時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

大庭御厨事件

2007-01-23 00:00:36 | 蒲殿春秋解説
さて、小説の中でちらっと書いた「大庭御厨事件」
これはなあに?
と思う方もいらっしゃるかと思います。

天養元年(1144年)
相模国の伊勢神宮領大庭御厨に相模国田畑目代と源義朝(頼朝らの父)の派遣した郎党が
乱入して、領地を散々に荒らして帰っていきました。
狼藉は数回に及びました。
大庭御厨を管理していた大庭氏は都に訴えますが
なしのつぶて。

それもそのはず、この乱入事件は「田畑目代」も同行しているのをみても判るように
相模国司の黙認のもと行われた事件だったのです。

そして、その相模国司を任命していのが
時の最高権力者鳥羽法皇。
相模は法皇自らの知行国だったようなのです。

義朝の背後に国司がいれば、その国司の後ろには鳥羽法皇がいる。

このような図式の下ではいくら伊勢神宮の領地を預かっているからといっても
大庭氏は泣き寝入りするしかありません。

さて、それからしばらくして「保元の乱」が発生しますが
そのとき大庭景親は源義朝の配下として姿を見せます。

これを大庭御厨事件で大庭氏を義朝が家人化させた結果
という見方もあるようですが
大庭氏を保元の乱に動員上洛させるには
「相模国衙」の指示があったのではないのかという指摘もあります。
(国衙の指示説=元木泰雄「武士の成立」他)

つまり、景親は内心非常に不愉快な思いをしながらも
「国衙」の命令には逆らえず、仕方なしに義朝の配下に入った可能性もあります。

ちなみに、保元の乱から三年後の平治の乱には景親は姿を見せてはいないようです。
(「新日本古典大系「保元物語・平治物語・承久記」)

そのように考えると
確かに景親は義朝に対しては後世(江戸時代)のような絶対的な主従関係があったとは
思えず
むしろ、「あのときは飛んだ目に合わされた」と思っていたのではないのかと
私は思うのです。


*平治の乱に義朝配下として参戦した武士は保元の乱よりも少ないように思えます。

義朝と個人的な関係の深い南坂東武士(三浦、上総介、山内首藤)
首謀者信頼の弟信説が国司だった武蔵の武士(足立、平山)
左馬頭(義朝の官職)として関係の深い馬を扱う「牧」を預かる武士(平賀、片桐)
という面々が参加している傾向にあったようです。
(上記「新日本古典大系」より)

ちなみに、「保元物語」に名前があって「平治物語」(新日本古典大系)に
名前がない氏族は主な所で

千葉、河越、大庭、波多野など

これらの氏族はけっこう大物です。


☆前の記事で軍記物を「事実をもとにしたフィクション」と書いていましたが
軍勢の内容を知る同時代の史料が他に無い為
だれが参戦したかを知るには
「保元物語」と「平治物語」から情報しかないう事情があるのです。
ですから、「信憑性は薄いものの、これしかない」という状態であることを前提にお読みいただければ幸いです。

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1 コメント

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大庭景親の豊前の岩石城築城 (大庭弘二)
2018-04-13 06:16:05
大庭三郎景親の子孫です。景親は保元3年に豊前の岩石城を平清盛の命で築城しています。確かに保元の乱では源氏方で戦っていますが、平治の乱で景親が源氏方に付いていたら、この史実は成立しません。
従って、平治の乱の時は、大庭景親は既に清盛の配下にあって、それを支える立場にあったと考えられます。豊前の岩石城を調べて下さい。
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