時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

佐々木兄弟に関するたわごと

2012-02-08 23:36:18 | 源平時代に関するたわごと
久々の更新になります。

頼朝の挙兵以来、いや流刑時代からの功臣ともいえる佐々木兄弟についてです。
平治の乱に敗れた義朝に従った為に近江の領地没収の憂き目に遭い相模国渋谷重国の元に身を寄せた佐々木秀義には五人の息子がいました。

長男 定綱
次男 経高
三男 盛綱
四男 高綱
五男 義清

です。

彼等は異母兄弟です。

定綱、盛綱、高綱ー母 源為義娘
経高ーーーーーーー母 宇都宮氏
義清ーーーーーーー母 渋谷重国娘

と系図ではなっているようです。

ただこの系図通りの母親だったとすると「変だな?」と思うところがあります。

それは、為義娘が母とされる三人の名前から感じています。

三人に共通する字は「綱」です。
で、この「綱」という字は宇都宮氏に多く使われている字なのです。

八田宗綱ー宇都宮朝綱ー成綱ー頼綱

と代々宇都宮氏は「綱」という字を使用しています。

一方、宇都宮氏の娘を母としているはずの経高は「綱」という文字を使用していません。

また、頼朝の挙兵の頃長男定綱は宇都宮にいて経高は相模国にいたようです。
そう考えると定綱の方が経高より宇都宮氏に縁が近かったような気がします。


そのように考えると実は為義娘を母とされる定綱、盛綱、高綱三兄弟の方が実は宇都宮氏に近い人が母方だったんじゃないかな、と最近妄想しております。

ここに書いたことはあくまでも妄想です。


すいません。まだ小説の更新遅れてます。

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時政と吉田経房

2012-01-28 21:40:20 | 源平時代に関するたわごと
久しぶりの更新になってしまいました。
まずは近況報告をさせていただきます。

年が明けてからも多忙となってしまいました。
ここにきてやって多忙の波も落ち着いてきたのですが、今度は読書熱に侵されてしまいました。
今年の大河ドラマが「平清盛」ということもあり、平安末期に関する関連本が多数出版されています。
その中で専門の方がお書きになった良書も出版されてますので、(財布の中身がかなり痛いのですが)つい購入して読みふけっておりました。

そして今度は、「現代語訳吾妻鏡」に嵌っています。

ここ暫くの間読む閑も無かったのですが、あることを調べたくて読んでいるうちについ嵌ってしまったという次第です。
現在も「現代語訳吾妻鏡」に嵌っております。

というわけで小説の更新はもう暫くお待ちください。

ここから先は吾妻鏡で現在読んでいるところで気になるところを書かせて頂きます。

文治元年(1185年) 平家が滅んだ後義経と険悪になった頼朝は義経失脚後舅の北条時政を上洛させます。

この時都側の窓口になっているのが院近臣でもある吉田(藤原)経房さんです。

前にも書かせていただいた通り吉田経房さんはこの時代を調べるには欠かせない日記「吉記」の筆者です。

頼朝が吉田経房さんを窓口に指定した理由は推測がつきます。

実は平治の乱以前頼朝と同時期に経房が上西門院に仕えていたのです。
つまり、頼朝にとっては経房は職場の同僚だった時期もあり口をきいてもらうのに好都合だったのではないかと思うのです。

そして、何故時政が鎌倉側の交渉人になったのでしょうか?
九条兼実は時政のことを「北条丸」と記しています。
兼実は時政をかなり下にみています。
つまり、都から見れば頼朝の舅とはいえその程度の存在にしか過ぎない人です。

当時頼朝からみて都との交渉に使えそうな人は他にいなかったんでしょうか?

当時の頼朝の親族は(義経を除く)
異母弟 範頼、全成
姉婿 一条能保

くらいしかいません。

で、範頼ですが、範頼の都での窓口になりそうなのは藤原範季ですが
範季は義経に通じているという疑惑をもたれています。
このような状況では範頼が義経の二の舞になる可能可能性もあり範頼を都に送るわけにはいきません。

全成は出家してますし義経の同母兄です。やはり交渉人にはできません。

一条能保は都に住んでいましたが、この時期は色々な都合で鎌倉に来ていて鎌倉にいる必要があったようです。

それで後は親族扱いできそうなのは北条時政くらいしかいなかったというのが実は本音だったんじゃないかななどと考えています。

ただ、もう一つだけ北条時政が窓口に選ばれた理由になりそうなものがあります。

それは吉田家に伝わる文書の中に、経房が伊豆守だったときに時政との交流を示す内容が残されているらしいのです。

それならば、経房を朝廷側の窓口に指定したい頼朝にとっては好都合だったと思います。

ただし、この経房を交渉窓口に指定した主体者はあくまでも頼朝だったと思います。
先ほど述べたように、頼朝と経房は職場の同僚という関係もあり、頼朝は経房の人柄をかなり買っていたようなのです。

時政と経房との間につながりがあったとしても頼朝と経房との関係に比べると希薄であると思います。
経房が伊豆守でいたのは10歳から17歳の間までのことで、しかも現地には行っていないのですから。

ただこの上洛は元々都とのそれなりのつながりをもっていたと推測される時政にとってはかなりメリットのあるものだったのではないだろうか
ということは言っていいのかも知れないと思っております。

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見る時代によって見え方が違う

2011-10-30 07:22:31 | 源平時代に関するたわごと
おはようございます。
久々に「たわごと」書きです。

さて、こちらのブログでは治承寿永の乱(源平合戦)の頃を書いていますが、
もう一つのブログでは(当初はそんなつもりでは無かったのですが)
保元平治の頃を中心に書いています。

この両方の時期を平行して書いていると自分の中で混乱がおきます。

治承寿永の頃と保元平治の頃では世の中の仕組みや社会情勢や、人々の意識が違いますし、戦乱の規模も全く違います。

近いけど違う時代を書いている気分になります。

ですから、近い日付で両方のブログを書いているときは頭の切り替えが必要になってきます。

また、治承寿永の頃と保元平治の頃に共通して出てくる人物がいます。

源頼朝です。

治承寿永の頃は、「鎌倉殿」として、御家人達の上に立つ存在であり、
夫であり、父であり、弟達の兄であり、政治的重要人物でもあります。

しかし、保元平治の頃は元服したての坊やで、父親にくっついている息子で、兄達もいて、政治的にもそんなに意味のある立場にはいません。

一人人物を書くとしても登場する時代によって書き方が違ってくるものだと現在実感しております。

余談ですが、
もしこの先承久の頃を書く機会があったとしたら、
源頼朝は半ば神格化された人物として書かれるでしょうし、
このブログで登場する他の人物でも
青年江間(北条)義時は老獪な政治家、少年小山(結城)朝光は治承寿永期を生き抜いた長老扱い
土肥実平、梶原景時は故人として書かれることになるでしょう。

一人の人物をどの時代の目線で見ると描き方にどのような変化がおきるのかというのも
、一種の興味がわいています。書いている本人がいうのもなんですが。

さて、
来年の大河「平清盛」は清盛に若い時代を中心として描くらしい
ということで私は非常に興味をもっております。

小説やドラマに登場する清盛は
中年以降が描かれている場合が多いので
「貫禄ある大物」というイメージが張り付いていて
「若い清盛」というイメージはわきにくいものが世の中にはあると思います。

来年「若い清盛」はどのように描かれるでしょうか?

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朝の由来は?

2011-01-27 05:53:18 | 源平時代に関するたわごと
昨日「中宮右近朝岳」さんは何者?と書かせていただきましたが、
それに伴って前々から疑問に思っていたことを書かせて頂きます。

歴史上有名な人物の一人に挙げられる源頼朝ですが、彼の名前の由来は恐らく次のようなものであると思われます。(定説はないですが時々見かける内容です。)

頼ーーー烏帽子親と推定される藤原信頼から、もしくは清和源氏の通字
朝ーーー父親の義朝から

以前にも書かせていただいた通り
当時の男性の名前は、先祖代々字または父から一文字+烏帽子親から一文字
というパターンが多かったようです。

さて、そうだとすると頼朝が父親からもらった「朝」の字をその父親が誰から貰ったのだろうか?という疑問が沸いてくるのです。

義ーーー頼義・義家以来の先祖からの通字
朝ーーー???

「朝〇」または「〇朝」という人物と義朝となんらかのつながりがあると思うのですが
いったそれが誰なのか見当がつきません。

ただ、それが誰かわかれば義朝の持つ人脈の一つがわかりそうな気がします。

例えば平忠盛ですが、彼の忠の字は河内源氏源義忠(義家の嫡子)かららしいということが分かっているようです。これとかれの姉妹が義忠と婚姻関係にあることによって一時期河内源氏と伊勢平氏が親密な関係にあったらしいことがわかっています。

とうわけで「朝」の字の由来はなんなのかずっと気になっているのです。

名前の由来で気になるといえばもうひとりきになる人物がいます。
義朝の父為義です。

為の字は誰からなのか?
そしてもう一つ
なぜ「義」の字が下に来るのか?ということです。
この時期の源氏の人々は「義〇」というように義の字が上にくるのに
為義は何故か義の字が下に来ているのです。

このようなことを考えると為義は河内源氏の中で名前の面からも異彩を放っているような気がします。(「為義は実は義家流の嫡流ではなかった説」などがありますし)

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干支調べ

2011-01-07 23:28:59 | 源平時代に関するたわごと
前の記事で頼朝と義経が卯年ということを書かせていただいてから
少しこの時代の人々の干支が気になり調べてみました。

その結果が↓です。とりあえず気になる人々を集めてみました。

子年 後鳥羽天皇(1180)
丑年 北条政子(1157)
寅年 源頼家(1182)
卯年 源義朝(1123)、安達盛長(1135)、
   源頼朝/平宗盛/一条能保/和田義盛(1147)
   源義経(1159)
辰年 大江広元(1148)、佐々木高綱(1160)
巳年 八条院(1137)、九条兼実/源通親(1149)、高倉天皇(1161)
午年 平重盛/北条時政(1138)、藤原定家(1162)
未年 後白河天皇/三浦義澄(1127)、以仁王(1151)、北条義時(1163)
申年 平知盛(1152)
酉年 源義平(1141)、阿野全成(1153)
戌年 平清盛(1118)、藤原範季(1130)、木曽義仲(1154)、安徳天皇(1178)
亥年 建礼門院(1155)

調べ方が偏ってしまったのか、何故か今年の干支の卯年の人が多く出てしまいました。
あと、後白河院、北条義時が未年というのも意外というか何と言うか・・・
この時代一番の荘園所有者八条院が巳年というのはなんとなく分かる気が・・・

ついでに頼朝の家族の干支も調べてみました。

父 源義朝 卯年
母 由良御前 不明

兄弟
 義平 酉年
 朝長 子年
 希義 申年
 範頼 不明
 全成 酉年
 義円 亥年
 義経 卯年
 坊門姫 丑年または戌年

妻 政子 丑年


 大姫 戌年
 頼家 寅年
 三幡 午年
 貞暁 午年
 実朝 子年

小説もどきは進んでいなくて申し訳ないのですが新春企画(?)で干支記事を書かせていただきました。

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土肥さんワープ?(吾妻鏡)

2010-12-29 22:25:23 | 源平時代に関するたわごと
「吾妻鏡」元暦元年(1184年)4月29日条に次の事が記されています。

「前斎院次官親能、使節として上洛す、平家追討の間のこと、西海に向つて之を奉行す可しと云々、土肥次郎實平、梶原平三景時等同じく首途(かどで)す、兵船を調へ置き、来る六月海上和氣に属する期に合戦に遂ぐ可きの由仰せ含めらる、と云々、」
(龍肅訳注「吾妻鏡」(一)岩波文庫より抜粋、一部字を変更)

現代語訳は
「前斎院時間(藤原)親能が使節として上洛した。平家追討の件で、西海に向かい(頼朝の命令を)奉行すつためという。土肥次郎実平・梶原平三景時も同時に出発した。兵船を調え、来る六月、海上が穏やかな時を期して合戦を行なうよう、よくよく命じられたという。」(五味文彦・本郷和人編「現代語訳吾妻鏡2 平家滅亡」吉川弘文館 より抜粋)

この文章だけをみると何の問題も無いように思えます。
しかし、この約1、2ヶ月の「吾妻鏡」の記事をみるとおかしなところが出てきます。
元暦元年3月17日条によると
1.土肥実平は3月6日に都を出て西国に向かった。
2.3月17日に土肥実平に同行している板倉兼信から鎌倉に文が届き、使者が西国へ戻った。
とあります。

この状況を考えると3月中旬には既に土肥実平は西国にいることになります。

だとしたら4月下旬に「土肥実平と梶原景時が同時に出発した」とう記載は矛盾しています。
この「出発」に関しては
1.藤原親能は上洛と書かれている以上鎌倉を出発。
2.梶原景時は平重衡を伊豆まで護送してきたので鎌倉から出発した可能性が高い。
となるでしょう。

となると「同時に出発した」というのは文面を見る限りでは土肥実平も鎌倉から出発したと読み取れます。

しかし、3月中旬に西国にいた土肥実平が4月下旬までに鎌倉に戻っていたとは当時の状況からして考えづらいものがあります。

この4月29日条の記事どこかおかしくないでしょうか・・・・

土肥さんもしかして、西国と鎌倉の間で瞬間移動(ワープ)していたんでしょうか・・・

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木曽義高殺害の日時に関する疑問 下

2010-10-09 22:38:54 | 源平時代に関するたわごと
では、なぜそのような時間の不自然が発生したのでしょうか?
以下素人なりに理由を考えたところ、次のような可能性が浮かび上がりました。

(1)『吾妻鏡』の誤謬
最近つとに指摘の増えている『吾妻鏡』の編纂時における誤謬。
もしかしたら、義高の逃亡あるいは殺害の日程は全く違う日時だったかもしれません。
ただ、もし誤謬だったとしたら単なるミスなのか、意図的な誤謬なのかも考えなければならないでしょう。

(2)木曽残党への懸念
義仲が死亡したとはいえ、信濃、西上野を地盤とし、坂東の御家人でも義仲に従ったものもあるという状況で義高を殺害するのはためらわれたという状況があったかもしれません。
そのため、一の谷の戦いが終わって御家人たちの帰還を待って旧義仲勢力を武力的に圧倒できるようになるまで義高の殺害を待たざるを得なかった、という考えもありかも知れません。
ただ頼朝の方に上記の理由があったとしても、義高側からしてみれば、そのような状況だったら鎌倉に留まる必要な何も無いと思います。逆に、御家人が少ないうちに木曽に戻るほうが義高にしてみれば安全だったような気がします。
また、義仲が敗北する頃には、義仲から多くの武士達が離反しています。このような状況ならば木曽残党勢力というはどの程度のものだったのか、という疑問も沸いてきます。

(3)義高を巡る情勢の変化
頼朝には義高を殺害する積極的な理由は無かった。義高もさほど身の危険を感じてはいなかった。だが、ある状況の理由が義高殺害に結びついた。

上記の通りの可能性が浮かびましたが、私は素人考えで(3)の可能性が高いものと思えました。(もちろん(1)(2)も捨てがたいのですが)義高を巡る状況の変化というものを考えて見たいと思います。

さて 木曽義高殺害の日時に関する疑問1 で書いた日程に他の出来事を書き加えると一つの可能性が浮かび上がってきます。

1月20日 鎌倉勢が義仲を討ち取る。
1月29日 義仲討伐の知らせが鎌倉に到着する。
4月20日 義高逃亡
4月26日 夕方、一条忠頼殺害 夜、義高殺害の知らせが鎌倉に届く
5月1日 頼朝、義高残党を征伐すると称して甲斐信濃へ出兵命令を出す。
    (実際にはこれは甲斐の武田信義討伐である。)

義高殺害の前後には一条忠頼殺害と甲斐出兵があります。
そのように考えると、義高殺害ついては頼朝と武田信義・一条忠頼父子との対立に何らかの関連があるのではないかとも思えてくるのです。(なお、一条忠頼殺害の日付についてはこちら)

この考えはあくまでも推測でしかありません。また、関連があったとしてもどのような関連だったのかの詳細は想像するしか方法がないというのが実情です。

そのような状況ではありますが、小説もどきという気楽さで勝手に想像してこの一条忠頼と義高殺害の関連の可能性があるかもしれないと思い、小説もどきではあのような内容で書かせていただくことになりました。

ただ、義仲敗北→死去に至るまでの三ヶ月の空白は、後々義高もしくはそれを担ぎ上げる勢力による反乱があるかもしれない懸念によって、義仲をうちとった頼朝が殺害を命令してそれを察知した義高が逃亡し、それを頼朝が追討させたという通説に対する疑問を発する余地のあるものと私は考えます。

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木曽義高殺害の日時に関する疑問  上

2010-10-08 06:08:14 | 源平時代に関するたわごと
さて、前回に引き続きまたまた物騒なタイトルで失礼します。
この時代に詳しい人ならばよくしっている木曽義仲の嫡子義高と源頼朝の娘大姫の悲恋。その逸話の中で語られる義高殺害について語りたいと思います。

『吾妻鏡』等をベースにしたこの逸話は次のようになっています。
頼朝が都に軍勢を送って木曽義仲を討ち取った後、その嫡子の義高は人質(名目上は大姫の婿)となっていたが、その父の死去に伴い頼朝が義高の殺害を決意する。しかし、それを知った大姫が義高を逃がす。しかし、頼朝が放った追っ手に追いつかれて義高は殺害されてしまう。その事を知った大姫は心身ともに衰弱し、大きくなっても自身の縁談を悉く拒否し、遂に二十歳の若さでこの世を去ってしまう。

さて、『吾妻鏡』を読む限りにおいてはこの事件が大姫の心と体を蝕んだであろうということを推測するのには無理がありません。
そして、私はこの悲恋に憐憫を寄せる一人でもあります。

しかし、義高の殺害に致るまでの経緯がどうも不自然な匂いがしてならないのです。

その不自然さの最大のものは、義高殺害に至るまでの日程にあります。
『吾妻鏡』の記載に従うと、関係する事件の日程は次のようになります。

以下は全て1184年(寿永三年/元暦元年)の出来事です。

1月20日 鎌倉勢が義仲を討ち取る。
1月29日 義仲討伐の知らせが鎌倉に到着する。
4月20日 義高逃亡
4月26日 義高殺害の知らせが鎌倉に届く

まず、不自然に感じたことは1月の末に義仲が殺害されたとの知らせが届いたにも関わらず、義高が逃亡したのが4月の下旬。その間約3ヶ月もの間、義高は頼朝からの何の処分も無く放置されていたことになります。
また、義高も父親を殺し自分を危険にさらすかもしれない相手の手の中にありながら、その間鎌倉に居続けたままです。
逃亡を企てるのが三ヶ月も先というのはなんとものどかなお話です。

確かに義仲が討ち取られた後、一の谷の戦いがあったり、朝廷との折衝があったりして頼朝が多忙だったというのは事実でしょう。

しかしながら、義高は鎌倉にいます。つまり時間をかけてわざわざ探し出すのが必要な場所にいるわけでもなく、頼朝が義高殺害の命令を下せばそれをすぐ実行できる御家人が鎌倉に滞在しているはず(御家人全てが上洛したわけではなく坂東残留組も多い)ですから義高を殺そうと思えば頼朝はすぐ殺すことができたのではないか、と私には思えるのです。

実際に義高が殺害されたのは時間がかなり経過してからです。

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頼朝の任官推薦権独占はあったのか? むすび

2010-09-18 05:24:47 | 源平時代に関するたわごと
というわけで、頼朝による一門や御家人たちに対する官位推薦権独占があったのかといえば否であるという答えが私の中で導き出されました。

しかし、独占はなかったとはいっても「推薦権」そのものはあったと思いますし、その「推薦権」が「鎌倉殿」としての権威の源泉の一つになったということは否めない事実であると思います。
平安時代には何回か地方の反乱があり、その追討にあたった責任者が部下の官位を推薦する権利があったのは事実です。

しかしながら、「頼朝官位推薦を独占していたのか」という疑問には「否」と答えるのが現在の私の意見です。

そして、もう一つ思うことがあります。
頼朝に任官推薦権独占があったと考える背景の一つに「頼朝の権力の過大評価」というものがあるのではないかと思うのです。

一般的に流れている通説では、平安時代に武士が力をつけてやがて貴族から政治の実権を奪い取ったとされています。
大きな歴史に流れで見ればこの見方は決して間違ってはいません。
しかし、その通説の影響で武家政権草創期における力が見誤られているような気もします。
鎌倉以降武士は段階を経て力をつけ、徳川時代になってその集大成が完成した、そして完成期の徳川将軍家に比べたら武家政権草創期における鎌倉将軍の実力は比べ物にならないほど小さいものだった、と見るべきだと思います。

後の世の徳川将軍家のような強大な力を頼朝が有していたかというとそれはやはり「否」ででしょう。(ついでに言えば保元平治直後の清盛も同様でしょう。)

鎌倉政権初期は、坂東有力豪族の間を上手く調整した鎌倉殿が力を得ていたに過ぎません。
そして頼朝の力は西国には(無影響とはいえませんが)強く及ぶことはありませんでした。
しかも、鎌倉政権もスタート時は「反平家蜂起」した全国各勢力(義仲、甲斐源氏、尾張源氏、近江源氏、美濃源氏、畿内寺社勢力、北陸蜂起勢力、伊予河野氏、九州蜂起勢力など)のうちの一つであるに過ぎないものです。

従来の「源平史観」にのっとると頼朝は源平という二大武門棟梁の家の片方の棟梁ということになりますが、実際には頼朝だけが「源氏」の唯一絶対の棟梁だったわけではないのです。(ついでに言えばその父の義朝もですが)また、当時の全ての武士が源氏または平家に従っていたわけではなありません。源氏や平家は武士達のごく一部を家人にしていたに過ぎませんし、源氏といっても義朝や頼朝以外の系統の源氏も数多く存在し、その源氏たちは独立して朝廷に仕えていて、義朝や挙兵直後の頼朝による同族支配など存在しなかったのです。

頼朝の政治の世界における実力は、坂東の利害関係の調整者、坂東の建前上の代表者、そして治承寿永の乱を唯一勝ち残った武門棟梁であるに過ぎません。
また武士の棟梁といっても、鎌倉幕府の御家人となった「武士」はこの国の「武士」といわれる人々の中のほんの一部に過ぎません。鎌倉時代後半になっても「鎌倉御家人ではない武士」いう人々が多数存在していました。江戸時代にはいると武士は幕府か大名に仕えていたといましたが、幕府というものが全ての武士を統制下においていたわけではないのが鎌倉時代です。

そのように考えると
治承寿永後期以降の頼朝は政界の実力者であることは否定はしませんが、徳川将軍家のような「絶対的権力者」であったのかといえばそれは「否である」と答えざるをえません。

ですが世の中に於ては頼朝の力が徳川将軍並みの権力を持っていたかのような見る向きが多いような気がします。

最後は少し話が寄り道しましたが、『玉葉』『吾妻鏡』そして専門の方の学説を取り入れていろいろと書かせていただきましたが、結論はあくまでも素人の考えです。
このような見方もある、と寛大にお受けとめいただけましたら幸いに存じます。

このシリーズは以上で完結です。

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頼朝の任官推薦権独占はあったのか? 下

2010-09-17 06:01:36 | 源平時代に関するたわごと
今まで書いてきたように義経の左衛門少尉・検非違使任官と御家人達の任官は頼朝にとってさほど重要な問題ではないということが最近の学説では有力なものとなってきているようです。

では、従来の学説で彼等の「無断任官」が問題視されていたとされるその根拠になる文献は何でしょうか?
その文献はもちろん『吾妻鏡』です。
どの部分に該当といえば先に挙げた元暦元年(1184年)8月16日条と共に寿永3年(1184年)2月25日条がそれに当たると思われています。
この2月25日条の記事では頼朝が朝廷に送った4か条の申入れが書かれています。その中の一つにこうあります。(*)
「一、平家追討の事
右畿内近国、源氏平氏と号して、弓箭に携はるの輩、並びに住人等、義経の下知に任せて引率す可きの由、仰せ下さる可く候、海路たやすからずと雖も、殊に急ぎ追討す可きの由、義経に仰する所なり、勲功の賞に於いては、其後頼朝計らひ、申上ぐ候、」)」(龍粛編訳『吾妻鏡』岩波文庫 より抜粋、一部現代表記に書き換えました)

この中の「其後頼朝計らひ、申し上ぐ候」が「頼朝による御家人や一門への官位申請権の独占」と考えられていたようです。

でもその文面は本当に「頼朝の官位申請権の独占」と解されて良いのでしょうか?

この2月25日条をよく読むと内容は次の通りになります。

1.畿内やその近辺の武士達を義経が従え、平家を追討すること。
2.その追討の後の恩賞は頼朝が申請します。

つまり、「恩賞は頼朝が申請します。」とありますが、その恩賞申請は、一の谷の戦い以前の勲功は含まず、「これから行なわれるであろう平家追討の戦いにおける恩賞の申請」に限られているのです。
(この申入れが行なわれたのが2月25日で「これから先の恩賞」となると2月7日に終わった一の谷の戦いやその前の木曽義仲との戦いは含まれないことになります。)

またこの一文に「頼朝だけが鎌倉御家人達の官位を申請するので、部下達の勝手な申請は受け付けないで下さい。また頼朝を通さずに勝手に朝廷側から任官しないで下さい。」という意味が含まれていると見てよいのでしょうか?

さらに冒頭に挙げた『玉葉』の記事の内容を考えてみると、「部下達の勝手な申請は受け付けないで下さい。また頼朝を通さずに勝手に朝廷側から任官しないで下さい。」いう内容は深読みのしすぎのような気がします。
少なくとも木曽義仲追討~一の谷までに関しては、頼朝が追討軍に加わったものの全ての官位を申請しますという朝廷に対する宣言は無かった見ていいのではないでしょうか。

勿論文献に載らない鎌倉政権内部での「内規」というものがあった可能性が無きにしも非ずです。
しかし、文献を読む限りでは「無断任官禁止という内規」があったかどうかということの確証は全くとれません。前に書かせていただいた通り、「頼朝が義経や御家人達の無断任官に不快感を示した」という『吾妻鏡』の記載の信憑性は疑われる向きがあるのです。
この件に関する『吾妻鏡』の文面の信憑性が持てない以上、一門や御家人達に対して「無断任官禁止」という頼朝の命令があったということはあくまでも推測の域を出ないものとなります。

義経の無断任官が少なくとも平家滅亡まで問題視されなかった、そして御家人達の任官自体が問題視されなかった(むしろ官位にふさわしい任務を果たせと命令されている)ことを考えると、(少なくとも1184年2月25日以前に)任官推薦権を独占しようとしていたという事実は無かったのではないか、と私は考えます。

*五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)の該当部分は次のようになっています。
「一、平家追討のこと
このことは、畿内近国で源氏や平氏と称して弓矢を携帯している者たちや住人らは、(源)義経の命令に従って軍勢に加わるようにと命じていただきたい。海路を行くのは容易ではありませんが、特に急いで追討を行なうようにと、義経に命じたところです。勲功の賞については、その後に私から計らい申し上げることにします。」

もう少し書かせていただきます。

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