時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百二)

2009-07-27 05:53:06 | 蒲殿春秋
兄はおだやかな顔を弟を見つめた。
「なにゆえじゃ?」
と弟に問う。
「私には荷が重すぎまする。」
範頼は昨晩から抱えていた想いを兄に伝えた。
兄は無言で弟を見詰めている。

「兄上から頂いた書状の中には多くの御家人の名が記されていました。
その御家人たちが私の命令一つで戦を行なう、
そのように考えると急に恐ろしくなったのです。
この御家人たちは多くの郎党を抱えていてその者達も出陣いたしまする。
そして、御家人たちにも郎党達にも父母があり兄弟があり妻子がおりまする。
私が戦場で発する命令の一つ一つに多くのものの命運がかかる、
そのように考えると大将軍になることに自信がなくなったのです。」

兄ー鎌倉殿源頼朝は静かな微笑みを湛えている。

「六郎よ。わしは安心した。そなたに大将軍を任せるというわしの判断が誤っていなかったことに。」
兄はそう言う。
「軍を率いるものには、その命令の一つ一つに重みがある。
軍に従うものの功名手柄を、家産を、そして何よりも命をあずかるのだからな。
そして夫々に連なるものの命運も・・・
六郎、そなたにはその重さがわかるようじゃ。
将たるものの責の重さを知るそなたであればこそ
戦場に向かうわしの御家人をそなたに託すことができる。」

頼朝は弟におだやかに話しかけた。

「だが、戦の経験が少ない六郎にはこの重みは多少辛いやもしれぬな。
さればこそ、梶原平三や土肥次郎をそなたや九郎につけることにしたのじゃ。
この両名は信用おけるものたちじゃ。
何事もこの両名に相談するが良い。
相談しても迷うときは鎌倉に使者を送るが良い。
最後の判断はわし自らが下す。最後の責任はわしが取る。」

範頼の顔からこわばりが少し抜けた。
「そのようにいたしまする。」と範頼は答える。

頼朝は満足そうに弟を見つめる。
「ならば引き受けてもらうぞ。大将軍を。」
範頼は無言で兄鎌倉殿の命を承った。

その様子を眺めて頼朝は満足していた。
自らの心の不安を正直に兄である自分に相談してきた弟に可愛げを感じていた。
そして今自分の懐の中に弟を抱え込んだ事を実感した。
今の弟ならば甲斐源氏の盟友という立場より頼朝の弟という立場を優先するであろう・・・

やがて範頼は兄に礼を述べて退出した。

弟の後姿を見送ってから暫くして頼朝はただ一人誰もいない空に向かって小さな声でつぶやいた。
「わしは己の心の弱さを誰にさらけだせばよいのだろうか。
わしが判断に迷ったときわし以外の誰に決断を仰げば良いのだろうか。」
坂東のもののふの頂点に立ち自らの意思が鎌倉に集うものの全てを決する鎌倉殿は答えを出すことのない相手に語りかけていた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百一)

2009-07-26 06:18:24 | 蒲殿春秋
屋敷の中のあるざわめきが少し落ち着いてから範頼は兄から渡された書状に目を通す。
小山四郎朝政、下河辺庄司行平など野木宮の戦いを共に戦ったものたちもあれば
あまり聞いたことのない名まである。
大小の御家人たちの名があまた記されている。

書状を閉じる。
そしてそっと座を立ち屋敷の中を歩く。
主の出陣が近いということで屋敷のあちらこちらに明りが灯され
多くの者達が忙しく立ち働いている。

異様な興奮を湛えながら自らの胴丸の手入れをするものがある。
そう、この屋敷には範頼に従って共に出陣するものも少なくない。

不意に赤子の泣き声が鳴り響く。
その声は瑠璃の侍女志津の部屋の方から響いていた。
この年生まれたばかりの志津の子が泣いていたのである。
様子を窺うとそこには赤子をあやす志津の夫藤七の姿があった。
その傍らで赤子の兄である新太郎が気持ち良さそうに眠っていた。
藤七もまた此度の上洛軍に加わる。
彼の主の佐々木秀義の子たちが上洛するからである。

しばらく屋敷の中を回った後、例の甲冑の前に座り再び書状に目を通す。

その夜範頼は夜具の中でまんじりともせずに一晩を過ごした。

翌日範頼は兄頼朝に面会を乞うた。
兄は範頼の為に忙しい時間を割いてくれた。
範頼のたっての願いにより他のものを遠ざけ二人だけで話しができるようにしてあった。

「兄上、戦の支度ありがとうございまする。」
と範頼は兄のはなむけに礼を述べる。
「うん。」
兄は満足気に返事を返した。
「しかしながら、今の私には無用のものになりそうな気がいたしまする。
兄上、私には大将軍をつとめあげる自信がございませぬ。」

そう言って範頼は兄を見上げた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ



蒲殿春秋(四百)

2009-07-23 06:03:47 | 蒲殿春秋
一方退出した範頼はある種の気分の高揚を感じていた。
兄から託された軍に加わる武将達の一覧が記された書状がやけに重い。
その書状を開いてみる。
よく見知ったものもいれば、顔を全く知らぬものもある。
この武将たちが範頼、そして義経の軍に従うのである。
書状を見つめているうちに範頼の心の中にある重苦しさが入り込んできた。

高まる気持ちと少しの心の重さを背負って馬に乗り我が家へと向かう。

館に戻ると出たときと様子が違う。
どこかにざわついたものがある。

愛馬をつなごうとして厩に向かうと、そこに異変があった。
いつも愛馬をつないでいる場所にすでに堂々たる栗毛の馬がつながれていた。
そしてその隣には、見事な毛並みの葦毛の馬。
さらにその奥にもう一頭つながれている。
これらの馬は奥州でもめったにお目にかかれないほどの逸物である。
下人がわななきながら馬の世話をしている。

母屋に戻ると郎党たちや侍女たちが興奮した様子で
「お帰りなさいませ。おめでとうございます。」
と挨拶をする。

奥に入ると、寝殿の中央に甲冑が飾られていた。
見事な鍬方がしつらえられた兜。
そして札がしっかりしている紫裾の鎧。
さらに、その隣には黄金作りの太刀が置かれている。

このように見事な甲冑を今まで見たことがない。

甲冑の隣には舅の安達盛長と妻の瑠璃が控えていた。

「婿殿、此度のご出陣おめでたく存知まする。」
そういって迎え入れた舅に対して範頼は呆然としながら礼を返す。
「これらの出陣に必要なものの支度は全て鎌倉殿の志でございます。ごらんなさいませ。見事なものですぞ。数万の軍を率いる大将軍にふさわしき逸品ばかりでございます。」
そう言って、錦の直垂を範頼に差し出す。

範頼は呆気に取られたという体でその錦の直垂を受け取り、まるで他人事のように自分が身にまとうことになる見事な甲冑を見つめていた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百九十九)

2009-07-15 22:12:28 | 蒲殿春秋
表向きは「東海道・東山道を沙汰する権利」を有し、院北面に駆け込んでこられた頼朝が院をお助けする為に派兵するということになっている。
従って東海道・東山道に勢力を扶植している甲斐源氏も頼朝に従うという形をとることになる。
しかし、甲斐源氏は元々頼朝とは別個に挙兵した勢力である。
しかも、治承の頃には近江源氏と連携し反平家勢力の中心的存在だった勢力である。
甲斐源氏、なかんずく武田信義や一条忠頼は頼朝を上位の存在とは認めず
あくまでも「同盟者」としてしか見ていない。
現在は頼朝の下風についても折あれば並び立とうという気概は捨て去っていない。

また、坂東の武士達の中には頼朝の御家人であると同時に、甲斐源氏の家人でもあるものも少なくない。よほど気をつけなければ軍の統制に齟齬が生じる恐れが在る。

そのような甲斐源氏の者達と共に範頼は都へ向かい、義仲と戦い、平家を牽制しなければならない。

しかも治承の挙兵の頃、頼朝の石橋山の敗戦の直後範頼は着の身着のままで甲斐に逃亡し甲斐源氏の援助を得て三河に進出したという経歴を持つ。
この経歴によって範頼は甲斐源氏に軽く見られるのではないかという懸念もある。

しかし、現在鎌倉を動けない頼朝の代理を任せられる弟は範頼と義経しかいない。
頼朝の生きている弟はこの二人の他にもう一人文官として有能な全成しかいない。
全成は出家者であり、寺社勢力との折衝や坂東の寺社の統制をしてもらわねばならない。
義経は現在尾張にあって畿内や都の武士達を味方につけるべく工作をしてもらっている最中である。

範頼は下野の小山氏とは親しく、武蔵の比企尼の孫娘を妻に迎えている。
坂東の諸将を従えるのには最もふさわしい弟である。
義経が畿内や都の武士を従え、範頼が坂東の武士を従えるのが最善の策である。
だが、甲斐源氏との関係をみれば彼等の上に立つには以前の経歴が障りとなろう。

「土肥次郎、梶原平三。軍の沙汰をよしなに。そして甲斐源氏への備えもよしなに。な。」
頼朝は強い眼差しで二人の軍目付を見つめた。

前回へ 目次へ 次回へ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百九十八)

2009-07-14 23:29:45 | 蒲殿春秋
範頼が退出すると頼朝は土肥実平と梶原景時を近くに呼び寄せた。
先ほどとは違った鋭い眼差しをきらめかす。

「蒲にはあのように言ったが、今不安がある。」
「はい。」
頼朝が抱える不安をこの二人の側近は熟知していた。
一つは範頼と義経の戦の経験不足。
さらに、出兵できる鎌倉の御家人達が限られていること。
そしてもう一つは甲斐源氏のことである。

今回の出陣は坂東の御家人達を全て動員させるわけにはいかなかった。
奥州藤原氏と佐竹氏がどのように動くかわからないので坂東に多くの武力を残しておかなくてはならない。
さらに、上総介広常誅殺に伴い上総下総でどのような動揺が起きるか予断ならない。
上総方面に頼朝の意志を尊重するものたちを残しておかなければならない。

木曽義仲を討伐する軍勢はそれなりの軍勢を揃えなければならない。
さらに、義仲を討つことに成功したとして都に程近い福原にまで平家の軍勢が迫っている。
都から寄せられる情報によると平家の軍勢は相当なものに膨れ上がっているという。

平家とすぐに戦うかどうかは別の話としても
後白河法皇と後鳥羽天皇はどうしても平家の手の内に渡すわけにないかない。
このお二方が平家に囲い込まれたならば、頼朝は再び謀反人に逆戻りし
せっかく手にした東海道・東山道の国衙荘園管理の権利を失ってしまう。

平家を牽制するためにもある程度の大軍を用意しなければならない。
だが、頼朝の御家人のうち都に出兵させられる者の数は限られている。

その心もとない頼朝軍にとって心強い援軍がいる。
武田信義などの甲斐源氏である。
甲斐、駿河、遠江、そして信濃の一部を支配下に収めている甲斐源氏は兵を多数動かすことができる。
その甲斐源氏が今回の上洛に同行するという。
甲斐源氏一団は上洛軍の中においてかなりの割合を占めることになろう。

それは大変ありがたいことである。

だが、彼等を同行させるのには気をつけなければならないことがある。
それは、甲斐源氏の面々の中には未だに頼朝を同格の同盟者だと思っている者が少なくないことである。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百九十七)

2009-07-11 06:08:01 | 蒲殿春秋
上総介広常が殺害された翌日範頼は兄頼朝の御前に呼び出された。

用向きは当然「上洛」のことである。
範頼は頼朝の側に控える文官から分厚い文書が手渡された。
そこには、多くの武将の名が書き込まれている。
その武将たちは今回上洛するものたちであるという。
主に、相模、武蔵、下野の豪族の名が記されている。

そしてもう一通兄が大事そうに抱えていた文があった。
その文も範頼の手に渡された。

文の差出人は甲斐源氏武田信義。
彼から今回の上洛に際して頼朝に協力する旨を記し、
信義の子や弟たちを上洛の軍に派遣するとも書かれていた。

兄は厳しい顔で範頼を見つめた。
「上洛するものたちの名を見たか?」
「はい。」
「では、今日中にそのものたちの名を頭にたたきこまれよ。」
「?」
「そなたが大将として従わせる者たちだからな。」

「は?」
怪訝な顔をする異母弟を兄頼朝は微笑みをもって見つめた。

「わしは、上洛はせぬ。いや上洛ができぬ。」
「・・・・」
「わしが鎌倉を離れれば、佐竹がそして奥州がどのように動くかわからぬ。
わしはここを離れられぬ。」

上洛できぬ、そう言った時、頼朝の顔に一瞬無念そうな表情がのぞいた。
「だがわしには、そなたがいる。九郎がいる。
弟のそなた達ならばわしの名代となれる。」

頼朝の顔が威厳に引き締まる。
「六郎、いや蒲冠者源範頼。そなたは只今よりわしの代官として軍を率い上洛し
院を押し込めまつり、東国からの年貢の納入を妨害する木曽義仲を討伐せよ。
義仲を成敗することは院のご意志でもある。」
頼朝は範頼に強く命じた。

範頼は威に打たれたかのごとく平伏しその命を承った。

「御家人たちには出陣の命を下した。
おのおのわしに挨拶をした後それぞれに西へ向かう。
御家人をすべて動かすわけではないが、この狭い鎌倉に兵を引き連れた者達を一同に集めることはできぬ。
御家人達には尾張の熱田に向かうように命じてある。」

熱田とは頼朝の母の実家が大宮司を務める熱田社のことである。
そこには義経が待機している。

「そなたも熱田に向かい、兵の到着を確認せよ。そしてその後九郎と共に都へ攻め上れ。」

その命を下すと頼朝は近習に何事かを命じた。
程なく二人の武将が範頼の前に姿を現す。

一人は頼朝の腹心梶原景時。そしてもう一人は頼朝の挙兵以来の功績者西相模に勢力をもつ土肥実平である。

「こたびの戦には軍目付をつける。梶原平三と土肥次郎じゃ。
何事もこのもの達とよく話し合って事を進められよ。」
頼朝は言葉を続ける。
「熱田についたならば、梶原平三か土肥次郎のいずれかを九郎につけよ。
この二人は必ずそなたたちの助けとなろう。」
頼朝は優しい瞳で範頼を見つめた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

保元の乱の戦場はどこ?

2009-07-10 22:34:00 | 源平時代に関するたわごと
ここのところ保元・平治のことばかり書いています。
そういえば明日7月11日は保元の乱のあった日です。(旧暦ですから実際にはもう少し時期がずれます)
で、今日は「保元の乱」がどこで行なわれたかについて書かせていただきたいと存じます。

「保元物語」を読んでいるとよると保元の乱の戦闘は、崇徳上皇のいる白河西殿の門近辺でおこなわれているかのうような印象があります。
特に「保元物語」上の為朝は門付近で大暴れして、平清盛や兄源義朝を苦しめます。

ですが、実際に戦闘が行なわれたのは御所の門付近だけではないようなのです。
「吉記」寿永二年(1183年)十二月二十九日条にこうあります
「今日奉為崇徳院并宇治左府、春日河原(保元戦場)、可被建仁祠事始也、(以下略)」
とあります。現代語にしてみると
「今日、崇徳上皇と左大臣藤原頼長の為に春日河原に祠を建てることにしました。
そこは保元の乱の合戦が行なわれた場所でした。」
という意味になります。
また、「吾妻鏡」建久二年八月一日条には
保元の乱に参加した大庭景義の談話が記載されており(為朝の弓についての感想等)、その中に
「大炊御門河原に於いて為朝の弓手に逢ふ。」という一文があります。

この「吾妻鏡」の記事を元に元木泰雄氏は、保元の乱は御所の門近辺だけで戦闘が行なわれたわけではなく
鴨川沿いの河原でも戦闘があり、その抵抗が激しかったので後白河方が目指す白河北殿にたどり着けなかったのではないかと、考察されているようです。

上記の「吉記」の記事は「吾妻鏡」の大庭景義の言葉、そして元木氏の説を裏付けているのではないでしょうか?

つまり、保元の乱は
鴨川沿いでも戦闘が行なわれ、その戦線が後白河方に突破された為に白河北殿での交戦、やがて焼き討ちが行なわれたというのが、戦闘の実態だったのではないかと思われます。

為朝の奮戦を白河北殿の門の攻防をハイライトにした「保元物語」
そして、実際には虚構度が高いといわれている待賢門における源義平と平重盛の一騎打ちをハイライトにした「平治物語」
(当時の内裏の造りでは「平治物語」に出てくる待賢門の戦いは成立しないそうです。→岩波文庫「保元物語・平治物語・承久記」の平治物語解説より)

この二つの軍記物においては「門の攻防」を合戦の目玉なっています。
当時の(もしくは物語が成立した頃)人々には「門」に対するなんらかの思いがあったのでしょうか・・・

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

頼朝流刑の背景を考えてみる 5

2009-07-09 05:37:28 | 源平時代に関するたわごと
2.頼朝をめぐる人物 1160年1-3月現在

二条天皇
 2月中旬までは政界は二条天皇側近が主導。
 しかし2月に藤原経宗、藤原惟方の逮捕があり、後白河院政が復活。
 その後、天皇親政派と後白河院政派の対立が激化する。
 また、美福門院所生の鳥羽院皇女中宮〇子(〇=女朱)内親王がいるにも
 かかわらず 1月26日近衛天皇の皇后であった
 藤原多子(藤原頼長養女、実父は閑院流右大臣徳大寺公能)を入内させる。
 このことで中宮は母美福門院の元に籠もるようになり、8月に出家した。

後白河上皇
 2月中旬までは天皇派の圧迫を受けていたが、
 2月20日に前摂政忠通や平清盛と結び上記の逮捕劇を起し復活。
 中宮の後ろ盾的存在だったと言われる。

上西門院
 後白河上皇同母姉。(母は待賢門院)
 前々年後白河天皇の准母として立后。その翌年院号宣下して上西門院となる。
 中宮の養母となっていたとの説もある。
 1160年2月に出家した。
 後に高倉天皇の母となる平滋子(清盛の妻の異母妹)は上西門院の女房。

美福門院
 鳥羽皇后。近衛天皇、八条院、〇子(〇=女朱)内親王生母、二条天皇養母。
 藤原長実娘。
 鳥羽法皇崩御の後、その意志の継承者として政界に君臨する。
 膨大な鳥羽院領を管理していた。

平清盛
 平治の乱の勝利者のうちの一人。
 前年に息子たちや弟頼盛は恩賞を得ていたが、
 この頃清盛自身は恩賞を受けておらず四位の大宰大弐だった。
 妻の時子は二条天皇の乳母。妻の妹は上西門院の女房。
 自身は上西門院の殿上人でもある。
 嫡男の重盛は院近臣六条流の藤原家成の娘を妻に迎えている。

池禅尼
 清盛父忠盛の正室。頼盛の母。藤原宗兼の娘。
 崇徳上皇の皇子重仁親王の乳母。
 実家は待賢門院に近い存在。
 しかし院近臣藤原家成とも縁戚であり、家成は美福門院に接近していた。
 池禅尼やその子頼盛の斡旋で美福門院領が立荘された事実もあり
 池禅尼自身も美福門院に接近していたと考えられる。
 (池禅尼や頼盛はその荘園の領家となる)
 頼盛はその後八条院(美福門院所生皇女)に近い立場をとるようになる。
 池禅尼ー頼盛母子は待賢門院ー上西門院とつながりを持つ一方で
 美福門院ー八条院にも接近していた。

藤原範忠
 頼朝の母方の伯父。当時の熱田神宮大宮司。
 保元の乱には義朝に援軍を出していたが(「保元物語」)
 平治の乱には一切関わらなかった。(学習院本「平治物語」)
 駿河に潜伏していた頼朝の同母弟希義(範忠の実の甥)を捕えて朝廷に突き出した。
 (学習院本「平治物語」)
 待賢門院に近い立場を取る熱田大宮司家の中で、美福門院に接近していたと見られる。
 範忠に関してはこちらこちら

祐範
 頼朝の母方の叔父。園城寺の僧。
 頼朝が流刑となった際、付き従うものがだれもいなかった頼朝に郎党を一人手配した。

源頼朝
 従五位下、右兵衛佐(平治元年十二月十四日~二十六日)。
 上西門院蔵人。母方は上西門院に仕えているものが多い。
 その一方で頼朝自身は平治元年六月から二条天皇の蔵人を務めていた。(任期は不明)

おわりに

長文となってしまいましたが、これで流刑シリーズは終わります。
「平治の乱」がいわゆる「源平の対立」や「武家政権登場のはしごの一つ」
そして「治承寿永の乱」が「源平合戦」であるという"フィルター"を外し
「源氏と東国の関係」や「永暦元年三月時点での清盛の実力」というものを見直してみると
この頼朝の流刑というものの見方が変わってくるのではないか、そのように私は思います。

なお、最近書いた保元平治シリーズおよびタイムライン (保元の乱 平治の乱)で
「保元物語」「平治物語」を記載されているものは「新日本古典大系 保元物語・平治物語・承久記」に掲載されている内容です。
この「新古典大系」に載っているものが、現存している「保元物語」「平治物語」諸本の中で最も成立年代が古いものだそうです。

この諸本に関しては以前の書かせていただきました。軍記物一般 保元物語 平治物語

前回



頼朝流刑の背景を考えてみる 4

2009-07-08 05:44:51 | 源平時代に関するたわごと
頼朝の流刑の事についてはまだいくつかの疑問が残ります。
その中で私の中に大きな疑問が二つ残っています

一つは、本来死刑になってもおかしくない頼朝がなぜ流刑にとどめられたのか、
もう一つは逮捕から流刑執行までに一ヶ月以上の期間がかかっていることです。

一つ目の「助命」については、散々色々な意見があるようです。
有力な説として助命の背景に後白河上皇や頼朝が仕えていた上西門院の意向が
あったというものがありますが、本当のところはよくわかっていないというのが実は現状のような気がします。
ただし、「吾妻鏡」の記載などを読む限りにおいては
清盛の義母の池禅尼の助命運動があったということは事実であったとみてよいと思います。(末尾に余談)

もう一つの疑問については現在色々と考えていますが、「疑問だけ」が私の中にあるのみです。
藤原信頼、源季実、頼朝の兄義平は自首もしくは逮捕されてからすぐに処刑されていますが
頼朝に関しては一ヶ月以上も処分保留でした。このことが不思議です。
これについて考える上で前年の十二月末に官軍方に出頭した源師仲が三ヶ月以上たって頼朝と同日に流刑になったことが一つ考える手がかりになるかも知れないと考えています。

この二つの疑問については私の中では答えが出ないという状況です。

ですが、考えるヒントになるかもしれないことがあります。
それは頼朝が逮捕されるまでに政界ではなにがあったのかを書き出すことと
頼朝やそれに関わる人々の人脈や状況を書き出してみるということです。

ここにそれを書き出しておいてみたいと思います。

1.頼朝逮捕から流刑の間に起きたこと

2月9日 源頼朝逮捕される
 この頃の政界は二条天皇側近が主導

2月20日 二条天皇側近の藤原経宗、藤原惟方が後白河法皇の面前で逮捕される

2月22日 信西の息子たちが赦免され流刑地から召還される

2月26日 後白河上皇の面前で公卿が会議が行なわれる
 後白河院政の復活

2月28日 藤原経宗、藤原惟方解官される

3月11日 藤原経宗、藤原惟方、源師仲、源頼朝、源希義 流刑執行

次回は人脈について書かせて頂きます。

一つ目の疑問に関しての余談
頼朝助命について私の中に浮かんでいる考えが一つあります。
頼朝が乱の後一ヶ月以上たってから逮捕されたのももしかしたら彼にとっての幸運だったかもしれないということです。
頼朝の叔父の為朝は保元の乱から一ヶ月以上たってから逮捕されて、為朝もまた死刑にならずに伊豆への流刑となっています。

前回 次回

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ