さて、平治の乱に関わった武将の中でもう一人美福門院に近い立場の人物がいます。
源頼政です。
彼もまた「平治物語」の中では軍を発動した人物として描かれています。
しかし、彼には何のお咎めもありません。
「平治物語」の記載によると途中で清盛に寝返ったという点では昨日書いた源光保と同様の行動を取っています。
しかし、光保は流罪そしてその数ヵ月後殺害されるという運命を辿ったのに対して
頼政はその後も宮廷社会に残り、公卿の座を手にするまでにいたります。
この差は何なのでしょうか?
それは「平治の乱」の関与の差だと思います。
「百錬抄」「愚管抄」には平治の乱の事を書いた部分には頼政は一切出てきません。
(ちなみに保元の乱では「愚管抄」に頼政の名前が出てきています。)
陽明文庫本(上巻)および学習院本(中巻)「平治物語」の記載では次の通りです。
まず、12月9日の三条殿襲撃や信西一家に対する捜索の部分では頼政の名前が一切出てきていません。
頼政の名前が出てくるのは12月26日の合戦の時点になってからです。
しかも頼政は信頼らがいる内裏にはこもらず、独自に「五条河原」近辺に陣を敷いているのです。
そして最終的には、信頼方の源義平の襲撃を受けて反撃をするという形になります。
「愚管抄」などには名前が見えず、「平治物語」でも信頼とは別行動。
つまり、12月26日に頼政が軍勢を発動した可能性はありますが、
その発動は信頼や義朝に呼応したものでもないのです。
これは私の推測ですが、もし頼政が軍を出動させていたとするならば
その出動理由は美福門院の内意によるものではないかと思うのです。
頼政の郎党の下総の下河辺氏はこのころから頼政に従っていますが後の八条院領となる下河辺荘を管理しています。
そして、頼政は後に美福門院所生の皇女八条院に近侍します。
頼政は保元以前から治承寿永の頃まで一貫して美福門院ー八条院に仕え続けています。
頼政がまず従うべき存在は美福門院です。
そして、美福門院が二条天皇の後見人で在る以上は二条天皇を守護するのは当然
さらにその時二条天皇がいる六波羅を警護するのも当然のことでしょう。
そこへ六波羅を攻めようとする源義平が攻撃を自軍に仕掛けてきたたならば反撃するのも当然です。
頼政はあくまでも美福門院側近として振舞っていたので、途中から信頼や義朝を裏切ったという味方は的を外した見方なのではないでしょうか。
しかも12月9日時点では一切頼政の名前は出てきていません。
頼政は光保が関与したと思われる三条殿襲撃には加わっていないのです。
頼政は謀反人となった信頼の討伐に加わった賞される武士であって
三条殿襲撃に関わった謀反人の一味と見なされる可能性は全く無かったのです。
そのあたりが12月9日に深く関与した源光保との差ではないのかと思われます。
光保と明暗を分けたもう一つの理由は
頼政の政治的立場の低さにあるような気もします。
光保の場合娘が鳥羽上皇の寵愛を受け二条天皇の乳母になっていました。
娘が天皇の乳母であったのが事実だとすれば光保の政治的位置はある程度高いものであると思われます。
(ちなみに平清盛の妻時子も二条天皇の乳母だったようです)
この点は、後白河法皇派には不気味に見えた存在だったかもしれません。
頼政には二条院讃岐という二条天皇に仕えたであろう娘がいますが
乳母と単なる女房では重みが違います。
当然その父親の立場も違ってくるでしょう。
頼政は光保に比べると「薬にも毒にもならない存在」だったのではないのか
という推測もできるのです。
源頼政です。
彼もまた「平治物語」の中では軍を発動した人物として描かれています。
しかし、彼には何のお咎めもありません。
「平治物語」の記載によると途中で清盛に寝返ったという点では昨日書いた源光保と同様の行動を取っています。
しかし、光保は流罪そしてその数ヵ月後殺害されるという運命を辿ったのに対して
頼政はその後も宮廷社会に残り、公卿の座を手にするまでにいたります。
この差は何なのでしょうか?
それは「平治の乱」の関与の差だと思います。
「百錬抄」「愚管抄」には平治の乱の事を書いた部分には頼政は一切出てきません。
(ちなみに保元の乱では「愚管抄」に頼政の名前が出てきています。)
陽明文庫本(上巻)および学習院本(中巻)「平治物語」の記載では次の通りです。
まず、12月9日の三条殿襲撃や信西一家に対する捜索の部分では頼政の名前が一切出てきていません。
頼政の名前が出てくるのは12月26日の合戦の時点になってからです。
しかも頼政は信頼らがいる内裏にはこもらず、独自に「五条河原」近辺に陣を敷いているのです。
そして最終的には、信頼方の源義平の襲撃を受けて反撃をするという形になります。
「愚管抄」などには名前が見えず、「平治物語」でも信頼とは別行動。
つまり、12月26日に頼政が軍勢を発動した可能性はありますが、
その発動は信頼や義朝に呼応したものでもないのです。
これは私の推測ですが、もし頼政が軍を出動させていたとするならば
その出動理由は美福門院の内意によるものではないかと思うのです。
頼政の郎党の下総の下河辺氏はこのころから頼政に従っていますが後の八条院領となる下河辺荘を管理しています。
そして、頼政は後に美福門院所生の皇女八条院に近侍します。
頼政は保元以前から治承寿永の頃まで一貫して美福門院ー八条院に仕え続けています。
頼政がまず従うべき存在は美福門院です。
そして、美福門院が二条天皇の後見人で在る以上は二条天皇を守護するのは当然
さらにその時二条天皇がいる六波羅を警護するのも当然のことでしょう。
そこへ六波羅を攻めようとする源義平が攻撃を自軍に仕掛けてきたたならば反撃するのも当然です。
頼政はあくまでも美福門院側近として振舞っていたので、途中から信頼や義朝を裏切ったという味方は的を外した見方なのではないでしょうか。
しかも12月9日時点では一切頼政の名前は出てきていません。
頼政は光保が関与したと思われる三条殿襲撃には加わっていないのです。
頼政は謀反人となった信頼の討伐に加わった賞される武士であって
三条殿襲撃に関わった謀反人の一味と見なされる可能性は全く無かったのです。
そのあたりが12月9日に深く関与した源光保との差ではないのかと思われます。
光保と明暗を分けたもう一つの理由は
頼政の政治的立場の低さにあるような気もします。
光保の場合娘が鳥羽上皇の寵愛を受け二条天皇の乳母になっていました。
娘が天皇の乳母であったのが事実だとすれば光保の政治的位置はある程度高いものであると思われます。
(ちなみに平清盛の妻時子も二条天皇の乳母だったようです)
この点は、後白河法皇派には不気味に見えた存在だったかもしれません。
頼政には二条院讃岐という二条天皇に仕えたであろう娘がいますが
乳母と単なる女房では重みが違います。
当然その父親の立場も違ってくるでしょう。
頼政は光保に比べると「薬にも毒にもならない存在」だったのではないのか
という推測もできるのです。
![にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ](http://history.blogmura.com/his_nihon/img/his_nihon80_15.gif)