時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

一の谷の戦いについて その3 指揮官たち前編

2010-02-27 21:59:27 | 蒲殿春秋解説
5)玉葉の語る戦い
一の谷の戦いについて同時代に唯一語っているの文献「玉葉」にはこの戦いの様子が次のように記されています。
「一番は九郎の許より告げ申す(搦手なり。先ず丹波城を落とし、次に一谷を落とすと云々)次に加羽冠者案内を申す(大手、浜地より福原に寄すと云々)。辰の刻より巳の刻に至る、直一時に及ばず、程なく責め落とされ了んぬ。多田行綱山方より寄席、最善に山手を落とさると云々。大略城中に籠る者一人も残らず。但し素より乗船に人々四五十艘許り島辺にありと云々。而るに廻り得べかりざるに依り、火を放ち焼け死に了んぬ。」
(寿永三年二月八日条 「訓読玉葉」より抜粋)

これによると、戦闘においては山手が落ち、ついで一谷、浜地(生田のこと)が落ちたということになるでしょう。
また、義経が一谷に向かう途中に「丹波城」を落としていtということも読み取れます。
この「丹波城」は「平家物語」でいうところの「三草山」にあたると思われます。

義経率いる「一谷」、範頼率いる「浜地」、そして多田行綱がいる「山手」の三箇所で戦闘が行なわれたということが読み取れると思います。
そして、戦闘は真っ先に「山手」が突破され、ついて一谷、浜地が落ちたものと思われます。

一の谷布陣図


6)指揮官たち
では、この三口を攻めた指揮者達は誰でしょうか。
浜手つまり福原の東側の生田口(現在の兵庫県神戸市中央区あたり)を攻めたのは「玉葉」「平家物語」とも「源範頼」と示しています。

一谷はどうでしょうか。
「玉葉」の記載を信じる限りにおいては
「一谷」を攻めた指揮官は「源義経」であると考えるのが妥当だと思います。
「平家物語」の記載を読むと義経率いる軍はどのように動いたか、細かい部分をつつくと分かりにくくなるのですがここはあくまでも「玉葉」の記載を信じるべきだと思います。
そして「一谷」はどこなのかと考えるならば、福原の西の入り口の現在の兵庫県神戸市須磨区あたりだと考えるのが妥当だと思います。

では、「山手」はどうでしょうか?
まず山手の場所ですが、いろいろと論争があるようですが、現在の神戸市北区から兵庫区に抜ける現在「鵯越」と呼ばれているあたりというのが一番可能性が高い気がします。
(ここで「逆落とし」が行なわれたかどうかは後ほど書かせて頂きます)

そしてその指揮官は誰だったのか?というとそれが一番わかりにくいところなのです。

前回へ 次回へ

解説一覧

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

一の谷の戦いについて その2 当時の戦闘方法、史料

2010-02-25 06:05:25 | 蒲殿春秋解説
3)治承寿永期(源平期)の戦闘のあり方
この先、具体的にどのようにして一の谷の戦いが行なわれたか書いていこうと思っていますが、その前提条件として当時の戦いがどのように行なわれていたを書かせていただきたいと思います。

まず、当時武士が行なうべき第一の鍛錬は「弓馬」でした。
つまり、飛び道具である弓矢を正確に撃つということと、馬を上手に乗りこなすということが武士にとって第一の必須要綱であったようです。

戦争において「飛び道具」がいかに有効であるかということは語るまでもないでしょう。
当時最も有効な殺傷力を有する飛び道具であった弓矢をいかに正確に射るかということが当時の武士の必須要綱であったかというのも容易に想像できます。
また、その矢の攻撃をかわすために動くには不自由としか思えないあの大鎧を多くの武士が着用していたのもわかります。

また、当時の武士の多くは馬にのっていました。
馬に乗って戦闘を行なうのです。

そうなると今度は当然相手の馬の動きを封じる方策がとられるようになります。

「吉記」寿永二年十一月十八日条に次のような記載があります。
「仁和寺宮巳下宮々并山座主、及他僧綱・僧徒、各相具武士候辻々、或引防雑役車、或引逆茂木、掘堰(以下略)」
これは、木曽義仲との戦いに備える後白河法皇に従った寺社勢力が義仲との戦いに備える支度を記したものです。

武士達を従えた僧侶たちが、車をその辺に置き、逆茂木を設置し、急ごしらえの堀を作ったという記載です。
逆茂木とは急ごしらえの柵のようなものです。
義仲との戦いに備えて進軍を妨げるバリケードを築いていたのです。

また、「平家物語」をはじめとする軍記物でも似たような記載が所々にあります。

つまりバリケードを設置して、落とし穴を作って馬が先に進めないように支度するのです。
そしてそのバリケードの中から矢で敵を射落とそうとする。
攻め手の方は、それが分かっていますから、バリケードを除去する歩兵が必要となります。

つまり、このように簡単なバリケードの設置とその除去という作業も当時の戦闘には多くみられていたようなのです。

そして「平家物語」における一の谷の戦いにおいても
東の木戸口生田口や西の木戸一の谷口にこの「逆茂木」や「堀」が設えられていたという記載があります。

つまり一の谷の戦いにおいては逆茂木というバリケードや堀という落とし穴が存在し、それを挟んだ矢の射掛けあいや、逆茂木の撤去やその逆茂木を乗り越えて行なう先陣争いがあったのではないかと推察されるのです。

4)史料について
「一の谷の戦い」について記した史料として
「平家物語」「吾妻鏡」等があります。
しかし「平家物語」はフィクションも含み、また地理的にみておかしな記載があるのでその辺りを留意しなければなりません。
一方「吾妻鏡」ですが、これは後世の編纂物であり、また「一の谷」に関しては「平家物語」の記載を無批判で流用した記載があるのでこちらも信憑性を疑わなくてはならないようです。

最も信頼できる史料は同時代に書かれた日記「玉葉」ですが、その内容があまりにも簡潔すぎるので戦闘の詳細部分を推し量るのには不都合があります。

そこで専門の方々の現在のスタンスは
「玉葉」の記載を基本にしつつ、場合によって「平家物語」や「吾妻鏡」の記載を参考にする
ということになっているようです。

そこでそのスタンスにこちらのブログも可能な限り従いたいと思います。

次回へ

解説一覧

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

一の谷の戦いについて その1 攻め手の軍事構成等

2010-02-23 05:55:45 | 蒲殿春秋解説
やっと一の谷(正確には生田・一の谷合戦または福原合戦)を書き上げることができました。
さて、一の谷というと源平合戦(正確には治承寿永の乱)最大のハイライトとも言ってもよい合戦といえるでしょう。

また、この戦いの実相については色々な意見があり未だに定説定まらずというものがありどのように書けばより正解に近いのかというのは不明です。

そのような中なんとか自分なりの「一の谷」を書くことができました。

これからどうしてこのような書き方になったのかということを書かせていただきたいと存じます。

1)鎌倉勢という表記について。
「治承寿永の乱」が「源平合戦」という言葉で言い表せるのであれば、「鎌倉勢」という表記ではなく「源氏」と表記すればいいのでしょう。
しかし、実際には「反平家」を掲げて挙兵したのは源頼朝だけでなく、木曽義仲、甲斐源氏、近江源氏、美濃源氏、尾張源氏などの源氏諸氏さらに、北陸豪族、畿内の寺社勢力、四国の河野氏九州の諸豪族など源平の氏に関わらないものまでが挙兵をしました。
これらの勢力は全て頼朝の意志に関係なく挙兵をしたものです。
つまり頼朝は「各地で蜂起した反乱勢力の中の一つ」にすぎません。また、頼朝以外に「源氏」は多数存在したのです。

そのように考えますと源頼朝率いる軍団だけを「源氏」と称することに対しては抵抗を感じます。

勿論後述するように頼朝の配下のみでこの一の谷攻撃軍が構成されていたわけではないので「鎌倉勢」と称するのも問題があるのですが、「源氏」と書くよりは私の中ではしっくりきますのであえて「鎌倉勢」と書かせていただきました。

2)攻め手の軍事人員構成

元木泰雄「源義経」(吉川弘文館)
川合康「日本の中世3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)
などでは
一の谷を攻めた軍勢は東国から上洛した者たちだけでなく、
多田行綱やその他畿内の武士を含めた混成軍だったのではないか
という説を展開されています。

「玉葉」の記載には寄せ手に「多田行綱」の名がありますし、「吾妻鏡」にさえも畿内の武士の名(佐々木成綱、俊綱)が見受けられます。
また川合康氏はその著書「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)にて「儒林拾要(じゅりんしゅうよう)」所収の廻文を紹介していますが、その内容は摂津国武士たちに期日までに都の丹波口にまでくるようにと命じたものです。そしてその召集の目的は摂津の武士達を一の谷の戦いへの参戦させるものらしい、ということです。

そのことは確かに上記の説を裏付けていると思います。

そしてこの頃頼朝は「東国の支配権」は認められていますが、畿内西国の武士達はその範疇には入っていません。
「平家追討の宣旨を受けた頼朝」に「与力」したとみなすのが妥当な所だと思われます。

また東国から従軍した軍団も全て頼朝の代官たる範頼、義経によって全て一元支配されていたわけではないようです。
一元支配に完全に応じない軍団ーそれは甲斐源氏安田義定率いる軍団です。
「吾妻鏡」でさえも、範頼・義経と義定を区分して書いている記載があります。
義定も確かに「平家追討の宣旨を受けた頼朝」に従って出陣していますが、その立場は「協力した」というものであって「命令された」という立場にはないと考えるべきではないかと思います。この頃においても義定は頼朝に対してある程度の「独立性」を持っていたものと見るべきでしょう。
ちなみにこの時点では、範頼・義経が無位無官であったのに対し、義定は「遠江守」という立場で官位の面では明らかに範頼義経より上位に位置しています。

つまり、平家がいる一の谷に対して攻撃を仕掛けた軍団の構成は

a)範頼・義経が頼朝代官として率いている鎌倉御家人
b)安田義定率いる甲斐源氏の家人
c)多田行綱ら畿内、西国の武士達

で構成されており
a)以外は頼朝にたいしては友軍的な立場にあったとみなすべきではないかと思います。

ちなみに元木泰雄氏は「源義経」の中において、軍団内において畿内武士が多くの比重を占めていたのではないかと述べておられます。

次回へ

解説一覧

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

義仲滅亡から一の谷までの年表

2010-02-21 06:04:49 | 年表
史料名 (玉)ー玉葉、(吾)ー吾妻鏡


 
日付 鎌倉上洛勢力等 その他 朝廷 平家
1月21日     摂政交替の噂(玉)戦後処理平家追討の会議(22日条)兼実に政権の話(2/1日条)頼朝に使者を出す(玉2/20条)  
1月22日             
1月23日     平家追討の方針が固まる(玉)  
1月26日 平家追討の為に出門(玉) この頃摂津の武士に平家追討軍への参集の招集がかかる* 平家追討を中止、静賢を使者として送る方針(玉)、平家追討の宣旨発行(玉2/23条)  
1月27日      使者送り中止、平家追討に動く(玉)    
1月28日 平家の使者を捕えるため義経郎党が狼藉を働く(玉)       
1月29日 平家追討の為に出立(玉、吾)    平家追討確実(玉)、義仲残党追討の宣旨(玉2/26条)   
2月1日 範頼、頼朝に叱責される(吾)追討使全て出立、山陽道を追い落とす(玉)          
2月2日 追討使大江山に留まる、土肥実平使者を送ることに賛同(玉) 院の御子と称するものが伯〇国(〇=老+日 ほうきくに)で反平家運動を行なっている(玉) 七条あたりで火事、朝廷はあくまでも平家追討の方針(玉)      
2月3日   行家都に入る、頼朝と和解(玉)    
2月4日 追討使平家に対して勢少なし(吾)       福原に入る(玉)
2月6日  このころ三草山の戦いか?          平家一の谷に引き退き伊南野に入るとの報が都に入る(玉)
2月7日 一の谷の戦い(玉)        一の谷の戦い(玉)


*「儒林拾要(じゅりんしゅうよう)」所収の廻文。川合康「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)より

前年表へ 年表一覧へ

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

蒲殿春秋(四百六十二)

2010-02-15 05:59:32 | 蒲殿春秋
生田口の将平知盛も敵の追撃の標的となった。
生田口を破られた当初は多くの武者達に守られていた。
知盛はその武者たちを先に船に向かわせた。
将として多くの兵の命を守る責任を果たそうとしたのである。
鎌倉勢は敵の大将軍を討ち取らんと身の回りの兵が少なくなった知盛目指して殺到する。
その鎌倉勢の追撃から主を守らんとして知盛の周りに残っていた武者達は身を挺して敵と戦う。
武者達が次々と倒れた。

生田口からさほど遠くないはずの浜辺に近づいた時には知盛の周りには、子の武蔵守平知章と監物太郎しかいなかった。
この三人に鎌倉方の児玉党のものたちが襲い掛かる。
児玉党の武者の一人が知盛に組みつこうと挑みかかる。
その瞬間、知章が父と敵武者の間に割って入る。

「父上お逃げください。」
そう叫びながら。
そして父の馬に鞭を当ててその馬を遠くに走らせた。
走っていこうとする馬を止めて馬首をかえそうとする知盛。
だが、その知盛と子の間に郎党の監物太郎が割って入った。

「駄目です。殿。殿はここを落ち延びねばなりませぬ。生きなければなりませぬ。」
「しかし。」
監物太郎は主の馬首をひしと掴み前には進ませない。
「殿以外に誰が内府(平宗盛)をお助けするのですか。誰が帝を御護りするのですか。
この平家を支えるのはどなたですか。どのような手立てを尽くしてでも殿は生きなくてはなりませぬ。」
そういっている間に知章は敵と必死に戦っている。

「武蔵守!」
そう言ってなおも引き返そうとする知盛。
監物太郎はその主の馬首を無理やり浜の方に向け、自分が手にする鞭を主の馬の尻に当て無理やり知盛をこの修羅場から放りだす。

走り去る馬の上の知盛。知盛は振り返る。その知盛の目に愛しくてやまぬ我が子の最期の瞬間が入ってくる。
「武蔵守!」
なおもそう叫ぶ主に対してただ一騎敵に対して立ち向かおうとする監物太郎が叫ぶ。
「殿、武蔵守様の事を思うならば生き延びてください。
殿にはまだ多くの兵達を養う責がございまする!」
「監物太郎!」
監物太郎は敵に向かって突撃していった。おそらく監物太郎も命を落とすだろう。

知盛は平家の船を見つめた。
その中には多くの兵達が乗っているはずである。

知盛は顔を上げると馬を浜に向かって走らせた。
やがて馬は海に入り力強く泳ぐ。
敵も馬を海に入れて追いすがろうとする。

しかし誰も知盛に追いつくものはいない。
知盛はその名も高い名馬井上黒に乗っていた。
井上黒は主を乗せてすいすいと船に向い追っ手をぐんぐん引き離す。
やがて馬は船の際までたどり着く。

多くの兵達が知盛の顔を見て安堵する。
知盛を乗せた船は福原から遠ざかる。
その遠ざかる福原のある一点を知盛はひたすら見つめていた。
兵達の前で涙を見せることは許されない。
命を賭して自分を逃がした監物太郎、そして我が子が戦って散った場所を見つめて知盛は心の中で泣く。
そして、平家の復活を亡き息子に誓った。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百六十一)

2010-02-13 05:15:51 | 蒲殿春秋
生田、一の谷、山手この全ての口が破られ、平家の敗北が決した。
この後繰り広げられるのは、鎌倉勢の功名争いである。鎌倉勢の多くが名の在る将の首を得ることに血道を上げる。
平家の将や名在る者達ははこの武者達から逃れるのに必死にならざるを得なかった。

まず、餌食となったのが一の谷口から逃れて生きた一の谷口の将平忠度。
芦屋の浦を目指して東を目指していたのであるが、途中鎌倉勢に追いすがられた。
追っ手に対して「味方である。」と言って偽って逃げようとしたが、
殿上人の証である鉄染(かね=お歯黒のこと)が染められてあることでこの嘘が見破られ直ぐに討ち取られた。

ついで、山手口の将平通盛。
彼も東の浜に出て船に乗ることを目指そうとした。
だが、生田口から突入してきた鎌倉勢に囲まれて命を落とす。

福原の洋上には船が浮かんでいる。
だがその船が陸からの攻撃をかわすため浜から遠い場所に浮かんでいる。
その船は逃げる平家の将たちからは遠い存在となってしまった。

生田口を守っていた将たちも逃げなければならなくなっていた。
この口の副将は平重衡だった。
一目みてわかる立派な装束は自軍の間にある間は副将としての威厳を醸しだしていた。
だがその美麗は装束は今度敗軍の将となると、功名を目指す敵を誘いだす目印となってしまう。
この装束に惹かれるのように多くの鎌倉勢の武者たちが重衡目指して追いすがってくる。

この日重衡は童子鹿毛という名馬に乗っていた。
この馬は多くの敵の追撃を振り切りながら、主を乗せて必死に駆ける。
数多くの鎌倉勢はこの走りに振り切られる。
けれどもこの童子鹿毛の力走に必死についてくる敵がいた。
生田口軍目付梶原景時の嫡子梶原景季である。

浜地に出た重衡は馬を泳がせて船にたどり着こうと海に入る。
童子鹿毛の動きが遅くなる。

その時を景季は見逃さなかった。

景季は矢を番えて放つ。

矢はうなりを上げて童子鹿毛を目指す。

その矢が童子鹿毛の頭に命中した。
童子鹿毛は見る見るうちに弱っていく。

重衡は自分の傍で馬を泳がす乳母子の後藤盛長を見た。
主の目をみた後藤盛長は何を思ったか自らの乗る馬の馬首を変えて遠くへと去っていく。
後藤盛長の乗っていた馬は主の乗り換えの馬だった。その乗り換え馬を主に捧げるのを拒否して逃げた。
乳母子に去られた重衡は仕方なしに弱っていく童子鹿毛に乗って海を進む。
しかし、童子鹿毛は中々先には進まない。
背後から敵は迫って来る。

もはやこれまでと重衡は自害の用意を始めた。

短刀を握り自らの首筋に手をかけようとした瞬間、重衡の手は何者かに掴まれた。短刀が叩き落とされる。
複数の手が重衡の体にまとわり付く。童子鹿毛から引きずり下ろされ。武具は全て奪われた。

「鎌倉殿御家人庄四郎高家と申します。平家のおん大将のうちのどなたかと推察いたします。只今より我等が将のもとにお越し願います。」
追ってを率いていた庄四郎高家はそう言うと、自分の馬に重衡を乗せた。
その高家と重衡の周囲に梶原の郎党が現れ重衡の周りとひしと固める。
体の自由と自ら命を絶つ術を奪われた重衡は、生田口の鎌倉方の陣へと連行された。

前回へ 目次へ 次回へ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百六十)

2010-02-11 12:06:22 | 蒲殿春秋
動かなくなった若武者。その若武者の鎧直垂を脱がせ、若武者の首をつつもうとする坂東武者。
その直垂の中から戦場に似つかわしくないものが現れた。
それは錦の袋に包まれた見事な笛だった。

昨日先陣を争って前夜から平家の陣に入り込んだこの坂東武者は敵陣から優雅な笛の音が流れているのを聞いていた。
その笛の音を出していたのがこの若武者であるということをこの坂東武者は悟った。

やがてこの坂東武者はこの笛の名が小枝、その持ち主で彼が討ち取った若武者の名が
無官大夫平敦盛━━ 平経盛の末子で十七歳であったことを知る。
功名手柄にはやる坂東武者熊谷次郎直実も、この瞬間だけは戦うということの空しさを感じていた。

一の谷口を守っていた大将軍平忠度はこらえきれずに東方に向かって走り去っていった。
海に逃げることのできぬ兵達も将につづくかの如く東に向かう。

が、しかし功名にはやる坂東武士たちも彼等の後を追う。
坂東武士達が目指す功名、それは名のある将の首を上げることである。

一の谷口の壊滅は湊川沿いで必死に抵抗していた平通盛らの戦いを妨害することとなった。
必死の思いで西から落ちてくる一の谷口の武士たちは通盛らを助けることはせずひたすら逃げることのみに専念した。
逆に、その兵達に追いすがっていくる一の谷口の鎌倉方の兵達を連れてきてしまった。

その兵達は平通盛、越中次郎盛俊に襲いかかかる。
兵達に襲われた平通盛はこらえきれずに湊川を放棄して東へと向かう。

越中次郎盛俊は名うての武者である。
盛俊はなんとか留まって鎌倉勢と戦いを挑んだ。
剛勇で知られた盛俊はよくこらえて戦った。
だが、最後は一の谷口から突入してきた猪俣小平太によって討ち取られてしまった。

かくして一の谷口、山手口は完全に鎌倉勢の手におちた。

この事態を生田口の将平知盛、平重衡がすぐに気が付くことがなかった。
彼等は生田口の鎌倉勢大手との戦いにばかり気をとられていた。
矢の補給をすべく大和田泊の船に使いを出したが、その使いの戻りが遅いのは多少気にはしていた。
そのとき船団の一部が炎上していたのに気が付いていない。

そのうち背後がなにやら騒がしくなってきた。
最初は矢の補給が来たのかと思った。
しかし様子がおかしい。

ふと背後をみると、西側のあちらこちらで火の手が上がっている。

そのうち、東国なまりの声が多く聞こえるようになってきた。

知盛はこの時になって、一の谷口か山手口が破られたことを知った。
事態を知った知盛は兵の一部を背後に迫る敵に当てることとした。
平家の軍勢も最初は背後から迫るこの鎌倉勢をよく防いだ。

だが、その防御が崩れるときが来た。

平家の矢種が尽きたのである。

方や西から現れた鎌倉勢は早々に戦線を突破したため矢を十分に持っている。
矢を持つものと矢を持たないものの戦いの勝敗は目に見えていた。
背後から迫る鎌倉勢に生田の平家は徐々に圧倒されていく。

そして、矢種の喪失はこれまでよく防御していた生田口の逆茂木をも打ち破ることになる。
矢を怖れる必要の無くなった生田口の鎌倉勢は次々と歩兵を繰り出して逆茂木の破壊を始めた。
その破壊された逆茂木の向こうから坂東の騎馬武者が現れる。

背後と前面の鎌倉勢の猛攻を受けた生田口の平家の陣も壊滅した。


前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百五十九)

2010-02-08 22:58:35 | 蒲殿春秋
一の谷口の平家軍は早くも壊滅状態となっていた。
側面の奇襲と背後からの攻撃を受けているところに、前方から続々と敵兵が侵入してきたのである。
鎌倉勢は炎をかけながら殺戮を繰り広げる。
悪七兵衛景清、越中次郎兵衛盛嗣などの累代平家に仕える猛者たちは何とか踏みとどまり鎌倉勢と組み討ちを挑む。
しかし、この一の谷口にいた兵の多くは近隣から集められた駆り武者の方が多い。
自軍が不利と分かると、蜘蛛の子を散らすかのようにこの戦場を去っていく。

一の谷口に上がる炎を見た海上の平宗盛は兵達を救済すべく小船を須磨の浜に出すよう命じた。
しかし、この救出作戦は見事に外れた。
命助かりたい駆り武者や雑兵が将たちを放り出して真っ先に小船に乗り込んだ。
一つの小船に多くのものが飛び乗った。
そのため転覆したり沈む小船が後を絶たない。
先に乗り込んだものは自分の命を守るため後から乗り込もうとするものを蹴落とした。
そうやって辛うじて転覆を免れた小船に乗ったものだけ船団に乗り込んだ。
弓や刀では死なない者の多くが海に命を吸い込まれていった。

この船への人々の殺到は一人の平家公達の命を奪った。
三草山から只一人福原に戻った平師盛である。
師盛は早めに戦線を抜け出して小船にのって平家の船団を目指した。
命助かりたいと必死に飛び乗った大男によって師盛が乗っていた船は転覆した。
鎧に身をつつんでいた師盛は沈みそうになる体を必死にこらえて波間を漂っていた。
そこへ、東国武士が馬を泳がせて追いすがってきた。
その武者によって師盛の命は奪われた。まだ十四歳だった。

須磨の浜でも一人の若武者が命を落とした。
その若武者が浜辺に来たときには既に小船は殆ど浜にはなかった。
そして船団は沖合いへと去っていく。
遠ざかっていく平家の船団に向かって必死に馬を泳がせている一人の若武者。
上等な鎧直垂を着し、金作りの太刀をはいている。
その若武者はひたすら海に向かって馬を泳がせる。
だが泳がせても泳がせても味方の船に追いつくことはできない。

その若武者を呼び止めるものがいる。
扇を振って浜辺へ戻れと呼び止めている東国の武者一人。
我と戦えという意思表示をしている。
若武者は浜へ戻った。
戻るとすぐに組討ちが始まった。
若いとはいえ公達育ちの少年は、血で血を洗う闘争を繰り返してきた坂東武者には叶わなかった。
すぐに坂東武者に組み伏せられた。

功名にはやる坂東武者はその若武者に止めを刺そうと刀を抜いた。
坂東武者は今討とうとしている敵将の顔を見る。
その時坂東武者の手は一瞬止まった。
討たれようとしている若武者が討とうとしている坂東武者の子と同じ年頃に見えたからである。
━━ 助けてやろうか?
そのような思いが一瞬坂東武者の脳裏によぎる。

だがその時この坂東武者と同様に功名手柄にはやる男達が背後から次々とやってくる。
「御免!」
というと坂東武者は若武者の首に手をかけた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百五十八)

2010-02-04 22:02:41 | 蒲殿春秋
その頃生田口を守る平家の将平知盛は不安を覚えていた。
生田の逆茂木の向こうからやってくる矢の数が一向に減らないのである。

━━ 敵は一体どのくらいの装備をしてきたのか?
ふと弱気が心の内を通り過ぎる。

一方こちらの平家方はといえば矢種がもう尽きようとしている。
逆茂木が騎馬の行く手を阻もうとも、矢が来ないとなれば敵は徒歩の者を使って逆茂木をどける。
矢があるからこそ逆茂木の破壊を防げるのである。

一方生田の東の鎌倉勢も敵の矢種を気にしていた。
生田口の中に進入したくとも逆茂木が騎馬の行く手を阻む。
その逆茂木をどけなければその先へと進めない。
だがその逆茂木をどけようと歩兵を近づけるとその向こうから矢が歩兵目掛けて飛んでくる。したがってうかつに歩兵を逆茂木に近づけさせることができない。

歩兵を守りながら集団になって敵地に侵入を試みるのだが中々逆茂木を撤去するまでには至らない。
そのような戦いがもう既に一刻以上続いている。

だが、矢というものは無尽蔵にあるわけでない。
しかも敵は三方を山に囲まれたところに籠もっているのである。
矢が尽きたら補給はむずかしい。
敵の矢の数が急に減少した時、それが突入の頃合となろう。
源範頼も、梶原景時も、そして大手に属する多くの御家人達がそのように考えている。
そこで、わざと敵地に近づいては期を見て引き返して敵になるべく多くの矢を撃たせるように図っている。
なるべく早く敵の矢をなくす為に・・・

しかし、範頼と景時は敵に補給の可能性があることを懸念している。

大和田泊に浮かぶ平家の船団の存在が気にかかるのである。
船は多くの物資を載せることが可能である。
その船に大量の矢種があるとしたならば陸上の平家にそれが補給される。
そうなると平家が放つ矢が尽きるまでには相当の時間がかかる。
逆にこちらの矢種が尽きるであろう・・・

平家方、鎌倉方からは未だに多くの矢が放たれる。
生田口では戦線が完全に膠着している。

一方その頃福原の中央部の湊川近くでは異変が起きていた。
山手口からの敵の侵入を許した平通盛であったが、通盛は手勢を率いて攻め寄せる安田義定や多田行綱らと戦っていた。

だが、その戦いの側をするすると通りすぎる一隊があった。
最初に山手口を落とした攻めて今湊川で戦っているのは山手口の先陣にすぎない。
細い山道を通って行軍する軍勢である。
あとからあとから細い道の向こうから新たなる軍勢が現れるのである。

その後続の軍勢は平通盛には目もくれずに湊川を南に下る。
やがてその軍勢は大和田泊の近くに達する。
彼等は弓の射程距離内に平家の軍船を捕えた。

平家の軍船は平家の赤い旗をなびかせている。
その旗に向かって山から現れた軍勢は一斉に火矢を放つ。
あわてて軍船からも矢が放たれるがその矢を掻い潜るように騎馬武者は走っていく。
そして一番近い船に火矢を、そして松明を投げ込んだ。

大和田泊の近くに泊まっていた船が何艘か炎に包まれる。

それを見た他の船たちは一斉に綱を引き上げ沖へと逃れていく。

船団の損傷を最小限に引き下げるためである。
しかしこのことが平家一族にとって大きな悲劇を産むことをこの時は誰も予想していなかった。

福原陣立て 戦闘開始後1

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百五十七)

2010-02-03 20:58:45 | 蒲殿春秋
一気に崖を下り落ちる騎馬武者たち。
恐怖を必死の思いで抑えながら下へ下る。途中わずかばかりの平地があり武者たちはいったんそこで休息を取る。
彼等は上を見た。
先ほどまで自分達がいた場所が後ろの絶壁のかなた上にある。
もう上には戻れない。だがまた同じ恐怖を味あわなければ下にたどり着くことは出来ない。

疲労と恐怖にあえぐ武者たち。

そこに朗らかな声が一つ鳴り響く。
「この程度の坂、大したものではないわ。
我が三浦等はこのような坂は日頃馬場の如く駆けておるわ。」
相模国三浦一族の一人佐原義連の発した言葉である。
舟が多く出入りする海と急峻な山を抱える三浦一族にとって急な坂は身近な存在である。

その一言を発して周りの者達を励ますと今度は佐原義連が先頭を切って崖を下り始める。
義連に誘導されるが如く他の武者達も下へと下り始める。

やがて崖の終点が目の前に迫る。

崖を下りきらぬうちに義経率いる一隊は鬨(とき)の声を高らかに上げる。
彼等の発する声は崖を伝って大きく広がり、何千騎もいるかのような声に広がった。

突然の鬨の声に平家方は驚く。
その方角を見るとありえない場所から武者たちが降ってくる。
その近くにいたものたちは何が起こったのかわからなくなっている。
呆然としている平家の兵達に矢の嵐が飛んでくる。

その嵐の向こうから今度は炎の波が押し寄せてくる。
下ってきた敵が火を放ったのである。

たまらずに逃走を始めるものが一人二人とでてくる。
その逃走者たちはやがて集団となっていく。

側面からの不意打ちに動揺する平家方の武者たちは今度は背後からの敵に脅かされる。
一の谷を固める平家勢の背後に回りこんだ別働隊の主力がこの動揺に付け込むかのように一気に攻撃の手を強めたのである。

義経率いる別働隊の主力と険しい崖を下ってきた遊撃軍に翻弄された一の谷口の平家勢は混乱に陥った。
西の木戸口では、未だに土肥実平率いる一の谷攻め主力と戦っている最中だった。
しかし、やがて後方の混乱の影響が現れてくる。

その様子を知った土肥実平は総攻撃の指示を出す。
櫓と逆茂木に固められている一の谷の西の木戸口は鎌倉勢によって一気に打ち破られた。

福原陣立て 戦闘開始後1

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ