さて、私はこの俗説に逆らうような形で小説の中で彼女を書きました。
なぜそう書いたのかといえばこの俗説に疑問をもっているからです。
疑問を持っている点
1)常盤の美貌に心動かされた清盛がその息子達の助命を決めたという話
2)清盛の側室にされて女の子を産んだこと
3)一条長成の地位
1)についてです
まずは、この話の元になっているものは
「平治物語」と「義経記」ですが
後者に関しては、「フィクション性がかなり高い物語」ということですので
この軍記物の内容に関しては物語としてみるならばいいけど史実と信じてはいけない話だと思ったほうがよいでしょう。
「平治物語」に関してもこれも物語ですからフィクション性を疑わなくてはなりません。
しかも、現在多く流布しているものは成立年代の古いものより「フィクション性」の高さを一層疑うべきです。
さて、近年日下一氏の研究で
「平治物語」下巻の中の常盤母子の話は元々の「平治物語」に組み込まれた
別の物語でだったのではないかという
文学的見解が示されています。
つまり、この部分は元々軍記ものに多少は含まれる「事実の記録」の部分からは少し隔絶した部分である可能性が高いのです。
こういったち面から「軍記物」ソースの一連の常盤の話は
物語からしてみれば美しいものであっても事実性は疑ってかからなければならならい代物である思います。
次に政治史的な断面から考えて見ます。
まず、「平治の乱」については散々以前にも書いていますが
この乱は「源氏と平家」の争いではなく
「信西排除」運動や「院政と天皇親政」の派閥争いなどが複雑にからんたものです。
そして、結果藤原信頼や源義朝はその中で負けカードを引いてしまい
「朝廷に対する謀反人」として処断されてしまったのです。
この件に関してはこちら
および
本文十七
その遺児たちの処分は当然「朝廷の処断」に委ねられるはずで
戦鎮定の功労者である清盛の意思は多少は反映されるでしょうが
当時の彼の力では最終決定権を持たなかったと思います。
頼朝が死罪を免れて流罪に留まったのは
清盛の意志が反映されている可能性は多々ありますが
決定したのはあくまでも「朝廷」です。
そして、常盤の子供達は「流罪」にすらなっていません。
頼朝を流罪に決定した朝廷は「律令」の規定に従い
頼朝を
「死一等を減じて流罪」にしているのです。
ところが常盤の子供達の処置は「寺入り」です。
「寺入り」は律令の罰則としては何の規定もありません。
彼らは死罪を免れて減刑されたわけではなく
最初から律令の刑に服する可能性はなかったのではないでしょうか?
彼らが元服前だったという点が考慮されたかもしれないという話もあるかもしれません。
しかし、元服前でもその気があれば元服させて流刑にすることは可能です。
知盛などは八歳では既に元服を済ませています。
今若は八歳でした。
現に一つ年上の希義は元服前でしたが「流刑にする為に元服」をさせられました。
信頼の遺児信親は五歳でしたが成長してから流刑が執行されました。
年若くても、流刑にしようと思えば流刑にはできるのです。
なぜこのような処置になったのか。
もしかしたら常盤の子供達に対する清盛の個人的な措置だったのかも知れません。
けれども、寺に入れば武士とは関係なくなるからという理由でしょうか?
いえ、源頼政は以仁王を担いだときは既に出家していました。
また、このとき出家させられたとされる乙若は結局行家と共に
墨股の合戦で出兵し命を落とす羽目になります。
皇族は出家をすると皇位から遠ざかりますが
武門のものが出家したら武士ではなくなるとは限らないのではないでしょうか。
つまり、源氏の復活を怖れての措置とは言いがたいような気がします。
それ以前に朝廷の無縁のところで清盛が常盤の子供達を殺すことが可能だったとしても、
子供達を殺す必要性が本当にあったのでしょうか。
どうしても、気に障るのならば
頼朝を流刑地に刺客を送って殺す、常盤の子たちは目立たないところで殺す
というくらいのことはもう少し清盛が権力を得たならばすることができたと思います。
(平治の乱の少し後、謀反容疑で流罪にされた源光保父子は流刑直後謎の死を遂げています。黒幕は誰かは知りませんが)
もうすこし考えてみたいと思います。
平清盛にとって源義朝一族がどのような存在だったのでしょうか。
平治の乱の頃の清盛一族と義朝の地位は雲泥の差があり
義朝は清盛からみればさほど障害になるようなライバルではなかったようです。
清盛が本気で叩き潰さねばならぬ相手は、むしろその背後にいた信頼だったかも
知れません。
この件に関してはこちら
ただし、「軍事貴族」という面からみれば
義朝は多少目障りな相手という部分もあり乱で消えてくれてラッキーという部分
はあったかも知れません。
けれども、全力をつくしてその遺児を根絶やしにしなければならならい
存在なのかといえば当時の彼らにはそんな価値はなかったのではないかと思います。
後に頼朝らによって平家が滅ぼされる歴史を知っている我々からしてみれば
あの時彼らを抹殺しておけばこんなことにはならなかった
と思うでしょうが
その当時誰がその未来を想像したでしょうか。
バブル時代に踊らされた我々がその先の想像をしていなかったように。
この乱によって義朝一族の軍事貴族としての基盤は完全に壊滅してしまい
まず復活は考えられない状態になったようです。
(義朝の軍事動員の背景には彼の都における基盤が必要でした
詳しい背景はこちら)
頼朝が流罪になったときも累代の郎党が死んだか心変わりをしてだれも付いてこないので同情した平家の家人が郎党を貸してくれたという有様で
このことを頼朝が後々まで恩に感じていたというほどの状況です。
それに元々義朝の力は清盛にはるかに及ばないものだったので
その遺児たちがどうなろうが別にかまわない
という程度の存在だったのではないのかと思います。
先ほども書いたとおり
任官済み嫡子の頼朝でさえ助命され
その後も対して警戒されていなかったのではないかと思われますので
それよりも幼く、母方の力も弱い常盤の子供達は
そんなに血眼になって探してどうこうする必要すら
なかったのではないかとさえ思われます。
少なくとも、頼朝の処遇が決定した後は
命の危険というものはなかったのではないでしょうか。
ですから
、「出家を条件に助命」というお話自体がおかしいと思うのです。
彼らは最初から、刑罰に処させる可能性が無かったし
清盛が義朝の男系を根絶やしにする考えも無かったと
考えるべきではないでしょうか。
つまり、常盤が美人でそれに心を動かされた清盛が とか
体を差し出して子供達を助命という話は
「物語」としては面白いのですが、事実であったとは考えがたいのです。
参考
本文十八
6/27 大幅に加筆修正させていただきました。
前文