時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

大蔵合戦について その1

2008-09-30 20:45:19 | 蒲殿春秋解説
小説もどきで出てくる「義仲の父(源義賢)の仇」(主な対象者 源義平、新田義重)という言葉ですが、これに関する事件について書かせていただきたいと存じます。

この事件は何かといえば久寿二年(1155年)八月十六日に起きた「大蔵合戦」のことです。
この戦いで当時武蔵国大蔵館にいた源義賢とその舅秩父重隆が、義賢の甥にあたる源義平(頼朝の兄)が率いる軍勢によって殺害されました。
その際、同じく武蔵国にいたらしい当時二歳の義仲(義賢次男 幼名駒王丸)も命を狙われますが、武蔵の豪族斉藤実盛らの計らいによって信濃へ逃れ、そこの豪族中原兼遠によって養育されることとなります。

この大蔵合戦の行なわれた場所や合戦の内容またその背景などについては現在諸説あるようですが、
この先は野口実「源氏と坂東武士」(吉川弘文館)、元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」(NHKブックス)などの説をベースに書かせて頂きます。

義平が叔父の義賢とその舅を討つに至った経緯は大きく二つの要因があったようです。
一つは、秩父重隆と畠山重能との間の同族争いと坂東武士団同士の抗争
もう一つは、為義(義朝・義賢父)ー義賢ラインと義朝(義平の父)の都における政治路線の対立と一族内の不和でした。

まず、秩父一族の中の抗争です。

当時秩父一族は武蔵国の国衙の要職留守所検校職を巡って重綱長男の重弘の子重能と重綱次男重隆との間で争いがあったようです。
この時期は重隆が武蔵国留守所検校職にあり、その地位を元に武蔵国国衙のかなりの実権を握っていたようです。
そして、そのことを重綱長男系の重能が不服に思っていたようです。

地方の在地の有力豪族たちは国衙の実権を握ることによって、その国に住む豪族や住民達を従え、さらに自らの一族への支配力を強めることができました。
従ってその地域に勢力を張る為には国衙の実権を得ることが当時必要不可欠なことだったのです。
国衙の要職の地位は世襲化の傾向にありましたが、一族の誰が世襲するかということについてはこれといった決まりはなく、その国衙の職を巡って同族争いをするということが珍しいことではなかったようです。
本来争いごとなどを調停する場所であるはずの国衙機構の制度や役職そのものが逆に争いの種になってしまっていたのです。

そして当事者達は、実力で(含む武力行使)で国衙の実権を手に入れていったのです。

後世のように、嫡子相続とか長子相続という決まりはありませんでした。
地位争いに勝ったものが地位を手に入れるのです。

重隆と重能の間にはそのような大切な国衙の地位=留守所検校職を巡る対立があったようです。(つづく)

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1183年1月から4月初頭までの年表

2008-09-25 05:18:14 | 年表

日付 頼朝勢力 義仲 朝廷
2月11日      
2月20日 志田義広蜂起(吾誤)    
2月21日      
2月23日 野木宮合戦(吾誤)    
3月 頼朝義仲と信濃で対陣(延) 頼朝義仲と信濃で対陣   
4月9日     北陸追討の祈祷を行なう(玉)



(吾誤)ー吾妻鏡には治承五年(1181年)閏二月の出来事とされているが、
専門家の研究によって、寿永二年二月の出来事の誤記であるとされているもの。

(玉)ー玉葉
(延)ー延慶本平家物語

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女院号を見てみると

2008-09-22 20:56:50 | 蒲殿春秋解説
この時代の女院の院号をみてみると面白いなと思います。

皇嘉門院(崇徳中宮)、九条院(近衛中宮)、上西門院(鳥羽皇女・後白河准母)、
八条院(鳥羽皇女・二条准母)、建春門院(高倉生母)、建礼門院(高倉中宮、安徳生母)、七条院(後鳥羽生母)
他の女院もおられますが、主な方々ということで一部記載しておりません。

門の名を号した女院が多いのですが、
この時代には「大路」の名を冠した女院が三人もいます。

しかも、七条、八条、九条
と内裏から遠い大路の名を冠した女院が三人もおられます。

この頃、八条には平清盛の西八条屋敷があり、多くの荘園を持ち隠然たる力をもっていたといわれる八条院の御所がありました。
また、清盛は九条の平盛国館で亡くなっています。
この時代内裏とは離れた八条九条エリアが政治的に重要な場所になっていたとも言われています。

もしかしたらそのような状態がお三方の女院の院号にも関係したのでは?などと思ったりしています。

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志田義広蜂起(野木宮合戦)の年月日

2008-09-20 05:16:04 | 蒲殿春秋解説
小説もどきの中で志田義広蜂起(野木宮合戦)を寿永二年(1183年)二月の出来事として書かせていただきました。

志田義広蜂起は実際にあった合戦のようです。

「吾妻鏡」においてはこの蜂起は養和元年(1181年)閏二月二十日発生に事件として記されています。
しかし、石井進氏が「志太義広の蜂起は果たして養和元年の事実か」(『中世の窓』1162年11月所収)
という論文を発表して以降、この事件は実際には寿永二年(1183年)二月に起こった合戦であるというのが、有力な説として定着しているようです。
(治承五年閏二月は「吾妻鏡」編纂時の誤謬とみなされているようです)

石井氏の説によると
・「吾妻鏡」建久三年九月十二日条の載せられている小山朝政に対する政所下文に
「去寿永二年、三郎先生義広発謀反(以下略)」とある。
この文書は他の現存する政所下文と比較しても形式上ただしく
吾妻鏡が取り入れた「地の文」として正しいものと思われる。
志田義広の蜂起はその地の文の記載の通り「寿永二年」の事件とするべきである。

・「吾妻鏡」元久二年八月七日条にも
寿永二年に志田義広が起きた事件との記載がありそれも「地の文」である。

・寿永元年の頼朝と義仲の対立の要因の一つとして理屈が通りやすい。
志田義広が義仲のもとに逃亡したということがあれば
寿永二年二月に挙兵敗北、義仲の元へ逃亡、それが頼朝との対立の一つの要因となったと見るのが自然である。

以上のような石井説は現在かなり支持されているようです。

このようなことから今回の小説もどきでも
寿永二年説 を使用させていただくことといたしました。

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蒲殿春秋(三百九)

2008-09-18 04:10:27 | 蒲殿春秋
義仲は嫡男清水冠者義高とその同年代の男子数名を信濃から呼び寄せた。
父からの書状をもらった時に既に用の趣を知らされていたと見えて
義高も同行する子たちも神妙な顔をして義仲を見上げた。

数日間義仲の陣で待たされていたた天野遠景は呼び出され
義高を引き合わせた。
義高には父からのせめてものはなむけともいえる荷駄が添えられ
頼朝に対する引き出物、そして遠景個人に対する贈り物も用意されていた。
我が子を託す義仲の切なる想いがそこに込められていた。

父子の別れを済ますと義高らは天野遠景と共に頼朝の陣へと向かった。

頼朝の陣に着くとまず武蔵の豪族が数名呼ばれた。
そして、義高に挨拶をさせる。

数刻待たされた後義高は頼朝と面会をした。
初めて見る「婿」の顔をみて頼朝は至極満足そうな顔をした。
先ほどの武蔵の豪族たちとの対面を眺めていた雑色たちの報告によると
替え玉ではなく本物の義高であるようである。
かの豪族達は頼朝と義仲双方に仕えている者で、義高の顔をよく見知っている。

頼朝の満足は推して知るべしである。

日々勢力を延ばしつつある義仲に譲歩させたのである。
志田義広や新宮十郎行家を引き渡さないことなどとうの昔にわかっていた。
なんらかの形で義仲の譲歩を引き出せばそれでよいのである。
しかも、義光流甲斐源氏石和信光が縁談を持ちかけ「側室ならば迎えても良い」との返事をもたった
等の相手を頼朝の婿として丸抱えできるのである。
これで甲斐源氏嫡流の座を狙う石和信光より頼朝が上位者であるということを内外に示すことができるのである。

後は、北陸に攻め寄せる平家と義仲がどのような戦いをするか、ということである。
平家を破ればそれで良し、平家に敗れてもかなりの勢力を誇る義仲は、平家に多大なる損傷を与えるはずである。
弱りきった平家が北陸を伝って坂東に押し寄せても撃退をすることがたやすくなる。

成果に満足した頼朝は集めた御家人達の殆どを領地に戻し「婿殿」を連れて鎌倉へと戻った。

そして、妻の領地を検分に行くという名目で武蔵へ旅立ち、志田義広一党と戦った後頼朝の軍に従っていた源範頼も兄と共に鎌倉へと戻ることになった。
新婚の妻を残して鎌倉を去ってから一月以上も過ぎようとしていた。

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蒲殿春秋(三百八)

2008-09-15 04:30:13 | 蒲殿春秋
義仲は、一旦遠景を下がらせて主だったものたちを近くへ呼び寄せた。
義広と行家を引き渡せないならば、嫡子義高を鎌倉へ寄こせ、
さなくば一戦も辞さない、という頼朝からの要求があったことを
彼に従う者達に告げた。

今井兼平、樋口兼光などの昔からの側近達は義高を引き渡すことはならぬ、
ここまで来たら頼朝との一戦も辞さないと言い張った。
一方最近義仲の傘下に入った根井、小諸などの豪族達は
平家が近づいている今頼朝と戦うのは益にならない
御曹司にはお気の毒だが鎌倉へ言っていただくしかない、
と答えた。

乳母子として一緒に育った今井らの言葉は心底義仲を思いやって言った言葉であることはわかった。
だが、最近味方になった豪族達の言葉も無視はできない。
いざ頼朝と戦おうにも頼朝との戦を厭う彼等がその時離反しては大軍を率いる頼朝とは戦えない。
しかも、平家侵攻の噂は北陸に満ちている。

もう義高を引き渡すしかない、
状況はそこに追い込まれている。
しかし、義仲の決断を最後まで鈍らせたもの
それは父としての情愛と嫡子を敵に引き渡した後の家の存続という問題だった。

主だったものたちが下がった後、
最近義仲の陣に加わった覚明という僧が現れた。

「殿、お話がございます。」
そういって覚明は義仲に向かってある話を切り出した。
義高は現在義仲の嫡子であるが、将来も嫡子でありつづけるわけではない。
義仲が都に上がってしかるべき身分の姫君を妻に迎え正室とし
そこに男子が生まれれば義高は嫡子の座を追われる。
義高の母は木曽の豪族の出である。出自は高くはない。
都における義仲の後継者の地位は貴族の姫を母とする子に受け継がれる。

それならば、義高を鎌倉へ送って坂東でしかるべき地位を持たせることを目指させてはどうかというのである。
義仲が都で地位を上げれば、頼朝の婿であることを盾に義高を通じて義仲が鎌倉に強い影響力を持つこともできる。義高を通じて坂東の武士たちと誼を深めておけば将来その武士たちを木曽方につける工作も出来る。
場合によっては鎌倉を乗っ取ることも不可能ではない。頼朝の息子は一人しかおらずしかもまだ二歳である。その子の母の出自もまた高くは無い。
とにかく鎌倉において「婿」として遇されることは決して悪いことではない。
そのようなことを述べた。

確かにそのように考えれば鎌倉へ婿として送ることは義高の将来の為にはなるし、戦略という面では悪いことではない。

けれども、敵に息子を引き渡すという行為、息子を手放す寂しさ
そして元服したとはいえまだ幼い息子、その息子の気持ちはどうなるのか、
そのようなことを考えると義仲の心はうずく。

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蒲殿春秋(三百七)

2008-09-13 06:21:19 | 蒲殿春秋
義仲は逡巡した末、使者に返答した。
「鎌倉殿に敵対するつもりはない。されどわしを頼ってここに来て下さった叔父上たちをお渡しすることはできない。」

頼朝の使者伊豆国住人天野遠景は憮然たる表情になった。
「敵対するつもりはない、と口に出されるのは簡単にございまする。
そのおつもりならば、彼のお二方をこちらにお渡しいただくべきと存知あげまする。
さなくば木曽殿が和平の意を持つ証にはなりませぬ。」
「だが、その二人はお渡しすることはできませぬ。」
「ならば他の形で、それも目に見える形で和平の意を表していただきたい。」
怪訝な顔をする義仲を見上げながら天野遠景は言葉を続けた。
「お二方をお渡しできぬとあれば、鎌倉殿が強く望まれることを叶えて差し上げるのがよろしいかと存知まするが。」
「?」

天野遠景は、頼朝から言われた言葉をそのまま伝えた。
志田義広、新宮十郎行家の引渡しを拒まれたときに伝えるようにといわれた言葉をそのままに。
「主鎌倉殿はこう申されておられました。
『木曽殿はお子をあまた持たれてうらやましい。武勇に優れた木曽殿のお子をわが側に一人置きたいものよ。
木曽殿のお子それも成人なされた子がわが傍らにあればよいと思う。わしには成人した倅がおらぬゆえ。』
と。
この鎌倉殿のお望みを叶えれば或いは・・・」

義仲はその言葉に内心動揺した。
成人した男子、つまり元服を済ませた息子とは嫡子義高しかいない。
自分の跡取りとして大切に育て上げた子を差し出せというのか・・・
義仲は心を落ち着かせながら返答した。
「わが嫡子を人質に出せ、と。そのような無体を申すのか。」
「いえいえ、人質などではございませぬ。
鎌倉殿には六歳になる姫君がおわしまする。
聞くところによると木曽殿のご嫡子は十一歳とか。
お似合いの夫婦となられましょうなあ。
ご嫡子を婿に迎え鎌倉に引き取りたいたいというのが鎌倉殿のご意思でございまする。」
「・・・・」

「本来ならば、鎌倉殿に敵対した志田殿、新宮十郎殿を受け入れられたというだけで問答無用に鎌倉殿から矢を射掛けられても仕方あらぬ所。
和平を望むまれるならば、このお二方をお渡しいただくのが筋というもの。
それも叶わぬ、であれば和平に対するそれなりの誠意を目に見える形でお示しいただきかねば和平にたいするお気持ちは無いものと我らは受け取りまする。」
義仲は遠景をじっと見据えている。
「鎌倉殿は大軍を率いておられまする。われら鎌倉勢は木曽殿にいつでも矢を射掛けることはできまする。」
遠景は強い瞳で義仲を見上げた。

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蒲殿春秋(三百六)

2008-09-10 05:43:34 | 蒲殿春秋
頼朝は現状を快く思いながらも次の手を考える。
いつまでも両軍にらみあっても埒が明かない。
また長期にわたる滞陣は彼の御家人達に負担を掛けることにもなる。

義仲の苦境を頼朝は熟知している。
頼朝のもとにもたらされる都からの情報では東国制圧を目指す平家の矛先は北陸に向かうことは間違いないようである。
━━それにしても、いい時期に志田が蜂起したものよ
頼朝は内心そう思う。
平家がまだ本格的に動けず、それでいて北陸出兵の準備をしているこの状態が義仲にもっとも圧力を掛けやすい。
次々と頼朝に情報をもたらす都との人脈もまた父母によってその生前に用意されていたものであった。

頼朝は義仲の陣へ使者を送った。

「木曽殿と戦う気はない。鎌倉に対して敵対した志田義広と新宮十郎行家の身柄を求めているだけである。
この二人を我が陣に引渡しさえすれば直ぐにも兵を撤退させる。」
これが頼朝の使者の口上だった。

使者の口上を聞いた義仲は困惑した。

北陸に平家侵攻の危機が高まっている今は頼朝と戦う時ではない。
戦って勝つ自信はある。
けれども頼朝と戦うには彼が率いているその大軍を相手にしなければならない。
先の戦で奇策を見せ志田軍に勝利した小山兄弟もその陣中に有る。
もし頼朝と戦って勝利したとしても自軍に多大なる損失が生じ、来るべき平家との戦いにおいて義仲は不利となる。
頼朝が戦わない、兵を退いてくれるというならばそれは大歓迎である。
けれども義広と行家を引き渡すわけにはいかない。
以仁王の遺児北陸宮を奉じ以仁王の庇護者であった八条院の領地を預かるものたちの盟主を自称する義仲は、八条院に深く連なる義広、行家を頼朝に渡すわけにはいかない。
頼朝に引き渡せばこの二人の命はまずない。
八条院領を預かる志田義広、八条院蔵人の行家を守れなければ、今提携している八条院の勢力下にある者たちの離反を招く。
この二者を頼朝に引き渡すわけにはいかない。
けれども今頼朝とは戦える状況ではない。

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蒲殿春秋(三百五)

2008-09-07 06:06:29 | 蒲殿春秋
一方源頼朝は情勢の成り行きに満足している。
全てが頼朝の思惑通りに進んでいる。

義仲を快く思わない平賀義信や新田義重などの各武家棟梁がこの情勢を期に頼朝の御家人として従うようになった。
甲斐源氏の一人石和信光まで御家人となり甲斐源氏の切り崩しにも成功した。

また、坂東諸国に勢力が浸透しつつある中にあっても頼朝の勢力が中々浸透しなかった常陸国の有力者の一角志田義広が放逐され、これまた下野上野に勢力を張っていた藤姓足利氏の足利忠綱もいなくなった。
代わりに頼朝の乳母の一族の小山氏、頼朝と縁が深い源姓の足利義兼が勢力を張るようになる。
かれらも独立した武家棟梁ではあったが、既に頼朝の御家人となっていた。
志田義広との一戦で頼朝の勢力は北坂東にもおよぶようになった。

そして、武蔵国。
武蔵国は名馬の産地でまた大小さまざまな武士団が存在する。
坂東における武家の棟梁を目指すものにとってはどうしても抑えておかなければならない国である。
それゆえに父義朝は武蔵国を知行国としていた藤原信頼と手を結び武蔵国の武士達への支配を進めていった。武蔵国が大切ゆえにそこに進出した弟源義賢を見過ごすことはできず、義賢を長男義平に討たせた。
平治の乱で信頼、義朝が滅びると坂東進出を目指す平家は真っ先に武蔵国を知行国とした。武蔵国を得た平家は国衙を通じてその国の住民達を従えた。

「武蔵国を抑えることは坂東を支配するには必要不可欠。されど武蔵を支配するのはたやすくない。」
頼朝は亡き父が時折つぶやいていた一言を思い出した。

今回の志田義広との戦、そしてこの出陣で武蔵国に対する頼朝の勢力はより一層進展した。
まだまだ、完全に支配下に置いたとは言えないが・・・

この志田義広との一戦や義仲とのにらみ合いは、義朝義平父子が義広の同母兄、義仲の父である義賢を滅ぼし、保元の乱で義朝がその父為義や義朝の兄弟たちと敵対したという負の遺産の精算という意味合いもあった。

けれども父義朝が頼朝にかつて与えたものが今の頼朝を助け勝利と今の優勢を与えている。
それは、義朝が築き上げた人脈と頼朝につけた乳母たちの縁であった。
志田義広と戦った小山兄弟は頼朝の乳母子。
それを背後から支えた秩父一族河越重頼の妻が頼朝の乳母子。
武蔵の大軍を率いた源範頼は頼朝の異母弟で乳母の孫の夫。
武蔵国のもう一つの雄足立一族を平治以前から義朝は従えていた。

また、新田義重は頼朝の長兄義平の舅、平賀義信は平治の乱以前から義朝と親しかった。

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