時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百九十五)

2010-06-28 05:12:54 | 蒲殿春秋
このような状態は頼朝にとっては愉快ではないものの重要な問題ではなかった。
だが、一条忠頼との対決を前にして時政が伊豆に引きこもり甲斐源氏と誼を通じている状態は看過し難い問題となってきている。

まず、時政の舅である牧宗親を頼朝にひきつけねばならない。
駿河で無視しがたい勢力を有する宗親は一条忠頼を駿河から排除する際そしてその後の利用価値があるのである。

そしてもう一つ、これは頼朝の「後継者」の問題がからんでいる。
この年頼朝は三十八歳になっている。この時代ならば孫が何人かいてもおかしくない年である。この年になっても頼朝の息子は三歳の万寿しかいない。
この万寿が元服する頃には頼朝は五十歳に手が届く。

頼朝がこの先彼の家柄に釣り合うしかるべき家の娘を娶ってその娘に子を産ませるとした場合その子が成人する時の頼朝の年齢はもっと上になる。その成人の前に頼朝の寿命が尽きるかもしれない。
そしてそうなった場合、有力は母方を持つ嫡子と庶兄になってしまう万寿との間に深刻な内紛が起こるかもしれない。

この事を考えると母親の家柄が低く実力がなくても時政の娘政子が産んだ万寿を後継者にさせるのが最善の策に思える。
頼朝がしかるべき家柄から正室を迎えるのをあきらめればそれで済む話であるのだから。

その後継者たる万寿の外祖父が甲斐源氏と誼を通じていたとしたらどうなるであろうか。
今頼朝が甲斐源氏と対立してそれを屈服させる時外祖父時政が巻き込まれてしまうおそれがある。その外祖父の汚名が万寿を傷つける。
ただでさえ母親の出自が低さとその実家の実力の弱さが万寿の足かせとなると考えられている。
これ以上万寿の正統性を損なうことは許されない。
少なくとも時政が甲斐源氏に味方することだけは避けさせたいのである。我が子の為に。

そして頼朝にはこの時心強い味方が坂東に下っていた。
院の使いとして頼朝を訪れた平頼盛である。
時政の舅牧宗親は頼盛の母方の叔父であり頼盛の駿河の所領を管理している。
このような関係であるので宗親は頼盛には頭が上がらない。
この平頼盛は坂東下向以降宗親と頼朝の間の関係修復に尽力していくれていた。
そのせいかここのところ宗親も頼朝を許す気持ちに傾きつつある。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百九十四)

2010-06-27 06:01:34 | 蒲殿春秋
この伊豆下向から一年以上前、時政の娘政子は頼朝の子を産んだ。
この時点で頼朝唯一の息子である。
だがその頃から頼朝は他の女性ー亀の前の元に通い始める。

その事を知った政子は継母にあたる牧の方の父牧宗親に頼んで亀の前に対して「うわなり討ち」を行なった。
この「うわなり討ちの事実」を知った頼朝は牧宗親の髻と切り落とした。
この宗親に対する仕打ちを知った時政が息子義時以外の一族郎党を引き連れて本領の伊豆に引きこもってしまう。

それから一年以上時政は伊豆に引きこもったままである。

この一年の間頼朝は政治的に大変な変動に巻き込まれていた。
野木宮の戦いで叔父の志田義広と戦い、その直後義仲と対立して出兵、
一旦は義仲と和解、だが平家を追い落としたものの都入りした義仲と再び対立して義仲と追討、
そして福原にいる平家を討った。この間に、坂東最大の豪族上総介広常を殺害した。

これらの激変に見舞われていた一年にあるにも関わらず、頼朝の舅である北条時政は伊豆に引きこもったままだったのである。
頼朝の舅で頼朝唯一の息子の外祖父という立場にあるのに。

その舅の不在を頼朝はさほど重要視していなかった。
北条は伊豆ではそれなりの力を有しているが坂東全体から見ると僅かな兵しか有さない小豪族に過ぎない。しかも時政はその小豪族の傍流という存在である。
また、時政もその父も無位無官。六位程度の官位を有する坂東豪族もいる中、家柄官位の面でも大きく遅れをとっている。
時政は頼朝にとっては頼朝が「妻」としている唯一の女性の父であるに過ぎない。
兵力という点では相模の三浦、中村や武蔵の秩父一族のほうが頼りになるし、自分の政務軍事を助けてくれる人材としては梶原景時、土肥実平や京下りの文士がいる。
そして頼朝が最も頼りにしている存在は比企や小山といった乳母の一族。
このような人々を有する頼朝にとっての時政の存在感は薄いものでしかない。

一方北条時政にとっても頼朝と袂を分かってやっていける自信があった。
時政は石橋山の戦いに敗れた後、甲斐に逃亡した。
時政は甲斐源氏と繋がっているのである。時政には甲斐源氏の支援がある。
さらに時政の後ろ盾として彼の舅牧宗親がいる。
宗親は駿河に一定の勢力を築いている。この舅の存在は時政にとって大きい。
この舅に屈辱を与えられたからこそ時政は鎌倉を去ったのである。
この時点で時政にとっては娘婿の頼朝より舅の牧宗親の方が重要だった。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百九十三)

2010-06-24 05:52:47 | 蒲殿春秋
寿永三年(1184年)三月十七日、源頼朝は伊豆へ出発した。
表向きは鹿が多い伊豆国で狩をするためであるが、実際には深い内意が込められている。
伊豆国は頼朝が二十年間流人として過ごした地でもある。

頼朝にはどうしても会っておかねばならない人物が何人かあった。
まずは狩野介宗茂。かつて伊豆国で勢威を振るっていた狩野介茂光の後継者である。茂光は石橋山の戦いで討死していた。
ついで工藤祐経。狩野介一族と抗争関係にあった伊東一族の一人である。
だが、この祐経はかつての伊東一族の当主だった伊東祐親とは同族争いを繰り広げていた人物でもある。

狩野介、工藤祐経といった伊豆半島における二大勢力を頼朝の配下にしっかりと取り込む必要がある。

なぜならば伊豆国の住人達は頼朝の御家人であると共に甲斐源氏武田信義、一条忠頼親子とも主従関係を結んでいるからである。
伊豆国住人達は以前から甲斐源氏とは交流が深かった。その上に伊豆国の隣国駿河に一条忠頼が進出したためより一層甲斐源氏とは近い立場をとるようになる。
石橋山の戦い直後においても頼朝が脱出した安房国に向かったものよりも甲斐国に脱出を図ったものの方が多い。
石橋山以降伊豆国住人たちは頼朝、甲斐源氏という二つの主を推戴しているがどちらかといえば甲斐源氏寄りの立場を取るものが多い。

そのような伊豆国人たちを甲斐源氏から引き離し自分だけの御家人にしておく必要があるのである。
その為に伊豆国に重大な影響を及ぼす狩野介、伊東一族を自分の手元に引き寄せておかねばならない。

この工作の為に頼朝はこの伊豆行きに二人の人物を同道させた。この二人は伊豆国住人に対して強い影響力を持つ。

そしてもう一人の重要人物にも会っておかねばならない。
この人物こそ伊豆国住人の中でもっとも頼朝寄りの立場であらねばならない人物である。
そして伊豆国という中においてはそれなりの力を有する者である。
だが現在はあることをきっかけに頼朝とは疎遠になっていて伊豆に一年以上引きこもっている。
その人物は北条時政。頼朝の妻の父親である。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百九十二)

2010-06-22 05:42:43 | 蒲殿春秋
都の状況を知る土肥実平は鎌倉殿源頼朝に指示を仰ぐ。
その結果が間もなく届く。
鎌倉殿の指示は次の通りだった。
「平家追討は義経の総指揮の下、土肥実平、梶原景時、その他西国に派遣する御家人が当たること。
今回はとりあえず土肥実平が西国に向かうこと。」

鎌倉殿の命を受け土肥実平は西国に向かう手はずを整える。
土肥実平が預かっていた平重衡は義経の邸へと移された。
やがて土肥実平は西へと向かった。
実平はまず福原に入る。福原に滞在させていた土肥の軍勢を引き連れてさらに実平は西へと向かった。
その実平に同じく福原に滞在していた甲斐源氏の板垣兼信が同行した。
範頼は梶原景時が戻るまで福原に滞在することとなる。

その梶原景時は暫くの間福原に来ることはできなくなってしまう。
鎌倉殿源頼朝の命を受け平重衡を連れて鎌倉に戻ることになったからである。

平家との和睦交渉をしている限りにおいては平重衡は朝廷にとっては重要人物であった。
しかし、和睦が決裂した現在においては重衡の身柄には何の価値も無い。
朝廷は重衡を持て余している。そのような時に鎌倉の源頼朝から身柄を引き渡すようにという要求があった。
朝廷には異存は無い。
結果平重衡は梶原景時と共に東国に下ることになってしまった。

一方平重衡を引き受けることになった源頼朝は西国の平家対策と自らの東国における最大の敵にあたる支度を着々と整えている。

土肥実平が西国に向かうのと時をほぼ同じくして三月、平賀義信の子大内惟義が伊賀国に、御家人大井実春が伊勢国に派遣される。
伊賀伊勢の両国は畿内にある。彼等にはこの地を押さえることが期待された。
伊賀、伊勢は元々平家の力の強い地域である。ここを抑えることが極めて重要なことと認識された。
またこの両国は東海道の国の一つである。
東海道を沙汰する事を委任された頼朝が当然の措置をおこなったわけであるが、「東海道」を制する為にはぜひとも必要な措置でもあった。
東海道のうち相模から上総までは頼朝が手中に収めている。西三河は頼朝の外戚熱田大宮司家の力が強い。尾張も頼朝が影響力を強めている。
そしてさらにその西へも頼朝は自分の力が及ぶようにと図っている。
そうしておいて自分以外のものが支配している駿河、遠江、東三河への影響力を強めんことを図る。
三河国は自分の異母弟源範頼が影響力を有している。遠江国を手中に収めている安田義定との間には密約がある。
そうなると残る東海道の国は駿河国とその東隣の国。
かの国に勢力を張るあの男ー一条忠頼を東海道から孤立させなければならない。
駿河以外の東海道諸国を頼朝の勢力下に治め、東海道の陸上交通、海上交通網から駿河を孤立させる。
そしてその孤立をより一層深める為に頼朝はどうしてもその東隣の国に行きその国の人々を完全に掌握しなければならない。

できれば二度と足を踏み入れたくは無い国。だが、その時頼朝はどうしてもその国に行かねばならなくなっていた。




前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百九十一)

2010-06-19 23:12:26 | 蒲殿春秋
平家は揺れていた。
和平を望む宗盛、徹底抗戦を望む知盛、時忠。
瀬戸内海をはさんで鎌倉勢が福原にいる頃は和平へ大きく傾いた。
だが、鎌倉勢が徐々に撤退を始めると西国の様子は変わってきた。
鎌倉勢に与同していた勢力に押されていた親平家勢力が徐々に力を盛り返してきたのである。そして、鎌倉勢の撤退そのものも平家の主戦派を強気にした。鎌倉勢は西国に長くいることはできないと。
こうなると俄然主戦派の意見が強く通ることになる。
和平、抗戦どちらが良いか揺れ動いていた一人の女人が決断する。
「都に帝を奉じて戻るまで戦う。謀反の者達を討ち滅ぼすのが入道相国殿のご遺言だから。」
とその女人は宣言した。
宣言した女人は二位尼平時子、故入道相国平清盛の正室だった女性である。
清盛亡き後その未亡人の言葉は亡き清盛の言葉と同じ重みを持つ。
平家は和平への道を放棄することを決した。

そのゆれ動く平家の中にもう一つの小波があった。
福原の戦い(一の谷の戦い)の直後、三十艘ほどの船団が屋島を後にした。
当時屋島に滞在していた平維盛率いる船団である。
維盛は故平重盛の子である。小松一門と呼ばれ重盛の子たちの多くは福原の戦いの直前戦線離脱をしていた。そしてその長兄たる維盛も平家一門と袂を分かった。
小松一門は完全に時子・宗盛らから分離した。

一方、平家との和平を期待していた都の人々は失望した。
こうなったら実力で平家を屈服させるしか道は残されていなかった。
鎌倉勢に平家追討の為に出陣してもらうのである。
この時鎌倉殿源頼朝弟の源義経が都にいた。この義経を総大将とする出陣が朝廷で図られたが、義経はその頃都を動けない状態になっていた。
都の人々のもう一つの希望が義経に寄せられていたからである。
義経に寄せられた希望。
それは、義仲入京以降乱れまくっていた都の治安の回復を図ってもらうことであった。
都の人々にとってはそれは平家追討以上に切実な希望であった。


前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百九十)

2010-06-17 05:55:51 | 蒲殿春秋
鎌倉からの帰還の命令を聞いた御家人たちは早々に本領に戻る支度をして嬉々として東を目指す。
多くの鎌倉御家人たちなどがが順次東へ向かって去っていく。
その東に去る人たちの中に甲斐源氏安田義定がいた。
範頼に形通りの挨拶をして去る安田義定には変わった様子などなかった。
一方同じ甲斐源氏特に今回範頼の大手軍に与力した板垣兼信(武田信義の子)は一兵も引かす動きも見せない。
そして、幾つかの鎌倉御家人も多少は福原には残っている。

多くのつわもの達が立ち去った福原は落ち着きを取り戻したが閑散とした雰囲気が漂うことになる。
静かになった福原の浜辺。
そこから眺める瀬戸内の海は穏やかである。
だが、その海の向こうにほんの少し前に戦をした相手の平家がいる。

彼等に対しては現在都で和平工作が行なわれているはずである。
この和平工作の結果によってこれから範頼はどのような行動をとるのかが決まる。
とりあえず範頼とその手勢はこの福原からは動けないようである。

一方その頃都では平家に対しての和平工作が懸命に行なわれていた。
福原の戦い(一の谷の戦い)で捕虜になった平重衡を通して三種の神器と安徳天皇、母后建礼門院徳子の
平安京への帰還が打診されたのである。
この夏に予定されている後鳥羽天皇の即位の為には是非とも神器の帰還が必要だった。

この和平交渉は当初うまく行くかと思われた。
平家の総帥平宗盛からの気弱な返答が都に帰ってきたからである。
その文面にはこのように記されていた。
「神器はお返しします。帝と女院も都へお帰りいただきます。
ただし、宗盛のみは讃岐国を賜ってここに隠棲させていただきたい。」
と。
その返答により和平は上手く行くかと思われた。

だが、平家はその返答の内容を実際に行なう動きを見せない。
それどころか、最初の返答から幾日も立たないうちに今度は強硬な返答を都に再び送りつけた。
「平家はまだ負けていません。九州四国にはまだ帝に御味方するものも多数ございます。
我々は三種の神器をお持ちになっている正統な帝のお供をしています。
それでも我々をお討ちになるというのでしたら我々にも考えがあります。例えば我々が帝と神器を奉じて異国に渡ることもあり得ますが。」と。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百八十九)

2010-06-16 05:23:42 | 蒲殿春秋
信濃、そして東海諸国の住人達と接触を持つ一方で頼朝はさらなる手段を取る。
頼朝は彼の伺候衆として側近く使える加賀美長清を呼び寄せた。長清は甲斐源氏である。
長清は挙兵後すぐ頼朝に仕え、その父加賀美遠光も頼朝に近い立場にある。さらに遠光の妻は鎌倉の侍所別当和田義盛の妹である。
この二人は暫くあることを談笑し、お互いに顔を見合わせてうなずいた。

さらに頼朝は文を都に遣る。文の行き先は石和信光。彼もまた頼朝に臣従し一御家人となっている。
そして、甲斐源氏の最大の大物安田義定にも。
義定と頼朝の間にはある密約がある。だがこの密約は他の誰も知らない。
頼朝の異母弟にして、義定の盟友である源範頼でさえも。

頼朝は自分に近い甲斐源氏の面々と交流を深める。一条忠頼とその父武田信義の孤立を目指して。

そして、その甲斐源氏と交流の深い自分の身内も取り込もうとする。
寿永三年三月、頼朝は異母弟源範頼に一通の文を送る。
木曽義仲との争いの際一条忠頼と争った為に、叱責を受けたこの弟を「許す」と記した文を送る。

その弟はその時まだ西国にいた。

兄頼朝が鎌倉でこの福原の戦い(一の谷の戦い)の勝利の報を聞いていた頃、範頼は不満くすぶる御家人達を必死でなだめていた。
物資食糧が不足している。けれども表向きは略奪が禁止されている。
御家人達は東国に戻りたがっている。

不満くすぶっているのは御家人たちだけではない。
院への恩賞を直接奏上したがっていた畿内の武士たちもその奏上をする前に鎌倉勢の二人の大将軍が戦果の報告を行なってしまったことに不快感をもっている。
彼等の多くは自分達にかんする戦の後始末をするとさっさと福原を引き払い、都に行ってそれぞれが仕える主のもとに赴いて院への取次ぎを願った。自らの功績を院に伝えて恩賞を得るためである。この動きを範頼は止めることができない。
彼等は、鎌倉殿の御家人ではなくあくまでも与力してくれたものだからである。

その都へ向かうものたちを御家人達は羨ましげに見つめる。

━━ 鎌倉からの返事はまだか。
焦燥の思いでいる範頼の元に鎌倉からの返事が届く。

「東国の御家人は一旦鎌倉に戻ってから本領にもどるように。」
範頼はこの文面をみて安堵した。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百八十八)

2010-06-13 06:06:46 | 蒲殿春秋
源頼朝は、来るべき一条忠頼との対決に手を打ち始める。

一条忠頼が武蔵守に任官した。それは動かしがたい事実である。
しかし、忠頼は現在都にいる。任官してから暫くの間は色々な手続きがあってすぐに任国には下れないはずである。
一方その間頼朝の身は東国にある。
忠頼が武蔵国に下る前に打つべき手はいくらでもうっておくべきであると頼朝は考える。

まず、頼朝は義仲亡き後の信濃国に頼朝の勢力が及ぶようにする。
甲斐国からみると信濃国は駿河、遠江等の東海諸国、そして豊かな北陸諸国へと通じる大切な国である。
この国を抑えてしまえば甲斐源氏は甲斐と甲斐と接する駿河国、伊豆国のみに封じ込められる。
この頃から頼朝は信濃国住人と接触を強め始めた。

幸い信濃国に強い影響力を持つ人が頼朝の側にいた。
信濃国佐久郡に本拠地を置く平賀義信である。
義信は早いうちから頼朝の門葉御家人となることを表明した河内源氏一門である。
なおかつその妻は頼朝の乳母子である。頼朝にとってもっとも頼りになる一門と言ってよい。
その義信を通じて頼朝は信濃国の住人達と接触を図る。

そしてもう一人。
頼朝は我が娘を住まわせている邸を訪れた。頼朝の娘大姫は七歳になった。
大姫は父の来訪にも気が付かずいつものようにいつもの人と仲睦まじく遊んでいる。
大姫が遊んでいる相手は彼女の夫。
夫といってもまだ十二歳の少年。木曽義仲の嫡子木曽義高である。

義仲が死んだとはいえ彼が信濃国に有していた影響力は無視しがたいものがある。
さらに言えば甲斐源氏に対して反抗的な信濃国住人達は義仲に従っていた傾向が有る。
この住人たちを頼朝の側に引き寄せるためには義仲が残したこの少年を利用できる。
義仲の遺児義高を婿として保護すると称して、義仲に従っていたものたちを引き寄せるのである。
義仲亡き後もこの少年は十分に利用価値がある。
娘とその娘と仲睦まじく遊ぶこの少年を満足げに頼朝は見つめた。

頼朝はさらに、東海諸国にも手を伸ばす。
甲斐源氏は挙兵してすぐに駿河、遠江、三河に進出していた。一方頼朝は坂東の御家人を通じてこの地域の人々にその影響力を浸透させつつあったが、さらに個々に来て頼朝はこの国の人々とも接触を強め始める。
水軍を持つ御家人達を使い東海諸国に使いを出す。そしてそれに応じた者達はやがて頼朝の元に伺候し始める。



前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百八十七)

2010-06-12 06:16:22 | 蒲殿春秋
武蔵国は頼朝が支配下におさめつつある南坂東の要の国である。武蔵国を頼朝がしっかり抑えなければ彼の坂東の基盤は瓦解する。
そこに一条忠頼が武蔵守として乗り込んできたらどうなるのか。
武蔵国の御家人に対する忠頼の影響力は増す。忠頼が頼朝に臣従を誓う門葉御家人ならばなんら問題はないが、彼は挙兵以来頼朝と同格の武家棟梁であり続けていた。
しかも土肥実平の報告によると、頼朝代官の範頼に容易に従おうとはしていないようだ。つまり頼朝の下に付くことを快く思ってはいないということである。

そのような男が武蔵守になったらどのような事態を引き起こすだろうか。
武蔵国の住人は頼朝の御家人でありながらも甲斐源氏の人々とも主従関係を結んでいるものも少なくない。
忠頼の武蔵守任官によって武蔵国は、朝廷から東国の沙汰を任された源頼朝と武蔵守護源忠頼(一条忠頼)という同格の武家棟梁二者の支配を同時に受けることになる。

━━ 坂東に武家の棟梁は二人は要らない。

武家の棟梁並立はやがて坂東に深刻な分裂を引き起こすだろう。
同格の武家棟梁が同じ地域に存在するということは、かつて頼朝の父義朝と義仲の父義賢が坂東で争った事態の再現を招く。坂東の諸豪族が自分にとって都合の良い「貴種」を夫々に推戴した結果でもあった。坂東の者は自分にとって都合がいい者をいつでも貴種として持ち上げる。貴種もそれに応じてきた歴史もある。
ゆえに坂東における無用の争いを避けるためには、頼朝と並び立つものが坂東の地にあってはならないのである。
頼朝の支配下にある有力御家人を快く思わないもの、もしくは頼朝が下した訴訟の裁定に従いたくないものは彼の同格のものの下に走る。頼朝がいかに慎重に丁寧に坂東の人々の人心収集に努めようとしても、である。
それはやがて同格の武家棟梁同士の争いに発展し、それを担いだ人々の果てしない泥沼の戦いを招く。

それを防ぐべく頼朝は挙兵以降何年もかけて頼朝に従わない武家棟梁たちを臣従させるか、臣従しないものを討ちあるいは追放させることに努力してきた。
常陸国の志田義広、上野国新田義重、そして木曽義仲など。

そして、頼朝は朝廷から東海、東山の沙汰をする権利を認められた。実力的にも南坂東は頼朝の影響力がもっとも強い地域となった。

坂東に複数の武家棟梁は要らない。

その方針を実行して多くの犠牲を払いながらやって得られようとしている坂東の安定。
それが一条忠頼の任官によって再び崩されようとしている。

━━ 一条忠頼は討ち滅ぼさねばならぬ。

しかし、忠頼だけを討ち滅ぼすことはできない。彼は甲斐源氏総帥武田信義の嫡子である。
彼を倒すということは、挙兵以降一貫して協調路線を歩んできた甲斐源氏を敵に回さねばならないのである。

その甲斐源氏は侮りがたい勢力を甲斐、信濃、そして東海諸国に張り巡らせている。

一条忠頼を倒すということは、甲斐源氏を屈服させること。
容易ならざることをせねばならないことを頼朝は覚悟した。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百八十六)

2010-06-11 04:59:17 | 蒲殿春秋
その敵の名は一条忠頼。甲斐源氏総帥の武田信義の嫡子である。
一条忠頼は木曽義仲征伐の為鎌倉勢と共に上洛していた。そして、福原の戦い(一の谷の戦い)の際は「都の警護」と称して福原へは出陣しなかった。
その忠頼が福原の戦いの直後「武蔵守」に任官したのである。

頼朝にとっては想定外の人事であり、頼朝ににとって到底許容しがたいものである。
しかし、その任官を頼朝は朝廷に抗議することはできない。
なぜならば、義仲征伐の直後都から訪れた使者にある返答をしてしまったからなのである。

使者は院からのお言葉を伝えた後、頼朝に次のように尋ねた。
「今回木曽征伐に加わった武士達への恩賞はいかがなさるか?」

それに対して頼朝は次のように返答した。
「それは、院の思し召しに従います。今回の恩賞に対しては私が口を挟むことではありませんので。」と。

その返答を携えた院の使者は二月上旬に都に戻った。

その時は、頼朝は福原の戦いの勝利を知らなかった。
平家に対して朝廷がどのような態度をとるか分からず、平家の力は侮りがたいものと認識していた。
それゆえに、鎌倉勢だけでは平家に当たることは難しいと考えていた。畿内の武士たちの協力なしには和平にしても交戦にしても平家と対峙することは難しいと考えていた。
それゆえ、木曽征伐に手を貸してくれた畿内の武士、もしくは反平家の立場にある畿内西国の武士達を敵に回したくなかった。
彼等の恩賞権にまで頼朝は口出し出来ないと考えていた。また、下手に強気の発言をして朝廷の人々を刺激したくなかった。

その結果、木曽征伐に関する恩賞は朝廷に一任しますと返答するしかなかったのである。

しかしその返答が今回の一条忠頼の武蔵守任官という形を産んでしまった。

二月にあの返答をした以上この任官に関して抗議できない。あの返答は畿内の武士達を想定したものであって一条忠頼の任官は頭にもなかったが、確かに一条忠頼も木曽討伐に加わっていたことは事実である。その忠頼が自らの功績を奏上して任官しても文句のつけようが無い。一条忠頼に任官を奏上する野心に気が付かず、それなりの奏上する伝があったことに失念していたのは頼朝自身の失点だったと、彼は反省する。それにしてもその奏上する伝はどこに有していたのかその時頼朝はわからなかった。

また一条忠頼は頼朝にとっては友軍であって配下ではない。
頼朝が家人ではない忠頼を強く叱責することもできない。

だが、忠頼の武蔵守任官は頼朝にとって大きな危機を生み出すことは容易に予測できる。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ