凛太郎の徒然草

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堀内孝雄「忘れな詩」

2015年12月28日 | 好きな歌・心に残る歌
 目先のことに埋もれて心が茫々としてくる。何かを見失っているように思う。この漠とした不明瞭さはいったい何だろうか。
 心の焦点があわない日々が続く。

 今年は秋から冬にかけて、葬式によく出た。
 冠婚葬祭の中でも葬式は前触れなく行われるもので、なんともいたしかたないのだが、3ヶ月で4回は多くないかい? どうしてみんなそう足早に逝ってしまうのか。
 なんだかどうも葬儀会場にばかり足を運んでいたような気がする。葬式は今、都市部ではほとんどが専門の葬儀会場で執り行われるので、お宅へ伺ったりすることは、ほぼない。無味乾燥であるような気もするが、時代だろうか。
 どこも同じようなつくりであるため、ふと錯覚を起こし「先週も来たな」とか思ってしまう。

 話が変わるが、こういう葬儀会場が増えてきたのはいったいいつごろからなんだろう。
 高度成長期だろうか。家の主流がマンションなどの集合住宅となれば、そこで葬式をするわけにもゆくまい。寺院で執り行うこともあっただろうが、非檀家の核家族の割合が高くなればお寺さんでの葬式も難しくなっていく。
 僕の祖父母の時代は、まだ自宅葬だった。家に祭壇が作られ、そこから出棺した。まだまだ昭和の時代のこと。ただ母方の祖母は長命し、亡くなったのは平成になってからで、葬儀は斎場で行われた。時代が変わったのだ。
 今は老人人口が多くなり、葬儀会場がどんどん新設されているように思える。介護施設と並んで盛況なビジネスとなっているのではないだろうか。もしかしたら過当競争になっているかもしれない。新聞にも毎日のように斎場のチラシが入っている。
 電話による勧誘も多い。とある日に僕が電話に出れば「セレモニーホール○○ですが」と。あちらも仕事でやっていることで大変だろうとは思うが、葬儀の予定などを訊ねられるのは気分の良いものではない。妻に尋ねると、平日もあちこちからかなり掛かってきているようで、電話に出るのが嫌になったと言う。
 
 11月には叔父が死んだ。急死だった。
 父の弟だが、これで6人兄弟の長兄である父も、三人の弟を失ったことになる。
 さすがに父の落ち込みは見ていて辛くなるほどで、最も年長である自分が何故生きているのか、などという。もう一人の弟も、今は車椅子でしか動けない。僕からすれば、他の叔父たちと違い酒も煙草もやらずストイックに過ごしてきた父は長生きしてもらわねば困るのだが、本人としてはいたたまれないのだろう。
 叔父の葬儀も、やはり会場で行われた。
 慟哭を聞くのは、辛いものだ。
 葬儀が始まると、音楽が流れた。どこかで聴いたことがあるのだが、すぐには思い出せない。「これ、何の曲やったかな?」と僕が独り言のように言うと、隣にいた叔母(父の妹)が「ロッホ・ローモンドや」とすぐに言ってくれた。あっそうか。
 スコットランド民謡の名曲だが、こういう澄んだ美しいメロディは、もしかしたら葬儀に合うのかもしれないと思って聴いていた。聴くうちに、涙が出た。
 ただ、叔父が指定したわけではあるまい。葬儀場が用意していたものだろう。血管が破れ救急車の車中ではもう既に意識が無かった叔父が、そんなことまで遺言をしたはずがない。

 葬式に音楽を流す、というのは、おそらく葬儀場が始めたことではないか。自宅葬の頃は、そんな習慣は無かったのではないかと思う。つたない経験からの話で、実際はそうではないかもしれないが。あれ、キリスト教の葬儀では讃美歌が流れるのだったっけ。「主よ御許に近づかん」というのは、フランダースの犬の最終話を観て泣いた世代の僕としては、馴染みなのだけれど。しかし仏式だと、読経だよなあ。
 最近は自宅葬においても音楽は流れるようで、以前とある田舎で葬儀に参列したとき、出棺の際になんとも言えない悲しい曲が流れた。曲名はわからない。インストだがどちらかといえば演歌調の曲で、ただ悲しみを助長させるだけに思えた。ああいうマイナー調の曲はどうなのかと思う。おそらく互助会が用意したのだろうと思うが、例えば結婚式の花束贈呈で「かあさんのうた」が流れるようなものだ。
 ただ、葬儀に音楽が定着していることはわかった。

 別の機会。「自分の葬式にどういう音楽を流したいか」という話題が妙に盛り上がった。主体は若い人で、葬儀に音楽は当たり前の世代らしい。
 驚くことにその場にいただいたいの人はもう決めているようで、尾崎豊がいいだの「私は絶対にハナミズキ」だのと言っている。そうか。
 僕は、そんなこと考えたこともなかった。叔父の葬儀の前で、ロッホローモンドなどもまだ聴いてない。尋ねられたのだが気の利いた答えも言えず窮して「どうせ自分は死んどるんやしそれを聴くこともできんやないか」などと冷や水を浴びせるようなことを言ってしまった。場の空気もみず誠に申し訳ない。
 
 僕は、葬式自体が必要ないと思っている。
 昨年、別ブログで村落墓地の連載をしたため、民俗学的に葬儀というものの歴史と実態についてかなり様々な書籍を読んだ。考えるに、現在の葬儀というものは江戸時代の檀家制度、寺請制度の名残で、そんなものは僕個人には関係ない。信仰心もなく、死んで浄土に行くとも地獄に落ちるとも思えないので、戒名とかはどうでもいい。
 夏に、内臓にヘンなものが見つかって入院した。僕も死を考え、妻に「葬式はせんでええぞ。金がかかりすぎる。どうしてもと周りがやかましく言うなら、とにかく最低ランクでやって。金は残せ」と言ったら、妻が「縁起でもないことを」と怒った。
 そのときも、さすがに音楽までは考えなかった。

 葬式にふさわしい音楽とは、なんだろうか。
 おそらくは、インストがいいのだろうと思う。そしてきれいな曲で、マイナー調でないほうがいい。葬式と言ってすぐに思いつくのはショパンの葬送行進曲だが、これが掛かっていたのを聴いたことがない。おそらく、生々しすぎるのだろう。
 まあクラシックか。「G線上のアリア」とか「亡き王女のためのパヴァーヌ」とか。ラヴェルは実際に聴いたことがある。
 歌詞があるものは、相応ではないような気がする。まあ洋楽であればいいか。言葉の意味がわからないほうがいい。ロッホローモンドは、そういう意味でもふさわしい気がしてきた。もっとも、僕が実際に聴いたのはインストだったけれど。
 もっと明るくゆくなら、カントリーの名曲「Will The Circle Be Unbroken」がある。加川良さんのカバー(その朝)や、なぎらさんのカバー(永遠の絆)が有名だが、やはりここは原曲か。

  will the circle be unbroken
  by and by load by and by
  there's a better home a-waiting
  in the sky, lord, in the sky

 やっぱりダメだな。なんか泣きそうになる。
 ハンバートハンバートの「大宴会」なんかもいいとは思うんだけれど、こういうのはBGMになりにくいからやっぱりふさわしくないかな。

 今は、自分が死ぬときに、どんな音楽が流れていたらいいか、を茫洋とした心のままに考えている。
 葬儀は必要ないし、もしも自分の葬儀がなされたとしても、僕はそれに出席していないのだから、どうでもいいと言える。
 いちばん好きな歌を聴きながら逝くかな。そうなると「他愛もない僕の唄だけど」とかになるけど、なんか違うな。
 
 終焉を迎えるときに去来するものとは何だろうか。
 それは、自分自身にとっては、追憶しかないと思っている。
 おそらく「思い出」だけが、最後に残るものだ。あの世が信じられない以上、歩んできた足跡だけが僕には残される。そのめぐる追憶というものが幸せなものであったならば、莞爾として人生を終えることが出来る。
 そのとき、僕が独りであれば、もう何も思い残すことはない。
 僕には子供がいないため、心配なのは妻だけだ。彼女を残してゆくのは忍びない。つまり妻より一日でも長生きすればいい。だから、老いるまで何としても生き延びなければならない。
 そしてこの世を去ったあとは、いったい何が残るだろうか。
 墓標などいらない。骨なんかは産業廃棄物でいいと思っている。そもそも、子孫がいない僕の墓など一瞬で無縁となる。だいたい墓を建ててくれる人などいるのだろうか。甥や姪に金を置いて死ねば建ててはくれるだろうが、無駄なことだ。
 近親者や友人が、まだそのときにいるとすれば、彼らに多くは望まない。すぐに忘れ去られるのも寂しいから、なんとなしにあんな男がいたと記憶の片隅に置いておいてくれればいい。
 功成り名を遂げた一部の人とは違い、僕も含めた市井の人間は、居なくなれば語り継がれることなどない。だから、僕が居なくなって、さらに僕のことを直接知っている人も居なくなれば、僕という概念上の人間もまたこの世から消える。
 
 そこまで思いめぐらして、べーやんの「忘れな詩」が浮かんできた。

  もしも私がうたい終わってギターをおいてこの場所を遠く去る時に
  誰一人うしろ姿にふり向く人はいないとしても それでいい 想い出一つ残せれば
 
 この詩を書いた中村行延さんは、今どうしてらっしゃるのかなあ。公式サイトも消えている。行延さんが出なくなってから「きらきらアフロ」も見なくなった。喫茶店を閉店したあと、就職されたというような話はおっしゃられていたが…おそらくはどこかで歌っておられるとは思うのだけれど。

  けれどあなたの青春のどこかの季節に まぎれもなく私がそこにいたことを
  いつまでも いつまでも 忘れないでいてほしい
  あなたにだけは この詩 忘れないでいてほしい

 忘れないで欲しい、というのは、本音ではあるけれど、そこまで強くは望んでいない。何かの機会に、思い出してもらえる存在であったならいいな、という程度。そんな気持ちを、べーやんの歌に託したいという思いが、今はある。
 
 そしてそれは、逆に今を生きる僕の気持でもある。
 今年も、何人もの人を見送ってきた。僕の人生に強く影響を与えてくれた人、優しくしてくれた人、力になってくれた人。僕は、あなたたちのことを生涯忘れない。いつまでも、いつまでも、僕の追憶の中に生き続けてもらう。
 でも、もうあえないんだな。さびしいね。
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駅弁の話

2015年01月31日 | 旅のアングル
 最近、駅弁を食べる機会が何度かあった。この1ヶ月で3回。
 これを多いと見るか少ないと見るかは、マニアのいる世界でもあり何とも言えないが、僕は昨年末まで、たぶん一年以上駅弁を食べていなかった。ずいぶんご無沙汰してしまったものだと思う。
 別に駅弁離れ、というつもりもなくただ機会がなかっただけだと一応は考えてみる。そうだよなあ。別に駅弁が嫌いになったわけでもなし。でも思い返してみると、ここ14~5年は昔と比べてかなり利用回数が減ったように思われる。どうしてかなあ。

 まずは旅に出ることが少なくなったというのが第一義的にあるのはもちろんだと思うけれども、他にもいくつか要因があるように思う。
 ひとつは、僕が新幹線・特急列車に乗る機会を減らしているということ。旅行に行くときの交通機関の選択としてどんどん車のパーセンテージが上がっていることに加え、遊びであまり速い列車に乗らなくなっている。以前は「時間を金で買う」という意識が強かったが、移動も旅行の楽しみであるに間違いは無く、今はよく普通・快速列車に乗る。新幹線というのは、車窓風景が均質的なので飽きる。あれは出張用だ。在来線のほうが楽しい。
 ところが鈍行列車の車内というのは、今は食事をする場所ではなくなっている。
 田舎の路線でも、座席はベンチシートが増えた。あの席では弁当などは実に食べにくい。また快速列車は前向き座席が多いが、近郊線なので混雑する。立っている人からじろじろ見られるのもまた食事に相応しくない。
 また他に、食事の選択肢が増えたということ。
 それでも特急に乗る機会もあるにはあって、特急列車は座席にテーブルもついていて弁当を食べるに不自由はないが、乗車するのはターミナル駅から、ということが多く、食事をテイクアウトするのに駅弁だけではなくデパ地下やエキナカなど目移りして、そっちのほうがコスパが良いことが大半なので困ってしまう。昔は長い汽車旅だと、駅弁か立ち食いそばくらいしか選択肢がなかったものだが。

 さらに、昔と比べて駅弁が手軽に手に入りやす過ぎる、ということがある。
 昔からデパートの催事で「駅弁大会」というものは盛んにあって、現地に行かなくても手に入ったものだったが、それがさらに昨今はスーパーなどでも企画されるようになった。僕が住む徒歩圏内のスーパーでも、年に何度も各地方の名物駅弁を特集して販売している。そうなると、逆に買わなくなるのである。 
 この心理を説明するのは難しい。いつでも手に入ると思うと購買意欲が失せるという心理を。
 例えば別のことで書くと、僕は名古屋に多い「コメダ珈琲店」という喫茶店の「シロノワール」という大きなデニッシュパンにソフトクリームを乗っけてシロップをかけて食うというデザートが好きで、名古屋に昔住んでいたときにハマり、その後名古屋を離れて後も愛知県に行くことがあれば必ず探して食べていた。ところが、そのコメダ珈琲店が全国チェーン展開を始め、とうとう僕の最寄駅のそば、つまり徒歩5分くらいのところにも開店してしまった。そうなると、もう行かなくなるのである。東海地方に行っても「うちの近所で食べられるものを何もここでわざわざ」と思い、また地元の店にも「また今度ね」と思って行かない。結局、地元に店が開店してから一度もシロノワールを食べていない。
 つまるところ今までも「せっかくここまで来たんだから食べよう」という心理が働いていたのだろう。駅弁についても同じ。例えば鳥取に行けば「元祖かに寿しを食べなくちゃ」とかつてはやはり思ったが、今はスーパーの広告に載っていると、鳥取で食べなくてもいいかと思い、また駅弁をスーパーで買わなくてもいいだろう、とも思ってしまう。

 駅弁を食べていない言い訳に字数を使いすぎた。思い出話を書く。
 初めて駅弁を食べたのはいつだったかということを思い返すと、小学校一年のときに家族旅行で南紀に海水浴へ行ったときの帰りだった。今にして思えばおそらく、田辺駅で購入したのだろう。普通の幕の内弁当だったと記憶している。
 これがうまかった。
 家族で列車に長時間乗るときは、たいてい母親は弁当を作る。この旅行も、行きはおかんが作ったおにぎりや卵焼きを車内で食べたのだろう。だが帰りはそういうわけにはいかない。で、駅弁の登場となったのだが、とにかく子供にはモノ珍しい。それに僕は幼少時からネリモノが大好きで、そこに入っていたカマボコなどがもう嬉しくてしかたがなかった。
 しかし、その後は長らく駅弁を食べる機会がなかった。食べたかったのだけれど。

 子供の頃、うちの書棚に保育社のカラーブックスシリーズの一冊である「駅弁旅行」という本があった。これはカラーブックスだから一種の駅弁の写真集である。
 これを、僕は何度も何度も、それこそ舐めるように読み、眺めた。そして憧れた。うまそうだな。石井出雄氏の文章も魅力的で、この本はいま僕の手元にはないのだが(既に絶版であるようで、実家にはまだあるのではないかと思うが)、その記述のひとつひとつまで思い出すことが出来る。
 ちょっと検索してみるとどうも昭和42年発行で、改訂版もその後出たようだが、僕が見ていたのは42年度版。なので、今はもう無い弁当も多いだろう。したがって、その本に載っていた駅弁で今も販売しているものは、なんせ50年ほども前からずっとロングセラーになっているものだから、もう駅弁界のレジェンドと言ってもいいだろう。
 厚岸の「かきめし」。森の「いかめし」。長万部の「かにめし」「もりそば弁当」。八戸の「小唄寿司」。大館の「鶏めし」。高崎の「鳥めし弁当」「だるま弁当」。横川の「峠の釜めし」。千葉の「やきはま弁當」。横浜の「シウマイ弁当」。大船の「鰺の押寿司」「サンドイッチ」。静岡の「鯛めし」。富山の「ますのすし」。神戸の「肉めし」。岡山の「祭すし」。三原の「たこめし」。広島の「しゃもじかきめし」。宮島口の「あなごめし」。鳥取の「かに寿し」。松山の「醤油めし」。折尾の「かしわめし」。人吉の「鮎ずし」。適当に挙げているが、これらは当時、本当に憧憬の弁当だった。
 大人になったら食べよう。そう思い続けていた。

 だが、駅弁というものは、高い。現在、駅弁の値段は普通に1000円を超えている。もちろん、昔はそんなにはしなかったが、当時の物価と照らし合わせると高価であったことには違いはない。
 駅弁初の「1000円弁当」として「しゃぶしゃぶ弁当松風」が売り出されたことがニュースになったのを今も記憶しているが、それはまだ僕が小学生ではなかったか。つまり40年くらい前に既に1000円超えの弁当が発売されたということは、通常の駅弁すら5~600円はしていたのだろう。そして、その後も値段は上がってゆく。
 大学生から周遊券を使った汽車旅を始めるが、金銭的には切り詰めた旅行であり、とても手が出るものではなかった。当時の日記を見ても駅弁を買った記録がない。ただ逡巡した記憶は、何度もある。
 今ではあまり見かけなくなったが、当時は駅弁はよくホームで「立ち売り」をしていた。首から弁当が入った大きな箱をストラップで吊るし、大きな声で「べんとぉー べんとぉー」と声を出す。立ち売りのおじさんの声はだいたい練れたいい声で、僕は子供の頃よく聴いた、大徳寺の托鉢のお坊さんの声を思い出した。
 その立ち売りのおじさんが北海道の長万部駅で憧れの「かにめし」を担いで売っているのを見た。列車の停車時間に思わず駆け寄ったのだが、その「700円」の値札にどうしても躊躇する。僕はおじさんの前でしばらく立ち尽くしてしまった。
 「買うの? 買わないの?」おじさんは僕に言った。おそらく営業妨害だったのだろう。ごめんなさい。あわてて僕は立ち去った。
 そんな幾度かの記憶がある。
 
 社会人となって、一応フトコロに小銭は持てるようになった。僕は、旅に出るたびに駅弁を求めた。
 ただ、これは僕にとっては一種の「文学散歩」だったような気がする。子供の頃に憧れたレジェンド弁当を食べてみたい。そんな思いが強かった。したがって、食べたら必ず弁当の掛け紙は持って帰る(峠の釜めしは当然ながら容器も持ち帰る)。
 もちろんロングセラーの弁当というものは、うまいから生き残っているのであり、味は当然折り紙つきである。だが、当時は味よりもやはり「経験したい」という思いが強かったと思う。高崎でとりめしを食べたときには大変旨いと思い、もう一度食べたいとは思ったが、次回に機会があったときはやはり「だるま弁当」を買ってしまった。こっちも食べてみたいじゃない。で、包み紙は持ち帰る。コレクター的要素が強くなってきた。
 なので、複数回食べた弁当はそんなに多くない。例外的に金沢の「お贄寿し」と福井の「越前かにめし」はよく食べたが、これには出張がからんでいる。純粋に旅行先で食べたとは言えない。
 また、例えばその頃小淵沢駅で「元気甲斐」という弁当がTVの企画によって売り出され、大変に評判を呼んでいた。とにかくうまいらしい。だが、僕はそういう新しい弁当には一瞥もくれず「高原野菜とカツの弁当」を買った。こっちのほうが歴史があるから。何というか、面倒くさい男だった。もちろん高原野菜カツ弁当もうまかったし、後になって食べた元気甲斐も上等だったが。

 そのうちに、結婚する。妻が僕の駅弁の掛け紙のコレクションを見て「これ何? 」と言った。
 僕がかくかくしかじかと説明すると、僕の趣味にはほぼ興味を示さない妻が、これには乗ってきた。僕の歴史の話などはいつも耳を塞ぐ妻だが、食べ物となると違うらしい。また、妻にも多少の蒐集癖はあり(飽きやすいのだが)、駅のスタンプなども集めている。
 そのため、二人で旅行に出ればそこに「駅弁」を組み込むことが多くなった。
 しかし、これは僕にとっては堕落の一歩だったと思っている。

 僕は、とにかく子供の頃に憧れた、レジェンド級の駅弁を食べたいと思って動いている文学散歩的食べ歩きである。なので、明治時代から続く静岡の鯛めしや大船の鰺の押寿司などは何よりも優先すべき弁当であり、伝統と歴史を重んじている。
 ところが妻はそうではない。何よりも「おいしいかどうか」を重視する(当然だが)。なので、雑誌の特集やTVなどはよくチェックし、評判の駅弁を食べたいと言う。
 僕は新しく発売された「黒田如水弁当(仮)」や「山里のこだわり弁当(仮)」などといったものには全然興味がない。うまいにこしたことはないが、うまい、うまくないは別問題としているので、チョイスに齟齬が生じる。
 そりゃ女房が推薦する弁当はうまいですよ。池田の「十勝牛のワイン漬ステーキ辨當」なんてのはびっくりするくらいうまかったなあ。僕は昭和40年代以前からある弁当を主にターゲットにしているので、こういうのは誘われなければ食べなかったと思う。おそらく僕の食べた中では5本の指に入ると思われ、その点においては妻に感謝なのだが、もうひとつ問題がある。
 このステーキ弁当は、実は車で買いに行っているのである。北海道は池田駅に止まる列車も少なく、完全予約制となっていて途中下車でフラリと買えない(今はどうなのかな…20年くらい前の話)。なので、電話して車でお店に行って、どこかの景色のいい場所で食べた。
 駅弁は、列車で食べてこそ。車窓を見つつ味わうものであると頑固に信じる実に面倒くさい男である。なので、うまかったのは抜群にうまかったが「駅弁を食べた」という気が全くしない。普通にレストランのテイクアウトである。
 妻にとっては、食べてうまくて掛け紙を持ち帰ることが出来ればそれでよいので、その後も車で購入に走ることが多くなった。ことに北海道などは列車の便が悪いので、どうしてもそうなることが多い。
 なんだかなあと思うのである。
 そうしているうちに妻はついに禁断の場所である「デパートの催事」に手を出した。そうなると食べる場所は、我が家の茶の間である。旅情など一切介在しない。
 
 「だってこうでもしないと進まないじゃない」
 「あんた駅弁が全国に何種類あると思てんのや。2000種類できかへんぞ。3000くらいあるかもしれん」
 「えーそんなにあるの」
 「だいたい全部食べようなんてはなから無理な話なんや。新しいもんはどんどん出てくるし。コレクションはいいがコンプリートは一生かかっても無理や」

 妻は、その後憑き物が落ちたように駅弁に興味を失った。飽きたのかもしれない。そういう僕も、レジェンド弁当をある程度食べ終え、徐々にペースが落ちた。そのうちに前述の理由などが重なり、もう駅弁に目の色を変えることはなくなってしまった。
 しかし駅弁というものはなかなか味わい深いものであって、こうしてたまに食べると、旅情とともにいろんなことをまた思い出すのである。

 この話は、最初は「駅弁で呑む」という記事のマクラにするつもりで書き始めたのだが、思わず長くなってしまったのでここまでにする。呑む話はまた次の機会に。
 
 
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松谷祐子「愛はブーメラン」

2014年12月28日 | 好きな歌・心に残る歌
 今年(2014年)は、珍しく僕の住んでいるところでも12月半ばに雪が降った。
 北陸に住んでいた頃は、12月どころか11月でも降雪があったものだが、西日本の平野部ではまずそういうことはない。爆弾低気圧、なんて言葉も出てきた。先んじて寒波がおそったため、例年のクリスマス寒波は来ず、今は比較的穏やかに推移しているが。
 過去の寒かった年のことを思い出す。
 北陸に住んでいたときは「三八豪雪」「五六豪雪」というえげつない雪害が半ば伝説的に語られていて、二階から外に出たとかいろんな話を聞いたものだが、その頃は京都に居たので全く覚えがない。ただ、昭和58年の暮れから59年にかけて降り出したいわゆる「五九豪雪」は、日本海側だけではなく山を越えて太平洋側でも降雪があったために、よく記憶している。
 この年は、大学受験の年だった。

 生来の怠け癖のせいか、受験というものをずっと薄くしか意識してこなかった。
 もちろん怠惰な性格のためであって、これを学校のせいにしてしまうと「馬鹿者」と言われてしまうのだが、なんとなく高校生活においてはずっと「進学」ということが遠い世界のように僕には思えていた。
 僕が住んでいた地域の公立高校には、当時、学校間格差というものがなかった。「十五の春は泣かせない」という言葉を今もおぼえているが、当時の京都の公立高校は「高校三原則(小学区制・総合制・男女共学)」を堅持していて、公立であれば近所の高校へ進学することになっていた(これが小学区制)。そのため公立高校のレベルはどこも同じで、高校入試も特に苦労した記憶も無く、その高校に入ればアタマのいいヤツからそうでないヤツまで様々なレベルの生徒が混在していた。ガリ勉から不良まで雑多で、制服も無くそれは面白い高校生活だったが、こと進学ということに関しては学校としてはあまり手を打っていなかったというのが実情だったろう。そりゃしょうがない。同じクラスの中に、国立大学を目指すヤツもいれば植木屋を目指すヤツもいたのだから。特別な授業など出来ない。
 なので進学のための勉強は、個人に委ねられていた。レベルの高い勉強をしたいヤツは予備校や塾に通う。
 僕は怠惰な性格なので、そういうことを放置して青春時代を謳歌していた。ぼんやりと大学に行きたいとは思っていたが、特別なことは何もしていなかったと言っていい。そうして、いつしか3年生になっていた。

 夏に、模試をいくつか受けた。
 そこで、これではダメだということを思い知らされた。歯が立たないのである。尻に火が付いた。
 しかし火はすぐに熾火となってしまう。こりゃ今からじゃ間に合わないんじゃないか。そしてすぐに、一年浪人すればなんとかなるかも、というところに思考が飛んでゆく。
 親にそのことを言うと「阿呆か」と言われた。そんな経済的余裕はないぞと。兄弟も居て、教育費だけでパンクしてしまうではないか。現役でどっか入ってくれ。最も望ましいのは、家から通える学費の安い国公立大学であると言う。
 しかし地元の国立と言えば京大である。そんなんは逆立ちしても無理や、あんたらの息子やでオツムのレベルくらい想像がつくやろ、と言うと、せめて安めの私立なら良い、しかし地方へやるのは無理だから、家から自転車で通えるところにしろ、と。
 18歳の僕は、岐路に立たされていた(遅いっつーの)。
 僕は、数学が致命的なほどに出来ない。
 ならば私立文系ということになるが、これもアタマを抱えることになる。英語が不得手なのだ(数学と英語が出来ないで進学を考えるなど身の程知らずも甚だしい)。
 ただ、国語と日本史は、模試では結構いい成績をとっているのである。古文も得意だし、当時から歴史ヲタクだった。しかし偏りが大きすぎた。
 私立文系の入試の形態は、大学により様々である。だが、困ったことに多くは英語の比率が大きい。英語200・国語100・社会100とか。英語150・国語150・社会100なんてのも。これでは受からない。その中で、英語国語社会で100点づつの300点満点の大学があった。それがどういう天の配剤か「自転車で通える大学」だった。そして、その大学は大学野球でいつも応援していてファンであり、父の母校だった。
 狙いは定まった。

 しかし定まっただけで、そこから受験モードに急に切り替わったわけではない。夏休みの宿題は9月1日に始め、試験は一夜漬けを得意としてきた僕だ。とりあえず問題集などを買い込んだが、なかなか勉強に手がつかない。ついTVを見てしまう。
 そうしているうちに、秋も過ぎ冬を迎えようとしていた。
 学校の授業は、あいかわらず平常営業である。特に受験体制ではなく教科書を追っている。僕は微分積分などどうでもいいので、内職をしていた。机の下の「試験に出る英単語」を暗記している。他にもそういうヤツはいっぱいいた。教師も黙認していた節がある。そのうち、欠席が目立つようになってきた。授業より受験勉強を優先しているのだろう。
 欠席という手もあるか。出席日数を計算すると、このあと2学期全休しても落第にはならないようである。僕は、ちょっと籠ろうと思った。
 その年、親父が滋賀県で中古の家を購入していた。
 京都の家は借家であり、仕事もありそのまま住み続けていたが、いずれ定年後のことを考えて安い家を買ったらしい(だから貯金が無くて浪人を許さなかったのか)。したがってその家は現状空家だった。
 その家は、電気水道ガスは何とか通じていたが、電話もTVもまだ無かった。余計なものは何も無い。意志の弱い僕には大変好都合である。TVがあるとつい見てしまう。
 12月も初旬を過ぎた頃、僕は親父の車にストーブと小さなコタツ、布団、参考書と問題集、食料を積んで、その家に送ってもらった。そして、自ら篭城を始めた。

 その家に年末まで20日間ほど居たのだが、よく生活していたなと自分でも思う。何食ってたんだろう。ほとんど記憶がない。冷蔵庫も無かったはず。外出もしなかったし、おそらくカップラーメンばかり食べていたのではないか。二度ほど親が来たが、食料と着替えを置いていったくらいだっただろう。だいたい電話も無く(もちろんケータイもない)、僕の人生であそこまで世俗を外れたことはなかったように思う。
 雨戸も閉めたまま。だんだんいつが昼か夜かもわからなくなっていた。眠くなったら寝る。ハラが減ったら何か食う。あとはひたすら、勉強。
 ただ、ここが僕の意志の弱いところなのだが、ラジオだけは小さいのを持ち込んでいた。疲れたら、スイッチを入れた。唯一の娯楽だったか。
 AMしか入らないラジオだったが、音楽は流れていた。
 よく聴こえてきたのは、松田聖子の「瞳はダイヤモンド」。小泉今日子の「艶姿ナミダ娘」。そして山下達郎の「クリスマス・イブ」。

  映画色の街 美しい日々がきれぎれに映る
  いつ過去形にかわったの

 これらを聴くと、あの孤独を感じる間もなかった受験勉強の頃が思い出される。それはそれで、充実した日々だったと今になって思う。

  夕暮れ抱き合う舗道 みんなが見ている前で
  あなたの肩にちょこんとおでこをつけて泣いたの

 トイレに行こうとして、ふと窓の外を見た。
 雪が降り積もっていた。全然気が付いていなかった。ここまで積もった雪をあまり見た記憶がなかった。冷えるはずだ。空からはまだ絶え間なく白い雪が降り続いている。

  心深く秘めた想い 叶えられそうもない
  街角にはXmas tree 銀色の煌き Silent night Holy night

 このうたは、あれから30年以上過ぎたのに、まだ命脈を保っている。僕にとっては、このうたはやはり1983年12月のうたとして鮮烈に記憶に残っている。
 
 年が明けると、すぐに共通一次試験。無駄とは知りつつ、マークシートだものどう転ぶかわからないので、一応受験した。
 結果、惨敗。100点満点の日本史の点数を200点満点の数学Ⅰの点数が大幅に下回るという恐ろしい結果となった。しょうがない。さあもう本命に絞っていこう。
 そして、その本命の受験日。また雪が降った。この冬は本当によく降った。
 僕は自転車で受験会場である大学へ向かったのだが、路面は凍結しており、途中坂道で思い切り滑り横転し、腕を痛めた。だがそんなことは言っていられない。動揺しつつも、何とか受験会場には間に合った。
 試験は、全然出来た気がしなかった。難しすぎた。駄目だ。やはり、付け焼刃の勉強では追いつかなかったか。僕は憔悴して空を見上げた。雪が少し小降りになってきた。

 それから合格発表までの数日間のことをまた思い出す。
 2月以降、もう学校も授業などはやっていない。だから行ってもしょうがないのだが、なんとなく顔を出すと、受かったヤツ、落ちたヤツらが報告に現れる。予備校の相談もしている。その悲喜交々とした様を見ているのも、まだ着地していない僕にはしんどかった。3月になればすぐに卒業式がある。就職組や合格組は様々に相談をしているが、輪に入る気にもなれない。
 僕はこれからどうなってゆくのだろう。先行きが見えず足が地に付かないこの中途半端な「あわあわ」とした気持ち。それは今まで味わったことのない時間だった。
 僕は、ひとりで街へ映画を見に行った。アニメーション「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」が封切りとなったので、ラムちゃんのファンだった僕は、せめてこれくらいは見ようと思った。
 映画は、傑作だった。非常に面白かった。公開は二本立てで、併映は吉川晃司主演のアイドル映画だったのだが、入替制でないのをいいことに吉川君の映画の間は居眠りをして、2回見た。映画など頭に入るかな、と最初は思っていたのだが、しばしそういうことは忘れた。
 外に出れば、もう暗くなっている。吉川晃司の映画を挟んで3本見たことになるので、ずいぶん時間も過ぎていた。
 空を見ると、また細かな白いものが舞っている。
 僕の頭の中ではずっと映画のエンディングテーマだった「愛はブーメラン」が繰り返し流れていた。

  今 あの娘の細い腰 手を回した 悲しいわ これっきりね
  今 想い出永遠に消しましょうか ため息で So long in my dream

 そのときの繁華街の風景を今もよくおぼえている。ポケットに手を突っ込みながら、帰りのバス停へ向かうでもなく、うつろな目で歩いた。
 湧き起こる「あわあわ」とした気持ちを「愛はブーメラン」がいっとき押し流す。そしてまた再び空虚感が襲ってくる。
 今、同じような状況に至っても、こんな気分にはなるまい。若かったのだろう。アーケードから出ると、また雪。

  もしか もしか 愛はもしかして 放り投げたブーメラン

 大学には奇跡的に合格していた。当日僕は合格発表を見に行く気にもならずフテ寝していたが、母と妹が見に行ったらしい。叩き起こされた。そして、春が来た。
 今も、あの気持ちが揺れた冬のことを懐かしく思い出すときがある。
 
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吉田拓郎「今日までそして明日から」

2014年11月30日 | 好きな歌・心に残る歌
 「恥の多い生涯を送って来ました」

 もちろん太宰治の有名な一節だが、その太宰は「人間失格」を書き終えて、自死を選んだ。39歳の誕生日を迎える数日前。
 僕も同年齢にして、「死」というものを意識するようになったことを記憶している。無論のこと太宰とは異なり自ら死を選ぼうなどとは微塵も考えてはいなかったが、少なくとも人生は有限である、ということをはっきりと認識したように思う。
 それには様々な要因があったのだが、同時に「自分史」というものを無性に記したくなった。自分史といえば大仰でありそんな大層なものではないが、自分の軌跡を、その追憶の断片をどこかに残しておきたくなった。

 ブログというツールを知ったのはいつだったか。
 はっきりとは憶えていないが、それまでWeb上で日々雑感を書いていた日記ツールに限界を感じはじめた頃、おそらく2004年の夏くらいではなかったか。下書きが出来る(執筆に時間をかけられる、また推敲・修正も可能)、字数制限が厳しくない、活字の大きさ等紙面上の自由さやデザインの選択幅の大きさなど、非常に魅力を感じた。
 ただ、しばらくは使用に踏み切ってはいなかった。
 その頃、日記ツールやBBSなどをWeb上で運営していた以外に、僕はHPを作りたいと思い、その準備をコツコツと行っていた。これがつまり、人生が有限であると気付いた僕が書き残そうと思った自分史にあたる。
 しかしそれは公表するまでには至らなかった。少し身体を悪くしてしまい、そのため長時間座って作業を続けることが叶わなくなった。
 では、書き溜めていた文書、またこれから書こうと温めていた思いをどうやって吐露してゆくか。
 僕は、ブログツールを使おうと思った。それが、このブログにあたる。
 2004年も暮れに差し掛かった頃、僕はとりあえず最初の記事を書いた。以後、昔話を中心として記事を積み重ね、これでちょうど10年になる。

 この10年というもの、ずっとブログを書いてきた。途切れることなく。稼動させたブログサービスはいくつもある。僕の中の引き出しはとうに空っぽになり、つまり内面にもうネタは無く、自分史という段階は超え、今はもう好奇心に引っかかったものを引きずり出し調査して思考して書くという状況になっている。それでも飽かず、書くことに多くの時間を費やしてきた。
 僕にとってのこの10年とはいったいなんだったのだろうか。そんなことを今考えている。

 厳しく見れば、それはただの浪費だったのかもしれない。
 この費やした時間というものを、もっと有効活用していれば、と人は言うだろう。事実、いくらWeb上に書き続けても、それは何も生み出していないに等しい。
 だが、それでも書いてきた。
 そして、いつしかこれは僕の「墓標」であると思うようになった。

 人は、いつか死ぬ。
 そして、死んだ人の軌跡というものは、史上に残る事績を成したひとにぎりの群像を除いては、何も残らない。多くの市井の人々は、忘れ去られてゆく。
 例えば子孫や親しい友人は、彼らのことを憶えているかもしれない。だがそれらの人々の人生も有限であり、人は死んだ瞬間から、忘却の波に呑まれていく運命にある。
 市井の人が生きてきた証しというものは、極端なことを言えば墓標しか残らない。しかしその墓標すら現代社会においては、建立も難しい時代となっている。そして仮に墓を建てても、祭祀者が途絶えれば終る。
 ふつうの人は、何も残らない。
 まして、その故人が何を思い、どのように人生を積み重ねてきたかということなどは、その人の脳内にしか存在しないもの。
 生きるということは、そういうことなのだ。
 彼らが育まれ、努力し、恋をし、幾多のことに感動し、辛いことを潜り抜け、褒められ励まされ、愛情を注ぎ、笑ったり泣いたりしてきたことは、全て無になる。
 もちろん、それは自明のことである。消失することに対して抗うことは出来ない。銅像を建てたり、小惑星に名前を冠したりしても、その人の思い、その人の追憶というものは残らない。
 ただ、こうして書くことは、銅像よりも彼の人の追憶を留めておくことにはならないだろうか。

 Webというものに自分を表現することが可能になってから、しばらく経つ。
 以前は、自分の思いを吐露したものを残しておくことは、ごく限られた人にしか不可能だった。作家になるか、あるいは芸術家になるか。自伝を書ける人は幸いである。いくら史上に残る大物であっても、伝記をしるされたり小説の題材になったりするのは、自分の思いを残したとは言いがたい。
 今は、誰でもこうして書ける。自分の思考を公表できる。いい時代になったと思う。
 同時に、恥を晒しているという見方も出来る。内面を公表するというのはそういうことで、だからHNで書いている。
 あらためて昔の記事を読むと、耳まで赤くなる。恥の多い人生であったとつくづく思う。
 それでも、こうして自分の軌跡を残しておけるのは、幸せなことだと感じている。

 ブログサービスに限れば、例えば日本においては今世紀に入ってから隆盛し、歴史はそろそろ15年になる。
 既に管理人がこの世にいないブログも数多くあるだろう。震災のときに「更新が止まったブログ」のことが話題になったが、そんなブログは数多いに違いない。さすればそれは、サーバー上に残る彼の人の墓標であることになる。
 願わくは、いつまでも残しておいてやってほしい、と思うのである。無縁仏として片付けてしまわずに。先方も商売でやられていること、難しいとは思うが、何とかならないものかと思う。

  わたしは今日まで生きてみました
  時にはだれかの力を借りて
  時にはだれかにしがみついて
  わたしは今日まで 生きてみました
  そして今 私は思っています
  明日からも こうして生きて行くだろうと

 「今日までそして明日から」を聴きながら、またいろんなことを考える。
 僕は、いつまで書いてゆけるだろう。

 自分的に「虎は死して皮を残す」程度のことは、もう書いたと思っている。だからといって、終了宣言には踏み出せない。それをするには、僕はどうも書くことが好きすぎるようだ。
 しかし、書こうと思ってもなかなか書けなくなってきた。
 かつて量産していた時代は、いくらでも書きたいことがあった。そういう蓄積や衝動がなくなったことは確かにある。そして同時に、筆力の衰えも感じる。言葉が流れ出てこなくなった。脳の硬直化か。体力の衰えと同様のものを感じている。
 でも、書きたいな、まだ。頻度は落ちたとしても。
 ブログを始めた頃は、まさか10年後もこうして僕が「凛太郎」としてWeb上に棲息しているとはとても想像がつかなかった。そして今も、将来のことは全く見えない。例えば、還暦を迎えても書いているなんてイメージは全然持てない。
 今後何が起こるかは、わからない。
 でもしばらくは、道はまだ続いているみたいだ。
 終了宣言もしないし、生涯ブロガー宣言もしない。ただ道が続いているなら、少しづつでも歩いてゆくか。そんな心境かな。

  けれど それにしたって
  どこで どう変わってしまうか
  そうです 分からないまま生きてゆく
  明日からの そんなわたしです

  わたしは今日まで生きてみました
  わたしは今日まで生きてみました
  そして今 わたしは思っています
  明日からもこうして 生きてゆくだろうと

 そんな感じで、まだ凛太郎はWeb上に居ます。
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情報過多時代

2014年04月30日 | 旅のアングル
 旅行に必要なものとは何か。突き詰めて考えると、それは旅に出たいと思う気持ちである。それさえあれば、他のものはあとからついてくるかもしれない。
 ただこういうのは理屈であって、受動的に旅行に行かざるを得ない人もいる。出張が最たるもので、あとは社員旅行や友人に誘われてどうしても断りきれない人、付き添い、いろいろなパターンがある。そういうものまで考えていては話が全く進まないので、能動的に旅に出る人に限る、という注釈つきになってしまうが、とりあえずはそう考える。
 次に必要なものは、時間と予算である。
 これは相関関係にあることが多い。稼ごうと思えば時間がなくなる。逆もしかり。そしてどっちもゼロでは成り立たない。「無銭旅行」という言葉もあるが、全くの無銭ではメシを喰うこともできない。なので、なんとかやりくりする。昔は、大金持ちのドラ息子に生まれたかったと夢想したものだが、そんなことを考えていてもしょうがない。
 さらに、体力の問題もある。だがこれは旅の形態にもよるので一概に言えない。

 さて、ここまでは大前提の話。気力体力金ヒマがあれば、いくらでも旅は出来る。
 次に必要なものは何か。それは、情報である。
 どこかに行きたいと思えば、どうやってそこに行くのかを知らねば行けない。自分が今住んでいる場所から東なのか西なのか。それは極端としても、どの道を行けば到達できるのか。そのために古来より地図というものが発展してきた。交通網が広がる現代においても、例えば列車は何時に発するのか、宿泊先はどうかetc. 旅行社というものに丸投げするにしても、取捨選択はせねばならない。
 ましてやフラリと一人旅であれば、情報が最も大事である。いかに気まぐれ旅であっても、その時々で情報は絶対に必要なのだ。昼に一本しか来ないバス路線で夕方にバスを待っても旅は進まない。
 僕が若い頃に旅を始めた時代は、その情報を得るために四苦八苦したものだった。自転車で旅をするには、地図だけは必須である。道がわからなければ走れない。それ以外に使用した情報ツールは、列車なら時刻表、宿泊先を予約しようとすれば電話帳、観光するならガイドブック。それ以外は、口コミ。いかに「行き当たりばったり」であっても、それくらいは必要だった。

 その情報を得る手段が、近年ガラリと変わってしまった。
 インターネットというものの登場は、確かに画期的だったと思う。それまで地図を見、時刻表を繰りガイドブックを積み上げて計画を練っていたものが、全てPCから情報を得られるようになった。列車の乗り換え案内も料金も一瞬で出てくる。宿泊の予約など、条件を出せば最良の物件を提示してくれる。クリックで予約だ。観光情報も揃っている。
 さらに移動式端末の登場によりその情報活用が飛躍的に展開できるようになった。カーナビがその嚆矢だと思うが、タブレットPCそしてスマホへと瞬く間に時代が進み、情報提供側もどんどん進化していった。もう地図はいらない。スマホが全て案内してくれる。知らない町でも、食べログ上位の店を検索すればうまい店に簡単に行き着ける。そして宿泊予約もレンタカー予約も、人件費の問題だろうが電話するより圧倒的に廉価で済む。いろんなクーポン券も出てくる。優位性が半端ではない。
 隔世の感、というのは、まさにこのことだろう。

 昔の話をしようと思う。
 昭和の時代には、そんな打出の小槌みたいなツールはもちろん無い。何かを知ろうと思えば、それなりにいろんなことをせねばならなかった。欲しいものはすぐには出てこない。
 旅の情報といえば、主体はガイドブックを見ること。
 しかし、ガイドブックというものはそんなに何でもかんでも載っているわけではない。そりゃそうだろう。
 例えば北海道は日本の国土の1/4を占める。それを、観光地や宿泊や食事処まで一冊に収めようとすると、どうしても最大公約数の情報しか入れられない。僕が最初に旅立ったときに手にしたヤマケイのガイドブックは、わずか150ページしかなかった。しかしそれ以上分厚いものはもって歩けない。
 その30年前のガイドブックを、僕はまだ所持している。久々に開いてみると、中には書き込みがぎっしりとなされている。主として、口コミの情報を書き記したものである。
 ユースホステルや廉価なドミトリー式の宿では、旅人同士の交流が盛んだ。

 「どっから来たの? へー京都か春に旅行したぜ」
 「いつ来たの? もう10日目か結構ベテランだね」
 「何で動いてんの? 周遊券? バイク? えっ自転車かよパワーあんな」
 「いつまでいるのよ? 何、決めてないって? そりゃ旅じゃなくて放浪だな(笑)」

 こんな自己紹介的会話がひとしきり終われば、たいてい話は情報収集と情報開示に移ってゆく。

 「どこ周ってきたんや? ほう摩周から阿寒、オンネトーか。ええなあ」
 「阿寒バスは高くてね。ありゃアカン(笑)」
 「オンネトーってよく知らんのやわ。どないやった」
 「そりゃ綺麗だよ。湖の色が刻々と変わってゆくんだ」

 僕は、阿寒湖の近くにあるオンネトーという小さな湖の存在は、ギリギリ知っていた。ただ、ガイドブックには3行しか情報が無い。どうやって行くのか、道筋(舗装路かどうかなど)や泊まるところ、近くに湧いてる無料の滝壺温泉のことまで聞く。体験談に勝るものはない。

 「帯広から襟裳へ向かって。豊似湖に寄った」
 「え、トヨニコ? それ何やねんな?」(全く聴いた事の無い情報である。)
 「知らない? すっげーきれいな湖だぜ。ハート型してるんだ。女の子と行ければ最高なんだが、俺はヒッチで乗せてもらったおっさんと一緒に行った(笑)。でも有難かったけどな。あそこは交通手段がないから」

 こういう話がわんさか出てくる。

 「雨竜沼湿原行った?」
 「小樽は三角市場より鱗友市場だよ。定食むっちゃボリューム」
 「薫別温泉は最高!」
 「裏摩周から湖畔に降りられるよ」
 
 最後の情報は国立公園特別保護区を侵すことになるのでやってはいけないが、みなガイドブックに無い情報だ。こうして、僕のペラペラのヤマケイ本は書き込みだらけとなってゆく。
 しかし、なんでみんなこんなに詳しいんだろう。だんだん疑問に思えてくる。そのネタがしばらくして割れた。特別なガイドブックが旅人達の間に流布してしたのだ。
 そのガイドブックは、今はもう伝説と化している「とらべるまんの北海道」という冊子。

 ガイドブックにも、いろいろなものがある。戦前の旅行案内などを図書館などで閲覧すると、内容のほとんどが名所旧跡で占められる。昔のものほどそうで、グルメ情報などほぼ無いので、内容に普遍性があり今でも活用が可能であるように思える。
 交通公社のポケットガイドやエースガイド、また実業之日本社のブルーガイドなどは歴史が古いが、今でも現役で出版されている。こういうのが一般的なガイドブックだろう。だが、こういう網羅的な形のガイドブックの他に、あるときから雑誌が旅情報を発信しだす。
 版の大きな雑誌は、写真を多く使用しているので、心が動かされやすい。行きたいところがあってガイドブックを購うのではなく、旅雑誌を読んで行きたくなる場所ができるという逆転現象が起こる。その代表が「アンノン族」と言っていいだろう。「an・an」と「non-no」が特集した場所に、若い女性達が殺到した時代があった。
 飛騨高山、津和野、清里、倉敷…こういうところは、アンノン族がメジャーにしていったと言っていいのだろうか。それまでの旅行といえば温泉地か京都奈良というイメージを破った。僕らよりもずいぶんお姉さん世代。このアンノン族を生んだ情報雑誌系のものは、ガイドブックと融合してのちに「るるぶ情報版」や「まっぷる」といったムック(magazine+book=mook)が生まれる。浸透はしなかったが僕らの間では「るるばー(るるぶを脇に抱えて旅行する人)」という言葉もあった。
 そういうおしゃれなアンノン族に対し、「カニ族」という人たちが居た。登山用のキスリングを背負い、周遊券を持ち夜行列車に乗る旅人たち。主に貧乏系旅行者で(時間たっぷり金ナシ)、行く先は大自然が広がる北海道が多かった。
 「とらべるまんの北海道」というガイドブックは、そのカニ族の延長線上から生じたように思える。
 「もしあなたが若いなら、荷物を背中に担いで旅をしよう」から始まるこの手書きの写真もない同人誌のような青い表紙のガイドブックは、完全に旅人の視点から生まれた、口コミが幾重にも重なって生みだされたガイドだった。完全に一人旅、ホステラー、探究心旺盛だが金はない層に向けられて執筆されていて、まず80年代に僕と同じような旅をしていた人で知らない人はいないだろう。バイブル的だったとも言える。
 例えば知床半島の山中に羅臼湖という湖がある。僕は高校時代に読んだ本多勝一氏の本でこれを知ったが、どんなガイドブックも載せていない。正確には案内地図に「羅臼湖」と書かれているものはあったが、言及はなかった。そもそも、現地にすら入口の案内もなければ標識もない。
 どうやって行けばいいかを示していたのは「とらべるまん」だけだった。知床横断道路、峠から羅臼側に3kmほど入った山側の路肩に草に隠れて階段状になっている場所がある。そこを行け。山に入ればも木道が出てくる。クマが多いから気をつけよ。
 そうして僕は、羅臼湖に行った。

 以来、30年経った。
 僕は「とらべるまん」について最初にブログで書いたのは9年前になる。その頃は、検索しても大した紹介もしていない僕のブログが上位にあらわれるほどだったが、以来10年弱経って、もう僕の書いたものなど出てこず、もっと詳しく書かれたものがいくらでも出てくる。10年の間に「とらべるまん」への思いがネットに蓄積されたのだ。よく紹介されたものも多いので、知りたい方はそっちをご覧下さい。
 しかし、もうとっくに世から消えて久しいのに、まだこの本について語りたい人がこれだけいるのかと思う。それだけインパクトのある本だったわけなのだが…。
 つまり、Webは巨大な口コミ集合体であると言える。「とらべるまんの北海道」も、語りたい人がたくさん居て、その語った口コミが集積され、結果どんな本だったかが分かるようになっている。さらに、前述の羅臼湖も、どうやって行くのかを示したページがいくらでも出てくる。かつて「とらべるまん」が唯一示していたものが、「羅臼湖 入口」で検索すれば。

 そういう時代を、寿ぐべきなのだろう。
 旅に出るのに、もう事前準備は全く必要なくなった。時刻表も地図もガイドブックもいらない。端末ひとつあればいい。道に迷えばGPS機能が進むべき方向を指し示してくれる。情報も即座に示せる。店の選択も宿泊も困らない。全て、その場で検索してやればいい。端末ひとつ持てば「風のむくまま気の向くままの行き当たりばったり旅」がついに可能となったのだ。ついでに写真も撮れれば音楽も聴けるし本も読める。スマホ万歳。気まぐれな旅人にこれほど適したツールはない。

 で、僕はいまだにガラケーを持っている。
 セコいのでスマホの維持費がもったいない、ということもあるが、どうしてもまだ積極的に持つ気になれない。持てば、僕のような意志の弱い人間はおそらく端末に支配されてしまいそうで怖い。ただでさえPC中毒の傾向があり、パソ前に座る時間を限って自制しているのに、持ち歩けるようになったらどうなるか。
 旅に出れば、汽車に乗っても車窓を見なくなってしまうかもしれない。そういうのは、嫌だ。
 なので、アナログな旅をしている。
 昔のような長い旅はもうなかなか出来ずショートトリップが多いから、計画くらいは立てられる。列車の時間などはメモしてゆく。行く先の周辺地図だけはプリントアウトして、そこに必要事項を書き込んで持っていく。なんと旧式であろうか。宿泊予約くらいはWebでやるが、あとは鉛筆を持っているのだから。
 ただその書き込む情報は、相当吟味している。昨今はマニアックな歴史散策が旅の目的になる場合が多いので、専門書も読めば大きな図書館で市町村史なども閲覧する。そして地図に見るべき場所を書き込んでゆく。
 不思議なことに、こういう作業をすると現地でそのメモをあまり見返すことがない。たいていは頭に入ってしまっている。
 ここ何年も、そんな感じで旅をしている。
 もちろん、旅に口コミは重要。それは、書いたとおり僕もそうやって動いてきた。北海道を例に出したが、情報はその「とらべるまん」と口コミに頼っていた。
 Webが巨大な口コミ集合体であるのはよくわかっている。
 しかし、その情報が多すぎるんよね。いろんな人が口々にあそこがいいここがいいと言ってくるから、取捨選択が必要になってくる。もう大変なんですよ。しかしその選択をグーグル君に丸投げするのもシャクだしねぇ。
 そりゃ道に迷うこともあるよ。でも、陳腐な物言いを許してもらえれば「それも旅の味」とも言える。事実、そういう経験は記憶に残る。
 旅行は思い出作りである、という定義をするなら、旅先の夜の繁華街でアテがなかった場合、いきおい食べログ見て上位の店に入るよりも、自分の嗅覚で探してみるのもいいように思う。昔はそうやったもんだわ。その結果を逆に食べログに書き込んだほうが、思い出をなぞる事になって記憶がより鮮明になるような気がする。

 この話は、旅行に限って書いているのであり、他の場面では情報過多に困ることなど無いのだが、不思議だな。昔の旅が楽しかったので、どうしてもなぞりたくなってしまうのだろうか。不自由さまでなぞらずとも良いように思うのだが。
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