時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

河内源氏系図1

2006-06-28 21:08:56 | 系図
河内源氏系図1
ただし、一部省略してあります。

清和天皇
 |
(略)
 |
 為義-+  
    |
    -+-義朝---+--義平(母 三浦義明娘)
     |(母 上総介  |
     |  忠清娘)  +-朝長(母 波多野義通妹)
     |         |    
     |         +-頼朝(母 熱田大宮司季範娘)
     |         |
     |         +-希義(母 熱田大宮司季範娘)
     |         |
     |         +-義門(母 不明) 
     |         |
     |         +-範頼(母 遠江国池田宿遊女)
     |         |
     |         +-全成(母 九条院雑仕常盤)
     |         |
     |         +-義門(母 九条院雑仕常盤)
     |         |
     |         +-義経(母 九条院雑仕常盤)
     |         |
     |         +-一条能保室(母 熱田大宮司季範娘)
     |         |
     |         +-女子(母 青墓長者大炊) 
     |      
     |      
     +-義賢------+-仲家
     |(母 六条大夫    |
     |    重俊娘)    +-義仲     
     +-義広
     |(母 六条大夫重俊娘)
     |
     +-為朝
     |(母 江口遊女)
     |
     +-行家
      (母 熊野別当家娘) 



二大勢力について

2006-06-25 08:00:54 | 源平時代に関するたわごと
競合関係にある二つの勢力があると
その二者は同等かそれに近い状態だとつい思いがちではないでしょうか?

実際イギリスやアメリカは二つの政党の競合関係にあり
時々政権交代が行われますから
多少の勢力の変動はあってもほぼ同等の力をもつ二つの政党に
リードされている状態といっていいでしょう。

けれどもこのようなケースがあります。
コーラのシェアの話です。
コーラはほぼC社とP社の寡占状態にありますが
一時期の市場のシェアはC社が8割を占めていたそうです。

事情を知る現代の人々はこの状態を当然のこととして受け止めますが
もし、事情を知ることの出来ない時代の人ならば
P社とC社のシェアは同等とつい思ってしまう場合ものあるのではないでしょうか?

このように競合勢力が二つある場合、必ずしも対等な条件ではないということが多々あるようです。

実は源平の関係もそんな様子だったようです。
平治の乱における清盛と義朝の勢力の不均衡
坂東における頼朝に当初から味方していた勢力
木曽義仲と平家の戦いにおける平家の人数的な優位
壇ノ浦の頃の平家の勢力と源氏軍の優位
など
よくよく調べてみるとまったく均衡ではありません。

その他政治的背景などをみると
色々と不均衡が浮き出てきます。

この辺も調べてみると本当に面白いと思います。

常盤について

2006-06-24 23:45:24 | 蒲殿春秋解説
[常盤御前] ブログ村キーワード
さて、小説のほうで登場した常盤さんについて解説したいと思います。

この時代に詳しい方からみると「あの有名な話」が全然入っていないと
思われる方もあると思います。
そのことも含めて書いていきたいと思います。

常盤はあの有名な源義経の母親です。
最初は近衛天皇中宮の呈子(後の九条院)に仕えていました。
仕えていたといっても女房ではなく、
炊事洗濯などの「お半下仕事」や雑事を行う「雑仕女」
という地位で貴人の側近くで重要任務や文化活動を行う「女房」からみれば遥かに地位は低く貴人の家の中では発言権はほとんど無い存在でした。
(近年発売された保立道久「義経の登場」ではその見解に疑問を投げかけていますが、
この保立説は論拠が弱いように私は感じます。
機会があったら、その件に関しては別途書かせていただきます)

そんな常盤は義経の父義朝の愛妾となり
今若、乙若、牛若(後の義経)の男の子三人を儲けます。

さて、ここからが「俗説」の有名な話です。

平治の乱で義朝が敗死すると、常盤は三人の子供を連れて大和へと雪の中逃亡します。
暫く身を潜めていましたが、常盤の母が平家の手に落ちて常盤母子の行く先を
たずねるためひどい目にあって殺されるかもしれないと聞きます。
母を救うため常盤は子供達を連れて六波羅へ出頭します。
そこで、清盛に母の助命嘆願をします。
常盤の美しさに目がくらんだ清盛は
殺そうと思っていた三人の子供達を出家を条件に許すことを決め
常盤を自分の側室にしてしまいます。
そして、清盛の娘を出産した後
大蔵卿一条長成と再婚します。

さらに、もっと後の話になると
自分の体を差し出すから子供達の命を助けるように
清盛に嘆願したという話になってます。

初稿 2006.6.24

続き

続々・常盤について

2006-06-24 13:41:32 | 蒲殿春秋解説
2)清盛の側室にされて女の子を産んだこと
ですが、これに関しては安田元久氏などから疑問符が出されました。
現在も、その件に関しては確定的なことは言われていません。

清盛の側室となって常盤が廊の御方と呼ばれた女子を産んだということの
ソースは「平治物語」「平家物語」と「尊卑分脈」ですが
まず、「平治物語」は散々書いている通りフィクション性を疑わなくてはならない代物であること
特に常盤の話はかなり疑ってかからなければならない部分であるということがあります。
「平家物語」も同様です。
一方「尊卑分脈」も有名な系図ですが
乗っている人の生存時から記載されているわけではなく
南北朝時代に古文書などをめくって編纂されたものなので
その内容はそのまま事実として受け取れないものであるそうです。
事実諸本と照らし合わせると誤謬が出てくる部分もかなりあるそうです。

そこで清盛の娘「廊の御方」に関しても
「尊卑分脈」の編纂者が「九条院雑仕の常盤」を母とする清盛の娘を
最初は「花山院兼雅室」に当てはめようとしたところ
どうも年代があわないので
「廊の御方」を作り出したのではないか
というように言われています。

このように、清盛と常盤はそういう関係になったのかどうかははっきりせず
娘の存在そのものも疑問視する向きもあるのです。
さりとて、否定する絶対的裏づけもないので微妙なところです。

現在も、その件に関しては闇の中なのであえてこの清盛と常盤の件は無視しました。

3)一条長成の地位
俗説ではよく常盤に飽きた清盛がぱっとしない公家一条大蔵卿(長成)に
下げ渡したという言い方をされています。
けれども、この言い方はどうでしょうか?
1163年には常盤は長成の子を産んでいます。
その頃は清盛は政界においては実力者ではありますが
完全に全権を掌握したわけですありません。
「下げ渡し」という言葉は適当ではないでしょう。
そのような事実があったとしても「再婚紹介」というべきでしょう。
ましてや、清盛が常盤をモノにしたか事実かどうかの確定もされていません。

さて、常盤の立場で見るとこの結婚とどうでしょうか?
長成は(関係があったとした場合)清盛よりは格下ですが
義朝よりは長成の方が格上です。

義朝 平治の乱直前の官位 従五位上左馬頭兼下野守 
    (父は長年従五位にもなれなかった為義)
長成 1160年には従四位下 大蔵卿
    (父は参議に就任した忠能)

この後長成の出世は止まりますが
省のトップ大蔵卿の方が省の下に存在する寮のトップ左馬頭より格上です。

つまり、常盤の個人的な感情とは別問題のところですが
彼女は義朝より社会的に多少上の人物と再婚したことになります。

それに女性の個人的な感情の問題でいえば
(当時の風習からしてあまり気にしなかったかもしれませんが)
いくら大切にされていても多くの女性を妻妾にして
あちらこちらに通いまくっていた義朝に比べると
他に女性の影が見えない長成(あくまでも見えないだけですが)
この辺りの環境はどうでしょうか?

長成との結婚は常盤にとっては「下げ渡された」というような
屈辱的なものではなく
普通の再婚だったような気がします。

さて、本文でも長成さんは今後も多少見え隠れする予定です。
また、常盤の再婚話は別の機会に何か書いてみたいと思っていますが
現在の小説がどこまで続くか私にも予想がつきません。

書く機会があったらお付き合いお願いします。

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続・常盤について

2006-06-24 11:36:23 | 蒲殿春秋解説
さて、私はこの俗説に逆らうような形で小説の中で彼女を書きました。
なぜそう書いたのかといえばこの俗説に疑問をもっているからです。

疑問を持っている点
1)常盤の美貌に心動かされた清盛がその息子達の助命を決めたという話
2)清盛の側室にされて女の子を産んだこと
3)一条長成の地位

1)についてです
まずは、この話の元になっているものは
「平治物語」と「義経記」ですが
後者に関しては、「フィクション性がかなり高い物語」ということですので
この軍記物の内容に関しては物語としてみるならばいいけど史実と信じてはいけない話だと思ったほうがよいでしょう。
「平治物語」に関してもこれも物語ですからフィクション性を疑わなくてはなりません。
しかも、現在多く流布しているものは成立年代の古いものより「フィクション性」の高さを一層疑うべきです。
さて、近年日下一氏の研究で
「平治物語」下巻の中の常盤母子の話は元々の「平治物語」に組み込まれた
別の物語でだったのではないかという
文学的見解が示されています。
つまり、この部分は元々軍記ものに多少は含まれる「事実の記録」の部分からは少し隔絶した部分である可能性が高いのです。
こういったち面から「軍記物」ソースの一連の常盤の話は
物語からしてみれば美しいものであっても事実性は疑ってかからなければならならい代物である思います。

次に政治史的な断面から考えて見ます。
まず、「平治の乱」については散々以前にも書いていますが
この乱は「源氏と平家」の争いではなく
「信西排除」運動や「院政と天皇親政」の派閥争いなどが複雑にからんたものです。
そして、結果藤原信頼や源義朝はその中で負けカードを引いてしまい
「朝廷に対する謀反人」として処断されてしまったのです。
この件に関してはこちら
および
本文十七

その遺児たちの処分は当然「朝廷の処断」に委ねられるはずで
戦鎮定の功労者である清盛の意思は多少は反映されるでしょうが
当時の彼の力では最終決定権を持たなかったと思います。
頼朝が死罪を免れて流罪に留まったのは
清盛の意志が反映されている可能性は多々ありますが
決定したのはあくまでも「朝廷」です。

そして、常盤の子供達は「流罪」にすらなっていません。
頼朝を流罪に決定した朝廷は「律令」の規定に従い
頼朝を「死一等を減じて流罪」にしているのです。
ところが常盤の子供達の処置は「寺入り」です。

「寺入り」は律令の罰則としては何の規定もありません
彼らは死罪を免れて減刑されたわけではなく
最初から律令の刑に服する可能性はなかったのではないでしょうか?
彼らが元服前だったという点が考慮されたかもしれないという話もあるかもしれません。
しかし、元服前でもその気があれば元服させて流刑にすることは可能です。
知盛などは八歳では既に元服を済ませています。
今若は八歳でした。
現に一つ年上の希義は元服前でしたが「流刑にする為に元服」をさせられました。
信頼の遺児信親は五歳でしたが成長してから流刑が執行されました。
年若くても、流刑にしようと思えば流刑にはできるのです。

なぜこのような処置になったのか。
もしかしたら常盤の子供達に対する清盛の個人的な措置だったのかも知れません。
けれども、寺に入れば武士とは関係なくなるからという理由でしょうか?
いえ、源頼政は以仁王を担いだときは既に出家していました。
また、このとき出家させられたとされる乙若は結局行家と共に
墨股の合戦で出兵し命を落とす羽目になります。
皇族は出家をすると皇位から遠ざかりますが
武門のものが出家したら武士ではなくなるとは限らないのではないでしょうか。

つまり、源氏の復活を怖れての措置とは言いがたいような気がします。

それ以前に朝廷の無縁のところで清盛が常盤の子供達を殺すことが可能だったとしても、
子供達を殺す必要性が本当にあったのでしょうか

どうしても、気に障るのならば
頼朝を流刑地に刺客を送って殺す、常盤の子たちは目立たないところで殺す
というくらいのことはもう少し清盛が権力を得たならばすることができたと思います。
(平治の乱の少し後、謀反容疑で流罪にされた源光保父子は流刑直後謎の死を遂げています。黒幕は誰かは知りませんが)

もうすこし考えてみたいと思います。
平清盛にとって源義朝一族がどのような存在だったのでしょうか。
平治の乱の頃の清盛一族と義朝の地位は雲泥の差があり
義朝は清盛からみればさほど障害になるようなライバルではなかったようです。
清盛が本気で叩き潰さねばならぬ相手は、むしろその背後にいた信頼だったかも
知れません。
この件に関してはこちら

ただし、「軍事貴族」という面からみれば
義朝は多少目障りな相手という部分もあり乱で消えてくれてラッキーという部分
はあったかも知れません。
けれども、全力をつくしてその遺児を根絶やしにしなければならならい
存在なのかといえば当時の彼らにはそんな価値はなかったのではないかと思います。
後に頼朝らによって平家が滅ぼされる歴史を知っている我々からしてみれば
あの時彼らを抹殺しておけばこんなことにはならなかった
と思うでしょうが
その当時誰がその未来を想像したでしょうか。
バブル時代に踊らされた我々がその先の想像をしていなかったように。

この乱によって義朝一族の軍事貴族としての基盤は完全に壊滅してしまい
まず復活は考えられない状態になったようです。
(義朝の軍事動員の背景には彼の都における基盤が必要でした
詳しい背景はこちら)
頼朝が流罪になったときも累代の郎党が死んだか心変わりをしてだれも付いてこないので同情した平家の家人が郎党を貸してくれたという有様で
このことを頼朝が後々まで恩に感じていたというほどの状況です。

それに元々義朝の力は清盛にはるかに及ばないものだったので
その遺児たちがどうなろうが別にかまわない
という程度の存在だったのではないのかと思います。

先ほども書いたとおり
任官済み嫡子の頼朝でさえ助命され
その後も対して警戒されていなかったのではないかと思われますので
それよりも幼く、母方の力も弱い常盤の子供達は
そんなに血眼になって探してどうこうする必要すら
なかったのではないかとさえ思われます。
少なくとも、頼朝の処遇が決定した後は
命の危険というものはなかったのではないでしょうか。


ですから、「出家を条件に助命」というお話自体がおかしいと思うのです。
彼らは最初から、刑罰に処させる可能性が無かったし
清盛が義朝の男系を根絶やしにする考えも無かった
考えるべきではないでしょうか。

つまり、常盤が美人でそれに心を動かされた清盛が とか
体を差し出して子供達を助命という話は
「物語」としては面白いのですが、事実であったとは考えがたいのです。

参考 本文十八

6/27 大幅に加筆修正させていただきました。

前文
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蒲殿春秋(三十五)

2006-06-22 21:47:51 | 蒲殿春秋
母・・・・今まで範頼があえて考えなかった存在。
心の中からあえて遠ざけていたもの、思うことさえも無意識のうちに自ら禁じていた。
母というものを考えれば自分がどうなるか判らなかった。
考えることが怖かった。
けれども自分の心の中の大きな空白はそれを避けては埋められないだろうとも
どこかで知っていた。

今日「母」というものと「母を憎む子」を見て
あえて目をそむけていた それ が心の中に浮かんでくるのを止めることができなかった。

幼い頃の記憶
母上ってなんだろう
母上ってみんなにいるものなの?
ねえ、乳母、乳母は母上じゃないの?

父上、母上ってどんな人だったの
父上そんな顔しないで。
ごめんなさい、もうこの話はしません。

鏡を見つめる。
母上ってどんな顔していたんだろう。
私の眉は父上ににているけど口はにていない
にていないからこの口は母上とおなじかな?

「母上」
いつの頃からか口にだすことの無くなったこの言葉を範頼はつぶやいて眠っていた。

それからしばらくの間範頼の口数は極端に少なくなっていた。
当麻太郎が心配している。
ある時には誰が見ても無茶としか思えないほどの回数弓を引きつづけた。
「殿、程というものがございます」
という当麻太郎の忠告にも耳も貸さなかった。

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蒲殿春秋(三十四)

2006-06-21 21:53:38 | 蒲殿春秋
「悲しい話ですね」
姉が語り終わった後の長い沈黙をやぶるかのように範頼が言葉を発した。
「そうね」姉は半ば涙ぐんでうつむく。
その姉の涙には深いものがあるように感じられた。

けれども言葉を発したものの範頼はその「悲しい話」を実感として味わうことが
出来ていなかった。

━━━ 母とはどのようなものなのか?

二十二歳になるまで母というものを一切知らずに来てしまった。
抱かれた記憶もなければ、顔さえも知らない。
匂いも、声もなにもかも・・・

範頼にとって母とは実体のないものであった。

十五歳で死に別れるまでその母と共に過ごした姉。
そして、今三児の母になろうとしている姉。

そんな姉には全成の寂しさや母に対する複雑な想いも
母としての常盤の心情を実感として思いやることができるだろう。

けれども自分は・・・


部屋に戻ると常盤はまだうなだれていた。
そして、延々と後悔の言葉をつぶやき続ける。
黙ってそれを受け止める姉。

とても自分が入り込めそうにない二人の女性の会話から逃げるように
範頼は姪たちのところへ相手をしに行った。
そして、あえて自分が疲れるほど子供達と遊んでから帰路についた。

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忠臣二君に仕えなかったわけではない

2006-06-17 22:22:29 | 源平時代に関するたわごと
時代劇でよく「忠臣二君に仕えず」という雰囲気や
お家大事、忠義大切というイメージがありますが
平安末期から鎌倉初期にかけては必ずしもそうではないようです。

ぶっちゃけた話
「こんなに使えない主君なら仕える必要はないや、この人やーめた」
ということが実に堂々と行うことが出来た時代なのです。

また、いま書いている小説で時々出てくる範頼の主
藤原範季は「院の近臣」でありなおかつ「摂関家の家司(家来)」
なのであります。
つまり堂々と複数の主人を持つことができたのであります。

それはいかんぞ!
と主張を始めたのが源頼朝です。
つまり、当時としては彼の方が常識破りだったわけです。
鎌倉殿に仕える御家人は鎌倉殿以外の主をもってはいけません
と言い始めたのです。
されど彼の主張は最初から受け入れられたわけではなく
「官位を勝手にもらわないで」という命令も判らない御家人も大半でした。
なにしろ彼らも鎌倉殿の御家人であると同時に
それぞれの荘園領主に仕える身分でもあったのですから。
(ちなみに荘園領主の出兵命令にも従う義務もあつたようです)

それに、頼朝の足元も足元、大江広元さえもあの曲者源通親との
縁がつよく彼の推挙で官位をもらっていました。

そして、関東地方の御家人はなんとか頼朝の主張
(自分があなたの唯一の主、他のえらいさんに話を通すのも鎌倉殿)を受け入れる方向にいったのですが
西国の方はうまくいかなかったようです。
なにしろ、西国の方の御家人の統制は守護に名簿を提出すればそれでよい
という緩やかな拘束権しかなかったですし
頼朝がそうしたかったけどできなかったのか、最初から西国が眼中になかったのかはわかりませんが。

複数に主人を持つのが当たり前の時代
それに、
「こんな主人いーらない!」
と言われたら御家人の方から三行半をつきつけられても
文句は言えない鎌倉殿でした。

そんな状況の中
鎌倉殿のみに御家人の意識を集中させて、
その頂点に何十年も君臨し
「ただひとりだけの主君に仕えさせる無謀なる挑戦」
に挑み半ば成功させた頼朝はやっぱり偉大だと思います。
もっともそうしなれば、各御家人達は
「鎌倉殿も主だけど、あの人も私のあるじ
鎌倉殿とあの人が対立したら私はどっちについたらよいのでしょうか?」
という事態に陥り
鎌倉幕府は瓦解してしまったでしょう。
(承久の乱の西国の御家人が都方になったのは上記のような状況があったから
だとも言われています。)
それに、彼のこの無謀なる挑戦がなかったならば
江戸時代の美しい主従関係が完成していたかどうかは微妙なところでしょう。

ちなみに、
「忠臣二君主に仕えず」という言葉は
その後一部の人々にはみえたものの実際には利害の関係でよく
主をかえまくった時代が続き
江戸時代になって普遍的になったようやく定着したのではないかと思われます。

蒲殿春秋(三十三)

2006-06-17 11:04:20 | 蒲殿春秋
全成━今若は激しく慕っていた父が死んだという事実すら受け入れることが出来ないうちに
わずか八歳という幼さで母とも突然引き離されて寺に入れられることになった。
出立の日、母にしがみついて「行きたくない」と抱きついたが
母に「あなたは寺に行かなくてはならないのです」と説き伏せられて
泣く泣く母や弟達と別れた。

俗世とは離れるはずの寺の社会は
実は親族の俗世の地位や権力に大きく左右される所だった。
名門貴族の子弟は寺での待遇は良く、僧侶としての地位は早いうちに上昇する。
けれどもそうでない者は低い地位に留まり待遇も現状のままを受け入れるしかない。

上昇気流に乗る平清盛の推薦をうけているとはいえ
実は先の平治の乱で謀反人として敗死した源義朝の子ということは
早々に寺中に知られるところとなった。
当然今若の待遇はよろしくない。
次第に仲間はずれにされたりいじめられたりするようになった。
今若は耐えた。
自分がここで負けたら亡き父や必死に生きている母が悲しむと思ったから。

辛いことの多い寺での生活であったが
年に数回許される宿下がりが唯一の楽しみだった。
母の常盤もなんとか都合をつけて、祖母の住む粗末な家で共に過ごすようにした。
父の在世中とは違い何もかもが貧しかったが
それでも、母と過ごす日は本当に心癒されるものだった。
時々訪れるこの日を糧に今若は寺での生活を耐えた。

けれども今若に衝撃が訪れた。
宿下がりの日着飾った母が今若を引き取りに来た。
母がある男と再婚したことは手紙で知った。
でも母は母であるからと自分を納得させていた。
けれども、今会う母は自分の知っている母とは何かが違うと感じた。

実父義朝が母に与えた屋敷以上に豪華な義父長成の屋敷。
寺では決して味わうことの出来ない珍味の数々。
上等な衣装にくるまれた弟達。
鷹揚そうな母の新しい夫。
その母の夫から餞別に豪華な品々をもらったけれども
いつも母からもらっていた豊かに満たされた心を寺に持ち帰ることはできなかった。

それでも、母の再婚が今若にもたらしたものは大きかった。
寺での待遇が突然よくなった。
今まで今若をいじめていた者たちも媚びるような態度をとるようになった。
けれども今若はなぜかその態度をみても苛立つだけだった。

そのうち宿下がりは今若にとっては苦痛なものとなっていった。
母が変わっていく。
自分の知っている母ではなくなっていく。
弟達は母の新しい夫を「父上」と呼ぶようになった。
誰が父上だ。
おれの父上は、あの父上しかいない。
たとえ謀反人と呼ばれても、もはやこの世にいなくてもおれの父上はあの方しかいない。
おれに命を与えてくれたあの人だけがおれの父だ。
自分は他の男を父とは呼ぶものか。

弟達と母はあたらしい母の夫とともに別の世界へ行ってしまった。
おれはひとりぼっち。

母があの男の子供を腹に宿した?
新しい弟か妹?
認めたくない。

寺の片隅で兄弟子が女にしていたこと。
兄弟子は「こうやって子供ってできるんだぜ」と
その現場を見てしまった今若に不敵に言葉を投げかけた。
ひそかに見てしまったあの行為をあの男と母はやったのか?

見てはならないものを見た今若は混乱していた。
尊かった母が急速に崩れ去っていく・・・

久々に宿下がりをして見る、新しい「弟」をあやす母。
その母のもとに新しい母の夫がやってきた。
その夫を見る母の目は「妻」であり「女」であった。

そんな目であの夫を見るのはやめろ!
あの男とあんなことをしたのか。
あなたはおれの父以外の人にそんな目をむけてはいけない。
その瞬間今若は叫んでいた
「あなたはなぜ父上と一緒に死ななかったんだ」

徐々に能保に語った今若━全成の心。
能保は何も言わず全成の言葉の全てを受け止めるだけだった。

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蒲殿春秋(三十二)系図

2006-06-15 22:15:25 | 蒲殿春秋
    +--忻子  
    |   ||
    |  後白河天皇----二条天皇
    |               || 
    |               ||
公能-+----------多子
    |               || 
    |               ||
    |              近衛天皇
    |
    |
    +---女子
         ||
         ||----一条能保
        藤原通重