時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

吉記 この「流人」っていったい・・・

2008-02-28 05:22:34 | 日記・軍記物
吉記に気になる記事がありました。
安元二年(1176年)六月十八日のことです。
「又流人等可被召返之〔由〕被 宣下、所物之者相合十五人、義朝党類并殺〔害〕父母者(常陸国司訴申能幹○)、周防国在庁等也、」(吉記六月十八日条より抜粋)

これによると、義朝党類と父母を殺した者など合計15人の流人が召し返される(赦免?)との記事になります。
合計15人の中で「義朝党類」が何人もいるか不明ですが
「義朝」に関わった人が何人か流罪になっていてその人たちが召し返されるということが読み取れる記事です。

この義朝とは平治の乱で敗北した源義朝と推察されます。
ではこの「義朝党類」とは誰でしょうか。
義朝縁者で間違いなく流罪となったとわかるのは
その子の頼朝と希義です。
しかしその二人はこの時点で召し返されていませんし
頼朝の挙兵直後の「頼朝追討宣旨」で「流人源頼朝」と明記されていますから
頼朝は例の「十月宣旨」まで「流人」であったことは明白です。
希義も治承以降に流刑先の土佐で死んでいますからその時点まで頼朝同様流人だったということになるでしょう。

では義朝に従って平治の乱に出陣した人々でしょうか。
しかし、三浦義澄、上総介広常などの参戦して無事生還した東国武士達は東国でそれなりの勢力を保っていて流罪になった形跡はないようです。
都に近い武士はといえば佐々木一族は相模に逃れ、後藤実基は義朝の娘を養育してその娘の嫁ぎ先の一条家に仕えていたようですから流罪になったとは思えません。

となると、流刑先から1176年に召し返された「流人」というのは一体誰になるのでしょうか・・・

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吉記 山木兼隆

2008-02-26 05:39:13 | 日記・軍記物
最近にらめっこをしている「吉記」(藤原経房の日記)。
その記事に「あの人」が載っていました。
「あの人」とは、頼朝の挙兵で一番に血祭りに挙げられた山木兼隆です。
その記事は安元二年(1176年)四月二十七日後白河法皇が比叡山に受戒に向かう御幸のところです。
そのお供の人々の中に「次廷尉二人、右尉平兼隆」とあります。
右尉とは右衛門尉の略だと思われます。
つまり「侍」身分として後白河法皇に供奉していたものと思われます。

ちなみにこの行列には関白基房や、内大臣藤原師長以下朝廷のトップクラスの人々が
ズラーッとお供しています。
その中で、法皇のお車の直ぐ側に武官としてお供していた兼隆は晴れがましい場所にいたと思われます。

さて、この兼隆ですが、治承元年(1177年)5月まで検非違使として都にいたという記録が
「玉葉」にあるようです。(「源平闘諍録」の解説より、「玉葉」のその部分は私は未読です
近く確認しようと思います。)

そうなると頼朝政子の結婚にまつわる「あの有名エピソード」の話がかなりの眉唾ものに
なると思われます。
知っている人は知っておられると思いますが念のためその「エピソード」を書かせて頂きます。

━━頼朝と政子が密かに交際をしていることが政子の父北条時政に知られることになる。
流人頼朝を婿に迎えたくない時政は一計を案じ、伊豆目代山木兼隆に政子を嫁がせることにする。
しかし、頼朝とどうしても一緒になりたい政子は兼隆との祝言の途中で
山木館を抜け出して伊豆山にいる頼朝の元に駆け込んで、その後父親に頼朝との結婚を認めさせた。━━

で、なぜこのことが「眉唾もの」になるのかといえば次のことが考えられるからです。
まず、頼朝政子の間に産まれた大姫が1178年生まれだと推測されています。
そうなるとその前年くらいには頼朝と政子は結婚もしくは交際していたのではないのかと思われます。
兼隆が伊豆に流罪になったのは1177年8月以降ですから
頼朝と政子の結婚直前にギリギリ時政や政子と接触を持つことは可能だったかも知れません。

しかし、兼隆はあくまでも「流人」として伊豆にきたのでありますから
その頃の条件は流人である頼朝と同じです。
当時の伊豆の知行国主は源頼政。頼政が以仁王の挙兵で敗死したのち知行国主は清盛の義弟平時忠に変更になります。
山木兼隆は目代として頼朝挙兵時の標的となりますが、
知行国主が変更後(それも敵対的変更)の目代ですから、頼政が知行国主だった時点で兼隆が目代だったとは
考えにくいものであると思われます。おそらく1180年の5月の知行国主変更時点で目代になったのでしょう。
つまり、1177年-1178年時点では兼隆は単なる「流人」です。

平家縁者として頼朝より優位にあったのではないかとも思われるかも知れません。
しかし一応「平」と名乗っていますが
清盛などからは血縁的にも遠く、父信兼は保元の乱では清盛から独立した軍事貴族として
参戦していますし、その後木曽義仲との戦いにおいて信兼は義経に協力した形跡があります。
また、官位も「和泉守」などの受領にすぎません。
兼隆は平家に近い存在だとは考えられません。近かったとしても平家郎党の平貞能などと同レベルです。
それに流罪になった原因が「父に訴えられた」ですから
仮に平家に近い存在であったとしても「父」から訴えられた以上
その近さも無効なものと思われます。

つまり、頼朝と政子が結婚したもしくはしようとしていた時点では
兼隆も頼朝も「流人」として似たような境遇であったわけです。
兼隆に強いて強みがあるとするならば
頼朝は十数年も流人生活をしていて、赦免になる可能性は少ないと見られていたのに対し
兼隆は流人になって日が浅く都に縁者もいることから赦免になって都に戻る可能性がまだあったというところでしょうか。

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現代語訳吾妻鏡 宗盛のお手紙2

2008-02-24 07:11:03 | 日記・軍記物
さて、もう一つ宗盛の手紙の中で気になる部分があります。

「平家も、源氏も互いに遺恨はないのです。平治年間に(藤原)信頼卿が反逆した時は、院宣によって追討がなされたのであり、(源)義朝朝臣は信頼の縁坐によって、あのようなことになったのです。これは私的な宿意によるものではなく、(平氏が)どうこうしたわけではありません。宣旨・院宣がくだされれば別ですが、そうでなければ、総じて源平両氏に互いに宿意はありません。ですから、(源)頼朝と平氏が合戦したということは、一切思いもよらないことでした。」(「現代語訳吾妻鏡」から抜粋)

この部分も平宗盛の修辞かもしれません。けれども元木泰雄氏や河内祥輔氏らによって進められた「平治の乱」の見直しという部分を考えると妙に納得させられる文章です。

というのは元木氏らによると平治の乱では
従来の
信西・平清盛連合vs藤原信頼・源義朝連合という図式ではなく

信西に対する反発や院近臣、天皇親政派など諸派渦巻く朝廷内部の争いの中
藤原信頼の主導で発生したという見方となっています。

そして、平清盛はいずれの派閥にも属さない中立派。後の政局の変化で天皇親政派と手を結んで二条天皇を六波羅に迎え入れることになります。

源義朝は数年にわたる信頼との関係の深さから協力し
義朝は信頼に対して従属的立場に立たされていた
という見方がされているようです。
さらに、義朝と共に信頼陣営に加わった源光保や源頼政と義朝の関係は提携も連合も、ましてや義朝による同族支配などは全く無く夫々独自の意思で信頼の傘下にいたということになります。

そのような見方をすると従来メインとされていた「清盛vs義朝」という点は
平治の乱における最終局面の合戦部分のみに見られるだけで
「平治の乱」の勃発という部分においてはほとんど関係ないということになります。

平治の乱に関する以前の記事

そのように見ると宗盛の手紙のこの部分は実は平治の乱の本質を突いていたではないかと思わせられる所があります。

といっても、従来中立であったはずの清盛に攻め立てられて結果的に父を殺され、自分も処刑寸前になった挙句流罪になった頼朝が清盛に対して何の遺恨も持たなかったかといえば、決してそうとは言い切れないような気もしますが・・・

さて、この宗盛の手紙の末尾に二月二十三日とありますが
これも編者注釈をみると「吾妻鏡」にありがちな日付の錯誤が記されています。
手紙の冒頭に 「本日(二十一日)」と書かれているのです。

つまりこの手紙を出した日付が三月二十一日か三月二十三日の両方が同じ手紙の転記に書かれているのです。
日付の錯誤の多いこの時期の吾妻鏡らしい現象だと思います。

前半

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現代語訳吾妻鏡 宗盛のお手紙1

2008-02-24 07:04:53 | 日記・軍記物
昨年第一巻が出ていた五味文彦・本郷和人編「現代語訳吾妻鏡」(吉川弘文館)
先日第二巻が発売されたので早速購入しました。

読み下し文のある当時の文献は(私の知る範囲では)
「全訳吾妻鏡」と「訓読玉葉」がありますが
両者を読み比べてみると「玉葉」はスッキリとして読みやすのに対して「吾妻鏡」のほうは非常に読みづらいし意味も判りにくいところが随所に見られます。
というわけで、このたび現代語で「吾妻鏡」が発行されたということはとてもありがたいことだと私は思うのです。

さて、その「現代語訳吾妻鏡」第二巻で「全訳」では見落としていた部分が現代語になって目に付くところが何箇所かあったので折に触れて(不定期に)書かせて頂きたいと存じます。

今回は一の谷の戦いの直後に出された平宗盛のお手紙です。
このお手紙は「現代語訳」の中では5ページに亘る長文となっています。
その内容は序盤は都落ちした後何度か使者を送り続けた
という後白河法皇からのメッセージに対する返事
中盤は一の谷の戦いに関しての弁明と抗議が書かれています。

目を引いたのが終盤です
「(私は)仙洞御所に日夜お仕えして以降、官職のことも、出世のことも、我が君(後白河院)の御恩にどう報いたらよいか考えてきました。しずくや塵のような小さな事であっても疎略に思ったことはありません。」(「現代語訳吾妻鏡」から抜粋)
という文章から延々と後白河法皇に対する忠誠心を書き連ねています。

そして
「この五、六年の間、洛中洛外とも安穏ではなく、五畿七道はことごとく滅亡状態にあります。(略)眼前には竈の煙も耐えて見えず、並ぶこと無い愁い、二つと無い悲しみであります。和平が成立すれば、天下は安穏となり、国土は静まり、書人は快楽し、上下の人々が歓娯することでありましょう。」
とあって末尾に後白河法皇に和平や安徳天皇の無事な帰還を保証する院宣の発行をお願いしています。

この文章を読む限りでは宗盛は法皇には忠実で戦乱によって多くの人々が苦しむのを憂いている「良い人」です。
もっとも政治的お手紙ですから文章をそのまま受け取ることはできないですし手紙を出すために文章の上手い人に書かせたでしょうから宗盛の言葉そのものではないでしょう。
けれども、このような文章が書かれたということは宗盛の意思の中に法皇に対する忠誠心と戦乱によって多くの人が苦しんでいる現状にたいする懸念があったのではないかとも思えます。
ドラマなどではとんでもキャラにされがちな宗盛ですが、実際には「いい人」だったのではないかとも思えます。
(長くなるので記事を二つに分けます)後半

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蒲殿春秋(二百十九)

2008-02-22 05:28:25 | 蒲殿春秋
一方頼朝も湛増との提携は成功したと思っている。
熊野の水軍は魅力的な存在である。
その水軍は熊野新宮が押さえている。
新宮の力が弱まり本宮の湛増が熊野水軍の実権を獲得すれば熊野水軍の協力を得ることができる。

新宮を抑える事で、伊勢と熊野の関係改善が望まれることも頼朝にとっては喜ばしい。
熊野新宮は伊勢神宮を攻め寄せて様々な破壊活動を行ない伊勢神宮は熊野新宮を敵視している。
伊勢神宮の所領は東海道や坂東に広く点在しており、伊勢の勢威は坂東まで及んでいる。
頼朝の御家人には伊勢の所領を管理しているものも少なくない。
御家人と伊勢のつながりは思っていたより深い。伊勢を敵に回すということが御家人の離反にも通じかねない。
伊勢を敵に回したくない。
その一方で、熊野の領地も南坂東には沢山点在する。熊野の領地を管理する御家人もまた多い。
熊野も敵には回したくない。

頼朝にとっては熊野と伊勢の敵対関係は困惑することでもあった。
伊勢と熊野双方と良好な関係を結ぶためにも湛増との提携はありがたいものであった。
従って熊野の実権は新宮と敵対する本宮の湛増に押えてもらい
同じく新宮を敵視する伊勢神宮と熊野の関係をなだめたい。
さすれば伊勢熊野双方と良好な関係を築け、御家人統制に大きな力となろう。

されに言えば、熊野新宮の力が弱まることによって安田義定、異母弟範頼、源行家がそれぞれに勢力を扶持している三河から行家の影響力を弱めることができる。

頼朝はこれらの目論見は上手くいったと思っている。
またこれに事寄せて、以前から多少志摩や伊賀に縁のある大内惟義を彼の地に送り込んで影響力を持たせることにも成功した。
彼の父信濃の平賀義信はここのところ、より一層頼朝に接近してきている。
いずれ自勢力が上洛を目指す際、東海道の先にあるこの二つの国を抑えていることは大きく頼朝を利するであろう。
そして、駿河、遠江を抑えている甲斐源氏を東西両側から自分の勢力で挟みこむことができるようになる。

そして、三河にいる範頼を自分の手元により一層ひきつけることができば・・・・
頼朝は西にいる異母弟に思いをめぐらせた。

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蒲殿春秋(二百十八)

2008-02-20 05:30:36 | 蒲殿春秋
さらに言えば熊野がある紀伊の知行国主平頼盛と源頼朝の縁は深いものがある。
かつて平治の乱で敗れて捕らえられた源頼朝の助命に大きな役割を果たしたのは頼盛の母池禅尼。
頼朝は池禅尼、そしてその子頼盛に大きな恩を感じている。
命を助けられ伊豆で流人としての生活をしていた頃から頼朝は頼盛とかすかな交流を持っていた。

そして、頼朝が北条時政の娘政子と結婚し、頼朝挙兵後に時政が牧宗親の娘牧の方と結婚したことで頼朝と頼盛の交流はさらに深いものとなった。
牧宗親は頼盛の母池禅尼の弟なのである。
つまり、時政は頼盛の従妹と結婚したことになるのである。
頼朝と頼盛の距離はこの二つの結婚でさらに近くなった。

この縁に湛増は眼をつけた。
頼朝の縁を通じて紀伊知行国主平頼盛に働きかけてもらい、
自分達の行動を黙認してもらう。
そして、思うがまま軍事行動を繰り広げて敵対勢力を一気に追放する。

湛増の目論見は思い通りのものとなった。平頼盛は知行国主でありながら湛増の一連の武力行使に対して何の手も打たなかった。
さらに、以前から反平家の思いがあった伊賀や志摩の人々を味方につけるよう説得するという頼朝のありがたい申し出までついてきた。

湛増の鎌倉行きは成功であった。



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蒲殿春秋(二百十七)

2008-02-19 05:49:01 | 蒲殿春秋
熊野別当湛増が鎌倉の源頼朝を尋ねた最大の理由、
それは熊野別当の座を確実に手中にせんが為、
自分の対抗者を葬るために頼朝の勢力と人脈の力を借りることであった。

熊野と一言でいってもその内部では争いがあった。
熊野三山のうち、本宮を中心とする田辺別当家と新宮を中心とする新宮別当家で
真の別当の座を巡って主導権争いをしていた。
さらに湛増がいる田辺別当家では平家に接近していた湛増の弟が田辺別当の座を虎視眈々と狙っていた。
新宮別当家は縁戚に当たる源行家を支援している。
湛増は自分もいずれかの勢力と提携する必要性を感じていた。

湛増が目をつけたのが南坂東に勢力を張る源頼朝であった。

頼朝の母の実家は熱田神宮大宮司家。そこは尾張、西三河の交通の要所を抑えている。
海を伝うと近隣と言っても良い熱田との提携は是非に欲しい。その為にも熱田に連なる頼朝との提携は必要である。
加えて湛増と対抗関係にある新宮と縁の深い源行家と頼朝の関係があまり良いものではないというのも喜ばしい。
また、伊勢に攻め込に伊勢の宮や領地を侵して破壊した熊野新宮と
その縁戚で三河国衙にいる行家のことを伊勢神宮は敵視している。
長年伊勢湾の制海権を握って熊野と伊勢は敵対関係にあったが
一年近くにも及ぶ武力を伴うにらみ合いに双方疲弊を感じ始めている。
そろそろ伊勢とは和解したい。
頼朝は伊勢神宮、及び伊勢の御厨を重んじる態度を見せており、行家に比べると
伊勢神宮が頼朝をみる目は穏やかなものである。
伊勢から敵視されている新宮一派を追放することで熊野と伊勢の敵対関係を解消したい。欲を言えば頼朝がその調停に乗ってくれるのならばさらにありがたい。

また、熊野水軍は西は九州、四国、東は東海道、坂東、奥州まで幅広い交易を担っている。
坂東は富栄えている奥州へ行くための大切な寄港地である。
その水軍の寄港地を確保するためにも海に面した南坂東の頼朝との提携は是非にも必要であった。

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蒲殿春秋(二百十六)

2008-02-17 06:29:10 | 蒲殿春秋
坂東に向かうその船団を率いていたのは熊野別当湛増。
船は真っ直ぐに鎌倉に向かった。
道中鎌倉から三河に戻る源範頼が乗る船と行き会ったのであるが双方それには気が付かない。

かつて鎌倉に文を送っていた湛増。その湛増が約定どおり鎌倉にやってきた。
鎌倉に入った湛増は直ぐに源頼朝に対面した。
頼朝は数名の人物を湛増に引き合わせた。
一人は頼朝の舅の北条時政、そして時政の舅牧宗親。
時政の上座に座す頼朝の異母弟九郎義経。
さらにその上座にいる大内惟義━━ 信濃佐久における実力者平賀義信の息子である。

その場でひそやかな話し合いが持たれた。ここに集う人々の会合は南海の戦況を変え、
さらに数年後の治承寿永の内乱の一つの決着に影響を与えることになる。

湛増は鎌倉に宿泊することなく直ぐに熊野に戻った。
湛増は坂東に下向する際、「謀反の意志はない」という文を院に送っていた。
けれども湛増が鎌倉に下向してから一月もたたぬうちに事態は急変する。

養和元年(1181年)九月二十八日。
熊野の法師達が一斉に蜂起したとの報が都にもたらされた。
蜂起した法師達は熊野内部の親平家勢力を追いだし始めた。
さらに、湛増を筆頭とする熊野本宮勢力は対抗関係にあった熊野新宮勢力に圧迫を加え熊野の実権を完全に掌握した。

この事態を重く見た朝廷は熊野のある紀伊の知行国主である平頼盛に熊野の反乱を抑えるように命令を下した。
けれども、平頼盛は一応の出陣の準備はするのであるがのらりくらりとして中々熊野に出発はしない。

そうしているうちに十月の始め頃には最後の親平家寄りの勢力行命一派が熊野から逃亡する途中、行命一人を残して討ち取られてしまった。彼等を討ち取った勢力の中には伊賀や志摩の在庁官人が混ざっていた。そしてその一団の中には頼朝の側に控えていた大内惟義の姿があった。
この後大内惟義は志摩、伊賀に勢力を浸透させていくことになる。

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蒲殿春秋(二百十五)

2008-02-16 12:40:06 | 蒲殿春秋
養和元年(1181年)八月、官符を賜った平経正、平通盛は反乱を鎮圧すべく北陸に向かった。
同年六月、越後の雄城助職が木曽義仲らの信濃勢と横田河原の戦いにおいて敗れた後北陸各地で反乱が勃発した。
若狭、越前、加賀といった北陸諸国はすぐに各反乱勢力の手に落ちた。

都の食糧の多くは北陸から入る年貢によってまかなわれている。
北陸が反乱勢力に占拠されるということはこの先も食糧年貢が都に入らず、都の多くの人々がより一層飢えに苦しむということを意味する。
農産物の収穫の時期を迎え、その年貢を確保すべく反乱を早々に鎮圧しなければならない。
でなければ、その先深刻な食糧不足が待ち構える。

東海道や坂東の制圧は後回しでも良い。
とにかく北陸道を確保することが都の人々にとって望まれることであった。

大きな期待を浴びて平経正、通盛は都を出立した。
しかし、彼らは苦戦した。
越前に入った通盛は暫くすると越前の反乱勢力に対抗できずに敦賀に立てこもらざるを得なかった。
通盛苦戦す、との報は直ぐに都に届けられた。
反乱軍鎮圧の指揮をとる平家一門は北陸への援軍を直ぐに決定した。
が、援軍を送ろうとした直後通盛が反乱勢力の猛攻に耐え切れずに敦賀から撤退してしまった。

平家は北陸戦線においては何の成果も得ることはできなかった。

この年は天候が不順であった。
畿内の農作物は大不作であった。
西国各地も大不作であった。
北陸からは食糧が来ない。
都での飢えはかなり深刻なものになっている。

都の人々は、北陸の動向に気をとられていた。
その間隙を突くかのようにある船団が坂東に向かっていた。

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登場人物紹介 (第8,9章)

2008-02-15 06:15:27 | 蒲殿春秋
源範頼 (六郎、蒲殿)
 故左馬頭源義朝の六男。
 富士川の戦いの後安田義定とともに遠江進出。
 西三河において独自の勢力を築きはじめる。
 安達盛長の勧めで鎌倉の兄頼朝の元へ行くことに。

当麻太郎
 範頼の郎党。
 いつでも主の傍らに忠実に控える。

藤七
 頼朝に仕える佐々木氏の郎党。
 なりゆきから範頼と行動を共にしていたが。

安田義定
 甲斐源氏。
 遠江、三河に勢力を持つ。
 範頼を保護しその盟友となる。

安達盛長(藤九郎)
 頼朝の流人時代からの側近。三河に縁がある。

小百合
 盛長の妻。頼朝の乳母比企尼の娘。

瑠璃
 盛長と小百合の娘。

新太郎
 藤七と安達家の侍女志津の間に産まれた赤子。

全成(禅師)
 範頼の異母弟。頼朝の挙兵後まっさきに頼朝の近くにやってきた。
 
源義経(九郎)
 範頼の異母弟。奥州にいたが挙兵した頼朝の元にやってきた。

平宗盛
 父清盛の死後平家の総帥となる。

後白河法皇
 高倉上皇崩御の後、再び院政を執る。
 頼朝のことを密かに気にかけるようになる。

藤原範季(高倉殿)
 範頼の養父。全国で反平家の挙兵が相次ぐ中複雑な立場に立たされている。

梶原景時
 源頼朝の信任あつい側近。頼朝の相談にしばしば応ずる。

北条政子(御台)
 源頼朝の妻。御台所として夫を支える。

源頼朝 (鎌倉殿、三郎)
 範頼の異母兄 
 趨勢定まらぬ坂東の地盤固めに腐心する一方、都の院勢力に接触を試みる。

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