時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百六十二)

2009-02-28 21:39:20 | 蒲殿春秋
宣旨を手にした源頼朝はその宣旨を最大限に活かすことを考える。
まず、ここに足柄山に集っている御家人たちにこの宣旨の内容を披露する。
ついで、ここにいない坂東の豪族達にこの宣旨の内容を伝えさせるべく使者を発した。
頼朝の使者は坂東に留まらず、北陸、豪族達、そして南奥州の豪族たちにも派遣される。
頼朝の東国支配が朝廷に認められたことを東国の住人達に深く浸透させるのである。

さらに、頼朝とは独立勢力である甲斐源氏が支配する駿河以西の東海道にもこの宣旨を披露し甲斐源氏に圧力をかけつつ更なる協力を求めるよう要請せんと頼朝は欲した。
しかし、実力で東海道を支配している甲斐源氏の人々は下手をすると宣旨とそれを受けた頼朝にたいして反感を感じるかもしれない。
宣旨には甲斐源氏が実効支配している駿河以西の「東国」も頼朝の支配を認めるという内容になっているからである。
甲斐源氏は挙兵以来頼朝と同格の武家棟梁として東海道諸国に存在している。
その甲斐源氏が頼朝の支配につくという宣旨はかれらの誇りを傷つけかねない。
甲斐源氏の扱いは慎重に慎重を期さなければならない。
その甲斐源氏との橋渡しをするうってつけの人物が頼朝の縁者に二人いた。

一人は舅の北条時政。
時政は駿河に勢力を張る牧宗親の婿であり、現在も甲斐源氏の影響も受けている伊豆の豪族でもある。
時政は石橋山の戦いの後甲斐に逃れ一時期甲斐源氏と行動を共にしていた時期もあった。
時政と甲斐源氏とのつながりは深い。
甲斐源氏総帥武田信義と駿河を支配しているその嫡子一条忠頼への口利きをしてもらう。

もう一人は異母弟の蒲冠者範頼。
彼も一時期甲斐に逃れ甲斐源氏と行動を共にしている。
特に、遠江を支配している安田義定とは義定の遠江進出の援護をし、範頼の三河進出には義定が支援したという
持ちつ持たれつの盟友の関係である。

この二人にまずは宣旨の内容を披露し甲斐源氏に宣旨実行の為の協力を要請させるのである。
彼等は甲斐源氏と強いつながりをもつ一方で頼朝の縁者でもある。
時政も範頼もこの宣旨の持つ意味はわかるであろう。
両方に縁を持つということは、彼等が甲斐源氏の支配下に収まる可能性もあるのであるが、頼朝からしてみればこのような大事を彼等を使って仲立ちさせることで
時政や範頼と頼朝との縁を強まらせることに期待をするしかない。

頼朝には一抹の不安もあった。
昨年の亀の前騒動で現在も伊豆にこもりっきりの時政が頼朝の依頼に応えるどうかということに。
だが、頼朝の傍らで日々家の子同様に近習として仕えている時政の子江間四郎義時の話によると、ここのところ時政も牧宗親の態度も軟化しているということである。
今のところこの義時の言葉を信じるしかない。

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蒲殿春秋(三百六十一)

2009-02-27 05:51:20 | 蒲殿春秋
頼朝に率いられた軍はやがて足柄山に到着した。
頼朝は足柄山での休息を兵たちに命じた。

そこへ丁度威儀を正した一行が現れる。
後白河法皇の御使中原康貞である。
頼朝は丁重に康貞を迎え入れる。

急遽設えられた席で康貞はまず頼朝を従五位下の位階に戻すという朝廷の決定を伝える。
次いで後鳥羽天皇が発した宣旨を読み上げる。
「東海道、東山道、北陸道の国衙領は国に荘園は元の如く本来の所有者に戻すべきである。かくのごとく行なわれるよう、その地の沙汰を頼朝に任せる。この宣旨に従わない者があれば頼朝が処罰して構わない。」
先に頼朝がこの康貞に託して後白河法皇に奏上した三か条の申し条に対する返答として、このような宣旨が下された。
後に十月宣旨と呼ばれるようになるこの宣旨を頼朝は深々と礼をして拝しながら密かにほくそえんでいた。

なんという良き時にこのような宣旨がここに届いたのであろうか。
上総介広常の離反、そしてそれに同意する豪族たちが出かねない状況で
頼朝の東国の支配権を認める宣旨が頼朝の元に到着したのである。
東国武士達は、その地に独自の勢力を築きつつも常にその実力を裏付けているものの存在を欲している。
その東国武士ーなかんずく坂東の武士達を支配下におきつつある頼朝に対してその支配を認める宣旨が只今届いたのである。

平家が安徳天皇を擁して都にあった頃は頼朝とそれに従った者達はあくまでも「反乱者」という位置づけから抜け出すことができなかった。
しかし、現在この宣旨によって頼朝の東国支配は正統なものと認められ
頼朝に従う限りは東国武士達の在地支配も正統なものと認められるのである。

裏を返せば頼朝に従わない場合、頼朝の意志で所領の没収をされたり、命を失うということもありうるということになる。

東国武士は在地における独立性は高いものの、その支配は朝廷の律令機構にのっとた国衙の実権を握ることや荘園の本所や領家の意志に従うことによって実力を伸ばして生きたという歴史が在る。
その律令機構の頂点に位置する太政官上位者の沙汰によって発せられたこの宣旨は東国武士達にとっては従うべき指針にならざるを得ない。この宣旨は東国における頼朝に権威を与える。

ついで、中原康貞は「上洛の是非」について頼朝を尋ねる。
頼朝は
「上洛の意志はあるが、その期間の兵たちの兵糧等の供給に不安があるので即答を避けたい。」
とのみ返答する。

ともあれ、頼朝が喜ぶべき宣旨をもたらした中原康貞は頼朝の陣中において最大の礼をもってもてなされることになる。

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蒲殿春秋(三百六十)

2009-02-25 19:51:08 | 蒲殿春秋
頼朝はそのまま軍を率いて足柄山へと向かった。

━━ やはり上総介は・・・
梶原景時が頼朝にもたらした報━
━上総介広常叛意あり、奥州藤原氏に通じる、
はさらに真実味を増してきた。

如何致すべき、頼朝は心中色々と考えながら西へと向かう。
頼朝のすぐ傍らには末弟の九郎義経、そしてその親衛隊というべき佐藤継信、忠信兄弟が控えている。

義経は奥州に滞在していたことがあり、佐藤兄弟は奥州の豪族佐藤氏の子で藤原秀衡と主従関係を結んでいる上に、上総介広常とは以前から顔見知りの間柄である。
佐藤兄弟はとにかく九郎義経までは疑いたくはないが、奥州とのつながりが彼等に在る以上警戒というものを外すわけにはいかない。
自分の側にあえておいておき動向を見極めなくてはならない。

━━何が上総介広常を奥州藤原へと向かわせたのか・・・
思い当たる節が全くないわけではない。
小山、宇都宮氏や武蔵秩父一族の当主帰還により彼等の発言権が強まり今まで通り上総介広常の発言が無条件に通るわけではなくなってきた。
もう一つ、上総に住む小豪族達がここのところ広常を通さずに直接頼朝に直談判することも増えてきた。
そのことが広常の気に障ったかもしれない。

上総介広常と奥州のつながりは深い。
外房の海を伝って奥州と上総下総は百年以上前から交易がある。
当然上総介は太平洋沿岸に住まう豪族たちとの長年の付き合いがあり、なかには縁戚関係を有するものもある。
奥州出身の佐藤兄弟もそのような縁で上総介とは以前からの知り合いであった。

そのようなことを考えると上総介に対する奥州藤原氏や南奥州の豪族たちからの働きかけが全く行なわれないはずはない。
頼朝が現在南奥州の豪族の切り崩しを行なっているのと同様に奥州藤原氏からの坂東豪族への切り崩しもまた同様に行なわれているはずなのである。

考えてみれば、上総介広常が頼朝に味方したのは、長年敵対している佐竹氏を滅ぼしたいという願望と相馬御厨を手に入れたいという願いからであった。
ついでに言えば、頼朝を傀儡にして自分の意向を坂東に強く及ぼしたいと言う願いもあったであろう。

未だに抵抗活動を続けているとはいえ佐竹氏は弱体化し、相馬御厨の権利の半分ほどは上総介の手に帰して現在上総介広常からみれば頼朝はほぼ用済みになったと言えるかもしれない。
しかも広常が傀儡にするはずだった頼朝は、秩父一族や小山宇都宮の発言や鎌倉に程近い相模の豪族を重んじるようになってきている。
上総介広常が離反する要因は確かにあるのである。

それにしても、この上総介広常の離反の可能性は頼朝にとっては想定外であり、今後は命取りともなりかねない事態である。
頼朝が坂東に勢力を延ばしえたのは上総介広常の与同なしには考えらない。
しかし、その最大の与党であった彼が今坂東内部の最大の敵になりつつある・・・

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蒲殿春秋(三百五十九)

2009-02-22 22:16:22 | 蒲殿春秋
梶原景時からの報告を受けた源頼朝は一瞬耳を疑った。
まさかそのようなこと、と言いかけたが直ぐにその言葉を飲み込んだ。

━━ この世にありえないことなど何一つ無い。何が起こってもおかしくないのが世の中というものだ。
頼朝は改めてそのように思った。
頼朝は景時の報告の真偽を確かめるべく雑色を数名派遣した。

上洛と年貢の納入を求める後白河法皇の使いに返答した直後の事であった。

数日後、雑色たちが次々と戻ってきた。
雑色たちのもたらす報告は全て景時の言った言葉を見事に裏付けるものであった。

「そなたの申す通りであった、残念だがな。」
「で、いかがなさいますか?」
「まずは南奥州の豪族への働きかけはこれまで通り行なう。小山や宇都宮を通してな。
それから、相馬御厨を通して千葉にも働きかけてもらおう。
何しろ相馬御厨は奥州との交易の要の場所ゆえな。」
「それがよろしいかと存じます。」
主従は顔を見合わせた。

「で、あの者の出方を見るために上洛の支度を致す。」
「上洛、ですか。先日御使者にお断りなされたばかりですのに。」
「上洛はせぬ。だが上洛する姿勢を朝廷と東国の者どもに示す。
されば何らかの動きが出るはずじゃ。」
「では、どこまで『上洛』いたしますか?」
「とりあえず、足柄までにいたそうかの。
それから、此度は九郎を連れて行く。」
「九郎殿をですか、近く婚儀が控えておりますのに・・・」
「婚儀は延期じゃ。そなたも知っておろう九郎は奥州にいたことがある。
奥州やあの者からどのような働きかけがあるか分からぬ。それに九郎の側に控える佐藤兄弟。あの兄弟はあの者とは顔見知りぞ。九郎が知らずとも佐藤兄弟があの者と通じてどのように動くかわからぬゆえな。九郎がわしに従えばあの兄弟は九郎と共にわしについてくる。さすれば動きを見張ることができよう。」

翌日、御家人達に上洛の支度をせよという鎌倉殿の命が下された。
命を受けたものは即座に上洛の支度をして鎌倉に集った。
だが、命を受けた者のうち数名のものは理由をつけて上洛を断った。

その断ったものの中には頼朝がいうあの者ー上総介広常がいた。
広常は「上洛の必要などない。」と言い本領の上総に引きこもる。

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蒲殿春秋(三百五十八)

2009-02-21 23:15:30 | 蒲殿春秋
後白河法皇と源頼朝との間に密やかな行き来があったその頃木曽義仲は西国にあった。
平家討伐の為である。
寿永二年(1183年)逐電と評されるすばやさで都を後にしていた義仲。
だが暫くの間義仲は都とさほど離れていない播磨国に滞在しそれより西へは進んでいなかった。
あとからやってくるであろう兵が揃うのを待つということもあった。だが義仲がそれ以上西に下れない理由があった。

頼朝が上洛するという噂を気にしてのことである。
この年の春一旦は和睦をしたものの義仲にとって頼朝は不倶戴天の敵である。
いつかは潰さねばならぬ相手と心中期するものがある。
そして東国において唯一の武家棟梁の座を目指す頼朝にとっても、彼と同格の武家棟梁たらんとする義仲は屈服させるか滅ぼさねばならぬ相手である。
その頼朝が義仲不在の間に上洛をし法皇を抱き込んだ場合、西国に向かった義仲の背後を襲いかねないという危惧があった。
その為頼朝の上洛が行われた場合即座に頼朝勢と交戦する用意が必要となっていた。
播磨国で様子を見ている間に時は過ぎていったが、頼朝の上洛は難しいということが義仲にも伝わってきた。
さらに、義仲に接近している奥州の王者から義仲を喜ばせる書状が届く。
藤原秀衡からの文を読んだ義仲は、やがて兵を率いて備前へと向かう。

だが、その頃には瀬戸内海における勢力地図は変化しつつあった。
平家が勢力を盛り返してきたのである。
平家本軍は九州にある。
そして瀬戸内海に勢力をはる豪族達は次々に平家への与同の動きを見せている。

義仲は備前までは着実に侵攻した。
だが、十月に入ると、一旦義仲に帰順したはずの備中国住人の妹尾兼康が突如反旗を翻した。
怒りに燃える義仲軍はたちまち兼康を討った。

北陸戦線において地勢に明るい在地住人を味方につけ地勢を生かして戦略を練る、それが義仲の快進撃の原動力の一つとなっていた。
だが、西国における在地住人である妹尾兼康に裏切りが起きた。
在地住人の裏切り。
そのことが不敗将軍の義仲に暗い影を落とすことになる。

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平頼盛の立場

2009-02-19 23:54:30 | 蒲殿春秋解説
「平家物語」などの内容をよくご存知の方は、この小説もどきをお読みになって平頼盛の書かれ方に疑問を抱かれたかも知れません。

平頼盛は都落ちする平家には同行せず都に留まります。
その理由としてよく知られているのが
「かつて母池禅尼が以前源頼朝の命乞いをしたからその頼朝との縁を頼りに一門を見限った」
という内容だと思います。

しかし、「吉記」などをみると全く違うことが書かれています。
まず、「愚管抄」では頼盛が頼ったのは「八条院」です。
そして、「吉記」七月二十八日条では、公卿の会議で頼盛の処遇に対する会議がもたれています。そして結局降伏してきたものであるから罪には問わないという方向に話が進んでいたようです。

この二つの文書によると頼朝が出てくる余地は全くありません。

さて、その次に頼盛の鎌倉下向についてです。
よく知られている話では、当時都を制圧していた木曽義仲の圧迫を逃れる為とも言われています。「玉葉」に気になる記載があります。
「玉葉」十一月二日条に、頼盛が頼朝と行き会い、何事かを「議定」したとあるのです。
もし、単なる逃亡だったら頼朝と「議定」するのはおかしいと思います。
頼盛は何者かの意を汲んでその背後に誰かがいるからこそ頼朝は頼盛と「議定」したのではないかと思われるのです。

また、頼盛が「逐電」した「玉葉」に記されている十月中旬は木曽義仲は都におらず播磨またはそれより西にいます。
都における義仲の影響力は皆無ではないとは思いますが義仲の圧迫という点では多少疑問符がつきます。

つまり、頼盛の下向は義仲の圧迫を逃れたのではなく、都の有力な誰かが背後にいて頼朝の元にむかったのではないかと思われるのです。
その有力な誰か、というのは後白河法皇ではないかと私は思うのです。

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1183年7月末から10月中旬年表

2009-02-18 13:44:07 | 年表
史料名 (玉)ー玉葉、(吉)ー吉記、(百)ー百錬抄

日付 頼朝 義仲 行家 他武将 朝廷その他 平家
7月27日        後白河法皇下山、都に戻る(玉、吉)  
7月28日 頼朝の元に院使中原康貞を下す(百)  義仲、行家入京(玉)      
7月30日   義仲ならびに源氏諸将に京中守護命じられる(吉)兵の狼藉問題となる(玉)    行賞頼朝第1、義仲第2、行家第3(玉)   平時忠に院宣をもたらす(吉)
8月6日       新しく帝を立てるべきかの話し合い(玉)  平家解官(玉)
8月10日   源氏武士に勧賞(玉)義仲左馬頭兼越後守行家備後守(百) 源氏の乱行が止まない(玉)    時忠から剣爾等の返還要請に対する返事が都にくる(玉8/12条)
8月12日     行家官位に不満(玉)    
8月14日    義仲北陸宮即位を申し入れ(玉)      
8月16日   義仲伊予守(百) 受領の除目*1(玉)行家備前守となる(百)    
8月18日        新天皇即位に関する占い記事(玉)  
8月20日     除目*1(玉) 後鳥羽天皇践祚(玉)  
8月21日     武士達大原社等に乱入する(百)    
8月26日         この頃鎮西に入る(玉)
9月3日 上洛の噂(玉) 武士たち物資横領、収穫物強奪(玉)      
9月5日   義仲の横領深刻化(玉)     平家強勢の噂(玉)
9月12日       平家と義仲調伏の祈祷*2  
9月18日       北陸道若宮入京(百)  
9月20日   平家追討に出発(玉)      
10月1日 頼朝に遣わした院使帰京 三か条の奏上(玉)        
10月9日 頼朝本位に復す(玉、百)        
10月12日   妹尾兼康との戦い*3      
10月13日 中原康貞院使として再び坂東下向の話が出る(玉)        
10月14日 寿永二年十月宣旨(百)     都大地震(玉、百)  
10月17日   義仲の軍勢備前国にいる(玉)      
10月18日       平頼盛逐電(玉10/20条)実は関東下向(百10/20条)  


*1 この除目のいずれかで安田義定らが国司に任命されたと推測される。
*2 宮田敬三『都落ち後の平氏と後白河院』(「年報中世研究」) より
*3 上杉和彦「戦争の日本史6 源平の争乱」において示された日付に従う。

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蒲殿春秋(三百五十七)

2009-02-17 20:47:19 | 蒲殿春秋
妙案を思いついた法皇はすぐに姉宮上西門院の元へと向かわれた。
上西門院を後白河法皇は母のように慕っている。

法皇の案を聞いた上西門院は微笑みながら法皇の頼盛召集に賛同された。
また、時折行き来している八条院への口ぞえも承諾なされた。
頼盛は大納言であった男である。元公卿が使者となるというのは法皇が頼朝を重要視しているという態度を表明していることになる。

上西門院は遠い目をして頼朝の昔話をなされる。
平治の乱以前の少年時代頼朝は上西門院に仕えていた。
その働きぶりを上西門院は非常にお気に召しておられた。
それゆえ、平治の乱で頼朝が逮捕されたことを非常に心を痛められ、何とか命だけは助けたいと思し召しになられた。
その御意志は平清盛の継母であった池禅尼へと伝えられ、池禅尼の助命活動への後押しともなられた。
姉宮を母とも慕う後白河院も当時そのご意志に賛同された。

その昔の縁の糸が今になって活きてくるとは・・・

頼朝の昔話をしていた上西門院が不意に話を変えられた。
平頼盛を使者に出すのであれば、もう一人使者にふさわしい人物がいるのでその男も使者に加えて欲しいと法皇に願われた。
その男の名は一条能保。
上西門院の乳母の孫であり、頼朝の同母の姉を妻にしている。
恩人ではあっても、平頼盛は他人である。
頼朝が本当の意味で心許せるのは、母を同じくする同胞のみ。
頼朝の同母の兄弟はいまや一条能保の妻しかいない。
頼朝が流人として過ごしていた長い年月の間その姉を夫として守り続けた一条能保ならば頼朝も心を開くだろう、そのように上西門院は法皇に申し上げられる。

上西門院の乳母は現在病床にある。
年齢からいってこの先どのようになるかわからない。
幾人か存在する乳母の子や孫たちの中で、能保のみが官界においては閑職に追いやられている。
この孫のことを乳母は非常に気に病んでいる。
この能保を義弟頼朝への使者に加えそこで功績を立てたならば能保にも法皇からしかるべき恩賞が与えられるはずである。
能保に出世の機会を与えてやること、それが長年自分を心底慈しんで育ててくれた乳母への恩返し、上西門院にはそのようなお心があったかも知れない。

後白河法皇は上西門院の申し出を快諾された。

かくして、寿永二年(1183年)十月、平頼盛と一条能保は密かに都を出て鎌倉へと向かった。

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蒲殿春秋(三百五十六)

2009-02-16 19:46:08 | 蒲殿春秋
院使中原康貞は鎌倉へ向かった。
年貢の納入を確約した頼朝に対して東海・東山・北陸諸国の沙汰を任せる宣旨を出すように取り計らわれた後白河法皇。
しかしその法皇のお心のうちにある不満が残っていた。
それは、頼朝の上洛がなされないということである。
康貞の鎌倉下向に先立って頼朝の使いが到着し、
『奥州藤原氏と常陸の佐竹氏の動向が不安であること、ならびに大軍を率いての上洛は兵糧の確保が難しいということで頼朝は上洛できない』
との知らせをもたらしたのである。

法皇は北陸宮擁立の件と都の治安を守りきれない義仲に不快の念を持っておられる。
平家を敵視する以上義仲に対抗するには頼朝の勢力をあてにするしかない。
しかも、ここのところ西国において平家が勢力をもりかえしつつあるという情報が入ってきている。
義仲でその平家に対抗しきれるかという御不安もあられた。

義仲を嫌い、平家を恐れる法皇は頼朝の上洛を強く望まれるようになっている。
今すぐ上洛できずとも何としても頼朝を手元に引き付けておきたい
そのように強く願われるようになっておられた。

中原康貞を頼朝の奏上に対する回答の使者として送ったものの、
また別のそれも大物を使者に送り、重ねて頼朝への接近をねらいあわよくば上洛させたいと願うようになられていた。

思案する法皇の頭にある人物の名が思い浮かぶ。
異母妹八条院に長年仕えているあの男。
彼に頼朝と交渉させ、交渉の結果法皇にとって有利な条件を引き出すことができれば復権させてやってもよい。
平家一門ということで今は解官されてはいるが、彼自身も復権を願っているはずである。
そして彼の復権は広大な荘園を所有し、隠然たる勢力を保持している後白河法皇の異母妹八条院にも恩を売ることにも繋がるであろう。
そして彼を送りつけられる源頼朝も彼に対して疎略な扱いをできないはずである。

彼の名は前大納言平頼盛。
平清盛の異母弟であるが、今回の平家一門の都落ちには同道せず八条院を通じ法皇に帰順を願って投降してきた男である。
現在は官職を取り上げられ都の片隅でつつましく過ごしている。
その彼に復権の機会を与えてやるのである。
頼盛の母は平忠盛の正室であった藤原宗子ー池禅尼として知られる女性である。
池禅尼は平治の乱に敗れて捕えられた源頼朝の助命活動をした人物である。
本来ならば死罪になるはずだった頼朝が命を奪われずに済んだのは彼女の働きが大きい。
その池禅尼に対しては頼朝は強い恩義を感じている。
その息子である頼盛に対して頼朝は決して疎略な扱いはできないはずであるし、その恩人の子の語る言葉は常人が語るそれよりも頼朝に重く響くであろう。

法皇は頼盛に御前に上がるよう密かにお命じになられた。

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蒲殿春秋(三百五十五)

2009-02-14 19:58:26 | 蒲殿春秋
ついで、頼朝が鎌倉において康貞に言った言葉が伝えられる。

頼朝はあくまでも院に忠誠を誓うということ、
院が頼朝に力添えすれば東国のものたちも院の意向に従って
年貢の納入等も滞りなく行なう、と。

法皇は頼朝の書状、そしてその言葉に満足された。

とにかく現在は物資が不足している都を救わなくてはならない。
東国からの年貢の納入は焦眉の急を要する懸案である。

平家は自らを幽閉し、院政再開後も後白河法皇を様々な形で制約してきた。
義仲は北陸宮即位を強引に推進してきた。

しかし、頼朝は違うようである。
院領、女院領、摂関家領、寺社領の本所を重んじる書状を差し出し年貢の納入を約する。
その一方で、都や法皇の窮地を知りながらもその見返りに法皇の政治方針への口出しをすることは無い。
法皇は頼朝を心強いものとお思いになる。

頼朝の申し条、そして書状は密かに公卿たちの間を駆け巡る。
公卿たちの間にも頼朝のこの申し入れは好意的に受け入れられた。
その結果頼朝に対して二つの措置が与えられるようになる。

一つは平治の乱に際して剥奪された従五位下の位階を頼朝に再び戻したことである。
これにより、永暦元年(1160年)三月以降「流人」という身分に落とされていた頼朝は二十三年ぶりに罪人の立場から開放された。

もう一つは、頼朝に重大な宣旨が下されたことである。
その宣旨はには次のようなものである。
「東海道、東山道、北陸道の国衙領は国に荘園は元の如く本来の所有者に戻すべきである。かくのごとく行なわれるよう、その地の沙汰を頼朝に任せる。この宣旨に従わない者があれば頼朝が処罰して構わない。」
後に「寿永二年十月宣旨」と呼ばれるようになる宣旨である。

これにより、頼朝は東国の年貢に対する納入の責任を負うようになったものの東国の実質的な支配権を朝廷からある程度承認されたことになる。
頼朝の沙汰の及ぶ「東国」の範囲は坂東はもちろん、義仲の勢力下にある北陸道、甲斐源氏が支配する駿河以西の東海道甲斐以西の東山道をも含む。
そして、それまで「反乱の者」と評されていた鎌倉勢は反乱者の立場を脱することになる。

その身が未だ東国にある頼朝。それが故に任官叶わぬ身ではある。上洛しなければ任官はありえない。
しかし、この宣旨によって国司任官や京官任官以上の権限を頼朝は有するようになった。

この朝廷の二つの措置はまたも中原康貞に託され、康貞は再度鎌倉へ向かった。


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