時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(六百三)

2013-10-31 23:16:27 | 蒲殿春秋
一方源範頼はその軍勢を増やしながら都へと進む。

ここまで軍勢が増えると先頭から末尾まで通り過ぎるまでにかなりの時間がかかる。
休息も一所で済ますわけには行かなくなる。

途中先遣隊をやって休息させる場の確認をしなければ休息の一つもさせることができない。

尾張の熱田に入った範頼は和田義盛を呼び寄せた。

「間もなく畿内に入るが大丈夫であろうかのう?」
「大丈夫とは?」
「知っての通り先般伊賀伊勢で反乱が起きた。忠清法師が行方をくらませたとも言われておる。
我らが畿内を通る際に襲い掛かりはしないだろうか?」

「確かにその懸念はございますな。」
と和田義盛は答える。

そのような会話を交わす二人の元に朗報が入る。
都にいる義経の手配でこの反乱に加わっていたと見られる平信兼父子が打ち取られたというのである。

範頼と義盛は大きく頷いた。

その後軍議が開かれた。
この先軍が膨らむことを考えると長蛇の列を作って西へ進むのは上策ではない。
軍をいくつかに分け、伊賀伊勢の反乱勢力の攻撃に備えながら西へ進み、現在梶原景時がいる播磨を目ざす
ということに決した。

さらにその軍議の席で、総大将範頼は都に立ち寄り平家追討の官符を賜るということが決せられた。
官符を賜れば、西国に出向いても西国で食糧や人手の徴収ができるのである。
この事を知り東国から上ってきた御家人たちは歓呼の声を上げた。

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蒲殿春秋(六百二)

2013-10-31 22:59:01 | 蒲殿春秋
検非違使に任ぜられた源義経は前にもまして多忙な日々を送っていた。
都の治安維持を図るのはたやすいことではない。
さらに義経にはさまざまな相談事が寄せられる。
土地の訴訟、新たに畿内にやってきた御家人と荘園領主とのいさかいの仲介
果ては、貴族の邸宅の清掃の手伝いの依頼まで寄せられる。

そのような義経を支えるのに文官が必要になるのであるが、
実務に長けた文官を呼び寄せる人脈は義経には足りない。
ただ、義経には鞍馬で修行していたという経歴がある。
鞍馬は比叡山の末寺である。義経は鞍馬を通じて比叡山に通じる人脈を持っている。
比叡山は多数の荘園を抱え、その荘園の諸問題を解決する能力に長けた僧侶も存在する。
そのような僧侶たちがが義経の足りない人脈を補っている。

今日も義経は数々の訴訟に追われていた。
激務の中多数の訴訟をこなす義経には疲労の色がにじんでいた。
当初兄頼朝を見習って時間をかけてじっくり双方の意見を聞いていた義経であるが
とうていそのような時間が取れない。
しかも双方ともに早急なる勝利を要求する。
さらに、東国の武士とは違い訴訟のなんたるかを知っている畿内の者たちは簡単に採決には納得せず
何度も何度も採決のやり直しを要求してくる。

義経は訴訟の沙汰は以前の綿密さを欠くようになっていった。
それでも訴訟、そして御家人の行動を濫行とみなす畿内の人々の訴えは後を絶たない。

そのような義経をさらに多忙とさせる事態が発生した。
鎌倉にいる兄頼朝から伊賀伊勢の反乱に加わった平信兼父子を誅せよとの命令が下された。

義仲を討伐する際、信兼の協力は大きかった。
そのことを思えば信兼を討ち滅ぼしたくはなかった。
しかし、伊賀伊勢の乱に関与した信兼を放置することはできない。

義経は兄の命令通りに信兼親子を討ち滅ぼした。

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蒲殿春秋(六百一)

2013-10-20 22:41:29 | 蒲殿春秋
範頼軍は進む。
西へ進む旅に軍勢の数は膨らむ。

範頼の手元には名簿の数が膨らんでいく。

その様子を二人の郎党が眺めている。

「おい吉見次郎」
「なんだ当麻太郎」
「やけに今回は集まりがいいなあ。」
「そうだな。木曽攻めや一の谷の時はあまり人がいなかったし、
出てくるやつはどこか面倒臭そうな顔してやってきていたよな。」
「そういえば、此度はみな明るい顔をして出てきてやがる。
しかも一門兄弟多くそろえてきてやがる。」

そんな二人の会話をそばで範頼と和田義盛が聞いている。

「やはり、蒲殿のご郎党も此度の出陣の皆の意気込みの違いを感じておられる。」
と和田義盛は言う。
「和田殿もそう思われるか?」

「さよう。
前回の出陣は、出陣の支度の大変さや遠くへ行くことを渋っているものをなだめすかしながらの出陣でござった。
だが、今回は違う。皆喜んで出陣したがっておりまする。この違いの訳を蒲殿はお分かりですか?」

範頼はしばらく黙る。そして微笑みながら答える。
「恩賞、であろうか?」
和田義盛は膝を打って答える。
「さようでござる。
御家人たちは知ったのでござるよ。木曽攻め、一の谷、そして先般の甲斐信濃征伐にて
鎌倉殿が確実に恩賞をくださることを。
確かに出陣の負担は大きい。されど、出陣して勝利した暁には恩賞が手に入る。
それゆえに、此度出陣を志願するものが増えたのでござるよ。」

「そうであろう」

「御家人たちは切実な問題を抱えておりまする。
多くの者どもが産めよ増やせよで子を沢山儲けましてございまする。
しかしながら、分け与える所領は限られておりまする。
このままでは所領をもらえぬ子も現れかねませぬ。
しかしながら、恩賞を得られればその地を子に与えることができまするゆえに。
しかも、此度は西国の平氏の所領がそのまま手に入る可能性もございまするゆえに。」

和田義盛の目がギラリときらめいた。

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蒲殿春秋(六百)

2013-10-15 23:01:10 | 蒲殿春秋
頼が相模国で夜空を見上げていたその頃、都ではその異母弟が憂鬱な表情を浮かべていた。
その異母弟ー源義経はこの日検非違使左衛門少尉に任ぜられた。
その晴れがましさとは対照的な表情を彼は浮かべている。

「困った」と義経は言う。
傍らに控える弁慶はその主を怪訝な顔をして見つめる。

端正な顔を曇らせながら義経は不安を口にする。
「私は宮廷の作法を知らずにここまで来た。この官職を受けてしまって勤まるのであろうか?」
傍らに控える小太郎という雑色が答える。
「ご心配あそばされますな。鎌倉殿が万事支えてくださいまするゆえに。」
「しかし、此度はあまりにも早急な任官ゆえに兄上に知らせるのが遅くなってしまった。
兄上へ気にしておられないだろうか?」
「いえ、さほどのことはございますまいに。鎌倉殿は先の戦の任官に九郎殿を任官させることができなかったのを残念がっておられましたゆえに。」
「さようか。小太郎が言うのならば間違いはあるまい。」
小太郎は頼朝がつけてくれた雑色で、頼朝の内意をよく知るものである。
小太郎がそういうのならば問題はあるまい。

小太郎はその夜姿をくらますと一条大路をまっすぐに目指す。
翌日義経の異母姉である一条能保室からの依頼ということである検非違使が義経の元を訪れる。
その検非違使はその日から義経に対して数日かけて宮中の作法を教えはじめた。

官位にふさわしい作法を身に着け始めた義経であったが、再びまた憂鬱な表情を浮かべる。

「財がない。」
深刻な表情で傍らに控える弁慶に訴える。

当時任官する為に、莫大な資産を朝廷に納入する成功という制度がまかり通っていた。
逆に言えば財的奉仕をしなければ任官できないのである。
例外もあって例えば実務に長けていたならばその実務の功績を買われて実務官僚に取り立てられることもあるし
特別な功があればその功に対する賞で官位が与えられることもある。

義経の場合はここ数か月の都の警備と先の伊賀伊勢の平家の反乱鎮圧を認められての任官である。
よって財的奉仕免除で任官されたものである。

だが、だからといって何も財を差し出さなくてもいいというものではなさそうである。
功を認められての任官であっても何か折に触れて財的奉仕を求められる可能性が高い。
そのことを本日の作法の稽古でちらりといつもの検非違使からほのめかされた。

また任官されたらされたで慶び申しという祝賀行事、任官を手配してくれた者への謝礼などなど財が必要になることが目の前に突き付けられる。

この時点の義経の立場は鎌倉殿源頼朝の弟でありなおかつ義子なのであるが、
義経自身の経済収入を支えるものは何一つない。
義経名義の荘園はなく、受領でもないので受領の収入もない。
何か入用ならば鎌倉に願いを立てねばならぬが、鎌倉までの往復の時を待てないこともある。
現に今そのような状況に追い込まれている。

そのような主を見つめて弁慶は豪快に笑う。
「何を心配なされているのかと思えば」
胸をたたきながら豪語する
「私にお任せあれ!」と

数刻後、弁慶は義経の前に馬、絹、米、そして宋銭を見事に並べた。
これだけあれば今すぐ必要な慶申等に間に合いそうである。

義経は目を丸くした。
弁慶はそんな主を見つめてニヤリする。
「私めは叡山の法師でござる。叡山の力を使えばかようなものすぐに手配できるのでござるよ。」

この比叡山の力。これがこののちの義経の運命に大きくかかわることを義経はまだ知らない。

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蒲殿春秋(五百九十九)

2013-09-25 06:29:27 | 蒲殿春秋
紺村濃の直垂に小具足姿の範頼は兄頼朝から賜った名馬にまたがり鎌倉を立った。
彼のすぐ後には和田義盛が続きさらにその後に足利義兼、武田有義、三浦義澄などの名だたる武将が続く。
各武将が出立すると鎌倉の近くで待機していた配下の兵たちが合流し
その軍勢は数を増しながら東海道を下っていく。

正午に鎌倉を出立した一行であるが、さほど進まぬうちに日は傾いていく。
範頼は和田義盛を近くに呼び寄せた。

「今宵の宿営は整っておるか?」
と尋ねる。
「既に先遣のものが支度しておりまする」
と和田義盛は答える。

範頼はその答えに満足した。

そういっている間にも軍勢は人を吸い寄せてますます増えていく。

一人の武将が出陣すれば多くの郎党が従い、武将や郎党たちには下僕が数人従う。
さらに、荷駄を担ぐもの、城郭を築いたり敵の城郭を壊すものなども従い一人の武将には数多くの者がついてくる。

ついてくるのは人だけではない、馬も人が乗っている馬、載せ替えの馬など多くの馬がついてくる。
まるで多くの者が住む場所を移し替えるような有様である。

彼らを不満がらせずに宿営させねばならない。
その奉行は今回の軍目付和田義盛の差配によって行なわれる。

日がその姿を水平線の下に隠す前に宿営地に一行はたどり着く。

割り当てられた場所に各武将は宿営しやがてかまどから煙が立ち上り始める。
夜が更け始めると各陣から賑やかな声や笑い声が聞こえる。

その様子をみて範頼は安堵した。

和田義盛は諸将に不満の出ない場所に宿営地を割り当てているようだ。
この割り当てを間違えるといさかいが起き士気の低下を招きかねない。
前回の出陣の際もその事に関して土肥実平や梶原景時は大いに気を使っていた。
それでも多少のいさかいなどが起きていた。

今回も無事に済むと良いが、と範頼は願う。

星々がその輝きを増し、夜空を彩り始めると各陣は静けさに包まれ始める。

星を見上げながら範頼は兄頼朝から聞いた言葉を思い出していた。

「西国にある平家はその勢いを増しつつある。
先に山陽道にある土肥、梶原らは平家に圧されつつある。
畿内にある九郎は畿内の反乱の残党の追捕で手が離せぬ。
畿内の状況も予断がならぬ。
六郎、そなたは大軍指揮し土肥、梶原と共に西国の平家を鎮めよ。
そして、平家の手中にある先帝、女院そして三種の神器を無事取り返し
新帝のおわす都へ確実にお戻しせよ。」

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蒲殿春秋(五百九十八)

2013-09-12 15:15:54 | 蒲殿春秋
一方その頃都はいまだに不安のまったっだ中にあった。
伊賀の平氏の反乱は先日鎮圧されたものの、その残党の行方は杳として知れず
そのことが都の人々の心に影を落とす。
また、現在四国の讃岐屋島にある平家の勢いは次第にその力を増してきている。
都の治安は相変わらずよろしくない。

そのような不安を取り除くかのような盛儀が七月末の都で執り行われた。
元暦元年(1184年)七月二十八日後鳥羽天皇の即位の礼が行なわれた。

即位の礼には三種の神器が必要なのであるが、後鳥羽天皇は神器なしという異例の御即位を遂げられた。
三種の神器は未だ四国屋島におわす安徳天皇のもとにある。

この事態はいずれ収拾されねばならないと朝廷の人々は思っている。

三種の神器は安徳天皇報じる平家の手中にある。
その平家は和議には応じない。
ならば力ずくで奪還するしかない。

その奪還者として期待されていたのが源義経。
だが義経は都の治安維持と先日の伊賀の乱の処理と残党掃討に手いっぱいで身動きがとれない。

鎌倉の頼朝が次にどのような手を打ってくるかに人々の意識は向かう。

その鎌倉の頼朝のいる大蔵御所において、ささやかな酒宴が催されていた。

頼朝の次席に坐するのが三河守源範頼。頼朝の異母弟である。
その範頼を囲むように坐するのが足利義兼、武田有義。
さらにその下座に侍所別当和田義盛が坐している。

頼朝は彼らを親しく呼び寄せると励ましとねぎらいの言葉をかけた。

その宴席の翌々日の八月六日、華々しく甲冑姿に身を固めた一団が続々と鎌倉を後にした。
源範頼を総大将とする西国遠征軍が西に向けて旅立っていった。

一方その同日都においてある除目が行われた。
都において頼朝の代官として活動している源義経が検非違使左衛門少尉に任じられた。

時代はまた新たに動き出そうとしていた。

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蒲殿春秋(五百九十七)

2012-07-13 05:37:14 | 蒲殿春秋
鎌倉殿源頼朝の元に吉報がもたらされた。

畿内で伊賀伊勢の平家の蜂起に対処していた大内惟義からの使者がもたらしたものである。
それによると、七月十九日近江国で合戦を行い平家方を打ち破った、
ただし、平信兼と藤原忠清は囲みを打ち破って逃亡中であると。

頼朝は安堵した。とりあえず都が平家の手中に落ちずに済んだことに。

頼朝は次の手をすぐに打つ。
都に使者を発し、伊賀の平家蜂起を抑えきれなかった惟義を叱責する使者を派遣すると同時に、
畿内西国を任せている義経に引き続き残党の掃討にあたるように指示を出した。

やはりしばらくの間義経は畿内の平家残党に備えなくてはならないようだ。

そんな頼朝の元に範頼が三河から来着したとの報がもたらされた。
頼朝はすぐに範頼をここに呼ぶように命じた。

一方範頼は旅装も解かぬまま頼朝の御前に参上した。

「三河守よく参ったな」
と頼朝はねぎらう。

「三河守、いや六郎、任国について早々に呼び出して済まぬことをした。
だが、此度の出陣はそなたをおいて大将軍を任せられるものはおらぬ。」

頼朝は範頼に事情を説明した。
西国にある梶原景時、土肥実平が苦戦していること。
その両人を支援するために義経を出兵させたかったが、その義経は畿内の平家の反乱に手を取られて身動きできなくなってしまったこと。
この状況を解決するには東国から再び兵を出さねばならぬこと。
頼朝はいまだに鎌倉を動くことができぬこと。

そのような状況にあって、東国から派遣する兵を指揮できるものは範頼を置いて他にいないこと。

頼朝の説明を聞いて範頼は今鎌倉方は深刻な状況にあることを知った。
そして自らが課せれる使命の重さをかみしめた。

「私に、つとまるのでしょうか?」
範頼は率直な思いを兄にぶつけた。
「つとまるのでしょうかではない。つとめてもらわねば困る。」
頼朝は続けた。
「野木山の戦い、義仲征伐、そして福原攻め、それらの戦そなたは十分に将としての勤めを果たした。
此度もきっとうまくいく。」
「しかし。」
範頼も躊躇いがちに返答する。
「野木山は小山兄弟が、義仲征伐は土肥殿が、福原の折には梶原殿がおりました。
私は何もしておりませぬ。私は周りのものに助けられてここまで戦って参りました。
されど此度は土肥殿も梶原殿もすでに西国におられます。
私一人ではとても。」

「心配には及ばず。」
頼朝は静かに答えた。

「明後日ここに参れ。そなたと共に出陣するものをひきあわせよう。」

その声を聞いた範頼は安堵の表情を浮かべて兄の鎌倉殿に平伏した。

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蒲殿春秋(五百九十六)

2012-05-31 21:49:40 | 蒲殿春秋
夏の照りつく日差しを受けて鎌倉は煮えたぎっていた。
空の色は青く輝き、海はこれでもかといわんばかりに照り返っていた。

熱くなっているのは日差しだけではなかった。
広くない往来に人々が忙しく往来し、御家人たちの邸宅に多くの人々が出入りしていた。

熱く煮えたぎった鎌倉の中で不思議なほどの静けさをたたえた一角があった。
鎌倉殿源頼朝がいる大蔵御所である。

暑いという言葉すら忘れているかのような男は静かに今日も多数の沙汰を下していた。

ここのところ信濃の豪族らが多数初見参に訪れ続々と鎌倉殿の御家人となっている。その対応も忙しい。
また常陸の情勢もおだやかではない。こちらも気が抜けない。
動乱続く畿内や西国の報告も逐次もたらされている。

そしてその鎌倉殿を今一番忙しくさせているのが間近にせまった御家人たちの西国出兵である。

畿内や西国で鎌倉勢を苦しめいている西国の者たちを抑えなければならない。
だが出兵する御家人たちの内情は決して豊かではない。
それでも多くの御家人たちが出兵を希望した。
御家人たちには希望があった。
つい先ごろ行われた木曽攻め、平氏との福原での戦い、そして甲斐信濃攻略によって御家人たちは多数の新規の所領を得た。

彼らは知っている。
彼らに新たに所領を得させたものは鎌倉殿源頼朝であると。
そして彼らは期待する。
今回の西国出兵で手柄をあげればまた所領が獲得できると。

多数に増えてしまった一族に分け与える土地は多ければ多いほど良い。たとえそれが本領から遠く離れた西国の地であっても。

源頼朝は思った。

━━博打だ。それも大いなる博打だ。

命を懸けて、財産を投げ出して戦いに挑む御家人たちにとっても、自分にとっても。

この出兵が成功すれば頼朝は朝廷に対して多くのことを要求することができる。
だが敗れれば、多くのものを失う。
平氏が勢いを盛り返し都を奪還すれば頼朝は再び朝敵になる。
せっかく獲得した東海、東山を沙汰する権限も奪われる。
そうなると従えた御家人たちも離反しかねない。
息をひそめている奥州もどう出るかわからない。

この西国遠征には重大な意義がある。その遠征の指揮をまかせられるべき男が間もなく鎌倉にやってくる。
任国三河から。

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蒲殿春秋(五百九十五)

2012-03-31 05:45:46 | 蒲殿春秋
無事に任期を果たすことを祈願するはずの一宮参拝は図らずも戦勝祈願の参拝になってしまった。
範頼が祈りの時を終えたときも傍らの妻はまだひたすら祈っていた。

宿代わりにしている在庁官人の邸に戻るとそこには既に他の官人たちが集っていた。
官人たちは戸惑いの表情を浮かべていた。

範頼は静かに語った。
「間もなく私は鎌倉に行かねばならない。三河国を暫くの間離れねばならなくなった。」
と。その後
「後のことは追って沙汰をする。」
とだけ続けた。

官人たちを下がらせた。

三河守範頼には国守としてせねばならぬことが山積されていた。
ただ、至急鎌倉に戻らねばならないのも事実である。

とりあえず、早急に自分が不在の間政務を代行してくれる目代を任命しておかねばならない。
その目代に相応しい人物は一人しか思い浮かばない。
この異常事態に対応でき三河国の人々と知己であり、能力があり、自分が最も信頼できる人物は彼しかいない。

範頼は鎌倉に早馬を出した。

範頼の使者の口上を受けた鎌倉殿源頼朝は満足げな表情を浮かべた。

数日後、三河守源範頼の元に目代となるべき人物が現れた。
範頼の舅安達藤九郎盛長である。

盛長と入れ替わりに範頼は三河国を出立して鎌倉へと向かった。

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蒲殿春秋(五百九十四)

2012-03-04 16:57:00 | 蒲殿春秋
その範頼はようやく任国三河国に到着したばかりだった。
まずは国衙に入ってた。

範頼が三河国衙に入ったのはこれが初めてではない。
以前に叔父行家が半ば強引に国衙に入り込んでいた頃から何度か上がらせてもらったことがある。

その後行家が三河国を追われてからは範頼は暫く三河に居座って三河国に影響力を強めてはいた。
その後も範頼は三河国衙には何度か足を運んだ。居ついたわけではなかった。
国衙は三河国の東寄りにあるが、範頼はどちらかといえば、西側の額田郡にいることのほうが多かった。

暫くの間三河国衙は主不在だった。
治承寿永の乱勃発時の三河守は平知度だった。
その知度の目代は安田義定と源行家が三河に進出した時に三河国を追われた。
その後正式な三河守が長期間任ぜられなかった。
よって、三河守も目代も数年間不在だった。

その三河国に源範頼が新国守として赴任してきたのである。
国衙に目代ならぬ三河守が現れたのは何十年ぶりのことである。

それにしてもこの国衙の建物には傷み汚れが目立つ。
無理も無い、動乱続きでこの国も大変だったのだから。

範頼はこれからの前途多難を予感した。

一方国衙の役人は全く知らぬ人ばかりではないのは安堵できる。
範頼が三河にいる間に知己になっていた人物も少なくは無い。
国衙の人々は一様に範頼の三河守就任を賀してくれた。
この人々と共にこれから三河国を治めていかねばならない。

範頼は国衙を後にし、国司邸に向かった。
ここは三河守の居館となる公邸であり、範頼夫妻の住居となるところである。

範頼が戻ると国司邸は大掃除の真っ最中であった。
妻の瑠璃が懸命に指示を出して、連れてきた侍女たちと国の女たちと共に片付けホコリを払っているが、あちらこちらから咳の音が止まない。
暮れかかった日差しの中、ホコリが舞い、床のきしむ音が鳴り響く。

この国司邸は国衙以上に荒れ果てていた。
無理も無い。
長いことこの邸は使われていなかったのだから。

国守が国守となっても任国に赴かないしきたりが長年続いていた。
しかもここ数年は正式な国守すらも不在だった。

何十年も使われることの無かったこの国司邸。
ここを住める状態にするのにも暫く時間が掛かりそうだった。

範頼は旅装束を脱ぐとすぐに直垂に着替えた。
ついてきた当麻太郎と吉見次郎も同様にした。
新三河守殿とその郎党は開かなくなった扉の修復を始めた。

その夜範頼一行は在庁官人の邸宅に間借りした。
あの国司邸はまだ寝泊りできる状況ではなったからである。

翌朝は国司としての最初の任務である国一宮詣を行なう。
その支度を妻と供に行なっていた範頼の元に鎌倉から急使が届いた。

「西国に出陣せよ。その支度の為至急鎌倉に戻られよ。」
そのように書かれた頼朝からの一文を使者は範頼に差出した。

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