時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

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総目次

2014-01-02 05:58:40 | このブログの構成
蒲殿春秋(六百三) 10/31 up
強運の左大臣 8/26 up

このブログの構成
小説蒲殿春秋目次1 目次2 目次3 目次4 目次5 目次6
蒲殿春秋解説目次
源平時代のたわごと目次 この時代に関すること等の個人的なつぶやきです
日記・軍記物目次 この時代を描いた軍記物や日記等の古典・原典に関するあれこれです
年表一覧
用語解説
地図
系図目次
参考資料

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謹賀新年

2014-01-02 05:57:13 | Weblog
あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

平成26年1月2日 さがみ
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蒲殿春秋(六百三)

2013-10-31 23:16:27 | 蒲殿春秋
一方源範頼はその軍勢を増やしながら都へと進む。

ここまで軍勢が増えると先頭から末尾まで通り過ぎるまでにかなりの時間がかかる。
休息も一所で済ますわけには行かなくなる。

途中先遣隊をやって休息させる場の確認をしなければ休息の一つもさせることができない。

尾張の熱田に入った範頼は和田義盛を呼び寄せた。

「間もなく畿内に入るが大丈夫であろうかのう?」
「大丈夫とは?」
「知っての通り先般伊賀伊勢で反乱が起きた。忠清法師が行方をくらませたとも言われておる。
我らが畿内を通る際に襲い掛かりはしないだろうか?」

「確かにその懸念はございますな。」
と和田義盛は答える。

そのような会話を交わす二人の元に朗報が入る。
都にいる義経の手配でこの反乱に加わっていたと見られる平信兼父子が打ち取られたというのである。

範頼と義盛は大きく頷いた。

その後軍議が開かれた。
この先軍が膨らむことを考えると長蛇の列を作って西へ進むのは上策ではない。
軍をいくつかに分け、伊賀伊勢の反乱勢力の攻撃に備えながら西へ進み、現在梶原景時がいる播磨を目ざす
ということに決した。

さらにその軍議の席で、総大将範頼は都に立ち寄り平家追討の官符を賜るということが決せられた。
官符を賜れば、西国に出向いても西国で食糧や人手の徴収ができるのである。
この事を知り東国から上ってきた御家人たちは歓呼の声を上げた。

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蒲殿春秋(六百二)

2013-10-31 22:59:01 | 蒲殿春秋
検非違使に任ぜられた源義経は前にもまして多忙な日々を送っていた。
都の治安維持を図るのはたやすいことではない。
さらに義経にはさまざまな相談事が寄せられる。
土地の訴訟、新たに畿内にやってきた御家人と荘園領主とのいさかいの仲介
果ては、貴族の邸宅の清掃の手伝いの依頼まで寄せられる。

そのような義経を支えるのに文官が必要になるのであるが、
実務に長けた文官を呼び寄せる人脈は義経には足りない。
ただ、義経には鞍馬で修行していたという経歴がある。
鞍馬は比叡山の末寺である。義経は鞍馬を通じて比叡山に通じる人脈を持っている。
比叡山は多数の荘園を抱え、その荘園の諸問題を解決する能力に長けた僧侶も存在する。
そのような僧侶たちがが義経の足りない人脈を補っている。

今日も義経は数々の訴訟に追われていた。
激務の中多数の訴訟をこなす義経には疲労の色がにじんでいた。
当初兄頼朝を見習って時間をかけてじっくり双方の意見を聞いていた義経であるが
とうていそのような時間が取れない。
しかも双方ともに早急なる勝利を要求する。
さらに、東国の武士とは違い訴訟のなんたるかを知っている畿内の者たちは簡単に採決には納得せず
何度も何度も採決のやり直しを要求してくる。

義経は訴訟の沙汰は以前の綿密さを欠くようになっていった。
それでも訴訟、そして御家人の行動を濫行とみなす畿内の人々の訴えは後を絶たない。

そのような義経をさらに多忙とさせる事態が発生した。
鎌倉にいる兄頼朝から伊賀伊勢の反乱に加わった平信兼父子を誅せよとの命令が下された。

義仲を討伐する際、信兼の協力は大きかった。
そのことを思えば信兼を討ち滅ぼしたくはなかった。
しかし、伊賀伊勢の乱に関与した信兼を放置することはできない。

義経は兄の命令通りに信兼親子を討ち滅ぼした。

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蒲殿春秋(六百一)

2013-10-20 22:41:29 | 蒲殿春秋
範頼軍は進む。
西へ進む旅に軍勢の数は膨らむ。

範頼の手元には名簿の数が膨らんでいく。

その様子を二人の郎党が眺めている。

「おい吉見次郎」
「なんだ当麻太郎」
「やけに今回は集まりがいいなあ。」
「そうだな。木曽攻めや一の谷の時はあまり人がいなかったし、
出てくるやつはどこか面倒臭そうな顔してやってきていたよな。」
「そういえば、此度はみな明るい顔をして出てきてやがる。
しかも一門兄弟多くそろえてきてやがる。」

そんな二人の会話をそばで範頼と和田義盛が聞いている。

「やはり、蒲殿のご郎党も此度の出陣の皆の意気込みの違いを感じておられる。」
と和田義盛は言う。
「和田殿もそう思われるか?」

「さよう。
前回の出陣は、出陣の支度の大変さや遠くへ行くことを渋っているものをなだめすかしながらの出陣でござった。
だが、今回は違う。皆喜んで出陣したがっておりまする。この違いの訳を蒲殿はお分かりですか?」

範頼はしばらく黙る。そして微笑みながら答える。
「恩賞、であろうか?」
和田義盛は膝を打って答える。
「さようでござる。
御家人たちは知ったのでござるよ。木曽攻め、一の谷、そして先般の甲斐信濃征伐にて
鎌倉殿が確実に恩賞をくださることを。
確かに出陣の負担は大きい。されど、出陣して勝利した暁には恩賞が手に入る。
それゆえに、此度出陣を志願するものが増えたのでござるよ。」

「そうであろう」

「御家人たちは切実な問題を抱えておりまする。
多くの者どもが産めよ増やせよで子を沢山儲けましてございまする。
しかしながら、分け与える所領は限られておりまする。
このままでは所領をもらえぬ子も現れかねませぬ。
しかしながら、恩賞を得られればその地を子に与えることができまするゆえに。
しかも、此度は西国の平氏の所領がそのまま手に入る可能性もございまするゆえに。」

和田義盛の目がギラリときらめいた。

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蒲殿春秋(六百)

2013-10-15 23:01:10 | 蒲殿春秋
頼が相模国で夜空を見上げていたその頃、都ではその異母弟が憂鬱な表情を浮かべていた。
その異母弟ー源義経はこの日検非違使左衛門少尉に任ぜられた。
その晴れがましさとは対照的な表情を彼は浮かべている。

「困った」と義経は言う。
傍らに控える弁慶はその主を怪訝な顔をして見つめる。

端正な顔を曇らせながら義経は不安を口にする。
「私は宮廷の作法を知らずにここまで来た。この官職を受けてしまって勤まるのであろうか?」
傍らに控える小太郎という雑色が答える。
「ご心配あそばされますな。鎌倉殿が万事支えてくださいまするゆえに。」
「しかし、此度はあまりにも早急な任官ゆえに兄上に知らせるのが遅くなってしまった。
兄上へ気にしておられないだろうか?」
「いえ、さほどのことはございますまいに。鎌倉殿は先の戦の任官に九郎殿を任官させることができなかったのを残念がっておられましたゆえに。」
「さようか。小太郎が言うのならば間違いはあるまい。」
小太郎は頼朝がつけてくれた雑色で、頼朝の内意をよく知るものである。
小太郎がそういうのならば問題はあるまい。

小太郎はその夜姿をくらますと一条大路をまっすぐに目指す。
翌日義経の異母姉である一条能保室からの依頼ということである検非違使が義経の元を訪れる。
その検非違使はその日から義経に対して数日かけて宮中の作法を教えはじめた。

官位にふさわしい作法を身に着け始めた義経であったが、再びまた憂鬱な表情を浮かべる。

「財がない。」
深刻な表情で傍らに控える弁慶に訴える。

当時任官する為に、莫大な資産を朝廷に納入する成功という制度がまかり通っていた。
逆に言えば財的奉仕をしなければ任官できないのである。
例外もあって例えば実務に長けていたならばその実務の功績を買われて実務官僚に取り立てられることもあるし
特別な功があればその功に対する賞で官位が与えられることもある。

義経の場合はここ数か月の都の警備と先の伊賀伊勢の平家の反乱鎮圧を認められての任官である。
よって財的奉仕免除で任官されたものである。

だが、だからといって何も財を差し出さなくてもいいというものではなさそうである。
功を認められての任官であっても何か折に触れて財的奉仕を求められる可能性が高い。
そのことを本日の作法の稽古でちらりといつもの検非違使からほのめかされた。

また任官されたらされたで慶び申しという祝賀行事、任官を手配してくれた者への謝礼などなど財が必要になることが目の前に突き付けられる。

この時点の義経の立場は鎌倉殿源頼朝の弟でありなおかつ義子なのであるが、
義経自身の経済収入を支えるものは何一つない。
義経名義の荘園はなく、受領でもないので受領の収入もない。
何か入用ならば鎌倉に願いを立てねばならぬが、鎌倉までの往復の時を待てないこともある。
現に今そのような状況に追い込まれている。

そのような主を見つめて弁慶は豪快に笑う。
「何を心配なされているのかと思えば」
胸をたたきながら豪語する
「私にお任せあれ!」と

数刻後、弁慶は義経の前に馬、絹、米、そして宋銭を見事に並べた。
これだけあれば今すぐ必要な慶申等に間に合いそうである。

義経は目を丸くした。
弁慶はそんな主を見つめてニヤリする。
「私めは叡山の法師でござる。叡山の力を使えばかようなものすぐに手配できるのでござるよ。」

この比叡山の力。これがこののちの義経の運命に大きくかかわることを義経はまだ知らない。

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蒲殿春秋(五百九十九)

2013-09-25 06:29:27 | 蒲殿春秋
紺村濃の直垂に小具足姿の範頼は兄頼朝から賜った名馬にまたがり鎌倉を立った。
彼のすぐ後には和田義盛が続きさらにその後に足利義兼、武田有義、三浦義澄などの名だたる武将が続く。
各武将が出立すると鎌倉の近くで待機していた配下の兵たちが合流し
その軍勢は数を増しながら東海道を下っていく。

正午に鎌倉を出立した一行であるが、さほど進まぬうちに日は傾いていく。
範頼は和田義盛を近くに呼び寄せた。

「今宵の宿営は整っておるか?」
と尋ねる。
「既に先遣のものが支度しておりまする」
と和田義盛は答える。

範頼はその答えに満足した。

そういっている間にも軍勢は人を吸い寄せてますます増えていく。

一人の武将が出陣すれば多くの郎党が従い、武将や郎党たちには下僕が数人従う。
さらに、荷駄を担ぐもの、城郭を築いたり敵の城郭を壊すものなども従い一人の武将には数多くの者がついてくる。

ついてくるのは人だけではない、馬も人が乗っている馬、載せ替えの馬など多くの馬がついてくる。
まるで多くの者が住む場所を移し替えるような有様である。

彼らを不満がらせずに宿営させねばならない。
その奉行は今回の軍目付和田義盛の差配によって行なわれる。

日がその姿を水平線の下に隠す前に宿営地に一行はたどり着く。

割り当てられた場所に各武将は宿営しやがてかまどから煙が立ち上り始める。
夜が更け始めると各陣から賑やかな声や笑い声が聞こえる。

その様子をみて範頼は安堵した。

和田義盛は諸将に不満の出ない場所に宿営地を割り当てているようだ。
この割り当てを間違えるといさかいが起き士気の低下を招きかねない。
前回の出陣の際もその事に関して土肥実平や梶原景時は大いに気を使っていた。
それでも多少のいさかいなどが起きていた。

今回も無事に済むと良いが、と範頼は願う。

星々がその輝きを増し、夜空を彩り始めると各陣は静けさに包まれ始める。

星を見上げながら範頼は兄頼朝から聞いた言葉を思い出していた。

「西国にある平家はその勢いを増しつつある。
先に山陽道にある土肥、梶原らは平家に圧されつつある。
畿内にある九郎は畿内の反乱の残党の追捕で手が離せぬ。
畿内の状況も予断がならぬ。
六郎、そなたは大軍指揮し土肥、梶原と共に西国の平家を鎮めよ。
そして、平家の手中にある先帝、女院そして三種の神器を無事取り返し
新帝のおわす都へ確実にお戻しせよ。」

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蒲殿春秋(五百九十八)

2013-09-12 15:15:54 | 蒲殿春秋
一方その頃都はいまだに不安のまったっだ中にあった。
伊賀の平氏の反乱は先日鎮圧されたものの、その残党の行方は杳として知れず
そのことが都の人々の心に影を落とす。
また、現在四国の讃岐屋島にある平家の勢いは次第にその力を増してきている。
都の治安は相変わらずよろしくない。

そのような不安を取り除くかのような盛儀が七月末の都で執り行われた。
元暦元年(1184年)七月二十八日後鳥羽天皇の即位の礼が行なわれた。

即位の礼には三種の神器が必要なのであるが、後鳥羽天皇は神器なしという異例の御即位を遂げられた。
三種の神器は未だ四国屋島におわす安徳天皇のもとにある。

この事態はいずれ収拾されねばならないと朝廷の人々は思っている。

三種の神器は安徳天皇報じる平家の手中にある。
その平家は和議には応じない。
ならば力ずくで奪還するしかない。

その奪還者として期待されていたのが源義経。
だが義経は都の治安維持と先日の伊賀の乱の処理と残党掃討に手いっぱいで身動きがとれない。

鎌倉の頼朝が次にどのような手を打ってくるかに人々の意識は向かう。

その鎌倉の頼朝のいる大蔵御所において、ささやかな酒宴が催されていた。

頼朝の次席に坐するのが三河守源範頼。頼朝の異母弟である。
その範頼を囲むように坐するのが足利義兼、武田有義。
さらにその下座に侍所別当和田義盛が坐している。

頼朝は彼らを親しく呼び寄せると励ましとねぎらいの言葉をかけた。

その宴席の翌々日の八月六日、華々しく甲冑姿に身を固めた一団が続々と鎌倉を後にした。
源範頼を総大将とする西国遠征軍が西に向けて旅立っていった。

一方その同日都においてある除目が行われた。
都において頼朝の代官として活動している源義経が検非違使左衛門少尉に任じられた。

時代はまた新たに動き出そうとしていた。

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玉葉 強運の左大臣

2013-08-26 21:56:13 | 日記・軍記物
久々の更新となります。
久しぶりに「玉葉」を読んでいたら面白い記事にあたりました。

元暦二年(1185年)二月十一日条
「(前略)伝え(聞く)去日左大臣家より追い入るの事あり。犯人二人かの家中の於いて自殺そ了んぬ。左大臣逃げ去るの間、件の犯人その首を切らんと欲す。而り脇戸をこらしその身に及ばずと云々。希有中の希有の事なり。」

ここで出てくる左大臣は藤原(大炊御門)経宗。
左大臣は現在でいういところの総理大臣兼衆議院議長といったお偉いさんです。*

そんなお偉いさんの左大臣の邸宅に賊が入り込んでその邸宅の主左大臣を殺そうとして
犯人がそのお屋敷の中で自殺する、という物騒なことが起きたんですね。
殺されそうな左大臣は必死に逃げた、と。


*左大臣より上位の摂関は天皇の政務代行or相談役で議定に参加できず
太政大臣もお飾り的なもんだたようです。
つまり左大臣が政策決定機関たる議定の参加者のナンバーワンです。

この事件の被害者の左大臣経宗さんは恐ろしい殺害犯から無事逃げおおせたという点では非常に強運です。
(それにしてもお偉いさんが自邸に賊に侵入され、殺されそうになるんですから恐ろしい世の中だったったようです)

こんな経宗さん別の意味でも強運です。

最近書き終えた短編小説(こちら)にもご登場いただいたんですがこの人の人生自体強運です。

経宗は二条天皇の母方の叔父です。
まったく即位の芽がなかった二条天皇でしたが、近衛天皇が皇子を設けずに崩御されたので
次期天皇となることが急遽決まります。
一旦その父君の後白河天皇が即位した後の即位が約束されてました。
経宗さんは突如帝の外戚となることが約束されます。これもまた強運。

その頃保元の乱が勃発。
保元の乱の後も政局が落ち着かず平治の乱が勃発。

その経宗さんは平治の乱をさんざん引っ掻き回します。
まず、権勢をふるっていた信西さんを信頼が討つことに同意。
その後、信頼を追い落とすべく、平清盛を味方に引き込んで今度は信頼を追討。
そして二条天皇の外戚として自分が権力をにぎることを目指し、二条親政を掲げて後白河上皇を圧迫。
しかし反撃に転じた後白河上皇の命令でいきなり逮捕されてと流刑になります。

二条天皇の側近だった為に後白河上皇の反撃を食らったという見方もありますが
平治の乱勃発の当事者の一人として流刑になったという見る向きもあります。

通常ですと、「これで終わった」となるんですが
経宗さんはこんなことで終わる人ではありません。

乱の二年後経宗は帰京を許されます。
そしてすぐに右大臣就任(流刑前は権大納言)。
この背景には後白河上皇を押しのけて親政を進めようとした二条天皇派の力が働いていたと思われます。
このままいけば二条天皇派の有力者としてやっていけると思った矢先いきなり二条天皇が崩御。

しかし、なんとその翌年に左大臣に昇進。

二条天皇派はその後壊滅をしますが、その後も経宗は左大臣に居座り続けます。

この背景には後白河上皇の引き立てもあったと言われています。
後白河上皇はかつて敵対したものでも自分に対して恭順で有能であるならば引き立る
という懐の深い一面をお持ちだったようです。
経宗はそれに乗って後白河派に転向。

また、経宗は当時勢力を伸ばしつつあった平家一門とも接近していきます。

なんやかんやいってこの人世渡り上手です。

ですが、くるくる変わるのが政界というもの。

後白河法皇と清盛が対決するようになりますが、経宗はそこをうまく乗り切り地位を確保。

やがて平家が都落ちすると、今度は後白河法皇の意に乗って平家一門を見捨てる行動と次々実行!

平家が滅ぶと養子にしていた平重盛の子を家から追放(一応殺されないような配慮はしたようですが)

うまく時流にのってますが、
平治の乱で信頼にくっついて信西殺害の片棒をかつぎ
あっさりと信頼(のぶより)を裏切って二条天皇を六波羅にお遷しして信頼追討の片棒をかつぎ
二条派壊滅のあとはしゃあしゃあと敵だった後白河上皇にすり寄り
平家が力を持つとちゃっかりと接近し
滅ぶとその遺児をあっさり追放。

ある意味冷淡です。

これじゃあ敵を作っても仕方ないです。何者かによって邸宅に殺し屋を送り込まれても仕方ないかもしれません。

でも、このくらいドライで冷淡でなければ政局を渡りきれなかったも事実。

そしてうまく乗り切るには運も必要。
(後白河法皇も源頼朝も相当の強運の持ち主です)

そういった面ではこの時代の乗り切り方を象徴するような人生を送った人といえるかもしれません。


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お久しぶりです

2013-04-15 05:28:03 | Weblog
長いこと更新がストップして申し訳ありません。
いろいろ多忙で更新がままならない状況が続いておりました。

小説もどきの続きを書くのはもう少し後になりそうですが
とりあえずいったん更新をさせていただきます。
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