書いていますが折に触れて
「吾妻鏡」の記載に対しては疑問があると書き続けていましたので
ここで、その疑問について書いてみたいと存じます。

「吾妻鏡」とは何かということですが
これは鎌倉幕府の公式記録という位置づけにあり、
日記形式で記録されてています。
けれどもそれはリアルタイムで記録されたものではなく
各家に残された記録等を元に鎌倉中期に編纂されたものです。

そのようなわけで内容に全面的な信頼を置くわけいかず、
編纂時の誤謬、鎌倉政権とりわけ北条一族に都合が良いように
書き換えられている部分もあるといわれています。
(一時期はかなりの信頼性が置かれていたようですが、
誤謬などの指摘があちらこちらで出てきているようです)

「富士川の合戦」に関しても、
その誤謬や情報操作の疑いをもってかからなければならない部分があります。

さて、私がこの近辺の「吾妻鏡」の記載に疑問を持っている点は
次の通りです。

①頼朝軍の駿河進撃の行程の記載が不自然。
②大庭景親の逃走の件が不自然
③北条父子らの行動が不自然。

③に関しましてはまた時間を置いて別途書かせて頂きます。
まず、①②から書かせていただきたいと存じます。

長くなりますので、詳細は別記事に分けて書かせて頂きます。

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富士川の戦いにおける平家撤退の要因

2007-03-31 10:42:54 | 蒲殿春秋解説
[富士川の合戦] ブログ村キーワード
さて、「富士川の戦い」の「追討軍(平家)撤退の要因」に関しましては
「平家物語」の記載による次のような内容が「通説」になっていると思います。

追討軍(平家)は東海道を徴兵しながら東国へ向かうが
思ったように兵が集まらない。
そんな中、追討軍に付けられた東国の内情に詳しい
斉藤実盛が大将軍平維盛に東国の武者の勇猛さを語ったため
追討軍は戦意喪失する。
さらに、富士川辺に陣を張ったところ
対岸に陣を張る敵方の松明等の明りが多く敵の数の多さに弱気になる。
翌日矢あわせという夜、夜襲をかけようとした軍勢の音に刺激された
水鳥が一斉に羽ばたき
その音を「敵襲」と勘違いした追討軍は慌てふためいて退却する。

しかしながら、お話としては面白いのですが
それをそのまま「史実」として受け取るには少し検証が必要だと思います。

では、この事件を扱った他の史料を当たってみましょう。
まず、「平家物語」の記載に一番近いものに
「山槐記」治承四年十一月六日条があります。
その内容は
「使者云、軍兵在数萬、敢不可為敵対對者、問此後斬首了、或難此事云々、
官兵○千餘騎、更不可合戦、兼又諸国兵仕内心皆頼朝、官兵互恐異心、
暫逗留者欲圍塞後陣云々、忠景等聞此事無欲戦之間、宿傍池鳥数萬俄飛去、
其羽音雷、官兵皆疑軍兵寄来夜中引退、上下競争、自焼宿之座形中持雑具等、
忠度知度不知此事、追退歸、(略)近日門々戸々虚言甚多、此事定少實○」
(「増補史料大成」 28 臨川書店より引用 一部判らない字は○表記しました)

意訳(を試みました)
「使者が言うには、(敵の)軍兵は数万いますこと。
使者に質問した後使者の首をはねました。
官兵は数千騎しかいません。合戦できる兵数ではありません。。
しかも、諸国の兵は心の中では頼朝の味方につきたいと思っているようです。
官兵は恐怖の心を持ちました。このままここに留まると敵が背後に回りこんでしまう可能性があるとも。
忠景らはこの事を聞いて戦闘は避けたほうが良いと考えました。
そうしている間、平家の陣の側の傍らから水鳥が数万飛び立ちました。
その音は雷の音のようで、その音を聞いた官兵たちは敵軍が寄せてきたと思って
夜中に撤収しました。撤収は競い合い、自分の荷物を持ち出して陣を焼き払ってという
あわてふためいたものでした。
忠度、知度はこのことを知らないで後から都に戻りました。
(略)ただし、最近は虚報が多く流れているのでこの話も本当のことかどうかわからない」

とあります。

つまりリアルタイムでも「水鳥の羽音説」も巷にあったらしいことが伺われます。
ただし、「山槐記」ではこの話を紹介した後で「事実かどうかわからない」としています。

また、その二日前(11月4日条)の記事には忠清が都の平宗盛に報告した内容があります。
敵の数が甚大なのに比べて自軍の兵数が少なく
また、駿河の目代が敵に討たれたので
駿河を退却して遠江国衙で待機したいと連絡したとの記事もあります。

つまり、「水鳥以外」の撤退の理由があることを示唆しています。

他の史料ではどうでしょうか?

「吾妻鏡」治承四年十月二十日条 読み下し文
 「(略)また左少将惟盛・薩摩守忠度・参河守知度等、
富士河の西岸に陣す。しかるに半更に及びて、武田太郎信義、兵略を廻らして、
ひそかに件の陣の後面を襲うのところ、富士沼に集まるところの水鳥等群れ立つ。
その羽音ひとへに軍勢の粧をなす。これによって平氏等驚き騒ぐ。
ここに次将上総介忠清等相談して云わく、東国の士卒ことごとく前武衛に属す。
われらなまじに洛陽を出でて、中途において既に圍みを遁れがたし。
すみやかに歸洛せしめ、謀を外に構うべしと云々。
羽林巳下その詞に任せて、天の曙くるを待たずに、にはかにもって歸洛しおわんぬ(以下略)」
(「全譯 吾妻鏡(一)吉川弘文館」より引用)

これを現代文に約すと(一部意訳)
「また左少将惟盛・薩摩守忠度・参河守知度等が富士川の西岸に陣を張りました。
そうしているところ、夜更もふけた頃、武田太郎信義が、密かに平家の陣の背後を襲おうと
軍勢を動かそうとしたところ、富士沼に群れを作っていた水鳥が飛び立ちました。
その羽の音は軍勢の動く音に似ていました。これを聞いた平家の人々は驚いて騒ぎました。
そのような折次将の上総介忠清は人々と相談していうには
東国の兵はことごとく頼朝についてしまいました。
自分たちは東国を征伐するために都を出ましたが、この情勢ではとてもかないそうにありません。
都に戻って他の手段を考えましょう。
惟盛以下の人々は、忠清の言葉を聞き入れ、夜明けを待たずに急に都へ引き返しました。」

「吾妻鏡」によると
「水鳥で驚いた」記載はあっても、
「撤退の直接の原因」は東国の情勢を見た平家首脳部の判断になっています。

一方で「玉葉」では
「(略)同十八日富士川辺に仮屋を構へ、明暁十九日攻め寄すべき支度なり。
而る間官軍の勢を計る処、かれこれ相並び四千余騎、手定めの陣を作り議定巳に了り、
各休息の間、官兵の方数百騎、忽に以って降り落ち、敵軍の城に向かい了んぬ。
拘留する力無く、残る所の勢、僅かに一二千騎にも及ばず。武田方四万余と云々。
敵対に及ばざるに依り、○に以って引き退く。これ則ち忠清の謀略なり。
維盛に於いては、敢へて引き退く心無しと云々。而るに忠清次第の理を立て、
再三教訓し、士卒の輩、多く以ってこれに同ず。仍にもって黙止するに能わず。
京洛に赴きしより、軍兵の気力、併せながら衰損し、適残る所の輩、過半逐電す。(以下略)」
(訓読玉葉」(高科書店)より引用)

現代文(意訳)
「十八日富士川辺に仮屋を作り、明日明け方に十九日敵を攻撃する支度をしました。
そうしている間に官軍の兵数を数えてみたところ大体四千騎位でした。
休息をとっている間、官兵にいたはずの兵が数百騎程敵の陣に投降してしまいました。
それを止める力も官軍にはありません。
ここにきて官軍の兵総数は一二千騎にも満たない数になってしまいました。
一方武田方は四万余らしい。
とても戦える戦力差ではありません。
そのようなものですから、忠清の策で官軍は都に撤退しました。
維盛には撤退の意志はありませんでしたが、忠清の再三の説得で多くの兵がその意見に同意
したので、維盛も撤退に同意しました。」

「玉葉」では「水鳥」はまったく出てきません。

まとめてみます。
「山槐記」 
 「水鳥に驚いて撤退」という話はあるものの「事実かどうか判らない」

「吾妻鏡」
 「水鳥」の記載はあるがそれが直接の撤退原因ではない。

「玉葉」
 「水鳥」自体出てこない。

以上のことを考察してみますと
追討使が「水鳥の羽音」に驚いた事実はあった可能性はありますが
それが直接の撤退の原因ではなく
東国の情勢をみた平家首脳部(主に忠清)の軍事的判断であったと
考えるのが妥当だと思います。

「吉記」に関してはこちら 各史料のまとめはこちら

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2007.3.31up

富士川の戦いが行なわれたのは何月何日か③

2007-03-30 23:25:57 | 蒲殿春秋解説
さて、「玉葉」には正確な撤退の日時が記されていません。
しかし、前後の文章を読んでみるとある程度判断できそうです。
18日に富士川べりに陣を張ってからそんなに長時間滞留できたとは思えません。
記事によると19日暁に敵を攻める予定で仮屋を作っています。
ということは、19日になると敵にすぐ攻め入ることのできる場所にいるということです。
逆に言えば、敵もすぐに追討軍側に攻め入ることができる場所にいたということです。
しかしながら、「玉葉」には交戦したというような記録はなく
忠清の策で撤退したとのみあるだけです。
追討軍側が撤退しなければ当然敵と交戦があったとものと思われます。
また、自軍より敵軍の方が数の上では圧倒的多数であるのがはっきりしていたのですから
それが判った時点で大軍の敵の前に少人数で長時間待機するのは現実的な判断だとは思えません。

そのように考えますと、敵とは本格的な交戦が行なわれる可能性のある前、具体的には
陣を張った18日からそう遠くない時間つまり19日早朝までには撤退していたのではないのかと推測できます。

一方「玉葉」と同時期に書かれた史料として
「山槐記」(著者 中山忠親)があります。
それによると(11月6日条)
10月18日に追討軍が駿河にあり
10月19日に頼朝から書状が届きその夜以降撤退
(撤退の時間帯は夜と書いてあります)
という内容になっています。

それに従うと追討軍の撤退は10月19日夜以降のこととなり
「玉葉」より一日以上のズレが生じます。

なお「玉葉」と「山槐記」では「書状の到着」と「撤退」が一日ずつズレています。

ただし、「山槐記」の記事も「玉葉」同様「伝聞」によってかかれたものであり
また、夜中に起こった事件は著者や伝聞者の感覚によって日付が変わることがままあることです。

正確なことは言い切れませんがリアルタイムに記された史料の記載に従えば
10月18日深夜から19日深夜の間に撤退が行なわれたと見るべきなのではないか
と私は思うのです。
(吾妻鏡10/20夜説に関しては別途書かせて頂きます)

さて、「玉葉」「山槐記」どちらの日付を信じるべきかと問われれば
富士川の合戦の伝聞のソースが「従軍した人」であり、摂関家の一員で右大臣の要職にあった
「玉葉」の著者兼実の方に正確な情報が集まったのではないかと
私はあえて答えたいと思います。

ps.
「山槐記」の記事を読むと不思議な部分があります。
11月4日条にも富士川に関する記載があるのですが
そこには「忠清」が維盛の側にいると読み取れる記載があります。

しかし一転11月6日条では「忠清」の名前は全く無く
代わりに「忠景」が維盛の側に現れます。

これは、一体何なのか非常に疑問です。
(「玉葉」は「訓読玉葉」第四巻 高科書店 1989.3
「山槐記」「増補史料大系28巻」臨川書店 1985を使用しました)

*KMさまより「富士川に合戦」に関することを詳しく書かれましたサイトをご紹介いただきました こちらです
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富士川の戦いが行なわれたのは何月何日か?②

2007-03-30 22:56:30 | 蒲殿春秋解説
さて、「富士川の戦い」の日程の考察に使用した史料に
「玉葉」「吾妻鏡」「延慶本平家物語」を挙げましたが
このなかでどの史料に信を置くべきなのでしょうか?

まず、その記事(追討使の富士川からの撤退)が書かれたのはいつかということで「時間軸」という点で
検証してみたいと思います。

「玉葉」
  治承4年11月5日条に記載
  日記という性格を考えるとその当日(11/5)頃に記されたと見るべき
「吾妻鏡」
  鎌倉中期以降の編纂物
「延慶本平家物語」
  元ネタはもう少し前と推察されるが、「延慶本」自体は鎌倉後期以降に成立

時系列で考えると
「玉葉」がもっとも合戦に一番近い時期に書かれたものと思われすので
一番信頼を置くべきかと思われます。

さて、次に「信頼性」を損なうものに関する考察です。
「玉葉」
  著者九条兼実(当時右大臣)は都にいて合戦の内容は「伝聞」
「吾妻鏡」
  後世の編纂物であるから、鎌倉政権にとって都合が良いように
  曲筆されている可能性がある。
「延慶本平家物語」
  フィクションである部分が多分に含まれる。

この考察においても
「玉葉」には「伝聞」の不利さはあってもやはり一番の信頼を置くべき史料なのではないのか
と考えられます。
(「吾妻鏡」に関しましては後ほど他のことも含めて詳述したいと存じます)

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富士川の戦いが行なわれたのは何月何日か?①

2007-03-25 14:45:43 | 蒲殿春秋解説
3/30一部内容を改定しました。

「富士川の戦い」における日程は諸本によってかなり違います。
まず、「追討使(平家)の撤退」に関しての日付は次の通りです。

玉葉      10月18日以降の早い時期
 (退却自体の日付の記載はなし)
吾妻鏡     10月20日(の深夜か?)
延慶本平家物語 10月24日夜
(その他平家物語諸本もおおむね10月24日説を採用)

次に、各史料の主な行程を表にしてみました。


行程記事 玉葉 吾妻鏡 延慶本平家物語
追討使進発 9/29旧都を出発 9/29(進発場所の記載なし) 9/18に旧都に入った後に進発(旧都進発日記載なし)
追討使駿河行軍記事 10/16高橋宿 10/13手越宿 清見関(日付の記載なし)
反乱軍からの書状 10/17甲斐源氏より 記載なし 10/22以降頼朝より
頼朝の黄瀬川到着 記載なし 10/18夜 10/22
追討軍富士川到着 10/18 10/20 記載なし
頼朝軍賀嶋到着 記載なし 10/20 記載なし
追討使退却 10/18以降の早い時期 10/20(夜) 10/24夜
追討使帰京 11/5 11/2 11/15(月の記載なし)

下記は出てくる地名の場所です



さて、この中でどの史料に一番の信頼を置くべきなのかということに関しては
また続きを書かせていただきたいと存じます。

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頼朝挙兵から富士川までの流れのまとめ

2007-03-24 23:16:38 | 年表

今回は流れが複雑なので各勢力別に時系列を並べてみました。なお、()内は出典元です。(吾)は吾妻鏡の略です。

日付 頼朝勢力 甲斐源氏 信濃 その他 東国平家方 平家
8月17日 挙兵(吾)          
8月23日 石橋山(吾)          
8月24日 由比ガ浜合戦(吾)          
8月25日   波多志山にて俣野景久、橘遠茂と交戦(吾)        
8月27日 衣笠落城(吾)          
8月28日 頼朝安房に船出(吾)          
8月29日 頼朝安房上陸(吾)          
9月1日 頼朝安西景益邸へ入る(吾)          
9月3日       熊野に不穏の動き(玉葉)   頼朝謀叛の知らせ到着(玉葉)
9月6日           頼朝敗北の知らせ到着(玉葉)
9月7日     市原の戦い(吾)      
9月10日   菅冠者を討つ(吾)        
9月11日           上総介等頼朝与力の噂到着(玉葉)
9月13日 頼朝上総へ出発(吾)          
9月15日   甲斐に帰還(吾)        
9月17日 頼朝下総へ出発(吾)          
9月19日     鎮西謀反(玉葉)    
9月21日           追討使福原出発(玉葉)
9月22日           追討使小屋野宿泊(玉葉)
9月23日           追討使入洛(玉葉)
9月24日   駿河終結を議す(吾)        
9月29日           追討使出発(玉葉)
9月30日         新田義重自立、足利俊綱焼き討ち(吾)  
10月1日 頼朝鷺沼(吾) 駿河目代甲斐との合戦準備(吾)    

駿河目代
甲斐との合戦準備(吾)

 
10月2日 頼朝墨田(吾)          
10月3日 伊北常仲を討つ(吾)          
10月4日 秩父一族頼朝に参向(吾)          
10月6日 頼朝相模に入る(吾)          
10月13日   駿河へ進発(吾) 義仲上野入り(吾)     駿河手越宿(吾)
10月14日   駿河勢に勝利(吾)        
10月16日 鎌倉→相模国府(吾)         駿河高橋宿に到着(玉葉)
10月17日   平家に使者を送る(玉葉)     波多野義常自殺 (吾) 甲斐源氏の使者を殺す(玉葉)
10月18日 夜頼朝黄瀬川到着(吾)       大庭景親河村へ逃亡 (吾)? 富士川沿いに仮屋を建設(玉葉)
10月19日         伊東祐親連行される(吾) 早朝退却(玉葉)

 

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ふと一言

2007-03-21 15:36:45 | Weblog
自分で設定していた
「三月中に富士川の戦いを書く」という目標がとりあえずクリアできました。

この時代に関してある程度知識をお持ちの方は
このあたりを読んで「通説と違うのでは?」と疑問をお持ちになられたのではないのかと思います。
確かに、通説では「源頼朝vs平家」
そして「頼朝の大軍と水鳥の羽音に驚いて平家撤退」
という内容で語られています。

けれども、「吾妻鏡」「延慶本平家物語」「玉葉」を読み合わせてみると
合戦等の日付などの不一致があり、
また通説の元となっていると思われる「吾妻鏡」の記載にはいささか不自然な点も見受けられます。(といっても、通説に対する影響は語り系「平家物語」の方が大と思われますが)
さらに、「吾妻鏡」の書かれた背景、
頼朝や甲斐源氏の政治的位置などを考えると
通説と違う「富士川の合戦」の見方ができるのではないのかと思い
ここまで書いてみました。

それについて、これから少し書かせていただきたいと存じますので
お付き合いいただければ幸いに存じます。

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