時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百三十五)

2008-12-31 12:07:03 | 蒲殿春秋
さて、都落ちせんとする平家の手を逃れ比叡山に登られた後白河法皇の元には色々なものが現れた。
まず、先に比叡山に入っていた近江源氏の武将達が後白河法皇を警護しまつらんと参上した。
ついで、都に残っていた廷臣たちも続々と比叡山に登る。
真っ先に現れたのが前摂政松殿基房。
基房は去る治承三年の政変において平清盛によって摂政を辞めさせられていた。
今回の平家の都落ちと法皇の御登山は自らの復権の機会とばかりに真っ先に比叡山に上った。
が、暫くして基房を失望させる事態が起こる。

基房に変わって摂政の座についた甥の近衛基通が法皇の御前に現れたからである。
基房だけではなく、他の廷臣達も驚く。
今まで平家べったりだった基通の立場を思えば、基通は必ず平家の同道すると思っていたからである。
一人だけ驚かれなかったのは後白河法皇のみ。
法皇と基通はこのとき誰も知らぬ秘密を抱えていた。
ともあれ、復権を目指す基房にとって基通の参上はありがたくないものであった。

法皇、摂政、そしてその他大勢の廷臣たち。
かれらが上った比叡山はさながら朝廷がここにできたかのようである。
ただ、天皇が不在と言う事実を除いて・・・

七月二十七日、都から平家の残党がいなくなったことを確認して、後白河法皇そして廷臣たちが比叡山を降りて都へ戻った。
後白河法皇を警護するのは近江源氏錦織義高。
院ー後白河法皇は蓮華王院に入られた。

翌日二十八日蓮華王院の法皇の御前において様々なことが議定される。
まず、議題に上ったのが安徳天皇と共に都を出た三種の神器をいかにして都に帰還させるかということである。様々な意見が出されたものの具体的な方策が決まらない。都は治天の君と摂政がいるが天皇が不在であるという異常事態となった。
ついで都に残った平頼盛の処遇が議された。
さまざまな議論が噴出したが、頼盛には解官させるものの刑罰には問わないいう方向に話が落ち着いた。頼盛はしばらく都でなりを潜める生活を余儀なくされる。

七月二十五日平家が都落ちをした際、平家が立ち去り炎上する平家の一族や郎党の家屋敷に物盗りが多数乱入した。
今まで都の治安は最大軍事貴族であった平家が一手に引き受けていた。その平家が立ち去ると言うことは都の治安を司るものが不在になるということを意味する。
平家都落ち直後から、都のあちらこちらで狼藉が多発するようになっている。

七月二十八日、政治的異常事態と治安の急速な悪化に見舞われている混乱の都に二人の反平家勢力の首魁が入ってきた。
木曽義仲と新宮十郎行家である。既に近江源氏や安田義定は入京していた。
義仲は都の北から、行家は都の南からそれぞれ入る。

前回へ 目次へ 次回へ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百三十四)

2008-12-30 06:48:14 | 蒲殿春秋
急展開する戦況に追われての西国下向だったため平家は急いで都を後にしていた。
その慌しさの中では妻子を伴って都を出ることが出来なかった者も少なくない。
ゆえに一門が福原に落ち着くと妻子を迎えとる為に使いをもたらすものがいた。

平清盛後室時子の弟法勝寺執行能円もその中の一人である。

能円は使いを出し妻と娘、そして妻が乳母として仕えている四の宮を福原に迎えとろうとした。

能円の妻は藤原能兼の娘の範子である。
この範子は高倉院の第四皇子尊成親王の乳母の任にあった。
四の宮と呼ばれる尊成親王の母は藤原殖子であって高倉天皇中宮であった建礼門院徳子ではない。
生母殖子は元々徳子の女房であったのを高倉天皇に見初められて密かに寵愛され二の宮と四の宮を出産した。
元々が徳子の女房であったということで、殖子とその親族は中宮や背後の平家一門を憚って
密かに二人の皇子を養おうとしていたのだが、徳子の母の時子が殖子と二皇子に手を差し伸べていた。

時子は二の宮には息子知盛の妻治部卿局を乳母に付け、
四の宮には自分の弟能円の妻範子を乳母につけたのである。
そして、時折この二皇子には心を配り続けていた。

今回の西国下向に伴い、平家は高倉院の皇子を全て奉じる予定である。
高倉院の皇子は全て皇位継承の可能性があるからである。

夫からの知らせを受ける前に範子はいそいそと西国に下る準備をしていた。
直ぐに迎えをよこすからと夫が言い残して西国へ向かったからである。
範子はいつ夫から迎えが来るのかと心待ちにしていた。
夫からの迎えを待ちきれず、四の宮の供をして西京まで出ていた。

そのようなところへ、馬や車の列が到着した。
が、範子の前に現れたのは夫からの使いでは無かった。
今範子の目の前にいるのは弟の藤原範光。

「さあ、都に帰りましょう。」
弟は範子に向かってこういった。
「いえ、帰りませぬ。」
と範子は答える。
「この先平家と行動してどうするのですか。平家に供しても宮様は廃れ皇子になるだけです。
院が都に留まられております。今都に留まればこの宮様のご運がどれだけ開けるかお分かりにならないのですか?」
範光は強い口調で姉に物申す。
「そなたは・・・・」
「さ、都に帰るお支度を」
唖然とする姉と四の宮を強引に車に押し込んだ範光。

「待って!」と叫ぶ範子の声を聞かず範光は車を出発させた。
「高倉の館で叔父上がお待ち申し上げています。まずはそちらに。」
範光らが言う叔父上とは先に舅平教盛との別れをした藤原範季である。
範子、範光、そしてその妹兼子の三兄妹は父の死後叔父藤原範季に養われていた。

車は急激に西京を離れる。
その直後四の宮と範子母娘が滞在していた筈の宿所に能円からの使者が訪れた。



前回へ 目次へ 次回へ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百三十三)

2008-12-29 05:47:35 | 蒲殿春秋
小松一門たる平維盛が妻子とのつらい別れを行なった前日、
つまり一門が都落ちをする当日門脇殿と呼ばれる平教盛邸宅においても悲しい別れが行なわれていた。
藤原成経の妻などの娘やその婿そして孫たちとの別れであった。
中でも遅くにできた末娘教子との別れは悲痛を極めた。
遅くに出来た子ゆえ父にとりわけ可愛がられて育った教子にとって父との別れはひとしお辛いものに感じられた。
教子はまだ歩き始めてばかりの二歳の娘を抱えて父との別れの挨拶をした。
その教子の肩を優しく抱きかかえているのがその夫の藤原範季。

「義父上、よろしければ都に留まりませぬか。」
そう声を掛けたのが、娘婿のうちの一人の藤原成経。
教盛が都落ちをするその頃には都中に後白河法皇逐電の噂が知れ渡っていた。
院近臣である成経は後白河法皇と舅教盛との間を取り持とうというのである。
成経は都落ちする平家の行く末に暗いものを感じていた。
都落ちするよりも今までの縁を頼って教盛が後白河法皇に従い都に留まるほうが良いと思われた。
教盛自身も院に近く仕えたこともあり、法皇の同母の姉宮上西門院に今も仕えている。
後白河法皇もしくは上西門院に頼み込めば、教盛は都に留まることができるかも知れないと成経は考えていた。
かつて鹿ケ谷と呼ばれる事件で流罪となった成経の生活の糧を送り続け
その赦免にも力を尽くした舅に深い恩義を感じている。
その舅ががこの先もなんとか立ち行くようにしたいと成経は思っていた。
成経は自分が後白河法皇や上西門院と教盛との間に立つ覚悟はできていた。

だが教盛の答えは否であった。
「倅達を見捨てるわけにはいかんのでな。」
という。
教盛の子通盛と教経は再三北陸に攻め込んでいた。
よって今回都に攻め寄せる義仲に味方した北陸の豪族達からは深い恨みを買っている。
反乱勢力が通盛と教経を許すとは思えない。都に入るやいなや法皇の制止が掛かる前に通盛と教経は彼等に殺されるであろう。

教盛はふと遠くを見つめた。
「此度の寄せ手が鎌倉勢であったら事情が違ったかもしれないが・・・」
視線をふと範季に向けた。
婿高倉範季が鎌倉殿源頼朝の弟源範頼を密かに養っていたことを教盛は知っていた。
そして、教盛自身平治の乱以前に上西門院に仕えていた頼朝と顔見知りであったし
乱以降も頼朝の外戚熱田大宮司家との付き合いもあった。
木曽義仲が何者かを知らぬ人々が多い中で、教盛は鎌倉勢と今回都に迫った勢力は別物であることは承知していた。婿の範季が時折伝えてくる知らせによって。

教盛は愛しい娘や孫たちを見つめた。そして語りかける。
「この先何があるか分からぬが息災でいなさい。何があっても生き延びるのだよ。」
そして婿たちにいう。
「娘を頼みます。」
それだけ言うと馬上の人となり息子達や郎党らを引き連れ西へと去っていった。

伊勢平氏略系図


前回へ 目次へ 次回へ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ



蒲殿春秋(三百三十二)

2008-12-28 06:25:09 | 蒲殿春秋
清盛のかつての後継者であった清盛長男の故重盛の子やその郎党たちも一門から離反寸前であった。
重盛の次男資盛も郎党平貞能と共に都に程近い山崎に出陣していた。
その資盛の元に兄維盛や弟清経などの兄弟が集まってくる。
兄弟たちから一門都落ちの報を聞く。
時をほぼ同じくして後白河法皇が身を隠したことも聞く。
資盛らは都に戻った。頼盛同様院に付いて都に留まることをを図った。
資盛らは院近臣である縁戚らに法皇への取次ぎを願った。
けれどもだれも取り次ぐものはいない。
一晩都で伝を辿り続けたけれども、法皇に取り次いでくれるものを探すことはできなかった。

仕方なしに小松一門と呼ばれる重盛の子等は先に西国へ向かった宗盛らを追って都を落ちた。
資盛はかつて男色関係にあった後白河法皇を恋い慕いながら都を後にし、その兄維盛は院近臣であった藤原成親の娘である妻やその妻との間にできた子と痛切な別れをした。

一方、郎党平貞能は今は燃え落ちた六波羅屋敷に戻りかつての主君平重盛の墓を掘った。
敵に主の墓を暴かれ遺骨が辱めにあってはならぬと思い、重盛の遺骨を全て拾い集めて首に掲げた。
そして主君の遺骨を捧げもって宗盛らが待つ福原を目指した。
福原へ行く際、今まで平家と共に戦ってきた東国武士達に故郷に帰るように勧めた。
畠山重能、小山田有重、宇都宮朝綱などがその勧めに応じて東国へと下る。
中でも今まで懇意にしていた宇都宮朝綱には格別の配慮をした。
この彼等の帰郷が坂東に新たな火種を持ち込むことになるのであるがそれは後の話。

福原に赴かなかった平家の郎党達は少なくない。
上総介藤原忠清など数名のものは都にとどまり、平田家継は所領のある伊賀へと下った。

伊勢平氏略系図


前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百三十一)

2008-12-27 10:58:24 | 蒲殿春秋
平家一門に混じって摂政基通が西国を目指して出発した。
ところが、その基通の車が途中で消えた。
平家一門が気が付いたときには基通は行方をくらませた後だった。

平家が奉じる安徳天皇は幼帝である。
この幼帝を支えるのは治天の君である後白河法皇と摂政基通である。
治天の君が不在となった今、安徳天皇の正統性を主張するには摂政の存在が必要不可欠である。
成人の天皇でさえ関白が存在するのである。
ましてや幼帝ならば摂政なくば立ち行かない。
この時代誰でも摂政になれるわけではない。
摂関家に生まれしかるべき官位を経験した成人男子しか摂政になれない。
このとき平家は現摂政基通しか摂関家の男を同行させていなかった。
今までのいきさつと一門の婿であるという事で平家は基通は自分たちに同行するものと信じて疑っていなかったのである。

摂政不在の幼帝。安徳天皇の正統性はますます弱まることになる。

基通は故清盛の娘婿であり、妻の姉である義母盛子に養母として支えてもらっていた。
叔父基房を退けて摂政の座を射止めたのも清盛の力があってのことだった。
いわば基通は平家の身内ともいってもよい存在である。
その身内に平家は離反されたのである。

身内の離反は基通に留まらない。
清盛の異母弟頼盛は甥である平家総帥宗盛の要請を受けて山科に出陣していた。
出陣中の頼盛への西下出発の知らせが届くのに時間がかかった。その知らせが届く頃には頼盛は後白河法皇逐電の噂を耳にしていた。
頼盛は都落ちする平家一門とは同行せず、武装を解除した上で都に戻り自身が長年仕えている八条院の御所へと参上した。
『自分は一門には同行しない。自分はあくまでも院に忠誠を誓いたい』そのような旨を院ー後白河法皇に取り次いで頂きたいと頼盛は八条院の女房である妻を通じて八条院へ申し上げた。
頼盛の妻は八条院の乳母子である。
八条院は以仁王が討ち取られた際その遺児の皇子を平家に引き渡すよう要請した頼盛に未だ不信感を抱かれていた。
けれども長年忠実に仕え続けている乳母子を通した頼みゆえに八条院は後白河法皇への取次ぎを渋々了承された。

伊勢平氏略系図


前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百三十)

2008-12-25 22:47:00 | 蒲殿春秋
天皇、後白河法皇ー治天の君たる院、そして摂政。
この方々を奉じて西国に下るという平家の思惑は思わぬところから破綻をきたそうとしていた。

寿永二年七月二十四日深夜、後白河法皇の元に密かにある知らせをもたらすものがいた。
治天の君である後白河法皇と平家との間には微妙な距離がある。
法皇には翌二十五日に都落ちするという話は一切伝えられなかった。

が、何者かが法皇に翌日の都落ちを密かに申し上げた。
深夜のことで目を覚ましているものも殆どいない。
法皇は信用できるごく少数のものだけを召され、御所とされている法住寺を密かに抜け出された。

法皇は七条京極へ向かわれその後鞍馬山に入られた。しかしそのまま鞍馬山にはお留まりにならずに山伝いに輿を歩ませ横川へと入られた。横川はもう比叡山の領域の中にある。今の平家には比叡山に強硬な申し入れをできる力は無い。

翌朝になって法皇がいないことを法皇にお仕えする女房達が知ることになる。
法皇のこの一連の行動をこのとき誰も知ることは無かった。

仰天したのは平宗盛らの平家一門である。
彼らは当然法皇も奉じていくつもりであった。
しかし、法皇はおわすはずに法住寺にはおられない。
法皇がどこにおわすかを探そうにも御所に残るものすら御幸先を知る者がいない。

こうしているうちに、七月二十五日の朝は空け日が段々と高く立ち上る。
近江には反乱勢力があり南からは源行家らが迫ってきている。淀川口の動きも活発になってきている。
平家はこれ以上出立を遅らせるわけには行かない。
法皇の御幸を諦め、平家は安徳天皇そして三種の神器を奉じて都を後にした。

六波羅、西八条といった平家の邸宅から火の手が登る。
都に一時激しい炎が巻き起こる。
平家が自らの屋敷に火をかけていったのである。

法皇を奉じるのを諦めたものの平家は天皇を奉じることによって正統性を主張しようと図った。
しかし都からの出立直後またもや平家の思惑は打ち砕かれることになる。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百二十九)

2008-12-24 05:34:03 | 蒲殿春秋
反乱勢力都に迫る。
この状況を目の前にして平家は具体的な対応策をとらざるを得なかった。

まず、丹波方面から攻め寄せようとする足利義清らに対しては平忠度(清盛の弟)が向かった。
ついで平資盛(重盛の子)と平貞能が近江へ向かう。
しかし、反乱軍の勢いは想像以上に大きかった。
伊賀から大和国に入った源行家が吉野の大衆を味方につけて、そこから都に迫ってくる。
近江に滞在する義仲らに対応する為に向かった資盛らは、行家の北上に備えなければならなくなった。
また、忠度は迫り来る義清らの勢力に抗しきれずに大江山まで引きのいてしまった。

一方平家はこれ以上都を防御できないと判断し始めていた。
都の貴族達を巻き込んで、安徳天皇や後白河法皇を奉じて西国に下向することが真剣に取りざたされる。
連日、院御所で西国行きについての話し合いがもたれた。

しかし、事態は平家の予想を上回る早さで急変した。
山本義経らの近江源氏の武士達が比叡山に登った、との報が都にもたらされる。
ここにきて平家頼みの綱と思っていた比叡山が完全に反乱軍についてしまったのである。
そしてもう一つ。
淀川付近に勢力を持つ多田行綱が淀川口を塞ぎ、西国から淀川を通じて都に進上する年貢を差し押さえ始めたのである。
摂津河内国住人たちの多くも行綱のこの動きに同意の動きがあるという。
北陸からの年貢は近江に滞在する反乱軍に差し押さえられ、西国からのそれもまた反乱勢力に奪われる。
このままでは都には何も物資が入ってこなくなる。
また、ぐずぐすしていると西国への路も行綱らに抑えられ、西国に下ることさえもできなくなる。

平家は西国行きを急ぐこととした。
とりあえず安徳天皇、後白河法皇、建礼門院を奉じ、摂政基通を同行させて都を立ち去る。
安徳天皇の東宮として藤原殖子を生母とする高倉院の二の宮にも共に下っていただく。
他の皇子たちはおいおい迎えをよこすことにする。

他の女院や有力貴族たちも同行させる予定であったが、今となってはそこまでの余裕はない。
とにかく平家を正当化させる最小限の方々のみ奉じるのである。
天皇、法皇、摂政
この三者がいるところが即ち都となる。
この先の身の振り方はそれぞれが判断なさることとなろう。

天皇の周りは既に平家が固めている。
法皇も法住寺に移られた。

そして平家は都落ちの支度をする間時間稼ぎの出兵を行なう。
平知盛、平重衡が近江に向けて出陣した。
また平頼盛(清盛弟)も出陣。しかし、頼盛のこの出陣は彼が難色を示して渋々受け入れた出陣であった。

伊勢平氏略系図



前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百二十八)

2008-12-20 20:20:41 | 蒲殿春秋
一方書状を差し出した義仲は八条院の返事がないことはさほど気には留めずに北陸宮即位を夢見ている。

北陸宮即位は都において義仲が他の武将たちの優位に立つための必須要件である。
これまで義仲は、北陸宮を奉じることによって以仁王の遺志を実現するものという立場をとりつづけ北陸宮の権威を利用して勢力を拡大してきた。

義仲が近江に入ったことに呼応して
東海道から安田義定、葦敷重隆、土岐光長などの源氏の諸将が平家方を討伐しながら西上してくる。
近江に基盤を持つ山本義経や柏木義兼という武士達も近江で活動を開始した。
かれらの動きなくしては都の制圧はできない。

けれども、これらの武将達は義仲の動きに呼応して都を目指しているものの
義仲に対してはあくまでも協力者であって、義仲に従っているわけではない。
しかも近江の山本義経や美濃の土岐光長といった人々は都の官位を有していた経歴がある。
彼等のような任官経験者から見れば木曽義仲という人物は無位無官で格下の存在なのであり
無位無官の武将から見ても義仲は同格の存在なのである。

そしてもう一人、どうしても義仲の気に障る人物が存在する。
坂東から動くことのできない源頼朝である。
頼朝は坂東で大きな勢力を築いている。
そして、かつて従五位下右兵衛佐という官位を有していた。
この官位は各地で挙兵した反平家勢力の頭目の中でもっとも高いものである。しかもその官位を十三歳にして手に入れていた。
都の人々から見れば頼朝が最も格上の反乱者となっている。
そして頼朝は後白河法皇との人脈がある。

今回同行している武将達の上にたち、頼朝を出し抜くには
北陸宮の即位というのが最も有効な政治戦術になるはずである。
義仲はこれまで北陸宮の為に尽くしてきた。北陸宮が即位した暁には
義仲はその側近として力を振るうことが出来る。

都をもう少しで陥落させられるというところに来て北陸宮の即位が見えてきた。
義仲はそのことの到来を堅く信じていた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百二十七)

2008-12-19 05:53:11 | 蒲殿春秋
八条院はこの時代最も多くの荘園を本所として所有されている皇女である。
最も富貴な方であられ、またその所有する荘園の多さから政界に隠然たる実力をお持ちの方である。

八条院の中にある書状は木曽義仲からもたらされたものだった。
「我らは平家を追い落とします。
その暁には、我らが奉じる高倉宮(以仁王)さまの皇子
北陸宮さまに皇位にたっていただく所存にございます。
八条院様にそのお力添えを賜りたい。」
書状にはそのように記されていた。

━━あの頃とは事情が違う。

あの頃とは、以仁王が自ら皇位につかんと令旨を発した治承四年(1180年)のことである。

当時平清盛によって後白河院政が停止され、高倉天皇は安徳天皇に譲位された。
高倉院による院政が行なわれたものの、この安徳天皇の即位は本来の治天の君後白河法皇の意志によらぬ即位であった。
その即位には当然反発もあったし、八条院自身認めがたいものがあった。
平家に対する宮廷や寺社の反発もあった。

しかし現在は違う。
即位の事情に問題はあるものの安徳天皇が践祚してからすでに三年が経過した。
高倉上皇の崩御により後白河院政も復活した。
平家による政治への介入は続くものの表面的には後白河法皇は安徳天皇を支える治天の君の座にある。
この体制を批判するものは今となっては誰もいない。

今更以仁王の遺した皇子を持ち出されても困るのである。

八条院は義仲のこの申し出には一切返答されなかった。
以仁王の令旨発行は八条院の周囲で起こり、その後反平家の挙兵を行なったり、それに与同した者達の中には八条院の領地を管理する者が少なくない。
挙兵した者達は八条院に連なる人脈を駆使したり、時として八条院の権威を借りたものもあった。

義仲も八条院の名を持ち出すことも少なくなかった。
そのことに関して八条院は一切咎めたてることもなかったが、実際には積極的に義仲やその他反乱勢力に手を貸すことはなかった。

けれどもここにきて北陸宮の即位を持ち出すとは。
自らの意志とはかけ離れたことに対してまで義仲は自分の名を使っているのではないのか、
そのような疑念を八条院はこのときお持ちになられたかもしれない。

前回へ 目次へ 次回へ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(三百二十六)

2008-12-18 05:44:39 | 蒲殿春秋
寿永二年(1183年)七月、都は不安と混乱の中にあった。

北陸から木曽義仲が近江まで迫ってきているのに加えて
安田義定、葦敷重隆らの諸将が尾張美濃の平家方の豪族の軍勢を蹴散らしがら
東海道から都を目指して進んで来たのである。

七月も半ばになると畿内にも反乱勢力の者達が入り込んで
在地の平家家人たちと戦いを開始する。
源行家らに率いられた反乱勢力が伊賀で在地の平家家人らと戦う。
それに呼応するかのように畿内の寺社勢力も平家に反旗を翻す。

平家にとっては事態が抜き差しならぬところまできてしまった。
この体制を立て直すべく平家は比叡山に文を差し出す。
日吉社を氏社とし比叡山延暦寺を平家の氏寺にしたいという申し出がその文には記されていた。
従来の平野社という氏神があるにも関わらずこのような申し出を行なったのは
比叡山が持つ力を十分に承知しその助力を請い事態の建て直しをせんと図ったからである。

だが比叡山からは返事が来ない、
この頃比叡山は以前から接近してきた義仲との和議を決していたからである。
このことを平家は知らない。

人々が大きな荷駄を抱えて都から出て行く
都でおこるであろう戦を避けんが為知る伝を辿って都を次々を去っていく。
治承四年(1180年)の如く再び畿内に戦乱の火が燃え盛るようになり、戦乱の炎が都を目指して進んでくる。
都が戦火に晒されるのは時間の問題だと思われた。

平家は軍事的対応策に追われるようになる。
一方宮廷の人々も状況を知ろうと噂や情報を集め自らの取るべき道を必死に探っている。

そのような混乱の中、都である書状を読みながら多少困惑している方がおられた。
八条院暉子内親王である。

前回へ 目次へ 次回へ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ