時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

平治の乱における源頼政

2009-06-30 05:49:45 | 源平時代に関するたわごと
さて、平治の乱に関わった武将の中でもう一人美福門院に近い立場の人物がいます。
源頼政です。
彼もまた「平治物語」の中では軍を発動した人物として描かれています。
しかし、彼には何のお咎めもありません。

「平治物語」の記載によると途中で清盛に寝返ったという点では昨日書いた源光保と同様の行動を取っています。

しかし、光保は流罪そしてその数ヵ月後殺害されるという運命を辿ったのに対して
頼政はその後も宮廷社会に残り、公卿の座を手にするまでにいたります。

この差は何なのでしょうか?

それは「平治の乱」の関与の差だと思います。
「百錬抄」「愚管抄」には平治の乱の事を書いた部分には頼政は一切出てきません。
(ちなみに保元の乱では「愚管抄」に頼政の名前が出てきています。)

陽明文庫本(上巻)および学習院本(中巻)「平治物語」の記載では次の通りです。
まず、12月9日の三条殿襲撃や信西一家に対する捜索の部分では頼政の名前が一切出てきていません。
頼政の名前が出てくるのは12月26日の合戦の時点になってからです。

しかも頼政は信頼らがいる内裏にはこもらず、独自に「五条河原」近辺に陣を敷いているのです。
そして最終的には、信頼方の源義平の襲撃を受けて反撃をするという形になります。

「愚管抄」などには名前が見えず、「平治物語」でも信頼とは別行動。
つまり、12月26日に頼政が軍勢を発動した可能性はありますが、
その発動は信頼や義朝に呼応したものでもないのです。

これは私の推測ですが、もし頼政が軍を出動させていたとするならば
その出動理由は美福門院の内意によるものではないかと思うのです。
頼政の郎党の下総の下河辺氏はこのころから頼政に従っていますが後の八条院領となる下河辺荘を管理しています。
そして、頼政は後に美福門院所生の皇女八条院に近侍します。
頼政は保元以前から治承寿永の頃まで一貫して美福門院ー八条院に仕え続けています。
頼政がまず従うべき存在は美福門院です。

そして、美福門院が二条天皇の後見人で在る以上は二条天皇を守護するのは当然
さらにその時二条天皇がいる六波羅を警護するのも当然のことでしょう。
そこへ六波羅を攻めようとする源義平が攻撃を自軍に仕掛けてきたたならば反撃するのも当然です。
頼政はあくまでも美福門院側近として振舞っていたので、途中から信頼や義朝を裏切ったという味方は的を外した見方なのではないでしょうか。

しかも12月9日時点では一切頼政の名前は出てきていません。
頼政は光保が関与したと思われる三条殿襲撃には加わっていないのです。
頼政は謀反人となった信頼の討伐に加わった賞される武士であって
三条殿襲撃に関わった謀反人の一味と見なされる可能性は全く無かったのです。

そのあたりが12月9日に深く関与した源光保との差ではないのかと思われます。

光保と明暗を分けたもう一つの理由は
頼政の政治的立場の低さにあるような気もします。
光保の場合娘が鳥羽上皇の寵愛を受け二条天皇の乳母になっていました。
娘が天皇の乳母であったのが事実だとすれば光保の政治的位置はある程度高いものであると思われます。
(ちなみに平清盛の妻時子も二条天皇の乳母だったようです)
この点は、後白河法皇派には不気味に見えた存在だったかもしれません。

頼政には二条院讃岐という二条天皇に仕えたであろう娘がいますが
乳母と単なる女房では重みが違います。
当然その父親の立場も違ってくるでしょう。
頼政は光保に比べると「薬にも毒にもならない存在」だったのではないのか
という推測もできるのです。

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源光保について

2009-06-29 06:01:15 | 源平時代に関するたわごと
平治の乱でとりあげた源光保について書いてみたいと思います。
彼は源頼光の子孫で美濃源氏の流れを汲んでいます。
治承寿永で木曽義仲と共に上洛してその後法住寺合戦で命を落とす光長は彼の甥にあたります。

光保は鳥羽法皇そして美福門院に仕え、娘は鳥羽上皇の寵愛をうけていました。(『今鏡』鄙の別れ によると二条天皇の乳母になったとも言われています)
そして、鳥羽法皇の葬儀の時点でその入棺役の重責を担っていました。

これほどの重要人物であるにも関わらず、保元の乱にはあまり名前が出てきません。その時かれはどうも美福門院と東宮守仁親王の警護をしていたのではないかとの見解があるようです。(元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」)

さて、平治の乱の時の光保の動きです。
まず12月9日の三条殿襲撃ですが、陽明文庫本『平治物語』では光保はそれに参戦したことになっていますが、『愚管抄』には彼の名前が出てこず、その代わり甥の光基の名がでています。
ですから三条殿襲撃に光保が直接関わったかどうかの確証はありません。

ですが、信西の死体発見者はどの史料をみても源光保となってます。

このことと甥の光基が『平治物語』『愚管抄』両方に三条殿襲撃をした武士として名前が出てきているので、この襲撃には光保が少なからずが関わっているものがいると見ていいと思います。(前に書いた戦力分析では光保も加わったとの見解を出しています。私の個人的見解ですが。)

さて、前の記事で書かせていただいたとおり、12月26日の合戦の時点では途中から二条天皇を擁する清盛について勝利する立場につきますが、その後彼の運命は暗転します。

翌年の永暦元年(1161年)6月に息子の光宗と共に「謀反」の疑いで逮捕され、流刑になるのです。
そしてその後同年11月光保は薩摩国にて殺害されてしまいます。

この背景には、当時深刻化した二条天皇と後白河法皇の対立があったとも言われています。
光保は美福門院側近であり、二条天皇に近い立場にいました。
そのような背景も関係していたのかもしれません。
1160年代前半には後白河院政派と二条天皇派での政争が激しく解官や流刑が相次いでいました。

もう一つ、この政争において光保には付けこまれる余地がありました。
それは光保が12月9日の三条殿襲撃に少なからず関わり、12月中旬に信西の死体を発見したのが他ならぬ光保だったという事実があるのです(死体を発見したということは信西の行方を捜索していたことに他なりません)。
つまり12月9日事件では明らかに信頼に与していたのです。
12月26日時点で官軍方に寝返ったとしても、この12月9日以降の行動は追及されても仕方のないことだったのでしょう。

また、光保が流刑になったのと同じ頃、平清盛が正三位に叙せられ「公卿」の仲間入りをします。
このことも乱の決着に何か関係があるのではないかとの指摘もあります。(元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」)

気になる点があります。

乱に関わった者で流罪になった人の中で二条天皇側近者では、藤原経宗と藤原惟方がいます。

この両者は光保に先立って三月に流罪になっていますが、
彼等は数年後赦免されて都に帰り、経宗にいたっては左大臣にまで昇進し治承寿永の頃まで活躍を続けます。

また、武門で流罪になった者では源頼朝と源希義がいますが、彼等は赦免にはならなかったものの、その後の20年の流刑期間中生存しています。

そのような人々をみていると
流刑地にて何者かによって光保が殺害された、という点が特異なことのように思われます。
そう考えると当時光保に生存されていると不都合が生じる人物がいたのではないか、光保はこの一連の乱の中私達が考えている以上に重要な位置にいたのではないかとも思えてくるのです。

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蒲殿春秋(三百九十六)

2009-06-28 05:21:59 | 蒲殿春秋
鎌倉に向かう中途、範頼は遠江の安田義定の居館に立ち寄った。
義定の所へも頼朝からの要請は届いていた。
「蒲殿が鎌倉殿の意向を受け入れるならば、わしも鎌倉殿に協力する。」
義定はそう言った。

鎌倉に入ると、そこの空気は緊張感でみなぎっていた。
さほど広くない鎌倉の街に武装した兵が満ち溢れている。
範頼は大蔵御所へと向かう。
対面した頼朝は言った。
「都へ軍を上洛させる。子細は後から言う。」
それだけ言うと頼朝は範頼を下がらせた。

その日の午後鎌倉に衝撃が走った。

一旦は頼朝に離反して奥州藤原氏に同意する動きを見せた上総介広常。
その広常が鎌倉において殺害されたのである。

奥州藤原氏が越後の城長茂の動きに神経を尖らせて坂東への進出活動が手薄になってしまい奥州をあてにしていた上総介広常はこれ以上頼朝に逆らい続けることができなくなったのである。

そのような上総介広常は奥州の支援を諦め、再度頼朝への臣従を誓いせんと図った。
その願いをうけた頼朝は書状ではそれを了承していた。
広常は頼朝に呼ばれ鎌倉へとやってきた。
大蔵御所に入ると広常は歓待された。
広常はすっかり気をよくしてしまった。

そこへ梶原景時が現れ、頼朝との面会を待つ間双六をしようと誘った。
広常は了承した。
和やかな雰囲気で始まったこの双六も時間がたつと白熱する。
やがて些細なことで広常が激昂する。
それに対して景時も怒った、ように見えた。

その諍いは激しさを増す。

不意に景時は太刀を抜く。

広常は、とっさに何の対応もできない。
気が付くと供回りにつけていたものが誰もいない。

あ、と思ったときには広常の体にとてつもない痛みが走っていた。

寿永二年十二月 上総介広常とその嫡子は鎌倉に於いて殺害された。

供回りのものも一人残らず命を落とした。

その頃上総国は足利義兼、千葉常胤らに率いられた兵が満ち溢れていた。
上総介広常から離反した在地のものたちは常胤についた。
広常の一族も、広常に従っていた者達も、何の抵抗もできなかった。
上総国衙から上総介広常勢力は一掃された。
上総介広常の死に際する上総国における動揺は未然に防がれた。

大勢力でそれでいて奥州にも通じた上総介広常の存在は不気味すぎた。
それを放置して上洛するわけにはいかない。
上洛させるまえに上総介広常を消し、彼が支配していた上総国の人々が頼朝に対して歯向かわぬようにしておかねばならない。

かくて広常はこの世から姿を消した。
表向きは梶原景時との双六の上での諍いの果ての殺傷、
もしくは上洛しようとする頼朝に反対するのは院に対する不忠の念があった家人の征伐ということになるのであるが・・・

とにかくこれで坂東から軍を上洛させる上での最大の懸念は去った。

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平治の乱戦力分析

2009-06-21 21:10:50 | 戦力分析
平治元年(1159年)12月9日 後白河上皇がいた三条殿が襲撃され炎上、平治の乱が勃発します。
この乱は12月末に大規模な戦闘が行なわれ、翌永暦元年(1160年)までそれに付随した政変がつづき、永暦元年3月の関係者の流刑執行で幕を下ろします。

ここでは、「戦闘」に関わる部分だけ取り上げていきたいと思います。

さて、まず乱の端緒となるのが三条殿襲撃です。
藤原信頼は天皇親政派と手を結び、都に在住する多くの武士を味方につけて
12月9日 信西を葬らんと後白河上皇とその姉宮上西門院がいる三条殿を襲撃します。

その時の軍の構成は次の通りです。



どの勢力が何騎位動員したのかは分かりません。
ただいえるのは、この襲撃を行なったのは従来乱における重要人物とされていた源義朝の勢だけではないということです。

「愚管抄」によると、この襲撃には源重成、源光基、源季実なども加わっています。
陽明文庫本「平治物語」では、この三人に加えて源光保の名前もあります。

保元の乱の記事でも書きましたが彼等は、義朝とは全く独自の立場をとる都の武士で義朝に従っていたわけではありません。
特に美濃源氏源光保は、娘が鳥羽上皇の寵愛を受け、光保自身も鳥羽上や美福門院の側近という立場であり、なおかつ(後で出てきますが)彼の動員できる軍事力は義朝を上回っていましたから、光保は数年前まで無位無官だった義朝よりは都において格上の存在であるといっていいでしょう。

そのような人々で構成された軍の構成は上記の通りであると思って差し支えないと私は思います。

さて、この三条殿襲撃では信西一族を取り逃がしますが、
やがて信西の息子達は次々と逮捕され、数日後信西も源光保の手によって殺害されます。

その後政治の実権は信頼が握りますが、この頃から二条天皇側近が怪しげな動きを見せます。
十二月十七日熊野詣でに出かけていた平清盛が帰京します。
清盛は都において最大の軍事貴族ですが、この一連の政争から一歩後ろに引いた位置にいました。(従来は信西と連合を組んでいたとみられていましたが、最近はどの勢力からも中立の立場にいたと見られているようです。)

その清盛に二条天皇親政派は接近します。
そして十二月二十五日深夜、二条天皇は内裏を出て六波羅に入り、後白河上皇も内裏を脱出します。

そして翌十二月二十六日朝、藤原信頼らを謀反人に指定し
追討の命令を受けた平清盛は、嫡子重盛、弟経盛、頼盛を信頼らが籠もる内裏へと差し向けます。

「平治物語」によるとそこから内裏攻防戦が始まるのですが、実際には内裏でどの程度の戦闘が行なわれたかということについては不明です。

ですが、この時攻める平家軍と守る信頼軍との間には相当の兵力格差があったことは確かなようです。

学習院本「平治物語」の記載に従うと戦闘開始直前の兵力は次の通りです。


六波羅方が合計3000騎、一方信頼方は合計800騎。
なお、信頼軍における源義朝の率いる兵は800騎中200騎足らずです。
信頼本軍や源光保の兵の方が多いのです。


また、その学習院本「平治物語」の記載に従うと源頼政は日和見して主戦場から少し離れた場所にいたということになっています。
頼政は元々美福門院の側近で美福門院が支えている二条天皇に味方する為に軍を動員したのであって、信頼やましてや義朝に従う必要などありませんでした。
一方、この時点では同じ美福門院派の源光保は信頼と共に内裏にいたと「平治物語」に記載されています。

さて、戦闘開始後源光保は早々に六波羅方に味方したようです。
光保もまた、美福門院側近で二条天皇支持派ですから、信頼に従う必要は無く、折を見て官軍についたのでしょう。



「愚管抄」によると戦闘が開始されると源義朝は内裏を早々に出て都の街中に出て
六波羅を目指したようです。
一方義朝より多くの兵を従えていた信頼は早々に戦線離脱したようです。

やがて義朝は六波羅を攻めようと押し寄せます。
その頃には源頼政もはっきりと六波羅に味方します。
頼政が仕える美福門院が二条天皇を支えている以上、その二条天皇を奉じている清盛に味方するのは頼政としては当然のことです。

そのような中義朝は六波羅に攻め寄せますが
その勢力は学習院本「平治物語」によると「二十数騎」にしか過ぎなかったようです。
このときの戦力の状況は次の通りです。



やはり多勢に無勢。
敗北が決定的となり都を落ちることにした義朝の勢力は「愚管抄」によれば
「郎党わずかに十人ばかり」になっていました。

こうして十二月二十六日の平治の乱の最大の戦闘は
平清盛をはじめとする平家一門と途中で寝返った源光保、源頼政の勝利に終わりました。

この後二条天皇と後白河上皇の対立、政局の混乱、そして敗残者に対する処分等がありますが、この記事は兵力をかたるのが主な目的なのでここでこの記事はおしまいにさせていただきたいと存じます。

平治の乱の詳細につきましては
以前の記事
別サイトのタイムラインをご参照いただけますと幸いです。


保元の乱戦力分析

2009-06-20 21:49:22 | 戦力分析
保元元年(1156年)7月11日 保元の乱が勃発します。

この乱は
崇徳上皇と後白河天皇の皇統をかけた争いに摂関家内部の争いも加味されて沸き起こったものです。

図式化すると
後白河天皇・現摂政藤原忠通 vs 崇徳上皇・前摂政藤原忠実・左大臣藤原頼長
ということになります。

そしてこの争いは遂に武力衝突にまで発展してしまうのです。

その武力として動員された武士たちの内訳は

後白河天皇方
平清盛、源義朝*1、源義康*2、源頼政、平信兼*3、源重成、源季実、平維繁、源頼盛*4
など

崇徳上皇方
平忠正親子、源為義親子(義朝は含まず)、源頼憲、平家弘親子
などです。

源為義と義朝は親子、源頼憲と頼盛は兄弟、平忠正と清盛は叔父甥となり
骨肉が争う面もありました。
これには色々と複雑な背景がありますがこの記事ではその詳細は割愛します。

*1 鎌倉幕府初代将軍 源頼朝の父
*2 後の室町幕府将軍家 足利氏の祖 妻は義朝の正室の妹または姪
*3 頼朝の挙兵で倒された山木兼隆の父
*4 鹿ケ谷事件で有名で治承寿永期に活躍する多田行綱の父、摂津国多田荘に勢力を有する

武士達が骨肉の争いを繰り広げたということで武力もさぞ拮抗していたと思われる方も多いと思いますが実際に動員された兵力は次の通りです。



なお、崇徳方は平忠正ら、とか源為義らと書いていますがそれぞれの武士がどのくらいの軍勢を率いていたのか分からないのでとりあえず「(半井本)保元物語」に示されている軍勢数で代表的な名前がでているところを出してみました。

なお、「愚管抄」によると崇徳側は戦闘開始時後白河方に比べて物凄く少人数の軍勢しか集めることができなかったようです。

また、上記でずらずらと武士達の名前が出てきて
それぞれ 平、源と出てくるので それ源平の武士が平清盛や源義朝(←頼朝の父)に従って出てきたかと思われる方も多いかと思われますが
上記に出てきた方々は、小規模ながらも独立した武士団であり、清盛や義朝に従っていたわけではありません。
それぞれの意思で後白河天皇に従っていたのです。
清盛はあくまでも伊勢などを中心とした郎党、義朝は東国武士団を中心とする郎党を引き連れていただけで、上記に名前を挙げている人々を従えていたわけではないのです。(しかも清盛、義朝らの徴兵は国衙権力の命令があって、彼等の武家棟梁としての権威だけで動員したわけではない、という元木泰雄氏の説があります。)

さて、「兵範記」(平信範の日記)によると
「清盛300騎、義朝200騎、義康100騎」が崇徳方の立てこもる白河北殿へ第一陣として出撃したようです。



しかし、この第一陣だけでは戦闘に決着がつかず、後白河方は戦地に第二陣を投入します。



その後、後白河方は敵地に火をかけ戦闘に決着をつけ勝利を手にします。

さて、「保元物語」では源為朝が夜討ちを提案したところ、藤原頼長が拒否をしてしまいそれが崇徳側の敗北に繋がったとしています。
ところが、「愚管抄」によると、いくつかの為義の献策に対して
現在崇徳側の戦力があまりにも少ないので吉野からの援軍が到着するのを待とう
といって為義の献策を退けたとあります。

元木泰雄「保元平治の乱を読み直す」(NHKブックス)によりますと
頼長には興福寺や摂関家荘園にある武力をこの戦いの主戦力に利用する構想があったのではないかとしておられます。

「(半井本)保元物語」によると
吉野、十津川、興福寺の兵1000騎程が7月12日(実際に戦闘が行なわれた翌日)に崇徳側に参じる予定であったとしています。
崇徳方は7月11日時点ではどう考えても戦力的に不利、
1000騎の援軍が来なければどうしようもない状況だったのではないかと推測されます。

いっぽう崇徳方に摂関家軍事力の援軍がくる、
その情報を源義朝らもつかんでいたようです。

だからこそ、その援軍が到着する前に後白河方はその時点で少人数の崇徳方を叩いておく必要があったのではないか、という論理も成り立ちます。

ちなみに、摂関家の援軍が到着した場合
戦力差は次のようになります。



戦力はかなり拮抗します。

そうなると勝敗はどうなるかわからなかったのではないかと思われます。

長々と保元の乱について書かせていただきました。

なお、各勢力の兵数については
平清盛、源義朝、源義康 - 「兵範記」
源頼盛ー元木泰雄「保元・平治の乱をよみなおす」(NHKブックス)
その他 - 「(半井本)保元物語」(岩波書店新日本古典大系「保元物語・平治物語・承久記」に所収)等
に記載されている数字を使わせていただきました。


この乱に関しては未だに私の史料の読み込みが足りないと思っていますので
また内容が変更になる可能性があります。
長文にお付き合いくださいましてありがとうございました。

保元の乱のタイムラインを作成しました こちらです

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戦力分析してみます

2009-06-20 20:42:39 | 戦力分析
保元~治承寿永にかけての各戦闘の交戦戦力の分析を試んと
作図してみました。

ただし、戦力分布がまったくわからないものには手をつけませんし
一旦upしたものもいつの間にか変更になってしまう可能性があります。

当時の日記をベースに、専門書や時には軍記物を参照しながらゆったりペースで随時upしていきたいとおもいます。

(最近ペースは落ちていますがメインはあくまでも小説もどきなので
小説もどき中心で頑張りたいと思っています。)

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蒲殿春秋(三百九十五)

2009-06-14 08:20:45 | 蒲殿春秋
暫くして義経は伊勢から連れてきた人々を範頼に引き合わせる。
そのうち二人の人物が範頼の印象に深く残った。

一人は伊勢三郎義盛。
伊勢の住人で早いうちから義経と接触し今や義経と主従関係を結ぶに至った男である。今は義経の郎党としてつき従っている。
もう一人は平信兼
彼も伊勢国に住まうものであるが、都に在住することが多く国守を何度か勤めたこともある大物である。
信兼も伊勢に入った義経に早いうちから協力をしてきた男であった。
だがこの信兼の素性を聞いて範頼は仰天した。
信兼の息子の中に兼隆という人物がいる。
この兼隆こそ、かつて伊豆国の目代を勤めた人物で頼朝の挙兵で真っ先に血祭りに揚げられた男なのである。
頼朝が信兼の息子を殺したのである。

なのに信兼は息子の仇の弟に何ゆえ協力したのであろうか・・・

━━ 都のもののふはあてにはならぬ。
範頼はかつて舅の安達盛長がぽつりとつぶやいた言葉を思い出した・・・

それにしても解せぬ信兼の一連の行動・・・
邪気ひとつ見せぬ晴れやかな笑顔でやはり息子の仇の弟である範頼に挨拶をする信兼。
義経も気軽に信兼と言葉を交わす。

━━ 怖いな。

それがその挨拶を受けた範頼の率直な感想であった・・・

範頼と義経は暫くの間熱田に留まっていた。
が、数日後彼等の元に兄頼朝からの使者が訪れる。
その使者は熱田に留まる二人のその後の人生を大きく変える知らせをもってきた。

使者は義経には暫く熱田に留まるように、
そして範頼にはすぐ鎌倉に戻るようにと伝えてきた。

その真意を使者から聞いた二人は一瞬緊張に顔を引きつらせた。
だが、その後兄弟二人顔を見合わせて大きくうなづいた。
翌日手を握り合って異母弟義経と別れた範頼は三河から引き連れた軍を暫く熱田に滞在させて鎌倉へと向かっていった。

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蒲殿春秋(三百九十四)

2009-06-11 22:21:19 | 蒲殿春秋
鎌倉の頼朝が院の北面から自分にとって有利な言葉を引き出していたその頃、その異母弟範頼は尾張国熱田社にその身を置いていた。
その熱田には範頼の弟九郎義経と彼が連れてきた伊勢の国人たちも滞在していた。

法住寺合戦の後暫く伊勢国に滞在していた義経であったが、
そこを木曽義仲に攻め込まれ、持ちこたえられなくなって尾張へと撤収してきたのである。
義経は尾張に一定の勢力を有する熱田社に迎え入れられた。
熱田社は義経の異母兄である頼朝の母の実家の一族が大宮司を務めている。
その縁で義経は熱田に入ることになった。

また尾張には葦敷重隆がいる。
尾張源氏の重隆は義仲に呼応して都に上り平家を追い落としたのであるが、その後義仲とは不和になり後白河法皇に接近した。
法住寺合戦において重隆は傍観者の立場でいた。だが義仲は重隆を許さず、十二月に入ってから佐渡守であった重隆は義仲の意向によってその官職を奪われた。
重隆は義仲に対する意趣の念を深くした。

その葦敷重隆は義経とは一定の距離を保っている。
だが、反義仲という一点においては協調しうる可能性がある。

反義仲の機運が強まりつつあるこの尾張に範頼も来ていた。
伊勢の義経が義仲の攻撃にさらされた!
三河でその報を聞いた範頼は、弟義経を救うべく支配下にある三河の兵集めてその軍を東へと進めた。
この進軍は勢いに乗って義仲軍がさらに東海道を東を進撃するの食い止めんとする意図もある。
範頼は西三河の武士達を主力として引き連れていた。
範頼の意向を重要視する三河国人は西三河に住むものが多い。
その西三河は熱田大宮司家の影響力が強い。つまり三河の西半分は異母兄頼朝の外戚の協力の下範頼はその意向を通すことができる、
それが現実である。

そのようなわけで尾張に入った範頼はごく当たり前に熱田社に向かうことになる。

範頼が熱田社に入るのとほぼ時を同じくして異母弟義経が熱田に入ってきた。
期せずして二人の兄弟は熱田社にて再会することになる。

思わぬ場所の再会にお互い驚いたが、無事を確認しあって安堵の笑顔を向ける。

少数の兵士しか引き連れず、ほぼ敵地ともいってもよい畿内において入洛の交渉を粘り強く重ねた。度々義仲軍の攻撃を受けるという苦難にもあった。それにもかかわらず、今目の前にいる義経は何事も無かったかのように涼やかな笑顔を見せている。

━━ やはり、たいした男だ。
範頼はこの異母弟を改めて見直した。

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蒲殿春秋(三百九十三)

2009-06-06 05:58:32 | 蒲殿春秋
その言葉を聞いた梶原景時は隣の間に移った。
そして侍所筆頭の座に座る和田義盛に何事かを告げる。

「方々、院の北面の方のお言葉を聞かれたか。
只今、院は義仲によって大変な目にあっておられる。
義仲こそ院のご意志に背く逆賊ぞ。
そして我等が鎌倉殿こそ院が真に頼りにしているお方である。
方々、肝に銘じられよ。」
多くの御家人に向かって侍所別当和田義盛が高々と宣言する。
御家人たちは「おう!」と口々に答える。

院近臣は義仲の攻勢を恐れてとりあえず義経の元にそしてやがて鎌倉へと逃げてきただけである。
だがこのまま義仲がはびこっていては北面としての彼等に未来はない。
義仲に対抗できるのは東国にいる頼朝か甲斐源氏そして西国の平家。
後白河法皇は平家を敵視している。
ならば義仲を追放するには東国にあるものに頼るしかない。
そのような状況を熟知して頼朝は自らに有利な言葉を二人の院北面から引き出した。

この先義仲は頼朝追討の院宣を出させるであろう。
だが、その院宣は無効。そして義仲こそ院のご意志に背く逆臣
院北面のその言葉を、鎌倉の御家人たちの前で頼朝は引き出すことに成功したのである。

義仲の意向の入った院宣は今後全て坂東では無効となる・・・

━━それにしても九郎はよく伊勢で頑張っていたものよ
頼朝はそう思う。

都にやや近い伊勢に九郎がいたことで院北面はそこを頼りやすかった。
もし九郎が伊勢にいなかったら・・・・・
都から鎌倉に向かう途中の遠江と駿河には甲斐源氏がいる。
鎌倉にたどり着く前に甲斐源氏の者と院北面が接触していたら、院北面の二人は甲斐源氏を彼等は頼ったかもしれない。
そうなると、自分が院北面の存在をこのように利用することができただろうか・・・

一応遠江の手前の三河にはもう一人の異母弟範頼がいるが範頼は頼朝の弟であると同時に甲斐源氏安田義定の盟友でもある。
院近臣が範頼のもとにきたとしても頼朝の所に送り届けてくれたかどうかは判らない。

ともあれ、院北面が頼朝代官九郎義経の元に現れその後頼朝の所に来たということは頼朝の立場を正当化するのに大きく役立った。
そしてこの事実がこれから後の頼朝にとって大きな助けとなるのである。

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蒲殿春秋(三百九十二)

2009-06-05 05:48:49 | 蒲殿春秋
法住寺合戦の直後、院に仕える二人の北面の武士がその頃伊勢にいた九郎義経の元に現れた。
その武士達は合戦の模様を詳しく義経らに伝える。
その報告を聞いた義経はその北面の武士に礼をつくしてもてなし、その後彼等を鎌倉の頼朝の元へ郎党をつけて送った。

鎌倉に着いた北面の武士は合戦の内容を詳細に頼朝に伝える。
両者は侍所のすぐ隣の間に招かれた。頼朝と院北面との間で交わされる話の内容は侍所に詰める多くの御家人達によく聞こえるようになっている。
頼朝は熱心に二人の話しに聞き入る。

「では、院は義仲を遠ざけようとお思召しであられたのだな。それを知った義仲が兵を率いて院御所を襲い、院近臣に狼藉を働き、高僧を殺し、院を閉じ込め奉った、と。」
と頼朝は問う。
「さようにございまする。」
「では今、院の御身は」
「五条におられまする。おん身はに障りはございませぬ。けれども都は義仲の武の力によって抑えられておられますゆえ、院は何ひとつ義仲の意向には逆らえませぬ。退けるはずだった義仲の意のままにされねばならぬとは・・・」
「おいたわしや。」
そういって頼朝は大げさに嘆いた。

「院は今は何一つご自身の思し召しが通らぬようになっておられるのですな。」
と頼朝は再び問う。
「その通りでございます。」
「では、この先どのような院宣が出されようとそれは院のご意志ではない。」
と頼朝は大きな声で言う。

「その通りです。」
と院北面は再び答える。

「では、義仲が都にはびこっている間に出される院宣は院のお心から出たものではない。
従って、その院宣には何も従うことは無い、ということなのだな。」
と、頼朝の直ぐ側に控える梶原景時が頼朝よりも大きな声で話す。
この景時の声は隣の間に控える多くの御家人達の耳に入ったはずである。

「ああ、それにしても嘆かわしい。
院御所が荒々しい木曽の者に荒されて、院がそのような狼藉者の手の中に落ち
あまつさえご本心ではない院宣を出すことを余儀なくされるとは。」
頼朝はわざとらしいほどに大げさに語る。

「ああ、なんたること。治天の君たる院にこのようなことをしでかすとは。
義仲は逆臣よ。謀反人よ。」
そう言ってから頼朝は北面の顔をまじまじと眺める。
「いずれ、院をお救いしなければなりませぬな。」
頼朝の真剣な瞳に北面の二人は吸い込まれる。
「さよう。」
思わずそのように返答する。
「そして院をお救いするのはこの頼朝、そして鎌倉につどうもののふ達。」
「さよう、院もきっとそのことをお望みでしょう。」
頼朝の言葉に思わず院北面はそのように答えてしまった。

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