時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

義仲滅亡から一の谷までの年表

2010-02-21 06:04:49 | 年表
史料名 (玉)ー玉葉、(吾)ー吾妻鏡


 
日付 鎌倉上洛勢力等 その他 朝廷 平家
1月21日     摂政交替の噂(玉)戦後処理平家追討の会議(22日条)兼実に政権の話(2/1日条)頼朝に使者を出す(玉2/20条)  
1月22日             
1月23日     平家追討の方針が固まる(玉)  
1月26日 平家追討の為に出門(玉) この頃摂津の武士に平家追討軍への参集の招集がかかる* 平家追討を中止、静賢を使者として送る方針(玉)、平家追討の宣旨発行(玉2/23条)  
1月27日      使者送り中止、平家追討に動く(玉)    
1月28日 平家の使者を捕えるため義経郎党が狼藉を働く(玉)       
1月29日 平家追討の為に出立(玉、吾)    平家追討確実(玉)、義仲残党追討の宣旨(玉2/26条)   
2月1日 範頼、頼朝に叱責される(吾)追討使全て出立、山陽道を追い落とす(玉)          
2月2日 追討使大江山に留まる、土肥実平使者を送ることに賛同(玉) 院の御子と称するものが伯〇国(〇=老+日 ほうきくに)で反平家運動を行なっている(玉) 七条あたりで火事、朝廷はあくまでも平家追討の方針(玉)      
2月3日   行家都に入る、頼朝と和解(玉)    
2月4日 追討使平家に対して勢少なし(吾)       福原に入る(玉)
2月6日  このころ三草山の戦いか?          平家一の谷に引き退き伊南野に入るとの報が都に入る(玉)
2月7日 一の谷の戦い(玉)        一の谷の戦い(玉)


*「儒林拾要(じゅりんしゅうよう)」所収の廻文。川合康「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)より

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法住寺合戦から鎌倉木曽対決まで

2009-10-31 05:42:01 | 年表
史料名 玉ー玉葉 吉ー吉記 吾ー吾妻鏡



寿永二年(1183年)

日付 頼朝 義仲 その他 範頼、義経 朝廷 平家
11月24日                  諸卿に院参を命ずる(吉)  
11月27日              比叡山衆徒蜂起(吉)          これより前に室泊に到着(玉)
11月28日                     大量解官(吉)        
11月29日           室泊の戦い、行家敗北(玉12/2条、吉記12/3、12/7条では11/28)     師家政所始(玉12/3条)     
12月1日     義仲院厩別当となる(吉)                  
12月2日     摂関家の所領八十箇所を義仲に与える(吉11/28、玉12/3条)           
12月3日            この頃までに伊勢の義経義仲軍に追い落とされる(玉12/4条) 葦敷重隆、源有綱ら解官される(吉) 平氏入洛の噂(吉)
12月5日     平氏領を義仲に与える院下文が与えられる(吉)           平氏室にある。南海山陽ほぼ平氏に従う。平氏頼朝と同意する噂、義仲平氏と同意する動き(玉)
12月7日     法皇を西国に連れて行って平家を討つ案が出る(玉)          平氏入洛の動き。能円法眼から藤原範季に申し入れ(玉)
12月8日               法皇怪異により八条殿へ戻す案却下される。(玉)   
12月9日       比叡山僧侶蜂起(吉)            
12月10日                 頼朝追討院庁下文作成、法皇平業忠邸へ移る、除目(吉)   
12月11日           比叡山大衆ひとまず義仲と戦うのは停止(玉)            
12月12日          比叡山大衆まだ和戦両方定まらず(玉)         20日平氏入洛の噂(玉)
12月13日               上西門院、皇后亮子持明院基家邸に行かれる(上西門院乳母死去のお見舞い)(吉)   
12月15日               経房頼朝追討院庁下文に加判、奥州勢力に頼朝追討を命じる内容(吉)  
12月19日 頼朝死亡の噂(吉)    比叡山和平の大衆、神輿を振り下げ奉る(玉)         
12月20日        日吉社神輿を本社に戻す(吉)悪僧が琵琶湖の運上物を差し押さえる(吉)      平氏入洛の噂(吉)
12月21日              京官の任官(玉)   
12月22日 上総介広常殺害される(千葉系図他)          都大地震(吉)   
12月23日     義仲西海へ法皇御幸を望む(吉)                   
12月28日                       平氏と義仲の和平一定(玉)


寿永三年(1184年)
     
1月1日 鶴岡でお神楽(吾)                  
1月3日 伊勢外宮に大河土荘を寄進(吾)                    
1月4日 頼朝出立の噂(玉)              8日に平家上洛の噂(玉)
この頃            範頼軍の内部で先陣争いが勃発(吾2/1条、7/20条)        
1月6日           坂東武士墨俣を越えて美濃に入る(玉)      
1月9日   義仲と平家の和睦が必定(玉)             
1月11日    義仲近江に下向の話(玉)          13日に平氏入京の噂(玉)
1月12日               平家法皇北陸行きの噂の為和睦に難色(玉)
1月13日   義仲東国下向二転三転(玉) 行家渡野部にいる(玉) 義経の兵千余騎(玉)   平家入京に難色(玉)
1月14日    義仲法皇を連れて近江に行く説(玉)           
1月15日    義仲征東将軍の宣旨を受ける(玉)      後白河法皇赤痢により御幸を拒否(玉)   
1月16日    軍の対応二転三転(玉)   坂東の武士数万に及ぶ、坂東の武士勢多に到着(玉)     
1月19日    行家討伐軍出立、田原を守るため宇治にも出兵(玉)             
1月20日    鎌倉勢と戦い、義仲討ち取られる(玉)   義仲軍との戦い(玉)     


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寿永二年(1183年)十一月 法住寺合戦まで

2009-05-17 01:08:36 | 年表
史料名 玉ー玉葉 吉ー吉記


日付 義仲 行家 他武将 義経 朝廷その他 平家
11月4日     不破の関に到着(玉)    讃岐にいる(玉、吉)
11月7日   行家ら義仲以外の主な武将が警護の為に院に召される(玉) 近江到着(玉) 院中に警護の武士入れる(玉)  
11月8日   行家平家追討に出発      
11月10日     近江滞在(玉)      
11月12日             資盛院へ書状(玉)
11月13日    行家鳥羽出発(吉)          
11月15日           義経入京に関して審議(玉) 平家備前を焼き払う(吉)
11月17日 法皇から西国行を命じられる(玉)       院中武士群集(玉)多田行綱ら院に入る(吉)法皇南殿へ渡る(吉)摂政基通院御所へ参上(玉)    
11月18日 義仲西国行きを一旦は了承(吉)     伊勢に到着 天皇密かに行幸(吉)女院ら他所に移る(吉)北陸宮逐電(吉)天台座主、八条宮などが院に参内(玉)  
11月19日 法住寺合戦(玉、吉)法皇摂政基通の五条邸に移される(吉)             
11月20日 前関白基房義仲と接触(玉)           
11月21日         師家摂政就任(吉)   


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寿永二年(1183年)閏10月年表

2009-05-17 00:41:06 | 年表
史料名 玉ー玉葉 吉ー吉記 百ー百錬抄


日付 頼朝 義仲 義経 朝廷その他 平家
10月21日            鎮西を出る(玉)
10月        上西門院乳母(持明院基家母)死去(吉12/13条)   
10月28日 頼朝上洛の噂(玉)           
閏10/1   水島の戦い(百)          
閏10/2            この頃四国に入る(玉)
閏10初旬 頼朝鎌倉を出て上洛の途につく(玉11/2)             
閏10頃 頼朝上洛の為に足柄山にいる。その頃に院使い中原康貞に会う(吉)           
閏10初旬 頼朝上洛途上で平頼盛に会う(玉11/2条)           
閏10初旬 頼朝遠江に滞在していたが、奥州藤原氏が白河の関を超えた為に鎌倉に戻る(玉閏10/25条)          
閏10 頼朝郎党秀衡の元に走る*(玉)          
閏10/13           讃岐にいる(吉)
閏10/14     都に戻るとの噂(玉)           
閏10/15     義仲帰京(玉)        
閏10/16     義仲後白河法皇のもとに参上(玉)          
閏10/17     頼朝代官九郎が上洛するという噂(玉)       
閏10/20     義仲院に猛烈抗議、頼朝を討つ宣旨を要求(玉)             
閏10/21     義仲の抗議拒否される(玉)   持明院基家逐電(玉)       
閏10/22     伊勢に出兵(玉) 伊勢にいる(玉)      
閏10/23   義仲、志田義広を平家追討使にするよう院に要望するが拒否される(玉)     公衡恐怖する(玉)     
閏10/24     義広追討使にするよう再度申入れるが難色を示される(玉)       
閏10/25           奈良の僧、院のお召しで参上(玉)    
閏10/26     義仲興福寺衆徒に頼朝を討つよう依頼するが興福寺から拒否される(玉)              


*「玉葉」寿永二年閏十月十七日条にある人が言ったという話で次のようにある。
『頼朝の郎従等、多く以って秀平の許に向ふ。仍つて秀平頼朝の士卒異心ある由を知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す。この時東西より頼朝をせむべき由なりと云々。』

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1183年7月末から10月中旬年表

2009-02-18 13:44:07 | 年表
史料名 (玉)ー玉葉、(吉)ー吉記、(百)ー百錬抄

日付 頼朝 義仲 行家 他武将 朝廷その他 平家
7月27日        後白河法皇下山、都に戻る(玉、吉)  
7月28日 頼朝の元に院使中原康貞を下す(百)  義仲、行家入京(玉)      
7月30日   義仲ならびに源氏諸将に京中守護命じられる(吉)兵の狼藉問題となる(玉)    行賞頼朝第1、義仲第2、行家第3(玉)   平時忠に院宣をもたらす(吉)
8月6日       新しく帝を立てるべきかの話し合い(玉)  平家解官(玉)
8月10日   源氏武士に勧賞(玉)義仲左馬頭兼越後守行家備後守(百) 源氏の乱行が止まない(玉)    時忠から剣爾等の返還要請に対する返事が都にくる(玉8/12条)
8月12日     行家官位に不満(玉)    
8月14日    義仲北陸宮即位を申し入れ(玉)      
8月16日   義仲伊予守(百) 受領の除目*1(玉)行家備前守となる(百)    
8月18日        新天皇即位に関する占い記事(玉)  
8月20日     除目*1(玉) 後鳥羽天皇践祚(玉)  
8月21日     武士達大原社等に乱入する(百)    
8月26日         この頃鎮西に入る(玉)
9月3日 上洛の噂(玉) 武士たち物資横領、収穫物強奪(玉)      
9月5日   義仲の横領深刻化(玉)     平家強勢の噂(玉)
9月12日       平家と義仲調伏の祈祷*2  
9月18日       北陸道若宮入京(百)  
9月20日   平家追討に出発(玉)      
10月1日 頼朝に遣わした院使帰京 三か条の奏上(玉)        
10月9日 頼朝本位に復す(玉、百)        
10月12日   妹尾兼康との戦い*3      
10月13日 中原康貞院使として再び坂東下向の話が出る(玉)        
10月14日 寿永二年十月宣旨(百)     都大地震(玉、百)  
10月17日   義仲の軍勢備前国にいる(玉)      
10月18日       平頼盛逐電(玉10/20条)実は関東下向(百10/20条)  


*1 この除目のいずれかで安田義定らが国司に任命されたと推測される。
*2 宮田敬三『都落ち後の平氏と後白河院』(「年報中世研究」) より
*3 上杉和彦「戦争の日本史6 源平の争乱」において示された日付に従う。

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1183年4月から7月年表(北陸戦線~平家都落ち)

2009-01-05 06:28:37 | 年表
史料名 (玉)ー玉葉、(吉)ー吉記、(延)ー延慶本平家物語、(百)ー百錬抄 (新古平)ー「新古典大系 平家物語」(岩波書店)に所収の平家物語

 
日付 義仲 行家 他源氏、寺社 朝廷 平家
4月17日         平維盛ら追討使として北陸下向(百)(延)
4月25日       源頼朝、同信義追討宣旨(玉)  
4月26日         火打城の戦い 
5月2日                  平家加賀に攻め入る(玉5/12条) 
5月9日              般若野の戦い
5月11日 砺波山(倶利伽羅峠)の戦い         砺波山(倶利伽羅峠)の戦い
5月12日 藤原秀衡義仲に俊馬を送る(新古平)          
6月1日 篠原の戦い        篠原の戦い 
6月3日        追討祈願(吉)   
6月4日        北陸の官軍敗北の報が都に伝わる(玉)  
6月6日              敗れた官軍入京(吉)
6月12日       北面のものを東海道に派遣の話(吉) 貞能数万の兵を連れて都の近くにいる噂(吉)
6月13日 源氏近江に入る(吉)        
6月18日           平貞能帰洛の噂しかし兵は数千で人々失望(吉)
6月22日          
7月1日 賊徒今日入洛する由の風聞(玉)        
7月8日         平家比叡山を氏寺にする願文を送る(百)
7月9日     金峯山、多武山の衆徒蜂起(吉)    
7月11日 源氏勢近江勢多に到着(吉)          
不明       尾張源氏、美濃源氏、安田義定この頃義仲に与同して上洛※      
7月14日    行家伊賀に入り平田家継と戦う(玉)        
7月16日              平忠度追討使として丹波国へ向かう(吉、玉)
7月21日         法皇法住寺殿に臨幸(玉) 平資盛出陣(吉、百)
7月22日 近江の武士叡山講堂に集合、、源氏坂本に入る(吉) 行家大和に入る(吉) 多田行綱義仲に同心の動き、淀川口の年貢を強奪(玉)、近江の源氏比叡山に登る(玉) 院御前にて公卿ら議定(吉)安徳天皇法住寺へ御幸(百) 知盛、重衡勢多に向かう、頼盛下向(吉)平忠度丹波国から大江山へ引く(玉、吉)
7月24日         後白河法皇逐電(玉、吉)   
7月25日           平家都落ち(玉、吉)


北陸の戦いは文献によって日付が異なります。
出典元が記されていない戦いはすべて 
上杉和彦「戦争の日本史6 源平の戦い」(吉川弘文館)で示された日付に従っています。

※安田義定らが共に上洛したという根拠は
1.「愚管抄」に「武田」のものが共に上洛したとある。
2.「吉記」寿永二年七月二十九日条に義仲と共に上洛した武士の名が記されておりその中に、安田義定や他源氏の武将の名がある。
3.8月に主な源氏武将が恩賞の官位賜っている。
などです。

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1183年1月から4月初頭までの年表

2008-09-25 05:18:14 | 年表

日付 頼朝勢力 義仲 朝廷
2月11日      
2月20日 志田義広蜂起(吾誤)    
2月21日      
2月23日 野木宮合戦(吾誤)    
3月 頼朝義仲と信濃で対陣(延) 頼朝義仲と信濃で対陣   
4月9日     北陸追討の祈祷を行なう(玉)



(吾誤)ー吾妻鏡には治承五年(1181年)閏二月の出来事とされているが、
専門家の研究によって、寿永二年二月の出来事の誤記であるとされているもの。

(玉)ー玉葉
(延)ー延慶本平家物語

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寿永元年(1182年)年表

2008-05-11 05:52:11 | 年表
()内は出典元
(玉)ー玉葉、(吉)ー吉記、(吾)ー吾妻鏡


日付 頼朝勢力 北陸 九州 朝廷 平家
1月28日 伊勢神宮へ奉納する馬砂金について審議した(吾)        
2月8日 源頼朝伊勢への願文奉納(吾)        
2月25日     菊池高直の城落ちたとの風聞(吉)   平知盛北陸の追討使になるとの話(吉)
3月9日 政子着帯(吾)        
3月15日 若宮大路造営(吾)        
3月17日       畿内近隣から兵糧米を徴収すること決定(吉)  
3月20日 伊勢の奉幣使い帰参。ただし請文提出せず(吾)        
3月21日   北陸の源氏越前に赴く、(吉) 菊池高直未だ落ちず、追討使平貞能官物以外物資がない(吉)    
3月22日       宰相阿闇梨忠円餓死(吉)  
3月29日     追討使平貞能、国務を取り目代を追い出す(吉)      
4月5日 江ノ島に弁才天勧請。藤原秀衡呪詛(吾)        
4月9日       大嘗会のことを定める(玉)  
5月12日 伏見広綱が安田義定の勧めで頼朝の元に参上(吾)        
5月16日 渡来為康安田義定に横領された鎌田御厨の件を頼朝に訴える(吾)        
6月1日 亀の前寵愛記事(吾)        
7月12日 政子産所に移る(吾)        
7月13日         今年は大嘗会なので追討を遠慮すると平宗盛申し入れる(玉)
7月14日 義平未亡人のことで新田義重怒りを被る(吾)        
7月29日     讃岐前司重季北陸に向かう(玉)   宗盛の侍三人以仁王の皇子を連れて東国に向かうが途中でつかまる(玉)  
8月11日    讃岐前司重季の使以仁王の皇子を連れて越前に入る(玉)           
8月12日 政子頼家を出産(吾)            
9月4日        法皇熊野に参詣(玉) 宗盛大納言に還任(玉)
9月20日    北陸の賊徒近江を略奪せんとす(吉)        
10月3日         宗盛内大臣、知盛中納言になる(玉)
10月21日       大嘗会御禊(玉)  
11月10日 政子、亀の前の住む伏見広綱宅を破壊させる(吾)        
11月11日       吉田祭 大神宮の禰宜等東国に同意する風聞の条詮議(玉、吾)  
11月12日 頼朝牧宗親の髻を切る(吾)        
11月14日 北条時政伊豆へ去る(吾)        
11月23日       大嘗会辰日(玉)  
11月25日       大嘗会叙位(玉)  
12月1日 朝廷で大神宮の禰宜の詮議があったとの知らせ(吾)        
12月2日 詮議の知らせに対する頼朝の返事(吾)        
12月10日 亀の前小坪に移り住み頼朝の寵愛は続く(吾)        
12月16日 伏見広綱遠江に配流となる(吾)         


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養和元年(1181年)横田河原以降年表

2008-05-10 06:32:01 | 年表
()内は出典元
(玉)ー玉葉、(吉)ー吉記、(吾)ー吾妻鏡

日付 頼朝勢力 北陸 美濃尾張 西国 その他 朝廷 平家
8月1日 頼朝密奏と宗盛の返事の記事(玉)           頼朝密奏と宗盛の返事の記事(玉)  
8月2日 頼朝駿河に仮屋を作る(玉)              
8月6日              藤原秀衡、城資職へ任官の動き(玉)  
8月12日 足利俊綱頼朝に背くとの噂(玉)、秀衡官軍に与力するとの噂(玉)             
8月15日   平経正北陸に出発(吉)          藤原秀衡ら国守に任官される(玉、吉) 平経正北陸に出発(吉)
8月16日   平通盛北陸に出発(吉)          平通盛北陸に出発(吉)
8月23日   加賀国住人越前にの郷を二つ焼き討ち(吉9/1)   伊予の河野通清が殺されたとの噂(吉)      
9月1日   平通盛、越前国府にいる(吉)          
9月2日   北陸の賊徒を平通盛征伐できないとの報(玉)          
9月6日 熊野別当湛増坂東に赴く(玉)     鎮西の反乱甚だしく、原田菊池和平して平貞能を尋ねるとのこと。 熊野別当湛増坂東に赴く(玉)    
9月9日 熊野別当湛増院に坂東下向の釈明(玉) 平通盛越前加賀国人に敗れたとの報(玉、吉)     熊野別当湛増院に坂東下向の釈明(玉)    
9月10日   平通盛敦賀城に引きこもる。軍勢を越前に送ること決定(玉)          
9月11日           鉄兜大神宮に奉幣(玉) 平教経、行盛北陸へ、重衡東国へ下向することが決まる(玉)
9月12日   平通盛敦賀城を追われる、若狭の平経正援軍に行かず(玉)          
9月13日             北陸追討使、下向定まらず(玉)
9月15日             平家滅亡の託宣平時子の女房が受ける(玉)
9月24日             平宗盛の大和大福庄源氏の二川三郎に焼かれる(玉)
9月25日           使者が頓死した伊勢神宮の兜事件 無事奉納(吉)  
9月27日   平行盛北陸に向けて出立(玉)         平行盛北陸に向けて出立(玉)
9月28日     東国の輩、上洛近い、平宗盛伊勢美濃へ郎党派遣(玉)   熊野反乱、平頼盛追討に下向を仰せ下される。源氏の武士高野山に何人か篭る(玉)    
10月4日             11日に平知盛、清経越前下向、重衡東国下向などの予定(玉)
10月10日   北陸等への出兵延期、官軍の兵数減少(玉)         北陸等への出兵延期、官軍の兵数減少(玉)
10月11日         熊野の行命(官軍寄り人物)上洛しようとして、他熊野勢力に討たれる(玉)    
10月16日       平貞能、鎮西を平定して上洛するとの噂、秀衡に官軍につくように使者を送る(玉)      
10月20日 伊勢権禰宜渡会光倫鎌倉より来着(吾)            
10月23日 頼朝上洛の為尾張にいるとのこと、行家も尾張にいる。(玉10/27)            
10月24日   北陸を攻めようとするが、官軍無勢の為延期(玉)          
11月5日 平維盛東下に備えて、出兵準備するも出陣せず(吾)            
11月11日 源頼政縁者鎌倉下向(吾)            
11月19日   平通盛、北陸より帰京(吉)         平通盛、北陸より帰京(吉)
12月7日 政子体調崩す(吾)            


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おおまかな年表

2007-12-09 05:58:33 | 年表
今まで作成した年表が細かすぎるので作成いたしました。
小説もどきの展開に応じて更新していく予定です。

1156年 保元の乱
1159年 平治の乱
1165年 二条天皇崩御
1167年 平清盛太政大臣となる
1168年 高倉天皇即位
1177年 鹿ケ谷事件
1178年 安徳天皇生誕
1179年 11月 治承三年の政変、後白河法皇の院政停止
1180年
 2月 安徳天皇即位、高倉上皇院政開始
 4月 以仁王の令旨発行
 5月 以仁王・源頼政ら討ち取られる。
 8月 源頼朝挙兵、石橋山の戦い
    この頃甲斐源氏挙兵
 9月 信濃源氏および木曽義仲挙兵
    この頃熊野の一部で反平家の動き
    筑紫で反平家の動き
 10月 富士川の戦い
 11月 美濃源氏蜂起
    近江源氏蜂起
    若狭で近江源氏に同意する動きあり
 12月 近江蜂起勢力を平家討ち取る
    南都勢力蜂起
    南都蜂起勢力と平家が戦い 南都が炎上する
    この頃までの四国伊予河野氏反平家の挙兵
1181年
 1月 高倉上皇崩御
    平家、美濃源氏を制圧
 2月 筑紫反乱勢力活発化
 閏2月 平清盛没
 3月 墨股の戦い
    城資永没
 6月 横田河原の戦い
 7月 北陸の反平家勢力の動き活発化
8月 平貞能筑紫に出兵
    藤原秀衡 陸奥守、城資職が越後守となる
    平通盛らが北陸に出兵
 11月 北陸出兵軍 成果を上げずに帰京

1182年
 5月 平貞能鎮西の反乱を鎮圧するのに成功
 秋 以仁王の皇子北陸宮が都を脱出して北陸に逃れ、木曽義仲に迎え入れられる。
 この年、飢饉が深刻化

1183年
 2月 野木宮合戦
 3月 頼朝と義仲が対立、その後和解する。
 4月 平家再度の北陸出兵
    火打城の戦い
 5月 加賀国で戦闘
    般若の戦い
    倶利伽羅峠の戦い
 6月 篠原の戦い
 7月 平家都落ち、義仲・行家その他同盟者たちの入京
 8月 後鳥羽天皇践祚
 9月 義仲平家追討の為に西国へ出発
 10月 頼朝朝廷に三か条の奏上
    頼朝に寿永三年十月宣旨が下され頼朝の東国支配権が認められる
 閏10月 水島の戦い
     義仲帰京
     源義経上洛を目指し畿内に入る
 11月 法住寺合戦 後白河法皇幽閉、解官者多数
    室山合戦
 12月 鎌倉勢出撃

1184年
 1月 義仲征東大将軍となる
    鎌倉勢と義仲が戦い義仲が敗死する
 2月 一の谷の戦い
 



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