時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(百六十一)

2007-08-30 05:21:54 | 蒲殿春秋
戦いが始まった。

信濃勢の総力を結集していたとはいえ
大軍を誇る城助職の本隊との戦いは義仲軍にとって圧倒的な不利であった。
ひとり、またひとりと味方が討ち取られていく。

信濃の兵に弱気が感じられた頃
義仲の盟友井上光盛の檄が飛んだ。
「怖れるな、敵は大軍といえども、駆り武者じゃ。
吾らは、深く信濃に根を下ろし、固い絆で結ばれたもの同志。
駆り武者などおそれるに足らぬ」
こう叫んで士気の高揚を図る。

そして、義仲に耳打ちをする。
「わしに秘策がある。どうじゃ、わしに任せてくれぬか?」
義仲は静かに光盛を見据える。
「どのような秘策か?」
「まあ、みておれ、木曽殿は大船に乗った気持ちでわしのすることを見ておればよい。」
光盛は不敵な笑みを浮かべた。
「いずれ合図を出す。その合図がでたら一気に城助職の陣へ攻め込めまれよ。」
それだけいうと、井上勢は密かに義仲の脇からすっと抜け出した。

井上光盛が率いる一手は密かに城助職の陣の裏へ回り込んだ。
そして、平家の軍の印である赤旗を掲げて何食わぬ顔で助職の陣に近づく。
助職の配下のものは、光盛を味方と信じて疑っていない。

助職の本陣を囲む形で作られた堀を井上勢が全軍越えた時だった。
光盛は持っていた赤旗を突如投げ捨て、源氏の象徴白旗をパッと掲げた。
そして、名乗りと挙げ突如城助職本陣の中で敵を打ち倒し始めた。

赤旗が突如白旗に変わったのが光盛の合図だった。
この光景をみた義仲軍は勢いづき一気に城助職の陣へと攻め込んだ。

陣内部に突如現れた敵と、正面から押し寄せる敵に
城氏の兵は浮き足立った。
まず、越後から国衙の命令で半ば無理やり連れてこられた兵は
逃亡を始めた。
その逃亡が戦意あるものの行動をふさいだ。
戦意有るものと逃亡するものの混在は、陣中を混乱させる。
助職本軍はもはや統制がきかない。

混乱に、勇猛な信濃勢の攻撃が拍車をかける。
城助職の軍は、壊滅した。
助職は混乱をかいくぐってやっとの思いで越後へと引き換えした。

数万の城氏の大軍は数千に過ぎぬ信濃連合に破れたのである。

*駆り武者━ 国衙から臨時に徴収された兵

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蒲殿春秋(百六十)

2007-08-29 07:29:59 | 蒲殿春秋
一方城助職は広く兵を集めていた。
自らの国衙の権限を握っている越後は勿論、出羽国、陸奥国会津からも
助職に徴兵された者もいた。
さらに、反平家勢力に追い出され、越後に逃亡していた笠原頼直など信濃国の親平家豪族たちも助職に従った。
助職の兵は総勢四万ほどの大勢力となっていた。

一方迎え撃つ信濃の義仲の軍は数千足らず。
先日、甲斐源氏にも従っていた諏訪大社の勢力が新たに加わり
さらに甲斐からも援軍が届くとの話もあったが
城助職に対しては圧倒的に兵力が不足している。

大軍を迎え撃つべく準備している木曽義仲。
兵数が圧倒的に不利なのを知りながら、義仲の態度は冷静沈着そのものであった。

信濃に太陽が高く照りつけ、夏の日差しが山々を射抜く頃
城助職は越後の国境を越えた。

信濃勢は襲い来る大軍に対してよく持ちこたえていた。
しかし兵力の差はいかんともしがたい。
徐々に信濃勢の防衛線は後退を余儀なくされた。

城助職の主力は千曲川沿いの横田河原まで進んできた。

木曽義仲と井上光盛はこの知らせを聞き
横田河原に滞在する助職本隊と戦うことを決断した。

後世、武田信玄と上杉謙信が数回に渡って合戦を繰り返した川中島とほぼ同地域にあたる地━横田河原で、決戦の火蓋が落とされようとしていた。

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蒲殿春秋(百五十九)

2007-08-28 05:26:21 | 蒲殿春秋
頼朝の懸念、それは北陸の情勢であった。
城資永の急死で一旦は回避された越後からの進撃。
だが、越後勢の信濃侵攻は資永の死で完全にあきらめたわけではない。

資永の後を継いだ弟城助職が再び信濃を攻略すべく出兵の準備を始めているという。

信濃は現在は頼朝の勢力の範疇外である。

しかし、信濃には頼朝の協力者平賀義信がいる。
彼が信濃からにらみをきかせていることで
情勢の変動で動揺しがちな武蔵の豪族たちが今のところ頼朝に従っているという所も大きい。
信濃がもし城一族の手に落ち平賀義信が信濃を追われ
城一族が信濃を足がかりに甲斐や武蔵が攻め込ば、頼朝の南坂東の基盤がたちまち瓦解する。
さらに、和平工作を進めているがそれに対する回答をはぐらかしている奥州藤原氏、
その奥州藤原氏の密やかなる支援を受けていると思われる
常陸の佐竹氏が越後の動きを受けてどのように出るか判らない。

城氏の直接的な脅威を受けている信濃や南上野では問題はもっと深刻であった。
信濃諸豪族は、城氏の侵攻に備えて兵を集めている。
信濃は山国である。
山々の険しさに阻まれて、その間に点在する盆地に小規模な豪族がいくつもひしめいている。

今までは彼らを統合する大勢力というものは存在しなかった。
けれども、城氏の脅威に対して信濃反平家勢力は力の結集を余儀なくされた。
力の結集をするにはそれを束ねる人物が必要となる。
その人物としてここにきて急浮上してきた人物がいる。

木曽義仲である。

彼の初戦である市原の戦いにおいて見事な勝利を収めて以来
その後の大小の戦いで親平家勢力を次々を撃破し
彼の勇名は信濃中にとどろいていた。
さらに、彼はその父義賢が生前勢力を張っていた西上野の諸豪族を味方につけていた。
義仲は小規模な豪族が多い信濃の中では随一の勢力を誇るようになっていた。

その義仲に真っ先に協力を申し出た人物がいた。
井上光盛である。
かれも信濃の中ではかなりの規模を誇る。
この二者の連合に規模の小さい信濃の豪族は次々と参入を申し出た。

信濃は木曽義仲、井上光盛の連合に急速に統合された。

信濃反平家勢力の中にはその統合を内心良く思っていないものもいる。
信濃で蜂起した源氏諸派と義仲に血筋も面での優劣の差はない。
義仲と競合できる諸源氏は沢山いた。
しかし、彼らは尾張源氏の失敗を知っている。
一旦は源行家に収束されていたものの、
その後夫々に自分の勢力の拡大を目指して統合性を欠き
統一した軍事作戦をとることができずに
墨股で破れた尾張源氏。

その二の舞は避けなくてはならない。
とにかく信濃反平家勢力は一つにならなければ各個撃破されて壊滅するのである。
城氏は強大である。
その強大に対抗するには今回だけでも信濃反平家勢は一つにならなくてはならない。

信濃で反平家を掲げて夫々挙兵し群立している勢力は
一旦は義仲に従うことにした。
だが、平賀義信のように、配下の者が義仲に従うことを容認しても
自らは赴かないというような消極的協力者がいたことも事実である。

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蒲殿春秋(百五十八)

2007-08-25 05:09:53 | 蒲殿春秋
伊勢から拒否され、義定・範頼からもはかばかしい答えを得られなかった行家は
今度は単身鎌倉に乗り込んだ。
鎌倉には南坂東を押さえている甥源頼朝がいる。

頼朝の母の実家は熱田大宮司家。三河国額田郡は熱田大宮司家の支配下にある。
頼朝に外戚熱田大宮司家へ口を利いてもらい、
そこから額田郡の住人の協力を得て三河支配の建て直しをしようと行家は考えていた。

しかし頼朝は行家の申し出をにべ無く断った。
頼朝とて、熊野勢が伊勢に対して行なったことを知っている。
その結果熊野を背景にもつ行家にたいして伊勢神宮が冷淡であることも知っている。
頼朝とて伊勢を敵には回したくない。
伊勢神宮領を預かる坂東の住人は伊勢に対して崇敬の念を強く抱いている。
ここで伊勢神宮から忌避された叔父に肩入れして、伊勢神宮領を預かる御家人を失望させたくはないのである。

一方で異母弟範頼が三河で人望を集め始めていることも耳に入っている。

ろくに顔を合わせたこともない叔父よりも、
幼少時何度か同じ時を過ごしたことのある
異母弟が三河のおいて勢威を振るい、いずれ彼が三河の実権を得るようになる
そうなったほうが、頼朝にとっても都合がいい。

頼朝は叔父行家に次のように語った。
「各地で挙兵した源氏一族は自分の力で領地を得てきました。
叔父上もご自分の力で頑張って下さい」
頼朝に拒否された行家は寂しく三河へと戻っていった。

行家を冷たく突き放した頼朝。
その頼朝にはまた新たなる懸念が生じていた。

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蒲殿春秋(百五十七)

2007-08-24 05:58:49 | 蒲殿春秋
安田義定が尾張に慎重に兵を進めていた頃、
今まで行方をくらませていた源行家がひょっこりと三河に舞い戻ってきた。

行家は何食わぬ顔で三河国府にはいり、
従来どおり三河の政を采配しようとした。

国衙の役人の中には一部行家が国府にはいることに難色を示すものもいたが
行家はそれを無視して、建物の中に入り矢継ぎ早に指示を出し始めている。
墨股の敗戦、暫くの間の自身の不在
それがなにもなかったかのように振舞っている。

その態度が実に堂々としているので国衙の役人も唖然としながらいつの間にか従ってしまっていた。

かくして国衙を再び手中に収め始めた行家であるが
三河国の住人たちの態度が従前と違うことにすぐに気が付いた。

まず、伊勢の御厨に住するものは露骨に行家を完全に無視、もしくは敵視している。
他の三河の者たちも理由をつけて国衙に顔を出さなくなっている。

特に伊勢の御厨の住人の反発は行家にとって深刻な問題となっていた。
三河には伊勢の御厨が多い。
その住人の反発を呼んだということは行家の三河支配に大きな影を落とすことになる。

ここに来て行家は三河における「伊勢神宮」の影響力の大きさを思い知ることになる。
そして、自分の基盤である「熊野」が「伊勢」と対立していることが
ここ三河にも大きな影を落としていることを知る。

事態を改善すべく行家は多大な宝物を添えて、願文を伊勢神宮に奉納した。
しかし、熊野に攻め込まれ並々ならぬ損害を被っていた伊勢神宮は
行家の願文の受け取りを拒否した。
行家の背後に「熊野」がいることを知っていたからである。

伊勢に拒まれた行家は最初に自分を支援してくれた安田義定を頼ろうとした。
しかし義定は出陣中を理由に行家の使者に会おうともしなかった。
次に西三河に滞在してその地の人望を集めつつある
源範頼に接触を試みた。
元々伊勢領蒲御厨にいた範頼は叔父ではあるが行家に対していい感情を持っていない。
それに、範頼は行家の三河における凋落傾向を嗅ぎ取っていた。
自分がその凋落に付き合ういわれはない。
安田義定への援軍準備を口実に行家の接触をやんわりと断った。

叔父甥の関係に引きずられることも無く、付くべきではない相手の申し出を断った
範頼を見て、範頼の優しすぎる性格を熟知している郎党当麻太郎は満足した。

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蒲殿春秋(百五十六)

2007-08-18 09:31:40 | 蒲殿春秋
安田義定は数日の間矢作に陣を張っていた。
そこに尾張に滞在していた平重衡が都に戻ったとの知らせがもたらされた。
義定は、尾張の情勢を再度探らせた後、兵を率いて矢作川を越え西へと進んだ。

一旦矢作川まで押し寄せた平家。
その平家に乗っかる形で勢力を回復していた尾張の親平家勢力の脅威を
できるだけ潰しておく必要がある。
彼らの勢力を潰すことは三河の安泰に通じる。
義定は慎重に兵を進めた。

義定が兵を進めることができた背景には坂東の情勢が落ち着いたこともあった。

奥州勢の襲来、城資永の脅威により坂東は混乱に陥り
源頼朝は一旦鎌倉を捨て安房へ逃れることを余儀なくされた。

しかし、城資永の死を契機として頼朝は危機を脱した。
資永の死で越後の城氏の信濃侵攻は中止され、
機を合わせて南下していた奥州勢は兵を奥州に戻した。

頼朝はこの機を逃さなかった。
上総介広常、千葉常胤らと共に再び鎌倉に向かう。
その間、武蔵の豪族に再び自軍への与同を求めた。
与同を求める際、頼朝は次の言葉を必ず付け加えた。

「一旦離反したものでも再び帰順すれば所領を保証する。
私は、院に反逆するつもりはない。院の敵を打ち払うのみである。
また、私はみ仏の味方である。
東大寺を焼き払った平清盛はたちまち死に、清盛に従った城資永も急死した。
清盛に味方する者、清盛とその遺族に立ち向かうものどちらに神仏の加護があるか
よく考慮されよ。」
と。

神仏の力が真剣に信じられていた時代である。
後世の人がスイッチ一つで電化製品が動くのを知っているのと同じ感覚で
当時の人は神仏の加護と罰を信じていた。
南都を炎上に至らしめた清盛の死は「清盛に下った仏罰」と捉えられていた。
城資永の急死が「仏罰」の恐怖を倍加させていた。
常に死が隣あわせにある武者たちはより一層神仏の存在を感じていた。
勇猛な彼らも死が身近なだけに常のものより神仏の加護を強く願い、罰を恐れる。
また彼らは二十年に及ぶ頼朝の流人生活の中での神仏に対するその信仰の深さをよく知っていた。
「み仏の加護と罰」この言葉の意味は大きい。
まず、信仰の面で武蔵相模の豪族に頼朝は圧力をかけた。

坂東の豪族には院領、女院領を預かるものも多い。
彼らは院、女院の家臣でもある。
院の保護を主張することは院領女院領に住する者の好意を呼び寄せる。
母方や乳母を通じて後白河院、上西門院への人脈を持つ頼朝のこの主張は説得力があった。
この頃治天の君が後白河法皇であったことも頼朝にとっては幸運だった。
平家と意志を一体としていた高倉上皇とは違い、
後白河法皇と平家との間には間隙があることを東国武士達は知っている。

一方頼朝は現実的な方策を決して忘れてはいない。
上総介広常の婿となっていた加賀美長清を呼び寄せた。
長清は富士川以後頼朝の側に近侍していた。
頼朝は彼に一通の手紙を書かせた。
彼の父甲斐源氏加賀美遠光とその盟友信濃佐久に住む平賀義信に武蔵への出兵を呼びかけるようにとの内容である。
遠光らはその要請に応じた。
武蔵の豪族たちへ軍事的圧力をかけたのである。

こうして、心理的攻略と信濃甲斐からの圧力を受けて
武蔵相模の豪族たちは再び頼朝に帰順することを選択した。
佐竹氏の残党がふたたび跋扈している常陸の情勢は未だに不穏である。
だが、武蔵相模の豪族を帰順させた頼朝は再び南坂東を支配下におさめ
石橋山直後と同じ道のりで再び鎌倉へ入ることができたのである。

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範頼の兄弟について その6(義円)

2007-08-16 05:25:21 | 蒲殿春秋解説
久寿2年(1155年)生?(「平治物語」)
幼名 乙若(「平治物語」)、別名 円成
父 源義朝 母 九条院雑仕常盤(「尊卑分脈」他)
兄弟順 父を基準に考えれば八男説濃厚

同父同母兄弟 全成、義経(「尊卑分脈」他)
異父同母兄弟 一条能成(「尊卑分脈」他)、女子(「吾妻鏡」)

妻 愛智郡司慶範禅師娘(「尊卑分脈」)

経歴
父義朝が平治の乱で敗死した後、
後白河法皇皇子八条宮円恵法親王に仕えるようになる。
その間に、尾張で一定の勢力を持つ愛智氏の娘と結婚したものと思われる。
治承五年、叔父源行家らと共に尾張墨股にて平家と戦い
その戦で戦死した。


通説では、尾張に出向く前に鎌倉の頼朝の元に駆けつけ
頼朝から一千の兵を貰い受けて尾張に向かったとされている。

しかし、当時の頼朝の実際の勢力は南関東を支配下においたに過ぎず
(それも絶対的支配をしていたわけではない)
駿河以西は甲斐源氏の支配下にあった。
そのような状況を考えると、頼朝が援軍を尾張に出す状況にあったとは思えない。

義円は妻の縁を頼りに都から直接尾張に行き、自ら築いた独自の勢力を率いて
叔父行家と合流したと考えるほうが自然だと私は思う。
(小説もどきでは、頼朝の間接的支援は空想で書きましたが・・・)

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この時期の玉葉

2007-08-15 05:17:22 | 蒲殿春秋解説
この前は治承五年一月から三月にかけての「吾妻鏡」の信憑性が疑わしいということを
書かせていただきました。
この時期について他に書かれている史料には「玉葉」がありますが
これについての信用性はどのようなものでしょうか?

確かに坂東は都から程遠く、著者九条兼実自身「浮説が多い」と記しています。
また、日付が一日違うだけ正反対のことが書かれていたりしています。

しかしそれだけで「玉葉」の記事が信用できないと決め付けるのは性急のような気がします。

例えば「四月二十一日条」では、
坂東を実際に見てきた人から話を聞いたりしています。
また、内乱の影響で連絡がとりにくくなっているとはいえ
摂関家の所領も東国に多数あります。
それなりの情報が兼実の元にもたらされていたと思われます。

ですから、混乱した情報の中にも真実に繋がる部分が「玉葉」には隠されているのではないのか
と思うのです。

例えば
この時期「武蔵の人で頼朝に背く者が出た」という記載が多数見受けられます。
風聞が多いとはいえ、この記載の多さは少し気になります。
後の結果を見て多くの人が抱いている
「坂東の人は挙兵直後からことごとく頼朝に従っていた」という
思い込みを捨ててこの「玉葉」の記載を読んでみると
「玉葉」の文面通りの受け取れないとしても
武蔵国では、その頃何かしらの混乱があったのではないか
頼朝の力が絶対的なものではなかったのではないか
という推測もできるのではないのかと思います。

少なくとも
故意か過失かわからないですが
「違う時期の出来事の誤記」を有する
「吾妻鏡」より「玉葉」の記載の方がより真実に近いものを示しているような気がします。

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ちょっとマニアックになってしまったので

2007-08-13 08:56:59 | 蒲殿春秋解説
このあたりのことを書いているとかなりマニアックな話になってしまったので
結局何が言いたいのか判らなくなってしまうと思います。

そこでこのあたりのことを要約してみます。

通説
1)源頼朝が1180年8月に挙兵してから瞬く間に東国を制圧して
東国では絶対的な力を持っていた。
(その後、頼朝によって平家が滅ぼされる)
2)頼朝は源氏の嫡流で他の源氏諸氏を従えていた。

それに対する個人的見解
1)1180年に挙兵したものの
源頼朝の坂東における力は絶対的なものではない。
坂東各地に未だに頼朝に従わないものも多数存在し
頼朝の基盤は決して安定したものではなかった。
少なくとも1181年の段階では頼朝は従来考えていられるような強力な存在だったわけではない。

2)頼朝は他源氏に比べると多少有力な存在ではあったが
諸源氏はそれぞれ独立した勢力で頼朝の意志に従っていたわけではない。

ということを言いたかったわけです。


付記

通説を裏付けていた「吾妻鏡」の記載は
1181年 2月 鎌倉勢 遠江出兵  (実は1183年2月)
1181年 閏2月 野木宮合戦 (実は1183年2月)
    (常陸志田義広、下野足利俊綱 vs 源頼朝勢力(小山朝政等)
    これにより頼朝の東国の支配は強固になったと考えられていた)
1181年 3月 源頼朝 甲斐源氏武田信義を屈服させる (どうもウソくさい)

となっていましたが
色々調べてみると「吾妻鏡」のこの一連の記載は
この時期の事実ではなかったらしいor曲筆
というのが前回の内容の要約です。

次回もマニアックな話が続きます。

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吾妻鏡への疑問 治承五年

2007-08-13 08:01:11 | 蒲殿春秋解説
吾妻鏡治承五年(1181年)一月から三月の主な記事を並べてみると次のようになります。

日付 記事
1月1日 源頼朝鶴岡に参拝
1月 志摩国、伊勢で熊野の者と合戦
2月 河内で反乱した石川氏、および美濃源氏の敗北と敗将の処罰の記事
2月27日 平家が尾張に入った為、安田義定頼朝に援軍の要請※1
2月28日 頼朝援軍を遠江に派遣※1
2月29日 菊池隆直、緒方惟能等九州にて反平家の挙兵※2
閏2月4日 平清盛死没
閏2月10日 四国伊予国河野通清反平家の挙兵の風聞※3
閏2月20日~28日 野木宮合戦※4
3月7日 頼朝、武田信義を鎌倉に呼びつけて詰問、信義を屈服させる※5
3月10日 墨股合戦


しかし※1から4の記事はこの時期に起こった事件ではないようです。
夫々の記事のは次のようなことを考えると吾妻鏡の記載には編纂時に時期の誤謬があったと判断できそうです。

※1この記事によると、平家本軍は尾張にすでに侵入していることになる。
 しかし、「玉葉」の記事から読むとこの時期の平家は美濃に滞在していて
 尾張には入っていない。
 つまり、この記事に記載されている平家、頼朝の動向は墨股合戦に備えての動きとは捉えがたく
 別の時期の平家の東進に備えての頼朝軍の動きを吾妻鏡が誤記したものと考えるべきである。
 ではこの安田義定の通報→頼朝遠江への援軍派遣をいつのことであったのかといえば
 下記の野木宮合戦に連動した動きと考えるべきである。
 下でも書いているが、野木宮合戦は治承五年(1181年)の出来事ではなく
 寿永二年(1183年)の出来事であることが証明されている。

※2九州の反平家の動向は実際には前年の治承四年に始まっている。

※3伊予河野通清の反乱も前年治承四年に始まっている。

※4志田義広が源頼朝と敵対して小山朝政らの活躍で義広が敗北したこの事件は
 実際には、1183年の出来事であったことが石井進氏によって証明されており、
(『志太義広の蜂起は果たして養和元年の事実か』「中世の窓」11号、1962.11)
 野木宮合戦1183年説は現在広く支持されているようである。

また※5に関しては次のような見解を持つことも可能なのではないかと思います。
 この記事は武田信義に対して頼朝を討つようにとの院の下文が出された(閏二月七日)との噂を受けて
頼朝が信義を鎌倉に呼びつけて、信義を屈服させた(と読み取れる)との内容です。
閏二月七日に院御前で東国反乱軍に対する会議が開かれ、それにより何らかの下文が出されたのは事実でのようです。(玉葉)
だが、この時点で頼朝が信義を呼びつけて屈服させる力があったかどうか大いに疑問があります。
上記の野木宮合戦は実は二年後の出来事で、この時点では常陸・下野は頼朝の傘下には入ってません。
また、この時期の頼朝を巡る状況をみると「玉葉」を信用するならば
地盤であるはずの武蔵、相模でも頼朝に背くものがあり、北方の奥州藤原氏の脅威が増大していたようです。
実は1181年初頭の頼朝の勢力は通説で考えられているものより小さいと思われます。
そのような状況下で頼朝が武田信義を屈服させる力を持っていたとは思えません。
下文が事実であったとして、信義に怪しい動きがあったとしても
頼朝が呼びつけて信義を屈服させることは不可能だったと思います。
同盟軍武田信義に同盟の継続を懇願していたということならばあったかも知れませんが。
つまり、この頃は武田信義等の甲斐源氏は未だに頼朝とは同格の同盟者としての地位を保持していたものと考えるべきだと思います。
(この記事に関しては金澤正大「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と「甲斐殿」源信義―『吾妻鏡』養和元年三月七日条の検討―」『政治経済史学』165,227号 1980.2,85.6
において詳細な考察がなされています。)

このように※のついた記事内容は、内容自体は嘘ではないが事件の起こった時期が異なるものだったり、内容の一部に曲筆の可能性があるものです。

ということで、※の部分を抜いた吾妻鏡の年表を作成してみますと


日付 記事
1月1日 源頼朝鶴岡に参拝
1月 志摩国、伊勢で熊野の者と合戦
2月 河内で反乱した石川氏、および美濃源氏の敗北と敗将の処罰の記事
閏2月4日 平清盛死没
3月10日 墨股合戦


となります。
※のものを抜くと「玉葉」などで同様のことが書かれており
「吾妻鏡」独自の記載はほとんどありません。
他に、梶原景時の参上、足利義兼らの結婚、所領等をめぐるいざこざの記事などが多少ありますが
それらの記事も時間的誤謬を考えると本当にこの時期の出来事かどうか疑わなければならないかも知れません。
いずれにしても
「吾妻鏡」には、
この時期坂東を巡る大きな動きはほとんど何も記されていないことがわかります。

つまり、「吾妻鏡」の一月から三月までの記事はほとんど「空白」同様と考えても良いのではないかと思われます。

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