小説もどきで出てくる「義仲の父(源義賢)の仇」(主な対象者 源義平、新田義重)という言葉ですが、これに関する事件について書かせていただきたいと存じます。
この事件は何かといえば久寿二年(1155年)八月十六日に起きた「大蔵合戦」のことです。
この戦いで当時武蔵国大蔵館にいた源義賢とその舅秩父重隆が、義賢の甥にあたる源義平(頼朝の兄)が率いる軍勢によって殺害されました。
その際、同じく武蔵国にいたらしい当時二歳の義仲(義賢次男 幼名駒王丸)も命を狙われますが、武蔵の豪族斉藤実盛らの計らいによって信濃へ逃れ、そこの豪族中原兼遠によって養育されることとなります。
この大蔵合戦の行なわれた場所や合戦の内容またその背景などについては現在諸説あるようですが、
この先は野口実「源氏と坂東武士」(吉川弘文館)、元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」(NHKブックス)などの説をベースに書かせて頂きます。
義平が叔父の義賢とその舅を討つに至った経緯は大きく二つの要因があったようです。
一つは、秩父重隆と畠山重能との間の同族争いと坂東武士団同士の抗争
もう一つは、為義(義朝・義賢父)ー義賢ラインと義朝(義平の父)の都における政治路線の対立と一族内の不和でした。
まず、秩父一族の中の抗争です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/39/776999c55e4c57c003dbe871bd318fe4.png)
当時秩父一族は武蔵国の国衙の要職留守所検校職を巡って重綱長男の重弘の子重能と重綱次男重隆との間で争いがあったようです。
この時期は重隆が武蔵国留守所検校職にあり、その地位を元に武蔵国国衙のかなりの実権を握っていたようです。
そして、そのことを重綱長男系の重能が不服に思っていたようです。
地方の在地の有力豪族たちは国衙の実権を握ることによって、その国に住む豪族や住民達を従え、さらに自らの一族への支配力を強めることができました。
従ってその地域に勢力を張る為には国衙の実権を得ることが当時必要不可欠なことだったのです。
国衙の要職の地位は世襲化の傾向にありましたが、一族の誰が世襲するかということについてはこれといった決まりはなく、その国衙の職を巡って同族争いをするということが珍しいことではなかったようです。
本来争いごとなどを調停する場所であるはずの国衙機構の制度や役職そのものが逆に争いの種になってしまっていたのです。
そして当事者達は、実力で(含む武力行使)で国衙の実権を手に入れていったのです。
後世のように、嫡子相続とか長子相続という決まりはありませんでした。
地位争いに勝ったものが地位を手に入れるのです。
重隆と重能の間にはそのような大切な国衙の地位=留守所検校職を巡る対立があったようです。(つづく)
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この事件は何かといえば久寿二年(1155年)八月十六日に起きた「大蔵合戦」のことです。
この戦いで当時武蔵国大蔵館にいた源義賢とその舅秩父重隆が、義賢の甥にあたる源義平(頼朝の兄)が率いる軍勢によって殺害されました。
その際、同じく武蔵国にいたらしい当時二歳の義仲(義賢次男 幼名駒王丸)も命を狙われますが、武蔵の豪族斉藤実盛らの計らいによって信濃へ逃れ、そこの豪族中原兼遠によって養育されることとなります。
この大蔵合戦の行なわれた場所や合戦の内容またその背景などについては現在諸説あるようですが、
この先は野口実「源氏と坂東武士」(吉川弘文館)、元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」(NHKブックス)などの説をベースに書かせて頂きます。
義平が叔父の義賢とその舅を討つに至った経緯は大きく二つの要因があったようです。
一つは、秩父重隆と畠山重能との間の同族争いと坂東武士団同士の抗争
もう一つは、為義(義朝・義賢父)ー義賢ラインと義朝(義平の父)の都における政治路線の対立と一族内の不和でした。
まず、秩父一族の中の抗争です。
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当時秩父一族は武蔵国の国衙の要職留守所検校職を巡って重綱長男の重弘の子重能と重綱次男重隆との間で争いがあったようです。
この時期は重隆が武蔵国留守所検校職にあり、その地位を元に武蔵国国衙のかなりの実権を握っていたようです。
そして、そのことを重綱長男系の重能が不服に思っていたようです。
地方の在地の有力豪族たちは国衙の実権を握ることによって、その国に住む豪族や住民達を従え、さらに自らの一族への支配力を強めることができました。
従ってその地域に勢力を張る為には国衙の実権を得ることが当時必要不可欠なことだったのです。
国衙の要職の地位は世襲化の傾向にありましたが、一族の誰が世襲するかということについてはこれといった決まりはなく、その国衙の職を巡って同族争いをするということが珍しいことではなかったようです。
本来争いごとなどを調停する場所であるはずの国衙機構の制度や役職そのものが逆に争いの種になってしまっていたのです。
そして当事者達は、実力で(含む武力行使)で国衙の実権を手に入れていったのです。
後世のように、嫡子相続とか長子相続という決まりはありませんでした。
地位争いに勝ったものが地位を手に入れるのです。
重隆と重能の間にはそのような大切な国衙の地位=留守所検校職を巡る対立があったようです。(つづく)
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