時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(六百二)

2013-10-31 22:59:01 | 蒲殿春秋
検非違使に任ぜられた源義経は前にもまして多忙な日々を送っていた。
都の治安維持を図るのはたやすいことではない。
さらに義経にはさまざまな相談事が寄せられる。
土地の訴訟、新たに畿内にやってきた御家人と荘園領主とのいさかいの仲介
果ては、貴族の邸宅の清掃の手伝いの依頼まで寄せられる。

そのような義経を支えるのに文官が必要になるのであるが、
実務に長けた文官を呼び寄せる人脈は義経には足りない。
ただ、義経には鞍馬で修行していたという経歴がある。
鞍馬は比叡山の末寺である。義経は鞍馬を通じて比叡山に通じる人脈を持っている。
比叡山は多数の荘園を抱え、その荘園の諸問題を解決する能力に長けた僧侶も存在する。
そのような僧侶たちがが義経の足りない人脈を補っている。

今日も義経は数々の訴訟に追われていた。
激務の中多数の訴訟をこなす義経には疲労の色がにじんでいた。
当初兄頼朝を見習って時間をかけてじっくり双方の意見を聞いていた義経であるが
とうていそのような時間が取れない。
しかも双方ともに早急なる勝利を要求する。
さらに、東国の武士とは違い訴訟のなんたるかを知っている畿内の者たちは簡単に採決には納得せず
何度も何度も採決のやり直しを要求してくる。

義経は訴訟の沙汰は以前の綿密さを欠くようになっていった。
それでも訴訟、そして御家人の行動を濫行とみなす畿内の人々の訴えは後を絶たない。

そのような義経をさらに多忙とさせる事態が発生した。
鎌倉にいる兄頼朝から伊賀伊勢の反乱に加わった平信兼父子を誅せよとの命令が下された。

義仲を討伐する際、信兼の協力は大きかった。
そのことを思えば信兼を討ち滅ぼしたくはなかった。
しかし、伊賀伊勢の乱に関与した信兼を放置することはできない。

義経は兄の命令通りに信兼親子を討ち滅ぼした。

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