吉記に気になる記事がありました。
安元二年(1176年)六月十八日のことです。
「又流人等可被召返之〔由〕被 宣下、所物之者相合十五人、義朝党類并殺〔害〕父母者(常陸国司訴申能幹○)、周防国在庁等也、」(吉記六月十八日条より抜粋)
これによると、義朝党類と父母を殺した者など合計15人の流人が召し返される(赦免?)との記事になります。
合計15人の中で「義朝党類」が何人もいるか不明ですが
「義朝」に関わった人が何人か流罪になっていてその人たちが召し返されるということが読み取れる記事です。
この義朝とは平治の乱で敗北した源義朝と推察されます。
ではこの「義朝党類」とは誰でしょうか。
義朝縁者で間違いなく流罪となったとわかるのは
その子の頼朝と希義です。
しかしその二人はこの時点で召し返されていませんし
頼朝の挙兵直後の「頼朝追討宣旨」で「流人源頼朝」と明記されていますから
頼朝は例の「十月宣旨」まで「流人」であったことは明白です。
希義も治承以降に流刑先の土佐で死んでいますからその時点まで頼朝同様流人だったということになるでしょう。
では義朝に従って平治の乱に出陣した人々でしょうか。
しかし、三浦義澄、上総介広常などの参戦して無事生還した東国武士達は東国でそれなりの勢力を保っていて流罪になった形跡はないようです。
都に近い武士はといえば佐々木一族は相模に逃れ、後藤実基は義朝の娘を養育してその娘の嫁ぎ先の一条家に仕えていたようですから流罪になったとは思えません。
となると、流刑先から1176年に召し返された「流人」というのは一体誰になるのでしょうか・・・
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安元二年(1176年)六月十八日のことです。
「又流人等可被召返之〔由〕被 宣下、所物之者相合十五人、義朝党類并殺〔害〕父母者(常陸国司訴申能幹○)、周防国在庁等也、」(吉記六月十八日条より抜粋)
これによると、義朝党類と父母を殺した者など合計15人の流人が召し返される(赦免?)との記事になります。
合計15人の中で「義朝党類」が何人もいるか不明ですが
「義朝」に関わった人が何人か流罪になっていてその人たちが召し返されるということが読み取れる記事です。
この義朝とは平治の乱で敗北した源義朝と推察されます。
ではこの「義朝党類」とは誰でしょうか。
義朝縁者で間違いなく流罪となったとわかるのは
その子の頼朝と希義です。
しかしその二人はこの時点で召し返されていませんし
頼朝の挙兵直後の「頼朝追討宣旨」で「流人源頼朝」と明記されていますから
頼朝は例の「十月宣旨」まで「流人」であったことは明白です。
希義も治承以降に流刑先の土佐で死んでいますからその時点まで頼朝同様流人だったということになるでしょう。
では義朝に従って平治の乱に出陣した人々でしょうか。
しかし、三浦義澄、上総介広常などの参戦して無事生還した東国武士達は東国でそれなりの勢力を保っていて流罪になった形跡はないようです。
都に近い武士はといえば佐々木一族は相模に逃れ、後藤実基は義朝の娘を養育してその娘の嫁ぎ先の一条家に仕えていたようですから流罪になったとは思えません。
となると、流刑先から1176年に召し返された「流人」というのは一体誰になるのでしょうか・・・
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