時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百八十二)

2010-05-27 22:21:55 | 蒲殿春秋
範頼は平家一門の首が大路渡しに処されたのを見届けると直ぐに福原へと戻った。
数日しか滞在しなかった都においては養父藤原範季とは顔を会わすこともなかったし、また顔を会わすのも怖かった。

福原に戻ると範季は厳しい現実を目の当たりにしなければならなかった。
福原の戦いを終わっても福原には多くの兵達が残っていた。
その兵や馬たちが飢えはじめているのである。

木曽義仲と戦う為に鎌倉を出立したのが前年の十二月。
それからもう二月以上経過している。

頼朝の命令により大目の食糧や馬の餌などを用意して本領を出立したのであるが、
これだけの長期の遠征になるとやはり用意したものだけでは底を突く。

仕方なしに近隣に兵糧等の供出を要求したのあるが、ついこの前まで平家が率いる大軍がいたため近隣の者達も供出する食糧や物資が尽きていた。いや在地のものたち自身が食うに事欠いている。
秋の実りの収穫はこの時期を待たずしてもはや尽きていたのである。
しかも、養和の大飢饉の爪あとがまだ深く残っている。

しかし、坂東から連れてきた兵達も飢えている。
飢えた兵たちは、飢えた近隣住民から食糧や物資を奪い取ろうとする。
武力では勝てない住民達は寺に物資を預けて難を逃れようとするが、それを知った武士達は寺に乱入して物資を奪い取る。
奪うものも奪われるものも生きる為に必死なのである。

そのような事態が福原近辺で頻発するようになっていた。

範頼はこの事態を重く見た。
範頼の諮問を受けた梶原景時も事の重大さを痛感している。

最良の策は、軍を早々に撤収して夫々が本領に帰ることである。
しかし、それも難しい。
なぜならば、平家本軍は瀬戸内海を隔てた屋島にある。
兵力を大幅に失ったとはいえ、早急に鎌倉勢がここを撤退すれば平家は再び勢力を回復しかねない。
また、平家郎党の多くも畿内に残っている。
さらに、平家一門の一人平維盛が屋島から船団を率いていずこかへ向かったという話があるほか小松一門も全て行く先が知れず彼等がどのような動きを見せるか予断ならない。

早急に全軍を撤収させるわけにはいかない。

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蒲殿春秋(四百八十一)

2010-05-23 06:52:43 | 蒲殿春秋
土肥実平はさらに思う。
━━━ 梶原殿の存念が通った。
と。
梶原景時があの夜授けてくれた策の通り、急遽大手大将軍源範頼も入洛させて戦後の院方との折衝の一員に加えた。
戦の状況の奏上や今回の首渡しの折衝は範頼と義経という鎌倉殿源頼朝の二人の異母弟を通して行なうこととなった。
「この戦に勝利したのは鎌倉勢」という印象を都の人々に与えるためである。

この福原の戦いは甲斐源氏の安田義定、畿内の武者達━━院や有力者に近侍している独自の人脈と勢力をもつ武士達━━━
すなわち鎌倉殿の支配下にいな武士達とと鎌倉勢との連合によって行なわれた。
しかし今回の鎌倉殿の二人の弟を大きく前面に出すことによりこの戦いが「鎌倉勢の勝利」という印象をもたれる日が近いであろう。

山手口を攻めた多田行綱の働きは目覚しいものがあった。
実際、この福原の戦いにおいて最初に平家の守りを打ち破ったのは多田行綱と安田義定が率いた山手口であった。
行綱もそれを十分に自負し、また自身院に近い存在であるゆえに自らの手で院に自分の働きを奏上したいとの存念を有していた。
鎌倉方と安田義定はその行綱をなだめた。
その多田行綱をなだめて平家の首を義経のもとに集める際、行綱の働きを別途院に奏上すると約束した。

その奏上は実際に行なわれた。

だが、その行綱の功績の奏上は大手軍大将軍源範頼を通して行なわれた。
行綱の件だけではなく今回の戦に関する全ての報告は源範頼が全て奏上した。
鎌倉殿の支配下にあるものもそうでない者の働きも全て。

結果都の人々には「源範頼が今回の戦の総大将」という印象をもつようになる。
それが今回の戦は鎌倉殿代官源範頼の総指揮に基づいて行なわれ、鎌倉勢の勝利であると人々が思うようになる。

━━ それでよい。
土肥実平はそのように思った。
範頼が全軍の総大将という人々が持つ印象は今後に活きてくるはずである。

一方、その裏で実平は中原親能らの持つ人脈を使って義経が行なったあの「逆落とし」の話を人々の間に広めさせた。
福原への三つの進入口で同時で行なわれた福原の戦い。
その三つの口の一つにしか過ぎない「一の谷」の戦いにおいて行なわれたあの「逆落とし」の戦略は人々の発想を外れた素晴らしいものだった。
人々は奇想天外な戦い方に興味を示すはずである。
それを鎌倉殿の弟が実行したのである。
この話を広めておけば「山手口」の多田行綱や安田義定の働きなど世の中では誰も噂しなくなるはずである。
そして、「鎌倉殿弟源九郎義経」の戦の才の鮮やかさがもてはやされるであろう。
とにかく鎌倉殿の身内やその支配下にある者だけが現在もてはやされていればよい。

このように土肥実平は思っている。

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蒲殿春秋(四百八十)

2010-05-21 06:03:15 | 蒲殿春秋
寿永三年(1184年)二月十三日、平家一門の首が都大路を渡された。
渡されたのは、平通盛、平忠度、平経正、平教経、平敦盛、平師盛、平知章、平経俊、平業盛、平盛俊
の首。
もっとも教経については、まだ本人は生きていて引き回された首が偽者であると後に言われるようになるのだが。
これらの人々はかつて都の市井の人々が彼等の生前決して目にすることができないほどの雲の上の存在だった。
このような人々の首が赤札を下げられさらに槍の先に刺されて都大路を引き回され、やがてその首が獄門の木にぶら下げられたのである。

その様子を見た都の人々は平家の敗北を実感させられた。
そして世の移り変わりの激しさを知り、様々な想いを抱く。

この首渡しを最も満足気に見ていたのが土肥実平である。

今回の首渡しはやはり義経や中原親能の危惧したとおり公卿達の多くが反対した。
院ご自身すら気がお進みにならなかったようである。

しかし、範頼と義経はこの首渡しの件については一歩も譲らなかった。
どのように拒否されても断固として首渡しを強硬に主張し続けた。

数日にわたって議定が開かれ、勅使が何度もあちらこちらを歩き回った。

そして遂にこの首渡しが決行されたのである。

━━━ 雲の上の方々は現在の我々の言い分を無下にできまい。
土肥実平は心中でつぶやく。
福原の戦いで平家が敗れたというものの、彼等の勢力が完全に無くなったわけではない。
平家は未だ四国讃岐国屋島にある。
また、平家の郎党達の中には畿内の本領に籠もっているものも多い。
もしここで鎌倉勢が、軍勢を全て引き連れて東国に戻ってしまったならば、平家が再び勢力を盛り返して都を奪還しかねない。
そうなった場合、都合が悪い方々が公卿の中に多数いる。
その方々は鎌倉方の機嫌を損ねるわけにはいかないのである。

それを知り尽くしているからこそ今回強硬に自らの存念を通さすことができた。


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蒲殿春秋(四百七十九)

2010-05-17 05:34:38 | 蒲殿春秋
確かに、此度の出陣の支度は各御家人等にとって大きすぎる負担だった。
軍備、馬具、食糧、馬のえさ当等すべて御家人各人が自らが用意した。
ましてや今回の戦いは自分達の本領を遠く離れた都や西国にまで及んでいるのである。
その出陣の負担は今までの坂東近辺で行なわれた戦いに比して桁が違いすぎるのである。
中には負担は数年以上かかってやっと蓄えたもの、いや財産の全て吐き出している御家人もいる。
恩賞が出るか出ないかは出陣した御家人たちにとってはそれこそこの先、生きていけるかいけないかの問題にまで発展する場合すらある。

範頼は目を閉じた。

そのまぶたに二人の勇者の姿が浮かんだ。
先陣の功を目指して命を落とした河原兄弟の姿が。

その後から、この戦いで命を落としたものの名や姿が思い浮かぶ。
さらに、貧しい暮らしの中で必死に出陣の支度を工面した各御家人たちの陣中の必死の節約の様子。

が、その御家人達の姿に混じって、嘆き悲しむ養父の妻の姿もまぶたの奥に浮かぶ。

坂東から出陣した者達と彼等に討ち滅ぼされた者たちの家族の涙
それがまぶたの裏に交互に浮かぶ。

その迷える大将軍の耳の奥に出陣前に聞いた兄頼朝の言葉が蘇る。

「軍を率いるものには、その命令の一つ一つに重みがある。
軍に従うものの功名手柄を、家産を、そして何よりも命をあずかるのだからな。
そして夫々に連なるものの命運も・・・
六郎、そなたにはその重さがわかるようじゃ。
将たるものの責の重さを知るそなたであればこそ
戦場に向かうわしの御家人をそなたに託すことができる。」

範頼は瞠目している。
養父の妻の悲しむであろう事実は受け入れなくてはならない。
彼女はこれから先、自分が行なおうとしてくことを決して許しはしないだろう。
義母は自分を恨むだろう。その結果自らを養い育ててくれた大恩人である養父が困惑し、
養父すら自分を悪しざまに思うかもしれない。
下手をすると養父が自分の敵に回るかもしれない。

だが、自分は大将軍である。自らが率いた者達の全てを引き受けなければならない。
自らの命令に従い、命すら自分に預けてくれるものたちのことを。
そして彼等を守り、彼等の利益になることを第一に考えなければならない。
他の誰からどのように思われようと、どう恨まれようとも・・・

大将軍源範頼は決意した。
今回の首渡しを院に申し入れることを。

この範頼の決心に土肥実平は満足し、都の人々の思惑をよく知る中原親能は困惑した。
同じく都のことに通じ始めた義経も困惑しつつも兄の決心を受け入れた。

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蒲殿春秋(四百七十八)

2010-05-16 05:26:53 | 蒲殿春秋
範頼が土肥実平の提案を聞いてまず思い浮かべたのは養父藤原範季とその養父の現在の妻の顔だった。
養父もそうだろうが、養父の妻はまずこのことを行なう事を絶対に許さないであろう。
それを行なえば養父の妻の想いに背くことになる。養父の妻ということは範頼の義理の母にも等しい。
なぜならば、それは養父の妻の身内に関わることだからである。

土肥実平の提案どおり首の引き回しが行なわれた場合、範季の妻ー平教盛の娘の兄弟達の首が引き回されることになるのである。
自分達の兄弟の首が引き回されるということを範季の妻は深い悲しみと怒りをもって受け止めるはずである。
そしてその夫である養父範季はそのことをどのように受け止めるであろうか・・・

範頼が重苦しい表情を浮かべているのを土肥実平は怪訝な顔をして見つめている。

「蒲殿、今回首渡しは是非ともなされなければなりませぬ。
お父上が平治の合戦で受けたこの屈辱をお忘れではありませぬでしょうな。」

と土肥実平は迫る。

「お父上だけではありませぬぞ。兄上方お二人もです。
中でも中宮大夫進殿(朝長)は、埋葬された墓まで暴かれて首を都に運ばれ獄門にかけられましたのですぞ。」

そのように迫られて範頼の表情はさらに暗いものになった。

自分もその無念さが痛いほど分かる故に、今回のこの措置を悩んでいるのである。
養父の妻がこの先どのような苦しみを味わうかをたやすく予想できるが故に・・・

「蒲殿」
土肥実平はさらに続ける。

「こたびのこの戦いは、吾等の勝利でなければならぬのです。
恩賞を有利に受けるためにも。
東国の者達は、自らのまかないで出陣し、命を賭けて戦いました。
それがいかほどの厳しいまかないであるか蒲殿もご存知でしょう。
恩賞無くばこの者達、そしてその家族や郎党達は飢えて死にまする。」

「・・・」

「ましてや、此度の戦いで命を失ったもの、体を損なったものがおりまする。
かような者達は、恩賞を信じて命を惜しまず戦ったのでございまするぞ。」

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蒲殿春秋(四百七十七)

2010-05-08 23:08:10 | 蒲殿春秋
土肥実平の提案はこのようなものである。
今回討ち取った平家の将たちの首を大路を渡らせ、さらに獄門にその首をさらすということ
を朝廷に奏上するべきであると。

確かに謀反人として処断されたものの首は槍の先に刺され、首には謀反人の証である赤札を下げらて大路をねりあるかされた上、その後暫くの間はその首が獄門にさらされる。
これは平治の乱で信西入道が謀反人として処断されて以来、謀反人として死したものたちに必ず行なわれる措置である。
現に、ついこの前も木曽義仲やその一党の首をかくのごとく扱われた。

今回、平家もこのような処置を行なわれるべきだと土肥実平は主張するのである。
鎌倉の立場からすれば、平家一党は謀反人でなければならない。
先の帝を拉致したてまつり、三種の神器と強奪した謀反人であると。

その証が今回の首の大路まわしと獄門さらしである、というのである。

それがなされなければ、平家は謀反人ではないということになる。
謀反人でないものを討ち取ったと見なされれば、下手をすれば「私の戦い」とみなされかねない。
今回宣旨を受けて戦っていたとしてもである。
さらに今回の戦いでは鎌倉勢は「三種の神器」を奪還しそこなっているという失点がある。
今回の戦いが公の戦いであり、なおかつその公の戦いに勝利したということにならなければ、その後の「恩賞」が鎌倉勢にとって不利なものになる。

それゆえに此度の平家は必ず謀反人としての扱いをしなければならない。その一つの手段が首の大路回しなのである。

それに、首を引き回すことによって、「平家は敗れた。鎌倉勢が勝利した」という印象を人々に与えることができるのである。
その印象は今後の畿内や西国への鎌倉勢の対処に大きな影響を与えることになるのである。

雄弁に首の引き回しを主張する土肥実平。
しかし、その実平に対して義経や中原親能が異議を挟む。

「院が、そしてその近臣がこのことをお許しになられますでしょうか・・・」
と義経は土肥実平に問いかける。
土肥実平は無言である。
「此度の戦も、戦には反対、そして和平を進むべしとおっしゃれるの方も多数おられました。
その方々はまだ平家との和平をあきらめておられませぬ。
和平を望む方々は、おそらく今回の件に関しては大反対されましょうな。」
と中原親能。
確かに、義仲と違い平家は安徳天皇と三種の神器を擁している。
ここで、平家の態度を硬化させたくないという空気が朝廷や院近臣の中にもに多分にある。
首の大路回しを決行すれば、平家はますます頑なになる。そのことを和平派は怖れている。
朝廷の最大の望みは三種の神器の安全な帰京なのである。和平という手段をまだ失いたく無い者達が多数いる。

しかし実平はこのように主張する。
「反対されようとなんだろうと今回の大路渡しは行なわなければなりませぬ。」
義経や中原親能が懸念を言い立てても土肥実平は自らの意見を曲げない。
「・・・・」
今度は義経らが沈黙した。

土肥実平は今度は範頼を見た。
範頼はどこか浮かぬ気な顔をしている。

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蒲殿春秋(四百七十六)

2010-05-05 01:11:57 | 蒲殿春秋
寿永三年(1184年)二月九日 福原の戦い(一の谷の戦い)に勝利した源義経は都に再び入った。
鎌倉勢の勝利の報を半信半疑で聞いていた都の人々も、この義経の入京と捕虜となった平重衡の姿をみて、平家敗北が確たるものであるということを知ることになる。

平重衡の身柄は義経と共に都に入った土肥実平が預かることになった。

その日の夜、義経の兄で鎌倉勢大手大将軍の源範頼も入京した。

範頼は福原に留まり、占領地の検分と戦後処理にあたるつもりでいた。
しかし、軍目付梶原景時に強硬に都入りを進められて、急いで都に向かったのである。
安田義定にも入京を勧められた。

六条堀河の義経の邸に範頼が入ると、土肥実平が早速範頼と義経の前に姿を現した。

「おん大将方は明朝、院と帝に拝謁賜るやに聞いております。」
と土肥実平はそう切り出した。
「いかにも」
と義経が答える。

「院や雲上の方々は、お二方をさぞお褒め下さるでありましょう。」
と土肥実平は言う。
「何しろ、平家強勢が伝えられておりましたからな。平家が都に戻るとご都合の悪い方が大勢おられましたから、吾等鎌倉勢の働きに感心する向きが多いやに思われまする。
しかし、吾等安堵してはなりませぬ。
持ち上げておいて、そこから鋭く失点を追及するお方もおられますると思いまするゆえ。」
「失点とな?」
義経は怪訝な顔をして実平を見つめる。

「さよう、吾等は都の方々が最も望むことを達することはできませんなんだ故に。」
「と、申されると?」
「神器でございまする。われらは、神器を取り戻すことはできませんでした。」

確かに、平家を討つ為の出撃は神器を武力で取り返すという名目で行なわれた。
平家の軍事力に大打撃を与えたものの、名目上の本来の目的は全く達成されていない。
このことを衝いてくるものが必ず出るというのである。

戦の現場に立ったものから言わせると、平家を福原から追い落とすのが精一杯で神器奪還まで手が回らなかったというのが実情である。
しかし、その実情を知らずに、いや知っていてもあえて無視して神器奪還の失敗をついてい来るものが出てくるであろう。

そうなると、「鎌倉勢の勝利」というものが神器奪還できなかったという「失点」によってかき消されることになる。
「勝利」がかき消された場合、後々朝廷との恩賞交渉で鎌倉勢は不利な立場に立たされる。

そうであってはならない。この福原の戦いは「鎌倉勢の勝利」でなければならない。
「鎌倉勢は勝利したのだ」ということを都の人たちに知らせなければならない。

「我々は、神器の奪還に失敗しました。けれども戦には勝利したのです。
勝利したと人々に思わせなければなりません。そこで・・・」

土肥実平は範頼、義経にあることを提案する。

その言葉を聞いた二人は夫々表情を曇らせた。
だが、土肥実平はその提案を引っ込める様子は無かった・・・

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「玉葉」 当て字

2010-05-01 23:17:34 | 日記・軍記物
「玉葉」を読んでいると人名等の表記で面白いものがあります。

例えば
加千波羅平三→ これは梶原平三(景時)の初登場の際の記載です。(寿永三年一月二十日条)
加波冠者→ これは蒲冠者(範頼)の初登場の際の記載です。(寿永三年二月八日条)

ところで加千波羅は次回登場時(寿永三年二月八日条)には梶原平三景時ときちんと表記されています。おそらくその間に兼実が景時の正式な漢字を覚える機会があったのではないかと思われます。

となると加千波羅は 当て字 であるとしか思われません。

「玉葉」には他にも当て字と思われる人名等の表記が時折見受けられます。

そうなるのも無理はないと思います。

「玉葉」は漢文で書かれています。
漢文は全て漢字で表記されていなければなりません。

わからなければ「ひらがな」や「かたかな」を使えばいいというものではありません。

そうなると結局聞いた名前と同音の漢字をなんとか当てはめるしかないのでしょう。

現在の我々から見ると奇妙に見える表記も、兼実が一生懸命に考えて当て字をした。
そのように思うと兼実さん、かなり努力して知らない人の呼び名を書き留めていたのかもしれないと思えるのであります。

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