時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

頼朝の乳母と義朝の乳母

2009-08-31 05:31:12 | 源平時代に関するたわごと
源頼朝の乳母として知られているのは
1.比企尼 (比企掃部允の妻)
2.寒川尼 (小山政光の妻)
3.山内尼 (山内首藤俊綱の妻)
4.三善康信の伯母

がいます。ただし4.は上記三人の誰かと同一人物の可能性もあるとのことです。

その他に
頼朝が誕生した時に「乳付」をしたといわれている「尼摩々」という女性(「吾妻鏡」養和元年(1181年)閏二月七日条)も頼朝の乳母だったのではないかと言われています。
ところで摩々尼という女性ですが、「吾妻鏡」によると頼朝の父義朝の乳母として紹介されている記事があります。
(「吾妻鏡」文治三年(1187年)六月十三日条や建久三年(1192年)二月五日条)
つまり、「吾妻鏡」には頼朝の乳付をした女性と義朝の乳母であった女性として「摩々」という人物が登場していることになります。

そのようなわけで頼朝に乳付をした「尼摩々」と義朝の乳母「摩々尼」は同一人物か否かという論争があるようです。
ちなみに吾妻鏡の記載に従えば、頼朝誕生当時義朝乳母摩々尼は数え年47歳となります。

この論争のポイントの一つに
「乳付」という言葉があります。
「乳付」とは文字通りの解釈をすれば
生まれたばかりの赤ん坊に初めて授乳をさせること
となります。
すると、当時数え年47歳(満45-46歳)で出産直後とするには少し無理がある義朝乳母摩々尼が「乳付」したとは考えがたいという理解もあるようです。


しかし「吾妻鏡」の記載は、その「文字通りの解釈」だけではない「乳付」であった可能性があります。

角田文衛「待賢門院璋子の生涯」(朝日選書)の中に面白いことが書いてありました。
中宮璋子が第一皇子(後の崇徳天皇)を出産した際、「自らの手で皇子の臍帯を切り、早々に乳付された。」
と書かれています。その「乳付」という言葉に注釈があって
その注釈によると、
「ここでいう『乳付』は、初めて授乳することではなく、嬰児の口中から汚物を布などで綺麗に拭い取り、
乳が飲めるようにすることを意味している。」

つまり、このような「乳付」ならば授乳可能な産後間もない女性でなくても可能な行為なのです。

もしその意味だったならば数え年47歳の義朝乳母が生まれた直後の頼朝の「乳付」をすることも可能だったでしょう。

さて、ここまで「乳付」という言葉にこだわって義朝乳母「摩々尼」と頼朝に「乳付」をした「尼摩々」が同一人物であるか否かという点を書き連ねてきたのですが、もう数点論争のポイントがあるので書かせていただきます。

・頼朝に「乳付」をした「尼摩々」、義朝乳母「摩々尼」ともに相模国早川に住んでいて、そこの土地の管理をしていた。(同じ場所に住んでいたので二人は同一人物もしくは縁戚の可能性が高い)
・頼朝に「乳付」をした「尼摩々」は当時「青女」(年若い女性)だった。(数え年47歳は若いとは言えない)
・「摩々」という言葉は当時の「乳母一般」を指す言葉。(別人でも「摩々」と全て称される可能性が高い。)

というわけで頼朝の乳付をした女性と義朝の乳母であった女性が同一人物であったのかどうかという論争は簡単に決着のつく問題では無いようです。

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蒲殿春秋(四百七)

2009-08-30 20:47:39 | 蒲殿春秋
その日の早朝、鎌倉の蒲殿源範頼の邸では縁起物が並べられた。
そして古来より続く出陣の儀式が執り行われた。
厳かなその儀式が終わると範頼と彼に付き従う者達は妻、舅、姑、義弟たち、そして留守を守る者達に見送られて邸を後にした。
あえて振り返らない。
再びこの邸に帰ってこれるかどうかは分からない。
しかし、振り返ると二度とここに戻れないような気がする。

再び生きてここに戻ってくる、その決意があるからあえて振り返らない。

妻の瑠璃はいつもと変わらぬように見送った。
いつもと同じように見送ったならばいつものように夫が戻ってきてくれる気がした。

郎党の家族たちも夫々の想いを抱えながら夫を、父を、そして息子を送り出した。

範頼はまっすぐに大蔵御所へと向かう。

兄である鎌倉殿に出陣の挨拶をするためである。

大蔵御所に着くと今回の軍目付である土肥実平が既に範頼を待っていた。
実平と合流してから頼朝に面会する。

挨拶にきた二人を頼朝は満足気に見つめた。
「おお、六郎なかなかの大将軍ぶりではないか。」
自らが贈った錦の直垂を着こなしている弟を頼朝は誉めた。
「は!」
と範頼は返答する。

「良いか、六郎このたびの軍は何事も土肥次郎と相談するのじゃぞ。」
「はい。」
「土肥次郎、よろしく頼む。」
「ははっ」
二人は揃ってかしこまった。

「それから六郎、申し渡しておくことがある。」
「はっ」
「そなたと九郎は、わしの代官である。そして大将軍である。
此度はさまざまな者がわが鎌倉勢に与力するであろう。
中には官位や領地ではそなたたちより格上のものも参陣するやもしれぬ。
だが、忘れるな。わしは朝廷より東海東山の支配を任されているものであるということを。
そのわしの代官であるのじゃ、そなたたちは。
いかようなものが与力しようとも、朝廷から認められた鎌倉殿の代官である以上
そなたはいかなるのもの下風についてはならぬ。そなたより官位が上の者であっても、じゃ。そなたが下風に立つということはわしが下風につくと同じことじゃ。
鎌倉殿代官として常に陣中の最上位に位置せねばならぬ。
そのことを決して忘るるな。しかと肝に銘じよ。」

頼朝は瞳に強い力を込めて自らの代官となる弟を見つめた。
「はい。」
範頼は兄に気圧されたかのように返答した。
「土肥次郎もこのことを深く心に命じられよ。」
「はっ」

頼朝からさまざまな引き出物を渡された範頼と土肥実平が大蔵御所を出たときには陽がすっかり高く上っていた。

かくして鎌倉殿の代官源範頼とその軍目付土肥実平は都の木曽義仲を攻めるべく鎌倉を後にし、西へ向かった。

寿永二年(1183年)も間もなく暮れようとする頃のことである。

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蒲殿春秋(四百六)

2009-08-26 23:23:47 | 蒲殿春秋
鎌倉勢が都へ出撃せんと支度をしていたその頃、その標的となっている木曽義仲は
内外に様々な問題を抱えていた。

彼を最も悩ませていたのは比叡山の大衆の蜂起。
十一月末からおきていたこの蜂起は天台法印慈円の説得によって一旦は沈静化した。
だが、説得に応じないものたちは未だに比叡山内部において不穏な動きを見せており
中には琵琶湖に打って出て、北陸からの運上物を奪うものまであった。
都への食糧供給地であり、なおかつ義仲に協力していたものの多い北陸との交通の要衝である
琵琶湖での騒乱は義仲の力に暗雲を投げかけるものである。
比叡山における反義仲の動きには根の深いものがある。

一方義仲はこの頃平家との和睦を画していた。
だが、平家の方は和睦の応じる構えを見せながら、どこか義仲との和睦交渉を微妙にずらそうとしている。
平家の方も義仲の足元を見ている。
和睦も武力による義仲撃破双方の構えを見せているのである。
義仲を撃破したならば、後白河院政を停止した状態で後鳥羽天皇の即位を無効とし
都において安徳天皇を復権させ、平家が再び政治の中枢を握ることが可能である。
義仲を温存しても、反後白河という点では協調路線を歩むことができる。
平家はどちらに転んでも痛くも痒くもない。

だが、東に頼朝と対峙している義仲にとっては平家との和睦は死活問題である。
西からの脅威を絶って頼朝と対峙したい。
平家との和睦が進まぬことに義仲は苛立っていた。

その義仲がこの頃もっとも頼りとしているのが奥州藤原氏。
寿永二年十二月の半ば、奥州藤原氏ならびに奥州の各豪族に対して源頼朝追討の院宣が発せられた。
これによって奥州藤原氏、奥州の豪族、そしてそれに関係の深い坂東の豪族が
頼朝を攻め寄せることが期待された。

だが、その頃奥州藤原氏は坂東進出ができる状態ではなくなり
そしてさらに、奥州藤原氏と密かに通じていた坂東有力豪族上総介広常は頼朝の命によって
密かに命を絶たれていた。
そして越後では義仲がかつて打ち破った城氏が復活と遂げつつある。
奥州と坂東の情勢は義仲の思惑とは大きく外れた方向に動きはじめている。
だがその動きはまだ義仲の元には正確に伝わっていない。
そして、法住寺合戦を辛くも生き延びた院北面たちが頼朝の面前で法皇の現況を知らせ
「現在の院宣は院の本意ではない」という宣言を行い
院宣の無効を露にしたということも知らない。

寿永三年の暮、義仲はまだ坂東から押し寄せようとしている危機にまだ気が付いていなかった。

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蒲殿春秋(四百五)

2009-08-21 07:47:59 | 蒲殿春秋
いくさの支度は慌しい。
武具馬具、馬、そして兵糧と馬のえさ。
戦のいく先が遠くになればなるほど多くの支度が必要である。
今回の行く先は都である。
東国から都は遠い。

しかもここ数年の飢饉と戦乱の結果都や畿内には物資も食糧も不足している。
なるべく都や畿内から食糧や物資の挑発をしないために
従軍する御家人達は数十日分の兵糧等を持参するように頼朝から命じられている。
大軍が畿内や都から兵糧を挑発したならば義仲の二の舞になるからである。
その為、此度の出陣の支度はいつもより大掛かりなものとなってしまう。

それは大将軍源範頼とて例外ではない。
いや、大将軍だからこそ忙しいというべきか・・・
彼や、彼の従者に必要な支度の多くは範頼が本拠地を置く三河において既に行なわれている。
三河には範頼の長年の郎党当麻太郎と舅安達盛長が使わした郎党がいる。現地ではかれらが采配をふるっている。
そして主がいる鎌倉の範頼屋敷において差配を振るっているのが妻の瑠璃。
範頼の屋敷の蔵や財物の全ては瑠璃が差配しており、三河や瑠璃の領地のある武蔵からの支度の進捗具合も瑠璃の耳に届くようになっている。

範頼が土肥実平らと共に出陣に関する詳細を詰めている間も瑠璃は支度に余念が無い。
その瑠璃がここのところ凄くくたびれきった顔をしているのである。

自分の支度で精一杯だった範頼はここにきてやっと妻の異変に気が付いた。

「大丈夫か?」
「大事ございませぬ。」
と瑠璃は言うが、どうみても大丈夫には見えない。
二言三言言葉を交わすと瑠璃はそそくさと次の動作に移っていく。

その夜範頼は妻の異変の理由に気が付いた。
寝所においては出陣も近いということもあってここのところいつもより激しい求め合い方をしている。
その後範頼はくたびれて眠った。
だが、出陣に対する興奮もあってすぐに目が覚める。
ふと見ると隣にいるはずの妻がいない。

音を忍ばせて妻の行方を捜す。

すると持仏堂から明りが漏れているが見てとれた。
そっとのぞいてみると
御仏に向かって二人の女性が一心に祈っている。
妻の瑠璃と侍女の志津である。

普段なら扉が少し開いたことに気が付くはずであるが、それにも気が付かぬほど一心に祈っている。

「なにとぞ、殿に御武運を。」
「出陣するもの皆をお守りください、できましたら藤七も。」
彼女達の口からそのような言葉があふれ出てくる。

皆が寝静まった後、瑠璃と志津は毎晩こうして遅くまで戦に行くものの無事をこうして祈っていた。
ここ数日ろくに寝ていないはずである。くたびれるはずである。

範頼はそっと扉を閉めた。

夜はもうかなり更けているはずである。

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蒲殿春秋(四百四)

2009-08-19 06:08:39 | 蒲殿春秋
出陣が迫ったある日範頼は軍目付の土肥実平と共に自らが着する甲冑を眺めていた。
この期に及んでも範頼はこの甲冑を着する自分が想像できなかった。

「土肥殿、どうもこの鎧見事すぎないか?」
「と申されますと?」
「立派すぎて私には似合わないような気がする。」
と範頼は率直な感想を口にした。
範頼は普段から地味目のものを着る傾向にある。

「何をおっしゃいますか。大将軍たるものこの鎧を堂堂とまとうて頂かなくては示しがつきませぬ。
失礼ながら、蒲殿は大将軍でなおかつ鎌倉殿の弟御であらせられます。鎌倉殿代官としてはこのくらいのものを当然のこととしてまとっていただかなくてはなりませぬ。」
「しかし・・・」
「蒲殿、弓矢取るだけが合戦ではございませぬ。
戦の装束もまた戦ですぞ。
大将軍の装束が粗末ですと敵に侮られまする。また人々の口の端に上ると世の人々の失笑を買いまする。
そしてなによりお味方に侮られます。」
「・・・・・」
「武将たるもの勝つほうに味方したいというのが本音でございまする。
趨勢次第で勝てるものならばいずれにも味方する、それが武士というものでございます。
ですから、勝てそうな気配をいうものを作り出す必要がございまする。
幸い現在鎌倉殿は東国の沙汰を朝廷から命じられまた坂東においては大きなお力をお持ちです。
されど数年前まで流人であられた鎌倉殿の権威は絶対的なものではございませぬ。
情勢次第では武士達はまた誰に与力するかわかりませぬ。
ですから、いかなる手段と使ってでも鎌倉殿のお力の強さを見せる必要があるのです。」
実平は範頼をじっと見つめる。
「鎧もその一つでございます。
他の誰よりも見事な鎧を着て鎌倉殿のお力の強さをここで蒲殿に示していただきたいのです。」
「・・・・・」

「戦はすでに始まっております。敵に対する戦の前に味方をいかに従えるかという戦が・・・」

土肥実平の言葉に範頼は軽くため息をはいた。

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ps.
ここ数日夏風邪にかかって更新が遅れておりました。
体調管理の大切さを痛感させられた数日間でした。みなさまお体を大切になさってください。

この言葉の意味は?

2009-08-10 06:17:56 | 源平時代に関するたわごと
寿永二年(1183年)源頼朝は朝廷に三箇条の申し入れを行なっています。
その中にこのような文言があります。
「一、勧賞を寺社に行なはれるべき条
右日本国は神国なり(以下略)」(「玉葉」 寿永二年十月三日条)

また、一の谷の戦いの後も次のような文言の記されたものが朝廷に差し出されています。
「一、諸社の事
我が朝は神国なり、(以下略)」(「吾妻鏡」 元暦元年二月二十五日条)

最初に挙げた寿永三箇条の申し入れの後に「寿永二年十月宣旨」(頼朝の東国支配が認められた宣旨)
が頼朝に下され、元暦二年の方は平家が大きく勢力を後退させた一の谷の戦いの後の政治方針に大きく影響を与える申し入れと言えるでしょう。
つまり、いずれにせよ二つとも頼朝にとって大きな政治的意味をもつ申入れであると言えるでしょう。

この二つの申入れのなかに「神国」という言葉が記されています。
もちろん政治的な文書なので頼朝の本音はどこまでかということは分からないですし、寿永二年のほうは寺社の荘園がらみ、元暦のほうも他の条との兼ね合いもあります。

しかし、頼朝が「日本は神国」であると明言し、その言葉が朝廷のほうでも受け入れられている
という事実はあったと見るべきでしょう。

もちろん戦前散々言われた「神国」という言葉とはニュアンスもつかわれかたも
違うものであると思います
ただ、よく言われているように「神国思想」は「元寇の後から起きた」というわけでもないのかな
という疑問が私の中に湧き上がっているのも事実ですそしてどのような意味で「神国」という言葉が使われていたのかという点も知りたいとも思います。

イデオロギー的な論争を抜に冷静に「神国」という言葉を学術的に議論した場合
頼朝が記した「神国」がどのような評価が下されるのかという点が非常に気になります。

今回の記事はただ単に一つの言葉の平安末期におけるつかわれかたに関する疑問のみで深い意味はありません。
平安末期と現在では言葉一つでも違う意味がある(たとえば「きりぎりす」は現在でいう「コオロギ」をさす)
というのと同じレベルでの疑問です。

蒲殿春秋(四百三)

2009-08-06 05:57:06 | 蒲殿春秋
次の日から範頼の元に梶原景時と土肥実平が顔を見せるようになった。
勿論上洛する為に色々と話を詰めるためである。

各御家人の動員力や特徴、それぞれの出立の日付などこまごまとしたことまでこの両人はよく熟知している。
兄の言うとおり頼りになる人物のようであった。

梶原景時は二日ほど範頼の屋敷に顔を出した後直ぐに一族郎党を連れて先に出立した。
このとき景時は息子達も同行させたが、景時の嫡男景季は頼朝に強く乞うて得た名馬「磨墨(するすみ)」にまたがって西へと向かっていった。

景時が早くに出立した理由は先に尾張に滞在している範頼の弟九郎義経に合流するためである。
義経は現在尾張・美濃そして畿内の武士達に与力を働きかけている。
義経もまた範頼と同様に一軍の将となる男である。
今回の戦では景時は義経に付くことになっている。

景時父子が出立したのとほぼ時を同じくして、範頼の屋敷の侍女志津の夫藤七も都へと向かった。
藤七の主佐々木一族も今回上洛軍に加わっており、佐々木一族も義経の軍に加わるからである。
佐々木一族の一人佐々木高綱もまた頼朝から賜った「生食(いけづき)」にまたがっている。

功名手柄の野望に燃える坂東武士たちが続々と西へと向かっていく。

そのようなさなか範頼は盟友から一通の書を受け取っている。
盟友とは遠江守安田義定。
範頼とは挙兵以来の盟友である義定も兵を率いてその歩を西へと進めた。
甲斐源氏安田義定はひとまず尾張にいる義経のもとに合流する予定である。

そして、甲斐・駿河にいる甲斐源氏の面々も続々と出立する動きを見せているようである。

そして範頼自身の出立の日も近づいてきていた。

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