時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百七十二)

2009-03-31 19:51:43 | 蒲殿春秋
平賀義信と楓の婚儀に源範頼も妻と共に列席していた。
範頼は楓の姪の夫であるからである。

もう若くもない二人がどこか恥ずかしげに並んでいる。
新婦側に座る範頼の隣には妻の瑠璃がいる。新婦側には瑠璃の父の安達盛長とかなり大きくなったおなかを抱えた母の小百合そして弟の弥九郎がいて、さらにその近くに河越重頼とその妻藤乃そしてその子たちがいる。小百合と藤乃は新婦楓の姉である。そして、新婦を感慨深く見つめているのが新婦の母比企尼。
一方、新郎側の席には、義信の息子の大内惟義ともう一人まだ元服前の少年が一人座っている。
その少年に範頼は見覚えがあった。
瑠璃との婚儀が間近い頃、安達邸で見かけた少年である。

無事に行なわれた婚儀を見届けた後範頼は瑠璃に例の少年のことを尋ねた。
瑠璃は問われたことに素直に答える。
あの少年は楓の養子である。
正確に言えば楓と前夫伊東祐清二人の養子である。

例の少年は前夫伊東祐清の兄河津祐泰の子である。
今から十年以上前、祐泰は狩の最中不慮の死を遂げた。
何者かによって殺害されたのである。

その黒幕は伊東家の中では直ぐに察することができた。
当時祐泰・祐清の父祐親は一族の工藤祐経と所領争いをしていた。
その争いは祐親の勝利に帰した。その後祐経の妻であった祐親の娘は父の命令で祐経と離縁させられた。祐経は祐親を恨んだ。
祐経は所領を回復すべく非常の策を図る。
祐親を殺害するのである。その場が在る時期行なわれる狩の場と定められた。
計画は実行された。
だが、祐親は害を逃れ代わりに息子の祐泰が殺されてしまった。

その後祐経は暫く雌伏の時を過ごすことになるのだが、祐泰の命が絶たれた伊東家ではある変化がおきていた。
当時祐泰の妻は腹の中に子を宿していた。
その子は父の死後生まれた。生まれて直ぐにその母の再婚が決まり、生まれたばかりの子は祐泰の弟祐清夫婦に引き取られることになった。祐清夫婦には子がいなかった。
嬰児を義弟夫婦に託した祐泰の妻は先に生まれていた二人の子を連れて新しい夫の下へと嫁いでいった。

祐清夫婦の下に残された子は叔父夫婦に我が子として育てられて幸せに過ごしていたのだが、源頼朝らの挙兵によって伊東一族は没落。祖父祐親は亡くなり、養父祐清は西国の平家の元へと走り、養母楓と共に伊豆に残された。が、そこも安住の地ではなくなる。伊豆の伊東の所領においてはかつて祐親と敵対していた工藤祐経の力が増してきたからである。
楓は母比企尼の下に身を寄せ母子二人細々と生きていくこととなっていた。

今回の婚儀で楓はこの養子を連れて平賀義信のもとへと嫁ぐ。
義信はこの子を子として保護することを約している。



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蒲殿春秋(三百七十一)

2009-03-30 05:51:29 | 蒲殿春秋
義仲が都に戻っていた頃、源頼朝は坂東において地盤固めに努めていた。
坂東随一の大豪族上総介広常が離反しているのである。
坂東の豪族達は一応は頼朝に従う様子を見せてはいるものの情勢によってはどのように動くか分からない。

坂東の豪族達の信望をとりつけようと頼朝は色々と腐心している。
そのような中一組の夫婦が誕生した。
新郎は信濃の有力な豪族で河内源氏の血筋である平賀義信。
新婦は頼朝の乳母比企尼の三女でかつて伊東祐清の妻であった楓。
義信は以前に妻を亡くしており、楓も夫を失っていた。共に再婚である。

この婚姻の仲立ちをしたのは頼朝。
政略的な意図が当然ある。

挙兵以降坂東の豪族たちを従えるのに頼朝は信濃源氏に有力者平賀義信の力添えに助けられた部分が大きい。
そして、義信が木曽義仲との対立姿勢を深めていく段階で頼朝と提携し、挙兵当初頼朝と同格の武家棟梁の座を目指すことが可能だった義信がその座を目指すのをあきらめいちはやく鎌倉殿の門葉御家人に収まった。

上総介広常離反そして義仲が都を制圧している現在、坂東の豪族たちの動揺を抑える為には平賀義信の協力は欠かせない。
義信は武蔵に程近いところに勢力を持ち武蔵の豪族たちの動向に少なからず影響を与えることができる人物である。
ぜひとも頼朝手元に引き寄せておきたい。
それに信濃の義信の力を借りれば彼の地で義仲に従っている豪族達の切り崩しも可能である。

御家人になってくれてはいるものの、この時代の主従関係は従者の方からも簡単に主従関係は解消しうるものである。
いつでも独立した武家棟梁に戻ることのできる平賀義信には通常の主従関係以上のつながりが欲しい。
そのつながりを得る為に、頼朝が最も信頼できる存在ー比企尼の娘と婚姻させるのが最上の方策であった。

頼朝にはもう一つの思惑がある。
楓のことである。
楓は頼朝に反旗を翻した伊東祐清の妻ということで現在肩身の狭い思いをしている。その事を頼朝は気に病んでいた。
しかし、この婚姻でその立場から、門葉御家人の妻という晴れがましい地位を得ることができるのである。
幸い楓は前夫との間に実子はいない。
再婚するには支障が少ないのである。
頼朝が流人であった間祐清と楓は色々と助けてくれた。
楓の幸せを祐清も願っているだろう。
この婚姻は祐清と楓、そしてその行く末を案じてくれている乳母比企尼への恩返しでもある。

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蒲殿春秋(三百七十)

2009-03-23 06:08:32 | 蒲殿春秋
寿永二年(1183年)閏十月中旬
都の人々は恐怖に慄いていた。
西国にある平家追討に出ていたはずの木曽義仲が都に戻るいう噂が乱れ飛んでいた。
人々は財産をどこぞに隠し、妻子を都から退去させた。
果たして義仲は閏十月十五日都に戻ってきた。

その後の義仲の行動を都の人々は固唾を呑んで見守る。

都に戻った翌日、義仲は院に参上した。
義仲は西国の件は案ぜぬように後白河法皇に奏上すると共に法皇が頼朝に急接近したことを猛烈に抗議した。

数日後院からの使者が義仲の遣わされた。
義仲は使者に二つの不満を申し述べた。
一つは法皇が頼朝に接近して頼朝を引き立てようとしていること。
もう一つは東海、東山、北陸の沙汰をさせるという宣旨を頼朝に下したことである。
宣旨に関しては義仲生涯の遺恨であるとまで申し述べた。

そして義仲は法皇に要求をする。
頼朝を討つ院宣を義仲に下して頂きたい、と。

義仲はあくまでも頼朝と戦うつもりである。
まず上洛を企てる頼朝の弟を叩き、法皇から下された院宣を東国の豪族たちに披露して
東国の豪族達と頼朝の間の離間を図る。
そして、奥州の藤原秀衡と同時に頼朝を討つ。
義仲の中の構想はそのようなものであった。

だが、義仲の思い通りに事は進まない。

まず、法皇が義仲の要求を一切受け付けず頼朝追討の院宣を発することを拒まれた。

そしてもう一つ。
義仲と共に上洛した源行家、土岐光長らと義仲と意見が食い違うようになってきていて
義仲に協力する様子をみせなくなってきている。
さらに、義仲が案ぜぬようにと申し述べた西国の状況が大きく変化していた。
美作より西の地域はほぼ平家の支配下に収まり、平家の勢いはより一層都に近いところまで及ぼうとしている。

そして、坂東よりやってきた頼朝の弟源義経がついに伊勢に入った。
伊勢に入った義経は在地の反義仲に意志を持つ豪族達に好意的に迎え入れられ
義経の下に集った彼等は鈴鹿山を切り塞ぎ反義仲の行動を顕にした。

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蒲殿春秋(三百六十九)

2009-03-22 16:38:08 | 蒲殿春秋
上総介広常は上総に戻り、頼朝は鎌倉に戻った。
主だった御家人たちも鎌倉に入るもの、本領に戻るものなど対応は様々であった。

上総介広常が頼朝から離反。

この報はすぐさま奥州平泉に届いた。

報を受けた藤原秀衡は即座に動いた。
秀衡は右筆に書状を書かせ、はるか西国にある男にその書状を送る。

送られた男は西海にあって平家との一連の戦いに苦戦していた。

その男ー木曽義仲は寿永二年(1183年)九月二十日、平家を討つべしという後白河法皇の院宣を賜って都を出立した。
それから少しずつ西へと攻め入ったのであるが、西国には平家に味方する豪族が多い。
十月十二日には備中国の住人妹尾兼康の裏切りに遭って彼と合戦に及び、
その後も在地豪族たちの協力を得られず義仲は苦心の限りをつくしていた。

一方一旦九州筑紫の豪族たちの攻撃によって彼の地を追出だされた平家であったが、
瀬戸内海では平家に味方するものが多数あった。
平家は四国讃岐国屋島に上陸し、そこに安徳天皇を奉じ屋島と長門国彦島を拠点に
瀬戸内海の制海権を完全に制圧した。
瀬戸内海における平家方の軍事活動は活発化してきた。

そして寿永二年(1183年)閏十月一日、備前国水島において義仲軍と平家軍が激突し
義仲方は大敗を喫してしまった。
その後義仲はなんとか西国に留まっているものの対平家戦線において劣勢に立たされている。

その義仲に奥州平泉から書状が届く。

その書状には次のように書かれていた。
「坂東の武士の中に頼朝に背くものが出てきた。坂東最大の豪族上総介広常が頼朝に背いた。
この機会に東と西から頼朝を攻め滅ぼそうではないか。」

義仲は現在平家との戦いにおいて窮地に立たされている。
平家には打撃を与えておきたいが何が何でも滅ぼさねばならぬ相手ではない。
場合によっては和睦しても構わない。
しかし頼朝は違う。
頼朝は義仲にとって不倶戴天の敵である。
武家の覇者を目指すのならば頼朝は討ち取らねばならぬ相手である。
平家は今討たずとも良い。だが、今は頼朝を討つ取る好機である。

そしてもう一つの報が義仲の元に入る。
頼朝の弟九郎が頼朝の代官として東国から上洛の途上にあるというのである。
頼朝勢力が都に入り込むのはなんとしても阻止したい。

義仲の取るべき行動は決した。

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蒲殿春秋(三百六十八)

2009-03-20 05:54:18 | 蒲殿春秋
「せっかくのお言葉ですが、鎌倉殿のその命には従いかねます。」
そのような返事が御家人の中から返ってきた。
返事を発したのは上総介広常である。

頼朝は冷たい視線を広常に向ける。

「いや私は鎌倉殿の命に従いまする。」
そう言うのは八田知家。
宇都宮朝綱、小山政光も頼朝に賛同の意を表した。
他の御家人達は終始無言である。

上総介広常はまた声を発した。
「鎌倉殿があくまでも奥州攻めをなさるというのであれば・・・・
私は今すぐこの陣から離れ本領に帰ります。」

その声に対して頼朝は無言で冷たく広常を見据えるのみである。

陣中はしばらくの間無言の時間に支配された。

やがて広常はパッと座を立った。
鎌倉殿源頼朝に背を向けその前を去る。
広常の子たちも父に従う。
ついで娘婿の加賀美次郎長清が立上がろうとしたときであった。

「待て加賀美次郎!」
頼朝の声が長清を止め視線が長清の動作を絡め取る。
加賀美次郎長清は何かに押さえつけられたかのように再び座した。
それと共に上総介広常が従えていた中小の上総下総の豪族達の半数程はその場に留まる。

一方上総介広常自身は子たちを引きつれ本領の上総へと向かう。

この一件の影響で奥州攻めは延期となってしまった。
そして上総介広常の頼朝に対する離反が明白となった。
が、その一方で上総下総における上総介広常の支配力の低下も明白となった。

頼朝は上総介広常の離反を残念と思うと同時にこの動きを在る程度予測していた。
頼朝が名指ししていた南奥州の豪族達は上総介広常と密かに強い結びつきを持っているものであった。そして彼等は藤原秀衡と深く結びついている。
そして親広常な豪族と敵対的な豪族と結びついていたのが、小山政光や宇都宮朝綱と親しくしている豪族。
奥州攻めが実行された場合広常が親しくしている豪族の勢力が減少し、
奥州と交易をしている上総介広常は多大なる打撃を受ける。広常はこの奥州攻めを認めるわけにいかなかったのである。

一方広常の縁者や房総の住人で広常に従わなかった者がいるのも確認された。
数年前から広常を通さずに頼朝に直接結びつこうとした房総の豪族達が増えてきた。
広常はそれを不快に感じていたがそれでも頼朝は房総の豪族達と積極的に関係を持った。
今回はそれが活きたと言える。
国衙支配を通じて上総、下総の豪族たちを従えた広常の権限も絶対的なものではなかったのである。

そして広常の娘婿の加賀美長清。
かれは広常の娘婿ではあるが、甲斐源氏加賀美遠光の子である。
加賀美遠光は早くから独立した武家棟梁の地位を放棄して頼朝の門葉御家人の座に加わった。
その遠光は頼朝から優遇されている。
そして、その子長清にも頼朝はある優遇策を打診した。
他の誰に対してより自分に忠誠を誓えば、長清が父遠光の後継者となれるよう支援する、と。
長清には兄秋山光朝がいる。
光朝は平家に仕えていたものの現在でも父遠光の後継者と目されている人物である。
その光朝をさしおいて長清を遠光の後継者とするように支援する
と頼朝は打診してきたのである。

舅より鎌倉殿。

長清の意志は既に定まっていた。

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蒲殿春秋(三百六十七)

2009-03-18 05:58:35 | 蒲殿春秋
源頼朝はまず末弟義経に命じた。
都に東国の年貢を納める。その為に上洛せよ、と。
その夜義経は頼朝に再び呼ばれ只一人兄頼朝から詳細にわたる指示を受けた。

その二日後、源義経は自らの郎党たちと兄頼朝からつけられた兄の御家人達数名を引き連れて大量の荷駄と共に都を目指して出立していった。
これがこの時代最も輝きを放つ男の栄光と悲劇への旅立ちとなった。

一方頼朝のもう一人の弟である範頼は鎌倉に暫く残るよう命じられた。
命じられたその日範頼は久々に鎌倉の自邸に戻った。
範頼は久々に妻のところで過ごすことになるのだが、その日々は数日で終わる。
頼朝が佐竹征伐を宣言し、全御家人に召集をかけたからである。
範頼も兄に同行することになる。

上総介広常も今回は頼朝の命に従った。
佐竹は広常にとっても打ちのめしておきたい相手であるからである。
大軍を引き連れた頼朝に攻め寄せられた佐竹残党はあっけなく攻め落とされた。
今回も奥州に逃れようとする佐竹一族。
だが、その奥州へ逃れようとする途上で待ち伏せていた鎌倉勢によって彼等は再び攻撃を受け幾人かのものは捕えられて頼朝の面前に連れてこられた。

頼朝はこの捕虜たちを御家人全員の前に引き据えた。
そして面前で尋問させる。

捕虜のうちの一人が頼朝の望んだ答えを白状する。

奥州に佐竹を支援する勢力がある。それを頼って自分たちは奥州に逃れるところだった、と。

「方々、聞かれたか。
奥州には我等に従わぬ佐竹を支援するものがいる。」
と頼朝は宣言した。

翌朝頼朝は御家人たちを招集した。
「奥州において佐竹を支援するものの名が明らかとなった。」
一同を前にして頼朝は語る。
南奥州の豪族の名が幾人かが名指しされる。その名を聞いた上総介広常の顔色が変わる。
「そして藤原秀衡」
最後に頼朝が最大の大物の名を口にする。

一同の間にどよめきが走る。

我々は、今まで奥州や佐竹の脅威にさらされてきた。そして今東海、東山、北陸の沙汰を任されたわしに従わぬ佐竹を奥州の者たちは未だに支援していようとしているのじゃ。それはつまり、かの者たちはわしに敵対するということである。」
頼朝は一同を見回した。

「そこでわしは、朝廷より東海、東山、北陸の沙汰を受けたわしに従わぬ奥州の者たちを成敗する。」

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蒲殿春秋(三百六十六)

2009-03-13 06:03:22 | 蒲殿春秋
翌日頼朝は全軍に鎌倉への帰還を命じた。
上洛は中止となる。
甲斐源氏との提携が再び約された今駿河より西にいる意味は無い。
平頼盛、一条能保、そして中原康貞も共に鎌倉へと向かう。

そのような中梶原景時は一足早く相模国に入り相模国府に入る。そして国府の中を整える。
その相模国府に平頼盛が迎え入れられ、在庁の人々に手厚くもてなされることとなった。
頼盛の扱いは前大納言に十分にふさわしいものである。

一方能保と康貞は鎌倉でもてなされることになる。

頼朝はこの使者達の到来に政治的効果があると十分に期待した。
康貞は頼朝に東国の沙汰を認める宣旨をもたらし
前大納言平頼盛という大物が院の使者となり頼朝のもとを訪れた。

これだけで坂東における政治宣伝効果は抜群である。

頼朝は他の武家棟梁を圧倒する院の信頼を得ているということを示すことになるからである。

この余波を頼朝は今活かすときと考えた。
まず、未だに怪しげな動きを見せる佐竹の息の根を止めることにした。
そしてその活動にはあの者ー上総介広常も動員し、その動向を見定め今後の彼に対する対応を定めねばならぬと思い定めた。
佐竹を討つということに対してはあの者も反対はできないはずである。

その間しなければならないことがある。
あの者とあの兄弟との連携を防がねばならない。
その為にはあの兄弟に近い存在である自分の弟をあの役目につけて東国から遠ざける。

そしてもう一人の弟は東国の安定の為に自分の側に引き寄せておく。

頼朝は弟の範頼と義経を鎌倉まで同道させていた。
この二人が頼朝の前に呼ばれた。

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蒲殿春秋(三百六十五)

2009-03-12 06:00:03 | 蒲殿春秋
範頼の宿所では、頼盛らを迎え入れる為の支度が大急ぎでなされていた。
なにしろ、頼盛は前大納言であり院の使者殿である。失礼があってはならない。
このようなとき頼りになるのが、常に頼朝の側に控えている梶原景時。
都のしきたりに明るく、万事をそつなくこなすこの景時の采配で全ては順調に事が運ぶ。

遠江に到着した平頼盛と一条能保ら一行は頼朝がいる範頼の宿所に丁重に迎え入れられた。
頼盛は五十一歳。息子数人と幾人かの郎党を連れていた。
片や能保は頼朝と同年の三十七歳。能保は質素な衣装で連れている郎党も妻の乳母夫の養子後藤基清のみである。

頼盛は感慨のこもった目で頼朝を見つめる。
その頼盛を見つめる頼朝の瞳は複雑である。
平家一門にありながら清盛や宗盛とは常に一線を画しつつ宮廷社会の波にもまれてきた頼盛には宮廷人独特の得たいの知れなさが漂う。

一方頼盛の後ろに控えめに座す能保に対しては頼朝は暖かい視線を送る。
二十数年ぶりの再会を心から喜ぶ瞳である。

対面すると頼盛は頼朝に早速院の意を伝える。
一つは、年貢を確実に都にいれてほしいということ。
もう一つは、いつ上洛できるかということである。
頼盛の頭の中には年貢を納入する際は頼朝が自ら軍を率いて上洛するということが頭にあった。

頼朝はしばし沈黙した。

やがておもむろに口を開く。
「私は上洛いたしません。
ご覧の通りこのような大軍を引き連れておりまするゆえ。
このような大軍が上洛したならば都の兵糧は尽き混乱が起こりましょう。」
頼盛の顔色が少し変わった。

その顔色の変化を頼朝は見逃さなかった。
「しかしながら、年貢の納入は必ず行ないます。
私は上洛できませぬが、ここにいる弟を代官として年貢と共に上洛させまする。」

頼朝の近くには二人の弟が控えていた。
蒲冠者範頼と九郎義経である。
どちらの弟を上洛させるかということはこの場では頼朝は明言しなかった。

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蒲殿春秋(三百六十四)

2009-03-08 17:28:47 | 蒲殿春秋
結局、源頼朝と安田義定を同格の扱いで対座に座らせ共に他の者より上座に据えるということに席次を定めることにした。
範頼はこのことを頼朝と義定に事前に知らせる。
両者とも席次については了承をした。
相談を受けた範頼の舅である安達盛長は、微笑みながら婿に静かに語る。
「事前に鎌倉殿にご相談されたのは何よりです。
これからは何事も大切なことは鎌倉殿にご相談なさるべきですな。」
何気なくかたるこの舅の言葉がその後の範頼の行動の大きな助けになることはこの時範頼は知る由も無かった。
ついで、大軍を率いてくる頼朝勢の宿所、兵糧、厩などの支度
彼等を迎え入れる為に範頼は寝る暇も無いほど働かねばならなかった。

それからすぐ頼朝は大軍を引き連れて遠江に入った。
頼朝が挙兵後遠江に入るのはこれが始めてである。
義定は駿河との国境近くまで頼朝を出迎えた。
遠江守の地位を得たとはいえ義定の遠江支配は安定したものとはならず、義定にとっても頼朝との提携は未だに必要なものとなっていた。
よって頼朝との協調路線は堅持していかねばならない。
その想いが国境まで鎌倉殿を出迎えるという行動に及んだのであろう。
鎌倉殿頼朝と遠江守安田義定の会見は和やかに執り行われ、義定と頼朝の今後の協力が改めて確認された。

頼朝は義定との会見を終えて、遠江国府の程近くにある範頼の宿所に入った。
この宿所は義定から範頼に与えられているものである。
範頼は舅安達盛長と共に兄頼朝をもてなす。
兄は異母弟の歓待を快く受けている。
頼朝も義定の協力を得た現在、異母弟と頼朝の外戚熱田大宮司家の影響が強い三河まで東海道に例の「宣旨」の実効効果をもたらすことができる。
そのことが頼朝に満足感を与えており、宿所における頼朝は至極上機嫌である。
異母弟の宿所においてしばし休息をしているその頼朝の元に前触れの使者が現れた。

その使者の主の名を聞いた頼朝と範頼は同時に懐かしそうな顔をした。
使者を送った者の名は、一条能保。
頼朝と範頼の姉の夫である。
都から院の使者として鎌倉殿源頼朝に会いに前大納言平頼盛と共に東海道を下る道中にあり間もなく遠江に入る、ついては頼盛と能保が鎌倉殿に面会したい、というのがその使者の口上である。

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蒲殿春秋(三百六十三)

2009-03-04 05:45:29 | 蒲殿春秋
頼朝の心配は杞憂に終わった。
へそを曲げて伊豆に籠もっていた舅の北条時政は駿河に赴くと一条忠頼と早速面会し頼朝との会見するよう取り計らった。

駿河国府で頼朝と一条忠頼は対面した。
従五位下で東国の支配を朝廷から認められた頼朝をやや上位に、無位無官の一条忠頼を少し下がった位置に座らせたものの駿河を支配する武家棟梁としての面目を保たせて頼朝と会合させるよう、時政が取り計らった。

位階の有無を盾にした結果ではあるが、頼朝が忠頼のやや上位に座するという点においては忠頼に対する頼朝の優位を周囲に認めさせることになり
この点では頼朝を満足させる対面を演出したといえよう。
ともあれ、
頼朝に下された宣旨を一条忠頼に認めさせそれに協力を求めると言う
婿頼朝の願いは果たされた。

この対面の時点で頼朝は駿河に自軍の兵を進めている。

頼朝は上総と常陸や奥州の動向を気にしつつ次に遠江に進むことを決定した。
遠江を支配する安田義定にも頼朝に下された宣旨を認めさせる必要がある。
彼の協力なしにそれ以西の東海道を従えることはできない。

兄頼朝からの仲立ちを頼まれた範頼は難しい顔をしていた。
兄からの書状を貰ってすぐ範頼は遠江に入った。
頼朝が遠江に来るということは、義定と対面するということである。
義定も頼朝との対面は快く了承はした。その対面が行なわれる場も簡単に決まった。

だが、その時二人をどのように対面させるかということが問題となってくる。

頼朝と甲斐源氏は挙兵以来互いに協力をしてはいたが、それぞれ独立した反平家勢力として発展してきた。
つまり武家の棟梁という点から見れば頼朝も義定も同格なのである。

ただいままでが頼朝が「従五位下前右兵衛佐」だったいうことだけで義定ら甲斐源氏より多少は格上であるとみられていた。

しかし、現在義定は「遠江守」という国守の地位にあり、従五位下の位階を復活させたものの「前右兵衛佐」の地位であった頼朝よりは官職の上では上位にある。
官位での頼朝の義定に対する優位は既に消え失せている。
だが今、頼朝は東国の支配を任せるという宣旨を得ている。
この宣旨受けた頼朝が律令によって定められた国守の地位にある義定より上位に位置づけるべきかどうなのかが問題となってくる。

共に頼朝の書状を見た舅安達盛長は無言の圧力をかけてくる。
鎌倉殿頼朝を決して遠州殿義定の下位には置くなという、意志。
兄頼朝の側近中の側近であるこの舅の意志は兄頼朝の意志と見てよいだろう。
だが、律令の官職制度上において頼朝より上位に位置する義定が、頼朝の上座に座せないということを受け入れるかどうかわからない。頼朝に下された宣旨を義定がどのように受け止めるかわからないのである。

対面するときの座の位置の上下関係をどのようにするか、そこからして範頼は悩むことになる。

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