時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

義仲が名残を惜しんだのは?

2010-04-30 06:11:41 | 源平時代に関するたわごと
義仲が鎌倉勢に攻められて都を落ちる前に、ある女性と名残を惜しんでいたという逸話が「平家物語」等の軍記物に記されています。

その名残を惜しんだ女性は「平家物語」諸本によって違います。

1.前摂政松殿基房の娘
2.都に入ってからのなじみの女房

という異なる相手が夫々記されています。

現在、小説などで描かれる場合は松殿の娘を取り上げているケースが多いように見受けられます。

ちなみに、義仲が松殿の娘を妻にしたという話は「平家物語」等の軍記物が主なソースで当時の「玉葉」などの日記等にはかかれていないようです。

木曽殿が本当に、最後に名残を惜しんだ女性がいたのか、いたとしたら相手はだれだったのか、非常に気になるところです。

ところで、義仲に関しては巴にしてもそうですが「軍記物」の記述があたかも史実であったかのように鵜呑みにされているような気がしてなりません。

もっとも「軍記物」鵜呑みは義仲に限ったことではないのですが、
学術的研究の世界においては、少なくとも清盛、重盛、頼朝、義経などに関しては
「脱軍記物」という試みがなされているようですが、義仲に関してはどうなのでしょうか?

「軍記物」は確かに面白いのですが、面白いが故にそれを史実だと思い込まされてしまう危険性を多分に含んでいるような気がします。

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巴御前について

2010-04-27 22:14:08 | 源平時代に関するたわごと
前回義仲に関する話題を書かせていただいたので、その関連で巴(巴御前)についても少し書かせて頂こうかと思います。

(実際には小説もどきにおいてはほんの一瞬しかご出場いただかなかったのにここに書くのは申し分けないとは思っているのですが、義仲が出てくると巴もかいてみたいなとつい思ったので・・・)

実は私は巴御前についてはそんなに詳しくないので、以下は私のつたない知識を元に書かせて頂きますのでそのあたりをご了承いただきたいと存じます。

さて、文献上に巴が現れるのは「軍記物」しかないようです。(私の知る範囲においてですが・・・)

巴が登場する軍記物は「平家物語」と「源平盛衰記」です。

で、その巴の立場ですが軍記物によって違っているのです。

「平家物語」---義仲が連れてきた便女(または美女)
「源平盛衰記」---義仲の乳母子で、樋口兼光、今井兼平の妹。なおかつ義仲の愛妾。

平家物語は巴の素性については木曽殿最期のあたりで「木曽殿は巴、山吹とて二人の美女を具せられたり。」という非常にそっけない紹介をしているのみです。
ここでいう美女(便女)とは、主の身の回りの世話をするあまり身分の高くない女性のことです。(時代劇に出てくる侍女のようなものでしょうか?)
もちろん木曽殿に付き従った数少ない人のうちの一人になったり、巴のその剛勇ぶり、義仲に命じられて義仲の側を離れるというエピソードは「平家物語」には書かれているのですが・・・・

「源平盛衰記」における巴の立場(乳姉妹)、と「平家物語」における巴の立場(単なる召使)の差は何なのか不思議に思います。

多くのドラマや小説では巴は義仲の乳兄弟で愛妾という立場で書かれていますし
そちらの方がドラマチックなのですが、
実際のところはどうだったのでしょうか?
また、軍記物上の創作の人物という説もありますし、実在していたとしたら実はどのような女性だったのか、非常にミステリアスなものを感じさせられる女性であります。

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義仲の「征東大将軍」について

2010-04-25 05:50:35 | 蒲殿春秋解説
かなり前にupした内容になりますが、小説もどきの中において寿永三年一月に源義仲が任官したのは「征東大将軍」と記載しました。
従来は「征夷大将軍」に任官したものと見なされていましたが、最近出版の専門家の著書を読むと「征東大将軍」だったとみなす向きが強いようですのでその研究動向に従うことに致しました。

櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」(『明月記研究』9号、2004年)(←申し訳ありません私は未読です、以下書く内容はこの論文を紹介された末尾参考文献を元に書かせていただきます。)において義仲が任官されたのは実は「征東大将軍」だったという説が発表され、それ以降その説を支持する専門の方が増えているようです。

国立公文書館蔵『三槐荒涼抜書要(さんかいこうりょうぬきがきのかなめ)』所収の『山槐記』建久三年(1192年)七月九日条によると義仲が補任されたのは「征東大将軍」だったようです。もちろん征伐すべき東のものとは、当時敵対関係にあった坂東の源頼朝。

そして1192年源頼朝が望んだ官職は「征夷大将軍」ではなく「大将軍」だったようです。
前出の『山槐記』建久三年(1192年)七月九日条には下記の記載があるようです。
「前右大将頼頼朝、前大将の号を改め、大将軍を仰せらるべきの由を申す。」
この申し出を受けた朝廷は、頼朝に与える官職の候補として
「征東大将軍」「征夷大将軍」「惣官」「上将軍」の四つを挙げ、
その中で前例がよくない「征東大将軍」(義仲が就任)、「惣官」(平宗盛が就任)などが外され、結局「征夷大将軍」が朝廷の選定によって決められた、
ということだそうです。

つまり、頼朝はあくまでも「大将軍」の称号が欲しかったのであり、その上に「征夷」がつくかどうかはさほど気にしていなかったということらしいのです。

以下個人的意見。

いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府
という有名な年号が鎌倉幕府成立の年になるかの議論がかなり昔から行なわれています。

もちろん1192年に源頼朝が征夷大将軍になったことは事実です。
その後の鎌倉、室町、江戸幕府も「征夷大将軍」に就任した人が幕府のトップに立ちます。
その後の幕府のトップの称号となる「征夷大将軍」が決まる経緯が上記の通りだった(頼朝の立場からすれば「大将軍」かそれに近いものだったらなんでもよく、「征夷大将軍」の官職を選定したのは朝廷だった)、ということは意外でした。

この「征夷大将軍」決定までの経緯、そして義仲が実は「征夷大将軍」になっていなかったという事実は今後の幕府の成立論議にどのような影響を与えるのかが非常に気になるところです。

以下余談です。
今年の四月、ある小学六年生に社会の教科書を見せてもらいましたが、その教科書には「1192年から鎌倉時代になった」と明記されていました。

巷で言われていた「もう学校では鎌倉幕府は1192年成立と教えていない」という話(いったんはマスコミでも騒いでましたが)が目の前にあった社会科の教科書の記載で見事に粉砕されました。

現代でも、巷で言われていることには信用できないという例がここにもありました。
やはり、物事は鵜呑みにはせずよく確認が必要だということを実感いたしました。

参考文献
川合康「日本の中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)
元木泰雄「源義経」(吉川弘文館)
五味文彦・本郷和人編「現代語訳吾妻鏡5 征夷大将軍」『本巻の政治情勢』(吉川弘文館)

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蒲殿春秋(四百七十五)

2010-04-14 05:09:58 | 蒲殿春秋
夕焼けの中秋山光朝は自邸へ戻る。
秋山光朝を見送る一条忠頼は自分も光朝同様の危機を抱えていることを知っている。
忠頼の弟石和信光はここのところ鎌倉の頼朝に臣従を近い、頼朝からの覚えも目出度いと聞いている。
父の信義は今のところ鎌倉殿とは対等であるという立場を取り、鎌倉殿の御家人的名立場に立っている信光の態度を快くおもってはいないようである。
だが、この先頼朝の立場が強くなった場合はどうなるのであろうか。父も頼朝の圧力に負けて今度は忠頼を廃嫡にし、信光を嫡子に据えるかもしれない。




忠頼はそのようなことはあってはならないと強く思う。

そして、忠頼は頼朝への敵愾心を一層強める。

━━ あの流人に一泡吹かせてやる。流人がわしらの風上に立とうなどとは笑止千万。
   あの流人が鎌倉殿ならばわしらは甲斐殿ぞ、
   わしらとあの流人は同じ武家の棟梁ぞ。流人なぞの下風にたってたまるか。

一条忠頼があの流人といって内心さげすんでいる源頼朝に対する対抗心反発心は今に始まったことではない。
頼朝は自分達と同格の武家棟梁、いや元々自らの手勢一つ持たぬ落ちぶれ果てていた流人ではないか、という想いは一条忠頼の心の中に根深くある。

そして、坂東支配権に関して頼朝に遅れをとっている一条忠頼は、木曽義仲という信濃国の対抗者がいなくなった現在その牙を頼朝に向けようとする。

その最初の一手が武蔵国の実権を手に入れるとの策略である。
一条忠頼の野望は武蔵国には留まろうとはしていない。
山深い甲斐信濃の先には海に面した国がある。忠頼は既に駿河を手に入れた。
信濃からはもう一つの海に面する国々に出ることが出来る。
その為にはどうしても欲しい国それが信濃。信濃を完全に制圧すれば甲斐源氏のもう一つの野望に近づく。
その野望も果たすことが出来たならば一条忠頼は源頼朝を大きく凌駕することができる。

その日の夜、一条忠頼の元を一人の男が尋ねてきた。
その男は東国のある山深い国の言葉を話す。
そして、その男の従者がその夜のうちに東を目指して走り去った。
この従者の行動が後に語り継がれるほどの悲劇を巻き起こすことをこの時誰も知らない。

さらに、自らの野望の為には、西国にもう一つ手を結ぶべき相手がいる。その相手と結ぶ為に一条忠頼の使者は秋山光朝の家人と共に南へと向かった。

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蒲殿春秋(四百七十四)

2010-04-13 06:01:49 | 蒲殿春秋
一人の武士がいたとする。
その武士は、鎌倉殿の御家人であると同時に、甲斐源氏の家人であり、木曽義仲にも誼を通じ、
妻や母、息子の嫁、娘の嫁ぎ先などを通じて多くの縁戚関係を有し、そして国衙の在庁官人であり、ある荘園の管理者であって
その荘園の管理や知行国主や国守を通じて都の有力者の家人となっている。

そしてその武士が複数仕える主のうちどの主の意向に従うか、また縁戚の誰に協力するかは、その時の各武士の都合によって決する。

そのような複雑な人間関係を有する武士達が武蔵国に数多くひしめいている。

武蔵国に限らずこの頃の武士と呼ばれる人々は、鎌倉殿一人だけに仕えていたわけではなのである。

そのような状況に一条忠頼らのつけいる隙は十分にあったといえる。

「つまり、鎌倉殿の東海東山の沙汰を骨抜きにしてしまえばよい。
手っ取り早いのが武蔵をわし等が手にいれることじゃ。
武蔵国さえ押さえれば鎌倉殿の東海、東山の沙汰はわしらを通さねば立ち行かなくなる。
さすれば、頼朝が沙汰をする権利など名目のものに過ぎなくなる。さすれば、わしと懇意にしておるそなたを頼朝もそなたの親父殿も無下にはできまいて。
そこでじゃ。」
一条忠頼は声を落とした。
「わしは・・・・・が欲しい。」
と秋山光朝の耳元でささやいた。確かにそれが一条忠頼の手に入れば、忠頼の手中に武蔵国は転がり込んでくるであろう。
「なるほど。」
「そこでそなたの出番じゃ。
わしと違って、昔から都に数多く出入りして、小松殿の婿にまでなりおおせたそなたならば
この話を都の人々に通しやすかろう。」
「相分かった。」
秋山光朝は何かがはじけたかのように返答した。

その二人を西に傾いた日が照らしていた。

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蒲殿春秋(四百七十三)

2010-04-11 22:46:45 | 蒲殿春秋
一条忠頼は秋山光朝の顔をまじまじと見つめた。

「しかしのう、何も鎌倉殿だけが武家の棟梁ではあるまいに。」
そう言う一条忠頼に対して秋山光朝は反論する。
「じゃが今回の平家討伐で鎌倉殿の名は益々高まるであろう・・・・
それに鎌倉殿は朝廷より東海道、東山道の沙汰を命じられている。鎌倉殿は朝廷から東国の主とみとめられているようなものじゃ。」

「確かにそのことならば名目上はそうであろうな。」
そういって一条忠頼は薄ら笑いを浮かべ、話を続ける。
「しかし、実質の面ではどうであろうかのう。
東海道、東山道に含まれる陸奥は未だ奥州藤原氏の支配下にある。
そして、東山道にある甲斐、東海道にある駿河遠江は吾等が甲斐源氏の沙汰のもとにある。
頼朝が東海東山諸国のうち自分の手中に収めているのは、相模、武蔵、上総、下総、安房、そして下野に過ぎぬ。
そしてその中でももっとも厄介な武蔵は完全に頼朝の手中にあるわけではない。」
「確かに・・・」
秋山光朝はうなづく。



箱根以東の坂東八カ国の中央を占める武蔵国は多くの馬を生み出す牧、水上交通に使われる河川、そして、大小の武士団を抱えている。
この国を一つにまとめるのはたやすいことではないし、この国の住人達は一筋縄でいくものたちではない。
しかし、この国の実権を手に入れることが坂東の真の支配者となることができる魅惑の国である。

したたかなこの国の住人達は、鎌倉殿源頼朝の元に御家人として参集する一方で木曽義仲にも従ったり、
甲斐源氏の武将たちに誼を通じていたりもする。
また、武蔵国内、または近隣の国の人たちと婚姻関係を結び縁戚関係は見えない糸で繋がっている。
さらに言えば、武蔵国の武士は複数の武家棟梁に仕える家人であると同時に、武蔵国の在庁官人であったり
この国にある荘園の管理者であったりもして、都の貴族や寺社にも仕えている。
中には下級ではあるが官位を得ている武士まで存在する。

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蒲殿春秋(四百七十二)

2010-04-10 23:55:01 | 蒲殿春秋
都の人々の多くは平家敗北の報を衝撃をもって受け止めた。

この都の片隅でこの噂をより深い衝撃をもって受け止めていた人物がある。
甲斐源氏一条忠頼である。

忠頼は先に木曽義仲を追討する鎌倉勢に与力して上洛し、義仲追討に一役買っていた。
だが、今回の平家追討には参陣していない。都を警護すると称して都に留まっていた。

「よもや、平家が敗れ去るとは・・・」
一条忠頼は思わずつぶやく。
「まことに・・・」
そう言って忠頼に相槌をうったのは忠頼の従兄弟にあたる同じく甲斐源氏の秋山光朝。
この両者は忠頼の上洛以前から強く接近していた。



平家強勢の噂を聞いていた一条忠頼は、日和見を決め込み西国に向かった鎌倉勢に付いていかなかった。
万に一つも鎌倉勢が勝つことはあるまいと見ていたからである。

ここで鎌倉勢と別行動をとっておけば、平家が再び都に入ったとしても、
「平家と戦ったのは鎌倉の者達、われらは義仲を討ち取ったが平家に対しては宿意が無い」
といって、都に留まり平家と共存していけると踏んでいた。
そして忠頼と光朝には平家とのつながりがある。
秋山光朝の妻は平家一門の有力者だった平重盛の娘なのである。この光朝の縁戚を辿って平家に擦り寄ろうとしていた。

その一方で、万に一つ鎌倉勢が勝利したとしても
「都を吾等が守っていた。」といって鎌倉勢の勝利に貢献したことを言い述べることができる、という逃げ道も考えていた。

とりあえず信濃の権益を巡って甲斐源氏と対立していた義仲を討てば良かった。その後のことは平家が勝とうが鎌倉が勝とうが忠頼にとってはどちらでもよい。

だが、どちらかといえば平家一門に勝利してもらったほうが忠頼の目の前にいる光朝にとっては都合がいい。
「秋山殿、これでそなたの親父殿(加賀美遠光)はますます次郎殿(加賀美長清)に肩入れするやもしれぬな。」
「さよう、次郎は鎌倉殿のお側衆にとりたてられて、いまや鎌倉殿の家の子のような扱いをうけておる。このままではわしは嫡子を外され次郎が父上の嫡子になってしまう。
舅の上総介が鎌倉殿の意で誅されたゆえ、その婿の次郎に類が及ぶと期待していたのだが、舅の意向に従わなかったということで、次郎は益々鎌倉殿の覚えがめでたい。
ということは、鎌倉殿が栄える限りわしに先は無いということだ。」

加賀美遠光の子秋山光朝は兄弟の中でもっとも平家に近い立場にある。このことは平家の勢力が強いときは幸運だったのだが、逆に今はその事実が光朝の足を引っ張っている。一方弟の加賀美次郎長清は鎌倉殿源頼朝に気に入られている。このまま頼朝の力が増長すれば光朝は確実に父の後継者の座から外される。

この時の秋山光朝は家督の継承を巡る強い危機感を抱えていた。




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蒲殿春秋(四百七十一)

2010-04-04 10:12:25 | 蒲殿春秋
客人は土御門通親という公卿だった。
範季は席を替え通親の為に上座を空けた。

「息災そうですな。」
と通親はにこやかに範季に語りかけた。
通親と範季は相婿である。
通親の妻のうちの一人は平教盛の娘であり、範季もまた教盛の娘を妻にしている。

平家が都落ちをする頃から通親は舅の教盛から距離を持ち始め、教盛が都落ちをしようとしている頃には平家と袂を分かった後白河法皇の側近くに侍っていた。
だが、相婿である範季の元にはその直後から頻繁に足を運んでいる。
範季の妻教子は通親に対してあまり良い感情を抱いていないらしくあまり顔を合わそうとしない。
が、通親はそれも意に介さぬかのように範季邸に現れる。

「平家が敗れたそうですな。」
通親は普通の世間話をするかのように範季に語りかける。そして
「ところで、崇徳院と宇治左府の祠の件はお進みですかな?」
と通親は問う。
「ここのところの混乱で遅れてはおりましたが、近く完成する見通しがたちました。」
と範季は答える。
ここ数年飢饉、火災、そして全国規模の戦乱とこの国は多難に巻き込まれている。
さらに、建春門院、九条院、皇嘉門院の女院方の相次ぐ薨去、後白河法皇への清盛、義仲による圧迫が続いた。
そして、都では後鳥羽天皇が即位したものの三種の神器は安徳天皇を奉じた平家が持ち去ったままである。
この混乱を引き起こしたのは三十年近く前に起きた保元の乱に破れ、讃岐へ流され、祈りを込めて写した経文の入京さえも拒まれ、寂しく世を去られた崇徳上皇のお怒りによるものと言う声が世の中で言われてきた。
当初はその声を無視していた宮廷社会の人々もここまで世の中の混乱が続くと「崇徳上皇のお怒り」を静めなければと真剣に考え始める。

数年前讃岐院と称されていた上皇に「崇徳」という追号がなされたが、この国が多数の災難に見舞われていたのはその後のことである。
崇徳院のお怒りを和らげる為に、保元の乱の戦いが行なわれた春日河原に、崇徳上皇と上皇と共に倒れた左大臣藤原頼長を祀る祠を作ることが計画された。
昨年末から始められようとしたこの造営も、木曽義仲の政権強奪と義仲討伐、平家討伐の影響で散々遅れていた。
その造営が再び始まろうとしている。
そしてその造営の責任者がここにいる藤原範季なのである。

範季の言葉を聞いた通親は安堵の表情を浮かべた。
「それはよろしゅうございました。崇徳院の御心が安んじられましたならばこの国の混乱は収まりましょう。
それは帝の為に大変喜ばしいことでこざいますれば・・・」
範季もその言葉を微笑みながら聞いている。

「ところで帝といえば、乳母殿にはご不自由はございませぬか。
帝の乳母と言えばそのお勤めは並大抵のご苦労ではないでしょう。
叔父御がおられるゆえ、後ろ見にお困りのことは無いかとは存じませぬが、
私も帝の恩為に何かしたいと願っておりまする。
私と乳母殿の叔父御のあなたとは幸い縁続き、何かありましたら何なりと私にお申し付け下され。」

縁続き━━範季と通盛が相婿であることから出た言葉であろう。
しかし、その縁の要である舅殿から通親は距離をおいている。そのような通親がよくもぬけぬけと言ってのける。
妻が聞いたならばそう言うであろうが、範季は表情一つ変えずに通親の言葉を聞いた。

「よろしければ、一度乳母殿にお会いしてみたいものです。」
通親はさらりと言ってのけた。

その後ありていの世間話をして通親は去っていった。

その日範季は混乱する都の情報をかき集めつつ、崇徳院の祠の造営の支度に忙殺されることになる。
妻は未だに奥に引きこもっている。

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蒲殿春秋(四百七十)

2010-04-01 05:56:59 | 蒲殿春秋
この日二月八日の午後になると平家敗北の噂は都中を駆け巡るようになった。
未の刻、範季の姪が嬉々として叔父範季の元を訪れた。
範季の亡き兄の末娘兼子である。

「北の方さまは?」
と兼子はまず問うた。
「奥におる。今は誰にも会わぬようにしておる。」
それを聞いた兼子はさらに満面の笑みを浮かべた。

「今回の戦の官軍の勝利、本当によろしかったですわ。北の方さまにはお気の毒ですけど。」
と兼子は言う。
範季は黙って静かな笑みを浮かべている。

「だって、そうでしょ叔父上。帝のことを考えると官軍に勝って頂かなくては困りますもの。」

この時この国には同時期に二人の天皇が存在するという異常事態が発生している。
平家が奉じて都を離れた安徳天皇と、都に残った後白河法皇が指名した後鳥羽天皇である。

兼子の姉範子は後鳥羽天皇の乳母であり、後鳥羽天皇が生まれたときからその傍らに常にあり現在もまだ幼い後鳥羽天皇の身の回りに心を砕いている。兼子もまた姉と共に帝の側に出入りして帝のお仕えしている。そのお仕えの心の入れ込みようは周りから見ると姉以上に見える。
その兼子からしてみればこの戦の勝敗が気にかかるのは無理もない。
平家が勝てば平家が奉じた安徳天皇は都に入る。
そうなると後白河法皇によって立てられた後鳥羽天皇がどのような扱いを平家にされるかが心配でたまらなかった。
何がなんでも官軍である鎌倉勢に勝ってもらわなくてはならないのである。

「で、神器は?官軍は平家から神器をとりかえしたのでしょうか?」
と兼子はせっつくように叔父に問う。範季は静かに答える。
「未だ不明である。」
と。
「叔父上、そういえば官軍の大将軍の一人は六郎殿(源範頼)でしたわよね。
六郎殿に早く文をやって調べてくださいな。
間もなく帝の即位が行なわれなくてはなりませわ。そうなるといつまでも神器なしでは困りますもの。
叔父上、早くお調べになって下さいましね。」



範季はそれには無言でうなずくだけだった。
その一方で範季は静かに兼子に問う。
「帝は御息災か?」
と。
「ええ、大変お元気ですわ。元気すぎて姉上がお疲れになるほどに。」
「よかった。ところで一姫(範子)も息災か?」
「なんとかここのところもってますわ。ただ、まだあの法師殿に未練があるようで時々ため息をついておられますわ。」
「そうか・・・」
あの法師殿とは、範子の夫能円法師のことである。
能円は亡き平清盛の妻時子の異父弟で現在は都落ちした平家と行動を共にしている。
範子も当時四の宮と呼ばれていた後鳥羽天皇と共に後から平家の後を追おうとしたが、弟の範光にそれを止められて都に残った。
その結果四の宮は帝にはなったものの、範子は夫と生き別れになってしまった。
現在範子は献身的に後鳥羽天皇に尽くしてはいるものの時々夫の事を思い出しては暗い顔をする。
兼子はその姉を現在叱咤激励している状況なのである。

「私は帝のお側に戻ります。神器のことよろしくお調べ願います。
六郎殿にもよしなに・・・」

兼子はそそくさと座を立った。
それと同時に女房が現れ次なる客人の来訪を告げる。

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