①頼朝軍の駿河進撃の行程が不自然
まず、これを書かせていただくにあたり、黄瀬川、賀島、富士川の位置関係と
距離をお示しくださいました麁鹿火さまにお礼申し上げます。麁鹿火さまのブログ
麁鹿火さまのご指摘がなければ吾妻鏡のこの記載に疑問すら抱くことはありませんでした。
治承四年十月十六日鎌倉を発向してからの「吾妻鏡」での頼朝の行動を順を追って記していきたいと存じます。
10/16 夜 頼朝相模国府六宮に到着
10/18 夜 黄瀬川に到着
10/20 駿河国 賀島に到着
(10/20深夜 追討軍=平家撤退)
10/21 平家の撤退を確認して頼朝は平家追撃を主張するが配下諸将に退けられる
その後、黄瀬川に戻る 義経と会う 三島大社に詣でる
10/23 相模国府に到着
と、字で書いているとなんの不都合も発見されませんが
地図に書いてみれば、少しおかしな点が浮かび上がってきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/62/4470bfbea5457fe04397311ab0c0eab2.png)
地図は白地図、世界地図、日本地図が無料 の素材を利用
まず、黄瀬川と賀島との距離が問題となります。
なんとその間は25kmほどあるのです。
行きの黄瀬川→賀島への移動に二日ほどの日程の余裕がありますが
帰りの賀島から黄瀬川への移動は半日しか要していません。
大軍を率いて半日で移動するのは全く不可能とはいえないものの
その移動の速度はやや速いような気がします。(麁鹿火さまの指摘)
しかも、21日に平家の撤退を確認してから賀島にて軍議を開き
その日のうちに黄瀬川に戻り、義経と対面して、三島大社に詣でるという過密スケジュールです。
21日中にこれらのスケジュールをこなしながら全軍を賀島から黄瀬川に移動させるという日程には
かなりの無理を感じます。
(負けて逃げるのであれば判るのですが、敵の撤退という実質的な勝利でこんなに急いで移動して、
しかもスケジュールが過密というのはかなり不自然です。)
そのように考えるとは「頼朝が大軍を率いて賀島へ行った」ということ自体にどこか無理があるような気がします。
「玉葉」「延慶本平家物語」等には頼朝は賀島へ行ったとの記載はありません。
さらに、先述したとおり「玉葉」等の記載を信じるとすれば
平家の撤退は十月十八日から十九日の間に行なわれた可能性が高いと思われます。
吾妻鏡では二十日夜まで平家が富士川西岸に陣を張っているように書いていますが
それは、頼朝軍によって追討軍が撤収させられたとの印象をつけるための日程操作
のような気がします。
もし、二十日の時点で既に平家がいないのであれば
頼朝が二十日に賀島にいる必要はないと思います。
二十日の夜に頼朝軍、追討軍が両軍が富士川を挟んで対峙して
頼朝の軍が優勢であるがゆえに追討軍が退却した
と読者に思わせるために、「吾妻鏡」筆者がわざと日程操作をして
実は賀島へは行っていない(かもしれない)頼朝を賀島へ行っているかのような
記載をし
平家が二十日夜まで対岸に陣を張っていた
と書いたような気がします。
(つづく)
(4/1一部内容改定)
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まず、これを書かせていただくにあたり、黄瀬川、賀島、富士川の位置関係と
距離をお示しくださいました麁鹿火さまにお礼申し上げます。麁鹿火さまのブログ
麁鹿火さまのご指摘がなければ吾妻鏡のこの記載に疑問すら抱くことはありませんでした。
治承四年十月十六日鎌倉を発向してからの「吾妻鏡」での頼朝の行動を順を追って記していきたいと存じます。
10/16 夜 頼朝相模国府六宮に到着
10/18 夜 黄瀬川に到着
10/20 駿河国 賀島に到着
(10/20深夜 追討軍=平家撤退)
10/21 平家の撤退を確認して頼朝は平家追撃を主張するが配下諸将に退けられる
その後、黄瀬川に戻る 義経と会う 三島大社に詣でる
10/23 相模国府に到着
と、字で書いているとなんの不都合も発見されませんが
地図に書いてみれば、少しおかしな点が浮かび上がってきます。
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まず、黄瀬川と賀島との距離が問題となります。
なんとその間は25kmほどあるのです。
行きの黄瀬川→賀島への移動に二日ほどの日程の余裕がありますが
帰りの賀島から黄瀬川への移動は半日しか要していません。
大軍を率いて半日で移動するのは全く不可能とはいえないものの
その移動の速度はやや速いような気がします。(麁鹿火さまの指摘)
しかも、21日に平家の撤退を確認してから賀島にて軍議を開き
その日のうちに黄瀬川に戻り、義経と対面して、三島大社に詣でるという過密スケジュールです。
21日中にこれらのスケジュールをこなしながら全軍を賀島から黄瀬川に移動させるという日程には
かなりの無理を感じます。
(負けて逃げるのであれば判るのですが、敵の撤退という実質的な勝利でこんなに急いで移動して、
しかもスケジュールが過密というのはかなり不自然です。)
そのように考えるとは「頼朝が大軍を率いて賀島へ行った」ということ自体にどこか無理があるような気がします。
「玉葉」「延慶本平家物語」等には頼朝は賀島へ行ったとの記載はありません。
さらに、先述したとおり「玉葉」等の記載を信じるとすれば
平家の撤退は十月十八日から十九日の間に行なわれた可能性が高いと思われます。
吾妻鏡では二十日夜まで平家が富士川西岸に陣を張っているように書いていますが
それは、頼朝軍によって追討軍が撤収させられたとの印象をつけるための日程操作
のような気がします。
もし、二十日の時点で既に平家がいないのであれば
頼朝が二十日に賀島にいる必要はないと思います。
二十日の夜に頼朝軍、追討軍が両軍が富士川を挟んで対峙して
頼朝の軍が優勢であるがゆえに追討軍が退却した
と読者に思わせるために、「吾妻鏡」筆者がわざと日程操作をして
実は賀島へは行っていない(かもしれない)頼朝を賀島へ行っているかのような
記載をし
平家が二十日夜まで対岸に陣を張っていた
と書いたような気がします。
(つづく)
(4/1一部内容改定)
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