久々に解説です。
この小説もどきにおいて頼朝による忠頼の暗殺要因の大きな原因となった一条忠頼の「武蔵守任官」についてです。
「玉葉」などの一級史料にはその事実の記載はありません。また他の記録や軍記物にすらもかかれていません。
一条忠頼が武蔵守に任官したと記載されているのは「尊卑分脈」やかなり後世になってから記された「大日本史」などです。
しかし、史料的根拠は薄いものの、一条忠頼の武蔵守任官はあったのではないかとみる学説があります。
金沢正大「甲斐源氏棟梁一条忠頼鎌倉営中謀殺の史的意義 ―『吾妻鏡』元暦元年六月十六日条の検討―」(『政治経済史学』272号446号 (1989.1,2003.10))
彦由一太「鎌倉初期政治過程における信濃佐久源氏の研究ー武家棟梁としての平賀義信・大内惟義・平賀朝雅・大内惟信の歴史的評価ー」(『政治経済史額』300号、1991.4)
などです。
この二つの学説では忠頼の武蔵守任官があったということは共通していますが、任官の時期に差異があります。
彦由氏の説では、1183年夏の木曽義仲上洛の際に任官した(安田義定の遠江守任官と同時期)とみなし、金沢氏の説では、義仲討伐のあと、源頼朝が正四位下の位階を得た1184年3月27日のこととされています。
この一条忠頼武蔵守任官については、現在学界ではどのような評価が下されているのかよくわからないのですが、とりあえず小説もどきに武蔵守任官を取り入れさせていただきました。
ただし、一条忠頼の武蔵守任官が事実であろうとなかろうと、武田信義・一条忠頼といった甲斐源氏は坂東唯一の支配者であることを目指した源頼朝にとて、いつかは対立して決着をつけねばならない相手であったということは容易に推測できます。
散々書いてきましたが、甲斐源氏は元々頼朝とは別個に挙兵した独立勢力です。そして治承寿永の乱の有る時期まで頼朝とは同格の地位を保っています。
この両者がいずれ激突することが避けられないというのは一種の歴史の必然であるような気がします。
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この小説もどきにおいて頼朝による忠頼の暗殺要因の大きな原因となった一条忠頼の「武蔵守任官」についてです。
「玉葉」などの一級史料にはその事実の記載はありません。また他の記録や軍記物にすらもかかれていません。
一条忠頼が武蔵守に任官したと記載されているのは「尊卑分脈」やかなり後世になってから記された「大日本史」などです。
しかし、史料的根拠は薄いものの、一条忠頼の武蔵守任官はあったのではないかとみる学説があります。
金沢正大「甲斐源氏棟梁一条忠頼鎌倉営中謀殺の史的意義 ―『吾妻鏡』元暦元年六月十六日条の検討―」(『政治経済史学』272号446号 (1989.1,2003.10))
彦由一太「鎌倉初期政治過程における信濃佐久源氏の研究ー武家棟梁としての平賀義信・大内惟義・平賀朝雅・大内惟信の歴史的評価ー」(『政治経済史額』300号、1991.4)
などです。
この二つの学説では忠頼の武蔵守任官があったということは共通していますが、任官の時期に差異があります。
彦由氏の説では、1183年夏の木曽義仲上洛の際に任官した(安田義定の遠江守任官と同時期)とみなし、金沢氏の説では、義仲討伐のあと、源頼朝が正四位下の位階を得た1184年3月27日のこととされています。
この一条忠頼武蔵守任官については、現在学界ではどのような評価が下されているのかよくわからないのですが、とりあえず小説もどきに武蔵守任官を取り入れさせていただきました。
ただし、一条忠頼の武蔵守任官が事実であろうとなかろうと、武田信義・一条忠頼といった甲斐源氏は坂東唯一の支配者であることを目指した源頼朝にとて、いつかは対立して決着をつけねばならない相手であったということは容易に推測できます。
散々書いてきましたが、甲斐源氏は元々頼朝とは別個に挙兵した独立勢力です。そして治承寿永の乱の有る時期まで頼朝とは同格の地位を保っています。
この両者がいずれ激突することが避けられないというのは一種の歴史の必然であるような気がします。
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私も忠頼が生きていたならばその後の歴史は大きく変わっていたと思っています。
武田氏の今後だけではなく治承寿永の乱の趨勢や鎌倉幕府のあり方というものにおいても。
このブログでさんざんかいてましたが、甲斐源氏は頼朝にとっては「同盟者」であり配下ではない存在です。
その甲斐源氏の中心的人物だった一条忠頼が生きていたならば、甲斐信濃以西の東国に頼朝は手を出しきれなかったでしょうし、頼朝の地元も切り崩されかねなかった可能性もあったと見ています。
一の谷以降では頼朝のほうが十分に力をもっていたとしてもです。
ですから、忠頼が生存していた場合、一守護レベルではなくそれ以上の存在として存続していたでしょうし、
そうだった場合、頼朝の死後武田氏がどのような行動をとったかによっては北条氏による政治もなされたかどうかわからないですし、
だとしたら北条縁戚として力をもっていた足利氏の台頭もなく
武田信玄の好敵手となる上杉謙信の養子先先祖の台頭(足利氏縁戚)もなかったでしょうから
あの川中島がなくなっていた可能性が大きいと思います。
私にはその事実が伝えられています
信恒も家康ですよ
今後ともよろしくお願いします。
甥とおじですが。忠頼、義定、信義、この3人がもしも戦国で一緒だったら・・胸アツですね。毛利の3兄弟は軽くしのぎます。一条忠頼の静岡の史跡もいきました~・